『諸法実相抄』最終更新 2025/08/02 17:081.法介◆T3azX0Hk1US37K3日蓮大聖人の『諸法実相抄』について紹介いたします。2025/07/31 07:11:2490コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.法介◆T3azX0Hk1US37K3本文 諸法実相抄 文永十年五月 五十二歳御作 与最蓮房日浄 日蓮 之を記す 問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報・常に妙経を宣ぶ」等云云、又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」、又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云、此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや、されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、2025/07/31 07:12:123.法介◆T3azX0Hk1US37K3現代語訳 日 蓮 之を記す 問うていうには、法華経第一の巻方便品第二に「諸法実相とは、所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」と説かれている。この経文の意味はどのようなものであろうか。 答えていうには、下は地獄界から上は仏界までの十界の依報と正報の当体が一法も残さず妙法蓮華経の姿であるという経文である。依報があるならば必ず正報が住している。妙楽大師の法華文句記巻十下には「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」等と述べている。また金剛錍には「実相は必ず諸法とあらわれる。諸法はまた必ず十如をそなえている。その十如は必ず十界という差別相がある。その十界には必ず身と土が存在する」と述べている。また、同じく金剛錍のなかで「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身のなかに具わり、毘盧舎那仏の法身の生命も凡夫の一念の外にあるものではない」としている。 これらの妙楽大師の釈義は分明である。誰が疑いを生ずるであろうか。 したがって、法界の姿は妙法蓮華経の五字にほかならないのである。2025/07/31 07:12:434.法介◆T3azX0Hk1US37K3あれちっちゃくなってるー2025/07/31 07:13:255.法介◆T3azX0Hk1US37K3なんでだろ・・・2025/07/31 07:14:026.法介◆T3azX0Hk1US37K3現代語訳 問うていうには、法華経第一の巻方便品第二に「諸法実相とは、所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」と説かれている。この経文の意味はどのようなものであろうか。2025/07/31 07:18:207.法介◆T3azX0Hk1US37K3 答えていうには、下は地獄界から上は仏界までの十界の依報と正報の当体が一法も残さず妙法蓮華経の姿であるという経文である。依報があるならば必ず正報が住している。妙楽大師の法華文句記巻十下には「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」等と述べている。また金剛錍には「実相は必ず諸法とあらわれる。諸法はまた必ず十如をそなえている。その十如は必ず十界という差別相がある。その十界には必ず身と土が存在する」と述べている。また、同じく金剛錍のなかで「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身のなかに具わり、毘盧舎那仏の法身の生命も凡夫の一念の外にあるものではない」としている。2025/07/31 07:18:458.法介◆T3azX0Hk1US37K3これらの妙楽大師の釈義は分明である。誰が疑いを生ずるであろうか。したがって、法界の姿は妙法蓮華経の五字にほかならないのである。2025/07/31 07:19:099.法介◆T3azX0Hk1US37K3これで大丈夫だ2025/07/31 07:19:3210.法介◆T3azX0Hk1US37K3妙楽大師の法華文句記巻十下には「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」等と述べている。とありますが、まず「依報と正報」について説明します。2025/07/31 07:24:0711.法介◆T3azX0Hk1US37K3「報」は過去の行為の因果が色心の上にあらわれた必然の報いで、この報いを受ける主体である有情の身心を正報といい、この身心が拠りどころとする環境・国土を依報といいます。・正報:主体(自身の身心)・依報:境や住する国土2025/07/31 07:26:5412.法介◆T3azX0Hk1US37K3この正報と依報は「依正不二」といいまして、一見別々のように見えて、実は深く関係し、切り離せない一体のものなんです。2025/07/31 08:27:5813.法介◆T3azX0Hk1US37K3『唯識』ではこの正報と依報が、有根身と器世間として説かれております。・有根身(正報):自身の身心・器世間(依報):境や住する国土2025/07/31 08:30:1314.法介◆T3azX0Hk1US37K3◇ 有根身(正報)・阿頼耶識の中にある「身の種子」から因縁により現れる。・過去の業によって形成された「自己の身体」と「知覚機能」。・五根(眼・耳・鼻・舌・身)+意根(こころ)の総体。2025/07/31 08:32:3315.法介◆T3azX0Hk1US37K3◇ 器世間(依報)・同じく阿頼耶識中の「器世間の種子」が熟して現れる世界。・山川草木・大地・国土・人間関係など、その人が住む世界の相。・一人ひとりの業によってそのあり方が異なる。2025/07/31 08:33:3816.法介◆T3azX0Hk1US37K3一念三千の法門に詳しい方ならピンと来るかと思うんですが、有根身(正報)は自身の身心です。それは五根(眼・耳・鼻・舌・身)+意根(こころ)の総体です。即ち一念三千の中の三世間の中の「五陰世間」がこれにあたります。2025/07/31 08:39:3917.法介◆T3azX0Hk1US37K3そして依報である器世間が一念三千の中の三世間の中の「衆生世間」にあたります。2025/07/31 08:40:3518.法介◆T3azX0Hk1US37K3〝衆生〟とは、人間、動物、植物など、意識を持つすべての生き物のことです。仏教ではこれらを有情と言ったりもします。2025/07/31 08:45:0319.法介◆T3azX0Hk1US37K3その衆生が住む、山や川、大地などの環境、つまり「器」となる世界が器世間です。こちらは無情なるものです。2025/07/31 08:46:2420.法介◆T3azX0Hk1US37K3この無情なるものが一念三千の三世間の中の「国土世間」となります。2025/07/31 08:47:1221.法介◆T3azX0Hk1US37K3この三つの世界観の中で私達は生きています。2025/07/31 08:48:1522.法介◆T3azX0Hk1US37K3なので妙楽大師は、法華文句記巻十下の中で「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」と述べておられる訳です。2025/07/31 08:49:3623.法介◆T3azX0Hk1US37K3妙法蓮華経とは「一念三千の法門」ですので。2025/07/31 08:50:0924.法介◆T3azX0Hk1US37K3また金剛錍では、「実相は必ず諸法とあらわれる。諸法はまた必ず十如をそなえている。その十如は必ず十界という差別相がある。その十界には必ず身と土が存在する」とも述べておられます。2025/07/31 08:51:0625.法介◆T3azX0Hk1US37K3この〝四必〟の文は、諸法実相を一念三千の法理として展開したものです。2025/07/31 08:53:4826.法介◆T3azX0Hk1US37K3諸法とは一念三千の事で、その一念三千は必ず十如をそなえ、その十如は必ず十界という差別の相があり、その十界には必ず身(正報)と土(依報)が存在するという事で、・十界 × 十界 × 十如是 × 三世間 = 一念三千となります。2025/07/31 09:00:4427.法介◆T3azX0Hk1US37K3同じく金剛錍のなかで「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身のなかに具わり、毘盧舎那仏の法身の生命も凡夫の一念の外にあるものではない」とも言われているのですが、地獄の依報と正報が仏の中に具わり、仏の生命も凡夫の一念の外にあるものでもないという事で、これは十界互具を言いあわらしております。2025/07/31 09:10:4028.法介◆T3azX0Hk1US37K3これらの妙楽大師の釈義は分明で誰が疑いを生ずるであろうかと日蓮さんは申されております。したがって、法界(十法界)の姿は妙法蓮華経の五字にほかならないのである。と。2025/07/31 09:12:0529.法介◆T3azX0Hk1US37K3ここから大変重要な事を日蓮さんは語り出します。2025/07/31 09:12:5130.法介◆T3azX0Hk1US37K3でもわたしは今から作業をしてきます。2025/07/31 09:13:1831.法介◆T3azX0Hk1US37K3続きは後ほどー2025/07/31 09:13:3232.法介◆T3azX0Hk1US37K3本文: 釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付嘱なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、2025/07/31 14:34:0833.法介◆T3azX0Hk1US37K3現代語訳: 釈迦仏・多宝仏の二仏といっても妙法蓮華経の五字のなかから用の利益を施すとき、事相に釈迦・多宝の二仏と顕れて多宝塔のなかでうなずきあわれたのである。このような法門は日蓮を除いては申し出す人は一人もいないのである。天台大師、妙楽大師、伝教大師等は心の中では知っておられたのであるが、言葉に出されることはなかった。ただ、胸の中にしまっておかれたのである。それも道理なのである。それは付嘱がなかったゆえであり、時がいまだ来ていないゆえであり、釈尊の久遠の弟子ではないがゆえなのである。地涌の菩薩のなかの上首・唱導の師である上行菩薩・無辺行菩薩等の菩薩よりほかには、末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘めるだけでなく、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すことができる人はいないのである。これはすなわち、法華経本門如来寿量品に説かれた事の一念三千の法門であるからである。2025/07/31 14:34:4434.法介◆T3azX0Hk1US37K3天台大師、妙楽大師、伝教大師等も「南無妙法蓮華経」を知っていたが、言葉に出されることはなかった。ただ、胸の中にしまっておかれたのである。と日蓮さんは申されております。2025/07/31 14:46:0535.法介◆T3azX0Hk1US37K3これに関しては、『当体義抄』の中でこのような事を日蓮さんは申されております。現代語訳で紹介します。問う南岳・天台・伝教等の大師法華経に依つて一乗円宗の教法を弘通し給うと雖も未だ南無妙法蓮華経と唱えたまわざるは如何、若し爾らば此の大師等は未だ当体蓮華を知らず又証得したまわずと云うべきや、答う南岳大師は観音の化身・天台大師は薬王の化身なり等云云、若し爾らば霊山に於て本門寿量の説を聞きし時は之を証得すと雖も在生の時は妙法流布の時に非ず、故に妙法の名字を替えて止観と号し一念三千・一心三観を修し給いしなり、但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱うる事を自行真実の内証と思食されしなり、南岳大師の法華懺法に云く「南無妙法蓮華経」文、天台大師の云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文、又云く「稽首妙法蓮華経」云云、又「帰命妙法蓮華経」云云、伝教大師の最後臨終の十生願の記に云く「南無妙法蓮華経」云云、問う文証分明なり何ぞ是くの如く弘通したまわざるや、答う此れに於て二意有り一には時の至らざるが故に二には付属に非ざるが故なり、凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり地涌千界の大士の付属なり是の故に南岳・天台・伝教等は内に鑑みて末法の導師に之を譲りて弘通し給わざりしなり。2025/07/31 15:07:1736.法介◆T3azX0Hk1US37K3解説しますと、問う:南岳・天台・伝教等の大師は法華経に依って一乗円宗を弘められたのに、なぜ「南無妙法蓮華経」と唱えなかったのか?答う:彼らは観音・薬王などの化身であり、霊山で寿量品を聞いて証得していた。だが、在生の時は妙法流布の時機ではなかった。よって、「妙法の名字を替えて」止観・一念三千などの形で法門を顕した。実際に南岳の『法華懺法』、天台の言葉、伝教大師の臨終の誓願などには、「南無妙法蓮華経」の文句が残されている。それでも彼らがこれを弘通しなかった理由は二つ:① 時至らず(時機未到)② 付嘱を受けていない(仏からの使命を正式に継承していない)よって、これは末法流布の導師=地涌の菩薩の仕事であり、彼らは内心で知っていても譲って弘通しなかった。2025/07/31 15:08:4437.法介◆T3azX0Hk1US37K3〝付嘱〟ってご存じでしょうか?2025/07/31 15:10:1738.法介◆T3azX0Hk1US37K3『法華経』の、提婆達多品・従地涌出品・如来寿量品に至る会座において、こんなやりとりが展開されます。2025/07/31 15:17:1039.法介◆T3azX0Hk1US37K3釈尊が法華経という究極の教えを説き終えると、十方から集まった大菩薩たち(普賢菩薩や文殊菩薩など)が口々に申し出ます。「私たちがこの尊い法華経を、末法の世で流布してまいります!」ところが、釈尊の返答は意外なものでした。2025/07/31 15:17:4440.法介◆T3azX0Hk1US37K3「いや、おまえたちには任せられぬ!」これには場の菩薩たちもびっくり。「えええええ!」って叫んだかも知れませんね。2025/07/31 15:19:1141.法介◆T3azX0Hk1US37K3そこでお釈迦さまは久遠からとんでもない菩薩達を呼び起こします。2025/07/31 15:20:3242.法介◆T3azX0Hk1US37K3大地が割れて、無数の菩薩たちが地中から湧き出てきたのです。しかもその菩薩達は皆仏の32相を備えて神々しく輝いていたんです。2025/07/31 15:21:4843.法介◆T3azX0Hk1US37K3これ何を意味しているか解ります?2025/07/31 15:22:1144.法介◆T3azX0Hk1US37K3仏と同等の覚りを得た「等覚の菩薩」って事です。2025/07/31 15:22:5545.法介◆T3azX0Hk1US37K3日蓮さんは『開目抄』の中でその時の様子を次のように紹介されております。 その上に地涌千界の大菩薩が大地より出来した。釈尊にとっては第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の樵夫・杣人の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。釈迦仏のあとを嗣ぐといわれた弥勒すら、なお地涌の出現に惑われた。しかしてそれ以下の者の驚きと当惑はひじょうなものであった。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がましました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられる。2025/07/31 15:33:4246.法介◆T3azX0Hk1US37K3猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである---と。おもしろい事言いますよね日蓮さんも^^2025/07/31 15:34:5547.法介◆T3azX0Hk1US37K3普賢菩薩や文殊師利菩薩等らが猿に見える程、地中から顕れたお釈迦さまの久遠の弟子達は素晴らしいお姿であったと。2025/07/31 15:41:1648.法介◆T3azX0Hk1US37K3中でも先頭に立つ四菩薩は、 この四人は虚空会および霊山会に来集している諸菩薩等が、眼をあわせることも心のおよぶこともなかった。華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も、この菩薩に対すれば翳眼のものが太陽をまともに見られないごとく、いやしい海人が皇帝に向い奉るような状態であった。太公望等の四聖が大衆の中にいるごとく、商山の四人の君子が漢の恵帝に仕えたのと異ならない。じつにぎぎ堂々として尊高であった。釈迦・多宝・十方分身の諸仏をのぞいては、一切衆生の善知識ともたのみ奉るべきであろう。と日蓮さんは上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩を紹介されております。2025/07/31 15:41:3849.法介◆T3azX0Hk1US37K3その場に居た弥勒菩薩は、心の中で次のように思った。 自分は釈迦仏が出家する以前の太子であった時から、三十歳で成道し、いまの霊鷲山で法華経の説法が開かれるまでの四十二年のあいだ、この世界の菩薩も十方世界より来集した菩薩もみなことごとく知っている。またその上に十方の浄土へも穢土へも、あるいはお使いとしてあるいはみずから遊びに行って、その国々の大菩薩も見聞して知っている。しかしこの地涌の大菩薩はいまだかつて見聞したことがない。この大菩薩のお師匠はどのような仏さまであろうか。よもこの釈迦・多宝・十方の分身の諸仏には似るべくもない仏さまであらせられるであろう。雨の猛烈に降るを見て竜の大なることを知り、華の大きく盛んなるを見てこれを育てている池の深いことは知られるであろう。これらの大菩薩はいかなる国から来て、また誰と申す仏にあい奉り、いかなる大法をか修習し給うているのか。2025/07/31 15:45:1350.法介◆T3azX0Hk1US37K3そう内心で疑わざる負えなかった弥勒菩薩は、あまりの不思議さに声を出すことすら出来ないでいたが、仏力の加護によるのであろう、つぎのように質問した。2025/07/31 15:46:4551.法介◆T3azX0Hk1US37K3「無量千万億の大衆のもろもろの菩薩は、昔よりいまだかつて見たことのないところである。このもろもろの大威徳・大精進の菩薩衆に対して、だれがそのために法を説いて教化して仏道を成就せしめたのか。誰にしたがって初めて発心し、いずれの仏法をか称揚して修行を積んできたのか。世尊よ、われ昔よりこのかたいまだかつてこのことを見たことがない。願わくば、その住する国土の名を説き聞かせてください。自分はつねに諸国に遊んできたが、いまだかつてこの事を見たことがない。自分はこの地涌の大衆を見てもひとりも知っているひとはない。忽然として大地より涌出せられた。願わくばその因縁を説いてください」2025/07/31 15:47:0752.法介◆T3azX0Hk1US37K3とここで日蓮さんは、天台や妙楽の言葉を紹介されます。2025/07/31 15:48:3653.法介◆T3azX0Hk1US37K3 天台いわく「寂滅道場における最初の説法より以来、法華経の座にいたるまで十方の大菩薩が絶えず来会してその数は限りないとはいえ、自分は補処の智力をもってことごとく見、ことごとく知っている。しかれどもこの衆においてはひとりをも知らず。しかるに自分は十方に遊戯して諸仏にまのあたり奉仕し、大衆によく識知せられているのである」と。 妙楽はさらにこれを釈していわく「智人は将来起こるべきことを知るが愚人は知らない。蛇の道は蛇で、蛇はみずから蛇を知っている」と。 このように経文も解釈も説明するところの意味は分明である。要するに初成道より法華の会座にいたるまで、この国土においてもまた十方国土においても、これらの大菩薩を見たてまつらず、また聞いたこともないというのである。2025/07/31 15:50:4954.法介◆T3azX0Hk1US37K3お釈迦さまは弥勒菩薩の質問に次のように答えます。2025/07/31 15:51:2755.法介◆T3azX0Hk1US37K3「弥勒よ、なんじらが昔より未だ見たことのないというこれらの大菩薩たちは、自分がこの娑婆世界において成仏してよりこのかたこの諸々の菩薩を教化し、指導して、その心を調伏して大道心をおこさしめたのである」と。またいわく「われは伽耶城の菩提樹の下に坐して、最正覚を成ずることを得、しかして無上の法輪を転じ、これらの大菩薩を教化して初めて道心をおこさしめ、いまはみな不退の位に住している。乃至自分は久遠よりこのかたこれらの衆を教化した」と涌出品に説き明かしている、これはすなわち略開近顕遠である。2025/07/31 15:51:5656.法介◆T3azX0Hk1US37K3今まで誰も見たことがない菩薩の出現。あの有名な弥勒菩薩ですら驚いて「一体この人たちは誰?」と聞くほど。それに対してお釈迦さまは、「私はこの地涌の菩薩たちを、はるか昔、仏になってからずっと教えてきたのだ」と語られます。2025/07/31 17:51:2357.法介◆T3azX0Hk1US37K3えっ?仏になったのってインドで悟りを開いたときじゃないの?って思いますよね。2025/07/31 17:51:5258.法介◆T3azX0Hk1US37K3ここが大事なポイントで、お釈迦さまは実はもっともっと遠い昔(久遠)から仏であり、すでに弟子たちを導いていた——という、とても深い真実がこのあと明かされていくんです。2025/07/31 17:52:3959.法介◆T3azX0Hk1US37K3この場面は、法華経の中で「略開近顕遠」と呼ばれる教えの一部です。カンタンに言えば、今までは近い過去(インドで成仏)しか語られてなかったけど実は“ずーっと前”から仏だったことを「少しだけ」開示(略して開く)した場面です。これを略開近顕遠と言います。2025/07/31 17:54:1460.法介◆T3azX0Hk1US37K3これをきっかけに、法華経の後半(寿量品)では、お釈迦さまは永遠の過去(久遠)から仏であったという「本当の姿=本門」が明かされていきます。2025/07/31 17:59:1661.法介◆T3azX0Hk1UdXszPおはようございます、法介です。2025/08/01 05:07:4062.法介◆T3azX0Hk1UdXszP『諸法実相抄』では釈迦と多宝の二仏について語られます。2025/08/01 05:10:1563.法介◆T3azX0Hk1UdXszP本文: されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。2025/08/01 05:12:0064.法介◆T3azX0Hk1UdXszP現代語訳: したがって、釈迦仏・多宝仏の二仏といっても用の仏であり、妙法蓮華経こそ本仏であられるのである。法華経如来寿量品第十六に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。「如来秘密」は体の三身であって本仏である。「神通之力」とは用の三身であって迹仏なのである。凡夫は体の三身であって本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。 したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであるが、そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのである。 そのゆえは、如来というのは天台大師の法華文句巻九下には「如来とは十方三世の諸仏、真仏・応仏の二仏、法身・報身・応仏の三身、本仏・迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」と判じられている。この釈に「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏」というのは仏である。 しかしながら、迷いと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、このため衆生は、倶体・倶用ということを知らないのである。 そうであるからこそ、諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相であると説かれたのである。「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。ゆえに「諸法」(十界)は妙法蓮華経であるということなのである。地獄は地獄の姿をみせているのが実の相である。餓鬼と変わってしまえば地獄の実の姿ではない。仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのである。 このことについて天台大師は「実相の深理は本有常住の妙法蓮華経である」と述べている。この釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり、「本有の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門なのである。この釈の意をよくよく心中で案じられるがよい。2025/08/01 05:13:3065.法介◆T3azX0Hk1UdXszP「如来というのは天台大師の法華文句巻九下には」とありますよね。天台智顗が法華文句巻九下の中で〝如来〟の定義を紹介しているんです、2025/08/01 05:31:5366.法介◆T3azX0Hk1UdXszPでは、『法華文句』のその部分を実際に見てみましょう。2025/08/01 05:32:4067.法介◆T3azX0Hk1UdXszP法華文句巻九下https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1718_,34,0127a18&key=%E5%A6%82%E4%BE%86%E8%80%85%E3%80%82%E5%8D%81%E6%96%B9%E4%B8%89%E4%B8%96%E8%AB%B8%E4%BD%9B%E4%BA%8C%E4%BD%9B&ktn=&mode2=22025/08/01 05:33:2668.法介◆T3azX0Hk1UdXszP如來者。十方三世諸佛二佛三佛本佛迹佛之通號也。壽量者。詮量也。詮量十方三世二佛三佛本佛迹佛之功徳今正詮量本地三佛功徳。故言如來壽量如來義甚多。且明二三如來。餘例可解。2025/08/01 05:34:3669.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:如來者。十方三世諸佛二佛三佛本佛迹佛之通號也。読みくだし文:如来とは、十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通称である2025/08/01 05:35:5470.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:壽量者。詮量也。読みくだし文:寿量とは詮量(推し量る意)である2025/08/01 05:37:0871.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:詮量十方三世二佛三佛本佛迹佛之功徳読みくだし文:十方三世の諸仏等の功徳を推し量るのである2025/08/01 05:39:4172.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:今正詮量本地三佛功徳読みくだし文:今まさに本地三仏の功徳を詮量する2025/08/01 05:40:2673.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:故言如來壽量読みくだし文:ゆえに『如来寿量品』と名づける2025/08/01 05:41:2874.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:如來義甚多。且明二三如來。餘例可解。読みくだし文:如来の意味は甚だ多いが、今は二如来・三如来を明かす。あとは類推により解釈せよ。2025/08/01 05:42:4075.法介◆T3azX0Hk1UdXszP如来とは、十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通称であると智顗は申しております。では、二仏・三仏とは何を指しての二仏・三仏なのか、それが次の段落で語られております。2025/08/01 05:46:1476.法介◆T3azX0Hk1UdXszP原文:二如來者。成論云。乘如實道來成正覺故名如來。乘是法如如智。読みくだし文:二如来とは、『成実論』に云く、「如実の道に乗じて来たりて正覚を成ずるが故に如来と名づく。乗ずるところの法は、如如の智なり」と。2025/08/01 05:48:2277.法介◆T3azX0Hk1UdXszPここでは「二如来」の、次の二義が示されております。・「乘如道來」:法に即して来た者 仏は真理=「如」に即した修行の道(道=行)に乗って来現した、という意味。・「來成正覺」:如の智に到達した者 如(真如)なる智に至り、正覚(仏果)を成就した者。2025/08/01 05:51:3978.法介◆T3azX0Hk1UdXszPこのように〝如来〟という名称が「如(真理)に基づいて来たりて、如(真理)に至る」という両義から成ることを説明しております。仏教における語義の厳密な定義づけの代表的な例です。これは、「成実論」(倶舎系の部派仏教論書)からの引用で、天台智顗は、部派仏教の定義も踏まえた上で、法華教学の解釈へとつなげておられます。2025/08/01 05:55:4879.法介◆T3azX0Hk1UdXszP「如(真理)に基づいて来たりて、如(真理)に至る」↑この意味解りますか?2025/08/01 05:56:1980.法介◆T3azX0Hk1UdXszP有漏の種子は、どこまでいっても有漏の種子でしかないという『成唯識論』の文句の意味がこれなんですね。2025/08/01 05:57:4081.法介◆T3azX0Hk1UdXszP如来とは、〝現象の因果〟(縁起)に流されて現れるのではなく、真理(如)に乗じて来る存在であり、その来現は方便や応現(応身)であっても、究極的には真理性に立脚しているということです。2025/08/01 06:00:3082.法介◆T3azX0Hk1UdXszP解りやすく言いますと凡夫の迷いの有漏が一滴たろうとも混入する余地が無いという事です。2025/08/01 06:04:5983.法介◆T3azX0Hk1UdXszP如来=〝現象の因果〟(縁起)に流されて現れるのではなく、真理に立脚して現れる絶対無漏の存在。2025/08/01 06:09:2084.法介◆T3azX0Hk1UdXszPそれが龍樹が『中論』で説いた・如来の定義=非空(縁起からも離れている)という意味でもあります。2025/08/01 06:12:1385.法介◆T3azX0Hk1UdXszP『中論』の観如来品(第22章)には、「如来不有、不無、不一、不異、不常、不断、不来、不去」とありまして、ここで龍樹は、如来は有無・常断・一異・来去というあらゆる相対的二辺の思惟を超えていると説きます。この「不来不去」はまさに、如来は「現象の因果(縁起)」によって来現するのではない、という意味です。2025/08/01 06:14:1586.法介◆T3azX0Hk1UdXszPつまり、如来とは、縁起に依って生じるように見えるが、その本体は縁起そのものを超えた不可思議なる真如そのものという事です。2025/08/01 06:15:4387.法介◆T3azX0Hk1UdXszP縁起(空)をも超えた非空で入る世界そこに至ってはじめて如来が顕れます。その世界の事を「真如の世界」と法介教学では言います。2025/08/01 06:18:5388.法介◆T3azX0Hk1UdXszPさて、そろそろじっちゃんが起きてくる頃やな2025/08/01 06:19:4689.法介◆T3azX0Hk1UdXszP続きはまた後程~2025/08/01 06:20:1490.ナナシズムqPzStおー難しいのやってんなー?😃2025/08/02 17:08:14
【英国】シンガーソングライターのモリッシーさん「もっとたくさんの男がホモだったら戦争は起こらないのに。戦争はノンケが起こす。ホモは男を殺さないからね」ニュース速報+1251508.42025/08/06 01:43:11
諸法実相抄 文永十年五月 五十二歳御作 与最蓮房日浄 日蓮 之を記す
問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報・常に妙経を宣ぶ」等云云、又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」、又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云、此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや、されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、
日 蓮 之を記す
問うていうには、法華経第一の巻方便品第二に「諸法実相とは、所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」と説かれている。この経文の意味はどのようなものであろうか。
答えていうには、下は地獄界から上は仏界までの十界の依報と正報の当体が一法も残さず妙法蓮華経の姿であるという経文である。依報があるならば必ず正報が住している。妙楽大師の法華文句記巻十下には「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」等と述べている。また金剛錍には「実相は必ず諸法とあらわれる。諸法はまた必ず十如をそなえている。その十如は必ず十界という差別相がある。その十界には必ず身と土が存在する」と述べている。また、同じく金剛錍のなかで「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身のなかに具わり、毘盧舎那仏の法身の生命も凡夫の一念の外にあるものではない」としている。
これらの妙楽大師の釈義は分明である。誰が疑いを生ずるであろうか。
したがって、法界の姿は妙法蓮華経の五字にほかならないのである。
ちっちゃくなってるー
問うていうには、法華経第一の巻方便品第二に「諸法実相とは、所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」と説かれている。この経文の意味はどのようなものであろうか。
したがって、法界の姿は妙法蓮華経の五字にほかならないのである。
「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」
等と述べている。とありますが、まず「依報と正報」について説明します。
・正報:主体(自身の身心)
・依報:境や住する国土
・有根身(正報):自身の身心
・器世間(依報):境や住する国土
・阿頼耶識の中にある「身の種子」から因縁により現れる。
・過去の業によって形成された「自己の身体」と「知覚機能」。
・五根(眼・耳・鼻・舌・身)+意根(こころ)の総体。
・同じく阿頼耶識中の「器世間の種子」が熟して現れる世界。
・山川草木・大地・国土・人間関係など、その人が住む世界の相。
・一人ひとりの業によってそのあり方が異なる。
有根身(正報)は自身の身心です。
それは五根(眼・耳・鼻・舌・身)+意根(こころ)の総体です。
即ち一念三千の中の三世間の中の「五陰世間」がこれにあたります。
一念三千の中の三世間の中の「衆生世間」にあたります。
仏教ではこれらを有情と言ったりもします。
私達は生きています。
「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」
と述べておられる訳です。
「実相は必ず諸法とあらわれる。諸法はまた必ず十如をそなえている。その十如は必ず十界という差別相がある。その十界には必ず身と土が存在する」
とも述べておられます。
・十界 × 十界 × 十如是 × 三世間 = 一念三千
となります。
「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身のなかに具わり、毘盧舎那仏の法身の生命も凡夫の一念の外にあるものではない」
とも言われているのですが、地獄の依報と正報が仏の中に具わり、仏の生命も凡夫の一念の外にあるものでもないという事で、これは十界互具を言いあわらしております。
したがって、
法界(十法界)の姿は妙法蓮華経の五字にほかならないのである。
と。
日蓮さんは
語り出します。
今から作業をしてきます。
釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付嘱なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、
釈迦仏・多宝仏の二仏といっても妙法蓮華経の五字のなかから用の利益を施すとき、事相に釈迦・多宝の二仏と顕れて多宝塔のなかでうなずきあわれたのである。このような法門は日蓮を除いては申し出す人は一人もいないのである。天台大師、妙楽大師、伝教大師等は心の中では知っておられたのであるが、言葉に出されることはなかった。ただ、胸の中にしまっておかれたのである。それも道理なのである。それは付嘱がなかったゆえであり、時がいまだ来ていないゆえであり、釈尊の久遠の弟子ではないがゆえなのである。地涌の菩薩のなかの上首・唱導の師である上行菩薩・無辺行菩薩等の菩薩よりほかには、末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘めるだけでなく、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すことができる人はいないのである。これはすなわち、法華経本門如来寿量品に説かれた事の一念三千の法門であるからである。
と日蓮さんは申されております。
現代語訳で紹介します。
問う南岳・天台・伝教等の大師法華経に依つて一乗円宗の教法を弘通し給うと雖も未だ南無妙法蓮華経と唱えたまわざるは如何、若し爾らば此の大師等は未だ当体蓮華を知らず又証得したまわずと云うべきや、答う南岳大師は観音の化身・天台大師は薬王の化身なり等云云、若し爾らば霊山に於て本門寿量の説を聞きし時は之を証得すと雖も在生の時は妙法流布の時に非ず、故に妙法の名字を替えて止観と号し一念三千・一心三観を修し給いしなり、但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱うる事を自行真実の内証と思食されしなり、南岳大師の法華懺法に云く「南無妙法蓮華経」文、天台大師の云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文、又云く「稽首妙法蓮華経」云云、又「帰命妙法蓮華経」云云、伝教大師の最後臨終の十生願の記に云く「南無妙法蓮華経」云云、問う文証分明なり何ぞ是くの如く弘通したまわざるや、答う此れに於て二意有り一には時の至らざるが故に二には付属に非ざるが故なり、凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり地涌千界の大士の付属なり是の故に南岳・天台・伝教等は内に鑑みて末法の導師に之を譲りて弘通し給わざりしなり。
問う:南岳・天台・伝教等の大師は法華経に依って一乗円宗を弘められたのに、なぜ「南無妙法蓮華経」と唱えなかったのか?
答う:彼らは観音・薬王などの化身であり、霊山で寿量品を聞いて証得していた。だが、在生の時は妙法流布の時機ではなかった。
よって、「妙法の名字を替えて」止観・一念三千などの形で法門を顕した。
実際に南岳の『法華懺法』、天台の言葉、伝教大師の臨終の誓願などには、「南無妙法蓮華経」の文句が残されている。
それでも彼らがこれを弘通しなかった理由は二つ:
① 時至らず(時機未到)
② 付嘱を受けていない(仏からの使命を正式に継承していない)
よって、これは末法流布の導師=地涌の菩薩の仕事であり、彼らは内心で知っていても譲って弘通しなかった。
「私たちがこの尊い法華経を、末法の世で流布してまいります!」
ところが、釈尊の返答は意外なものでした。
これには場の菩薩たちもびっくり。
「えええええ!」
って叫んだかも知れませんね。
しかもその菩薩達は皆
仏の32相を備えて神々しく輝いていたんです。
その上に地涌千界の大菩薩が大地より出来した。釈尊にとっては第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の樵夫・杣人の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。釈迦仏のあとを嗣ぐといわれた弥勒すら、なお地涌の出現に惑われた。しかしてそれ以下の者の驚きと当惑はひじょうなものであった。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖がましました。いわゆる上行・無辺行・浄行・安立行であらせられる。
おもしろい事言いますよね日蓮さんも^^
この四人は虚空会および霊山会に来集している諸菩薩等が、眼をあわせることも心のおよぶこともなかった。華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も、この菩薩に対すれば翳眼のものが太陽をまともに見られないごとく、いやしい海人が皇帝に向い奉るような状態であった。太公望等の四聖が大衆の中にいるごとく、商山の四人の君子が漢の恵帝に仕えたのと異ならない。じつにぎぎ堂々として尊高であった。釈迦・多宝・十方分身の諸仏をのぞいては、一切衆生の善知識ともたのみ奉るべきであろう。
と日蓮さんは上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩を紹介されております。
自分は釈迦仏が出家する以前の太子であった時から、三十歳で成道し、いまの霊鷲山で法華経の説法が開かれるまでの四十二年のあいだ、この世界の菩薩も十方世界より来集した菩薩もみなことごとく知っている。またその上に十方の浄土へも穢土へも、あるいはお使いとしてあるいはみずから遊びに行って、その国々の大菩薩も見聞して知っている。しかしこの地涌の大菩薩はいまだかつて見聞したことがない。この大菩薩のお師匠はどのような仏さまであろうか。よもこの釈迦・多宝・十方の分身の諸仏には似るべくもない仏さまであらせられるであろう。雨の猛烈に降るを見て竜の大なることを知り、華の大きく盛んなるを見てこれを育てている池の深いことは知られるであろう。これらの大菩薩はいかなる国から来て、また誰と申す仏にあい奉り、いかなる大法をか修習し給うているのか。
妙楽はさらにこれを釈していわく「智人は将来起こるべきことを知るが愚人は知らない。蛇の道は蛇で、蛇はみずから蛇を知っている」と。
このように経文も解釈も説明するところの意味は分明である。要するに初成道より法華の会座にいたるまで、この国土においてもまた十方国土においても、これらの大菩薩を見たてまつらず、また聞いたこともないというのである。
あの有名な弥勒菩薩ですら驚いて
「一体この人たちは誰?」と聞くほど。
それに対してお釈迦さまは、
「私はこの地涌の菩薩たちを、はるか昔、仏になってからずっと教えてきたのだ」
と語られます。
仏になったのってインドで悟りを開いたときじゃないの?
って思いますよね。
お釈迦さまは実はもっともっと遠い昔(久遠)から仏であり、
すでに弟子たちを導いていた——
という、とても深い真実がこのあと明かされていくんです。
カンタンに言えば、
今までは近い過去(インドで成仏)しか語られてなかったけど
実は“ずーっと前”から仏だったことを「少しだけ」開示(略して開く)した場面です。
これを略開近顕遠と言います。
お釈迦さまは永遠の過去(久遠)から仏であったという「本当の姿=本門」
が明かされていきます。
されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。
したがって、釈迦仏・多宝仏の二仏といっても用の仏であり、妙法蓮華経こそ本仏であられるのである。法華経如来寿量品第十六に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。「如来秘密」は体の三身であって本仏である。「神通之力」とは用の三身であって迹仏なのである。凡夫は体の三身であって本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。
したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであるが、そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのである。
そのゆえは、如来というのは天台大師の法華文句巻九下には「如来とは十方三世の諸仏、真仏・応仏の二仏、法身・報身・応仏の三身、本仏・迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」と判じられている。この釈に「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏」というのは仏である。
しかしながら、迷いと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、このため衆生は、倶体・倶用ということを知らないのである。
そうであるからこそ、諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相であると説かれたのである。「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。ゆえに「諸法」(十界)は妙法蓮華経であるということなのである。地獄は地獄の姿をみせているのが実の相である。餓鬼と変わってしまえば地獄の実の姿ではない。仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのである。
このことについて天台大師は「実相の深理は本有常住の妙法蓮華経である」と述べている。この釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり、「本有の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門なのである。この釈の意をよくよく心中で案じられるがよい。
天台智顗が法華文句巻九下の中で〝如来〟の定義を紹介しているんです、
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1718_,34,0127a18&key=%E5%A6%82%E4%BE%86%E8%80%85%E3%80%82%E5%8D%81%E6%96%B9%E4%B8%89%E4%B8%96%E8%AB%B8%E4%BD%9B%E4%BA%8C%E4%BD%9B&ktn=&mode2=2
如來者。十方三世諸佛二佛三佛本佛迹佛之通號也。
読みくだし文:
如来とは、十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通称である
壽量者。詮量也。
読みくだし文:
寿量とは詮量(推し量る意)である
詮量十方三世二佛三佛本佛迹佛之功徳
読みくだし文:
十方三世の諸仏等の功徳を推し量るのである
今正詮量本地三佛功徳
読みくだし文:
今まさに本地三仏の功徳を詮量する
故言如來壽量
読みくだし文:
ゆえに『如来寿量品』と名づける
如來義甚多。且明二三如來。餘例可解。
読みくだし文:
如来の意味は甚だ多いが、今は二如来・三如来を明かす。あとは類推により解釈せよ。
十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通称であると智顗は申しております。
では、二仏・三仏とは何を指しての二仏・三仏なのか、
それが次の段落で語られております。
二如來者。成論云。乘如實道來成正覺故名如來。乘是法如如智。
読みくだし文:
二如来とは、『成実論』に云く、「如実の道に乗じて来たりて正覚を成ずるが故に如来と名づく。乗ずるところの法は、如如の智なり」と。
・「乘如道來」:法に即して来た者
仏は真理=「如」に即した修行の道(道=行)に乗って来現した、という意味。
・「來成正覺」:如の智に到達した者
如(真如)なる智に至り、正覚(仏果)を成就した者。
〝如来〟という名称が「如(真理)に基づいて来たりて、如(真理)に至る」
という両義から成ることを説明しております。仏教における語義の厳密な定義づけの代表的な例です。これは、「成実論」(倶舎系の部派仏教論書)からの引用で、天台智顗は、部派仏教の定義も踏まえた上で、法華教学の解釈へとつなげておられます。
↑この意味解りますか?
真理(如)に乗じて来る存在であり、
その来現は方便や応現(応身)であっても、
究極的には真理性に立脚しているということです。
凡夫の迷いの有漏が
一滴たろうとも混入する余地が無い
という事です。
・如来の定義=非空(縁起からも離れている)
という意味でもあります。
「如来不有、不無、不一、不異、不常、不断、不来、不去」
とありまして、ここで龍樹は、如来は有無・常断・一異・来去というあらゆる相対的二辺の思惟を超えていると説きます。この「不来不去」はまさに、如来は「現象の因果(縁起)」によって来現するのではない、という意味です。
縁起に依って生じるように見えるが、
その本体は縁起そのものを超えた
不可思議なる真如そのもの
という事です。
そこに至ってはじめて如来が顕れます。
その世界の事を「真如の世界」と法介教学では言います。
そろそろじっちゃんが起きてくる頃やな
😃