【仏教の標準理論】 倶舎論 【世親著】 Part3最終更新 2025/10/30 07:231.◆JBLfMwCXhYENa9Xここでは仏教の標準理論といわれる阿毘達磨倶舎論(以下、倶舎論)を学んでいこうと思います。【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 ←まちがいhttps://talk.jp/boards/psy/1694739296【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 Part2 ←おちょくりhttps://talk.jp/boards/psy/17536591052025/10/28 18:16:5821コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.◆JBLfMwCXhYENa9X関連スレ【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 10【倶舎八年】https://talk.jp/boards/psy/1759535455中論https://talk.jp/boards/psy/17387112042025/10/28 18:24:483.◆JBLfMwCXhY8pOGoインドの仏教思想 主な流れ1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃 お釈迦様の教え2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃 いわゆる小乗仏教、南方で継承される3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃 部派仏教の時代、最も有力な部派4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~ 説一切有部から分派、世親はここの出身5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~ 空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~ 阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、 「誰でも成仏できる」という思想2025/10/29 06:11:164.◆JBLfMwCXhY8pOGo初期仏教の世界観見るものと見られるものが対になり、世界ができている。アナタが認識しているもの、それが世界のすべてである。五蘊・十二処・十八界1、五蘊(ごうん)・色 物質的な存在(とくに、自分の身体)・受 感受する作用・想 表象する作用・行 意志する作用・識 認識する作用→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。「我」として執着するような実体は無い2、十二処(じゅうにしょ)・六根:六つの認識器官眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根・六境:六つの認識対象色境・声境・香境・味境・触境・法境六根と六境を合わせて十二処3、十八界(じゅうはちかい)・六識:六つの認識作用眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識十二処に六識を加えて十八界2025/10/29 06:11:405.◆JBLfMwCXhY8pOGoお釈迦様の入滅後、多くの部派に分かれて、仏教理論の体系化が進んだ最も有力な「説一切有部」は、存在を「五位七十五法」に分類した初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」よりだいぶ数が増えた説一切有部の思想は、後に「倶舎論」としてまとめられた↓(1)五位七十五法法(ダルマ)=存在するものに2種類・有為(うい)…煩悩で汚れたもの・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの1~4は有為法、5は無為法1、色・・・物質的現象 11種類 眼・耳・鼻・舌・身・ 色・声・香・味・触・ 無表色2、心・・・心の本体 1種類3、心所・・・心の作用 46種類 大地 常駐する心の動き 大善地 善の動き 大不善地 悪の動き 不定 どちらでもない心の動き 大煩悩地 根本的な煩悩 小煩悩地 付随する煩悩4、心不相応行・・・ 14種類色(物質)にも、心(精神)にも分類されないもの5、無為・・・ 3種類常住不変な存在 虚空、択滅、非択滅2025/10/29 06:12:156.◆JBLfMwCXhY8pOGo良い解説サイトを見つけた説一切有部の心所説 ―仏教における心の分析http://www.horakuji.com/treasures/sarvasthivadin_cetasika.htm2025/10/29 06:21:447.◆JBLfMwCXhY8pOGoまた良いサイト次々にヒットする(笑)「倶舎論」(説一切有部系):総論https://ameblo.jp/morfo/entry-10942032500.html2025/10/29 06:22:008.◆JBLfMwCXhY8pOGo有名な、唯識論の五道(位)資糧道(資糧位)加行道(加行位)見道(通達位)修道(修習位)無学道(通達位)2025/10/29 06:27:149.◆JBLfMwCXhY8pOGo唯識を体得して幻から解き放たれていくステップは下記の通りです。第1ステージ(資糧位)まずはすべては思考の産物にすぎない(唯識)ことをを理解しましょう。とはいえ理解することと完全に体得することは別物です。この段階では世界があって自分がいる(二取)という思考を潜在的に持っている(随眠)ままです。修行の第2ステージ(加行位)すべては思考の産物にすぎないということの理解が進みこれを体得しようという気力に満ちて修行にはげみます。しかしながら思考のなかにはあいかわらず自我意識によって生み出された幻への執着が依然として残っている(有所得)状態です。修行の第3ステージ(通達位)修行を重ねていくと思考の対象(所縁)となるものを理解(智)しようという執着が完全になくなる(無所得)瞬間が訪れます。このときにはじめて思考する対象も思考する自分もなくなりすべて思考の産物にすぎないということわりを体感するのです。修行の第4ステージ(修習位)先のステージで正しいことわりを体感することができた瞬間は執着を完全にはなれた(無得)不可思議(不思議)な境地に他なりません。この瞬間に世俗的な知見とはまるで違う知の地平(出世間智)が開かれてきます。しかしながらはるか昔からあやまった考えとくもった心を持って生きてきたことの影響が私たちの奥底に習慣化されて根強く残っています。これらの二種の障害(麁重)をたむまぬ努力の果てに絶やしてしまうとき私たちの存在のありかたは根本的に変わります(転依)。修行の第5ステージ(究竟位)私たちのありかたが根本的にかつ永続的に変わったときそこにあるのは迷いなき世界(無漏界)であり言語を超えた不可思議な世界(不思議)であり極めて安穏な(善)であり生滅のことわりを離れて(常)おり悩むことなく寂静(安楽)なる世界です。二種の障害のうちくもった心をすべて断ち切って解脱して自由になった境地(解脱身)を享受するだけでも平穏な境地に至れるかもしれません。しかし大乗仏教はあらゆる人々と平穏に生きるためのものですから正しいことわりを知り尽くして迷える人々を教え導こうと志してください。それが聖者(大牟尼)のごとく世界に遍在する真理(法)として生きることです。だそうだ。https://ryuganji.jp/buddhism/1104/2025/10/29 06:28:0810.◆JBLfMwCXhY8pOGo唯識の理論はたいていそうだがこれも、元ネタは倶舎論だ2025/10/29 06:28:5911.◆JBLfMwCXhY8pOGo「倶舎論」では修行階梯は「三道」で構成されますが、実際には準備段階を入れると5段階で構成されます。「順解脱分」→「順決択分」→「見道」→「修道」→「無学道」の5つです。この5段階は大乗仏教にも受け継がれ、「五道」と言われます。大乗では「順解脱分」は「資糧道」、「順決択分」は「加行道」と呼ばれます。2025/10/29 06:29:1812.◆JBLfMwCXhY8pOGo五道の体系は、順序としては「戒」→「定(止)」→「慧(観)」の「三学」を継承しています。しかし、最初の「順解脱分」の段階で、すでに「戒」、「定」を終えて「観」の段階に入ります。上座部の「清浄道論」で言えば、「戒清浄」、「心清浄」、「見清浄」、「度疑清浄」までが相当するでしょう。「順決択分」は「清浄道論」で言えば「道非道智見清浄」、「行道智見清浄」に相当するでしょう。2025/10/29 06:29:3713.◆JBLfMwCXhY8pOGo「見道」からは聖者の段階で、「清浄道論」で言えば「智見清浄」の前半で、預流果までに当たります。「修道」の段階は「智見清浄」の後半で、阿羅漢向までに当たります。「無学道」は阿羅漢果です。「三転十二行相」で言えば、「見道」が「示転」、「修道」が「勧転」、「無学道」が「証転」に当たります。https://ameblo.jp/morfo/entry-10942032500.html2025/10/29 06:30:0714.神も仏も名無しさん2Swqt>>6説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としていますこう言うのがあった。勝義諦という言葉はりゅじゅが考えたものだと思っていたが、説一切有部が先だったんですね。知らなかった。2025/10/29 06:31:1915.◆JBLfMwCXhY8pOGo>>14そうなんですわ中論や唯識論で有名になった理論もたいてい、元ネタは倶舎論にある2025/10/29 06:34:2616.◆JBLfMwCXhY8pOGo何事も、ベースは倶舎論2025/10/29 06:34:4517.◆JBLfMwCXhY8pOGo北方インドで中心的な勢力を持ち、北伝の大乗仏教の修行や思想に大きな影響を与えたのが「説一切有部」、あるいはその一派である「経量部」です。「阿毘達磨倶舎論(以下、倶舎論)」は、4~5世紀に、世親(ヴァズヴァンドゥ)が書いたもので、北伝のアビダルマ論書として最も有名な書の一つです。例えば、チベット最大のゲルグ派では、僧の多くは「倶舎論」を4年かけて勉強するそうです。説一切有部の「発智論」「大毘婆沙論」をベースにしながら、それを経量部の立場から批判しながら書きました。ちなみに世親はその後、大乗仏教の唯識派に転向し、唯識派でも重要な論書を残しています。2025/10/29 06:35:2318.神も仏も名無しさん2Swqt二諦について原始仏教〜部派仏教初期仏教では「二諦」という用語は明確には使われていませんが、世俗的な真理と究極的な真理の区別はすでに存在していました。部派仏教(特に説一切有部など)では、「世俗有」と「勝義有」という区別があり、これは二諦の思想的前提となります。『大毘婆沙論』などでは、「世間的に通用するもの=世俗諦」「聖者の智慧によって見通されるもの=勝義諦」として整理されています。🔹竜樹(ナーガールジュナ)中観派の祖であり、『中論』などで二諦を明確な哲学的枠組みとして提示。「世俗諦(saṁvṛti-satya)」と「勝義諦(paramārtha-satya)」を区別し、すべての存在は空であるという思想を展開。竜樹の二諦説は、言語・概念の限界を超えて真理に至る道筋として非常に影響力を持ちました。2025/10/29 06:39:2819.◆JBLfMwCXhYdVOO4多くの場合中論は、倶舎論の概念を受け継いでいるがたいてい、意味が変わっている2025/10/29 18:52:1920.◆JBLfMwCXhY4bxZd五位七十五法https://assets.st-note.com/img/1722064283952-0OGTkhOZvq.jpg?width=12002025/10/30 05:58:0721.◆JBLfMwCXhYPsbnaまた良いサイトを見つけた仏教メモ24 五位百法https://note.com/ysuie_o/n/n9225d90a86092025/10/30 07:23:58
【親ガチャ】「両親とも高卒で、自分も勉強ができません。結局、学びも『親ガチャ』なのではないでしょうか」。学力と育ちに関係はあるのか考えるニュース速報+8731614.82025/11/03 20:57:02
【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 ←まちがい
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【仏教の煩瑣哲学】阿毘達磨倶舎論【龍樹著】 Part2 ←おちょくり
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中論
https://talk.jp/boards/psy/1738711204
1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃
お釈迦様の教え
2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃
いわゆる小乗仏教、南方で継承される
3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃
部派仏教の時代、最も有力な部派
4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~
説一切有部から分派、世親はここの出身
5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~
空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教
6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~
阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ
7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、
「誰でも成仏できる」という思想
見るものと見られるものが対になり、世界ができている。
アナタが認識しているもの、それが世界のすべてである。
五蘊・十二処・十八界
1、五蘊(ごうん)
・色 物質的な存在(とくに、自分の身体)
・受 感受する作用
・想 表象する作用
・行 意志する作用
・識 認識する作用
→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。
「我」として執着するような実体は無い
2、十二処(じゅうにしょ)
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
六根と六境を合わせて十二処
3、十八界(じゅうはちかい)
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処に六識を加えて十八界
最も有力な「説一切有部」は、存在を「五位七十五法」に分類した
初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」よりだいぶ数が増えた
説一切有部の思想は、後に「倶舎論」としてまとめられた
↓
(1)五位七十五法
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為法、5は無為法
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・ 14種類
色(物質)にも、心(精神)にも分類されないもの
5、無為・・・ 3種類
常住不変な存在 虚空、択滅、非択滅
説一切有部の心所説 ―仏教における心の分析
http://www.horakuji.com/treasures/sarvasthivadin_cetasika.htm
次々にヒットする(笑)
「倶舎論」(説一切有部系):総論
https://ameblo.jp/morfo/entry-10942032500.html
資糧道(資糧位)
加行道(加行位)
見道(通達位)
修道(修習位)
無学道(通達位)
第1ステージ(資糧位)
まずはすべては思考の産物にすぎない(唯識)ことをを理解しましょう。
とはいえ理解することと完全に体得することは別物です。
この段階では世界があって自分がいる(二取)という思考を
潜在的に持っている(随眠)ままです。
修行の第2ステージ(加行位)
すべては思考の産物にすぎないということの理解が進み
これを体得しようという気力に満ちて修行にはげみます。
しかしながら思考のなかにはあいかわらず
自我意識によって生み出された幻への
執着が依然として残っている(有所得)状態です。
修行の第3ステージ(通達位)
修行を重ねていくと思考の対象(所縁)となるものを
理解(智)しようという執着が完全になくなる(無所得)瞬間が訪れます。
このときにはじめて思考する対象も思考する自分もなくなり
すべて思考の産物にすぎないということわりを体感するのです。
修行の第4ステージ(修習位)
先のステージで正しいことわりを体感することができた瞬間は
執着を完全にはなれた(無得)不可思議(不思議)な境地に他なりません。
この瞬間に世俗的な知見とはまるで違う知の地平(出世間智)が開かれてきます。
しかしながらはるか昔からあやまった考えとくもった心を持って生きてきたことの影響が私たちの奥底に習慣化されて根強く残っています。
これらの二種の障害(麁重)をたむまぬ努力の果てに絶やしてしまうとき
私たちの存在のありかたは根本的に変わります(転依)。
修行の第5ステージ(究竟位)
私たちのありかたが根本的にかつ永続的に変わったとき
そこにあるのは迷いなき世界(無漏界)であり
言語を超えた不可思議な世界(不思議)であり
極めて安穏な(善)であり
生滅のことわりを離れて(常)おり
悩むことなく寂静(安楽)なる世界です。
二種の障害のうちくもった心をすべて断ち切って
解脱して自由になった境地(解脱身)を享受するだけでも
平穏な境地に至れるかもしれません。
しかし大乗仏教はあらゆる人々と平穏に生きるためのものですから
正しいことわりを知り尽くして迷える人々を教え導こうと志してください。
それが聖者(大牟尼)のごとく世界に遍在する真理(法)として生きることです。
だそうだ。
https://ryuganji.jp/buddhism/1104/
これも、元ネタは倶舎論だ
「順解脱分」→「順決択分」→「見道」→「修道」→「無学道」の5つです。
この5段階は大乗仏教にも受け継がれ、「五道」と言われます。
大乗では「順解脱分」は「資糧道」、「順決択分」は「加行道」と呼ばれます。
しかし、最初の「順解脱分」の段階で、すでに「戒」、「定」を終えて「観」の段階に入ります。
上座部の「清浄道論」で言えば、「戒清浄」、「心清浄」、「見清浄」、「度疑清浄」までが相当するでしょう。
「順決択分」は「清浄道論」で言えば「道非道智見清浄」、「行道智見清浄」に相当するでしょう。
「修道」の段階は「智見清浄」の後半で、阿羅漢向までに当たります。
「無学道」は阿羅漢果です。
「三転十二行相」で言えば、「見道」が「示転」、「修道」が「勧転」、「無学道」が「証転」に当たります。
https://ameblo.jp/morfo/entry-10942032500.html
説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としています
こう言うのがあった。
勝義諦という言葉はりゅじゅが考えたものだと思っていたが、説一切有部が先だったんですね。知らなかった。
そうなんですわ
中論や唯識論で有名になった理論も
たいてい、元ネタは倶舎論にある
「阿毘達磨倶舎論(以下、倶舎論)」は、4~5世紀に、世親(ヴァズヴァンドゥ)が書いたもので、北伝のアビダルマ論書として最も有名な書の一つです。
例えば、チベット最大のゲルグ派では、僧の多くは「倶舎論」を4年かけて勉強するそうです。
説一切有部の「発智論」「大毘婆沙論」をベースにしながら、それを経量部の立場から批判しながら書きました。
ちなみに世親はその後、大乗仏教の唯識派に転向し、唯識派でも重要な論書を残しています。
原始仏教〜部派仏教
初期仏教では「二諦」という用語は明確には使われていませんが、世俗的な真理と究極的な真理の区別はすでに存在していました。
部派仏教(特に説一切有部など)では、「世俗有」と「勝義有」という区別があり、これは二諦の思想的前提となります。
『大毘婆沙論』などでは、「世間的に通用するもの=世俗諦」「聖者の智慧によって見通されるもの=勝義諦」として整理されています。
🔹竜樹(ナーガールジュナ)
中観派の祖であり、『中論』などで二諦を明確な哲学的枠組みとして提示。
「世俗諦(saṁvṛti-satya)」と「勝義諦(paramārtha-satya)」を区別し、すべての存在は空であるという思想を展開。
竜樹の二諦説は、言語・概念の限界を超えて真理に至る道筋として非常に影響力を持ちました。
中論は、倶舎論の概念を受け継いでいるが
たいてい、意味が変わっている
https://assets.st-note.com/img/1722064283952-0OGTkhOZvq.jpg?width=1200
仏教メモ24 五位百法
https://note.com/ysuie_o/n/n9225d90a8609