パーリーの今期周回のまとめ【3】最終更新 2025/08/05 17:091.神も仏も名無しさん0Bh7eわたくしパーリーの今世における経験と智慧来世に向けての準備をツラツラと書くスレです備忘録ではありますが質問は受け付けます※前スレパーリーの今期周回のまとめ【2】https://talk.jp/boards/psy/17429871642025/07/28 13:54:5738コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.パーリー◆HpIafZZzjh.Gpqa1pリダンは返照って言葉を知ってるか?2025/07/29 15:56:563.パーリー◆HpIafZZzjh.G3lWG6315 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2025/07/30● 空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた。一方、空性という見解をもつ人々については、成就不能の人々と呼んだのである。(『中論頌』一三・八)● 「空性という見解をもつ」とは、たとえば、「空であるものは、一切のものである」と主張するような場合である。空性を見解としてもってしまうと、空性に到達することはできない。もし空性を見解としてもつなら、最強の論理になってあらゆるものに適用できる。そうなると、逆に、空性という見解それ自体は空性の論理が及ぶことができずに、一切世界からはじき出されることになるのである。したがって、仏教においては、「空」を持ちだして、反対する人々と争うことはない。ここは重要である。「空」は、空っぽという意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはない。空は、けっして人々に苦痛をもたらすことはないのである。(某書 より)2025/07/30 13:29:564.パーリー◆HpIafZZzjh.G3lWG6316 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2025/07/30(水)● 「空」は、空を空なる「もの」として表象するといふ立場をも空じたところとして、初めて空なのである。そのことは、空が単に有のそとに、有とは別なるものとして立てられるのではなく、むしろ有と一つに、有と自己同一をなすものとして、自覚されるといふ意味である。有即無とか、色即是空とかいはれるとき、先ず一方に有なるもの、他方に無なるものを考へて、それを結びつけたといふことではない。有即無といふことは、むしろ「即」に立って、「即」から有をも有として、無をも無として見るといふことである。勿論、我々は通常、有を単に有だけと見る立場、有に囚とらはれた立場に立っている。従ってその立場が破れ否定されれば、そこに虚無が現れてくる。そしてその虚無の立場は再び、無を単に無だけとして見る立場であり、無に囚はれた立場である。即ち、更に否定さるべき立場である。そしてさういふ二重の囚はれを脱した全き無執着の立場として、「空」が現れてくるのである。(『西谷啓治著作集』第10巻、創文社)2025/07/30 13:32:055.パーリー◆HpIafZZzjh.G3lWG6345 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2025/07/30(水)ベテランになると坐禅中にシータ派が出てくるのだと。覚醒しながらも大脳皮質の活動が抑制されるそうで、浅い眠りの状態とかもそうなのだとか。更に特殊なガンマ波も出るそうですねえ。寝落ち寸前の状態ね。あとこの頃、読経中にもそうなります。老師にとある呼吸法を教えて貰って、そこを意識して読経をしているうちに、そうなりました。2025/07/30 13:50:366.パーリー◆HpIafZZzjh.GCyCry『パイロット・ババ真如を語る』https://www.facebook.com/share/p/172piweFp7/2025/07/31 13:09:097.パーリー◆HpIafZZzjh.GCyCryサンカルパ・ヨガ・ファンデーションhttps://www.facebook.com/share/161rpZu13C/スワミ・アディティアナンダ・ギリジ師https://www.facebook.com/share/1C9AyyT4no/2025/07/31 13:15:248.パーリー◆HpIafZZzjh.GCyCry『パイロット・ババ真如を語る』https://www.facebook.com/share/p/172piweFp7/https://i.imgur.com/YBh14VQ.jpeg2025/07/31 13:17:329.パーリー◆HpIafZZzjh.GCyCry957 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm sage 2025/07/31(木) 08:29:27.01 ID:EB4Yg TID:rokuyaon>中国の大乗仏教においては、このような、われわれ自身に内在する仏性/心の本性を初めて実見することが「見性」(仏性/心の本性を見ること)と呼ばれるようになった。>すでに、六世紀に編纂された最古の禅文献、『四行論長巻子』(ZG1, 47)において「坐禅終須見本性」(坐禅によってしまいには本性を見るべきである)と説かれており、この「見性」ということばは禅宗を中心として盛んに用いられるようになる。>このように、中国の大乗仏教においては、禅宗を中心として、「見道」に該当するものが「見性」ということばで呼ばれるようになった。>(『「悟り体験」を読む―大乗仏教で覚醒した人々』大竹普より)修道論に於いて、既に部派仏教の頃には五道(位)※1が説かれており、瑜伽行唯識学派も禅宗もその流れにある※2訳です。云うまでもなく、世親(婆修盤頭尊者)は『逓代伝法仏祖名号』にもある様に、禅宗の祖師の一人ですからね。そして、その見道(通達位)が禅宗でいう見性に該当するのは普通に常識なんですがw何故なら名前そのものであるのは勿論、『六祖壇経』でも「見性通達」とありますからね。※ 1資糧道(資糧位)、加行道(加行位)、見道(通達位)、修道(修習位)、無学道(通達位)※2現観(正性決定)ともいう。上座部では「見」、説一切有部や瑜伽行唯識学派では「見道」(『仏のなりかた: 上座部、説一切有部、唯識派による古典的成仏論』 大竹普 より)2025/07/31 13:24:5610.パーリー◆HpIafZZzjh.GCyCryパーリーの今期周回のまとめhttps://talk.jp/boards/psy/1728379412パーリーの今期周回のまとめ【2】https://talk.jp/boards/psy/17429871642025/07/31 14:05:5011.パーリー◆HpIafZZzjh.Gd9nHS● “サマーディ”は【地球の第一元素】とつながっている粗大な【肉体】で、もしくは【水の元素】とつながっている【エーテル体】で起こる可能性があります。これは、この宇宙で【肉体】と【エーテル体】を持っているのは私たちだけではないことを示しています。真実から直接生まれたり進化したりした生命、神の高次意識から分離した生命といった他の形態の生命もあります。しかし、人間以外の生命体はサマーディを経験できません。『パイロット・ババ真如を語る』https://www.facebook.com/share/p/172piweFp7/https://i.imgur.com/YBh14VQ.jpeg2025/08/02 04:44:1712.パーリー◆HpIafZZzjh.GXzi4S205 法介◆T3azX0Hk1U 2025/08/02(土) 06:01:29.47 ID:NCXI9 TID:bison全てのモノは常に流動的に変化しながら存在(実在)していると説くのが正しい仏教観だ。常に変化しているからその実在の姿は仮の姿に過ぎない「因縁仮和合で仮に佇む姿」という意味だ。だからそれを仏教では「仮有」と説く。実在を否定している訳ではない。外道が説く永遠不滅の存在としての実体を否定しているに過ぎない禅宗の教えは、大乗諸宗派の中では一番初歩の教えでしかない2025/08/02 10:37:2713.パーリー◆HpIafZZzjh.GXzi4S358 パ◆GyEhhmlxmzjr 2025/08/02(土) 10:49:15.16 ID:Xzi4S222 法介◆T3azX0Hk1U 2025/08/02(土) 06:16:39.49 ID:NCXI9 TID:bison自分は存在している自分の頬をつまんだら痛い!って感じるその痛い!って感じている意識が自分だ夢でも幻想でもない事実として痛みを感じているそれが苦諦だ人間は五蘊の働きで常に痛みをともなって生きている肉体がある限り痛みは常にともなうーーーこの>その痛い!って感じている>意識が自分だこれをヨガでは究極的、最終的に残るのは“見る者”である【純粋観照者】としますそれをプルシャ=アートマン(真如我)=ブラフマンと命名しました2025/08/02 11:07:2514.パーリー◆HpIafZZzjh.GXzi4S● 禅ではこの“見る者” “純粋観照者”を【本来の面目】や【無位の真人】と言っていてこの真人は道教の影響だそうです● この“見る者” “純粋観照者” が肉体→エーテル体→アストラル体→メンタル体→霊体→宇宙体と言うふうに一つ一つ鞘をむくように脱皮するように脱いで行った先に宇宙をも飲み込むこの“見る者” “純粋観照者”が最後の最後まで“在る”んだとそう言うんです2025/08/02 11:08:0915.パーリー◆HpIafZZzjh.GlLnGx二の矢に当たらない 果報は2つあるカルマの還元は必ず2度あるので、これを第一の矢・・・現世で還る二の矢・・・・地獄や餓鬼に転生する形で還ると表現します。で、ヨーガや仏道修行者で、本物の修行者は第一の矢が極最小で還元され、第二は修行で消滅しています。by ホワイト・ターラー2025/08/02 15:50:2816.神も仏も名無しさんUUTrIhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q133182596032025/08/03 18:58:5717.パーリー◆HpIafZZzjh.GlAYmuデジタル乳袋かと思ったわw2025/08/03 21:38:4718.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt『般若心経』に見る「空」の二重構造—— ~外観と内観から読み解く般若の智慧~仏教を象徴する経典のひとつ、『般若心経』。その短い文のなかには、空という概念を中心に、非常に深い哲理が凝縮されています。今回は『般若心経』を、「外観(色)」と「内観(受・想・行・識)」の二重構造として捉える視点から紹介します。2025/08/05 06:36:1019.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt◇ 色即是空・空即是色 —— 外観への空観『般若心経』の冒頭に出てくる有名な句:「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」ここで説かれる「色(しき)」とは、単に“色彩”の意味ではなく、「目に見える形ある存在」、つまり現象世界の物質的側面を指します。この「色」がそのまま「空」であるというこの教えは、実在と思われるものすらも本質的には空であるという洞察です。この空観は、『小空経』(Skt: Cūḷasuññata Sutta)において説かれる「小空」に対応し、存在の“有る・無い”という状態性に対する認識から空性を説いています。2025/08/05 06:37:2720.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt◇ 受想行識亦復如是 —— 内観への空観『般若心経』では次のように続きます:受想行識亦復如是(受・想・行・識 もまた かくのごとし)ここで言う「受・想・行・識」は、私たちの感覚・知覚・思考・意志・意識といった「心のはたらき」を表します。つまりこれは内面の五蘊=心の構造に対する「空」の適用です。この内観的な空は、『大空経』で説かれる「大空」に通じ、認識・主観意識そのものをも空と見る、より深い智慧へと導かれます。ここでは、存在の有無ではなく、認知の作用そのものの空性を観る――という、より内面的で実践的な意味合いを持っています。2025/08/05 06:38:3021.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt◇ 外観と内観、二重の空こうして『般若心経』を見ていくと、色(外界)への空観=「小空」=外観の空受想行識(内面)への空観=「大空」=内観の空という、外的世界(客観)と内的世界(主観)の双方に対して空を照らしていく構造が浮かび上がります。つまり『般若心経』は、単に「世の中には実体がない」と言っているのではなく、「世界(外:客体)」と「認識(内:主体)」の両方に対して、根源的な“空性”を観じなさいと説いているのです。2025/08/05 06:40:1822.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt① 客体:(色) 物質の実在(有る状態と無い状態)② 主体:(受・想・行・識) 主観(見分)と客観(相分)による人の認識2025/08/05 06:43:1623.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt◇ なぜこの視点が重要か?この二重の空観は、『唯識』へと繋がる重要な視点です。2025/08/05 06:45:4824.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt① 客体:(色)は、これはこれで「色即是空 空即是色」です。その①で阿頼耶識に記録された種子を因として② 主体:(受・想・行・識)が起こります。①を色即是空とした②の空即是色です。2025/08/05 06:48:0825.法介◆T3azX0Hk1U5FgCthttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q113173333462025/08/05 06:50:4026.法介◆T3azX0Hk1U5FgCthttps://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/352025/08/05 06:53:0527.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt「大空経」と「小空経」を紹介してくれた馬ちゃん(パさん)に感謝しております。以上の内容がそれらから得る事が出来ましたわたしの覚りです。2025/08/05 06:56:0928.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt馬ちゃんありがとう互いに頑張って精進して参りましょう。2025/08/05 06:56:5929.法介◆T3azX0Hk1U5FgCtAIを使って研鑽した方が効率が良いので今後はそちらに活動を移行します。馬ちゃんは馬ちゃんらしく馬ちゃんの人生を満喫されてください。2025/08/05 07:05:3830.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt↑の①が疎所縁(実在する外境)だろというのがわたしの見解です。2025/08/05 07:32:2431.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt・自証分=表層自我(第六識)・証自証分=深層の根本自我(第七末那識)というのがわたしの思うところです。2025/08/05 07:34:5132.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt以上。2025/08/05 07:35:0633.パーリー◆HpIafZZzjh.G2xDhe575 ちんぽ麦♂ 2025/08/05(火)思考の正体はなんや? 制御不能だぞ? そいつは何者だ?● 産まれてこの方繰返し思考することで脳に作られた自動思考作動装置この装置は自転車操業なので年中思考ペダルをこぎ、言語の見聞をしていないと倒れてしまうその補助輪が睡眠時の夢見である寝ている時は能動的に思考も言語の見聞も出来ない故に脳がかってに映像を継ぎ接ぎして、駆動力たる、欲求衝動を満たすような、夢として自己たる、見る者、観照者に見せるこの自動的な思考装置をそしてその自動運行装置を停止させ得る方途がある‼️2025/08/05 13:44:2834.パーリー◆HpIafZZzjh.G2xDhe>>607仏教で言う本来の涅槃は幾つかに分かれていて大まかには● 第四禅定身体感覚と心活動の滅と呼吸の滅● ニルバーナ呼吸と心拍と脳波の滅であると仏教ではないが?おれの実践と理解だな2025/08/05 13:47:1535.パーリー◆HpIafZZzjh.G2xDhe● 第四禅定では先に心が次に身が寂静になるので身の内部にあり純粋観照の識として在るこの時、呼吸は静止から停止に至る● ニルバーナでは呼吸に加え、心拍と脳波の停止が起きて完全に肉の身体の束縛を脱するつまりこの純粋観照の識は形を超え最大に拡張され宇宙をも超えるその限界を観たものはいないそしてヨガでは見る対象としての宇宙へも向かわない境地としてカイバリヤ=真我独存位を言うこの手前の、宇宙を観ている二元からはまだこの世の身体へ帰還可能であるがカイバリヤへ行くと二度と身体へ還って来れないとされていて一元を見てから還って来たものはいないと言われていたが唯一パイロット・ババジのみが、それを可能にしたマハ・ヨギとして現在では知られている2025/08/05 13:47:5236.パーリー◆HpIafZZzjh.G2xDhe歓喜は● 第二禅定へ入禅定すると起きるとパーリー仏教経典には書いてある● 第三禅定では喜悦喜から悦へそして身体で楽を感じている● 第四禅定では悦も超え身体的な楽も超えるが故に身体が無いようになり呼吸の、静止~停止が生じる● これを身心脱落と言うこれを大般涅槃と言う2025/08/05 13:48:2437.パーリー◆HpIafZZzjh.GZwpMq777 パーリー (au-G9P-dV-PNU) 2025/08/05(火) 16:54:01.94 ID:ZwpMqニコちんはセイウンさんの大歓喜体験が何だったのか?想像も出来ないのか⁉️2025/08/05 17:09:1038.パーリー◆HpIafZZzjh.GZwpMq人間心理的に懊悩しててそれを超えようと坐禅・瞑目などをしたおりにその懊悩してた想いが消えて無心になるようなことが起こることが往々にしてあるするとその懊悩が大きければ大きいほど消えた時の無心も深いものになるその無心こそが命であり自己であり本来面目であるもだからその本来に出会った、または成ったそこから来る感情の爆発の歓喜と命の識の喜悦が混じってそれはそれは感涙し歓喜し至福するものなんですよ通常このような半ば感情の喜びが混じった大歓喜は一生に一度とも言われていてその後に坐禅、瞑想などで感情の位相を超えるようになると同じように無心の命になってももっと穏やかな悦という状態を体験するようになるとパーリー仏教経典の禅定の記述にはあります2025/08/05 17:09:20
今世における経験と智慧
来世に向けての準備を
ツラツラと書くスレです
備忘録ではありますが
質問は受け付けます
※前スレ
パーリーの今期周回のまとめ【2】
https://talk.jp/boards/psy/1742987164
● 空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた。
一方、空性という見解をもつ人々については、成就不能の人々と呼んだのである。
(『中論頌』一三・八)
● 「空性という見解をもつ」とは、たとえば、「空であるものは、一切のものである」と主張するような場合である。
空性を見解としてもってしまうと、空性に到達することはできない。
もし空性を見解としてもつなら、最強の論理になってあらゆるものに適用できる。
そうなると、逆に、空性という見解それ自体は空性の論理が及ぶことができずに、一切世界からはじき出されることになるのである。
したがって、仏教においては、「空」を持ちだして、反対する人々と争うことはない。ここは重要である。
「空」は、空っぽという意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはない。
空は、けっして人々に苦痛をもたらすことはないのである。
(某書 より)
● 「空」は、空を空なる「もの」として表象するといふ立場をも空じたところとして、初めて空なのである。
そのことは、空が単に有のそとに、有とは別なるものとして立てられるのではなく、むしろ有と一つに、有と自己同一をなすものとして、自覚されるといふ意味である。
有即無とか、色即是空とかいはれるとき、先ず一方に有なるもの、他方に無なるものを考へて、それを結びつけたといふことではない。
有即無といふことは、むしろ「即」に立って、「即」から有をも有として、無をも無として見るといふことである。
勿論、我々は通常、有を単に有だけと見る立場、有に囚とらはれた立場に立っている。
従ってその立場が破れ否定されれば、そこに虚無が現れてくる。
そしてその虚無の立場は再び、無を単に無だけとして見る立場であり、無に囚はれた立場である。
即ち、更に否定さるべき立場である。
そしてさういふ二重の囚はれを脱した全き無執着の立場として、「空」が現れてくるのである。
(『西谷啓治著作集』第10巻、創文社)
ベテランになると坐禅中にシータ派が出てくるのだと。
覚醒しながらも大脳皮質の活動が抑制されるそうで、浅い眠りの状態とかもそうなのだとか。
更に特殊なガンマ波も出るそうですねえ。
寝落ち寸前の状態ね。
あとこの頃、読経中にもそうなります。
老師にとある呼吸法を教えて貰って、そこを意識して読経をしているうちに、そうなりました。
https://www.facebook.com/share/p/172piweFp7/
https://www.facebook.com/share/161rpZu13C/
スワミ・アディティアナンダ・ギリジ師
https://www.facebook.com/share/1C9AyyT4no/
https://www.facebook.com/share/p/172piweFp7/
https://i.imgur.com/YBh14VQ.jpeg
>中国の大乗仏教においては、このような、われわれ自身に内在する仏性/心の本性を初めて実見することが「見性」(仏性/心の本性を見ること)と呼ばれるようになった。
>すでに、六世紀に編纂された最古の禅文献、『四行論長巻子』(ZG1, 47)において「坐禅終須見本性」(坐禅によってしまいには本性を見るべきである)と説かれており、この「見性」ということばは禅宗を中心として盛んに用いられるようになる。
>このように、中国の大乗仏教においては、禅宗を中心として、「見道」に該当するものが「見性」ということばで呼ばれるようになった。
>(『「悟り体験」を読む―大乗仏教で覚醒した人々』大竹普より)
修道論に於いて、既に部派仏教の頃には五道(位)※1が説かれており、瑜伽行唯識学派も禅宗もその流れにある※2訳です。
云うまでもなく、世親(婆修盤頭尊者)は『逓代伝法仏祖名号』にもある様に、禅宗の祖師の一人ですからね。
そして、その見道(通達位)が禅宗でいう見性に該当するのは普通に常識なんですがw
何故なら名前そのものであるのは勿論、『六祖壇経』でも「見性通達」とありますからね。
※ 1
資糧道(資糧位)、加行道(加行位)、見道(通達位)、修道(修習位)、無学道(通達位)
※2
現観(正性決定)ともいう。
上座部では「見」、説一切有部や瑜伽行唯識学派では「見道」
(『仏のなりかた: 上座部、説一切有部、唯識派による古典的成仏論』 大竹普 より)
https://talk.jp/boards/psy/1728379412
パーリーの今期周回のまとめ【2】
https://talk.jp/boards/psy/1742987164
【地球の第一元素】とつながっている粗大な【肉体】で、
もしくは【水の元素】とつながっている【エーテル体】で起こる可能性があります。
これは、この宇宙で【肉体】と【エーテル体】を持っているのは私たちだけではないことを示しています。
真実から直接生まれたり進化したりした生命、神の高次意識から分離した生命といった他の形態の生命もあります。
しかし、人間以外の生命体はサマーディを経験できません。
『パイロット・ババ真如を語る』
https://www.facebook.com/share/p/172piweFp7/
https://i.imgur.com/YBh14VQ.jpeg
全てのモノは
常に流動的に変化しながら存在(実在)している
と説くのが正しい仏教観だ。常に変化しているから
その実在の姿は仮の姿に過ぎない「因縁仮和合で仮に佇む姿」という意味だ。
だからそれを仏教では
「仮有」と説く。
実在を否定している訳ではない。外道が説く
永遠不滅の存在としての実体を否定しているに過ぎない
禅宗の教えは、大乗諸宗派の中では
一番初歩の教えでしかない
222 法介◆T3azX0Hk1U 2025/08/02(土) 06:16:39.49 ID:NCXI9 TID:bison
自分は
存在している
自分の頬をつまんだら
痛い!
って感じる
その痛い!って感じている
意識が自分だ
夢でも幻想でもない
事実として
痛みを感じている
それが苦諦だ
人間は五蘊の働きで常に痛みをともなって生きている
肉体がある限り痛みは常にともなう
ーーー
この
>その痛い!って感じている
>意識が自分だ
これを
ヨガでは
究極的、最終的に残るのは
“見る者”である
【純粋観照者】とします
それを
プルシャ=アートマン(真如我)=ブラフマン
と命名しました
この“見る者” “純粋観照者”を
【本来の面目】や
【無位の真人】と言っていて
この真人は
道教の影響だそうです
● この“見る者” “純粋観照者” が
肉体→エーテル体→アストラル体→メンタル体→霊体→宇宙体
と言うふうに
一つ一つ鞘をむくように脱皮するように
脱いで行った先に
宇宙をも飲み込む
この“見る者” “純粋観照者”が
最後の最後まで
“在る”んだと
そう言うんです
カルマの還元は必ず2度あるので、これを
第一の矢・・・現世で還る
二の矢・・・・地獄や餓鬼に転生する形で還る
と表現します。
で、ヨーガや仏道修行者で、本物の修行者は第一の矢が極最小で還元され、第二は修行で消滅しています。
by ホワイト・ターラー
~外観と内観から読み解く般若の智慧~
仏教を象徴する経典のひとつ、『般若心経』。
その短い文のなかには、空という概念を中心に、非常に深い哲理が凝縮されています。
今回は『般若心経』を、「外観(色)」と「内観(受・想・行・識)」の二重構造として捉える視点から紹介します。
『般若心経』の冒頭に出てくる有名な句:
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」
ここで説かれる「色(しき)」とは、単に“色彩”の意味ではなく、「目に見える形ある存在」、つまり現象世界の物質的側面を指します。
この「色」がそのまま「空」であるというこの教えは、実在と思われるものすらも本質的には空であるという洞察です。
この空観は、『小空経』(Skt: Cūḷasuññata Sutta)において説かれる「小空」に対応し、存在の“有る・無い”という状態性に対する認識から空性を説いています。
『般若心経』では次のように続きます:
受想行識亦復如是(受・想・行・識 もまた かくのごとし)
ここで言う「受・想・行・識」は、私たちの感覚・知覚・思考・意志・意識といった「心のはたらき」を表します。
つまりこれは内面の五蘊=心の構造に対する「空」の適用です。
この内観的な空は、『大空経』で説かれる「大空」に通じ、認識・主観意識そのものをも空と見る、より深い智慧へと導かれます。
ここでは、存在の有無ではなく、認知の作用そのものの空性を観る――という、より内面的で実践的な意味合いを持っています。
こうして『般若心経』を見ていくと、
色(外界)への空観=「小空」=外観の空
受想行識(内面)への空観=「大空」=内観の空
という、外的世界(客観)と内的世界(主観)の双方に対して空を照らしていく構造が浮かび上がります。
つまり『般若心経』は、単に「世の中には実体がない」と言っているのではなく、
「世界(外:客体)」と「認識(内:主体)」の両方に対して、根源的な“空性”を観じなさいと説いているのです。
物質の実在(有る状態と無い状態)
② 主体:(受・想・行・識)
主観(見分)と客観(相分)による人の認識
この二重の空観は、『唯識』へと繋がる重要な視点です。
これはこれで「色即是空 空即是色」です。
その①で阿頼耶識に記録された種子を因として
② 主体:(受・想・行・識)が起こります。
①を色即是空とした②の空即是色です。
以上の内容がそれらから得る事が出来ましたわたしの覚りです。
ありがとう
互いに頑張って精進して参りましょう。
今後はそちらに活動を移行します。
馬ちゃんは馬ちゃんらしく
馬ちゃんの人生を満喫されてください。
というのが
わたしの見解です。
・証自証分=深層の根本自我(第七末那識)
というのがわたしの思うところです。
思考の正体はなんや? 制御不能だぞ? そいつは何者だ?
● 産まれてこの方
繰返し思考することで
脳に作られた
自動思考作動装置
この装置は
自転車操業なので
年中
思考ペダルをこぎ、言語の見聞をしていないと
倒れてしまう
その補助輪が
睡眠時の夢見である
寝ている時は
能動的に思考も言語の見聞も
出来ない故に
脳がかってに映像を継ぎ接ぎして、駆動力たる、欲求衝動を
満たすような、夢として
自己たる、見る者、観照者に
見せる
この
自動的な思考装置を
そして
その自動運行装置を
停止させ得る方途がある‼️
仏教で言う本来の涅槃は
幾つかに分かれていて
大まかには
● 第四禅定
身体感覚と心活動の滅と呼吸の滅
● ニルバーナ
呼吸と心拍と脳波の滅
であると
仏教ではないが?おれの実践と理解だな
先に心が次に身が寂静になるので
身の内部にあり
純粋観照の識として在る
この時、呼吸は静止から停止に至る
● ニルバーナでは
呼吸に加え、心拍と脳波の停止が起きて
完全に肉の身体の束縛を脱する
つまり
この純粋観照の識は
形を超え
最大に拡張され
宇宙をも超える
その限界を観たものはいない
そしてヨガでは
見る対象としての宇宙へも向かわない境地として
カイバリヤ=真我独存位を言う
この手前の、宇宙を観ている二元からは
まだこの世の身体へ帰還可能であるが
カイバリヤへ行くと
二度と身体へ還って来れないとされていて
一元を見てから還って来たものは
いないと言われていたが
唯一
パイロット・ババジのみが、それを可能にしたマハ・ヨギとして現在では知られている
● 第二禅定へ入禅定すると起きると
パーリー仏教経典には書いてある
● 第三禅定では喜悦
喜から悦へ
そして身体で楽を感じている
● 第四禅定では
悦も超え身体的な楽も超えるが故に
身体が無いようになり
呼吸の、静止~停止が生じる
● これを
身心脱落と言う
これを
大般涅槃
と言う
ニコちんは
セイウンさんの
大歓喜体験が
何だったのか?
想像も出来ないのか⁉️
心理的に懊悩してて
それを超えようと坐禅・瞑目などをしたおりに
その懊悩してた想いが消えて
無心になるようなことが起こることが
往々にしてある
すると
その懊悩が大きければ大きいほど
消えた時の
無心も深いものになる
その無心こそが
命であり自己であり本来面目であるもだから
その本来に出会った、または成った
そこから来る
感情の爆発の歓喜と命の識の喜悦が混じって
それはそれは
感涙し歓喜し至福するものなんですよ
通常このような
半ば感情の喜びが混じった大歓喜は
一生に一度とも言われていて
その後に坐禅、瞑想などで
感情の位相を超えるようになると
同じように無心の命になっても
もっと穏やかな悦という状態を体験するようになるとパーリー仏教経典の禅定の記述にはあります