老荘思想。人生を全て諦めて無欲に生きる。アーカイブ最終更新 2023/12/21 20:401.ろうそうしそうAQoaW老荘思想(ろうそうしそう)。人生を全て諦めて無欲に生きる。苦しみの無い安楽な人生。坐禅(ざぜん)、読書、囲碁、将棋。2023/11/06 23:45:526すべて|最新の50件2.アハさんパシル語がイヌケリアゲ( ▼▼)rパン☆・・・-(x x)ウギャPHJ3R> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』 ありがとうございます。これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。あなたと私で、ぱんぱん。トンチ、になりましたね。片手の人が、です。置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。2023/11/18 19:31:413.アハさんパシル語がイヌケリアゲ( ▼▼)rパン☆・・・-(x x)ウギャPae2b趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』 ありがとうございます。これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。あなたと私で、ぱんぱん。トンチ、になりましたね。片手の人が、です。置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。2023/11/22 21:43:444.アハさんパシル語がイヌケリアゲ( ▼▼)rパン☆・・・-(x x)ウギャd3hxF> 「只」吐き、「只」吸うだけ。 禅は、単、只、ひたすらにあればよい。 これが禅の極意である。 』禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味である。拡大解釈しては、原意が蒸発してしまう。浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。騒動衆はお坐り、お手を教え込む。南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。追い込まれた人に取っては、ひとすじの光明である。> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。 』 脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。神経の経験が好みを選ぶのである。 だから、心身ではなく、身心と言いう。>> 私をバカにしたければすればよろしい。その代わり、地獄行きである。 』地獄極楽。 極楽地獄。 一対のものだよね。 なので、地獄は極楽が無いと成立しない。では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。> 南無阿弥陀仏 』南無阿弥陀佛陀帰依しますアンミータのっと、めーたー量る事が出来ないアミターユ無量光アミターバ無量寿佛Buddha佛陀目覚めた者本願を立て 救い取るぞと決意されている無量寿Buddha、無量光Buddha、に対し帰依します。2023/11/26 00:31:495.アハさんパシル語がイヌケリアゲ( ▼▼)rパン☆・・・-(x x)ウギャny9i0問う。この座敷に坐のままで庭の30メートル先の築山の石灯籠に灯る蝋燭の灯を吹き消せ。> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 それでも道を求める人は坐禅するんだろうな。 』修行僧は、悟前(ごぜん) 未悟(みご) なので やはり 真理(さとり)を求めます。さとれば、さとったので、さとりが無く、もはやさとりを求めません。諸法無我(しょほう むが)無我とは、真理(さとり)です、が 真理(さとり)は修学して理解(りげ)できるものでありません。く真理(さとり)はまさに 体得する以外には有りません。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。これを 一と一は、二では無い。一と一は 一の如し、一如である、言い表します。如(にょ)とは助辞である来(らい)を付けて、如来(にょらい)と言い、如来とは佛(ほとけ)を言う。この一如に取り組む公案が有ります。両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。> 片手の拍手は観る、観世音で聞くの!? 』両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。色とは両手で叩く拍手の音です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字(むじ)の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく修行者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)になんの声(こえ)やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。2023/12/05 03:36:426.そうとうしゅう騒動衆7zmWR熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に 命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんいんりつめい)と知る。教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。差別しない、分別しない、これとそれとあれを分けない、である。生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う 。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。佛 真理(さとり) を 問う、「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。禅とは、静かにする。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)こころコロコロ、常が無い。無常である。さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。問う「この座敷から坐のままで30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)空とは、分別(ふんべつ)しないである。空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。2023/12/21 20:40:27
「大阪万博大成功」の詐術に騙されるな!運営費は黒字でも建設費等に3000億円以上の公金投入、インフラ整備に10兆円以上…巨額で不透明な税金による負担金は国庫に戻るわけでもないニュース速報+251722.52025/10/19 00:17:45
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人生を全て諦めて無欲に生きる。
苦しみの無い安楽な人生。
坐禅(ざぜん)、読書、囲碁、将棋。
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味である。拡大解釈しては、原意が蒸発してしまう。
浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。
法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。
騒動衆はお坐り、お手を教え込む。
南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。
追い込まれた人に取っては、ひとすじの光明である。
> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。 』
脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。
0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。
神経の経験が好みを選ぶのである。 だから、心身ではなく、身心と言いう。
>> 私をバカにしたければすればよろしい。その代わり、地獄行きである。 』
地獄極楽。 極楽地獄。 一対のものだよね。 なので、地獄は極楽が無いと成立しない。
では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。
地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。
> 南無阿弥陀仏 』
南無阿弥陀佛陀
帰依します
アンミータ
のっと、めーたー
量る事が出来ない
アミターユ
無量光
アミターバ
無量寿
佛
Buddha
佛陀
目覚めた者
本願を立て 救い取るぞと決意されている無量寿Buddha、無量光Buddha、に対し帰依します。
この座敷に坐のままで庭の30メートル先の築山の石灯籠に灯る蝋燭の灯を吹き消せ。
> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 それでも道を求める人は坐禅するんだろうな。 』
修行僧は、悟前(ごぜん) 未悟(みご) なので やはり 真理(さとり)を求めます。
さとれば、さとったので、さとりが無く、もはやさとりを求めません。
諸法無我(しょほう むが)
無我とは、真理(さとり)です、が 真理(さとり)は修学して理解(りげ)できるものでありません。く真理(さとり)はまさに 体得する以外には有りません。
その状態を 石、とも 言います。
突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。
一と一は 一の如し、一如である、言い表します。
如(にょ)とは助辞である来(らい)を付けて、如来(にょらい)と言い、如来とは佛(ほとけ)を言う。
この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。
では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、
と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
> 片手の拍手は観る、観世音で聞くの!? 』
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは両手で叩く拍手の音です。
片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字(むじ)の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく修行者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ)
隻手の音声 (せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)になんの声(こえ)やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)
肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれとあれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う 。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
佛 真理(さとり) を 問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。
禅とは、静かにする。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
こころコロコロ、常が無い。無常である。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う
「この座敷から坐のままで30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しないである。
空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。