You are souls currently traveling between planets in the solar system, and your main body is located in the pelvic region. Repeatedly listening to Bija Mantras can raise your Kundalini, but you won't know how to lower it(⚠) Basically, read Edgar Cayce.
難しい話はここで👍️
前スレ
【唯識三年】仏教ウンチクを語るスレ 9【倶舎八年】
https://talk.jp/boards/psy/1745739943
1、初期仏教 : 紀元前6世紀頃
お釈迦様の教え
2、上座部 (テーラワーダ仏教) : 紀元前5世紀頃
いわゆる小乗仏教、南方で継承される
3、説一切有部 (倶舎論) : 紀元前1世紀頃
部派仏教の時代、最も有力な部派
4、経量部 (倶舎論) : 西暦300年頃~
説一切有部から分派、世親はここの出身
5、中観派 (中論) : 西暦200年頃~
空と縁起の思想、龍樹が始めた大乗仏教
6、瑜伽行派 (唯識論) : 西暦400年頃~
阿頼耶識が登場、大乗二大学派のひとつ
7、如来蔵思想 : 上記の流れとは独自に展開、
「誰でも成仏できる」という思想
奈良仏教の南都六宗になった
南都六宗 <= インド四大学派+α
倶舎宗 ← 説一切有部
成実宗 ← 経量部
三論宗 ← 中観派
法相宗 ← 唯識派
華厳宗 ← 如来蔵思想
律宗 ← 戒律
*前の3つは消滅
現存するのは後の3つの
見るものと見られるものが対になり、世界ができている。
アナタが認識しているもの、それが世界のすべてである。
五蘊・十二処・十八界
1、五蘊(ごうん)
・色 物質的な存在(とくに、自分の身体)
・受 感受する作用
・想 表象する作用
・行 意志する作用
・識 認識する作用
→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。
「我」として執着するような実体は無い
2、十二処(じゅうにしょ)
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
六根と六境を合わせて十二処
3、十八界(じゅうはちかい)
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処に六識を加えて十八界
最も有力な「説一切有部」は、存在を「五位七十五法」に分類した
初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」よりだいぶ数が増えた
説一切有部の思想は、後に「倶舎論」としてまとめられた
↓
(1)五位七十五法
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為法、5は無為法
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・ 14種類
色(物質)にも、心(精神)にも分類されないもの
5、無為・・・ 3種類
常住不変な存在 虚空、択滅、非択滅
名前の通り、「一切は有る」と説く部派だった
(少なくとも、他の部派からはそう見えた)
それに対して中観派は、
実体を持って存在するものなど一切、
認めなかった
「五位七十五法」も認めなかった
中観派は「空」の思想を唱えた
中観派の創始者である龍樹は『中論』
などの著作により、「空」の理論を大成した
空と中観は大乗仏教の基礎理論であり、
龍樹は大乗の第一祖とされる
他の部派からは、「一切は無い」と主張する部派に見えた
中観派は、「虚無主義だ」と言って、仏教思想界から批判された
「有」の説一切有部と、「無」の中観派
この2つを統合し、止揚する(と、本人たちは主張した)学派が現れた
「物質世界は存在しない。(広義の)意識だけが存在する」
と説く、唯識派の登場だ
心の分析が細かくなり、五位百法に増えた
「物質は意識から生じる」とされたため、
色法(物質的存在)を後回しにして、
心法(精神的存在)を先に持ってきた
↓
五位百法
① 心王(表面意識と深層意識)
眼・耳・鼻・舌・身・意の
六識と、マナ識・アーラヤ識の8種。
② 心所(精神的な作用)
51種。
③色(物質的な作用)
眼・耳・鼻・舌・身の五根と、
色・声・香・味・触法の五対境、
および意識のみの対象である法処所摂色11種。
④ 心不相応法(物質でも精神でもないもの)
24種。
⑤無為法(はたらきを起こすことがないもの)
虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如
6種。
要点1
私たちは「自分」や「もの」が存在していると考えているが、あるのはただ心の働きだけで、「自分」や「もの」は存在しないと考えるのが唯識思想。
要点2
「自分」や「もの」への執着を捨てることで、他者との対立やお金、地位への執着から生じる苦から解放される。
要点3
物事の全ては心の深層にある阿頼耶識から生じる。善業によって阿頼耶識は清められ、悪業によって濁る。阿頼耶識が濁ればその人の世界も汚れて暗くなる。善い行いをすることは自身の世界を清め、自分のためにもなる。
∞ノノハ∞
川^〇^ハレえっ!www
前スレのJBLたんのレス「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」なるほど~って読んでましたwww
もしかしてそれもwww
川^〇^ハレなんでだろうトリバレした👀
まぁ~いっかwww
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」
この言葉は、もともと中国曹洞宗の流れの中でも最も重要な存在の一人である薬山禅師(745~828年)と弟子との問答から採った言葉です。
薬山弘道大師、坐次、有僧問
僧問、「兀兀地思量什麼」
師云、「思量箇不思量底」
僧云、「不思量底如何思量」
師云、「非思量」
薬山弘道大師が坐するおり、ある僧が問う
僧問、「兀兀地(ごつごつち)に什麼(なに)をか思量す」
師云、「箇の不思量底を思量す」
僧云、「不思量底、如何(いかん)が思量せん」
師云、「思量にあらず」(思量ではない)。
「どっかと坐って、なにを思量するのですか」
「不思量を思量するのだ」
「不思量をどのように思量するのですか」
「非思量」
「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」
唯識論を知らないと、理解できない
唯識論は必須教養だ👍️
理論肌だから有効性高いな
臨濟宗は野蛮だからなー
臨濟宗新システムを仕事中で完成させ
今、曹洞宗寺院で作務をしながら
仏教らしい呼吸法の観点を
伝授してもらった
今、勤行終わった
😀
ここで唯識思想を通して「思量」を考えてみたいと思います。唯識ではこの世のすべてを心(=識)の現れであるとします。その根本の心が「アラヤ識(阿頼耶識)」ですが、アラヤ識とは永遠の過去から衆生が行ってきた業(カルマ)のデータが収められている宇宙的なクラウドのようなものです。
そのアラヤ識(根本識)が展開されたものとして、唯識は、さらに識を大きく3つに分け、計4つ(細かくは8つ)の識に分類しています。
①アラヤ識・②マナ識・③意識・④前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)
この中で③「意識」は思考や概念の働きを意味します(いわゆる「眼耳鼻舌身意」の「意」の働きです)。「意識」は一般的な意味での意識(consciousness)とは厳密には違いますが、大きな意味で顕在意識のようなものと考えても良いかと思います。
つまり「思量」とは、思考や顕在意識のレベルだけではなく、潜在意識レベルの自我意識(「我」という意識)の意味を含むものとして捉えることができます。
もちろん「マナ」とは「マナス」=「思考」という意味からきているので、「思考」の意味にも取れるのですが、「マナ識」はただの思考作用のことではありません。それは業のデータの集合体に過ぎないアラヤ識を実体視し、「我」(私)だと勘違いし続ける、つまり深層レベルで思い込み続ける根深い心の作用です。そのことが「我見」や「我愛」などの煩悩を生み出すことになります。
なので、この「マナ識」による勘違いを正さなければ人間は苦しみから逃れることはできません。仏教はそもそも根本的な苦しみからの脱却を目指していますから、当然、坐禅はその技法になります。問題なのは「考えること」(=「意識」)なのではなく(人間だから考えるのは当たり前です)、「意識」に深層レベルで影響を与え続ける「マナ識」の存在です。
だから道元禅師は「意根を坐断せよ」と言います(「意根」とは「意」の根ですから、「意識」のことではなく、その根っこに当たる「マナ識」のことです)。「意根」=「マナ識」が間違った活動を続けるかぎり、その影響下にある「意識」は本来の正しい思考(正思惟)をすることができない、つまり世界を正しく認識することができないのです。
へえ
曹洞宗の寺院で、呼吸法を伝授されたのか😄
まず弟子の最初の問いです。この言葉は坐禅の要術としての引用には含まれていませんが、重要な言葉なので考えてみます。
「兀兀地」は、山のごとく坐定している、つまり「坐禅三昧の時」(サマーディ)という意味です。「什麼」は「何」という意味ですが、この「什麼」というのはただの疑問形ではなく、「什麼」=「何」としか言えない、つまり思考や概念では定義付けできない現実を表しています(禅では、言葉では表しようもない事実を疑問形の言葉を使って表現したりします)。
したがって「兀兀地 思量什麼」は「坐禅三昧の時、思量(「我」という意識)は”何もの”とも言えない存在となっている」と読むことができます。
つまり弟子の問いは最初からかなり真実をついたことを言っていることになります。
それに対する薬山禅師の答えです。
ここで「不思量」というワードが出てきます。「不思量底」とは、「我」とは言えない、「我」を超えた縁起的世界、つまり実相(=万法)のことです。
「箇」とは「ただひとつ」という意味なので、「箇不思量底」とは一心(ワンネス)と言ってもいいと思います。「一心一切法、一切法一心」の一心です。「現成公案」巻ではそのことを「万法ともにわれにあらざる時節」と表現されています。
ちなみに「万法」はよく森羅万象などと訳されることもありますが、決して自分の外側に広がっている空間的な個物の集合などではありません。そうではなく、すべてが縁起によって現れている、無自性(=無我)の活動体のことであり、それは分離できないひとつの存在(一心)です。
また「箇」とは「今、ここ」という事実も指しています。だから自身の心身の働きそのものを差し置いて外側に世界を措定することはできません。自他を超えた「今、ここ」の働きすべてが無我であり、ひとつであるということです。ですが、日常の意識では、そうは感じられません。それは「マナ識」という自我意識の働きが根底にあるからです。だから自我意識としての「我」を忘じる必要があります。そのために坐禅があります。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするる也。自己をわするるといふは、万法に証せらるる也」
この一節に即していうならば、坐禅三昧によって自己(思量)を忘じ、万法(不思量底)に証せられることが、「思量箇不思量底」の意味と取ることができます。
ただ、自己(思量)を忘じたからといって、自己が万法(不思量底)の中に溶けて消え去ってしまうわけではありません。そのことが次の弟子の問いで示されます。
「不思量底如何思量」
2つ目の弟子の問いですが、これもただの疑問ではありません。「如何が思量せん」と訓読みしているところは、そのまま「如何思量」と読みます。ここでも「如何」とは先の「什麼」と同じく、言葉や概念を超えた実際を表しています。特に「如」という文字が入っていますから、「如来」や「如是」などと同様に強い言葉です。つまり「如何思量」とは「如何」というしかない自己(思量)ということです。これは単なる自我意識としての我(=思量)ではありません。自我意識としての我(=思量)から、万法に証せられた自己(=如何思量)へと自己が変容していることを意味しています。
自我意識としての我(=思量)による認識では、「我」と「世界」は必ず対立しています。しかし、万法に証せられた自己(=如何思量)にはもはや対立はありません。自己が万法であり、万法が自己であるからです。
倶舎論(阿毘達磨倶舎論)や中論(根本中頌)という論書はあるけど、唯識論という論書はない。
また、倶舎論は説一切有部やその論書ではないし法相宗の附宗、成実宗は倶舎論が典拠ではなくて三論宗の附宗。
他にもデタラメだらけだし、話になりませんね。
わかった、わかった
お前は偉い!!(笑)
「非思量」
ただの「思量」でもなければ「不思量」でもなく「非思量」です。
ですが、先ほど「思量(自己)は仏性そのものであるし、不思量(万法)も仏性の生きた姿そのものである」と書いたように、「思量」(自己)でもあり「不思量」(万法)でもあるのが「非思量」です。つまり「非思量」は仏性と言っていいと思います。仏性はブッダ(目覚めた者)の性質ですが、ここでは目覚めの意識そのものと捉えておきます。
「いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりともいへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。」(同上)
訳:薬山禅師の言われる「非思量」のはたらきは、透き通る玉のように自然に誰もが本来、親しく使っているものなのだと言えるとしても、不思量底という実相を思量(=参究)するには、必ず「非思量」を用いるのだ。
> また、倶舎論は説一切有部やその論書ではないし法相宗の附宗、成実宗は倶舎論が典拠ではなくて三論宗の附宗。
おいおい、「倶舎論」と「倶舎宗」が途中からゴッチャになってるぞ(笑)
お前の頭じゃ、ツッコミ芸人は無理だ
おとなしく、ボケに徹しろ😂
それと意識の意根が末那識って事だから。
それと、殆どコピペみたいだし、引用先のリンクくらい貼っとけ😗
なんもおかしくないのも分からないなら、知ったかぶりするなよ。
俺に指摘されて恥をかくだけだぞw
> 道元さんがそこで引用している「思量」と瑜伽行唯識学派で云うそれは意味が別物だから😧
だから、道元のいう「思量」という禅宗用語の背景には、唯識論の末那識(=思量識)がある、というのが、この話のテーマだろ
お前には「読解力」ってものが欠けている
そこが致命的な弱点だ(笑)
恥なんかかくわけねえだろ
お前の支離滅裂な指摘など、当方以外の誰にも理解できん(笑)
https://note.com/skandhas_saito/n/n3c612be1e44f
「思量」について
五蘊(Ryohei Saito)
臨濟宗系統は
ガチっとした呼吸法を
定式化してないので
曹洞宗関連は
呼吸法というか感覚が割合ガチっと
形があるので
まーまー
😀
ネルケの言ってる感覚を
ちょいマジメに呼吸する感じかも
😀
仕事日は
案外、そこからの応用はスイスイと出てこなかった
メンタル疲労感があるんだろうな
呼吸法ガードでガチガチにキメながら私用をこなしたからなー今朝から
😀
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ほら、また勝手に後付けストレートをwww
>>35
wwwwwwwwwwwwwwwwww
ほら、また勝手に後付けストーリーをwww😂🤪
> 恥なんかかくわけねえだろ
wwwwwwwwwwwwwwwwww
だったら 恥を知れ よ🫵🤣
恥だよ、恥!
https://youtu.be/OgqTA01Nzbw?si=_7kI0cxcEwAvlecu
https://youtu.be/6OuR-1253zs?si=N8nSlFTprg_kxb51
他のスレばかり埋めてるせいだ
今日の禅寺修行ゲットの余波で
少しキリスト教について
模索したくなった
😀
来週からは
川崎薬師寺動画学習の鬼っ‼️
😀
時短だ
薬師寺だから
大丈夫だろう
😀
(清少納言『枕草子』120段)
あと京都に法相宗の
新長谷寺があったらしい
廃仏毀釈で法相宗はボコボコにやられたので
新長谷寺の観音は
明治以降
天台宗の真如堂の伽藍に入った
😀
もとは法相宗なんだよな~
倶舎論は仏教の存在論や実践論の基礎を説くのに対し、唯識論は、世界は自己の心、すなわち「識」が作り出したものだとし、深層心理学的な側面を持つとされます。
考え方:
認識されている世界のすべては、自己の心、すなわち「識」が作り出したものであるという思想です。一切はただ「識」のみであるとします。
背景:
弥勒菩薩、無著菩薩、世親菩薩(伐蘇畔度菩薩)らによって大成された、インドの大乗仏教における「瑜伽行唯識学派」に由来します。
特徴:
現代社会で「より良く生きる知恵」としても捉えられ、仏教の深層心理学とも言われます。
考え方:
「説一切有部」という学派の思想を標準とし、仏教の存在論や実践論を体系的にまとめたものです。
背景:
古くから仏教学の基礎的な綱要書として重んじられ、この倶舎論を拠点とする「倶舎宗」が成り立ちました。
特徴:
仏教の基礎的な考え方や、存在の構成要素である「ダルマ(法)」に関する議論などが説かれています。
倶舎論:
存在は構成要素から成るが、それ自体に実体はないと考える、仏教の基礎を体系的に説いたもの。
唯識論:
存在はすべて自己の心(識)が生み出したものであるとする、心理的な側面を持つ思想。
この二つの教えは、仏教の理解を深める上で異なる角度からアプローチしており、それぞれが仏教哲学に重要な役割を果たしています。
基礎があると把握早い
😀
ま、テーラワーダの瞑想の本を理解
それなりに禅定てきるので
理解早い 😀
唯識論では、外界は実在していない
やっぱり、こういうのは
瞑想しないと理解できないな~😄
瞑想してないと
法相宗倶舎論をやるか、
それは
唯識の構造にある
識のみは
ゴールの円成実性=無為
のスタンスがメイン
仮として設定している
依他起性=有為を倶舎論の位置に扱っているという構造で
倶舎論をやるのだろうな
😀
構成要素の
有を
唯識学ぶ依他起性で
仮に
なる
識のみの設定なので
構成要素の有では
ダメだから
😀
高野山の成福院のビルマ仏像拝むだけで
自動的に聖者の生滅智にはいる
存在が生滅を理解する智慧、
構成要素というくらいに皮膚に
粒子感覚があるよ
むろん、預流果程度で
俺はアラカンレベルじゃないけど
😀
確かに、そこが鍵でしょうな
倶舎論でいう「世界の構成要素」を、
空であり仮であるとしたのが唯識論
だいぶみえてきた
唯識は金曜日夜から唯識初歩だ
😀
元コマがいる
コーン🤡様には
ハジくらいのムイムイよりも
ソフト対応だ
😀
ふわふわとソフト対応路線で楽しもう
😀
マジメに見よう
😀
これは貴重ですな😄
じつは、理論な部と修道の部が半分ずつを占めている
倶舎論は之を界、根、世間、業、随眠、賢聖、智、定、破我の九品に分つ。界根二品に於
て七十五法論と因果論とを記し、世業随の三品に於て輪廻論を、賢智定の三品に於て解脱
論を述す。七十五法論と因果論とは本書の総論にして、輪廻論と解脱論とは各論なり。又
前者は哲学的方面にして、後者は宗教的方面なり。而して破我品は実に此が結論と見るべ
き者なり。
最初の二章について、普光は、右図に示したように説明しながらも、また、界品が諸法の体を明かすとは「多分に従って」いうのであってそれが用を明かす点もあると認められるし、根品が諸法の用を明かすとはやはり「多分に従って」いうのであってそれが体を明かす点もあると認められる、と述べている。
ヴァスバンドゥは、この「界」「根」二章をもっていわゆる「法の理論」、すなわち五位七十五法の体系とそれら諸法の生滅・因果の原理とを明かそうとするのであり、それが『論』の第一部いわば「原理論」として、第三章以下の「実践論」と呼ぶべきものの、基礎になる。
第三―第五章は、『論』の第二部として、有漏、すなわち迷いの生存の種々想とそれをもたらす因由、を解説し、第六―第八章は、同じく第三部として、無漏、すなわち迷いを離れて悟りに至る道程とそれに伴う智や徳、について解説する。
第二部・第三部をあわせてそれを「実践論」と考えることができるが、それは第一部「原理論」によって支えられている、あるいは裏づけられている、と見るべきである。
六因(能作因・倶有因・相応因・同類因・遍行因・異熟因)
四縁(増上縁・等無間縁・所縁縁・因縁
五果(増上果・士用果・等流果・異熟果・離繋果)
四縁は間接的な原因
五果は結果だ
「どの因により、どの果が生じるか」
という組み合わせが決まっている
コンピュータ内ということはつまり、プログラミングで出来ているということ
プログラミングとは何か?
「このように入力したら、このように出力される」
という、「入力と出力の法則」の膨大な体系だ
それを究明したのが、古代インド哲学における
「原因と結果の法則」だとも言える
「このようにインプットする → そのようにアウトプットされる」
その繰り返しで出来ている
1、能作因・・・普通に考える「原因」に最も近い
2、倶有因・・・同時に、お互いに原因であり結果でもある相互関係
3、同類因・・・善因善果、悪因悪果。原因と結果の性質が同じ
4、相応因・・・倶有因の一種
5、遍行因・・・同類因の一種
6、異熟因・・・善因楽果、悪因苦果。原因と結果の性質が異なる
「善いことをすれば、善い処に生まれて幸せになれます😇」
「悪いことをすれば、悪い処に生まれて苦しみます👿」
こういう、インド古来からの信仰
これを哲学的に説明しようと思ったら、かなり難しい
なぜ、善という原因から、楽という結果が生じるのか。
なぜ、悪という原因から、苦という結果が生じるのか。
これに論理的な整合性はあるのか?
原因と結果が、同じタイプだからな
こういうのを、倶舎論では
「同類因 → 等流果」
という
問題は、なんと言っても「異熟因」だ
「善いことをすれば、後で幸せになる」
「悪いことをすれば、後で苦しむ」
という、「ホントかよ?」とつい疑ってしまう因果関係
こういうのを、倶舎論では
「異熟因 → 異熟果」
という
原因と結果が異なるタイプの因果関係だ
道を修めて得た汚れがない智慧(無漏智)によって、煩悩を減したところに顕れるもので、涅槃のことです。
他の四つの果に対して、離繋果のみに、因と縁とがありません。
「善いことをすれば、善い処に生まれて幸せになれます😇」
「悪いことをすれば、悪い処に生まれて苦しみます👿」
こういう、インド古来からの信仰
なぜ、善という原因から、楽という結果が生じるのか。
なぜ、悪という原因から、苦という結果が生じるのか。
これに論理的な整合性はあるのか?
「悪いことをすれば、後で苦しむ」
思わず「ホントかよ?」と、疑ってしまうような因果関係だ
「異熟因 → 異熟果」
という
「原因と結果の法則」にこれほどコダワるのか?
「悪いことをすれば、後で苦しむ」
「無明が原因で、輪廻が生じる」
「輪廻が原因で、苦が生じる」
こういう、「なんで、そ~なるの?」と、つい疑ってしまうような因果関係を説明するためだ
仕事をサボれば、クビになる
マメに尽くせば、女にモテる
無数の原因と、無数の結果が絡みあっている
「原因と結果の法則」から離れることが可能だ
それが、「離繋果」(りげか)だ
道を修めて得た汚れがない智慧(無漏智)によって、煩悩を減したところに顕れるもので、涅槃のことです。
自分を繋ぐ(つなぐ)もの、煩悩から、離れた結果、得られたものだからです。
他の四つの果に対して、離繋果のみに、因と縁とがありません。
話は変わるが
2チャンネルで
大暴れしていた
セッタンの音声が上がっているな
https://m.youtube.com/watch?v=oTII-o-r_l0
修道とは
煩悩を一つずつ
サッサッと2回消す
なかなか
臨濟宗肌では気づかない
いい説明で
かなりのインスピレーションがでた
特に臨濟宗以外の
佐々木先生の
サッサッと2回消すと
2チャンネル暴れん坊坊主、セッタンの
音声動画の声を聴いて
臨濟宗以外の多くの瞑想仏教の理解が深まった
😀
セッタンは
レスが見事な時があったが
なかなか音声動画も声感と雰囲気は
イケている坊主だな?
😀
佐々木先生の
倶舎論だ
😀
セッタンの音声で
道元禅師の世界の理解が
かなり深まった
😀
声感で
なかなかの禅定センスがある
😀
なかなかの道元禅師の押さえが効いているな
ネルケと曹洞宗のツートップだな
😀
臨濟宗の名手は
二つはある😀
原田雪渓より
上手だ
と思う
😆
素晴らしいな?😄
佐々木先生の倶舎論と
フュージョンさせると
悟れる?
😆😆😆😆
語り口調は似ているが
禅定の迫力感が
違いがでるな
https://m.youtube.com/watch?v=STgwuzcfB3c&pp=0gcJCfwJAYcqIYzv
弟子なのか!
知らんかったわ
甲賀さんも
80歳過ぎれば
雪駄んみたくなろうて
デンパパ📶の意見に
期待ゼロ
🛸
デンパパ📶のダメダメポイントを理解したわ
理論的に
😆
https://youtu.be/__4SmEf5bZA?si=RvR-J9Ra9ZHZ5TyY
参考: 『仏教は宇宙をどう見たか。』
・『倶舎論』ではこの世が物質、精神、エネルギーの三種の範疇に分けられており、基本的にはこの三種の相互作用でこの世のあらゆる現象が説明できるとしている。→『倶舎論』では三元論が採られている
・しかし、それら三元論には含まれない、更に別枠の法があるとされてもいる。
・キリスト教やイスラム教ではそれらは彼らにとっての「神」であり、大乗仏教の密教における大日如来などもそういった存在だろう。
・しかし、『倶舎論」では「この世に超越的な絶対存在などいない」というのが大前提である
・では『倶舎論』がいう別枠の法とは一体何かというと、それは「特別な働きをする超越的な神秘存在」とは真逆で、「絶対にいかなる作用もしないことが確定している存在」である。
・例えば、仏道修行を完成して悟りを開いた者の精神内部における静謐さ。
・このように煩悩の喧噪が完全に静まっており、再び起ってくる可能性も断ち切られている状態は「択滅(ちゃくめつ)」と呼ばれ、一個の独立した法として扱われる(「涅槃 」と同義)。
択滅は物質でも精神でもエネルギーでもなくいかなる作用にも関わらない不活性な存在である。
このように、『倶舎論』ではこの世を「作用する可能性がない法」と「作用する可能性を持つ法」の二つに分け、前者を「無為法」、後者を「有為法」と呼んでいる。→無為法と有為法
この世の大方は有為法で形成され、有為法の変容によって動いており、一見したところでは有為法しかないように思えるのだが、この世をよくよく見れば「絶対に作用しない存在」として無為法があることに気がつくというわけなのだ。
・ 有為法は72の法で構成されており、物質(色)、精神(心・心所)、エネルギー(心不相応行) の三範疇に分けられる(→作用の可能性を持つ実在要素~有為法~)。
・無為法は「択滅」と「非択滅」と「虚空」の3つで構成される(→いかなる作用もしない実在要素~無為法~)。
・これらを合わせて「七十五法」という(→これが法のすべて~五位七十五法~)。
・『倶舎論』ではこの世が物質、精神、エネルギーの三種の範疇に分けられており、基本的にはこの三種の相互作用でこの世のあらゆる現象が説明できるとしている。→『倶舎論』では三元論が採られている
・では『倶舎論』がいう別枠の法とは一体何かというと、それは「特別な働きをする超越的な神秘存在」とは真逆で、「絶対にいかなる作用もしないことが確定している存在」である。
・例えば、仏道修行を完成して悟りを開いた者の精神内部における静謐さ。
・このように煩悩の喧噪が完全に静まっており、再び起ってくる可能性も断ち切られている状態は「択滅(ちゃくめつ)」と呼ばれ、一個の独立した法として扱われる(「涅槃 」と同義)。
択滅は物質でも精神でもエネルギーでもなくいかなる作用にも関わらない不活性な存在である。
・この世の大方は有為法で形成され、有為法の変容によって動いており、一見したところでは有為法しかないように思えるのだが、この世をよくよく見れば「絶対に作用しない存在」として無為法があることに気がつくというわけなのだ。
・無為法は「択滅」と「非択滅」と「虚空」の3つで構成される(→いかなる作用もしない実在要素~無為法~)。
唯識は依他起性の究極がそれ
その上に
唯識が四智があり
自分と他者の境目がない
仏の智慧のゾーンがある
それが
識のみが
完成した
識→智慧
に転換した場所
構造的に説明できる
コピペじゃないぞ俺はアタマいいー
😆
倶舎論では、そこに大きく踏み込んだ
初期仏教からの変化だ
「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」
「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」
そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。
「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである。」
(サンユッタ・ニカーヤ 22:97)
当たり前と言えばあたりまえだが、しかし、「存在するけども場所は持たない」という思考はかなり抽象性が高い。
佐々木 閑. 仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観
あくまで
この世には、ってことだろうね
涅槃、ニルバーナの後のことは
語っても解らないからって語らなかった
たら
さらに唯識に関する修行を極めた
😆
ま、とある場所に財布はあったが
😆
倶舎論
でいう
「無想定」で
なんちゃってわかった気になってる
八宗綱要のよると
無想定は
外道が無想果を得ようとして習得する無心定
それは
無為法ではなく、
不相応行法の14のあるうちの一つで
わかった気になってる
デンパパ📶
理論武装完備だな
😆😆😆😆😆
論理的に解説できるよーになる
😆
レス決めた
ハジ子スレやコーン🤡スレなら泳がしてやるが
😆
唯識や倶舎論ナメ過ぎ
😆
とても論理的には
優れモノだ
😆
つまらなさそーな
法相宗に含まれる
ディグナーガと
ダルマキールティあたりの
模索だな
😆
修正
😆
そーね。ただ唯識見てて思ったのは空の理解が徹底されてない印象。
読み始めて最初に末那識や阿頼耶識に疑問が浮かんだのは無関係ではなかった。
んで倶舎論が論理的ってのもそうだと思うよ。
ほーさんは専門用語身につけるには有用だが二元から離れるには倶舎論に囚われすぎないほうがいいかもしれんと言ってる理由だーね
ま
関心薄いんだから
無理するな😆
消すべきものがわからん場合も
倶舎論は想定しているから
😆
大方の煩悩は消えるらしいで
ま、気づく自体が無理難題だろうけどな
😆
😆
煩悩そのものに良いも悪いもないよ。
同様に思考はなくすものとか分別は良くないものとかそれも偏った視点でしかない。
倶舎論に消すべきものが書いてあるなら凡夫への言葉なんじゃないかな?
不要な物は現れなくなるだけよ
気づく必要がない人には
そんなもの😆
キモの理解は
とても謎だったが倶舎論契機に
色々修行ができたわー
娯楽としての正統派仏教瞑想で
仕事日のシステムとは別だ
😆
ロンが言っている内容に
ターボで加速感だ
😆
多くの正統派瞑想仏教のキモが
意外に知らないことがあった
と再発見した
それらは
俺の仕事の日々とは無関係過ぎるからなー
😆
ムイムイや、コーン🤡に
論理的アタックは仕掛けなくても良い感性でコミュニケーション取っているのがメインであった
😆
何で
九次第禅定の
第四禅定を
述べないんだ⁉️
知ってるはずだろ?
無想定とどう違うか?
ってことだな
外道が無想定で
仏教が色界第四禅定だ
何が違うかってことですよ‼️
認識がダメなので
何を主張しても
無想定の範囲内
😆
> 煩悩そのものに良いも悪いもないよ。
> 不要な物は現れなくなるだけよ
禅宗だと、そんな感じになるんだろうけど
倶舎論では、善の心所、不善の心所、無記の心所を細かく分類している
何が無記なのか
そのあたりを明確にしている
禅天魔防止測定装置であるな
😆
テーラワーダ風実況中継サービスするのは
倶舎論の構造そのものである
😆
今朝の発見マスターした間合いで線香立てて
草取り終えた
ちょい暑いくらい
大汗はかかない
アイスノン不要
😆
八宗綱要によると
我空法有
らしい
成実論や唯識、三論宗だと
我空法空だろう
😆
そうなるな
八宗綱要では
小乗だが
一番大乗仏教に、近いと
いう評価だ
😆
チラ読みした
😆
線香立ては
最新の倶舎論発祥?
の空理解の深化?
のパワーアップヒラメキで
ご機嫌だ
😆
なるほど、そうなのか~😆
倶舎論で、作務もパワーアップですな~😆
消すのテクニックが上がった
臨濟宗では
そんなの用無しだ
😆
ディグナーガは
やはり、依他起性研究の修道論手法の為にあるようだ
インド人と
中国日本との違いだな
些末でやるのがインド人
一騎呵成にまとめてやるのが中国人
ヒンズーぽい絶対的仏のイメージでやるのが日本人の山伏念仏神仏習合
😆
だからさ
第四禅定は分かってるのかって
訊いてるの
外道ということだ
アキラメロン🛸
デンパパ📶の目線に合わせたレスできる
倶舎論はべんりだな
😆
倶舎論、唯識だ
😆
デンパパ📶襲撃〜🛸🛸🛸🛸🛸
ぐらいしかレスができない
😆
倶舎論や依他起性の論理的な修道論研究が
大好きだ
😆
倶舎論や依他起性の修道論の概念=禅だと
思い込んでいた😆
そして、その注釈書である『大毘婆沙論』
この2つが、説一切有部の根本典籍
これらをまとめたのが、アビダルマ倶舎論
https://assets.st-note.com/img/1722064283952-0OGTkhOZvq.jpg?width=1200
禅は究極を一点だから
唯識の究極の一点とイコールにするならまだしも、
禅の究極と唯識の究極は同一ではないが
唯識の修道論の倶舎論範疇の依他起性、無為法の用語が
禅の究極とイコールだと
みたいな イミフなレスばかりしていた
俺は倶舎論を解析していなかったから、
どうせ、デタラメだろうと
無視していた
😆
有為法が、それに至る修道論プロセスとなっている
むろん、無為法は
唯識の究極ではない
依他起性である
😆
「五位七十五法に、サマディなんかありません(笑)」
と、自信満々に断言してたのを思い出す
月を見ずに、指を見る
いつの世、どこの世界にも、ひとが指で月をさし示すとき、月を見ないで、指を見る愚かものがいる。ブッダが無我の真理を示すため「五蘊」の教義を説いたとき、弟子のなかには無我を見ないで、五蘊に関心を払った愚かものがいた。
かれらは「六根」についても考えた。「根」に対応する「境」(感覚対象)を論じ、色(色・形)、声(音声)、香(香り)、味(味)、触(硬軟)、法(思考内容)の「六境」をたてた。われわれには識覚がある。これは感覚器官(根)や感覚対象(境)とは別のものだ。だから、存在を総括するのに、「六識」(六つの識覚)、すなわち眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識をたて、「六根」と「六境」と「六識」を含せて、「十八界」の体系をつくった。(p50)
「空と無我」定方晟/講談社現代新書
「五蘊」や「六根」はもともと人間の構成要素として説かれた。それは人間に我がないことを示すための教義であった。しかし、そのことを忘れたひとたちは、五蘊を人間の構成要素としてだけでなく、外界を含めた存在の構成要素として論じはじめた。
こうして色の概念に変化が生じた。それはいまや肉体を意味せず、物質を意味することになった。五蘊は人間の構成要素を意味するのではなく、世界の構成要素を意味するものとなった。
そして、かれらはこの構成要素を「法」(dharma)という言葉で呼んだ。(p51-52)
「空と無我」定方晟/講談社現代新書
五蘊を十八界という形で説明する方法もあるが、説一切有部では、五蘊を全く違う形で、非常に細かく組み替えて説明する。それが五位七十五法である。まず大きく無為法と有為法の二つに分ける。
無為法:生滅変化を超えた常住絶対なもの
有為法:原因・条件によって生滅する事物
虚空無為
物の存在する場としての空間を指す。虚空とは、あらゆる物体や存在の基盤となる空間のことで、変化や条件に依存せず、恒常的であるとされる。
択滅無為
智慧によって煩悩を消滅させる状態を指す。智慧を通じて煩悩(心を乱す負の感情や欲望)を選択的に消し去ることによって得られる安定した状態である。
非択滅無為
智慧によらずに煩悩が自然に消滅する状態を指す。特別な努力や修行なしに煩悩が消えることを意味し、自然発生的な心の清浄化が強調される。
ディグナーガの論理学は
それの修道論と言ってと過言ではないだろう
インド人は
段階的な修道論が好きだ
禅はそれを嫌うから
論理学には走らない
バカコーン🤡ぐらいだ
😆
それらを混ぜ合わせて
バカになってしまった
寝落ち坐禅と
ともに
😆
これにはすべての事象が含まれます。
たとえば、物質的存在や、肉体、精神・心といったあらゆるものです。
各々がその独自の特性を持ち、また混乱せずに秩序立って存在しています。この独自の特性を「任持自性」と呼びます。
個々の現象が心に捉えられることを「軌生物解」と表します。
これに対して、小乘仏教では物質的なものが先に存在(心外境を認め)し、そこから心や心の働きが生じると考えられます。
大乗ではこれを逆転させ、心とその働き、そして物質的存在という順序で認識します。
小乗仏教(アビダルマ):色 → 心 → 心所
大乗仏教(唯識):心王 → 心所 → 色
五位の並べ方に大きな違いがある
唯識論では、心法(精神的存在)を五位の最初に置く
唯識と倶舎論の禅定の感覚をかなり
詰めていた
故に前回の休日は
インド仏教研究を休止やった
😆
心法
心所有法
色法
心不相応行法
心そのものの働きや状態を指す。心法には、感覚や思考、意識など、心のすべての活動が含まれる。
心とともに働く心の活動や状態を指す。心所有法はさらに詳細に分類される。
遍大地法(受、想、思など)
大善地法(信、勤など)
大煩悩地法(忿、覆など)
大不善地法(貪、瞋など)
小煩悩地法(放逸、懈怠など)
不定地法
物質的なものを指す。色法には、感覚器官(眼根、耳根など)や感覚対象(色境、声境など)が含まれる。
心に伴わないものを指す。心不相応行法には、生命の持続や名身、句身、文身など、心と直接関連しない活動や状態が含まれる。
これらの有為法は、変化や条件に依存して生滅する事物を示しており、仏教哲学における重要な分類である。
禅は用語を使わず
如実知見を直行便プラス色々
というわけだな
だから
唯識や倶舎論の些末な概念に用がなかった
😆
有為法とかで
如実知見の完成の為の
通行ガイドなわけ
ブイブイやハジのやってるのは論外
通行ガイドすらない
😆
こうして「法の研究」(アビダルマ)がはじまった。これをもっとも組織的におこなったのが小乗二十部のなかの「説一切有部」(略して「有部」)という学派である。
ヴァスミトラは法を五つのグループ、すなわち「色法」「心法」「心所法」「心不相応行法」「無為法」の五法に分類する画期的な方法を考えだした。これが有名な「五位の分類」である。
あらゆる存在が、この分類にしたがって、整理しなおされた。かつての色蘊は色法となり、肉体のほかに外界の物質(色・声・香・味・触)をふくむものになった。かつての受蘊と想蘊は「心所法」のうちに位置を占めることになった。かつての行蘊は「心所法」の四十四項と「心不相応行法」の十四項に分かれた。(p52)
「法」は多義語である。「仏法」というときの「法」は「教え」あるいは「真理」を意味する。「十二処」の一つである「法」は「思考内容」を意味する。しかし、有部においていまや「法」に新しい意味が生じた。この「法」を現代語に訳すのはじつは難しい。「構成要素」「範疇」「もの」「存在」などの訳語のあいだで迷う。
18道とかいうから
関連あるやろな
😆
法は恒常不変である
仏教の基本的な教義に「諸行無常」がある。「法体恒有」の思想はこの教義とは矛盾しないだろうか。この矛盾を回避するものにかれらの「刹那滅」の思想がある。それによれば、法は三世にわたって恒存するが、現在という舞台においては瞬間的に消滅する。そして多数の類似の法が継続して生滅することにより、ものが継続的に存在してみえる。(p55)
こうして有部教徒は構成要素としての法を実体視するにいたった。もともと要素の考えは無我を説明するためのものであった。かれらはこのことを忘れたようであるが、仏教の根本的な教義が無我であることだけは忘れなかった。(p56)
「空と無我」定方晟/講談社現代新書
迷いなるもの、限界づけられたもの、とみなして、その限界を超えなければならない、というのが、インド仏教で、
いやいや、そのシステムは、もとから完成されている、六根、五蘊というシステムは素晴らしい、何でもできる、何でも解決できる能力を持っているじゃないか、とみなしたのが、中国仏教なんでしょうね。。
それが、本覚思想というか、如来像系の教え、あるいは、華厳の悟りなんでしょう。。
倶舎論や唯識も道元禅師も
分かりやすくなった
😆
なかなか役にたったよ
破壊系統の路線に生きてると
なかなか空とか
見ないからなー
😆
全くみる価値すらないけどな
😆
なるほど
すべて、つながっているんだな~😄
別ゾーンのようだ😆
コーン🤡みたいなバカになる
😆
自分は普遍的絶対的と
思っているな?
😆
😆
https://talk.jp/boards/psy/1711199131
昨日から埋め始めた😆
〇倶舎論の六因五果
(原因と結果の対応関係)
(六因) → (五果)
・能作因 → 増上果
・倶有因 → 士用果
・相応因 → 士用果
・同類因 → 等流果
・遍行因 → 等流果
・異熟因 → 異熟果
・該当無し → 離繋果
「種をまけば、稲が育って、米が取れる」
というような
最も普通の因果関係
「お互いに寄りかかって立っている」
というような
同時に、お互いが原因でもあり、結果でもある相互依存関係
「倶有因→士用果」の一種
心法と心所法の関係に特化した同時相互関係
(倶舎論では、心法と心所法は必ず同時に生起・消滅し、対象を共有する関係にある)
「善因善果、悪因悪果」のように
原因と結果が同じようなタイプの因果関係
(善いことをすれば、善くなる。悪いことをすれば、悪くなる)
「同類因→ 等流果」の一種
「善因善果、悪因悪果」のように
原因と結果が同じようなタイプの因果関係だ
五位百法の「遍行」に特化した因果関係
遍行の煩悩(無明・疑・有身見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見)が同類の煩悩や煩悩的な法体を引き起こす
問題は、これだ😫
「善因楽果、悪因苦果」というような
原因と結果のタイプが異なる因果関係
「善いことをすれば、来世で幸せになります😇」
「悪いことをすれば、来世で苦しみます👿」
というような、インド古来の信仰を定式化
「なんで、そ~なるの?」という疑問がわいてくる
論理展開するのが最も難しい因果関係だ
入れる前に、心と心所の違いを入れておいた方がいい。
心 花を見る視覚的に認識する
心所 美しいと感じる、好意を持つ
心 怒る怒りの対象を認識する
心所 怒り、嫌悪、執着などの感情
心 勉強する内容を理解する
心所 集中、記憶、努力、意志
「心」とは何か
パーリ語で「citta(チッタ)」、サンスクリット語で「citta」
心は、対象を認識する“主たる意識”であり、すべての精神活動の中心。
例:目で花を見たとき、「見る」という認識をするのが心。
「心所」とは何か
パーリ語で「cetasika(チェータシカ)」、サンスクリット語で「caitasika」
心に付随して働く“精神的要素”や“機能”。
心と同時に生じ、心の性質や方向性を決める。
例:花を見て「美しい」と感じる、好き・嫌いを判断する、記憶するなどが心所。
仏教において「因果」は、心と心所の働きそのものにも深く関係しています。 特にアビダルマ(仏教の心理学的・存在論的分析)では、心と心所が因となり、次の心や行為・結果を生むという視点が重視されます。
「善因楽果、悪因苦果」というような
なぜ論理展開が難しいのか?
因と果の性質が異なるため、直感的な理解が難しい
時間軸が長く、果がいつ現れるかが不確定
果報が“主観的な感受”であるため、検証が困難
結果がまた次の原因となる
この世は、なんとも複雑怪奇な因果応報の世界
それが、倶舎論の世界観だ
多因多果の構造
一つの法体(例:ある瞬間の心)は、
他の無数の法体(過去の心・環境・身体・記憶など)を因として生じる。
同時にその法体は、
他の無数の法体(次の瞬間の心・行動・感情・認識など)を果として生じさせる。
【つまり、法体は因であり果であり、常に相互に関係し合っている。】
この因果が「一様ではない」とは?
因果関係は単線的ではなく、複雑で多層的。
同じ法体でも、状況によって因果の働き方が異なる。
つまりどういうことか?
一つの出来事(法体)は、複数の原因によって生じる → 例:怒りの心は、過去の記憶・身体の状態・外的刺激・価値観など、いくつもの因が絡んでいる
そしてその出来事は、複数の結果を生じさせる → 怒りは、言葉・行動・次の心の状態・他人の反応など、いくつもの果を生む
さらに、同じ因でも、状況によって異なる果を生む → 例:同じ言葉でも、聞く人の心の状態によって、癒しにも傷にもなる
すこしまとめてみた
ま、俺にみたいにモンスターみたいな
能力があるということは
前世の影響かもしれん、
ま、探求しねーけど
😆
なるほど👍️
前世で山岳修行した成果かもな?😆
今朝から
道元禅師路線みたいな感覚がふかまっている😆
道元禅師ゾーンに入っていた
涼しいのと
つかれが軽くなったからだ
😆
呼び出してみよう、
試しに
😆
爆誕か⁉️
熊本県八代市泉町柿迫5536
すべての事象を分類!五位百法とは
唯識
今回は物質や精神など、すべての事象の分類方法である五位百法の分類について簡潔に説明します。
まず、「法」というのは仏教における存在のあらゆる要素を指します。
これにはすべての事象が含まれます。
たとえば、物質的存在や、肉体、精神・心といったあらゆるものです。
各々がその独自の特性を持ち、また混乱せずに秩序立って存在しています。この独自の特性を「任持自性」と呼びます。
個々の現象が心に捉えられることを「軌生物解」と表します。
法は計り知れないほど多岐(万有)にわたりますが、分類すると5つの範囲(五位)と約百項目(百法)にまとめられます。これを「五位百法」と呼びます。
五識(五感に基づく認識)、意識、末那識、阿頼耶識(本心・業の貯蔵庫)
遍行(一般的な心的活動)、別境(特定の心的状態)、善(善意の心的状態)、煩悩(心の乱れ)、随煩悩(煩悩に伴う追加的な心的状態)、不定(定まらない状態)
五根(五感器官)、六境(感覚対象)
得、命根、衆同分、異生性、無想定 滅志定、无想事、名身、句身、文身 生、老、住、無常、流轉、定異 相應、勢速、次第、方、時、數、和合、不和合
虚空、択滅、非択滅 不動滅、想受滅、真如
無為は、常住不変の真如(究極の実在)であり、「無為法」といいます。
大乗仏教の唯識では、すべての現象は心から発現するとされ、そのため「心王」が最優先とされます。
これに対して、小乘仏教では物質的なものが先に存在(心外境を認め)し、そこから心や心の働きが生じると考えられます。
大乗ではこれを逆転させ、心とその働き、そして物質的存在という順序で認識します。
小乗仏教(アビダルマ):色 → 心 → 心所
大乗仏教(唯識):心王 → 心所 → 色
このように仏教唯識学は、心や意識、物質的存在の相関関係や、それらの状態を詳細に分類し、存在や心についてあきらかにしています。
倶舎論の五位七十五法
唯識論の五位百法
見るものと見られるものが対になり、世界ができている。
アナタが認識しているもの、それが世界のすべてである。
五蘊・十二処・十八界
1、五蘊(ごうん)
・色 物質的な存在(とくに、自分の身体)
・受 感受する作用
・想 表象する作用
・行 意志する作用
・識 認識する作用
→人間は、五蘊を寄せ集めた仮の姿。
「我」として執着するような実体は無い
2、十二処(じゅうにしょ)
・六根:六つの認識器官
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根
・六境:六つの認識対象
色境・声境・香境・味境・触境・法境
六根と六境を合わせて十二処
3、十八界(じゅうはちかい)
・六識:六つの認識作用
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
十二処に六識を加えて十八界
最初はこんなにシンプルだった
倶舎論や唯識論と比べたらの話
マニアならともかく普通の人にとっては、これでも十分ややこしいだろう(笑)
全部、合わせても23項目
(十二処と十八界は内容がかぶるため)
倶舎論では75項目になり
唯識論では100項目に増えたというわけだ
つまり、心理分析に関する項目がやたら増えた
「この世界は、世間の一般人が素朴に思っているような意味(素朴実在論)では、存在していない」
「アナタが眼とか耳とか・・・で認識している世界像。それが世界のすべてである」
その世界観を、どんどん突き詰めていく
竜樹が『中論』でバッサバッサと斬っているのは、主に「説一切有部(倶舎論)」の自性存在論です。倶舎論を知らずに読むと、何を斬っているのか見えにくいのです。
中論は、アンチ倶舎論だから
倶舎論を知らないと分かりませんな~
そのメカニズムを解明する
善業・悪業: 善い行いや悪い行いを積み重ねること。
異熟: 善悪の業が時を経た後に、現在の私たちに「果報」として現れること。
結果: 苦しみや楽しみ(楽)など、善悪の業とは無記(中立的)な結果として生じます。
具体例: 現在の自分の境遇や運命が、過去の善い行いか悪い行いかの結果であると考えるのが「異熟果」の考え方です。
唯識論では「すべては心(識)が作り出したもの」と説きます。
この「異熟果」も、心によって生み出された結果として位置づけられます。
つまり、自分が今経験している出来事は、過去の心が生み出した「識」が、時を経て「異熟果」として現れたものだ、と解釈します。
異熟識とは?【唯識三十頌〖十九頌〗】
🔷『唯識三十頌』の第十九頌
「由諸業習気 二取習気倶
前異熟既尽 復生余異熟」
「諸業の習気と
二取の習気と倶なるに由りて
前の異熟は既に尽くれば
復た余の異熟を生ず」
🔶第十七頌、第十八頌が、空間の中で、お互いにどういう関係を持っているか、識相互の関係の上に心識の構造を見たのに対して、
🔶第十九頌では、時間の流れの中で、今日の自分が明日の自分にどう繋がるのか、という時間の流れの中に展開していく人間存在が示される。
🔷阿頼耶識を異熟識とも言われ、三つ意味がある。異熟には、どんな意味があるのか?
異熟識には、次の三つの意味合いがあるので、第八識は異熟識と言われる。
1️⃣変異熟 ➡️ 因が変化して果が熟す
2️⃣異時熟 ➡️ 因と時間を異にして果が熟す
3️⃣異類熟 ➡️ 因と性類を異にして果が熟す
🟨唯識は、全ては識が転変・変化したものであり、かつ、その転変の根源的主体が阿頼耶識であるという立場をとります。
🟨この変化という事柄を考える場合に、私達は一般に、原因と結果という二つの概念で捉えざるを得ません。
すなわち因が変化して、果というものが出てくる。これが変異熟の意味です。
🟩異類熟(いるいじゅく)とは、因と性類を異にして果が熟す、ということで、性類とは価値のことです。
普通は善と悪の二つですが、そこに無記というものが加えられているのが、仏教の大きな特徴です。
🟩無記とは、善でも悪でもない、中立、ニュートラルということです。私達は仏教的に言いますと、過去世の善業によって、六道輪廻のうち、人間界に生を受け、しかも人間としての阿頼耶識を持って生まれたものです。
🟩しかし、阿頼耶識そのものは、無記であると考えられています。
すなわち原因は、善あるいは悪であるけれども、結果は無記としてある、それが阿頼耶識である。
これを、『因是善悪、果是無記(いんぜぜんまく、かぜむき)』と言われます。
意味は「異類にして熟する識」という意味で「過去を背負える自己」を表します。
🟩人は過去を切り捨てて、生きることは出来ません。生い立ちを離れて、今の私はないのです。
人格の根底には、過去の種蒔きが全部収まっていますから、過去が生き続けて、その過去が現在として今に現れて、熟成しています。
🟩現在の自己は、過去の集積だとも言えます。人は背負い込んだ過去の自己に基づいて、現在の自己を生み出し、自己の世界を変えていきます。
🟫では、何故、蔵識と言われるのかと言いますと、阿頼耶識の中に自分が今まで行ってきたことが、業種子(ごうしゅうじ)という種になって収まっているからです。
🟫この阿頼耶識の中に業種子が収まると、私たちの唯識に現れる世界に影響を与えます。
段々と心の中で成長して熟してゆくと、やがて、唯識の世界にハッキリと見えるようになります。
たとえば、相手を責めるようなことばかり考えていると、相手から責められているように感じたり、相手を馬鹿にして見下していると、相手から馬鹿にされて見下されているように感じます。
ウソをついたら、ウソをつかれているように感じたり、相手を見捨てたら、見捨てられるように感じたり、嫌ったら、嫌われるように感じます。
もし、阿頼耶識の中に、そのような業種子が収まっていないとしたら、どんなに馬鹿にしたり、見下したりしようとしても、そんな気持ちは起きてきません。
ですから、私たちが心で見ている世界は、日頃、私たちが心で思っていることであり、それがそのまま、唯識の世界で見えているのです。
だから、自惚れで、自分は良いことを思っているに違いないと、自分の都合の良いように考えているのです。
しかし、どんなに都合良く考えていても、唯識に映る世界は自分の思いを、そのまま見せてくれるので、自分にとっては、こんな結果になるとは、とても信じられないような世界が唯識に映るのです。
だから、私たちは、自分の思いが異なった形で現れるとしか感じられないので、阿頼耶識のことを自分の思いの種が異なった形で熟して現れる、という意味で、異熟識とも言われるのです。
それが、阿頼耶識だ
これに対応する反対の見解を示した学説に実在を二つに区別する二元論(dualism)や実在に対して数的な規定を行わない多元論(pluralism)がある。
バールーフ・デ・スピノザは二元論に対する批判を通じて古典的な一元論の議論を展開した哲学者である。スピノザの学説の中心にあったのは究極的な原因としての神を前提とする汎神論である。彼は自然に見られるさまざまな様相に神の諸属性を見出している。また人間の精神と身体を区分する心身二元論に対しても、どちらかが先立つものではなく、それらは同一のものの二つの側面であると考えていた。
さまざまに形を変えて繰り返される、永遠の論点だ
古代では、プロティノス
近代では、スピノザが有名だ
明らかに、一元論ではない
五位七十五法は、世界の構成要素
構成要素が、七十五もある
典型的な多元論だ
キリスト教における永遠のテーマだが、仏教にとっては無意味な問いだ
仏教は、善悪二元論
善でも悪でもない「無記」ってのもあるから、これだけでも三元論と言える
悪の構成要素も実在する
五位七十五法に含まれている
三世恒有だ
仏教も心身二元論だ
色(物質的存在)と心(精神的存在)が、それぞれに存在する
だいぶ一元論に近くなる