【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】最終更新 2025/10/31 06:041.鹿野園◆00MWura8lSZFXxxE5ここでは仏教の煩瑣哲学といわれる阿毘達磨倶舎論(以下、倶舎論)を学んでいこうと思います。主な参考資料 『国訳大蔵経 論部十一巻』 国立国会図書館デジタルコレクション 『倶舎論』 桜部健 『仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ>』 桜部 建 、上山 春平 『仏教は宇宙をどう見たか―アビダルマ仏教の科学的世界観』 佐々木 閑<本スレ> 【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ849【talk掲示板】<各論スレ> 般若心経の「照見五蘊皆空」の意味について/https://talk.jp/boards/psy/1691499457 四禅の属界について考察するスレ/https://talk.jp/boards/psy/16944166372023/09/15 09:54:56790コメント欄へ移動すべて|最新の50件741.◆JBLfMwCXhYdVOO4人が「これが世界だ」と思っているものは自分自身が編集した世界像2025/10/29 19:59:23742.◆JBLfMwCXhYdVOO4人は、時間と空間という枠にハメて世界を認識する2025/10/29 20:00:01743.◆JBLfMwCXhYdVOO4世界には、もともとそんなものは無い2025/10/29 20:00:32744.◆JBLfMwCXhYdVOO4カント哲学の、基本中の基本2025/10/29 20:01:11745.◆JBLfMwCXhYdVOO4これが分かるとカントがだいぶ見えてくる2025/10/29 20:01:30746.◆JBLfMwCXhYdVOO4感性と悟性2025/10/29 20:02:50747.◆JBLfMwCXhYdVOO4それが、世界を認識し、編集する道具2025/10/29 20:03:11748.◆JBLfMwCXhYdVOO4倶舎論と似たような考え方だ2025/10/29 20:03:33749.◆JBLfMwCXhYdVOO4近代ヨーロッパの哲学2025/10/29 20:03:57750.◆JBLfMwCXhYdVOO47502025/10/29 20:04:07751.◆JBLfMwCXhYdVOO4だんだん、倶舎論や唯識論に似てきた2025/10/29 20:04:25752.◆JBLfMwCXhYdVOO4カントの「カテゴリー」は、私たちの認識や思考を整理する上で不可欠な、生得的な思考形式(概念)を指します。具体的には、『純粋理性批判』で論じられた「認識のカテゴリー」(例:実体、因果性など)や、『実践理性批判』で論じられた「道徳のカテゴリー」があります。これらは、経験に先立って私たちの理性の中に備わっている、物事を理解するための枠組みです。2025/10/29 20:05:20753.◆JBLfMwCXhYdVOO4カントのカテゴリー認識のカテゴリー(『純粋理性批判』): 感覚から入ってくる多様な素材を、統一的・客観的に理解するために、私たちの理性があらかじめ持っている基本的な思考形式です。例えば、アリストテレスのカテゴリーとは異なり、カントは「因果関係」や「実体」といった、主観的な認識の枠組みとしてのカテゴリーを提唱しました。道徳のカテゴリー(『実践理性批判』): 行動の原則や義務を判断するための、道徳的な観念です。「定言命法」などがこれにあたります。2025/10/29 20:05:32754.◆JBLfMwCXhYdVOO4カントのカテゴリーが重要な理由私たちの経験を秩序づけるための先天的な枠組みを提供し、客観的な認識を可能にすると考えました。普遍的で必然的な法則(例:自然法則や道徳法則)を認識するための条件として重要視しました。2025/10/29 20:05:43755.◆JBLfMwCXhYdVOO4先天的な枠組み2025/10/29 20:06:53756.◆JBLfMwCXhYdVOO4人には、生まれつき備わっている2025/10/29 20:07:12757.◆JBLfMwCXhYdVOO4これがないと、世界を認識し、編集することはできない2025/10/29 20:07:41758.◆JBLfMwCXhY4bxZd実際、説一切有部の成立そのものについての伝承も、仏滅後二百年から三百年の間で、しかもその早い時期にあったとされています。2025/10/30 05:44:20759.◆JBLfMwCXhY4bxZdさて、その説一切有部の教学の勝れた綱要書に、Abhidhrmakośa[アビダルマコーシャ]という、サンスクリットで著され、また漢訳そしてチベット訳され伝えられてきたものがあります。2025/10/30 05:45:48760.◆JBLfMwCXhY4bxZd書名にあるAbhidhrma[アビダルマ]とは、ふつう阿毘達磨と音写され、また「対法」などと漢訳されますが、「涅槃に向かわしめる教え」、あるいは「真実を対観する教え」を意味するものとされます。kośa[コーシャ]とは、「樽」や「蔵」、あるいは「箱」など容器を意味する語です。漢訳本の書名は『阿毘達磨倶舎論[あびだつまくしゃろん]』と訳されず音写されており、我々は普通これをただ『倶舎論』と略称しています。なおチベット訳の書名は、Chos mṅor paḥi mdsod-kyi bśad-pa。2025/10/30 05:46:40761.◆JBLfMwCXhY4bxZdこれは、四世紀中頃の西北インド・ガンダーラ、現在で云えばアフガニスタンのペシャワールのバラモン階級出身の学僧、Vasubandhu[ヴァスバンドゥ](漢訳名は世親[せしん])によって著された書です。説一切有部の教学をかなり批判的に扱って時に反駁を加えながら、しかしその要を組織的に、そして簡潔にまとめている非常に勝れた書です。2025/10/30 05:46:54762.◆JBLfMwCXhY4bxZdしかし、この書を著して後、著者の世親は、同じく上座部系の化地部で出家していたものの、すでに大乗に転向していた兄のAsaṅga[アサンガ](漢訳名は無著[むじゃく])の影響によって、説一切有部(あるいは経量部)の見解を捨てて大乗に転向しています。2025/10/30 05:47:08763.◆JBLfMwCXhY4bxZdそして、大乗の二大学派の一つとなる瑜伽行唯識[ゆがぎょう ゆいしき]という学派を、兄と共に建立。そのようなこともあって、大乗の学徒は、これら二人を尊敬を込めて「菩薩」との称を付し、世親菩薩・無着菩薩と敬称します。2025/10/30 05:47:23764.◆JBLfMwCXhY4bxZdこの書は、説一切有部だけでなく大乗の人々から非常に珍重されるにいたり、大乗の基礎学として必須の書として古来、インドからチベット、モンゴル、支那、そして日本において熱心に学ばれ、研究されていました。2025/10/30 05:47:39765.◆JBLfMwCXhY4bxZd日本では、奈良期から鎌倉期にかけて、これを特に学問・研究する倶舎宗という宗派、というより学派すら存在していました。これは独立の宗派というのでなく、興福寺や薬師寺などを拠点として大いに栄えた、法相宗[ほっそうしゅう]という唯識を宗義とする宗派に付属するものでした。唯識を理解するには、倶舎を基礎額として学ばないわけにはいきません。2025/10/30 05:47:56766.◆JBLfMwCXhY4bxZdしかし、倶舎の所説を完全に理解するには、宗義とする唯識を学ぶよりも時間がかかることから、「唯識三年 倶舎八年」などと「桃栗三年 柿八年」にかけて言い習わされています。いや、唯識を学ぶのだけではなく、三論宗など中観を理解するにも、天台(法華)・華厳・密教を理解するにも、倶舎を学ぶことは必要不可欠です。2025/10/30 05:48:17767.◆JBLfMwCXhY4bxZd現在もなお、なんであれ声聞乗・小乗だけではなく、どのような宗派であれ大乗を志す者は誰であれ、必ずこの書に触れないわけにはいかないものです。それは今も、チベット仏教の伝統では確かに実行されています。しかし、現在の日本仏教界では、大変遺憾なことに、これを学ぶ人もその術もほとんど失われているような状況です。2025/10/30 05:48:29768.◆JBLfMwCXhY4bxZd説一切有部における「無我」の理解 ―人空法有さて、仏教では、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦という四つの句を、仏教の仏教たる所以、その教えの核・世界観の要を表す言葉として用いてきました。2025/10/30 05:49:42769.◆JBLfMwCXhY4bxZdこの世の一切は「無常」であり、ならば、その故に我々の経験する全ては畢竟「苦」である。であるならば、我々が我・我が物と思っている諸々のモノはどこまでも不如意なる「無我」であって、実際それは真であると。しかし、それらを全く真であると知り抜いて、それに則った生活を送った時には、そこに涅槃という、一切の心的苦しみから離れた平安なる境地がある。その時には、人は再び生まれ変わって苦を受けることがない、という言葉です。2025/10/30 05:50:06770.◆JBLfMwCXhY4bxZd説一切有部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(ātman)なるものなども存在しない、故に無我(anātman)である、と無我を理解。2025/10/30 05:50:30771.◆JBLfMwCXhY4bxZdしかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、大きくは二つ、あるいは五つの範疇に分類されるモノが真に実在する、という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。2025/10/30 05:50:50772.◆JBLfMwCXhY4bxZd巷間には開口一番「すべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから」だとか「すべては無自性空である。あれも空だ、これも空だ」などと宣う愚か者があります。が、説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としています。吾人の知覚し、経験する諸々の事象を、端から否定するような態度は取らないのです。2025/10/30 05:51:37773.◆JBLfMwCXhY4bxZd>「すべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから」だとか「すべては無自性空である。あれも空だ、これも空だ」などと宣う愚か者があります。別に、愚か者じゃないだろ(笑)2025/10/30 05:52:18774.◆JBLfMwCXhY4bxZd「すべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから」ていうか、この言葉が気に入った(笑)2025/10/30 05:52:42775.◆JBLfMwCXhY4bxZdすべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから2025/10/30 05:52:59776.◆JBLfMwCXhY4bxZdすべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから2025/10/30 05:53:09777.◆JBLfMwCXhY4bxZd⭐️777⭐️2025/10/30 05:53:20778.◆JBLfMwCXhY4bxZdすべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから2025/10/30 05:53:34779.◆JBLfMwCXhY4bxZdだが、倶舎論はこのような考え方ではない2025/10/30 05:53:53780.◆JBLfMwCXhY4bxZd真実(諦/satya)について、その見方によって二つの階層を設定し、そのそれぞれの価値を認めているのです。そして、そのような真実についての理解の仕方は、その内容とするものこそ相違があるものの、大乗にも引き継がれています。二諦説 (世間的真理と究極的真理)-意味真実(satya)世俗諦(saṃvṛti-satya)世俗有(saṃvṛti-sat)分解し得るもの。壊れ得るもの。世間において有ると承認されるもの。勝義諦(paramārtha-satya)勝義有(paramārtha-sat)変わらないもの。自性あるもの。個我は実在しない。けれども、生命・事物など仮の現象を構成する、真に実在するモノがあるという見解を、大乗では「人空法有[にんくうほうう]」などと云います。そして、そのような見解自体、またそのような見解を至高として奉持する人々は、同じ仏教であっても、大乗の立場から小乗(Hīnayāna)すなわち「不完全な教え」・「劣った教え」と見なされてきました。特に説一切有部は、インドで最大勢力を誇る部派の一つであったこともあり、その見解・学説は、大乗の主要な批判対象となっています。2025/10/30 06:01:04781.◆JBLfMwCXhY4bxZd三世実有 法体恒有説一切有部の見解で特筆すべきは、それら一切は、現在の瞬間瞬間すなわち刹那において生・住・異・滅と生滅変化しているけれども、過去・未来・現在にわたって実在する、としている点です。そのような見解を古来、「三世実有 法体恒有」と称します。説一切有部の宗義における一大眼目です。2025/10/30 06:02:38782.◆JBLfMwCXhY4bxZdしかし、説一切有部から直接に分立したとされる経量部などは「現在有体 過去無体」、すなわち現在の瞬間には実在するけれども過去においては実在しないとしており、また他の部派においても見解を大いに異にしています。『倶舎論』の中で世親菩薩は、自身が説一切有部に属していながらも、有部の宗義の眼目であるこの点を大いに批判。経量部の立場から三世に実在などせず、現在においてのみ法は実有であるとしています。2025/10/30 06:02:55783.◆JBLfMwCXhY4bxZdさて、では説一切有部の見た三世に渡って実在する「全てのモノ」、真に実在するモノとはなんであったか。これを簡潔に表にして示せば、以下のようなものです。究極的実在 (説一切有部「五位七十五法」説)-名目意味法数一切法(sarva-dharmā)【75】有為(saṃskṛta)【72】生・住・異・滅と変化し、転変するもの。言葉に依拠するもの。色(rūpa)もの。物質の本質。物を成立させている構成要素。11心(citta)こころ。精神活動の主体となるもの。心王[しんのう]などとも。1心相応行(citta-prayuktasaṃskāra)こころの働き。こころと伴って働くもの。心所[しんじょ]、あるいは心数[しんじゅ]とも言う。46心不相応行(citta-viprayuktasaṃskāra)心と相応することなく、また色とも性質を異にするもの。行蘊・法界に摂せられる。14無為(asaṃskṛta)【3】生・住・異・滅と変化・転変すること無いもの。虚空無為(ākāśa)空間。物質が存在することを遮ることのないもの。1択滅無為(prati-saṅkhyā-nirodha)涅槃。慧によって煩悩の束縛を離れて得られるもの。絶対の平安。1非択滅無為(aprati-saṅkhyā-nirodha)その条件を欠いている為に、現象することが決して無いもの。1これら一切法は、五の範疇に総じては七十五の法が数えられることから、「五位七十五法」と言い習わされています。2025/10/30 06:03:14784.◆JBLfMwCXhY4bxZdこれら列挙される法は、すべて真に実在するモノであり、逆にこれら以外の実在を説くのは誤りである、というのが説一切有部における見解です。もっとも、説一切有部自体が、一切法を「七十五」という数で確定して見ていたというわけでは、実はありません。この点、現在の日本の仏教者の中には、大いに誤解している人が多くあると思われます。2025/10/30 06:03:30785.◆JBLfMwCXhY4bxZdそもそも『倶舎論』では、それを数え上げてみたならば、ただ七十一法が確定的に説かれているのみで、その全体数に言及しているものではありません。もっとも、五位というのは、『倶舎論』はもとよりその他の説一切有部の論書にも説かれている五つの範疇のことであって、これは説一切有部以来のものです。しかし、唐代の支那において玄奘三蔵門下の普光によって著されて以来、相当なる権威をもって用いられている優れた注釈書『倶舎論記』三十巻(一般に『光記』と略称される)において四つが確定され、ついに七十五法となって以来そのように言い習わされるようになったものです。これは支那以来の、しかも大乗の宗で言われ出したことであって、インド以来のものではありません。ただ、それは無論、その理あって為されたことで無根拠なものなどでは決してありません。が、このことは一応知っておくべきものではあるでしょう。なお、その曖昧な記述があるのは、いまから問題とする心所のうち、不定地法についての箇所です。2025/10/30 06:03:55786.神も仏も名無しさんAOlZ0このスレはコーン🤡の誤読の記念碑なので少しずつ埋めよう😆2025/10/30 07:24:47787.◆JBLfMwCXhYPsbna>>786やはり、そうか😆2025/10/30 07:43:08788.◆JBLfMwCXhYPsbnaこのスレは残そう😂2025/10/30 07:43:32789.◆JBLfMwCXhYkJVm6438 神も仏も名無しさん 2025/10/30(木) 20:49:40.42 ID:XaNvY今日のコーン🤡様語録😆0719 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm (ワッチョイ 063a-raUi [2400:2200:422:5a6c:*]) 2025/10/30(木) 16:01:52.20知恵袋では輪廻の有無を巡って遣り取りがある様です。有無はともかく、天台では十界互倶などと申しますし、坐禅をして禅定に至る時、それは天上界に至ってるのではないかって思うのです。ID:UJyEaFub0(2/6)垢版|0720 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm (ワッチョイ 063a-raUi [2400:2200:422:5a6c:*]) 2025/10/30(木) 16:08:58.15つまり、禅定を極めて有頂天に至っても、それは仏教的にはゴールではないという事の様に思うのです。ID:UJyEaFub02025/10/31 06:04:18790.◆JBLfMwCXhYkJVm6寝落ち禅で昇天してるらしい😂2025/10/31 06:04:36
主な参考資料
『国訳大蔵経 論部十一巻』 国立国会図書館デジタルコレクション
『倶舎論』 桜部健
『仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ>』 桜部 建 、上山 春平
『仏教は宇宙をどう見たか―アビダルマ仏教の科学的世界観』 佐々木 閑
<本スレ>
【全宗教歓迎】悟りをひらいた人のスレ849【talk掲示板】
<各論スレ>
般若心経の「照見五蘊皆空」の意味について/https://talk.jp/boards/psy/1691499457
四禅の属界について考察するスレ/https://talk.jp/boards/psy/1694416637
自分自身が編集した世界像
世界を認識する
そんなものは無い
カントがだいぶ見えてくる
私たちの認識や思考を整理する上で不可欠な、生得的な思考形式(概念)を指します。具体的には、『純粋理性批判』で論じられた「認識のカテゴリー」(例:実体、因果性など)や、『実践理性批判』で論じられた「道徳のカテゴリー」があります。これらは、経験に先立って私たちの理性の中に備わっている、物事を理解するための枠組みです。
認識のカテゴリー(『純粋理性批判』): 感覚から入ってくる多様な素材を、統一的・客観的に理解するために、私たちの理性があらかじめ持っている基本的な思考形式です。
例えば、アリストテレスのカテゴリーとは異なり、カントは「因果関係」や「実体」といった、主観的な認識の枠組みとしてのカテゴリーを提唱しました。
道徳のカテゴリー(『実践理性批判』): 行動の原則や義務を判断するための、道徳的な観念です。
「定言命法」などがこれにあたります。
私たちの経験を秩序づけるための先天的な枠組みを提供し、客観的な認識を可能にすると考えました。
普遍的で必然的な法則(例:自然法則や道徳法則)を認識するための条件として重要視しました。
唯識を理解するには、倶舎を基礎額として学ばないわけにはいきません。
しかし、現在の日本仏教界では、大変遺憾なことに、これを学ぶ人もその術もほとんど失われているような状況です。
さて、仏教では、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦という四つの句を、仏教の仏教たる所以、その教えの核・世界観の要を表す言葉として用いてきました。
が、説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としています。吾人の知覚し、経験する諸々の事象を、端から否定するような態度は取らないのです。
別に、愚か者じゃないだろ(笑)
ていうか、この言葉が気に入った(笑)
このような考え方ではない
二諦説 (世間的真理と究極的真理)-意味真実
(satya)世俗諦
(saṃvṛti-
satya)世俗有
(saṃvṛti-sat)分解し得るもの。壊れ得るもの。世間において有ると承認されるもの。勝義諦
(paramārtha-
satya)勝義有
(paramārtha-sat)変わらないもの。自性あるもの。
個我は実在しない。けれども、生命・事物など仮の現象を構成する、真に実在するモノがあるという見解を、大乗では「人空法有[にんくうほうう]」などと云います。
そして、そのような見解自体、またそのような見解を至高として奉持する人々は、同じ仏教であっても、大乗の立場から小乗(Hīnayāna)すなわち「不完全な教え」・「劣った教え」と見なされてきました。特に説一切有部は、インドで最大勢力を誇る部派の一つであったこともあり、その見解・学説は、大乗の主要な批判対象となっています。
説一切有部の見解で特筆すべきは、それら一切は、現在の瞬間瞬間すなわち刹那において生・住・異・滅と生滅変化しているけれども、過去・未来・現在にわたって実在する、としている点です。
そのような見解を古来、「三世実有 法体恒有」と称します。説一切有部の宗義における一大眼目です。
究極的実在 (説一切有部「五位七十五法」説)-名目意味法数一切法
(sarva-
dharmā)
【75】有為
(saṃskṛta)
【72】生・住・異・滅と変化し、転変するもの。言葉に依拠するもの。色
(rūpa)もの。物質の本質。物を成立させている構成要素。11心
(citta)こころ。精神活動の主体となるもの。心王[しんのう]などとも。1心相応行
(citta-prayukta
saṃskāra)こころの働き。こころと伴って働くもの。心所[しんじょ]、あるいは心数[しんじゅ]とも言う。46心不相応行
(citta-viprayukta
saṃskāra)心と相応することなく、また色とも性質を異にするもの。行蘊・法界に摂せられる。14無為
(asaṃskṛta)
【3】生・住・異・滅と変化・転変すること無いもの。虚空無為
(ākāśa)空間。物質が存在することを遮ることのないもの。1択滅無為
(prati-
saṅkhyā-
nirodha)涅槃。慧によって煩悩の束縛を離れて得られるもの。絶対の平安。1非択滅無為
(aprati-
saṅkhyā-
nirodha)その条件を欠いている為に、現象することが決して無いもの。1
これら一切法は、五の範疇に総じては七十五の法が数えられることから、「五位七十五法」と言い習わされています。
もっとも、説一切有部自体が、一切法を「七十五」という数で確定して見ていたというわけでは、実はありません。この点、現在の日本の仏教者の中には、大いに誤解している人が多くあると思われます。
しかし、唐代の支那において玄奘三蔵門下の普光によって著されて以来、相当なる権威をもって用いられている優れた注釈書『倶舎論記』三十巻(一般に『光記』と略称される)において四つが確定され、ついに七十五法となって以来そのように言い習わされるようになったものです。
これは支那以来の、しかも大乗の宗で言われ出したことであって、インド以来のものではありません。
ただ、それは無論、その理あって為されたことで無根拠なものなどでは決してありません。が、このことは一応知っておくべきものではあるでしょう。なお、その曖昧な記述があるのは、いまから問題とする心所のうち、不定地法についての箇所です。
コーン🤡の
誤読の記念碑なので
少しずつ埋めよう
😆
やはり、そうか😆
今日のコーン🤡様語録😆
0719 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm (ワッチョイ 063a-raUi [2400:2200:422:5a6c:*]) 2025/10/30(木) 16:01:52.20
知恵袋では輪廻の有無を巡って遣り取りがある様です。
有無はともかく、天台では十界互倶などと申しますし、坐禅をして禅定に至る時、それは天上界に至ってるのではないかって思うのです。
ID:UJyEaFub0(2/6)
垢版
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0720 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm (ワッチョイ 063a-raUi [2400:2200:422:5a6c:*]) 2025/10/30(木) 16:08:58.15
つまり、禅定を極めて有頂天に至っても、それは仏教的にはゴールではないという事の様に思うのです。
ID:UJyEaFub0