『諸法実相抄』最終更新 2025/08/02 17:081.法介◆T3azX0Hk1US37K3日蓮大聖人の『諸法実相抄』について紹介いたします。2025/07/31 07:11:2490コメント欄へ移動すべて|最新の50件41.法介◆T3azX0Hk1US37K3そこでお釈迦さまは久遠からとんでもない菩薩達を呼び起こします。2025/07/31 15:20:3242.法介◆T3azX0Hk1US37K3大地が割れて、無数の菩薩たちが地中から湧き出てきたのです。しかもその菩薩達は皆仏の32相を備えて神々しく輝いていたんです。2025/07/31 15:21:4843.法介◆T3azX0Hk1US37K3これ何を意味しているか解ります?2025/07/31 15:22:1144.法介◆T3azX0Hk1US37K3仏と同等の覚りを得た「等覚の菩薩」って事です。2025/07/31 15:22:5545.法介◆T3azX0Hk1US37K3日蓮さんは『開目抄』の中でその時の様子を次のように紹介されております。 その上に地涌千界の大菩薩が大地より出来した。釈尊にとっては第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の樵夫・杣人の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。釈迦仏のあとを嗣ぐといわれた弥勒すら、なお地涌の出現に惑われた。しかしてそれ以下の者の驚きと当惑はひじょうなものであった。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がましました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられる。2025/07/31 15:33:4246.法介◆T3azX0Hk1US37K3猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである---と。おもしろい事言いますよね日蓮さんも^^2025/07/31 15:34:5547.法介◆T3azX0Hk1US37K3普賢菩薩や文殊師利菩薩等らが猿に見える程、地中から顕れたお釈迦さまの久遠の弟子達は素晴らしいお姿であったと。2025/07/31 15:41:1648.法介◆T3azX0Hk1US37K3中でも先頭に立つ四菩薩は、 この四人は虚空会および霊山会に来集している諸菩薩等が、眼をあわせることも心のおよぶこともなかった。華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も、この菩薩に対すれば翳眼のものが太陽をまともに見られないごとく、いやしい海人が皇帝に向い奉るような状態であった。太公望等の四聖が大衆の中にいるごとく、商山の四人の君子が漢の恵帝に仕えたのと異ならない。じつにぎぎ堂々として尊高であった。釈迦・多宝・十方分身の諸仏をのぞいては、一切衆生の善知識ともたのみ奉るべきであろう。と日蓮さんは上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩を紹介されております。2025/07/31 15:41:3849.法介◆T3azX0Hk1US37K3その場に居た弥勒菩薩は、心の中で次のように思った。 自分は釈迦仏が出家する以前の太子であった時から、三十歳で成道し、いまの霊鷲山で法華経の説法が開かれるまでの四十二年のあいだ、この世界の菩薩も十方世界より来集した菩薩もみなことごとく知っている。またその上に十方の浄土へも穢土へも、あるいはお使いとしてあるいはみずから遊びに行って、その国々の大菩薩も見聞して知っている。しかしこの地涌の大菩薩はいまだかつて見聞したことがない。この大菩薩のお師匠はどのような仏さまであろうか。よもこの釈迦・多宝・十方の分身の諸仏には似るべくもない仏さまであらせられるであろう。雨の猛烈に降るを見て竜の大なることを知り、華の大きく盛んなるを見てこれを育てている池の深いことは知られるであろう。これらの大菩薩はいかなる国から来て、また誰と申す仏にあい奉り、いかなる大法をか修習し給うているのか。2025/07/31 15:45:1350.法介◆T3azX0Hk1US37K3そう内心で疑わざる負えなかった弥勒菩薩は、あまりの不思議さに声を出すことすら出来ないでいたが、仏力の加護によるのであろう、つぎのように質問した。2025/07/31 15:46:4551.法介◆T3azX0Hk1US37K3「無量千万億の大衆のもろもろの菩薩は、昔よりいまだかつて見たことのないところである。このもろもろの大威徳・大精進の菩薩衆に対して、だれがそのために法を説いて教化して仏道を成就せしめたのか。誰にしたがって初めて発心し、いずれの仏法をか称揚して修行を積んできたのか。世尊よ、われ昔よりこのかたいまだかつてこのことを見たことがない。願わくば、その住する国土の名を説き聞かせてください。自分はつねに諸国に遊んできたが、いまだかつてこの事を見たことがない。自分はこの地涌の大衆を見てもひとりも知っているひとはない。忽然として大地より涌出せられた。願わくばその因縁を説いてください」2025/07/31 15:47:0752.法介◆T3azX0Hk1US37K3とここで日蓮さんは、天台や妙楽の言葉を紹介されます。2025/07/31 15:48:3653.法介◆T3azX0Hk1US37K3 天台いわく「寂滅道場における最初の説法より以来、法華経の座にいたるまで十方の大菩薩が絶えず来会してその数は限りないとはいえ、自分は補処の智力をもってことごとく見、ことごとく知っている。しかれどもこの衆においてはひとりをも知らず。しかるに自分は十方に遊戯して諸仏にまのあたり奉仕し、大衆によく識知せられているのである」と。 妙楽はさらにこれを釈していわく「智人は将来起こるべきことを知るが愚人は知らない。蛇の道は蛇で、蛇はみずから蛇を知っている」と。 このように経文も解釈も説明するところの意味は分明である。要するに初成道より法華の会座にいたるまで、この国土においてもまた十方国土においても、これらの大菩薩を見たてまつらず、また聞いたこともないというのである。2025/07/31 15:50:4954.法介◆T3azX0Hk1US37K3お釈迦さまは弥勒菩薩の質問に次のように答えます。2025/07/31 15:51:2755.法介◆T3azX0Hk1US37K3「弥勒よ、なんじらが昔より未だ見たことのないというこれらの大菩薩たちは、自分がこの娑婆世界において成仏してよりこのかたこの諸々の菩薩を教化し、指導して、その心を調伏して大道心をおこさしめたのである」と。またいわく「われは伽耶城の菩提樹の下に坐して、最正覚を成ずることを得、しかして無上の法輪を転じ、これらの大菩薩を教化して初めて道心をおこさしめ、いまはみな不退の位に住している。乃至自分は久遠よりこのかたこれらの衆を教化した」と涌出品に説き明かしている、これはすなわち略開近顕遠である。2025/07/31 15:51:5656.法介◆T3azX0Hk1US37K3今まで誰も見たことがない菩薩の出現。あの有名な弥勒菩薩ですら驚いて「一体この人たちは誰?」と聞くほど。それに対してお釈迦さまは、「私はこの地涌の菩薩たちを、はるか昔、仏になってからずっと教えてきたのだ」と語られます。2025/07/31 17:51:2357.法介◆T3azX0Hk1US37K3えっ?仏になったのってインドで悟りを開いたときじゃないの?って思いますよね。2025/07/31 17:51:5258.法介◆T3azX0Hk1US37K3ここが大事なポイントで、お釈迦さまは実はもっともっと遠い昔(久遠)から仏であり、すでに弟子たちを導いていた——という、とても深い真実がこのあと明かされていくんです。2025/07/31 17:52:3959.法介◆T3azX0Hk1US37K3この場面は、法華経の中で「略開近顕遠」と呼ばれる教えの一部です。カンタンに言えば、今までは近い過去(インドで成仏)しか語られてなかったけど実は“ずーっと前”から仏だったことを「少しだけ」開示(略して開く)した場面です。これを略開近顕遠と言います。2025/07/31 17:54:1460.法介◆T3azX0Hk1US37K3これをきっかけに、法華経の後半(寿量品)では、お釈迦さまは永遠の過去(久遠)から仏であったという「本当の姿=本門」が明かされていきます。2025/07/31 17:59:1661.法介◆T3azX0Hk1UdXszPおはようございます、法介です。2025/08/01 05:07:4062.法介◆T3azX0Hk1UdXszP『諸法実相抄』では釈迦と多宝の二仏について語られます。2025/08/01 05:10:1563.法介◆T3azX0Hk1UdXszP本文: されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。2025/08/01 05:12:0064.法介◆T3azX0Hk1UdXszP現代語訳: したがって、釈迦仏・多宝仏の二仏といっても用の仏であり、妙法蓮華経こそ本仏であられるのである。法華経如来寿量品第十六に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。「如来秘密」は体の三身であって本仏である。「神通之力」とは用の三身であって迹仏なのである。凡夫は体の三身であって本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。 したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであるが、そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのである。 そのゆえは、如来というのは天台大師の法華文句巻九下には「如来とは十方三世の諸仏、真仏・応仏の二仏、法身・報身・応仏の三身、本仏・迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」と判じられている。この釈に「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏」というのは仏である。 しかしながら、迷いと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、このため衆生は、倶体・倶用ということを知らないのである。 そうであるからこそ、諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相であると説かれたのである。「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。ゆえに「諸法」(十界)は妙法蓮華経であるということなのである。地獄は地獄の姿をみせているのが実の相である。餓鬼と変わってしまえば地獄の実の姿ではない。仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのである。 このことについて天台大師は「実相の深理は本有常住の妙法蓮華経である」と述べている。この釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり、「本有の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門なのである。この釈の意をよくよく心中で案じられるがよい。2025/08/01 05:13:3065.法介◆T3azX0Hk1UdXszP「如来というのは天台大師の法華文句巻九下には」とありますよね。天台智顗が法華文句巻九下の中で〝如来〟の定義を紹介しているんです、2025/08/01 05:31:5366.法介◆T3azX0Hk1UdXszPでは、『法華文句』のその部分を実際に見てみましょう。2025/08/01 05:32:4067.法介◆T3azX0Hk1UdXszP法華文句巻九下https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1718_,34,0127a18&key=%E5%A6%82%E4%BE%86%E8%80%85%E3%80%82%E5%8D%81%E6%96%B9%E4%B8%89%E4%B8%96%E8%AB%B8%E4%BD%9B%E4%BA%8C%E4%BD%9B&ktn=&mode2=22025/08/01 05:33:2668.法介◆T3azX0Hk1UdXszP如來者。十方三世諸佛二佛三佛本佛迹佛之通號也。壽量者。詮量也。詮量十方三世二佛三佛本佛迹佛之功徳今正詮量本地三佛功徳。故言如來壽量如來義甚多。且明二三如來。餘例可解。2025/08/01 05:34:3669.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:如來者。十方三世諸佛二佛三佛本佛迹佛之通號也。読みくだし文:如来とは、十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通称である2025/08/01 05:35:5470.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:壽量者。詮量也。読みくだし文:寿量とは詮量(推し量る意)である2025/08/01 05:37:0871.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:詮量十方三世二佛三佛本佛迹佛之功徳読みくだし文:十方三世の諸仏等の功徳を推し量るのである2025/08/01 05:39:4172.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:今正詮量本地三佛功徳読みくだし文:今まさに本地三仏の功徳を詮量する2025/08/01 05:40:2673.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:故言如來壽量読みくだし文:ゆえに『如来寿量品』と名づける2025/08/01 05:41:2874.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:如來義甚多。且明二三如來。餘例可解。読みくだし文:如来の意味は甚だ多いが、今は二如来・三如来を明かす。あとは類推により解釈せよ。2025/08/01 05:42:4075.法介◆T3azX0Hk1UdXszP如来とは、十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通称であると智顗は申しております。では、二仏・三仏とは何を指しての二仏・三仏なのか、それが次の段落で語られております。2025/08/01 05:46:1476.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:二如來者。成論云。乘如實道來成正覺故名如來。乘是法如如智。読みくだし文:二如来とは、『成実論』に云く、「如実の道に乗じて来たりて正覚を成ずるが故に如来と名づく。乗ずるところの法は、如如の智なり」と。2025/08/01 05:48:2277.法介◆T3azX0Hk1UdXszPここでは「二如来」の、次の二義が示されております。・「乘如道來」:法に即して来た者 仏は真理=「如」に即した修行の道(道=行)に乗って来現した、という意味。・「來成正覺」:如の智に到達した者 如(真如)なる智に至り、正覚(仏果)を成就した者。2025/08/01 05:51:3978.法介◆T3azX0Hk1UdXszPこのように〝如来〟という名称が「如(真理)に基づいて来たりて、如(真理)に至る」という両義から成ることを説明しております。仏教における語義の厳密な定義づけの代表的な例です。これは、「成実論」(倶舎系の部派仏教論書)からの引用で、天台智顗は、部派仏教の定義も踏まえた上で、法華教学の解釈へとつなげておられます。2025/08/01 05:55:4879.法介◆T3azX0Hk1UdXszP「如(真理)に基づいて来たりて、如(真理)に至る」↑この意味解りますか?2025/08/01 05:56:1980.法介◆T3azX0Hk1UdXszP有漏の種子は、どこまでいっても有漏の種子でしかないという『成唯識論』の文句の意味がこれなんですね。2025/08/01 05:57:4081.法介◆T3azX0Hk1UdXszP如来とは、〝現象の因果〟(縁起)に流されて現れるのではなく、真理(如)に乗じて来る存在であり、その来現は方便や応現(応身)であっても、究極的には真理性に立脚しているということです。2025/08/01 06:00:3082.法介◆T3azX0Hk1UdXszP解りやすく言いますと凡夫の迷いの有漏が一滴たろうとも混入する余地が無いという事です。2025/08/01 06:04:5983.法介◆T3azX0Hk1UdXszP如来=〝現象の因果〟(縁起)に流されて現れるのではなく、真理に立脚して現れる絶対無漏の存在。2025/08/01 06:09:2084.法介◆T3azX0Hk1UdXszPそれが龍樹が『中論』で説いた・如来の定義=非空(縁起からも離れている)という意味でもあります。2025/08/01 06:12:1385.法介◆T3azX0Hk1UdXszP『中論』の観如来品(第22章)には、「如来不有、不無、不一、不異、不常、不断、不来、不去」とありまして、ここで龍樹は、如来は有無・常断・一異・来去というあらゆる相対的二辺の思惟を超えていると説きます。この「不来不去」はまさに、如来は「現象の因果(縁起)」によって来現するのではない、という意味です。2025/08/01 06:14:1586.法介◆T3azX0Hk1UdXszPつまり、如来とは、縁起に依って生じるように見えるが、その本体は縁起そのものを超えた不可思議なる真如そのものという事です。2025/08/01 06:15:4387.法介◆T3azX0Hk1UdXszP縁起(空)をも超えた非空で入る世界そこに至ってはじめて如来が顕れます。その世界の事を「真如の世界」と法介教学では言います。2025/08/01 06:18:5388.法介◆T3azX0Hk1UdXszPさて、そろそろじっちゃんが起きてくる頃やな2025/08/01 06:19:4689.法介◆T3azX0Hk1UdXszP続きはまた後程~2025/08/01 06:20:1490.ナナシズムqPzStおー難しいのやってんなー?😃2025/08/02 17:08:14
しかもその菩薩達は皆
仏の32相を備えて神々しく輝いていたんです。
その上に地涌千界の大菩薩が大地より出来した。釈尊にとっては第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の樵夫・杣人の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。釈迦仏のあとを嗣ぐといわれた弥勒すら、なお地涌の出現に惑われた。しかしてそれ以下の者の驚きと当惑はひじょうなものであった。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がましました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられる。
おもしろい事言いますよね日蓮さんも^^
この四人は虚空会および霊山会に来集している諸菩薩等が、眼をあわせることも心のおよぶこともなかった。華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も、この菩薩に対すれば翳眼のものが太陽をまともに見られないごとく、いやしい海人が皇帝に向い奉るような状態であった。太公望等の四聖が大衆の中にいるごとく、商山の四人の君子が漢の恵帝に仕えたのと異ならない。じつにぎぎ堂々として尊高であった。釈迦・多宝・十方分身の諸仏をのぞいては、一切衆生の善知識ともたのみ奉るべきであろう。
と日蓮さんは上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩を紹介されております。
自分は釈迦仏が出家する以前の太子であった時から、三十歳で成道し、いまの霊鷲山で法華経の説法が開かれるまでの四十二年のあいだ、この世界の菩薩も十方世界より来集した菩薩もみなことごとく知っている。またその上に十方の浄土へも穢土へも、あるいはお使いとしてあるいはみずから遊びに行って、その国々の大菩薩も見聞して知っている。しかしこの地涌の大菩薩はいまだかつて見聞したことがない。この大菩薩のお師匠はどのような仏さまであろうか。よもこの釈迦・多宝・十方の分身の諸仏には似るべくもない仏さまであらせられるであろう。雨の猛烈に降るを見て竜の大なることを知り、華の大きく盛んなるを見てこれを育てている池の深いことは知られるであろう。これらの大菩薩はいかなる国から来て、また誰と申す仏にあい奉り、いかなる大法をか修習し給うているのか。
妙楽はさらにこれを釈していわく「智人は将来起こるべきことを知るが愚人は知らない。蛇の道は蛇で、蛇はみずから蛇を知っている」と。
このように経文も解釈も説明するところの意味は分明である。要するに初成道より法華の会座にいたるまで、この国土においてもまた十方国土においても、これらの大菩薩を見たてまつらず、また聞いたこともないというのである。
あの有名な弥勒菩薩ですら驚いて
「一体この人たちは誰?」と聞くほど。
それに対してお釈迦さまは、
「私はこの地涌の菩薩たちを、はるか昔、仏になってからずっと教えてきたのだ」
と語られます。
仏になったのってインドで悟りを開いたときじゃないの?
って思いますよね。
お釈迦さまは実はもっともっと遠い昔(久遠)から仏であり、
すでに弟子たちを導いていた——
という、とても深い真実がこのあと明かされていくんです。
カンタンに言えば、
今までは近い過去(インドで成仏)しか語られてなかったけど
実は“ずーっと前”から仏だったことを「少しだけ」開示(略して開く)した場面です。
これを略開近顕遠と言います。
お釈迦さまは永遠の過去(久遠)から仏であったという「本当の姿=本門」
が明かされていきます。
されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。
したがって、釈迦仏・多宝仏の二仏といっても用の仏であり、妙法蓮華経こそ本仏であられるのである。法華経如来寿量品第十六に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。「如来秘密」は体の三身であって本仏である。「神通之力」とは用の三身であって迹仏なのである。凡夫は体の三身であって本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。
したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであるが、そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのである。
そのゆえは、如来というのは天台大師の法華文句巻九下には「如来とは十方三世の諸仏、真仏・応仏の二仏、法身・報身・応仏の三身、本仏・迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」と判じられている。この釈に「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏」というのは仏である。
しかしながら、迷いと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、このため衆生は、倶体・倶用ということを知らないのである。
そうであるからこそ、諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相であると説かれたのである。「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。ゆえに「諸法」(十界)は妙法蓮華経であるということなのである。地獄は地獄の姿をみせているのが実の相である。餓鬼と変わってしまえば地獄の実の姿ではない。仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのである。
このことについて天台大師は「実相の深理は本有常住の妙法蓮華経である」と述べている。この釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり、「本有の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門なのである。この釈の意をよくよく心中で案じられるがよい。
天台智顗が法華文句巻九下の中で〝如来〟の定義を紹介しているんです、
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1718_,34,0127a18&key=%E5%A6%82%E4%BE%86%E8%80%85%E3%80%82%E5%8D%81%E6%96%B9%E4%B8%89%E4%B8%96%E8%AB%B8%E4%BD%9B%E4%BA%8C%E4%BD%9B&ktn=&mode2=2
如來者。十方三世諸佛二佛三佛本佛迹佛之通號也。
読みくだし文:
如来とは、十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通称である
壽量者。詮量也。
読みくだし文:
寿量とは詮量(推し量る意)である
詮量十方三世二佛三佛本佛迹佛之功徳
読みくだし文:
十方三世の諸仏等の功徳を推し量るのである
今正詮量本地三佛功徳
読みくだし文:
今まさに本地三仏の功徳を詮量する
故言如來壽量
読みくだし文:
ゆえに『如来寿量品』と名づける
如來義甚多。且明二三如來。餘例可解。
読みくだし文:
如来の意味は甚だ多いが、今は二如来・三如来を明かす。あとは類推により解釈せよ。
十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通称であると智顗は申しております。
では、二仏・三仏とは何を指しての二仏・三仏なのか、
それが次の段落で語られております。
二如來者。成論云。乘如實道來成正覺故名如來。乘是法如如智。
読みくだし文:
二如来とは、『成実論』に云く、「如実の道に乗じて来たりて正覚を成ずるが故に如来と名づく。乗ずるところの法は、如如の智なり」と。
・「乘如道來」:法に即して来た者
仏は真理=「如」に即した修行の道(道=行)に乗って来現した、という意味。
・「來成正覺」:如の智に到達した者
如(真如)なる智に至り、正覚(仏果)を成就した者。
〝如来〟という名称が「如(真理)に基づいて来たりて、如(真理)に至る」
という両義から成ることを説明しております。仏教における語義の厳密な定義づけの代表的な例です。これは、「成実論」(倶舎系の部派仏教論書)からの引用で、天台智顗は、部派仏教の定義も踏まえた上で、法華教学の解釈へとつなげておられます。
↑この意味解りますか?
真理(如)に乗じて来る存在であり、
その来現は方便や応現(応身)であっても、
究極的には真理性に立脚しているということです。
凡夫の迷いの有漏が
一滴たろうとも混入する余地が無い
という事です。
・如来の定義=非空(縁起からも離れている)
という意味でもあります。
「如来不有、不無、不一、不異、不常、不断、不来、不去」
とありまして、ここで龍樹は、如来は有無・常断・一異・来去というあらゆる相対的二辺の思惟を超えていると説きます。この「不来不去」はまさに、如来は「現象の因果(縁起)」によって来現するのではない、という意味です。
縁起に依って生じるように見えるが、
その本体は縁起そのものを超えた
不可思議なる真如そのもの
という事です。
そこに至ってはじめて如来が顕れます。
その世界の事を「真如の世界」と法介教学では言います。
そろそろじっちゃんが起きてくる頃やな
😃