パーリーの今期周回のまとめ【3】最終更新 2025/11/03 03:161.神も仏も名無しさん0Bh7eわたくしパーリーの今世における経験と智慧来世に向けての準備をツラツラと書くスレです備忘録ではありますが質問は受け付けます※前スレパーリーの今期周回のまとめ【2】https://talk.jp/boards/psy/17429871642025/07/28 13:54:57242コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.パーリー◆HpIafZZzjh.Gpqa1pリダンは返照って言葉を知ってるか?2025/07/29 15:56:563.パーリー◆HpIafZZzjh.G3lWG6315 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2025/07/30● 空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた。一方、空性という見解をもつ人々については、成就不能の人々と呼んだのである。(『中論頌』一三・八)● 「空性という見解をもつ」とは、たとえば、「空であるものは、一切のものである」と主張するような場合である。空性を見解としてもってしまうと、空性に到達することはできない。もし空性を見解としてもつなら、最強の論理になってあらゆるものに適用できる。そうなると、逆に、空性という見解それ自体は空性の論理が及ぶことができずに、一切世界からはじき出されることになるのである。したがって、仏教においては、「空」を持ちだして、反対する人々と争うことはない。ここは重要である。「空」は、空っぽという意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはない。空は、けっして人々に苦痛をもたらすことはないのである。(某書 より)2025/07/30 13:29:564.パーリー◆HpIafZZzjh.G3lWG6316 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2025/07/30(水)● 「空」は、空を空なる「もの」として表象するといふ立場をも空じたところとして、初めて空なのである。そのことは、空が単に有のそとに、有とは別なるものとして立てられるのではなく、むしろ有と一つに、有と自己同一をなすものとして、自覚されるといふ意味である。有即無とか、色即是空とかいはれるとき、先ず一方に有なるもの、他方に無なるものを考へて、それを結びつけたといふことではない。有即無といふことは、むしろ「即」に立って、「即」から有をも有として、無をも無として見るといふことである。勿論、我々は通常、有を単に有だけと見る立場、有に囚とらはれた立場に立っている。従ってその立場が破れ否定されれば、そこに虚無が現れてくる。そしてその虚無の立場は再び、無を単に無だけとして見る立場であり、無に囚はれた立場である。即ち、更に否定さるべき立場である。そしてさういふ二重の囚はれを脱した全き無執着の立場として、「空」が現れてくるのである。(『西谷啓治著作集』第10巻、創文社)2025/07/30 13:32:055.パーリー◆HpIafZZzjh.G3lWG6345 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm 2025/07/30(水)ベテランになると坐禅中にシータ派が出てくるのだと。覚醒しながらも大脳皮質の活動が抑制されるそうで、浅い眠りの状態とかもそうなのだとか。更に特殊なガンマ波も出るそうですねえ。寝落ち寸前の状態ね。あとこの頃、読経中にもそうなります。老師にとある呼吸法を教えて貰って、そこを意識して読経をしているうちに、そうなりました。2025/07/30 13:50:366.パーリー◆HpIafZZzjh.GCyCry『パイロット・ババ真如を語る』https://www.facebook.com/share/p/172piweFp7/2025/07/31 13:09:097.パーリー◆HpIafZZzjh.GCyCryサンカルパ・ヨガ・ファンデーションhttps://www.facebook.com/share/161rpZu13C/スワミ・アディティアナンダ・ギリジ師https://www.facebook.com/share/1C9AyyT4no/2025/07/31 13:15:248.パーリー◆HpIafZZzjh.GCyCry『パイロット・ババ真如を語る』https://www.facebook.com/share/p/172piweFp7/https://i.imgur.com/YBh14VQ.jpeg2025/07/31 13:17:329.パーリー◆HpIafZZzjh.GCyCry957 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm sage 2025/07/31(木) 08:29:27.01 ID:EB4Yg TID:rokuyaon>中国の大乗仏教においては、このような、われわれ自身に内在する仏性/心の本性を初めて実見することが「見性」(仏性/心の本性を見ること)と呼ばれるようになった。>すでに、六世紀に編纂された最古の禅文献、『四行論長巻子』(ZG1, 47)において「坐禅終須見本性」(坐禅によってしまいには本性を見るべきである)と説かれており、この「見性」ということばは禅宗を中心として盛んに用いられるようになる。>このように、中国の大乗仏教においては、禅宗を中心として、「見道」に該当するものが「見性」ということばで呼ばれるようになった。>(『「悟り体験」を読む―大乗仏教で覚醒した人々』大竹普より)修道論に於いて、既に部派仏教の頃には五道(位)※1が説かれており、瑜伽行唯識学派も禅宗もその流れにある※2訳です。云うまでもなく、世親(婆修盤頭尊者)は『逓代伝法仏祖名号』にもある様に、禅宗の祖師の一人ですからね。そして、その見道(通達位)が禅宗でいう見性に該当するのは普通に常識なんですがw何故なら名前そのものであるのは勿論、『六祖壇経』でも「見性通達」とありますからね。※ 1資糧道(資糧位)、加行道(加行位)、見道(通達位)、修道(修習位)、無学道(通達位)※2現観(正性決定)ともいう。上座部では「見」、説一切有部や瑜伽行唯識学派では「見道」(『仏のなりかた: 上座部、説一切有部、唯識派による古典的成仏論』 大竹普 より)2025/07/31 13:24:5610.パーリー◆HpIafZZzjh.GCyCryパーリーの今期周回のまとめhttps://talk.jp/boards/psy/1728379412パーリーの今期周回のまとめ【2】https://talk.jp/boards/psy/17429871642025/07/31 14:05:5011.パーリー◆HpIafZZzjh.Gd9nHS● “サマーディ”は【地球の第一元素】とつながっている粗大な【肉体】で、もしくは【水の元素】とつながっている【エーテル体】で起こる可能性があります。これは、この宇宙で【肉体】と【エーテル体】を持っているのは私たちだけではないことを示しています。真実から直接生まれたり進化したりした生命、神の高次意識から分離した生命といった他の形態の生命もあります。しかし、人間以外の生命体はサマーディを経験できません。『パイロット・ババ真如を語る』https://www.facebook.com/share/p/172piweFp7/https://i.imgur.com/YBh14VQ.jpeg2025/08/02 04:44:1712.パーリー◆HpIafZZzjh.GXzi4S205 法介◆T3azX0Hk1U 2025/08/02(土) 06:01:29.47 ID:NCXI9 TID:bison全てのモノは常に流動的に変化しながら存在(実在)していると説くのが正しい仏教観だ。常に変化しているからその実在の姿は仮の姿に過ぎない「因縁仮和合で仮に佇む姿」という意味だ。だからそれを仏教では「仮有」と説く。実在を否定している訳ではない。外道が説く永遠不滅の存在としての実体を否定しているに過ぎない禅宗の教えは、大乗諸宗派の中では一番初歩の教えでしかない2025/08/02 10:37:2713.パーリー◆HpIafZZzjh.GXzi4S358 パ◆GyEhhmlxmzjr 2025/08/02(土) 10:49:15.16 ID:Xzi4S222 法介◆T3azX0Hk1U 2025/08/02(土) 06:16:39.49 ID:NCXI9 TID:bison自分は存在している自分の頬をつまんだら痛い!って感じるその痛い!って感じている意識が自分だ夢でも幻想でもない事実として痛みを感じているそれが苦諦だ人間は五蘊の働きで常に痛みをともなって生きている肉体がある限り痛みは常にともなうーーーこの>その痛い!って感じている>意識が自分だこれをヨガでは究極的、最終的に残るのは“見る者”である【純粋観照者】としますそれをプルシャ=アートマン(真如我)=ブラフマンと命名しました2025/08/02 11:07:2514.パーリー◆HpIafZZzjh.GXzi4S● 禅ではこの“見る者” “純粋観照者”を【本来の面目】や【無位の真人】と言っていてこの真人は道教の影響だそうです● この“見る者” “純粋観照者” が肉体→エーテル体→アストラル体→メンタル体→霊体→宇宙体と言うふうに一つ一つ鞘をむくように脱皮するように脱いで行った先に宇宙をも飲み込むこの“見る者” “純粋観照者”が最後の最後まで“在る”んだとそう言うんです2025/08/02 11:08:0915.パーリー◆HpIafZZzjh.GlLnGx二の矢に当たらない 果報は2つあるカルマの還元は必ず2度あるので、これを第一の矢・・・現世で還る二の矢・・・・地獄や餓鬼に転生する形で還ると表現します。で、ヨーガや仏道修行者で、本物の修行者は第一の矢が極最小で還元され、第二は修行で消滅しています。by ホワイト・ターラー2025/08/02 15:50:2816.神も仏も名無しさんUUTrIhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q133182596032025/08/03 18:58:5717.パーリー◆HpIafZZzjh.GlAYmuデジタル乳袋かと思ったわw2025/08/03 21:38:4718.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt『般若心経』に見る「空」の二重構造—— ~外観と内観から読み解く般若の智慧~仏教を象徴する経典のひとつ、『般若心経』。その短い文のなかには、空という概念を中心に、非常に深い哲理が凝縮されています。今回は『般若心経』を、「外観(色)」と「内観(受・想・行・識)」の二重構造として捉える視点から紹介します。2025/08/05 06:36:1019.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt◇ 色即是空・空即是色 —— 外観への空観『般若心経』の冒頭に出てくる有名な句:「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」ここで説かれる「色(しき)」とは、単に“色彩”の意味ではなく、「目に見える形ある存在」、つまり現象世界の物質的側面を指します。この「色」がそのまま「空」であるというこの教えは、実在と思われるものすらも本質的には空であるという洞察です。この空観は、『小空経』(Skt: Cūḷasuññata Sutta)において説かれる「小空」に対応し、存在の“有る・無い”という状態性に対する認識から空性を説いています。2025/08/05 06:37:2720.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt◇ 受想行識亦復如是 —— 内観への空観『般若心経』では次のように続きます:受想行識亦復如是(受・想・行・識 もまた かくのごとし)ここで言う「受・想・行・識」は、私たちの感覚・知覚・思考・意志・意識といった「心のはたらき」を表します。つまりこれは内面の五蘊=心の構造に対する「空」の適用です。この内観的な空は、『大空経』で説かれる「大空」に通じ、認識・主観意識そのものをも空と見る、より深い智慧へと導かれます。ここでは、存在の有無ではなく、認知の作用そのものの空性を観る――という、より内面的で実践的な意味合いを持っています。2025/08/05 06:38:3021.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt◇ 外観と内観、二重の空こうして『般若心経』を見ていくと、色(外界)への空観=「小空」=外観の空受想行識(内面)への空観=「大空」=内観の空という、外的世界(客観)と内的世界(主観)の双方に対して空を照らしていく構造が浮かび上がります。つまり『般若心経』は、単に「世の中には実体がない」と言っているのではなく、「世界(外:客体)」と「認識(内:主体)」の両方に対して、根源的な“空性”を観じなさいと説いているのです。2025/08/05 06:40:1822.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt① 客体:(色) 物質の実在(有る状態と無い状態)② 主体:(受・想・行・識) 主観(見分)と客観(相分)による人の認識2025/08/05 06:43:1623.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt◇ なぜこの視点が重要か?この二重の空観は、『唯識』へと繋がる重要な視点です。2025/08/05 06:45:4824.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt① 客体:(色)は、これはこれで「色即是空 空即是色」です。その①で阿頼耶識に記録された種子を因として② 主体:(受・想・行・識)が起こります。①を色即是空とした②の空即是色です。2025/08/05 06:48:0825.法介◆T3azX0Hk1U5FgCthttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q113173333462025/08/05 06:50:4026.法介◆T3azX0Hk1U5FgCthttps://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/352025/08/05 06:53:0527.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt「大空経」と「小空経」を紹介してくれた馬ちゃん(パさん)に感謝しております。以上の内容がそれらから得る事が出来ましたわたしの覚りです。2025/08/05 06:56:0928.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt馬ちゃんありがとう互いに頑張って精進して参りましょう。2025/08/05 06:56:5929.法介◆T3azX0Hk1U5FgCtAIを使って研鑽した方が効率が良いので今後はそちらに活動を移行します。馬ちゃんは馬ちゃんらしく馬ちゃんの人生を満喫されてください。2025/08/05 07:05:3830.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt↑の①が疎所縁(実在する外境)だろというのがわたしの見解です。2025/08/05 07:32:2431.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt・自証分=表層自我(第六識)・証自証分=深層の根本自我(第七末那識)というのがわたしの思うところです。2025/08/05 07:34:5132.法介◆T3azX0Hk1U5FgCt以上。2025/08/05 07:35:0633.パーリー◆HpIafZZzjh.G2xDhe575 ちんぽ麦♂ 2025/08/05(火)思考の正体はなんや? 制御不能だぞ? そいつは何者だ?● 産まれてこの方繰返し思考することで脳に作られた自動思考作動装置この装置は自転車操業なので年中思考ペダルをこぎ、言語の見聞をしていないと倒れてしまうその補助輪が睡眠時の夢見である寝ている時は能動的に思考も言語の見聞も出来ない故に脳がかってに映像を継ぎ接ぎして、駆動力たる、欲求衝動を満たすような、夢として自己たる、見る者、観照者に見せるこの自動的な思考装置をそしてその自動運行装置を停止させ得る方途がある‼️2025/08/05 13:44:2834.パーリー◆HpIafZZzjh.G2xDhe>>607仏教で言う本来の涅槃は幾つかに分かれていて大まかには● 第四禅定身体感覚と心活動の滅と呼吸の滅● ニルバーナ呼吸と心拍と脳波の滅であると仏教ではないが?おれの実践と理解だな2025/08/05 13:47:1535.パーリー◆HpIafZZzjh.G2xDhe● 第四禅定では先に心が次に身が寂静になるので身の内部にあり純粋観照の識として在るこの時、呼吸は静止から停止に至る● ニルバーナでは呼吸に加え、心拍と脳波の停止が起きて完全に肉の身体の束縛を脱するつまりこの純粋観照の識は形を超え最大に拡張され宇宙をも超えるその限界を観たものはいないそしてヨガでは見る対象としての宇宙へも向かわない境地としてカイバリヤ=真我独存位を言うこの手前の、宇宙を観ている二元からはまだこの世の身体へ帰還可能であるがカイバリヤへ行くと二度と身体へ還って来れないとされていて一元を見てから還って来たものはいないと言われていたが唯一パイロット・ババジのみが、それを可能にしたマハ・ヨギとして現在では知られている2025/08/05 13:47:5236.パーリー◆HpIafZZzjh.G2xDhe歓喜は● 第二禅定へ入禅定すると起きるとパーリー仏教経典には書いてある● 第三禅定では喜悦喜から悦へそして身体で楽を感じている● 第四禅定では悦も超え身体的な楽も超えるが故に身体が無いようになり呼吸の、静止~停止が生じる● これを身心脱落と言うこれを大般涅槃と言う2025/08/05 13:48:2437.パーリー◆HpIafZZzjh.GZwpMq777 パーリー (au-G9P-dV-PNU) 2025/08/05(火) 16:54:01.94 ID:ZwpMqニコちんはセイウンさんの大歓喜体験が何だったのか?想像も出来ないのか⁉️2025/08/05 17:09:1038.パーリー◆HpIafZZzjh.GZwpMq人間心理的に懊悩しててそれを超えようと坐禅・瞑目などをしたおりにその懊悩してた想いが消えて無心になるようなことが起こることが往々にしてあるするとその懊悩が大きければ大きいほど消えた時の無心も深いものになるその無心こそが命であり自己であり本来面目であるもだからその本来に出会った、または成ったそこから来る感情の爆発の歓喜と命の識の喜悦が混じってそれはそれは感涙し歓喜し至福するものなんですよ通常このような半ば感情の喜びが混じった大歓喜は一生に一度とも言われていてその後に坐禅、瞑想などで感情の位相を超えるようになると同じように無心の命になってももっと穏やかな悦という状態を体験するようになるとパーリー仏教経典の禅定の記述にはあります2025/08/05 17:09:2039.パーリー◆HpIafZZzjh.GQzH4w765 パ◆GyEhhmlxmzjr 2025/08/06(水) 14:12:12.46 ID:QzH4w● 色と空ヒンドゥー教用語で言えば【空】とは【コーザル・ボディー】のことでこの【空間(複数次元)】がそのまま私たちの【識】であると● コーザル・ボディーとは?人間は【5つの鞘】に包まれた構造であるとされている◯ パンチャ・シャーリラ(5つの鞘)第1が クレイ・ボディー(肉体)第2が エーテル・ボディー(生気体)第3が サトル・ボディー(微細体)第4が コーザル・ボディー(原因体)第5が プルシャ=アートマン(真我)とされる● 心と物質世界の【存在原因】この【コーザル体】こそが思考・感情や妄想、5感覚のよる知覚などが映し出される【3Dスクリーン】なのでありますこの【3Dスクリーン】に大きさはなく小は人心から大は宇宙大まで変幻自在なのであります故に、三界は唯心の所現と華厳経典にはあります2025/08/06 14:27:1740.パーリー◆HpIafZZzjh.GQzH4w● 唯識無境https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98● すべての現象は心から生じる「攝境従心」https://kinkaizan-shakain.jp/shokyojushin/2025/08/06 14:27:3141.パーリー◆HpIafZZzjh.GLsVMB799 法介◆T3azX0Hk1U 2025/08/06(水) 15:01:17.44 ID:Pzdti TID:bison>>唱題ってのはな、思考の抑制だ 思考がおさまれば頭が軽くなる馬鹿言ってんじゃないよーーーー悟り(禅的な)へ至ることに関連していて重要なことだねそれらの行を自分の意思で行うと思考・妄想が文言に置き換わって、一時的に抑制はされますこれが1回で8時間、日に2回とかの長い時間続けられるなら短時日(50~100日)で悟りが起こるはずですこれを録音機によって、録音された文言をエンドレスで聞くことによって自意識を使わずに聞ながすと、知らず知らずのうちに、思考・妄想が起こらなくなって行き遂には、約50日前後で、完全に永続的に、心の意図しない思考と妄想が、無くなりますこの状態では、まだ無心なだけで、悟りにはないけども、あとはオートマチックで、1年前後で悟りが、突如訪れるでしょう‼️2025/08/06 15:30:0942.パーリー◆HpIafZZzjh.GUV50H● 色と空ヒンドゥー教用語で言えば【空】とは【コーザル・ボディー】のことでこの【空間(複数次元)】がそのまま私たちの【識】であると● コーザル・ボディーとは?人間は【5つの鞘】に包まれた構造であるとされている◯ パンチャ・シャーリラ(5つの鞘)第1が クレイ・ボディー(肉体)第2が エーテル・ボディー(生気体)第3が サトル・ボディー(微細体)第4が コーザル・ボディー(原因体)第5が プルシャ=アートマン(真我)とされる● 心と物質世界の【存在原因】この【コーザル体】こそが思考・感情や妄想、5感覚のよる知覚などが映し出される【3Dスクリーン】なのでありますこの【3Dスクリーン】に大きさはなく小は人心から大は宇宙大まで変幻自在なのであります故に、三界は唯心の所現と華厳経典にはあります● 現在は宇宙ですね対象境界は初段で無心二段目で呼吸の停止(完全な無心)ここでエーテル・ボディーの覚醒三段目で心拍脳波の停止ですが、その前にアストラル・ボディーの覚醒、それから肉体から離脱して宇宙意識へ四段目が超宇宙意識(阿頼耶識)においての宇宙の観照ここがサマディーまあ、こんな感じ2025/08/07 10:21:3743.パーリー◆HpIafZZzjh.GUV50H6 法介◆T3azX0Hk1U 2025/08/07(木) 01:49:48.65 ID:OY6sI TID:bisonなかったら馬ちゃんの阿頼耶識にその記録はありませんよね>>6宇宙は1つの識ですその識には過去の仏達が、ニルバーナ・サマディーに入って、宇宙を観た記憶が記録されていてまた、今現在、サマディーへ入ったままの聖者も多数おられます私たち初心者は、先ず古の縁を手繰って、今生でニルバーナ・サマディーへ入ったブッダに出会いますそれによって、私たち初心者の魂は、そのサマディー・ヨギのサマディースペース(宇宙意識)から流れくるアヌグラハという宇宙根元の識のエナジー波動に繋がりが出来ますこれによって、サマディー・ヨギの宇宙意識が私たちの意識と直結してその宇宙意識の種子が我々の識にインプラントされ、その縁によって、宇宙へ導かれますこのサマディー・ヨギから約束されるのが何でしたっけ?虚空会で仏になるという予言を受けるのは⁉️ともかく過去仏(私ならパイロット・ババジ)が我々修行?をアストラル界(色界)から、ニルバーナ・サマディーへ入るまでサポートしてくれますこのサマディー・ヨギというブッダとの縁による出会いが大いに重要となりますね2025/08/07 10:22:5744.パーリー◆HpIafZZzjh.GMrTEZ4億ヒンドゥー教との憧れの的はパイロット・ババジ‼️一瞬でニルバーナ・サマディーに入って一瞬で戻ってくる死人を甦らせ医学的に不可能を可能たらしめた聖者の中の聖者にしてヒマラヤ24人のアヴァター様を統べるインドで、唯一マハ・ヨギの称号で呼ばれた偉大なヨギ!土中、水中、エアタイト、氷中でニルバーナ・サマディーを実行し生涯で108回もの公開ニルバーナ・サマディーを行い、多くを祝福したそしてヨガも知らない、ただの信奉者の16才の少女を5日間の、公開土中サマディーに導き合計7人の普通人を導き、一夜にしてサマディー成就者へと変容させた何故そうしたのかと言うと生から死へ入り、死から生へ蘇る現実に、サマディーという事実が本当に有ると、証明するためにだから生地がマガダ国とかぶる、ササラン王国の王子として生誕したことで釈尊の再来と称され噂されていたと言います2025/08/09 14:20:5345.神も仏も名無しさんr27XZネカマーンかおりん🤡💢2025/08/09 21:52:4746.パーリー◆HpIafZZzjh.GidmQFhttp://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70520.html● 五取蘊の四転南伝 相応部経典22-56 取転漢訳 雑阿含経2-9 五転◯ かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。その時、世尊は、比丘たちに告げて説きたもうた。「比丘たちよ、生に五つの要素(五取蘊)がある。その五つとはなんであろうか。いわく、色(肉体)なる要素、受(感覚)なる要素、想(表象)なる要素、行(意志)なる要素、識(意識)なる要素がそれである。比丘たちよ、わたしは、この生に取著する五つの要素の?四つの変化の相を、まだ、あるがままに、じゅうぶんに証知するにいたらない間は、比丘たちよ、わたしは、なお、天神・悪魔・梵天のすむ天界、および、沙門・婆羅門、その他、あらゆる人界のすむ世界において、最高の正等覚を実現したとは称さなかった。だがしかし、比丘たちよ、わたしは、この生に取著する五つの要素の四つの変化の相を、すでに、あるがままに、じゅうぶんに証知することをえた。だからして、比丘たちよ、わたしは、この天神・悪魔・梵天のすむ天界、ならびに、沙門・婆羅門、その他、あらゆる人界のすむ世界において、最高の正等覚を実現したと称するのである。では、その四つの変化の相というのはなんであろうか。以下続く2025/08/11 13:24:0847.パーリー◆HpIafZZzjh.GSngJ9● 攝境従心(しょうきょうじゅうしん)◯ 性相別論(しょうそうべつろん)https://kinkaizan-shakain.jp/shokyojushin/2025/08/12 18:13:0948.パーリー◆HpIafZZzjh.GSngJ9● 攝境従心(しょうきょうじゅうしん)「攝境従心」とは、「すべての現象(境界)は心から生じる」という理論です。これは、三界(欲界、色界、無色界)がすべてただ一つの心から成り立っており、「心の外に別の法(もの)はない」と説明しています。つまり、外に見えるすべてのものは、心が作り出したものである、と教えます。『華厳経』には【三界は唯心の所造】とあります。これは、すべての宇宙と現象は心が生成するものであると説明しています。【解深密経】では 【一切の影像は唯心の所現】とありすべての現象は心が現す影であるとされています。◯ 性相別論(しょうそうべつろん)一方で、「性相別論」では【世の中の現象】と【真如】を体系的に分類して無上甚深微妙法【真如】は、無限に広がっており、その境界はないとされています。【インドで活躍された世親菩薩】は、「性相別論」を「五位百法」という枠組みで整理しました。これにより、全ての存在を「五位」と「百法」に分類し● 移り変わる【現象世界】(九十四種の有為法)と◯ 【永遠不変の本質的な実在】(無為法・真如)を区別します。現象世界は【真如】という絶対的な実在を基盤としています。しかし、【真如】は、直接的に現象となるわけではありません(真如は形も匂いもなく◯【現象】になれば 【真如】ではなくなります】現象は●私たちの 【本心=阿頼耶識】が 【作り出した影像】なのです2025/08/12 18:13:2349.神も仏も名無しさん8XXqk「あの世の私」と「この世の私」 月夜見公式ch.https://www.youtube.com/watch?v=DU4AIgBdmqY2025/08/12 20:28:1150.神も仏も名無しさん8XXqk本当の変容は、努力ではなく「ただ観る」ことから始まる | クリシュナムルティ | 観る | 変容 |https://www.youtube.com/watch?v=T7rZvwk-e-82025/08/12 20:38:4851.神も仏も名無しさん6ekrb2号機でおーは自称離婚歴有り2025/08/13 21:43:1252.神も仏も名無しさん6ekrb2号機でおーは底辺層の貧乏人2025/08/13 21:48:2753.パーリー◆HpIafZZzjh.GPYSVC>136●【行為と煩悩の止滅】によって【解脱】がある。【行為と煩悩】は【思惟より生じる。】それらは【ことばの虚構による。】【ことばの虚構】は【≪空性≫によって≪滅≫せられる。】● 【心の対象】が【止滅するとき】には【ことばの対象】は【止息する。】というのは【ものの本性】は【涅槃のよう】に【生じたもの】でも【滅したものでもない。】● 【他のもの】をとおして 【知られず】【静寂】で、【ことばの虚構によって】【論じられることなく】【思惟を離れて】【種々性を越える。】これが【真実の形】である。(『中論頌』18:5、7、9)ーーーここが無心の処ですね言葉は心に生じる、から観るも聴くも、5感覚全てと、感情の全ても心に於いて、生じて滅するつまりこの世とは、心に於いて知られる夢のような、幻のように、現れては消え去るものそれは、この様に言える空間=識であって、広大無辺と言えども全て、識=空間=心の内でのことである、と故に龍樹の言う勝義とは無心、心の空、のことなのであると2025/08/14 17:34:2254.パーリー◆HpIafZZzjh.GjuNA0110 鹿野園 ◆00MWura8lSZF sage 2023/08/14(月) 08:08:17.06 ID://64qryEいわゆる「三諦偈」なのですが、ここで中村先生は、● 因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。これは確かに真理であるが、しかしわれわれは空という特殊な原理を考えてはならない。空というのも仮名であり、空を実体視してはならない。故に空をさらに空じたところの境地に中道が現われる。因縁によって生ぜられたもの事物を空ずるから非有でありその空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。すなわち中道は二重の否定を意味する。ほぼこの様に中国以来伝統的に解釈されてきた。と述べ、更にしかし、この天台以降の解釈がはたしてナーガーリュジュナの原意を得てるであろうか。と疑義を呈している訳です。2025/08/15 17:03:3755.神も仏も名無しさん1EKBc>>46阿含経は知らんかったけど、色の部分だけ抜き出すと。※※色(肉体)なる要素、色を証知した。色の生起を証知した。色の滅尽を証知した。そして、色の滅尽にいたる道を証知した。色とはなんであろうか。比丘たちよ、四つの元素(地・水・火・風)と、四つの要素によって造られる物、これを名づけて色となす。それを養うものがあって色の生起がある。それを養うものがなくなって色の滅尽がある。※※色は物質を認識すること、みたいな意味かしらん、そうすると色即是空は、物質と思えばそれは空っぽであり、空即是色は、空っぽもまた物質 (の素) なのであり…。なんか素粒子物理学の場の理論みたいなもんかね、真空から粒子が現れ、次の瞬間に粒子はまた真空に消える。だんだん科学に近づいてきたかも…。2025/08/15 20:35:1156.リダン◆gEV3xsS//kydlX4>>55いまの特に量子学は仏教をならうらしいからちょっと仮説が仏教よりなってるというのもある2025/08/15 20:38:5557.パーリー◆HpIafZZzjh.GTGttX● 因縁切りの秘法 ●同じ失敗を繰り返してしまう理由――そこには、目に見えぬ「因縁」の力が働いています。出口王仁三郎が見抜いた、血縁・人間関係・土地に潜む因縁の正体とは?動画では、因縁の仕組みとその断ち切り方を、誰にでも実践できる方法で紹介します。過去の苦しみを手放し、新たな人生を歩み出したい方は、ぜひご覧ください。https://youtu.be/wlpiG6EnntQ?si=EaY1w6T2zjotxTaF2025/08/15 21:56:0258.パーリー◆HpIafZZzjh.GpfNEU● あなたは身体や心ではない‼️●ニサルガダッタ・マハラジ❤️ ニサルガダッタ・マハラジは、インドの非二元哲学の偉大な教師のひとりで、世界中のスピリチュアル・シーカーに大きな影響を与えた存在です。彼の最も有名な著作は、弟子が語録をまとめた『I Am That(私は在る)』です。❤️ 特徴 ? 高名な僧侶やグルでもなく、一般市民として目覚めを体現。 ? シンプルで直接的な言葉で、「自己とは何か」を語る。 ? 修行や信仰よりも、“今ここに気づく”ことの力を強調。❤️ 教えの核心:「私は在る」マハラジの教えは、非常にシンプルかつラディカルです。その中心はこの言葉にあります:「私は在る(I Am)」という感覚にとどまりなさい。つまり、思考や感情、記憶、身体、役割などの一切を横に置き、ただ「私が存在している」というシンプルな自己意識に集中しなさいという教えです。これを続けていくことで、やがて「私」という感覚すら超え て、真我(純粋な意識)そのものに気づくと言います。https://youtu.be/SqQXvgaiZ_U?si=d5jxsXsv7RI4gbov2025/08/15 23:04:0659.パーリー◆HpIafZZzjh.GBC13f‼️超弩級の発見‼️2018年7月25日2021年9月10日● 正念とは瞑想の対象を保持することだった~アーチャン・マハー・ブーワは≪念仏三昧で阿羅漢≫になった‼️https://www.yurubossa.com/cyoudokyuu/2025/08/18 13:52:2360.パーリー◆HpIafZZzjh.GBC13f● 首楞厳経~魔境を説いたお経:大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経◯首楞厳経~禅定に関するお経だが2種類ある◯首楞厳三昧経(śūraſgamasamādhi-sūtra)◯神通力で救済をしていた中国禅の時代に登場したのが首楞厳三昧経◯初期の中国禅では戒・定・慧を修行していた◯大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経◯一切の物事は無いとする宋の時代の禅が盛んだった頃に流行したお経◯魔境のお経として有名な大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経◯首楞厳経は最勝最高最善の禅定のことを説いたお経https://www.yurubossa.com/syuryougonkyou/#i-22025/08/18 13:56:2861.神も仏も名無しさんDO9lVデンパパ📶は愉快犯になった🛸2025/08/18 13:56:5762.パーリー◆HpIafZZzjh.GMBX7C阿湿貝経(キータギリ・スッタ)>「第四の段は、見をして到る、見到である。> 彼らには、法則を解する、煩悩の減少があり、> 煩悩を落とし、彼らは、身で体現する者になる。」>> 「第五の段は、身をして現す、身証である。> 彼らには、実践に於ける、煩悩の減少があり、> 煩悩を落とし、彼らは、名を解脱する者になる。」>> 「第六の段は、名を越える、慧解脱である。> 彼らには、智慧を用いる、煩悩の滅尽があり、>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」>> 「第七の段は、色も越える、倶解脱である。> 彼らには、身体を用いる、煩悩の滅尽があり、>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」>五下分結経(マハーマールンキャー・スッタ)>>「尊師よ、もし、これが、出離の道ならば、> 心が解脱した者と、智慧によって解脱した者。>その両者の違いとは、如何なるものでしょうか。」>> 「アーナンダよ、能力の違いと、私は解く。> 禅定に優れた者は、心による、解脱を果たし、> 智慧に優れた者とは、慧による、解脱を果たす。」2025/08/18 20:35:3763.パーリー◆HpIafZZzjh.Ge7Syh>須らく回光返照の退歩を学すべし回光返照って道教の言葉であって呂祖師の太乙金華宗旨に出てくる言葉ですね回光とは眼から出た光(識)が、世界対象を照らしてから、眼に返って来ることの廻りを表すそして世界が認識されるのを返照と言い自己意識と環境世界は見分、相分と別れているようでも実は一如であるということを言う2025/08/21 07:40:4164.パーリー◆HpIafZZzjh.GEraZz苫米地の仏教https://www.youtube.com/watch?v=6U9EURzHXQg&list=PL38CFAECDA23802A62025/08/21 16:06:4265.リダン◆gEV3xsS//kPwfDz仙道おもろいまんま体外離脱時の前兆https://note.com/morfo/n/n12b29daf0fe5さらに心を集中していると、下丹田に「大薬」が生じます。この時、「六根振動」といって、下丹田が燃焼し、腎が沸騰し、眼から金色の光が出て、耳の後ろでは風が起こり、頭の後ろで鷹が鳴き、身が沸き立つようで、鼻が引き付けたりするように感じます。2025/08/24 12:05:0166.リダン◆gEV3xsS//kPwfDz大薬が所謂、大周天なんやな2025/08/24 12:05:3967.パーリー◆HpIafZZzjh.GgdoMrバカ共は≪ほうっておけ‼️≫自分を守りなさいby 釈尊https://youtu.be/ITyizY5J9KU?si=69aCg2xBa5A9vKDo2025/08/24 14:09:3268.パーリー◆HpIafZZzjh.GgdoMr仏教各派のサマタ瞑想(止)https://note.com/morfo/n/n979f79877a5c2025/08/24 16:25:0469.パーリー◆HpIafZZzjh.GgdoMr● ニサルガダッタ・マハラジの動画見てて良いこと言ってたよ、それは≪【見る者】が【在る者】に代わる‼️≫だってこれはスゴイ!表現だね●1 見る行為が、見分見られた対象の映像、概念が、相分●2 見ていると意識している者が、自証分●3 見る意識は≪在る≫というそれに とって代わられる!●4 在るという気付きが自証を証する分見る意識を証しするのは≪在る≫という、それ‼️2025/08/24 16:41:3270.パーリー◆HpIafZZzjh.GgdoMr565 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm (50-ltP-Ij-ibv) sage 2025/08/24(日) 16:34:20.39 ID:GZrEL(原文)安惠解云。變謂識體轉似二分、二分體無。遍計所執。除佛以外菩薩已還、諸識自體即自證分、由不證實有法執故、似二分起。即計所執。似依他有、二分體無。如自證分、相貌亦有。以無似有。即三性心皆有法執。八識自體皆似二分。如依手巾變似於兎、幻生二耳二耳體無、依手巾起 。(『述記』巻一本、大正四三、二四一)(読み下し)安恵解して云く。「変とは謂く識体転じて二分に似る」といふは、二分は体無きなり。遍計所執なり。仏を除きて以外の菩薩已還の、諸識の自体は即ち自証分なるも、実を証せず法執有るに由るが故に、二分に似て起こる。即ち計所執なり。依他の有に似るも、二分は体無きなり。自証分の如く、相貌は亦た有なり。無の有に似るを以てなり。即ち三性の心に皆な法執有り。八識の自体は皆な二分に似る。手巾に依りて兎を変似するに、幻に二耳を生ずるも二耳は体無く、手巾に依りて起こるが如し。(解説)すなわち、相分・見分は無体であり、遍計所執性である。仏以外は、諸識の自体である自証分が、法執により相分・見分のようなものを起こす。これが遍計所執性である。これは依他起性である自証分のように有体であるかのようであるが、相分・見分は無体である。したがって三性の諸識にはみな法執があり、その自体(自証分)が相分・見分のようなものになるのである。それは手巾で作られた兎の耳のようなものである、という。ここには、相分・見分が無体、自証分が有体であり、前者が遍計所執性、後者が依他起性であるという解釈が見られる。また、三性の諸識にはみな法執があるという解釈も見られる。このことから、安慧の一分説とは、相分・見分・自証分の三分を認めた上で、相分・見分の無体と、自証分の有体とを説くものであることが知られる。2025/08/24 16:49:0271.パーリー◆HpIafZZzjh.GgdoMr円成実性・・・・実有依他起性・・・・仮有~実法、仮法遍計所執性・・畢竟無~無法2025/08/24 16:50:0072.パーリー◆HpIafZZzjh.GVYt3s>>65六根振動なんか下腹が振動するんだが?目から金色の光を放つ‼️23歳の時に金色のリング状の光を眉間から放ってたね2025/08/24 20:17:4973.リダン◆gEV3xsS//kiHqeN>>72丹田、足が振動しそれを喉→一度外に出て→再度こめかみから侵入→登頂→眉間まできたら全身に行き渡らせ振動そのとき後頭部で3D音響で鳴り響く(ナーダ音、マントラ等)2025/08/25 04:11:4374.リダン◆gEV3xsS//kiHqeN身体の階層(密教) (ヴェーダーンタ哲学) (神智学)・法身:原因身(カーラナ・シャリーラ) :コーザル体・報身:微細身(スクシュマ・シャリーラ):アストラル体・応身:粗大身(ストゥーラ・シャリーラ):物質体2025/08/25 04:16:4775.リダン◆gEV3xsS//kiHqeN(経典・教え) (霊的身体)・グヒヤサマージャ・タントラ:幻身・ヨーギニー・タントラ :虹身・カーラチャクラ・タントラ :空色身・ゾクチェン :光身(虹身)2025/08/25 04:17:5676.リダン◆gEV3xsS//kiHqeN「幻身」は、全身のすべてのプラーナを、スシュムナーに上下から入れ、さらに胸のビンドゥに収束させた後、再度、逆流出する時に、新しく生み出した「意成身」です。「意成身」というのは、魂の体(微細身、アストラル体)です。人間は、死後から再生するまでの中有の間、この「意成身」で活動するとされます。単なる霊体離脱とは異なります。2025/08/25 04:18:4577.リダン◆gEV3xsS//kiHqeN修行者は、もともと「意成身」を持つので、新たに生み出したもう一つの「意成身」が「幻身」です。「幻身」は、魚が跳ねるように生まれると表現されます。2025/08/25 04:19:3078.リダン◆gEV3xsS//kiHqeN「幻身」は、これに空の智恵を加えて再創造することで、浄化された「報身」になります。これに限らず、以下のすべての行法では、空の智恵は前提となります。「報身」は修行者が生きている間に獲得できるので、肉体と共存しますが、一般人には見えません。2025/08/25 04:20:3979.リダン◆gEV3xsS//kiHqeN体外離脱時の状況はここで言う死後の待機状態幻身、報身、意成身のようだそこからさらに錬成し法身や虹身、光身へと精進するわけか俺の場合はやっぱタントラ方面があってそうだな2025/08/25 04:34:0980.リダン◆gEV3xsS//kiHqeN「幻身」は、魚が跳ねるように生まれると表現されます。まさにそのとおり2025/08/25 04:41:5381.リダン◆gEV3xsS//kiHqeN密教によるスピードアップ顕教で説かれる空の知を修習し成仏するには永い時間が必要であるが、密教の修行をすれば、それを高速化することができる。たとえば無上瑜伽タントラの二次第を修習すれば、最低で三年三ヶ月以内、最長でも十八回転生する間に成仏可能であるとされている。これは密教で説かれる空に対する知が、顕教のそれに比べより微細で、より強力なものであることに由来している。しかしこれはあくまでも高速道路を猛スピードで走るようなもので、ほんのすこしでも間違ってしまえば、すぐさに地獄に堕ちてしまう危険性を伴っている。無上瑜伽タントラの修習法は「生起次第」と「究竟次第」と呼ばれる二つのプロセスがある。まず生起次第においては、通常の我々のイメージを捨て、自らが成仏する過程、曼荼羅の諸尊が自らを取り囲む過程を何度もイメージする。具体的には、死有、中有、生有の過程を仏の法身・応身・色身を成就する過程と重ねあわせ何度もイメージし、最終的には、芥子粒ほどの大きさの微細な空間に曼荼羅の諸尊と曼荼羅が観想できるようになる。それが完成すると修行者は倶生の大楽を成就し「究竟次第」と呼ばれる即身成仏プロセスへと移行する。究竟次第では、通常死後に成就する中有の身体の代わりに「幻身」と呼ばれる身体を成就し、その後「光明」と呼ばれる段階で、死の瞬間に見える死の光明と空性を現観する智とを合体させて仏の境地へと赴くのである。2025/08/25 04:50:2882.パーリー◆HpIafZZzjh.GdUwCr勉強してるね~死の瞬間に見える光明‼️心臓停止、脳波停止、呼吸停止これで肉体的に死んだ後にその光明を見てってことですねブッダになって肉体に戻って生き返る‼️2025/08/25 16:06:4483.パーリー◆HpIafZZzjh.G0fL3J● 内なるグル ●おれの場合は最初の内なるグル、つまり、守護霊さんとは一体になったねこれは神人(カミヒト)さんという霊能力者のリーディングで証された今は、おれにとって初めての指導神霊としてのグルの存在が居られます昨年肉体を離れられた、パイロット・ババシとババジ率いるヒマラヤのアヴァター様方が、サンカルパ・ヨガの霊統に連なる瞑想修行者を、ご指導くださっていて幸運にも、4月に寝ずに9日間瞑想してた時の8日目にご指導いただきました‼️この様な、神霊との、体験を伴う瞑想中の交流は、今まで無かったから、とても驚いたし、衝撃的な体験だった指導というより、助けて下さいました、寝ずに8日目で、瞑想中の意識か覚醒でなく、朦朧となった時にどうか!覚醒をお与え下さい‼️ってババジへ祈念したら、オレンジ色の光を見た後、突如として電撃のようなエナジーが浴びせられて、身体が痺れたように振動して、一気に覚醒されたのですよ凄まじい覚醒のエナジーでしたオレンジ色の光を見ると、それはババジ様のお印なのだと、スワミジ様が仰っててこれ迄に3回ほど瞑想中に見ましたね、瞑想の節目節目に、お印がある感じですまあ、あなたは、自分の真我がグルだとか言うんでしょうが、自分の真我は、自分の肉体身体へは直接関与はしません、見ているだけですから2025/08/26 14:48:1484.リダン◆gEV3xsS//k5dxa5なんやかんや幻身、意成身=体外離脱であるならばこれが一番解脱には早い気がするな2025/08/26 22:25:4385.リダン◆gEV3xsS//k5dxa5肉体と内在のあるいは別に意成身を作るにあたって微細なコントロール(肉体は動かさず、意成身を動かす)これは鹿ちゃんがいうように箒の扱いなどに現れる2025/08/26 22:36:3386.リダン◆gEV3xsS//k5dxa5>>842025/08/26 22:38:3687.リダン◆gEV3xsS//k5dxa5>>842025/08/26 22:38:5388.リダン◆gEV3xsS//k5dxa5あらなんかバグってる2025/08/26 22:49:1289.リダン◆gEV3xsS//kA1CEFヨグマタさんって体外離脱でヨガの人たちとアストラル会議してんのな2025/08/27 01:21:0890.パーリー◆HpIafZZzjh.G2Y1Icキーターギリ経https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%AA%E7%B5%8C● 登場人物釈迦アッサジ(阿湿貝)プナッパスカ● 場面設定◯ ある時釈迦たちはカーシー国のキーターギリ(キーター山)に滞在していた。そこで釈迦は、アッサジとプナッパスカを呼び出し、午後にも食事を摂っているのか質すと、彼らはそれを認める。釈迦は彼らに戒律を守ることの重要性を説き、もし修行が完成して解脱した者となっているのであれば「不放逸になすべきことなし」と述べるであろうと説く。さらに【煩悩を絶って】【無学に至る】までの【七つの段階(七聖者)】などを説く2025/08/27 15:20:3591.パーリー◆HpIafZZzjh.G2Y1Ic● 比丘たちよ、これら七(種類)の人が世間に見られる。いかなる七か。1 倶分解脱2 慧解脱3 身 証4 見 至5 信 解6 法 随行7 信 随行 である。◯ では比丘たちよいかなる人が【倶分解脱】であるか。ある人は・・・【色界】を超えて【無色界】に触れ住している(禅定)さらに【智慧】によって【煩悩を滅尽】している。これを【倶分解脱】と呼ぶ。私は彼に≪不放逸になすべきことなし≫ という。それはなぜか。彼はすでに≪不放逸になされており≫再び【放逸となる】ことは【あり得ない】ためである。◯ さらに四預流支を上げ、どのような順で法随法行(預流の前段階)を得るのかを説く。2025/08/27 16:52:5092.パーリー◆HpIafZZzjh.G2Y1Ic◯ では比丘たちよ【開悟の達成】のためには、どのような順次の【学び】順次の【所作】順次の【行道】 があるのか。◯ 比丘たちよここに【信心を備えた者】が(師に)近づく。近づいて、敬い仕える。【=善士親近】敬い仕えて(教えに)耳を傾ける。耳を傾けて法を聞く。【=正法聴聞】聞いて法を保持する。保持された法の【意義を考察】する。 【=如理作意】【意義を考察する者】は、【法を受け入れること】に耐えられる。【法を受け入れた者】には意欲が生まれる。【意欲が生まれ敢行する】。敢行して【考量】する。考量し【精勤】する。【=法随法行】自ら【精勤】し身をもって【最高の諦を実証し】また【慧】をもって【洞察】して【観る】彼らは歓喜する。2025/08/27 16:53:0093.パーリー◆HpIafZZzjh.G2Y1Ic● では比丘たちよ、いかなる人が倶分解脱であるか。◯ ある人は、色界を超えて無色界に触れ住している1≪禅定≫◯ さらに2≪智慧≫によって煩悩を滅尽している。◯ これを≪倶分解脱≫と呼ぶ。私は彼に「不放逸になすべきことなし」という。それはなぜか。彼はすでに不放逸になされており、再び放逸となることはあり得ないためである。2025/08/27 16:57:1694.パーリー◆HpIafZZzjh.G2Y1Ic阿湿貝経(キータギリ・スッタ)五下分結経(マハーマールンキャー・スッタ)阿湿貝経(キータギリ・スッタ)●「第四の段は、見をして到る、見到である。彼らには、法則を解する、煩悩の減少があり、煩悩を落とし、彼らは、身で体現する者になる。」●「第五の段は、身をして現す、身証である。彼らには、実践に於ける、煩悩の減少があり、煩悩を落とし、彼らは、名を解脱する者になる。」●「第六の段は、名を越える、慧解脱である。彼らには、智慧を用いる、煩悩の滅尽があり、もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」●「第七の段は、色も越える、倶解脱である。彼らには、身体を用いる、煩悩の滅尽があり、もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」五下分結経(マハーマールンキャー・スッタ)「尊師よ、もし、これが、出離の道ならば、心が解脱した者と、智慧によって解脱した者。その両者の違いとは、如何なるものでしょうか。」「アーナンダよ、能力の違いと、私は解く。 ● 禅定に優れた者は、心による、解脱を果たし、● 智慧に優れた者とは、慧による、解脱を果たす。」2025/08/27 17:35:0895.パーリー◆HpIafZZzjh.G2Y1Ic1025 (アジタがいった)、「バーヴァリは頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて質問しました。先生! それを説明してください。仙人さま! われらの疑惑を除いてください。」1026 (ゴータマ・ブッタは答えた)、「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章 1、序 中村元訳 岩波文庫)2025/08/27 17:50:2896.パーリー◆HpIafZZzjh.Gb3Bxu日本仏教学院https://true-buddhism.com/teachings/nirvana/この「無余涅槃」のことを「完全な涅槃」ということで、「般涅槃はつねはん」ともいわれます。「般」というのは完全ということです。「般涅槃」に大の字をつけて「大般涅槃だいはつねはん」ともいわれ、『大般涅槃経』というお経もあります。ところが、この完全な涅槃である「般涅槃」について、重大な聞き誤りがあります。●聞き誤った完全な涅槃とは?それは、煩悩の火を吹き消して涅槃の境地に達したならば、【生死輪廻を離れる】ので、涅槃の境地に達した人は、【死ねば何もなくなってしまう】というものです。これは、上座部仏教の目指す最高のさとりの境地です。今日スリランカや東南アジアに残っている、テーラワーダ(上座部)仏教も同じです。この死ねば何もなくなってしまうという聞き誤りを●【灰身滅智けしんめっち】といわれます。【灰身滅智】とは、身を灰にし、智が滅しますので、心身共に無になる、というものです。昔、西洋人はテーラワーダ(上座部)仏教から仏教の研究を始めたので、仏教は虚無主義だという誤解を与えてしまったのです。2025/08/28 11:57:0197.パーリー◆HpIafZZzjh.Gb3Bxu● 真実の涅槃とは?●真実の涅槃とはどんな境地かというと、天親菩薩は、『摂大乗論釈』にこう教えられています。智慧(般若)によるがゆえに生死にとどまらず慈悲によるがゆえに涅槃に住せず。漢文:由般若不住生死 由慈悲不住涅槃出典:天親菩薩『摂大乗論釈』「智慧あるが故に生死にとどまらず」とは、智慧がありますから、生死輪廻を限りなく続けるということは、もはやありません。しかしだからといって、自分だけ助かれば、他の人はどんなに苦しんでいてもかまわないということでは無慈悲です。慈悲心がありますから、まだ苦しみ迷っている人が大勢いるのに、自分だけ涅槃でじっとしていることはできません。「慈悲あるが故に涅槃に住せず」何とか助けてやりたいと、すぐに生死の世界に戻ってきて、すべての人を助ける救済活動をせずにおれなくなってきます。これを「【無住処涅槃】むじゅうしょねはん」と言います。生死にも涅槃にとどまらず、すべての人が救われるまで、助けずにおれないのです。これを「【生死即涅槃】しょうじそくねはん」ともいわれます。真実は言葉にかからないから、言っても分かることではないと思っても、言わずにおれなくなります。それが、真実の涅槃であり、仏のさとりなのです。表にまとめるとこうなります。2つの涅槃◯有余涅槃うよねはん◯無余涅槃むよねはん=般涅槃はつねはん=大般涅槃だいはつねはん=無住処涅槃2025/08/28 12:09:0498.パーリー◆HpIafZZzjh.Gb3Bxuhttp://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70520.htmlでは、比丘たちよ、想とはなんであろうか。比丘たちよ、六つの表象する作用である。いわく、色の表象、声の表象、香の表象、味の表象、感触の表象、および、観念の表象である。これらを名づけて想という。そこでも、接触があって想の生起があり、接触がなくなって想の滅尽がある。そして、その滅尽にいたる道とは八支の聖道である。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように想を証知し、・・・その時もはや輪廻などということはありえないのである。2025/08/28 17:13:5699.パーリー◆HpIafZZzjh.Gb3Bxuでは、比丘たちよ、識とはなんであろうか。比丘たちよ、六つの意識するいとなみである。いわく、色の意識、声の意識、香の意識、味の意識、感触の意識、観念の意識である。これらを名づけて識という。そこでは、✽名と色があるによりて識の生起がある。【名】がなく【色】がなくなって【識の滅尽】がある。そして、その滅尽にいたる道とは八支の聖道である。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように識を証知し、このように識の生起を証知し、このように識の滅尽を証知し、そして、このように識の滅尽にいたる道を証知して、よく識を厭い離れ、よく貪りを離れ、よくその滅尽に向うならば、それはよくその道に順うものである。よくその道に順うものは、確乎としてこの法と律のなかに立つものである。比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように識を証知し、このように識の生起を証知し、このように識の滅尽を証知し、そして、このように識の滅尽にいたる道を証知して、よく識を厭い離れ、よく貪りを離れ、よくその滅尽に向うならば、彼はもはや、取著なきによりて自由となり、よく解脱せるものとなる。そして、よく解脱すれば、その人はすでに完成したのであり、完成すれば、その時、もはや輪廻などということはありえないのである」2025/08/28 17:28:17100.パーリー◆HpIafZZzjh.GPs3Kc転識得智https://i.imgur.com/J7RSaox.jpeg唯識とはなにか: 唯識三十頌を読む多川俊映2025/08/29 19:42:15101.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJ● では比丘たちよ 【想】とはなんであろうか。比丘たちよ 【六つの表象する作用】であるいわく1【色の表象】2【声の表象】3【香の表象】4【味の表象】5【感触の表象】および6【観念の表象】である。● これらを名づけて≪【想】≫という。≪【想】≫という。≪【想】≫という。そこでも【接触】があって【想の生起】があり【接触】がなくなって【想の滅尽】がある。2025/08/30 10:22:23102.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJ● このように【理解した者】の【形態 】は 【消滅】する● けだし=1まさしく、2確かに、3思うに【ひろがりの意識】は 【想い】にもとづいて 【起こる】からである(スッタニパータ)ーーーーーーーーーーーけだし【蓋し】読み方:けだし[副]1物事を確信をもって推定する意を表す。【まさしく。たしかに。思うに。】「?その通りであろう」2(あとに推量の意味を表す語を伴って)【もしかすると。あるいは。】「百(もも)足らず八十隅坂(やそくまさか)に手向けせば過ぎにし人に?逢はむかも」〈万・四二七〉3(あとに仮定の意味を表す語を伴って)万が一。もしも。ひょっとして。「わが背子し?まからば白妙の袖を振らさね見つつしのはむ」〈万・三七二五〉4おおよそ。大略。多く、漢文訓読文や和漢混淆文などに用いる。「よって勧進修行の趣、?もって斯(か)くの如し」〈平家・五〉2025/08/30 10:22:41103.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJ● では比丘たちよ 【想】とはなんであろうか。比丘たちよ 【六つの表象する作用】であるいわく1【色の表象】2【声の表象】3【香の表象】4【味の表象】5【感触の表象】および6【観念の表象】である。● これらを名づけて≪【想】≫という。≪【想】≫という。≪【想】≫という。そこでも【接触】があって【想の生起】があり【接触】がなくなって【想の滅尽】がある。2025/08/30 10:23:30104.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJ● このように【理解した者】の【形態 】は 【消滅】する● けだし【ひろがりの意識】は 【想い】にもとづいて 【起こる】からである(スッタニパータ)ーーーーーーーーーーーこの【想い】が>362の【想】です‼️【広がりの意識】とは【空間=識】のことーーーーーーーーー比丘たちよ 【想=想い】とはなんであろうか。比丘たちよ 【六つの表象する作用】であるいわく1【色の表象】‼️2【声の表象】‼️3【香の表象】‼️4【味の表象】‼️5【感触の表象】‼️および6【観念の表象】である‼️5感覚➕6観念=空間=識ってことですそれだから広がりと言う2025/08/30 10:23:56105.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJ● このように【理解した者】のA【形態 】は【消滅】する● まさしく(けだし)B【ひろがりの意識】は 【想い】にもとづいて 【起こる】からである(スッタニパータ)ーーーーーーーーーーーすべての想いから離れたが故にB【ひろがりの意識】となり● ≪広がりの意識である≫が故にこのように【理解した者】の● A【形態 】は【消滅】するーーーーーこれが【八ー正定】としての【第四禅定】での在り方なんですよ‼️2025/08/30 10:24:17106.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJhttps://youtube.com/shorts/siu7wtmwReI?si=i7tEZvRFprfVOTQH2025/08/30 10:24:53107.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJA●「前五識の見分」 「前五識の相分」 「前五識の自証分」 「前五識の証自証分」B●「第六意識の見分」 「第六意識の相分」 「第六意識の自証分」 「第六意識の証自証分」C●「末那識の見分」 「末那識の相分」 「末那識の自証分」 「末那識の証自証分」D●「阿頼耶識の見分」 「阿頼耶識の相分」 「阿頼耶識の自証分」 「阿頼耶識の証自証分」ーーーーーーーーーーーーーーーー◯Cー【外境-否定】の【無相】唯識◯Dー【外境-肯定】の【有相】唯識ーーーーーーーーーーーーーーーー● 客体(所取)① ← ここを認めるか否 かの違い● 主体(能取)②(客観③+主観④)ーーーーーーーーーーーーーーーーー2025/08/30 17:18:16108.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJby 法介● Bは【龍樹】『中論』の【法空】【世親】『唯識』の【法空】ーーーーーー◯ A=声聞◯ B=縁覚◯ C=菩薩各 三乗の【四分】の相違2025/08/30 17:18:49109.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJby 法介●A【 声 聞 】「前五識の見分」「前五識の相分」「前五識の自証分」「前五識の証自証分」入れ換え1「前五識の相分」2「前五識の見分」3「前五識の自証分」4「前五識の証自証分」ーーーーーーーーーーーーーーー1●色界禅定→【客観=相分】→【止滅】2● 【主観=見分】→【止滅】 ●色界=禅天→入禅定ーーーーーーーーーーーーーーー3●無色界禅定末那識--自我=自証分→止滅→無色界入禅定4●阿頼耶識=証自証分=無色界→止滅 ↓↓ ニルバーナ=涅槃初期仏教→四諦→無余涅槃(寂滅の仏法)ーーーーーーーーーーーーーーーーー●B【 縁 覚 】1「第六意識の相分」2「第六意識の見分」3「第六意識の自証分」4「第六意識の証自証分」1●客観=相分→析空→解体2●主観=見分→体空→作空3●4●2025/08/30 17:19:29110.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJby 法介●A【 声 聞 】「前五識の見分」「前五識の相分」「前五識の自証分」「前五識の証自証分」入れ換え1「前五識の相分」2「前五識の見分」3「前五識の自証分」4「前五識の証自証分」ーーーーーーーーーーーーーーー1●色界禅定→【客観=相分】→【止滅】2● 【主観=見分】→【止滅】 ●色界=禅天→入禅定ーーーーーーーーーーーーーーー3●無色界禅定末那識--自我=自証分→止滅→無色界入禅定4●阿頼耶識=証自証分=無色界→止滅 ↓↓ ニルバーナ=涅槃初期仏教→四諦→無余涅槃(寂滅の仏法)ーーーーーーーーーーーーーーーーー●B【 縁 覚 】1「第六意識の相分」2「第六意識の見分」3「第六意識の自証分」4「第六意識の証自証分」1●客観=相分→析空→解体2●主観=見分→体空→作空3●4●2025/08/30 17:20:16111.パーリー◆HpIafZZzjh.Gv0ZkJby 法介● 三性説藁=円成実性縄=依他起性蛇=遍計所執性唯識の常識●【依他起性】に於ける【有体】は 【非有ー似有】ーーーーーーーーーーーーーーーーー◯大乗仏教は特に空思想を重視する訳で、瑜伽行唯識学派も例外ではなく実体としての有体を説く訳ではない。刹那生滅しながら相続する識の作用としての現象(対境)を【外界実在論と妄想】→【遍計所執性】 =【無体】【心の現れ】→【依他起性】 →【円成実性】ーーーーーーーーーーーーーー【円成実性】・・・・実有【依他起性】・・・・仮有~実法、仮法【遍計所執性】・・・畢竟無~無法●【仮法】→存在はしなくとも想像上存在するもの(ex:兎角亀毛)●【無法】→決して存在しないものーーーーーーーーーーーーーーーーー有無→三類境(性境、帯質境、独影境)ーーーーーーーーーーーーーーーーー● 種子→阿頼耶識由来◯有体=(円成実性、依他起性)◯無体=(遍計所執性)ーーーーーーーーーーーーーーーーー藁=円成実性、性境、実有縄=依他起性、帯質境、仮有、実法、仮法蛇=遍計所執性、独影境、畢竟無、無法ーーーーーーーーーーーーーーーーー2025/08/30 17:20:30112.パーリー◆HpIafZZzjh.GBkz4J1. 基本の菩薩業行首楞厳三昧に入るための条件として、菩薩はまず以下を行うべしと説かれています。・戒律を守ること身口意を清浄にし、五戒・十善を確立する。戒が根本。・布施・忍辱・精進・禅定・智慧の実践いわゆる「六波羅蜜」の総合的修行。とくにこの経では「禅定と智慧」が強調される。・慈悲心の徹底一切衆生を自分と同じく見て、救済の心をもつこと。2025/08/31 09:59:10113.パーリー◆HpIafZZzjh.GBkz4J2. 菩薩が修すべき観法(実践法)『首楞厳三昧経』の具体的な修行法は「三昧に入るための観法」として説かれます。1.仏を観ずる(観仏三昧)・まず「釈迦牟尼仏」を観想することから始める。・仏の身体の三十二相八十種好を観じて心を集中する。・これにより、心が散乱から離れ「一境専念」となる。2.空性の観察・仏を観じつつ、やがてその仏身が「空性」であることを覚る。・すなわち「仏の相好」も空であり、自分の心も空である。・これによって「主観(見分)」も「客観(相分)」も共に空じられる。3.如来蔵の洞察・空でありながら滅しない「常住の真心」を観ずる。・これが「首楞厳三昧」における核心の観法。・つまり「空に落ち込まず、存在論にもとらわれない、円通の中道」。2025/08/31 09:59:21114.パーリー◆HpIafZZzjh.GBkz4J3. 菩薩業行としての誓願・布施修行者がこの三昧に入ると、以下のような功徳と実践に展開されると説かれます。1.大願の発起・「自ら涅槃に入らず、衆生を度するために留まる」という誓い。・阿羅漢・辟支仏のように自分の解脱で止まることは菩薩には禁じられる。2.法施・説法行・三昧に入った菩薩は「衆生の根機に応じて自在に説法できる」。・これは首楞厳三昧の特徴的功徳。まさに「菩薩の言語行」。3.方便善巧・迷いの深い衆生には方便(仮の教え)を説き、利根の衆生には直ちに空を説く。・四悉檀的な説法の自在さが強調される。2025/08/31 09:59:36115.パーリー◆HpIafZZzjh.GBkz4J4. 実際の菩薩修行の段階性経中で語られる菩薩の業行は「段階的修行」として配置されています。1.声聞・縁覚レベルの空観→ 相分・見分を空じる(初禅・二禅的実践)。2.菩薩レベルの自証分の覚知→ 「自心の清浄性」を覚りつつ、衆生済度の誓願を起こす。3.仏の境地(証自証分)→ 空と慈悲と方便が完全に一つとなり、自在に教化する。→ これを「首楞厳三昧に安住する」と表現する。2025/08/31 09:59:58116.パーリー◆HpIafZZzjh.GBkz4J『首楞厳三昧経』で説かれる菩薩業行をまとめると、・前提:戒律・布施・慈悲・六波羅蜜を修する・実践:仏観から空観へ、さらに如来蔵の覚知へ・展開:大願を発し、法を説き、方便善巧で衆生を度す・到達:首楞厳三昧に安住し、自在の菩薩行を展開するつまり、「内観(空の智慧)」と「外向(衆生救済の慈悲)」を統合する修行こそ、首楞厳三昧に入った菩薩業行の真髄だといえます。2025/08/31 10:00:14117.パーリー◆HpIafZZzjh.GF1TZI『菩提達磨四行論』の概要修養には文章から得る所の知識・認識から入る理入(りにゅう)と、現実に於ける実践から入る行入(ぎょうにゅう)の2つに大きく大別され、更に行入には、4つの実践段階、報冤行(ほうおんぎょう)、随縁行(ずいえんぎょう)、無所求行(むしょぐぎょう)、称法行(しょうぼうぎょう)があるとされる[6]。これらはそれ以前の仏教における観想法(四念処)に挑戦するものだという見方もある[7]。この後に書簡や語録などが収録されているが、これらは達磨だけのものではない。報冤行実践の第一段階で、色々の恨み辛みの起こってくる本に返ってやり直すという意味。報とは一つの作用に対する反作用・循環を意味し、冤は兎に網をかぶせる、生命の躍動を抑え、そこから生じる所の恨みを意味している。枝葉末節に走る程煩悩や問題が頻出してくるとして、そういうものに捉われず、思い切ってそういうものを振り捨て、人間としての根本問題に返ることを報冤行という。随縁行実践の第二段階で、卑近に自らの周囲にある縁に従(随)って行ずるという意味。なるべく空理空論にならぬよう、身近な所から手掛かりをつけて行う実践を随縁行という。無所求行実践の第三段階。求める所を無くす行いであり、即ち生活感情から生じていく所の様々な煩悩や貪欲を新たに振り切って、ひたすら無心になって行じていくことを無所求行という。称法行実践の第四段階。法のまにまに(称)行ずる、即ち道理や心理と合致して、矛盾や差別無く、自らが法の権化の如く修養し、実践出来ることを称法行という。2025/08/31 14:05:57118.パーリー◆HpIafZZzjh.GXtRv8642考え事しているときは、考えの対象と一つになっているから、考え事をしている、とはわからないんじゃないか?考え事をしているとわかるのは、考え事をしているということを対象化できた時でしかない。。わかるのは、すべて過去のこと。。今はわからないんだよ。。>>642その考えている自分が、客体となっているような時がある客観視された自我心その見ている当躰が、私は在る‼️と言う時の私であり、本心自分の観照者としての自証分、まだ意志が働いているがその意志も捨てられると、本当の無心が顕になります、我も無い処阿羅漢の無漏に至った処とは意志の働きも捨離された処ですね、そこが無心、無我2025/09/01 08:21:32119.パーリー◆HpIafZZzjh.GzewZt>>623自分を捨てるとは、自分を離脱することでしょその心から無分別禅が生じて、その無分別心から大安心という本心が現れるんだよパンッ❗って殻(空)がわれるように瞬時に大安心という心が生じるそれが、自分を捨てたということね2025/09/01 08:32:40120.リダン◆gEV3xsS//kKdd8g>>119せやね大安心、結局これ2025/09/01 12:13:52121.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUHGemini との会話ーーーーーーよく藁と縄と蛇の例えを以って三性説が喩えられる(藁=円成実性、縄=依他起性、蛇=遍計所執性)のは、唯識を学んだ者には常識。藁=円成実性、性境、実有縄=依他起性、帯質境、仮有、実法、仮法蛇=遍計所執性、独影境、畢竟無、無法ーーーーーーー計画を作成しました。リサーチを開始する前に変更が必要でしたら、お知らせください。●唯識三性説の包括的調査◯ウェブサイトをリサーチ(1) 唯識仏教における三性説(遍計所執性、依他起性、円成実性)の基本的な定義と、その哲学的意義を包括的に調査する。(2) 藁(円成実性)、縄(依他起性)、蛇(遍計所執性)の比喩が、唯識の古典的な文献や現代の研究においてどの程度一般的に用いられているか、その起源と普及度を検証する。 (3) 三性説のそれぞれに対応する「境」(性境、帯質境、独影境)の概念を、唯識の認識論的文脈から深く分析し、各境がどのように認識主体と対象の関係を説明しているかを明らかにする。 (4) 遍計所執性に対応する「畢竟無」と「無法」の概念、依他起性に対応する「仮有」「実法」「仮法」の概念、円成実性に対応する「実有」の概念をそれぞれ詳細に研究し、唯識における存在論の階層を理解する。 (5) 唯識の三性説が、中観派の空の思想など、他の仏教哲学の教義とどのように比較され、また区別されるかを対照的に調べる。(6) 三性説が唯識の他の主要な教義(阿頼耶識や転依など)とどのように関連し、大乗仏教の悟りの道筋をどのように説明しているかを総合的に考察する。 (7) 唯識に関する主要な原典(『解深密経』や『成唯識論』など)や、これらの教えを解説する現代の学術文献を探し、各性についてより深い解釈や議論を探索する。(8) 三性説に対する批判や異なる解釈が存在するかを調査し、この教義の学術的・思想的背景をより広く理解する。2025/09/01 17:43:02122.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH● 専門家報告書:唯識思想の核心を解剖する?三性説の多層的構造と実践的意義●I. 序論:唯識三性説の教理的意義◯はじめに唯識思想は、世界はただ識(心)のみであるとする深遠な教えであり、その核心をなすのが「三性説」である 。三性説は、単なる存在論的な分類に留まらず、迷妄から悟りへ至る衆生の意識のあり方を動的に説明する、唯識学の根幹をなす理論である。本報告は、三性説の多面的な構造を、存在論、認識論、そして修行論という三つの主要な観点から包括的に分析することを目的とする。【藁・縄・蛇】の譬喩が単なる比喩ではなく、【円成実性】が【依他起性】の本質に内在するという、唯識の深い存在論的真理を象徴している点、また依他起性が【「実法」と「仮法」】という二つの側面を持つという、唯識学派内での繊細な議論を示唆している点を、本報告の核心的論点として据える。●本報告のスコープと構成本稿は、唯識学の主要文献(『解深密経』、『成唯識論』など)を参照し、三性説の基礎から歴史的論争、そして現代的意義に至るまでを体系的に論じる。具体的には、【遍計所執性、依他起性、円成実性】の各概念を精査し、それぞれの存在論的性質【(実有、仮有、畢竟無)】との連関を解明する。さらに、【三類境】との対応関係を通じて唯識の認識論を深掘りし、中観派との歴史的論争における【三性説】の役割を考察する。最後に、三性説が示す修行論的応用、特に【「転依」】という実践の核心に迫る。2025/09/01 17:43:52123.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●II. 三性説の基礎構造と譬喩の精査:藁・縄・蛇の深い意味●遍計所執性(遍計)遍計所執性は、主観的な妄想や分別によって対象に付加される架空の性質を指す 。これは、言語や概念(分別)の働きを通じて、本来実体がないものに「我」や「法」(現象)という実体があるかのように執着する心のあり方である 。暗闇で縄を「蛇」と見誤る際の「蛇」がこれに相当する 。遍計所執性は、その本質が「無所有」であり、畢竟的に存在しない「畢竟無」とされる 。この概念は、現実には存在しないにもかかわらず、心の中で作り出され、あたかも実在するかのように振る舞い、苦しみの原因となる認識の歪みを説明している。●依他起性(依他)依他起性は、無数の因縁が和合して、刹那生滅する現象世界のあり方である 。根本識である阿頼耶識に蓄えられた種子を因とし、その他様々な条件に依存して現れ、そして滅する一切の現象を指す 。これは、暗闇で蛇と見誤られた「縄」そのものに相当する 。依他起性は、単独で存在する自性(不変の実体)を持たず、他者や因縁に依存して生じるため「仮有」とされる 。2025/09/01 17:44:06124.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●円成実性(円成)円成実性は、遍計の妄執が完全に離れた、依他起性の真実のあり方を指す 。これは、諸法に共通する「空性」そのものであり、遍計の迷妄が拭い去られた時に現れる、遍満する真実の姿である 。迷妄を離れた真如としての「実有」と称されるが、この「実有」は、独立した実体ではなく、遍計の「非存在」を離れた真実の「無自性性」を指す 。【藁・縄・蛇の譬喩】における「藁」は、この円成実性を象徴している。この譬喩は、単に円成実性が真実であるというだけでなく、円成実性が依他起性とは別の存在ではなく、その「実体」あるいは「本質」として内在していることを示唆している 。この動的な関係性は、【水と波】、あるいは【麻と縄】の関係として説明されるように、静的な二元論を回避し、迷妄を離れることによって現象の真実の姿が現れるという、唯識の思想的特徴を明確に示している。2025/09/01 17:44:17125.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●III. 唯識の存在論:実有・仮有・畢竟無の多層性●遍計所執性=畢竟無【遍計所執性】は、暗闇の蛇のように、認識の対象として現れても、その本質は畢竟的に存在しない【「畢竟無」】である 。これは、ただ存在しないというだけでなく、【認識の作用(「情」)】の中にのみ存在する【「情有」】であり、あたかも実在するかのように現れる【「似有」】という、唯識独自の概念でさらに深く説明される 。【遍計所執性】は単なる「存在しないもの」ではなく、「存在しないにもかかわらず、心の中に現れて実在するかのごとく振る舞い、苦しみを生むもの」である。このパラドックスこそが、唯識が解明しようとした迷妄の本質であり、煩悩の根絶を目指す修行の出発点となる。2025/09/01 17:47:35126.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●依他起性=仮有【依他起性】は、無数の因縁に依存して生じるため【「仮有」】と位置づけられる 。唯識では、この依他起性がさらに【「実法」と「仮法」】という二つの側面を持つと説かれる。◯【実法】は、それ以上分解できない究極的な要素、例えば心そのものや【心の作用(心王・心所)】を指し、◯【仮法】は、それらが集合して仮に形成される【概念的な存在(「人」や「家」など)】を指す。【依他起性が「仮有」】であるにもかかわらず、その構成要素に【「実法」】を認めるのは、唯識が中観派の【虚無主義(悪取空)】を回避し、煩悩を克服するための実践的基盤を構築しようとしたためである 。もし依他起性の【全てが非実在】であれば、修行の【主体も客体も存在せず】、悟りの道筋が成り立たなくなる。唯識は「実法」を仮に設定することで、修行の「基盤」を確保したのである。2025/09/01 17:47:58127.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●円成実性=実有円成実性は、遍計の迷妄が離れた状態の依他起性そのものであり、迷いのない真実のあり方として「実有」と称される 。この「実有」は、独立した実体ではない。それは、遍計の「非存在」を離れた、依他起性の【真実の「無自性性」】を指す 。依他起性の「仮有」と円成実性の「実有」の関係は、【世俗諦と勝義諦】の関係に類似しているが、【唯識は二諦説を用いず】、【三性説】によって迷いと悟りのプロセスを動的に説明しようとした 。円成実性は、依他起性が「空」であることを悟った時に現れる真実であり、遍計の「情」によって歪められた認識を離れた状態なのである。2025/09/01 17:48:19128.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●IV. 唯識の認識論:三類境との相関関係●三類境の基礎唯識は【認識の対象(境)】をその性質によって三つに分類する。◯【三性説が「認識のあり方」】を示すのに対し、◯【三境は「認識の対象」の様相を分類】する 。両者の連動を解明することで、【唯識の認識論が完成】する。●三類境と三性説の連動【遍計所執性】によって生み出される【認識の対象】は◯【「独影境」】である 。独影境は、心から仮に現れ、実体的な作用を持たないため、【幻覚や概念的な妄想】がこれにあたる。【遍計所執性は実体を持たず(畢竟無)】、その【認識の対象】もまた【実体を持たない独影境】となる。2025/09/01 17:48:32129.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●【依他起性】を【対象として認識】する時、その【認識は「帯質境」】となる 。◯【帯質境】は、実在の一部を帯びながらも、【主観的な分別】によって【歪められた認識】である。幽霊を実在するものとして見ることや、人間関係における【固定観念】がこれにあたる。【依他起性】は因縁によって生じた【「仮有」】であり、その【性質】を【「帯び」】ながらも、遍計の【分別】が【「質」】を帯びた【「影」】を形成するのである。●【円成実性】を悟った時、その【認識の対象】は≪【「性境」】拒否となる 。◯【性境】は、【阿頼耶識の種子】から実際に現れた、【歪みのない真実の認識対象】である。◯ 遍計の妄執が滅し、依他起性をその【「空性」】という【真実の姿(円成実性)】として捉える時、我々の認識は【主観的な歪みから解放】され、【対象を≪ありのまま≫に知覚】するようになる。この【三境と三性説】の対応関係は、唯識が単なる存在論や抽象的な哲学に留まらず、人間の知覚と認識の構造を詳細に分析し、その歪みと真実性を分類する、実践的な「認知科学」であったことを示している。2025/09/01 17:48:43130.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH表4-1:三性説と三類境の対応関係表2-1:三性説の構造と譬喩の対応関係https://i.imgur.com/IXD5id3.jpeghttps://i.imgur.com/UZUBTrL.jpeg2025/09/01 17:48:58131.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●V. 三性説と中観派の論争:空の理解を巡る対立●論争の核心中観派は、唯識が依他起性を「有」(存在)とし、円成実性を「実有」とすることで、龍樹の提唱した「一切法無自性」(すべての存在は自性を持たない)という絶対的な空の思想に反していると批判した 。中観派は世俗諦(仮法)と勝義諦(真理)の二つの真実を立て、究極的にはあらゆるものが「空」であると主張する 。また、後期中観派は、唯識が言葉や概念の空を説くのに対し、言葉を離れた事物自体も空であると主張した 。●唯識派の応答と立場唯識派は、中観派の主張を虚無主義(悪取空)に陥る危険性を孕むものと見なした 。◯【三性説】は、単に存在の非存在を説くのではなく、迷妄(遍計)を否定することで、縁起した現実(依他)の真実性(円成)を肯定的に捉えようとした。【依他起性の「有」】を認めることで、修行の基盤、すなわち「心の働き」を確保し、迷いから悟りへの具体的な道筋を理論的に説明可能にしたのである 。この論争は、仏教がニヒリズム(虚無主義)とエテルナリズム(常住論)という二つの極端をいかに回避するかという、根本的な課題に根差している。吉蔵の批判は、この論争をさらに深化させる。彼は、唯識の教理そのものではなく、その解釈を批判することで、仏教思想が陥りがちな教条主義への警鐘を鳴らしたのであるhttps://i.imgur.com/iEh1jwc.jpeghttps://i.imgur.com/4tdy4yt.jpeg2025/09/01 17:49:10132.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●VI. 三性説と修行論:転依と悟りへの道筋●唯識修行の核心:転依(basis transformation)唯識は、この世界が【「識」(心)】によって作られていると考え、その心のあり方を変えることで【苦をなくす「転依」】を修行の核心に据える 。【三性説】は、この【転依の実践的な指針】となる。◯まず、【遍計所執性への執着を捨てる】ことで、心の働きを転換する第一歩を踏み出す 。◯次に、依他起性を【「幻のごとく」「仮有」】としてありのままに観じる。これは、現象世界を否定することなく、その【非実体性を悟るプロセス】である 。遍計の妄執が完全に滅した時、依他起性の真実のあり方である【円成実性を証得】する。これは≪【「転識得智」】≫(識を転じて智を得る)と呼ばれる、八識を【四智に転換するプロセス】として理論化される 。◯三性説は、単なる静的な哲学モデルではなく、心の深層構造(阿頼耶識)から現象世界(八識)に至るまでを統合的に説明し、迷いから悟りへと向かう具体的な実践指針を提供する「心の地図」である。この地図があるからこそ、唯識は中観派が批判したような虚無主義に陥ることなく、現実世界における苦の根絶という仏教の根本目的を達成しようと試みたのである。2025/09/01 17:52:35133.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●三性説の現代的応用三性説は、現代心理学の概念と高い親和性を持つ 。◯遍計所執性への気づきは「認知の歪みの特定」に、◯依他起性への観察は「メタ認知」に相当する。唯識の教えは、心の働きが現実をどのように構成しているかを理解することで、現代社会のストレスや苦しみへの対処法として、深い示唆を与え続けている 。2025/09/01 17:52:46134.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●VII. 結論:唯識三性説の総合的意義本報告は、唯識三性説を核として、存在論、認識論、そして修行論という三つの主要な観点からその多層的な構造を解剖した。◯遍計所執性の「畢竟無」、◯依他起性の「仮有」、そして◯円成実性の「実有」という独自の存在論的階層が、迷いから悟りへの道筋を明確に示した。また、◯三性説と三類境の対応関係は、唯識が人間の知覚と認識の歪みを詳細に分類し、真実の認識へと至る道を示したことを明らかにした。転依の教理と結びつくことで、三性説は単なる学説に留まらず、心を深く変革し、苦からの解放を目指す具体的な修行法となった。三性説は、単なる仏教の教理ではなく、自己と世界を深く理解するための精緻な哲学であり、心の変容を通じた究極的な自由への道を示す、普遍的な知恵なのである。2025/09/01 17:52:56135.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH●思考プロセス1唯識仏教の調査開始唯識仏教の三性説に関する包括的な調査を開始しました。遍計所執性、依他起性、円成実性の定義から、藁、縄、蛇の比喩まで、ユーザーが提示した内容を整理し、論理的な調査フレームワークを構築しました。2複数の視点から概念を深掘りこの調査では、三性説を複数の側面から掘り下げていきます。単に定義を調べるだけでなく、関連する「三境」(性境、帯質境、独影境)の概念や、実有・仮有・畢竟無といった存在論的な階層との関係を明らかにしていきます。3広範な文脈の調査三性説をより深く理解するため、中観派の空の思想との比較や、唯識の他の重要な教義である阿頼耶識や転依との関連性も探求します。これにより、唯識思想全体の中での三性説の位置付けを明らかにしていきます。4今後の調査計画これらの主要な概念を網羅的に捉えるため、複数の検索を行い、信頼できる情報源を特定します。その後、より詳細な情報を得るために、それらの文書をさらに深く調べていく予定です。5唯識三性説の基礎概念の深化唯識の三性説、すなわち遍計所執性、依他起性、円成実性の基本的な定義について、複数の情報源から確認しました。特に、藁、縄、蛇の比喩が、迷いから悟りへと至る認識のプロセスを説明するためのものであることが分かりました。この比喩は『摂大乗論』に起源があるという新たな知見も得られました。6三境と存在論の関連性の発見三性説と唯識の認識論的分類である三類境(性境、帯質境、独影境)との関係を探る中で、遍計所執性が「畢竟無」、依他起性が「仮有」、そして円成実性が「実有」に対応するという重要な関連性を見出しました。この存在論的な階層は、唯識思想をより深く理解する上で不可欠な要素です。2025/09/01 17:57:04136.パーリー◆HpIafZZzjh.GOwJUH7他学派との比較と実践的意義中観派との比較では、清弁による唯識三性説への批判が存在し、特に「空」の捉え方に関する両派の哲学的な違いが論争の核心であることが明らかになりました。また、三性説が単なる理論ではなく、「転識得智」という悟りへの実践的な道筋、具体的には現代の認知行動療法やマインドフルネスにも類似する心の働きを説くものであるという新しい視点も得られました。8未解明な概念の探求これまでの調査で、唯識の存在論における「情有」や「似有」といったさらに複雑な概念が浮上しました。これらの概念が三性説や三境とどのように関連するのか、また中観派や中国仏教の批判が具体的にどのようなものであったのか、これらのギャップを埋めるために、関連する学術論文や専門的な解説をさらに深く掘り下げていきます。9唯識思想の批判的受容吉蔵による唯識批判を調査する中で、彼が三性説そのものを否定したのではなく、当時の中国仏教における唯識解釈、特に円成実性を実在として捉える見解を批判していたという新たな知見を得ました。このことは、三性説が時代や学派によって多様な解釈をされてきたことを示唆しています。10中観派との論争点の確認以前の調査では、中観派が唯識三性説を批判しているという事実を確認しましたが、今回はその具体的な論点を探求します。唯識と中観の哲学的な違いをより明確に比較するため、清弁などの論師がどのような視点から唯識を批判したのかを、代替情報源を用いて深く掘り下げていきます。11未解明な概念の探求ユーザーが提示した『実法』『仮法』というキーワードが、三性説や三境の文脈とどのように結びつくのか、また唯識の存在論においてどのような位置づけを持つのか、その関係性をさらに詳しく調査する必要があります。この概念を解明することで、唯識の認識論と存在論をより統合的に理解できると考えています。12最終的な情報収集の実行唯識の『三性説』に関する包括的なレポートを作成するため、残る重要なギャップを埋めるための最終的な情報収集を行います。具体的には、中観派との論争の具体的な内容と、『実法』『仮法』の概念を、信頼性の高い学術的な情報源から探究していきます。2025/09/01 17:59:17137.◆JBLfMwCXhYoe71k>>130> 表4-1:三性説と三類境の対応関係> 表2-1:三性説の構造と譬喩の対応関係マジかいな?それだと、「三性説と三類境は、同じことを別の角度から表現したものである」ということになるが?2025/09/01 18:21:31138.◆JBLfMwCXhYgIVhWそれが本当なら、三類境なんか必要ないのと違うか?三性説だけで十分だ2025/09/01 23:39:44139.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpME8jeminiリサーチ(1) 唯識説の基本的な教え、特に八識(八つの識)と、末那識が阿頼耶識に固執して自我を生み出す働きについて調査する。(2) 仏教における「転識得智」という概念、特に末那識が平等性智に転じるプロセスについて、複数の文献や解説を比較してその意味を深く理解する。 (3) 平等性智が具体的にどのような働きを指すのか、またそれがなぜ仏の慈悲と関連付けられるのかについて、仏教の専門的な解説を探し、情報を整理する。 (4) 「仏の末那識」という表現が、末那識が清浄な状態に転じたことを指す用例があるかどうか、仏教の専門的なテキストや論文を検索し、その背景にある考え方を分析する。(5) 一方で、「末那識は仏の意識ではない」という見解が、なぜ主張されるのかについて、末那識が悟りの過程で変質・消滅するという解釈や、識(vijnana)と智(jnana)の厳密な区別に基づいた見解を探し、その論拠を考察する。 (6) 「末那識が平等性智に転じる」という過程を説明する際に、識から智への変容が本質の変化を意味するのか、それとも機能の浄化を意味するのか、様々な宗派や学者の見解を比較検討する。(7) これらの相反する見解が、単なる言葉の使い方の違いなのか、それとも末那識の「本質」や「状態」に対する異なる解釈に由来するのかを総合的に分析し、両者の主張の深層にある哲学的な違いを特定する。2025/09/02 13:16:05140.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpME8>>138別々の人が唱えてまた別な人が関連付けたとか?2025/09/02 13:17:03141.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpME8jeminiレポート● 唯識思想における末那識と平等性智の解釈:凡夫と仏の境界を巡る考察●序章:唯識説における末那識と平等性智の問い唯識思想における第七末那識(まな‐しき)と、仏の智慧である平等性智(びょうどうしょうち)の関係性を巡る議論は、単なる言葉の定義に留まらない、心の変容という唯識の核心に触れる深遠な問題である。本報告では、法介氏が主張する「末那識は仏の意識」という見解と、栖雲居士が述べる「末那識は仏の意識ではない」という見解の対立を、唯識の教義に即して詳細に分析する。この二つの見解は一見すると矛盾しているように見えるが、結論から述べれば、これらは唯識思想の根幹をなす**転識得智(てんじきとくち)**のプロセスを、異なる視点から捉えたものであり、いずれも正当な理解に基づいている。本報告は、この矛盾を解消し、両者の見解を統合する「深い理解」を提示することを目的とする。2025/09/02 13:20:22142.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WMjeminiリポート第一章:唯識思想の基礎構造と八識の役割2.1. 唯識の思想的背景◯唯識思想は、すべての存在は心(識)の現れであり、心の外に独立した実体は存在しないという●【「識外に実在なし」】の立場を根底に置く 。この思想は、龍樹に代表される【中観派】が説く●【「一切は空である」】という主張に対し、●【「一切が空であると『認識する心』そのものは存在しなくてはならない」】という問いから展開されたとされる 。◯唯識は、この【「心」の働き】を体系的に分析することで、私たちがなぜ苦しみ、迷うのかという根本的な問いに答えようとする。2025/09/02 14:50:56143.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM●2.2. 八識の構造:心の階層モデル唯識では、心の働きを八つの識(はっしき)に分類する 。この分類は、私たちの心が単一の意識ではなく、複数の階層からなる複雑なシステムであることを示唆している。【1】前五識(眼・耳・鼻・舌・身)と第六意識: 外界の対象を認識し、思考や判断を行う表層的な意識の働きを指す 。【2】第七末那識(マナ識):第六意識の【さらに深い層】に位置し、【無意識の領域で働く心】である 。この識は、【自己意識や執着】を生み出す源泉であり 、【意識が途切れる】熟睡時や失神時にも【絶えず働き続ける】のが特徴である【3】第八阿頼耶識(アラヤ識):【すべての識の根源】であり、【行為の結果】である【「種子(カルマ)」】を蓄える潜在意識とされる 。阿頼耶識は【輪廻転生の主体】であり、遠い過去から未来へと続く私たちの永遠の生命そのものを表す大河に喩えられる 。2025/09/02 16:14:45144.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM阿頼耶識を潜在意識としていますが依他起性か遍計所執性の妄想を消し去った、円成実性と世界の現れを考えた時識と六識の想いによって現れる広がりを潜在意識とは言わないので、それを潜在意識とすることには同意出来ないかも2025/09/02 16:22:10145.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM●2.3. 末那識と阿頼耶識の密接な関係性◯【末那識と阿頼耶識】は、唯識の【心の階層モデル】において特に重要な関係を持つ。【末那識】は、そのより深い層にある【阿頼耶識】を【「私の本体」】として絶えず【執着的に認識する働き】を持っている 。◯この【執着】は、私たちが【無我】であるにもかかわらず、【固定不変の「私」】という【錯覚を生】み出す【根本原因】であり、私たちの【苦悩】が単なる【思考(第六意識)の問題】ではなく、より根深い【「我執」に起因】していることを示している。したがって、【唯識の実践】は、【表層的な思考の観察】に留まらず、最終的にこの【我執の根源を直視】し、【浄化すること】を目指す。2025/09/02 16:28:46146.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM● 第二章:凡夫の末那識:迷いの根源としての「染汚意」●3.1. 末那識の根本的な働き:我執と四煩悩◯凡夫の末那識は、迷いの根源として機能する。この識は常に、【四つの根本煩悩】を伴って働く 。これらは1◯我痴(がち)(自己についての迷い)、2◯我見(がけん)(「私」という妄信)、3◯我慢(がまん)(自己についての慢心)、4◯我愛(があい)(自己への愛着)であり、これらの煩悩が、私たちの【自己中心的】な【認識と行動】を生み出す 。この性質から、【末那識】は≪「汚れた意」≫を意味する**【染汚意(ぜんまい)】**とも訳される 。2025/09/02 16:34:12147.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM●3.2. 末那識の役割:迷いの永続化◯末那識の働きは、【第六意識】のように【途切れる】ことがない 。意識が活動を停止する【熟睡時】でさえ、末那識は【絶えず我執を造り】続け、【迷いを継続】させる 。【この作用】こそが、【私たちが無我】であるにもかかわらず、【固定不変の「我」を存在】させてしまう【根本的な原因】である。この末那識が持つ【我執の作用】は、【仏の清浄な境地】とは【相容れない】。この認識こそが、栖雲居士氏名が【「末那識は仏の意識ではない」】と主張する【揺るぎない根拠】である。【悟り】とは、この【我執の作用】が【完全に止滅した状態】を指すため、●【凡夫の末那識】は●【仏には存在しない】のである。2025/09/02 16:39:43148.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM●第三章:転識得智:迷いの識が仏の智へと転じる過程●4.1. 「識」と「智」の決定的相違◯唯識が目指す【悟りのプロセス】は、単なる【煩悩の減少】ではなく、心の根本的な【質的転換】である。この【質的転換】は、●【「識」】(vijnana)から●【「智」】(jnana)への◯【転換】として定義される 。1◯ 識:分別を伴う認識作用であり、自我の欲求や限定的な視点から物事を捉えるため、苦悩の輪廻を生み出す 。2◯ 智:分別を超え、真実をありのままに観る智慧であり、一切の主客の対立を超越する清浄な心の働きである2025/09/02 16:45:43149.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM◯この「識」と「智」の質的な違いこそ、唯識が説く心の変容の核心である。2025/09/02 16:49:21150.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM●4.3. 八識と四智の対応関係◯唯識では、八識と四智の間に明確な対応関係が設定されている 。https://i.imgur.com/INFHJJ0.jpeghttps://i.imgur.com/Q8nAIXz.jpeghttps://i.imgur.com/LauHkhG.jpeghttps://i.imgur.com/GEKrMTw.jpeg2025/09/02 16:52:48151.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM●この対応表が示すように、【第七末那識】は【平等性智へ】と転じる 。この【転換】は、末那識という「迷いの機能」が平等性智という「悟りの機能」へと質的に一変する事実を視覚的に証明するものである。したがって、末那識と平等性智は、同じ心の働きを指す二つの言葉ではなく、● 迷いの状態(識)と● 悟りの状態(智)という【全く異なる心の本質】を表している。この転換の概念こそ、ユーザーの問いに対する「言葉の言い方の違いだけではない」という回答の根拠となる。2025/09/02 16:56:37152.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM●第四章:平等性智の探求:末那識の浄化と仏の智慧●5.1. 平等性智の定義と特性◯【平等性智】は、【自己と他者の区別をせず】、【自他・万物が平等である】と【悟る智慧】である 。この智慧は、一切衆生に平等に慈悲を注ぐ心の源泉であり、喜怒哀楽といった感情的なとらわれを超えた境地を示す 。この慈悲の心は、【自分自身の幸せと他者の幸せ】が【切り離せないという深い理解】から自然と育まれるものであり、現代の心理学における◯「思いやりの瞑想」や◯「利他的行動と幸福度の関係」に関する研究とも共鳴する 。2025/09/02 17:03:48153.パーリー◆HpIafZZzjh.G8S4WM●5.2. 末那識から平等性智への転換メカニズム◯【末那識が平等性智へと転じる】プロセスは、【我執の断絶】によって引き起こされる 。この【転換】は、【末那識が持つ「染汚意」】としての作用が【完全に停止】し、本来備わっている【「無我」の真実】を認識する【清浄な智慧が顕現】することに他ならない。この【心の変容】は、●【自己中心的なエネルギー】が、自他を区別しない●【利他的な慈悲のエネルギー】へと【方向転換した】ことを意味する。◯法介氏のいう「【仏の末那識】は、もはや『私』という観念に固執せず...」という表現は、この【転換後の清浄な状態】を指していると解釈できる。厳密な教義においては、●【我執の作用が停止した仏】には●【「末那識」は存在しない。】が、しかし、【法介氏】は、【我執という迷いの根源】であった【末那識の「働き」】が、【悟りの境地】で【「平等性智」】という新たな、より【高次の働きに転じた】ことを、象徴的かつ比喩的に≪「仏の末那識」≫と表現していると考えられる。2025/09/02 17:14:21154.パーリー◆HpIafZZzjh.GDDHrTバーヒア経https://anyouji27.blog.fc2.com/blog-entry-19.html2025/09/03 21:09:22155.◆JBLfMwCXhYXedwZ>>153なるほどそういうことだったか?2025/09/04 07:09:17156.パーリー◆HpIafZZzjh.Glilj0jeminiリポート従容録 第十一則 雲門両病:現代人にとっての「心の病」の処方箋●序章:心の医者、雲門禅師ご依頼いただきました『従容録』第十一則「雲門両病」の現代語訳と解説について、専門的な見地から包括的な報告書を作成いたしました。本レポートでは、禅の公案集である『従容録』の中でも特に奥深い本則を、現代人が抱える心の苦悩との関連性に着目しながら解き明かしていきます。禅の教えは、単なる古代の思想や宗教的な教義に留まるものではありません。それは、人間の心の構造とその働きを鋭く観察し、苦しみから解放されるための実践的な智慧を提供します。本則の核心は、雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師が、修行者が陥りがちな「心の病」を診断する様子にあります。雲門禅師はまるで卓越した「心の医者」のように、通常の手段では治療できない、心の奥底に潜む病の正体を喝破します。この報告書が、禅の初心者である読者の方々にとっても、心のあり方を深く見つめ直す一助となることを願います。2025/09/04 21:40:08157.パーリー◆HpIafZZzjh.Glilj0​『従容録』は、中国宋代に編纂された『碧巌録』と並び称される禅の代表的な公案集です。単に教義を伝えるだけでなく、読者自身に深い思索を促すためのテキストとして、古くから禅の修行において用いられてきました。●その中でも「雲門両病」は、◯修行の道を歩み、一定の境地に達した者ですら見逃してしまうような、◯極めて微細で根深い心の病を指摘している点で、特に重要な意味を持っています。2025/09/04 21:41:31158.パーリー◆HpIafZZzjh.Glilj0第一部:禅師の問いかけと「四つの病」●示衆:治療不能の病と雲門の診断本則は、雲門禅師が聴衆に投げかける謎めいた問いかけから始まります。ーーー示眾云。無身人患疾。無手人合藥。無口人服食。無受人安樂。且道。膏肓之疾。如何調理。ーーーーーーこの問いかけの現代語訳は以下の通りです。ーーーーーーーーーーーーー● 現代語訳「 皆に問いかける。身体のない人が病を患ったら、手の無い人が薬を調合し、口の無い人が薬を服用し、薬を受け取ることのない人が安らかになる。さあ、言ってみよ。治療が極めて困難な、心の奥底の病を、どうやって治すのか? 」ーーーーーーーーーーーー●この導入部の問いかけは、単なる言葉の遊びではありません。最初の【無身人患疾】という表現は、物理的な【肉体を超えた次元】での「病」の存在を明確に示唆しています。つまり、雲門が問うているのは、単なる肉体的な病【 膏肓の疾 】の治療法ではなく、その本質が【 非物質的な、心の病 】の治療法であるという暗示です。さらに【 手の無い人が薬を調合する 】や【 口の無い人が服用する 】といった逆説的な表現は、禅の教えが、常識的な論理や思考を超えたところにあることを示唆しています。この問いかけそのものが、既に禅の修行における【 診断と治療 】のメタファーとなっています。雲門がこれから提示する心の病は、通常の論理的な思考や知識では治療できない、【 修行そのものから生じる「薬病(やくへい)】であると見ることができます。【仏道という薬】を服用することで、【新たな病が生じてしまう】という逆説的な状態を指摘しているのです 。2025/09/04 21:48:51159.パーリー◆HpIafZZzjh.Glilj0●雲門大師の診断:●【光と法身の四つの病】雲門は、修行者が陥りがちな心の落とし穴を、二つの大きなカテゴリーに分けて指摘します。◯第一のカテゴリーは「光(ひかり)不透脱(ふとうだつ)の病」、◯第二は「法身(ほっしん)の病」です。それぞれに二つずつ、合計四つの病が挙げられており、これらの病は修行の段階が進むにつれて現れる、より微細で自覚しにくいものです。●光とは、自らの心に本来備わっている智慧の光、すなわち仏性を象徴しています 。●一方、法身とは、仏教における究極の真理そのもの、あるいは真理を体とする仏の姿を指します 。これらの病は、修行者が自己の仏性や真理に近づこうとする過程で、かえってそこに執着してしまうことから生じます。2025/09/04 21:51:07160.パーリー◆HpIafZZzjh.Glilj0●第二部:四つの「悟り病」の正体以下に、雲門が指摘した四つの病とその本質を整理しました。https://i.imgur.com/KkH7vLn.jpeg2025/09/04 21:53:18161.パーリー◆HpIafZZzjh.Glilj0●光不透脱の第一の病:「目の前に物がある病」ーーーーーーーー一切處不明。面前有物是一。(白日見鬼莫是眼花)ーーーーーーーーーーーーー◯この病は、「あらゆるものがはっきりと見えず、目の前に何かが実体としてあるかのように感じている状態」を指します。禅の修行者が「一切のものは空である」という仏教の概念を頭で理解した結果、目の前の現実の事物、例えば山や川、人々が本当に存在しているのかどうか、疑心暗鬼に陥ってしまう状態です 。●括弧内の注釈「白昼に鬼を見る、あるいは目の錯覚ではないか」という表現が示すように、この病は観念論に囚われた結果、現実の認識が歪んでしまう一種の「知的幻覚」です 。この状態は、知識が知恵として機能せず、かえって心の混乱を引き起こす因果関係を示しています。現代の類比として、マインドフルネスや心理学の知識を学んだ人が、自分の感情や思考を「あるべき状態」と「そうでない状態」に分類し、前者にしがみつき、後者を排除しようとすることで、かえって苦悩を深めてしまう「完璧主義」の罠と酷似しています。雲門禅師は、知識は単なる道具に過ぎず、その道具に振り回されることの愚かさを指摘しているのです。2025/09/04 21:55:31162.パーリー◆HpIafZZzjh.Glilj0●光不透脱の第二の病:「空への微細な執着」ーーーーーーー透得一切法空。隱隱地似有箇物相似。亦是光不透脫。(早是結胸那堪喉閉)ーーーーーーーーー●この病は、光不透脱の第一の病を乗り越え、真に「空」の境地を理解した後に生じる、より微細な病です。「一切の法が空であることを透過して理解した。しかし、心の奥底に、かすかに何かが残っているような感じがする」という状態を指します。これは、悟りそのものや、「悟った」という経験の痕跡に、無自覚に執着してしまう状態です 。◯括弧内の注釈「すでに胸が塞がっているのに、どうして喉まで詰まることに耐えられるか」という表現は、この病が、心の中にわずかながら残り続ける「わだかまり」や「凝り」であり、それがさらなる精神的な閉塞感を引き起こすことを示唆しています 。◯この病は、表面上は悟りの境地にあるように見えるため、本人すらその病に気づくことが非常に困難です。雲門は、悟りの痕跡にすら囚われてはならないという、極めて厳格な禅の立場を示しているのです。これは、仏法という「薬」が、その「薬」自体によって新たな「病」を生み出すという、禅の最も重要なテーマである「薬病」を象徴しています 。2025/09/04 21:59:30163.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc●法身の第一の病:「法身に固執する病」ーーーーー又法身亦有兩般病(禍不單行)得到法身為法執不忘。已見猶存。墮在法身邊是一。(不唯邪祟更有家親)ーーーーーーーーー◯この病は、「法身の境地に到達しても、その『法』への執着を忘れず、悟りへの見解がなお心に残っている」状態です。修行者が普遍的な真理の境地に到達したと信じ、そこに安住してしまうという落とし穴を指します。自らの悟りに満足し、「もうこれでよい」と修行を止めてしまう状態です 。●括弧内の注釈「単なる邪悪なものの憑依だけでなく、身内の親戚(の病)でもある」という表現は、この病が外部からの障害ではなく、自分自身の内側から生じる、最も根深く厄介な病であることを示しています 。禅の究極の目標は、ある特定の状態(悟り)に「留まる」ことではなく、いかなる境地にも囚われず、自由自在に生きる「解脱」です 。法身への安住は、まるで黄金の檻に閉じ込められるようなもので、真の自由を妨げます。これは、社会的な成功や自己啓発の達成に固執し、その後の成長や変化を拒む現代人の姿と重なります。2025/09/05 04:28:27164.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc●法身の第二の病:「あるがままの自己への病」ーーーーーーー直饒透得。放過即不可。子細點檢將來。有甚麼氣息。亦是病。(醫博未離門又早病發)ーーーーーーーーーーーー◯これは、雲門が指摘する四つの病の中で【最も微細】で【自覚しにくい病】です。【法身の境地】や【悟りの痕跡】すら手放し、自分の●【あるがままの自己】を冷静に観察したとき、この、●【あるがままの自分】こそが●【悟りだ】と、その状態自体に、無意識に、かすかに◯【執着してしまう状態】を指します 。●括弧内の注釈「医者が門を出ないうちに、またすぐに病気が再発した」という表現が示唆するように 、この病は自己観察の行き過ぎから生まれるパラドックスです。修行者は、「ありのままの自分を受け入れる」という教えを実践する中で、その「ありのまま」という状態を理想化し、新たな自己像として確立してしまいます。悟りを求める行為から解放されたにもかかわらず、その自由な状態そのものに執着する、という最も巧妙な自我の罠にはまるのです。これは、「自分らしさ」を過度に追求し、その結果、新しい固定観念に縛られる現代の自己肯定感の罠と深く関連しています。雲門は、あらゆる執着、最終的には【無執着】への【執着】すらも断ち切ることを要求しているのです。2025/09/05 04:36:28165.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc●第三部:雲門の智慧と現代への示唆●雲門禅師は「心の医者」雲門禅師が提示した「四つの病」は、単なる禅の専門用語の羅列ではありません。それは、現代人が日々の生活の中で経験する心の悩みに通じる普遍的な教えを含んでいます。●光不透脱の第一の病【目の前に物がある病】は、過度な完璧主義や観念論、あるいは思考の堂々巡りに陥った状態と読み取ることができます。現代社会は情報過多であり、私たちはしばしば、頭で理解した知識や理想的な概念と、目の前の現実とのギャップに苦しみます。この病は、知識が人生を豊かにする知恵として機能せず、かえって心の混乱を招く危険性を警告しています。◯また、法身の病【法身に固執する病】は、達成への執着や自己満足に陥った状態と重ね合わせることができます。キャリアや自己啓発において一定の成果を収めた人が、その成功体験に固執し、新たな学びや変化を拒んでしまう姿と酷似しています。雲門は、そのような安住の地は真の安楽ではなく、むしろ成長を止める病であることを指摘しているのです。2025/09/05 04:39:16166.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc●「病を治す」ことの意味:●自由自在な生き方へ◯雲門が説く「病を治す」とは、特定の悟りの状態を「得る」ことではありません。それは、あらゆる執着、つまり1●【悟った】という執着、2●【悟りを手放した】という執着、さらには3●【自由である】という執着すらも手放 すことです。◯仏教の根本原理は【一切皆苦(いっさいかいく)】であり、苦しみから逃れるのではなく、苦しみの本質を見つめることから出発します 。◯雲門の【病】の指摘は、この根本原理に深く根ざしています。すなわち、苦しみを生み出すのは、特定の【悟り】や【理想的な自己】を追い求め、それに【執着する心】そのものである、という洞察です。悟りを目指すことが、新たな病の種となるという【薬病】の逆説は、この点を最も鋭く示しています 。2025/09/05 04:45:27167.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc『雲門薬病』の深層解剖:古代禅の洞察と現代心理学への応用Part I: 導入と歴史的背景:千年の問いかけ第1章: 序論:『雲門薬病』への問いかけ千年以上前、中国唐末から五代にかけて活躍した禅僧、雲門文偃(うんもん・ぶんえん)は、弟子の問いに対し、まるで医師が病を診断するかのように、修行者の心の状態を鋭く見抜いた言葉を残した。この言葉は後に、禅の古典『碧巌録』に「雲門薬病」として収められ、今日まで禅の修行者たちに深く考察されてきた公案となっている 。この公案が問いかけるのは、物理的な病気の比喩を通して、悟りの道に潜む最も微妙で、かつ最も根深い精神的な病である。なぜ、この千年前の問いかけが、現代の私たちが直面する精神的課題と驚くほど共通の様相を呈しているのか。本報告書は、単なる公案の解説に留まらず、その哲学的深層を解き明かし、現代社会が抱える不安や執着といった病との関連性を探ることを目的とする。2025/09/05 05:34:13168.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc雲門文偃の教えの特徴は、その簡潔さと鋭さにある。臨済宗の「一喝」がすべての迷いを消し去る手法であるのに対し、雲門は「日日是好日」のような品のある簡潔な言葉を多用したと伝えられている 。この鋭いスタイルは、知的・概念的な理解(知識)を打ち破り、弟子たちに直接的な体験(智慧)を促すことを目的としていた 。したがって、「雲門薬病」の問いもまた、単純な答えを求めるものではなく、言葉の背後にある、概念では捉えきれない「病」の本質を修行者自身が内面に見出すことを促す、治療のための「薬」として機能しているのである。第2章: 雲門宗と『碧巌録』:公案の成立背景「雲門薬病」の公案を理解するためには、それが生まれた文化的・歴史的背景を知ることが不可欠である。雲門宗は、青原行思から石頭希遷、そして徳山宣鑑、雪峰義存を経て、雲門文偃に至る厳格な禅の系譜に連なる 。その宗風は「険峻高古、艱深玄奥」と評され、禅林では「雲門天子」とまで呼ばれるほど、その峻厳さが特筆される 。雲門の教えを象徴するのが「雲門三句」と「雲門一字関」である 。「雲門三句」は、修行者の機根に合わせて用いられた三つの教化法を指す。2025/09/05 05:34:53169.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc●「函蓋乾坤」: 箱と蓋がぴったり合うように、絶対的な真理が天地万物に充ち満ちているという、徹底した現実肯定の境地を説く 。これは、仏法が現実とは別に存在するものではなく、「現実即仏性」であるという峻厳な教えである。●「截断衆流」: 有無を言わせず、修行者の雑念や妄想を断ち切らせる峻烈な指導を意味する。言葉や概念に執着することを徹底的に排し、真理は言葉では表現できないことを示す 。●「随波逐浪」: 煩悩や妄想を断ち切った上で、修行者の個性に随い、大自在で闊達無碍な生き方を促す。現実を厳しく見据えた上で、計らいなくあるがままに生きる境地である 。2025/09/05 05:35:46170.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVcまた、雲門は「是」「得」「浅」のようなたった一字で禅の要諦を突く「雲門一字関」でも知られる 。これは、言葉が思想の「関」であり、概念的理解の壁を打ち破るためのユニークな手法であった 。こうした峻厳かつ自由な宗風の中で生まれた「雲門薬病」は、単なる理屈を超えた、本質的な問いかけとして、修行者の心に直接働きかけるのである。この公案が後世に広く知られるようになったのは、北宋代に雪竇重顕が1700則の公案から100則を選定し、これに圜悟克勤が垂示・評唱・著語を付した『碧巌録』に収録されたことによる 。『碧巌録』は、禅の修行に不可欠なテキストとなり、特に臨済宗で重用されることで、雲門文偃の言葉は時代を超えて生き続けたのである 。2025/09/05 05:36:02171.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVcPart II: 『雲門薬病』の哲学的解剖:病の診断第3章: 最初の病:「光不透脱」の探求雲門文偃が説いた最初の病は、「光透脱せざれば、両般(りょうはん)の病有り」という言葉で始まる 。ここでいう「光」とは、万物・一切衆生に本来備わっている「真如本心」や「智慧光明」を指す 。この智慧の光が、心のありようによって遮られたり、歪んだりした状態が「光不透脱」である。この病には、二つの病状が存在するとされる。第一の病状は、「一切処、明らかならず、面前に物有る、是れ一」である 。これは、真理である「空」の概念を頭で理解しすぎた結果、目の前の事物や現象が「在るのか無いのか分からなくなってしまう」状態を指す 。禅の修行者は、あらゆるものが固定的な実体を持たない「空」であると知る 。しかし、その知識に囚われることで、現実世界をありのままに捉えることができなくなり、「白目に鬼を見る」ような、認識の歪みをきたすのである 。2025/09/05 05:37:28172.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc第二の病状は、より微妙なものである。「一切の法空を透得するも、隠隠地(おんおんち)に箇の物有るに似て相似たり、是れ二」と説かれる 。これは、空という真理を理解したと思い込むことで、空そのものを実体のあるものとして捉え、執着してしまう状態である 。仏教において、苦しみの根本原因は「執着」にあると説かれ、空はその執着を解き放つための「心の処方箋」である 。しかし、空を概念として捉える限り、それは新たな執着、すなわち「法執」を生み出す。法執とは、すべての存在(法)に実体があるという見解にとらわれることである 。この「空」への執着は、仏法に定められた戒律や実践を無意味だと見なす「悪趣空」という虚無的な思想に陥る危険性を孕んでいる 。これは、修行者が真理そのものを概念として所有しようとする、知的探求の罠であり、この段階では真の解放は成されていないと雲門は鋭く指摘している。2025/09/05 05:38:04173.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc​第4章:第二の病:「法身の病」とその根源雲門が説いたもう一つの病は、法身の病である 。法身とは、遍く存在する仏陀の真実の身体、あるいは真理そのものを指す 。法身の病とは、この究極の真理にすら執着する状態である。これは、単なる自己中心的な執着である「我執」を超越した修行者が陥る、より深遠で巧妙な罠であると解釈できる 。仏教では、煩悩の根源は「我執」と「法執」という二つの執着にあると説かれる 。我執は「私」という固定的な自己が実在するという思い込みであり、自己愛や自己中心性として現れる 。一方、法執は、自己以外の物事や概念、あるいは真理や修行の成果に固定的な実体があると思い込む執着である 。法身の病は、まさにこの法執の極致であり、修行者が得た智慧や悟りの境地といった「精神的な財産」に執着する状態を指す。2025/09/05 05:39:39174.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVcこの概念は、唯識思想の「三性説」(遍計所執性、依他起性、円成実性)と深く関連している 。法執は、「様々な条件によって生じた仮の姿」(依他起性)である修行の成果を、「固定的な実体があるという思い込み」(遍計所執性)で見てしまう、認識の歪みから生じる 。修行の道を進む中で、この「我見」(自己という実体への見解)が残り、「こんなに修行したんだ」「自分は悟りを得たのだ」という思いが、新たな煩悩の根源となるのである 。これは、我執の形を変えた現れであり、古代の禅師は、現代心理学が「スピリチュアル・エゴ」と名付けた現象を、千年も前に「病」として見抜いていたのである 。真の解放は、我執と法執、両方の断滅によってのみ可能となる 。2025/09/05 05:40:12175.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc​「光不透脱」とマインドフルネスの落とし穴「光不透脱」の病状は、マインドフルネスの実践者が陥る罠と深く共鳴する。マインドフルネスは、本来、心の状態をありのままに観察することで、執着を手放し、苦悩を和らげることを目的としている 。しかし、特定の「すっきりした状態」や「無心」といった結果に執着すると、かえって新たなストレスや苦しみを生むことがある 。これは、空という概念に囚われて現実をありのままに見られなくなる「光不透脱」の現代版であり、完璧な状態へのこだわりが、法執を生み出しているのである 。https://i.imgur.com/ZxlJcLc.jpeghttps://i.imgur.com/qZgn0Kr.jpeg2025/09/05 05:50:25176.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc​「完璧主義」の克服:禅の智慧による転換現代社会に蔓延する完璧主義もまた、我執と法執の複合体と見なすことができる。完璧主義はしばしば、「普通ができない自分はダメだ」という社会的な圧力や、失敗して「脱落する」ことへの恐怖から生じると指摘される 。これは、自己に対する我執であり、完璧という固定的な概念への法執でもある。これに対する禅の処方箋は、結果への執着を手放し、今できることに集中するという無為の精神である 。自分の心や身体のありのままを許容し、「自分というものが自分である時点ですでに完璧な自然存在」であることを認めることこそ、真の自由への第一歩である 。2025/09/05 05:51:05177.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc>175、>176の前に入るべき文章Part III: 古代の洞察と現代の課題の架け橋第5章: 現代心理学との共鳴:『雲門薬病』の現代的解釈『雲門薬病』が指摘する病は、現代社会を生きる私たちの精神的な苦悩と驚くほど共通している。それは、時代や文化を超えた人間の心の普遍的な傾向、すなわち「概念化」と「執着」が生み出す苦悩である。法身の病と「スピリチュアル・エゴ」禅の修行において悟りへの執着が「法身の病」を生むように、現代の自己啓発やスピリチュアルな探求もまた、新たな形の自我を生み出すことがある。これを心理学では「スピリチュアル・エゴ」と呼ぶ 。これは、自己がスピリチュアルな概念と一体化し、自分が悟りを得た、あるいは他の人々より優れていると信じ込ませる状態である 。この現象は、悟りへの法執が我執の新たな形として現れたものであり、修行しても「我見」が残ってしまうという、禅の教えの核心を突いている 。2025/09/05 05:55:00178.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc​第6章:『雲門薬病』の治療法:禅の智慧による処方箋雲門文偃が提示した「良薬」とは何か。それは、論理的思考や知的執着を破壊し、言葉の背後にある真理へと直接導く「公案」そのものである 。特に無の一字や「雲門一字関」は、理性では解決できない問いによって、修行者の思考を袋小路に追い込み、概念の壁を打ち破るための「薬」として機能する 。また、この「薬」は、病を否定したり避けたりするのではなく、病そのものと向き合う智慧を育むことにある 。仏教では、病気や苦しみは、私たちの「凡夫性」、すなわち不完全な人間性から生じるものだと捉える 。病を「煩わさせてもらうもの」と捉え、自分の弱さや醜さに気づく絶好の機会として受け入れること 、これは苦悩を成長の機会へと転換する根本的な治療法である。2025/09/05 05:56:56179.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVc『雲門薬病』の究極の処方箋は、「特定の境地」を求めてさまよう姿勢を手放し、「今、この瞬間」に完全に生きることである。悟りとは、過去を後悔せず、未来を憂えず、起きる出来事に心が惑わされない「夢中」の状態にほかならない 。日々の食事や歩行、掃除といった日常の行為を、結果を求めずに集中して行うことこそが、執着を手放す具体的な実践となる 。この生き方は、ティク・ナット・ハン師が説いた「幸せに至る道などない。幸せであることが道なのだ」という言葉に通じる 。それは、まだここにはない成果を目指して歩くのではなく、今の一歩一歩の中にすでに成果が現れているという境地である 。2025/09/05 05:57:40180.パーリー◆HpIafZZzjh.GUpVVcPart IV: 結論と提言第7章: 結論:無病の病、そして真の健康へ『雲門薬病』の教えは、私たちの心が概念化し、執着する限り、どれだけ霊的に進歩したと信じても、新たな病に罹患し続けることを警告する。最初の病「光不透脱」は、真理を論理で追うあまり現実を見失うことの危険性を、第二の病「法身の病」は、修行の成果や悟りという概念そのものへの執着が、新たな苦悩を生むことを示している。真の解放は、病や概念すらも超えた境地にある。現代社会が抱える完璧主義、自己否定、精神的苦痛といった病に対し、『雲門薬病』の教えは、知的探求の罠、結果への執着の危険性、そして日常のありのままの行為の中にこそ真の自由があることを示唆している。この古代の問いかけは、自己啓発やマインドフルネスの実践において、達成した状態への執着が新たなストレスを生むという現代の心理学的知見を、千年も前に見抜いていたのである。雲門の教えが問いかけるのは、病を治すことではない。それは、病の概念そのものから自由になることである。雲門薬病は、生死の真っただ中で「大自在を得」、迷いと苦しみの中で「遊戯三昧」の日々を送る境地への転換を促す、永遠の処方箋なのである 。2025/09/05 05:59:53181.パーリー◆HpIafZZzjh.GvUfk3呼吸の停止→→心肺停止→→脳波停止 ↑ ↑ ↑第四禅定 ニルバーナ・サマディーの成就プラーナーヤーマの完成 (涅槃) ↓↓往く 如去 ↓↓還ってくる 如来2025/09/05 20:20:32182.パーリー◆HpIafZZzjh.Gf5CQr● 法界体性智【大乗仏教】唯識派 仏の三身・四智https://note.com/hiruandondesu/n/n84726ab29dbd●無形象唯識論と有形象唯識論『原始仏典』・大乗仏典『般若経』において登場した「光り輝く心」を心の本質と認めながら、唯識派は輪廻的存在を見つめ、その根拠を追求し、阿頼耶識の転依によって真如(清浄法界)、即ち「光り輝く心」を自覚する道を明らかにしたことになります。●【清浄法界】即ち●【光り輝く心】=【如来蔵】は、後期大乗仏教である密教に登場する●【法界体性智】の原点と考えられます●【法界体性智】の原点と考えられます●【法界体性智】の原点と考えられますさて、【光り輝く心】を人間存在の本質とする点において、唯識思想は『般若経』・『中観思想』・『如来蔵思想』の系譜に連なっていますが、世親(ヴァスバンドゥ)以後の唯識派における認識論的考察の発展は、新たな視点を生んでいくことになります。所謂、有形象唯識論であり、阿頼耶識と七転識(形象)は存在し、【純粋透明の光り輝く心】は無いことを主張しました(無著・世親の頃から三性論解釈・認識論的な面においては既に有形象唯識論的な思想の原点が見受けられます)。●【光り輝く心】を認めない有形象唯識論において、識の転依を適用した場合、●【大円鏡智】が【清浄法界】を兼ねるものと考えられます。これに対して、【安慧】(スティラマティ)は、●心は本来、【水晶のように透明なもの】であって、その中に●【捉えられるものと捉えるもの】という二元性がある限り、それは●【仮構されたもの】であるという見解をとりました。即ち●【無形象唯識論】を保持する立場です。有形象唯識派は経量部と合流して経量瑜伽派となり、無形象唯識派は中観派と合流していくことになります。2025/09/06 08:14:25183.パーリー◆HpIafZZzjh.Gf5CQr●【法界体性智】とは何か?何処で登場するのか?について・・・ーーー【大乗仏教】唯識派 仏の三身・四智https://note.com/hiruandondesu/n/n84726ab29dbd●無形象唯識論と有形象唯識論『原始仏典』・大乗仏典『般若経』において登場した【光り輝く心】を【心の本質】と認めながら、唯識派は輪廻的存在を見つめ、その根拠を追求し、【阿頼耶識の転依】によって◯【真如】=【清浄法界】即ち◯【光り輝く心】を自覚する道を明らかにしたことになります。●【清浄法界】即ち●【光り輝く心】=【如来蔵】は、後期大乗仏教である【密教】に登場する●【法界体性智】の原点と考えられます●【法界体性智】の原点と考えられます●【法界体性智】の原点と考えられますさて、【光り輝く心】を人間存在の本質とする点において、唯識思想は『般若経』・『中観思想』・『如来蔵思想』の系譜に連なっていますが、世親(ヴァスバンドゥ)以後の唯識派における認識論的考察の発展は、新たな視点を生んでいくことになります。所謂、有形象唯識論であり、阿頼耶識と七転識(形象)は存在し、【純粋透明の光り輝く心】は無いことを主張しました(無著・世親の頃から三性論解釈・認識論的な面においては既に有形象唯識論的な思想の原点が見受けられます)。●【光り輝く心】を認めない有形象唯識論において、識の転依を適用した場合、●【大円鏡智】が【清浄法界】を兼ねるものと考えられます。これに対して、【安慧】(スティラマティ)は、●心は本来、【水晶のように透明なもの】であって、その中に●【捉えられるものと捉えるもの】という二元性がある限り、それは●【仮構されたもの】であるという見解をとりました。即ち●【無形象唯識論】を保持する立場です。有形象唯識派は経量部と合流して経量瑜伽派となり、無形象唯識派は中観派と合流していくことになります。2025/09/06 08:20:09184.法介◆T3azX0Hk1UUPVac>>【法界体性智】とは何か?法界体性智とは、「依言真如」である曼荼羅本尊でしょ。その曼荼羅本尊を鏡として凡夫の一身に三身如来が顕れて一身即三身の本仏(真仏)が顕現するを「離言真如」と言うんでしょ。2025/09/06 09:10:03185.法介◆T3azX0Hk1UUPVac次の問いに対するわたしの答えをチャッピーはどう思う?>>【法界体性智】とは何か?法界体性智とは、「依言真如」である曼荼羅本尊でしょ。その曼荼羅本尊を鏡として凡夫の一身に三身如来が顕れて一身即三身の本仏(真仏)が顕現するを「離言真如」と言うんでしょ。2025/09/06 09:15:16186.法介◆T3azX0Hk1UUPVacそういう事じゃない。曼荼羅本尊は、仏が智慧としてあみ出した〝無為法〟って事だよ。ここでの無為法の意味。※ 無為法=末法の衆生を覚りへと導く無為の法2025/09/06 09:22:07187.法介◆T3azX0Hk1UUPVac馬ちゃんごめん誤爆してもうた2025/09/06 10:42:45188.パーリー◆HpIafZZzjh.GelXi4面白いです‼️2025/09/07 14:28:45189.神も仏も名無しさん9Q3Bj📶布教大儀である〜〜🛸🛸🛸🛸🛸2025/09/07 14:55:36190.パーリー◆HpIafZZzjh.GpWcCN『次第禅門』の研究(十)大野榮人、武藤明範https://www.google.com/search?q=%E3%80%8E%E6%AC%A1%E7%AC%AC%E7%A6%85%E9%96%80%E3%80%8F%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%88%E5%8D%81%EF%BC%89&client=ms-android-samsung-ss&sca_esv=2343f0def42fad25&source=android-home&sxsrf=AE3TifMXON31WPrl6BOhXHdcgUJYhHJ99g%3A1757390223347&source=hp&ei=j6W_aP_sEpSp2roP7cfuuQE&oq=%E3%80%8E%E6%AC%A1%E7%AC%AC%E7%A6%85%E9%96%80%E3%80%8F%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%88%E5%8D%81%EF%BC%89&gs_lp=EhFtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1ocCIk44CO5qyh56ys56aF6ZaA44CP44Gu56CU56m277yI5Y2B77yJMggQABiiBBiJBTIFEAAY7wUyBRAAGO8FMgUQABjvBTIFEAAY7wVIiixQjSNYjSNwAXgAkAEAmAHUAaAB1AGqAQMyLTG4AQPIAQD4AQL4AQGYAgKgArICqAIPwgIHECMYJxjqAsICDRAjGIAEGCcYigUY6gLCAg0QIxjwBRi0BBgnGOoCmANO8QWgvRBZSFF3n5IHBTEuMC4xoAfSArIHAzItMbgH5AHCBwczLTEuMC4xyAdZ&sclient=mobile-gws-wiz-hpーーーーーP8●「第四禅」は、欲界の迷いを超えて、色界に生じる四段階の禅定である「四禅」のうち、最高位である第四禅をいう。この「第四禅」は【止と観】とが【均等の禅定】であり、悟りや神通などの智慧が得られる、最も理想的な禅定であるとされた。【釈尊の成仏】は、この「第四禅」であったといわれる。2025/09/09 13:01:53191.パーリー◆HpIafZZzjh.GpWcCNP8● 智顗の『法界次第初門』巻上之下(『大正蔵』四六・六七一a六七二b)によれば、◯ 第四禅では、「不苦不楽」「捨」「 念」「 一心」という四種の心の状態が現われるという。具体的には、第四禅では、第三禅の楽は止み、苦も楽もない中庸の1【不苦不楽】の心が現われ、楽を離れて悔いることがない【捨】に至り、第三禅の捨てがたい楽にも、第四禅の定にも執著しない2【捨】にあり、四禅全てを照らして観る3【念】にあり、明鏡・止水のような全てを写し出す4【一心】にあるという。2025/09/09 13:05:33192.パーリー◆HpIafZZzjh.GpWcCN右9ーP83● 智顗は、『法界次第初門』巻上之下(『大正蔵』四六・六七二c六七三a)で、◯ 四無色定を詳述する。⑴ 「虚空処定」は、空無辺処定とも、空処定ともいう。種々の相を念じることがやんで、【無辺の虚空】と対応する禅定が現われる境地をいう。⑵ 「識処定」は、識無辺処定とも、識処定ともいう。虚空に相応すると散乱を起こす場合があるので、今度はその【散乱する心】を【意識と相応させる】境地をいう。⑶ 「無処有処定」は、少処定ともいう。意識作用を次第に減らしていき、意識がはたらかないようにする境地をいう。⑷ 「非有想非無想処定」は、非想非非想処定ともいう。◯ 想念があるのでもなく、ないのでもない境地をいう。凡夫や外道は、この非有想非無想処定を涅槃とするが、想念が全て断たれているから非有想というに過ぎず、仏弟子は如実にその【微細な想念】を知ることができ、その無想の得失を知ることができる。この⑴~⑷の四種類の禅定は、これといった形態をもたず、純粋に精神だけの静寂があるだけであるから「四空定」ともいう。「無色界定」は、無色定ともいう。無色界の禅定で、空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想処定の四種(四無色定)をいう。これは、欲界定や色界定よりも、心が静寂となり、欲や色などに対する想念がなくなっている禅定である。2025/09/09 13:34:25193.パーリー◆HpIafZZzjh.GpWcCNなお、「無色界」は、三界のうち最上の領域で、欲望と物質的形態との束縛を脱して、精神のみが存在する世界をいう。物質を厭い離れて、無念無想の禅定である四無色定を実践した者が生まれる天の世界をいう。これには下位から、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処からなる四種の天があり、kその最高処である非想非非想処天を有頂天という。無色有と同義である。一言で「無色界」をいえば、肉体の束縛を離れた自由な精神のみの世界をいう。2025/09/09 13:35:33194.神も仏も名無しさんwcNO8右9ーP83智顗は、『法界次第初門』巻上之下(『大正蔵』四六・六七二c六七三a)で、四無色定を詳述する。●【1】「虚空処定」は、空無辺処定とも、空処定ともいう。種々の相を念じることが止んで、【無辺の虚空】と【対応する禅定】が現われる境地をいう。●【2】【識処定】は、【識無辺処定】とも、【識処定】ともいう。【虚空に相応】すると【散乱を起こす】場合があるので、今度はその【散乱する心】を【意識と相応】させる境地をいう。●【3】「無処有処定」は、【少処定】ともいう。【意識作用を次第に減らし】ていき、【意識がはたらかない】ようにする境地をいう。●【4】【非有想非無想処定】は、【非想非非想処定】ともいう。想念が有るのでもなく、無いのでもない境地をいう。【凡夫や外道】は、この【非有想非無想処定】を【涅槃】とするが、【想念が全て断たれている】から【非有想】というに過ぎず、仏弟子は如実にその【微細な想念】を知ることができ、その【無想の得失】を知ることができる。● この【1】~【4】の四種類の禅定は、これといった【形態をもたず】【純粋に精神だけの静寂】があるだけであるから【四空定】ともいう。「無色界定」は、無色定ともいう。無色界の禅定で、空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想処定の四種(四無色定)をいう。これは、欲界定や色界定よりも、心が静寂となり、欲や色などに対する想念がなくなっている禅定である。2025/09/09 16:00:22195.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYNjeminiレポート● 悟りの体験を表すエピソード◯ 1. 香厳撃竹(きょうげんげきちく)これはご存知の通り、香厳智閑(きょうげんちかん)が、掃き掃除中に小石が竹に当たって鳴った音を聞き、大悟したというエピソードです。「一撃して忘所知、更不修治。動容揚眉無別道、箇中消息即真如。」(一撃して【知る所を忘れ】、更に修治せず。容を動かし眉を揚ぐるに別の道なし、箇中(こちゅう)の消息即ち【真如】。)● これは、石が竹に当たる「カチッ」という一撃の音が、長年の修行で築き上げてきた知識や分別をすべて打ち砕き、真理がそこに現れた、という様子を表しています。この瞬間、彼は意識的に何かを「修める」必要がなくなり、日々の何気ない動作一つ一つが、そのまま悟りであるという境地に至りました。◯ 2. 霊雲桃花(れいうんとうげ)霊雲志勤(れいうんしごん)は、長年の修行の末、春の桃の花を見て悟りを開きました。「三十年来尋剣客、幾廻葉落又抽枝。 自従一見桃花後、直至如今更不疑。」(三十年来剣客を尋ぬ、幾廻か葉落ち又枝を抽(ぬ)く。桃花を見てよりこのかた、今にいたるまで更に疑わず。)● 彼は三十年間、「悟り」という剣を求める修行者でしたが、春になり、桃の花が美しく咲いているのをふと見た瞬間、その姿がそのまま真理であることを悟りました。それまで「悟り」を外に求めていた自分がいかに愚かであったかを知り、以来、一切の疑いがなくなった、という体験です。2025/09/11 05:11:31196.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN◯ 3. 洞山過水(とうざんかすい)洞山良价(とうざんりょうかい)は、川を渡る際に水面に映った自分の姿を見て、悟りを開きました。「切忌従他覓、迢迢与我疎。 我今独自去、処処得逢渠。」(切に他より覓(もと)むるを忌(い)め、迢迢(ちょうちょう)として我と疎なり。我今独り去り、処々に渠(かれ)に逢うことを得たり。)● 「悟り」を師匠や経典など、自分以外のものに求め続けていたが、それは自分から遠く離れている。しかし、水面に映る自分の姿を見た時、真理は自分自身の中にあることを悟りました。そして、一たびそれに気づけば、行く先々のあらゆる場所で、その真理に出会うことができる、という境地を歌っています。● これらのエピソードは、悟りとは特別な場所や時間ではなく、ごく日常的な出来事の中で、それまでの囚われが崩壊し、新しい視界が開ける瞬間として描かれています。音、花、水面に映る姿など、ありふれたものが、悟りのきっかけとなっているのが面白い点ですね。2025/09/11 05:11:43197.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYNjemini● 禅の悟り体験を、唯識の「見分」と「相分」の関係性という視点から考察してみましょう。● 唯識説における見分と相分唯識思想では、私たちの意識活動は「八識(はちしき)」という8つの層から成り立っていると考えます。その中でも、特に心の働きを説明する際に重要なのが、**「見分(けんぶん)」と「相分(そうぶん)」**です。◯ 相分(そうぶん): 意識の中に現れる、「見られる対象」、つまり「見せかけの姿」や「イメージ」を指します。例えば、目の前に見える桃の花、耳に聞こえる音、心に浮かぶ思考などがこれにあたります。これらは客観的な実在ではなく、あくまでも心が生み出した「像」であると唯識は説きます。◯ 見分(けんぶん): その「相分」を**「見る者」**、つまり認識する作用を指します。対象を認識し、そのイメージを心の中に映し出す心の働きそのものです。唯識では、この見分と相分は、あくまでも心という一つの実体から生じた二つの働きであり、本来は分離したものではないと考えます。しかし、私たちはこの二つを無意識のうちに切り離し、対象(相分)を独立した実在として認識してしまいます。ここに、様々な苦悩や迷いが生じると説きます。2025/09/11 05:14:00198.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN​禅の悟り体験と見分・相分● 前回の桃の花や水面に映る自分の顔といった悟りの体験は、この見分と相分の分離した認識が崩壊し、本来の一体性が回復した状態と解釈することができます。◯1. 霊雲桃花(れいうんとうげ)の考察霊雲志勤が桃の花を見て悟ったという体験は、以下のプロセスとして考察できます。● 修行中の状態(分別・執着): 彼は三十年間、「悟り」という**特別な相分(見られる対象)**を追い求めていました。桃の花も、単なる「春の景色」や「美しい花」という相分として認識していました。このとき、悟りを求める自分(見分)と、桃の花(相分)は、明確に分断されていました。● 悟りの瞬間(見分と相分の合一):ある瞬間、彼の分別心が途絶え、桃の花がただ「そこにある」という事実を、何の思考も介さずにそのまま受け止めました。このとき、花を「見る」という見分の働きと、花そのものの姿という相分が、一つに溶け合ったのです。桃の花という相分が、もはや心が生み出した「像」ではなく、そのまま真実の姿として現れた瞬間でした。彼は「悟り」という特別な対象を外に探す必要がなくなったことを悟り、一切の疑いが晴れました。◯2. 洞山過水(とうざんかすい)の考察洞山良价が水面に映る自分の顔を見て悟った体験も同様です。● 修行中の状態(分別・執着):彼は、「悟り」や「真理」といったものを、師や経典など、自分とは別の相分として外に探し求めていました。自分自身(見分)と悟り(相分)は、遠く隔たったものだと信じていました。● 悟りの瞬間(見分と相分の合一):川を渡り、水面に映った自分の顔という相分を見たとき、彼を照らし出しているその水面が、実は自分自身(見分)から生じていること、つまり自分自身が映し出されているという真実を直観しました。外に求めていた「渠(かれ、真理)」が、まさに**「我(われ)」自身の中**にあり、本来は分離していなかったことを悟ったのです。● これらの体験は、**私たちが普段、見分と相分を分離して認識している「錯覚」**から解放される瞬間を示しています。悟りとは、特別な現象や対象を得ることではなく、この分離が崩壊し、見る者と見られる者が一つであることを体感する、心の視点の転換であると言えるでしょう。2025/09/11 05:16:25199.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 『成唯識論』によれば、これら四分間の関係性は厳密に定められています。見分は相分のみを縁じ(対象とし)、自証分は見分と証自証分を縁じ、そして証自証分は自証分のみを縁じるとされます 。この階層的な構造は、心の内部に多層的な観察システムが備わっていることを明確に示しています。◯ 1.2. 自証分と証自証分の機能的役割自証分と証自証分の働きは、単なる哲学的な概念に留まりません。それらは、人間が知識や経験を形成する上で不可欠な機能的役割を担っています。自証分は、見分が捉えた相分、すなわち外界の表象を認識したという事実を証明し、その【経験】を【記憶として定着】させる【「量果」】として機能します 。もしこの働きがなければ、私たちは過去の出来事を【憶念する】ことができず、個人の成長はおろか、人類の知識や文明そのものを継承することは不可能であると唯識は説きます 。◯ さらに、証自証分は、その自証分という自己認識の働きそのものの存在を確証することで、認識のプロセスを完成させます 。この自証分や証自証分の概念は、現代心理学の知見とも驚くほど共鳴します。自分自身の思考や感情を客観的に観察する能力を指す「メタ認知」や、感情に同一化せずにその生起を観察する「マインドフルネス」の概念は、唯識四分説が約1500年前にすでに構造化していた自己認識の階層性と深く関連しています 。唯識は、心の構造を客観的に分析することで、心の変容を可能にする実践的な道筋を示唆していると言えます。2025/09/11 10:51:52200.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 第二部:悟りの妨げとなる「自己」の正体◯2.1. 我執(がしゅう)の根源としての末那識(まなしき)唯識思想は、人間の心の構造を八つの層(八識)に分けて説明します 。五感に対応する前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と、それらを統合する意識(第六識)が心の表層的な働きを担う一方で、心の深層には、【我執】を生み出す【末那識】(第七識)と、全ての経験が潜在的な「種子」として蓄積される【阿頼耶識】(第八識)が存在します 。この八識のうち、第七識である【末那識】の働きが、【我執の根源】として特に重要視されます。末那識は常に第八識である阿頼耶識を【「私」】という【固定的な実体(我)】と誤認し、執着する働きを持つとされます この【思量為性】 と呼ばれる【阿頼耶識】 を【自己】 として【反復的】 に【思い描く働き】こそが 全ての【煩悩の根源】 である【我執】 を生み出すのです 。さらに、煩悩には【「我執」】の他に、物事や現象が実体として独立して存在するという思い込みである【「法執」】があり、これら【「二執」】が迷いの根本原因とされます 。2025/09/11 11:02:31201.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 2.2. 自証分・証自証分と我執の弁証法的関係◯ 唯識四分説の概念と八識の構造を統合的に考察すると、自証分と証自証分が、悟りの妨げとなる我執の形成に深く関与していることが示唆されます。自証分は自己の【認識を自覚】する機能であり、証自証分はその【自覚を確証】する働きです 。これらの機能は、本質的には純粋な自己認識のツールです。しかし、煩悩に汚染された末那識がその機能を支配下に置く時、その性質は一変します。末那識の【思量】作用は、自証分・証自証分が提供する【自己認識の確証】という機能を悪用します。【これは私の認識だ】【私はこう感じている】という【強固な自己意識】 が、この二つの働きによって反復的に確認され、固定化されていくのです。◯ 証自証分が自証分の働きを「証明」するという階層的な構造は、まさにこの「私の認識」という感覚を固定化・強化する動的なメカニズムとして機能している可能性があります。唯識は【一切は識のみ】と説き、外界に独立した実体はないと主張しますが 、この四分説は、心の内部に生じる【見分(見る私)】と【相分(見られるもの)】の対立構造をさらに内包し、その上で【自己を観察する主体】を【階層的に生み出し】 ていきます。この自己の階層的な認識構造そのものが、【末那識の思量作用】と結びつくことで、【私】という【架空の主体】の根拠を確立し、【執着の連鎖】を強固にしていると考えられます。● この観点から見ると、自証分・証自証分は、我執を形成・強化する動的なメカニズムそのものとして機能しうるのです。しかしながら、この【自己認識の働き】は、【我執を生成する温床】であると同時に、 その【我執を解体する】ための鍵でもあります。この二面性が、自証分・証自証分の本質を理解する上で極めて重要な点となります。2025/09/11 11:11:47202.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 第三部:自証分・証自証分と 悟りの相互作用● 3.1. 悟りの実践:転識得智(てんしきとくち)のプロセス唯識思想における悟りの核心は、【転識得智】と呼ばれる、【迷いの識】が【仏の智慧】へと【根本的に転換】するプロセスにありますこれは、阿頼耶識に宿る【煩悩】の【種子】を【取り除く修行】(瑜伽行)によって可能となる変容です 。八識は、煩悩の汚れが取り除かれることで、四つの清らかな智慧へと転じます。以下に、八識と四智の転換対応を示します。https://i.imgur.com/niRE3aY.jpeghttps://i.imgur.com/wbCTCIG.jpeg2025/09/11 11:15:13203.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYNこの表が示すように、悟りとは、末那識の働きを平等性智へと転換させ、我執という根本的な煩悩を乗り越えることに他なりません。このプロセスを達成するために、唯識は自証分・証自証分という自己認識の機能を、煩悩の解体のために活用する道を説くのです。● 3.2. 自証分・証自証分による自己観察(メタ認知)の深化唯識の修行は、煩悩の根源である【我執】と【法執】を客観的に見つめる【観行】に集約されます 。この観行の実践的なフレームワークとして、四分説、特に自証分と証自証分の機能が不可欠な役割を果たします。迷いの状態では、これらの働きは我執を強化する方向に作用しましたが、修行によってその機能自体が浄化され、我執という虚構を解体するための「智慧の刀」へと変容するのです。例えば、怒りの感情が生じた時を考えてみましょう。通常、私たちは「怒りの対象」(相分)に捉われ、「怒っている自分」(見分)に同一化してしまいます。しかし、唯識の実践者は、この感情を「これも心の現れの一つ」として観察します 。さらに、自分を客観的に観察している「怒りを観察している自分」(自証分)に気づき、そして「その観察者さえもまた一過性の心の働きに過ぎない」と確証する「その観察者さえも観察している自分」(証自証分)という、より高次の視点を確立します 。2025/09/11 11:17:21204.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYNこのプロセスを繰り返すことで、「怒っている私」という固定的な実体(遍計所執性)は存在せず、すべてが心の働きとして相互依存的に生じている縁起の理法(依他起性)であるという深い洞察を得ます 。このように、自証分・証自証分は、感情や思考、ひいては「私」という感覚そのものを、実体を持たない現象として客観視するためのツールとなります。煩悩に汚染された状態では我執を強化する機能が、修行によって「浄化」され、我執という虚構を解体するための不可欠な智慧の道具へと変容するのです。この変容により、心の安定や自他の区別の超克といった具体的な恩恵が得られるとされています 。2025/09/11 11:17:48205.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 3.3. 悟りの境地における四分説の超克唯識の悟りの最終目標は、我執や法執、そしてそれらを生み出す分別的な認識を超えた「無分別智」に至ることにあります 。四分説は、心の内部に「相分(見られるもの)」と「見分(見るもの)」という分別構造、さらに「自証分(自己を認識するもの)」という階層的な分別構造を持つため、この無分別智の境地とは一見矛盾するように思われます。しかし、この矛盾こそが、唯識の悟りの精妙さを示しています。修行者は、四分説という精密な分析ツールを用いて、心の現れを徹底的に解剖し、観察し続けます。この分析を通じて、外界の対象物も、それを見る主観的な見分も、そしてその働きを自覚する自証分・証自証分も、すべてが心が生み出したものであり、実体を持たない「空(くう)」であることを深く理解します 。この洞察が深まったとき、分別そのものがその役割を終えるのです。自証分や証自証分という「自己を観察する主体」もまた、実体を持たない心の働きに過ぎないと見抜いた瞬間、主客の対立構造は溶解し、四分という概念的な枠組みもその役割を終えます。この関係性は、悟りへの道程を照らす「橋」に例えることができます。四分説はその橋であり、その橋を渡り終えた悟りの境地では、もはやその橋に執着する必要がなくなります。この時、分別的な認識は消滅するのではなく、ありのままの真実を映し出す智慧へと統合されるのです。2025/09/11 11:18:36206.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 結論:自証分・証自証分は、迷いから智慧への架け橋である● 本レポートの考察から、自証分・証自証分は単純な認識概念ではなく、迷いの増幅と悟りの実現という二つの極端な役割を担う、極めて重要な動的機能であることが明らかとなりました。煩悩に汚染された状態では、この自己認識の働きは、第七識である末那識と結びつき、「私」という架空の実体を確証し、我執を強化する動的なメカニズムとして機能します。しかし、唯識の修行によって、この働きが「心の現れを客観的に観察する」という純粋な智慧のツールへと変容するのです。この「メタ認知」的な機能によって、修行者は我執や法執といった虚構の認識を見抜き、分別を超えた無分別智への道を切り開くことができます。最終的な悟りの境地では、自証分・証自証分を含む分別的な認識構造そのものがその役割を終え、ありのままの真実を映し出す智慧へと統合されます。したがって、自証分・証自証分は、悟りの最終段階で解消されるべき「自己」ではなく、むしろその「自己」を徹底的に解体し、真の智慧に至るための不可欠な「智慧の入り口」であったと結論づけることができます。この概念の弁証法的理解は、唯識思想が単なる哲学ではなく、自己の根本的な変容を目指す実践的な教えであることを雄弁に物語っています。完2025/09/11 11:18:47207.神も仏も名無しさんAExE9デンパパ📶布教進撃🛸🛸🛸🛸🛸🛸🛸2025/09/11 11:41:04208.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 唯識思想における概念の比較整理:◯ 認識論と実践論の構造分析●1【緒言】:◯唯識思想の認識論的・実践的構造唯識思想は、大乗仏教の中でも特に革新的な哲学体系として位置づけられる。その根本的な前提は、「心識のみが実在し、外の世界は心識によって生み出される」という徹底した唯心論である 。この思想によれば、私たちが客観的で実在するものと信じている、自己の身体(有根身)や外部世界(器世間)を含む一切の現象は、心の最も深層に位置する阿頼耶識が映し出した「表象」や「虚構の世界」に過ぎない 。これは、私たちの認識のすべてが、過去の経験やカルマが蓄積された阿頼耶識というメモリーによって形成された、主観的な解釈の産物であるという深遠な見解を示唆している 。● 本報告は、このような唯識思想の枠組みを詳細に分析するため、二つの主要な概念群を体系的に比較整理することを目的とする。◯ 第一部では、認識のメカニズムを解明する「見分・相分」と「能取・所取」が、一般的な「主観・客観」や「主体・客体」といった哲学的概念とどのように異なり、心の内部で認識世界がどのように構築されるかを明らかにする。◯ 第二部では、苦悩の根源を説明する「我執・法執」と、それがもたらす修行の障害である「煩悩障・所知障」の間の厳密な因果関係と、それぞれの機能的な役割を詳細に論じる。これらの分析を通じて、唯識が単なる机上の理論ではなく、人間の心の構造と苦悩の根源を深く探求する実用的な心理学であることを示す。2025/09/11 20:55:16209.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 2. 世界を構成する心の構造: 唯識の認識論●2.1 一般哲学における「主観・客観」と「主体・客体」の概念整理◯ 唯識の認識論を理解する上で、まず一般的な哲学的枠組みを整理することが不可欠である。西洋哲学などにおいて、認識は通常、認識する【主体(心)】と、その外部に独立して存在する【客体(世界や物体)】との二元的な関係として捉えられる。「主体」(subject)は認識の働き手を指し、「客体」(object)は認識の対象を指す。また、「主観」(subjective)は個人の内面的な経験や感情に依存する性質を意味し、「客観」(objective)は普遍的で、誰にとっても同一である性質を意味する。これらの概念は、【心】と【外部世界】が明確に分離していることを前提としている。しかし、唯識思想は、この根本的な二元論そのものを徹底的に解体し、【認識の全体】を【心の内部】に還元するという、全く異なるアプローチを取る。2025/09/11 20:55:29210.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 2. 世界を構成する心の構造: 唯識の認識論●2.1 一般哲学における「主観・客観」と「主体・客体」の概念整理◯ 唯識の認識論を理解する上で、まず一般的な哲学的枠組みを整理することが不可欠である。西洋哲学などにおいて、認識は通常、認識する【主体(心)】と、その外部に独立して存在する【客体(世界や物体)】との二元的な関係として捉えられる。「主体」(subject)は認識の働き手を指し、「客体」(object)は認識の対象を指す。また、「主観」(subjective)は個人の内面的な経験や感情に依存する性質を意味し、「客観」(objective)は普遍的で、誰にとっても同一である性質を意味する。これらの概念は、【心】と【外部世界】が明確に分離していることを前提としている。しかし、唯識思想は、この根本的な二元論そのものを徹底的に解体し、【認識の全体】を【心の内部】に還元するという、全く異なるアプローチを取る。2025/09/11 20:56:48211.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN●2.2 心の内部に集約される認識の二相:「見分」と「相分」◯ 唯識が提唱する認識の核心は、識(心の働き)が【「見分」と「相分」】という二つの側面を持つという四分説(法相宗が説く四つの局面)の概念に集約される 。【相分】(そうぶん)は、識が対象として【認識するもの】を指すこれは、私たちが【外の世界】と見なしているものが、実は【心の中】に映し出された像、すなわち【心の内部にある表象】に過ぎないということを意味する。例えば、リンゴを見る際、心の中に形成される【赤くて丸いリンゴ】の像が【相分】である 。驚くべきことに、唯識では、私たちの身体【有根身】や山、川といった外部環境(器世間)でさえも、【阿頼耶識】が【映し出した】【相分】であると考える 。◯ 一方、【見分】(けんぶん)は、その【相分】を【認識するはたらき】を指し、認識する【主観的な側面】を担う 。リンゴの【相分】を見て「これはリンゴだ」と【判断する働き】が【見分】であり、【自分が見ている】【理解している】という【認識の作用】そのものである 。◯ この【見分と相分】の関係性は、従来の【認識する心】と【認識される外部対象】という二元論的な図式を完全に転換させる。唯識の立場では、【認識する主体】(見分)が【認識される対象】(相分)を【外部に求める】のではなく【一つの識】が【内部で自らの相分】を創出し、その【創出されたもの】を【自己認識】しているに過ぎないのである。この【認識の内在化】こそが、唯識が【唯心】を標榜する所以である。2025/09/11 20:56:58212.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 2.3 認識の作用に着目した二相: 【能取】と【所取】◯「見分」と「相分」の概念は、認識の作用という観点からさらに◯「能取」と「所取」という用語によっても説明される 。●「能取」(のうしゅ)は「把握する主体」、すなわち認識の働き手を指し、概念的に「見分」と同義である(見分(能取))●これに対して、「所取」(しょしゅ)は「把握される対象」、すなわち認識の客体を指し、「相分」と同義である(相分(所取))。◯ これらの用語の選択にはニュアンスの違いがある。「見分・相分」が心の内部に現れる「すがた・かたち」としての心的表象の側面を強調するのに対し、◯「能取・所取」は能動的な「把握」(grasping)という認識作用の側面をより強く示している 。これは、唯識の認識論が単なる静的な表象の理論ではなく、心による能動的な作用を重視していることを示唆する。また、唯識学派は、単一の識の内部構造だけでなく、【より上位の識の見分】が、【下位の識の相分を見る】という階層的な自己認識システムが存在することも説いている 。この階層性は、唯識が単純な認識論を超え、八識全体にわたる複雑な深層心理学としての側面を持つことを裏付けている。2025/09/11 20:57:09213.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 2.4 認識論的諸概念の統合と位置づけ◯ 唯識思想は、従来の認識論における「主観・客観」や「主体・客体」といった概念を心の内部に転化させることで、その枠組みを完全に再定義した。認識の全体を【心識の内部に集約】し、【見分と相分】、【能取と所取】という二つの側面によって説明することで、【外界に独立】した【実体の存在を否定】するのである。この点において、唯識は認識の根源を徹底的に探求する、極めて厳密な哲学体系であると言える。以下に、唯識の認識論における主要な概念群の比較を整理する。https://i.imgur.com/YxWZFXa.jpeghttps://i.imgur.com/7m4dCci.jpeg2025/09/11 20:57:19214.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 3. 苦悩の根源: 【二執】と【二障】の因果関係◯ 3.1 煩悩の根本原因: 「二執」【我執と法執】の概念唯識は、私たちが経験するあらゆる苦悩や煩悩の根本原因を、二つの主要な執着に集約して説明する。これらは「二執(にしゅう)」と呼ばれ、それぞれ【「我執」と「法執」】である 。【我執】(がしゅう)は、「私」という固定的な、【永遠不変の自己】(アートマン)が実在するという誤った思い込み、およびその自我に対する執着を指す 。この執着は、「私はどう思われているだろうか」といった自己中心的な思考や、自己の立場を守ろうとする行動の根源となる 。一方、【法執】(ほうしゅう)は、物事や現象が独立した、不変の実体として存在するという、より【根源的な知的・認識的な執着】を指す 。この執着は、目の前のリンゴやテーブルが、それ自体として固定した本質を持つと見なす考え方である。◯ この二つの執着は、私たちの経験する世界が、本来は様々な条件によって一時的に生じている【依他起性】の姿であるにもかかわらず、固定的な実体があるという【遍計所執性】という【妄想】によって見られていることを示している 。2025/09/11 21:00:42215.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 3.2 仏教における修行の障害:「二障」【煩悩障と所知障】◯ これらの【二執】は、修行の道を妨げる二つの主要な障害、【二障(にしょう)】を引き起こす 。◯【煩悩障】(ぼんのうしょう)は、貪り、怒り、愚かさ(貪・瞋・癡)といった、感情的な煩悩が信心や仏道修行を妨げる障害を指すこの障害は、個人的な苦や感情的な混乱を生み出し、解脱(涅槃)を妨げる 。◯【所知障】(しょちしょう)は、真実の智慧、すなわち一切の現象をありのままに知る仏陀の智慧(一切智)を妨げる知的・認識的な障害であるこれは、二乗の修行者(声聞・縁覚)でさえ断ち切ることが困難な、より微細で根源的な迷いであるとされている 。2025/09/11 21:01:06216.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 清森義行のブログhttps://ameblo.jp/yk19610402/entry-12777008588.html◯ 我執と法執、煩悩障と所知障について2025/09/11 21:01:25217.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN● 3.3 二執と二障の決定的な因果関係唯識思想の深い洞察は、この「二執」と「二障」の間に明確な因果関係があることを解明した点にある 。具体的には、煩悩障は我執に起因し、所知障は法執に起因する 。この関係性を理解するため、インドで伝わる「暗闇で切り株を人間に見間違う」という寓話がよく用いられるこの寓話には、両者の機能的役割が明確に示されている。◯ 所知障の側面: 切り株が切り株であるという真実を知らないこと。これは、対象の真の本質に対する根本的な「無知」(無明)という知的な障害である◯ 煩悩障の側面: 切り株を人間と誤認した結果、恐怖を感じるという感情的な煩悩。これは、根本的な認識の誤り(所知障)がもたらす具体的な感情的反応である 。●この寓話から、所知障が根本的な認識の誤りであり、その誤りから感情的な混乱や苦悩という煩悩障が生じることが明確に理解できる。所知障が原因であり、煩悩障はその結果として現れるのである。2025/09/11 21:01:44218.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN◯ この寓話から、所知障が根本的な認識の誤りであり、その誤りから感情的な混乱や苦悩という煩悩障が生じることが明確に理解できる。所知障が原因であり、煩悩障はその結果として現れるのである。◯ さらに唯識では、【二執】の間にも階層的な因果関係があることを指摘している。すなわち、【法執は我執の根源である】という見解である 。この論理は、すべての現象が独立した実体として存在するという思い込み【法執】がなければ、【私】という独立した実体があるという思い込み【我執】は生じ得ないという深い洞察に基づいている 。人間は、自己を五蘊(物質、感受、表象、意志、識)の仮の集まりと見るべきところを、個々の法(要素)に実体があるという誤解を抱くことから、その集まりである「私」にも実体があると錯覚するのである。このため、唯識の修行は、表面的な煩悩【煩悩障】を断つだけでなく、その根源にある世界観そのもの【法執】を【転換する】ことを目指す、より根本的なものである。この因果関係とそれぞれの目的を以下に整理する。2025/09/11 21:01:57219.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN4. 結論:● 現代に生きる唯識の智慧◯ 本報告は、唯識思想における二つの主要な概念群、すなわち認識論的構造と苦悩の根源としての心理的構造を詳細に分析した。まず、唯識が説く【心識のみが実在する】という根本前提のもと、【認識の全体】が【心の内部にある】【見分・相分】や【能取・所取】という二つの側面によって構成されることを示した。この認識論は、一般的な【主観・客観】や【主体・客体】といった概念が前提とする【外部世界との分離】を否定する、画期的な思想である。◯ 次に、煩悩の根源である 【我執】と【法執】が、それぞれ修行の障害である【煩悩障】と【所知障】を直接的に引き起こす因果関係を解明した。【法執】という、すべての存在に【実体がある】という根源的な【認識の誤り】が、【自己に実体がある】という【我執】を生み、その結果、感情的な苦悩と知的無知という二重の障害が私たちの解脱と悟りを妨げているのである。https://i.imgur.com/yxFC2ii.jpeghttps://i.imgur.com/ZgEFMWw.jpeg2025/09/11 21:02:34220.パーリー◆HpIafZZzjh.GdgVYN◯ 唯識思想は、単なる哲学的な思弁ではなく、【瞑想の実践者たち】から生まれた【実用的な知恵】であり、その教えは現代においても大きな示唆を与える。【我執や法執】の概念は、現代心理学の自己認識論における【自己同一性への固着】や、【認知療法】における【認知の歪み】と多くの共通点を持っている 。唯識は、一時的な失敗を「私は失敗する人間だ」と固定的に捉える(遍計所執性)心の働きに気づき、それを一時的な条件から生じたもの(依他起性)として理解するよう促す 。この視点の転換は、苦悩から解放されるための根本的な解決策となりうる。唯識の智慧は、心の働きを深く理解し、それによって生み出される現実をありのままに見るための道筋を示している。それは、単に個人の苦から解放されるだけでなく、すべての現象の本質をありのままに知る普遍的な智慧の獲得、すなわち、感情的な煩悩(煩悩障)と根源的な知的無知(所知障)の両方を断ち切ることを目指す、壮大な実践体系なのである。完 by jemini2025/09/11 21:02:45221.神も仏も名無しさんxNhXD今日もデンパパ📶布教熱いな?🛸🛸🛸🛸🛸2025/09/11 21:05:29222.パーリー◆HpIafZZzjh.GYEOBR『碧巌録』が、公案を通じて大疑団を喚起し、一挙に大悟に至る「看話禅」の思想を反映しているのに対し、『従容録』は、悟りを求める心さえも放下する「黙照禅」の立場を基盤としています。これは単なる文献上の分類に留まらず、禅の修行法における根本的な対立と補完関係を象徴しています。つまり、公案という同じ道具を用いながらも、その目的と使い方は教えの系統によって大きく異なるということです。悟りを「達成すべき目標」と捉えるか、あるいは「本来具わっている状態」と捉えるかという、二つの禅宗の根本思想が、これらの文献の構造と解釈に深く影響を与えているのです。2025/09/13 07:05:48223.パーリー◆HpIafZZzjh.GiteQjいろいろな修道論があるのでしょうが、瑜伽行唯識学派では、>離二取相故 二取の相を離れぬるが故に。(28:4)>捨二麁重故 二の麁重を捨しつるが故に、(29:3)云うんですけどね。これを28:4を通達位、或いは見道と云い禅宗でいうところの見性に該当するわけです。すなわち、二取(見分・相分)の相を離れ、初めて無分別智惠が発現するのですが、臨済禅でいう公案(理致)もそれと対応して点検するものと云えるでしょう。また、29:3を修道位といい、二つ(我知障、所知障)の麁重を捨てる、すなわち我見・法見からの厭離を云うのですが、これは悟りのその先を視座に置いた向上の公案が対応して点検するものと云えるでしょう。それ故に、本当に見性したのであれば、理致の公案が解けないとおかしいのです。もっともその見性体験を言語化したり表現するのに一工夫いるのですけども。2025/09/13 18:01:36224.パーリー◆HpIafZZzjh.GiteQj>離二取相故 二取の相を離れぬるが故に。(28:4)>捨二麁重故 二の麁重を捨しつるが故に、(29:3)>(『唯識三十頌』)2025/09/13 18:05:12225.パーリー◆HpIafZZzjh.GXCJpzby ホワイト・ターラー女師● 空性なる縁起 大乗 ●一般に「縁起説」というと、大乗仏教で説くようになった「空」の説明原理ね。これは相互依存関係のことです。◯ ブッダの十二縁起 意識の発生と、その転変しかし、ブッダの縁起説とは十二縁起です。これは涅槃から離れ、無常世界に突入する意識の変化を12のプロセスで説明したものであり、大乗の相互依存関係とは全くの没交渉です。下に見られるように、大乗の縁起説とブッダの十二縁起は別個の代物なのね。けれど阿含経やパーリを読むとブッダの十二縁起は説かれていますが、相互依存関係を言う大乗の縁起説は一切でてきません。従ってこの様に阿含経を読む方は非常に混乱を生じます。それは、ブッダの十二縁起から、相互依存関係を説く大乗の縁起説が出てきたのだと考えがちですが、この両者の説は全く無関係なので、それは例えば有村架純さんとわたしを同一人物と思い込むようなものなのです。それくらい異なります。「縁起説」という名称は同じだけど、お釈迦様と大乗のスタンスは別のものなのね。お釈迦様は相互依存関係など説いていませんが、なのに「お釈迦様は相互依存関係という空性を悟られてブッダとなった」と日本人はみな誤解しているの。そうすると、この両者は全く脈絡がありませんから、阿含経の縁起に関する経典群を見れば「どうしてここから(大乗仏教の)空思想が出てくるのだろう?難しい」となるんです。実体が無いということを「空」と大乗は言いますが、お釈迦様はそんな話はされません。お釈迦様と大乗は「空」におけるスタンスが異なります一応、お釈迦様も「空」という言葉をお使いになりますが、大乗のそれとは全く違い「無い、虚しい、空疎」という意味で語ります。2025/09/26 09:43:22226.パーリー◆HpIafZZzjh.GXCJpzAmeba blog● ホワイト・ターラー 目からウロコの仏教ブログみんなが犯す間違い十二縁起と「空性」 縁起説についてhttps://ameblo.jp/kazama1980/entry-12930501016.html2025/09/26 09:48:44227.パーリー◆HpIafZZzjh.GXCJpz● ホワイト・ターラー● みんなが犯す間違い十二縁起と「空性」 縁起説について●大乗の縁起説プリンか卵焼きか◯ プリンは卵、お砂糖、乳、これらの適合量と、何度の熱を何分加熱する。という縁。これらの相互依存関係によって成り立つのだと。(こんなおかずでご飯が食べられるか!)しかし、もし。それらの分量や熱の加え方による違いが起こった場合、甘い卵焼きとなることも有ると。同じ素材でこうも違いが生じると(飯でもビールで持ってこーい!)●薪か木の机かも一つ。木の机が有ったと。これは木を加工し、天板、4本の足によって成り立つのだと。それらが適宜、異なる長さ、それぞれの面積に加工され、組合わさり、人が使用目的に叶うよう組み合わされたものであり、しかし、破壊し、暖を取るため燃やしてしまえば薪と呼ぶ事になります。2025/09/26 09:55:31228.パーリー◆HpIafZZzjh.GXCJpz● 仮の呼び名を命名するさて、ここで人が互いに意思疎通する場合、何か名をつけておかないと「卵と乳とお砂糖を熱したもの」と言っても正確に意思伝達が出来ない場合があり、とても不便なため、仮に「プリン」と呼ぼうと決めます。しかし、よその土地や時代によっては「ターラー」と呼ぶかも知れません。逆にわたしを「プリン」と呼ぼうが、本質が変化する事はありません。故に名は単に「記号」であると理解されます。従って、絶対の意味で「プリン」や「木の机」は存在せず、一時的な利便性によって、または意思疎通のために名を付けただけであり、実在するものではないと。● これを「空性」と呼びます。これが大乗の言う「空性」あるいは縁起性ね。◯相互依存関係の下に成立すると。大乗の「空」は実体が無いということを論証したに過ぎません。つまり、解脱に役立つことはありません。これは一種の哲学であり、お釈迦様の言う真理ではありません。いいかな?これはさ、語れば誰でも納得はするけれど、煩悩消滅する理論じゃないのね。だから、大乗では「出家しなくとも、空を悟ればOK」というわけねで、ご丁寧にこれを般若だとか智慧とか間違ったことを言っています。2025/09/26 09:55:42229.神も仏も名無しさんk0rQ7デンパパ📶コピペ布教エネルギーを充電しているのだな?🛸🛸🛸🛸2025/09/26 10:11:32230.パーリー◆HpIafZZzjh.GXCJpzAmeba blog● ホワイト・ターラー 目からウロコの仏教ブログ如実精通 輪廻の真実がありのままに見えたブッダhttps://ameblo.jp/kazama1980/entry-12931932464.html2025/09/26 10:59:43231.パーリー◆HpIafZZzjh.Gqhfvb325 ハジ 2025/09/28(日)>>303,304呼吸が止まったら生きてないやんけーwーーーハジよ真面目に受け止めるのだ!禅定中だけだから死なないのだ憶えておくんだよ自分の禅定が深くなったころにさあーどうだー‼️と慢心が頭をもたげる時節が来たなら呼吸の停止は?、施行妄想が消えても、映像は?どうなんだ? と思い出すのだ眼前は純白か?どうなのか⁉️ と問い掛けてみるが良い自分にな先にはまた先がある当然、無心の先も幾つも先があるしかし2025/09/28 08:16:58232.パーリー◆HpIafZZzjh.Gqhfvb当面は、思考と妄想念の、完全な停止が目的地だ‼️見性など気にしてては、完全な悟りへはたどりつけませーーーん!見性は何回も体験した先に悟りはあるからからだ撃竹のような悟り体験も何回も起こるだろうしさて、日常にあって、無努力において、かつ完全に覚醒されて、無思考、無妄想が、1日中何日も、何週間も、何ヵ月も、1年2年経っても続くようなら、それが当面のプレ・悟りとなるが、まだだ1~2年で、本心が成長して、面目からそれが躍り出て!I AM‼️ 私は在る‼️ 我 在り‼️ と無言の宣言を発するだろうそしたら一丁上がりだろう、そして輝くような日常へ戻り、生きることの喜びと幸せを堪能するが良い、君は覚ったのだ無目的の自由だが、いつか、再び次の探求が始まるのだ!束の間の休日のように・・・2025/09/28 08:17:17233.パーリー◆HpIafZZzjh.Gqhfvb⭕重 要⭕□獅子吼経□(救世主宣言)の解説再開します ブッダの条件「10の能力」https://ameblo.jp/kazama1980/entry-12933311182.htmlby ホワイト・ターラー2025/09/28 10:49:40234.パーリー◆HpIafZZzjh.Gqhfvb≫378坐禅だけやってたらたぶんハジレベルの内容では悟るのは今生は無理だろな~😙何故なら?悟りシステムの初期修行段階をすっ飛ばすのが坐禅だからだその欠けている行を補ってから坐禅はするものだ2025/09/28 10:50:47235.パーリー◆HpIafZZzjh.Gqhfvb坐禅とは?八正道の最後にあるてーのも分かってるの⁉️何故最後かってことだ釈尊はサンガーに入った初心者の弟子には坐禅などさせなかったんだよこれはパーーリーー経典にあるってホワイト・ターラーさんがblogに書いてた2025/09/28 10:51:09236.パーリー◆HpIafZZzjh.Gqhfvbその最後の最後に許す禅定を初期段階でやーっても!結果なんかでるわきゃーーー‼️無いのだ!こんなことバカボン(バギャヴァン=尊者)のパパでも判ることだ‼️2025/09/28 10:51:36237.パーリー◆HpIafZZzjh.Gp0IBoJay Gurudev 🙏💖🙏💖🙏💖🙏💖🙏すべての生命体は独自の内的秩序を持っています。粗大体、微細体、アストラル体の働きはそれぞれ異なります。ジーヴァの内的形態とは別に、ブラフマンは体の様々な部位やピンダの形で観察することができます。究極的には、ブラフマンは宇宙を超えて広がりますが、その究極の姿においては主は一つです。世界には木々が生い茂る森がたくさんありますが、すべての木々をまとめて森と呼ぶこともできます。同様に、ブラフマンは一つですが、異なる形で見られます。イシュヴァラ、パラマートマ、形のないブラフマン、純粋意識、至高の魂など、私たちは主を様々な形で知っています。しかし、サマーディで魂の悟りを得ると、それらはすべて一つであり、同じであると感じます。パラマートマは多くの名前で知られていますが、カーストを持たず、空のように遍在します。まさに神です。このように、ジーヴァ自身は神にはなり得ません。ジーヴァは神のようになり、神のようになることはできます。人はブラフマー・ローカの無限の叡智、信仰、繁栄、そして無執着の特質を享受し、活用することで、人間界の束縛から解放されることができます。この解放の道を歩むには、ジーヴァは誓いを立てなければなりません。サマーディを得ることです‼️サマーディの状態は、究極の精神修行です。いかなる活動にも執着せず、いかなる性質にも影響されないサマーディは、チッタの直接的な作用です。もしあなたが自分の内なる旅を、同様の放棄と無執着の状態へと変容させることができれば、それは「サマーディ」と呼ばれるでしょう。ー マハヨギ パイロット ババジhttps://i.imgur.com/2opBBKf.jpeg2025/10/03 01:35:08238.パーリー◆HpIafZZzjh.GqqesD実際にどのように体験するのか?って言うと眼を見開いて外界を見てるでしょその時意識は何処にあって何処から見ているのか?普通は頭から見ているだろ?それを喉のチャクラ、ビシュダーに意識に中心を持ってきて、喉から世界外界を見るって言うか眼と頭は通過するだけで、喉の意識に映っているかのように、見ているかのようにって感じで見る‼️喉は空(くう)のチャクラなので、ここから見ると、外界世界が空になって見えています。喉からの見るが、空になると自動的に、胸のチャクラ=ハート♥️の在るの意識へ入りますこれが本心、ほんとうの自己、p2025/10/03 08:33:29239.パーリー◆HpIafZZzjh.GqqesD≫453 ハジ 2025/10/03(金)≫394,396リアルと妄想を分けるものは何なのか、誰なのかwもの(対象)との接触がなく、ひとつなら、どうしてそれを自他に分けて見えるのか、何が分けるのか、誰なのかwこの辺の話題が完璧に理解できて、なおかつ説明できるなら、無敵になれそうwーーーそれはな、おれが思うにはハジならハジの自分の心と身体は別だ!という思い込みせいではないのかな?小空経だったかにあるように、外界と内界に別れるのは心というものが内界で、肉体身が外界で自己の肉体も、他己の肉体も同じく外界であるが自己の心(思考・感情・妄想)は頭の内部に於いて活動していて他己の心は、他己の頭の内部にあるので、ここに自他の別があるとなるこれは見る者が内部で、見られる物が外部ということでもあるなので自己の心に、思考・感情・妄想が消えて無くなってるいる時には自己の心が消えたようになるのであって内側の思考・感情・妄想が無いときとはつまり、識に思考・感情・妄想が映っていないことでありその時には、外部世界のみが、識に映っているということが生じているのであるからここに於いて、識という、思考・感情・妄想を映していたが故に、内部に縛られていた識は実は、外界をも映していたのであるとそれは自己の識が、内部から外部へ解放された瞬間なのである!これが第四禅定であり、正しい禅定→正定なのであるよ外界のものが識に映ることは外界へ広がり見る識と外界のものが一如であって別ではないのだ‼️ということが、体験として経験されるのであって故に自己の身心と、他己の身心の別を見ずその思い込みが脱落するのである2025/10/03 08:36:22240.パーリー◆HpIafZZzjh.GVvMqi◾五位七十五法◾五蘊を十八界という形で説明する方法もあるが、説一切有部では、五蘊を全く違う形で、非常に細かく組み替えて説明する。それが五位七十五法である。まず大きく無為法と有為法の二つに分ける。無為法:生滅変化を超えた常住絶対なもの有為法:原因・条件によって生滅する事物◾無為法(時空・非五蘊)◾虚空無為物の存在する場としての空間を指す。虚空とは、あらゆる物体や存在の基盤となる空間のことで、変化や条件に依存せず、恒常的であるとされる。択滅無為智慧によって煩悩を消滅させる状態を指す。智慧を通じて煩悩(心を乱す負の感情や欲望)を選択的に消し去ることによって得られる安定した状態である。非択滅無為智慧によらずに煩悩が自然に消滅する状態を指す。特別な努力や修行なしに煩悩が消えることを意味し、自然発生的な心の清浄化が強調される。2025/10/15 14:02:44241.パーリー◆HpIafZZzjh.GHssCA奈良林直×加藤康子◆放射性廃棄物の無害化に成功!核技術界に激震!!! 原発の未来に光!https://youtu.be/x3aAwQ7FmCY?si=D70NEefeMxpVFAKd2025/10/16 12:21:11242.パーリー◆HpIafZZzjh.GtsF4V諸縁を放捨(ホウシャ)し万事を休息して善悪を思わず是非を管(カン)すること莫(ナカ)れ。心(シン)意識の運転を停(ヤ)め念想(ネンソウ)観の測量(シキリョウ)を止(や)め作仏(サブツ)を図(ハカ)ること莫れ!2025/11/03 03:16:44
今世における経験と智慧
来世に向けての準備を
ツラツラと書くスレです
備忘録ではありますが
質問は受け付けます
※前スレ
パーリーの今期周回のまとめ【2】
https://talk.jp/boards/psy/1742987164
● 空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた。
一方、空性という見解をもつ人々については、成就不能の人々と呼んだのである。
(『中論頌』一三・八)
● 「空性という見解をもつ」とは、たとえば、「空であるものは、一切のものである」と主張するような場合である。
空性を見解としてもってしまうと、空性に到達することはできない。
もし空性を見解としてもつなら、最強の論理になってあらゆるものに適用できる。
そうなると、逆に、空性という見解それ自体は空性の論理が及ぶことができずに、一切世界からはじき出されることになるのである。
したがって、仏教においては、「空」を持ちだして、反対する人々と争うことはない。ここは重要である。
「空」は、空っぽという意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはない。
空は、けっして人々に苦痛をもたらすことはないのである。
(某書 より)
● 「空」は、空を空なる「もの」として表象するといふ立場をも空じたところとして、初めて空なのである。
そのことは、空が単に有のそとに、有とは別なるものとして立てられるのではなく、むしろ有と一つに、有と自己同一をなすものとして、自覚されるといふ意味である。
有即無とか、色即是空とかいはれるとき、先ず一方に有なるもの、他方に無なるものを考へて、それを結びつけたといふことではない。
有即無といふことは、むしろ「即」に立って、「即」から有をも有として、無をも無として見るといふことである。
勿論、我々は通常、有を単に有だけと見る立場、有に囚とらはれた立場に立っている。
従ってその立場が破れ否定されれば、そこに虚無が現れてくる。
そしてその虚無の立場は再び、無を単に無だけとして見る立場であり、無に囚はれた立場である。
即ち、更に否定さるべき立場である。
そしてさういふ二重の囚はれを脱した全き無執着の立場として、「空」が現れてくるのである。
(『西谷啓治著作集』第10巻、創文社)
ベテランになると坐禅中にシータ派が出てくるのだと。
覚醒しながらも大脳皮質の活動が抑制されるそうで、浅い眠りの状態とかもそうなのだとか。
更に特殊なガンマ波も出るそうですねえ。
寝落ち寸前の状態ね。
あとこの頃、読経中にもそうなります。
老師にとある呼吸法を教えて貰って、そこを意識して読経をしているうちに、そうなりました。
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スワミ・アディティアナンダ・ギリジ師
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>中国の大乗仏教においては、このような、われわれ自身に内在する仏性/心の本性を初めて実見することが「見性」(仏性/心の本性を見ること)と呼ばれるようになった。
>すでに、六世紀に編纂された最古の禅文献、『四行論長巻子』(ZG1, 47)において「坐禅終須見本性」(坐禅によってしまいには本性を見るべきである)と説かれており、この「見性」ということばは禅宗を中心として盛んに用いられるようになる。
>このように、中国の大乗仏教においては、禅宗を中心として、「見道」に該当するものが「見性」ということばで呼ばれるようになった。
>(『「悟り体験」を読む―大乗仏教で覚醒した人々』大竹普より)
修道論に於いて、既に部派仏教の頃には五道(位)※1が説かれており、瑜伽行唯識学派も禅宗もその流れにある※2訳です。
云うまでもなく、世親(婆修盤頭尊者)は『逓代伝法仏祖名号』にもある様に、禅宗の祖師の一人ですからね。
そして、その見道(通達位)が禅宗でいう見性に該当するのは普通に常識なんですがw
何故なら名前そのものであるのは勿論、『六祖壇経』でも「見性通達」とありますからね。
※ 1
資糧道(資糧位)、加行道(加行位)、見道(通達位)、修道(修習位)、無学道(通達位)
※2
現観(正性決定)ともいう。
上座部では「見」、説一切有部や瑜伽行唯識学派では「見道」
(『仏のなりかた: 上座部、説一切有部、唯識派による古典的成仏論』 大竹普 より)
https://talk.jp/boards/psy/1728379412
パーリーの今期周回のまとめ【2】
https://talk.jp/boards/psy/1742987164
【地球の第一元素】とつながっている粗大な【肉体】で、
もしくは【水の元素】とつながっている【エーテル体】で起こる可能性があります。
これは、この宇宙で【肉体】と【エーテル体】を持っているのは私たちだけではないことを示しています。
真実から直接生まれたり進化したりした生命、神の高次意識から分離した生命といった他の形態の生命もあります。
しかし、人間以外の生命体はサマーディを経験できません。
『パイロット・ババ真如を語る』
https://www.facebook.com/share/p/172piweFp7/
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全てのモノは
常に流動的に変化しながら存在(実在)している
と説くのが正しい仏教観だ。常に変化しているから
その実在の姿は仮の姿に過ぎない「因縁仮和合で仮に佇む姿」という意味だ。
だからそれを仏教では
「仮有」と説く。
実在を否定している訳ではない。外道が説く
永遠不滅の存在としての実体を否定しているに過ぎない
禅宗の教えは、大乗諸宗派の中では
一番初歩の教えでしかない
222 法介◆T3azX0Hk1U 2025/08/02(土) 06:16:39.49 ID:NCXI9 TID:bison
自分は
存在している
自分の頬をつまんだら
痛い!
って感じる
その痛い!って感じている
意識が自分だ
夢でも幻想でもない
事実として
痛みを感じている
それが苦諦だ
人間は五蘊の働きで常に痛みをともなって生きている
肉体がある限り痛みは常にともなう
ーーー
この
>その痛い!って感じている
>意識が自分だ
これを
ヨガでは
究極的、最終的に残るのは
“見る者”である
【純粋観照者】とします
それを
プルシャ=アートマン(真如我)=ブラフマン
と命名しました
この“見る者” “純粋観照者”を
【本来の面目】や
【無位の真人】と言っていて
この真人は
道教の影響だそうです
● この“見る者” “純粋観照者” が
肉体→エーテル体→アストラル体→メンタル体→霊体→宇宙体
と言うふうに
一つ一つ鞘をむくように脱皮するように
脱いで行った先に
宇宙をも飲み込む
この“見る者” “純粋観照者”が
最後の最後まで
“在る”んだと
そう言うんです
カルマの還元は必ず2度あるので、これを
第一の矢・・・現世で還る
二の矢・・・・地獄や餓鬼に転生する形で還る
と表現します。
で、ヨーガや仏道修行者で、本物の修行者は第一の矢が極最小で還元され、第二は修行で消滅しています。
by ホワイト・ターラー
~外観と内観から読み解く般若の智慧~
仏教を象徴する経典のひとつ、『般若心経』。
その短い文のなかには、空という概念を中心に、非常に深い哲理が凝縮されています。
今回は『般若心経』を、「外観(色)」と「内観(受・想・行・識)」の二重構造として捉える視点から紹介します。
『般若心経』の冒頭に出てくる有名な句:
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」
ここで説かれる「色(しき)」とは、単に“色彩”の意味ではなく、「目に見える形ある存在」、つまり現象世界の物質的側面を指します。
この「色」がそのまま「空」であるというこの教えは、実在と思われるものすらも本質的には空であるという洞察です。
この空観は、『小空経』(Skt: Cūḷasuññata Sutta)において説かれる「小空」に対応し、存在の“有る・無い”という状態性に対する認識から空性を説いています。
『般若心経』では次のように続きます:
受想行識亦復如是(受・想・行・識 もまた かくのごとし)
ここで言う「受・想・行・識」は、私たちの感覚・知覚・思考・意志・意識といった「心のはたらき」を表します。
つまりこれは内面の五蘊=心の構造に対する「空」の適用です。
この内観的な空は、『大空経』で説かれる「大空」に通じ、認識・主観意識そのものをも空と見る、より深い智慧へと導かれます。
ここでは、存在の有無ではなく、認知の作用そのものの空性を観る――という、より内面的で実践的な意味合いを持っています。
こうして『般若心経』を見ていくと、
色(外界)への空観=「小空」=外観の空
受想行識(内面)への空観=「大空」=内観の空
という、外的世界(客観)と内的世界(主観)の双方に対して空を照らしていく構造が浮かび上がります。
つまり『般若心経』は、単に「世の中には実体がない」と言っているのではなく、
「世界(外:客体)」と「認識(内:主体)」の両方に対して、根源的な“空性”を観じなさいと説いているのです。
物質の実在(有る状態と無い状態)
② 主体:(受・想・行・識)
主観(見分)と客観(相分)による人の認識
この二重の空観は、『唯識』へと繋がる重要な視点です。
これはこれで「色即是空 空即是色」です。
その①で阿頼耶識に記録された種子を因として
② 主体:(受・想・行・識)が起こります。
①を色即是空とした②の空即是色です。
以上の内容がそれらから得る事が出来ましたわたしの覚りです。
ありがとう
互いに頑張って精進して参りましょう。
今後はそちらに活動を移行します。
馬ちゃんは馬ちゃんらしく
馬ちゃんの人生を満喫されてください。
というのが
わたしの見解です。
・証自証分=深層の根本自我(第七末那識)
というのがわたしの思うところです。
思考の正体はなんや? 制御不能だぞ? そいつは何者だ?
● 産まれてこの方
繰返し思考することで
脳に作られた
自動思考作動装置
この装置は
自転車操業なので
年中
思考ペダルをこぎ、言語の見聞をしていないと
倒れてしまう
その補助輪が
睡眠時の夢見である
寝ている時は
能動的に思考も言語の見聞も
出来ない故に
脳がかってに映像を継ぎ接ぎして、駆動力たる、欲求衝動を
満たすような、夢として
自己たる、見る者、観照者に
見せる
この
自動的な思考装置を
そして
その自動運行装置を
停止させ得る方途がある‼️
仏教で言う本来の涅槃は
幾つかに分かれていて
大まかには
● 第四禅定
身体感覚と心活動の滅と呼吸の滅
● ニルバーナ
呼吸と心拍と脳波の滅
であると
仏教ではないが?おれの実践と理解だな
先に心が次に身が寂静になるので
身の内部にあり
純粋観照の識として在る
この時、呼吸は静止から停止に至る
● ニルバーナでは
呼吸に加え、心拍と脳波の停止が起きて
完全に肉の身体の束縛を脱する
つまり
この純粋観照の識は
形を超え
最大に拡張され
宇宙をも超える
その限界を観たものはいない
そしてヨガでは
見る対象としての宇宙へも向かわない境地として
カイバリヤ=真我独存位を言う
この手前の、宇宙を観ている二元からは
まだこの世の身体へ帰還可能であるが
カイバリヤへ行くと
二度と身体へ還って来れないとされていて
一元を見てから還って来たものは
いないと言われていたが
唯一
パイロット・ババジのみが、それを可能にしたマハ・ヨギとして現在では知られている
● 第二禅定へ入禅定すると起きると
パーリー仏教経典には書いてある
● 第三禅定では喜悦
喜から悦へ
そして身体で楽を感じている
● 第四禅定では
悦も超え身体的な楽も超えるが故に
身体が無いようになり
呼吸の、静止~停止が生じる
● これを
身心脱落と言う
これを
大般涅槃
と言う
ニコちんは
セイウンさんの
大歓喜体験が
何だったのか?
想像も出来ないのか⁉️
心理的に懊悩してて
それを超えようと坐禅・瞑目などをしたおりに
その懊悩してた想いが消えて
無心になるようなことが起こることが
往々にしてある
すると
その懊悩が大きければ大きいほど
消えた時の
無心も深いものになる
その無心こそが
命であり自己であり本来面目であるもだから
その本来に出会った、または成った
そこから来る
感情の爆発の歓喜と命の識の喜悦が混じって
それはそれは
感涙し歓喜し至福するものなんですよ
通常このような
半ば感情の喜びが混じった大歓喜は
一生に一度とも言われていて
その後に坐禅、瞑想などで
感情の位相を超えるようになると
同じように無心の命になっても
もっと穏やかな悦という状態を体験するようになるとパーリー仏教経典の禅定の記述にはあります
● 色と空
ヒンドゥー教用語で言えば
【空】とは【コーザル・ボディー】のことで
この【空間(複数次元)】がそのまま私たちの【識】であると
● コーザル・ボディーとは?
人間は【5つの鞘】に包まれた構造であるとされている
◯ パンチャ・シャーリラ(5つの鞘)
第1が クレイ・ボディー(肉体)
第2が エーテル・ボディー(生気体)
第3が サトル・ボディー(微細体)
第4が コーザル・ボディー(原因体)
第5が プルシャ=アートマン(真我)
とされる
● 心と物質世界の【存在原因】
この【コーザル体】こそが
思考・感情や妄想、5感覚のよる知覚などが
映し出される【3Dスクリーン】なのであります
この【3Dスクリーン】に大きさはなく
小は人心から大は宇宙大まで変幻自在なのであります
故に、三界は唯心の所現と華厳経典にはあります
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
● すべての現象は心から生じる「攝境従心」
https://kinkaizan-shakain.jp/shokyojushin/
>>唱題ってのはな、思考の抑制だ 思考がおさまれば頭が軽くなる
馬鹿言ってんじゃないよー
ーーー
悟り(禅的な)へ至ることに関連していて重要なことだね
それらの行を自分の意思で行うと
思考・妄想が文言に置き換わって、一時的に抑制はされます
これが1回で8時間、日に2回とかの長い時間続けられるなら
短時日(50~100日)で悟りが起こるはずです
これを
録音機によって、録音された文言をエンドレスで聞くことによって
自意識を使わずに聞ながすと、知らず知らずのうちに、思考・妄想が起こらなくなって行き
遂には、約50日前後で、完全に永続的に、心の意図しない思考と妄想が、無くなります
この状態では、まだ無心なだけで、悟りにはないけども、あとはオートマチックで、1年前後で悟りが、突如訪れるでしょう‼️
ヒンドゥー教用語で言えば
【空】とは【コーザル・ボディー】のことで
この【空間(複数次元)】がそのまま私たちの【識】であると
● コーザル・ボディーとは?
人間は【5つの鞘】に包まれた構造であるとされている
◯ パンチャ・シャーリラ(5つの鞘)
第1が クレイ・ボディー(肉体)
第2が エーテル・ボディー(生気体)
第3が サトル・ボディー(微細体)
第4が コーザル・ボディー(原因体)
第5が プルシャ=アートマン(真我)
とされる
● 心と物質世界の【存在原因】
この【コーザル体】こそが
思考・感情や妄想、5感覚のよる知覚などが
映し出される【3Dスクリーン】なのであります
この【3Dスクリーン】に大きさはなく
小は人心から大は宇宙大まで変幻自在なのであります
故に、三界は唯心の所現と華厳経典にはあります
● 現在は宇宙ですね対象境界は
初段で無心
二段目で呼吸の停止(完全な無心)
ここでエーテル・ボディーの覚醒
三段目で心拍脳波の停止ですが、その前にアストラル・ボディーの覚醒、それから肉体から離脱して宇宙意識へ
四段目が超宇宙意識(阿頼耶識)においての宇宙の観照
ここがサマディー
まあ、こんな感じ
なかったら
馬ちゃんの阿頼耶識に
その記録はありませんよね
>>6
宇宙は1つの識です
その識には
過去の仏達が、ニルバーナ・サマディーに入って、宇宙を観た記憶が記録されていて
また、今現在、サマディーへ入ったままの聖者も多数おられます
私たち初心者は、先ず古の縁を手繰って、今生でニルバーナ・サマディーへ入ったブッダに出会います
それによって、私たち初心者の魂は、そのサマディー・ヨギのサマディースペース(宇宙意識)から流れくる
アヌグラハという宇宙根元の識のエナジー波動に繋がりが出来ます
これによって、サマディー・ヨギの宇宙意識が私たちの意識と直結して
その宇宙意識の種子が我々の識にインプラントされ、その縁によって、宇宙へ導かれます
このサマディー・ヨギから約束されるのが
何でしたっけ?虚空会で仏になるという予言を受けるのは⁉️
ともかく
過去仏(私ならパイロット・ババジ)が
我々修行?をアストラル界(色界)から、ニルバーナ・サマディーへ入るまでサポートしてくれます
このサマディー・ヨギというブッダとの縁による出会いが大いに重要となりますね
パイロット・ババジ‼️
一瞬でニルバーナ・サマディーに入って
一瞬で戻ってくる
死人を甦らせ
医学的に不可能を可能たらしめた
聖者の中の聖者にして
ヒマラヤ24人のアヴァター様を統べる
インドで、唯一マハ・ヨギの称号で呼ばれた偉大なヨギ!
土中、水中、エアタイト、氷中で
ニルバーナ・サマディーを実行し
生涯で108回もの公開ニルバーナ・サマディーを行い、多くを祝福した
そして
ヨガも知らない、ただの信奉者の16才の少女を
5日間の、公開土中サマディーに導き
合計7人の普通人を導き、一夜にしてサマディー成就者へと変容させた
何故そうしたのかと言うと
生から死へ入り、死から生へ蘇る
現実に、サマディーという事実が
本当に有ると、証明するために
だから
生地がマガダ国とかぶる、ササラン王国の王子として生誕したことで
釈尊の再来と称され噂されていたと言います
● 五取蘊の四転
南伝 相応部経典22-56 取転
漢訳 雑阿含経2-9 五転
◯ かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて説きたもうた。
「比丘たちよ、生に五つの要素(五取蘊)がある。その五つとはなんであろうか。いわく、色(肉体)なる要素、受(感覚)なる要素、想(表象)なる要素、行(意志)なる要素、識(意識)なる要素がそれである。
比丘たちよ、わたしは、この生に取著する五つの要素の?四つの変化の相を、まだ、あるがままに、じゅうぶんに証知するにいたらない間は、比丘たちよ、わたしは、なお、天神・悪魔・梵天のすむ天界、および、沙門・婆羅門、その他、あらゆる人界のすむ世界において、最高の正等覚を実現したとは称さなかった。
だがしかし、比丘たちよ、わたしは、この生に取著する五つの要素の四つの変化の相を、すでに、あるがままに、じゅうぶんに証知することをえた。だからして、比丘たちよ、わたしは、この天神・悪魔・梵天のすむ天界、ならびに、沙門・婆羅門、その他、あらゆる人界のすむ世界において、最高の正等覚を実現したと称するのである。
では、その四つの変化の相というのはなんであろうか。
以下続く
(しょうきょうじゅうしん)
◯ 性相別論
(しょうそうべつろん)
https://kinkaizan-shakain.jp/shokyojushin/
(しょうきょうじゅうしん)
「攝境従心」とは、「すべての現象(境界)は心から生じる」という理論です。
これは、三界(欲界、色界、無色界)がすべてただ一つの心から成り立っており、「心の外に別の法(もの)はない」と説明しています。
つまり、外に見えるすべてのものは、心が作り出したものである、と教えます。
『華厳経』には【三界は唯心の所造】とあります。
これは、すべての宇宙と現象は心が生成するものであると説明しています。
【解深密経】では
【一切の影像は唯心の所現】とあり
すべての現象は心が現す影であるとされています。
◯ 性相別論
(しょうそうべつろん)
一方で、「性相別論」では
【世の中の現象】と【真如】を体系的に分類して
無上甚深微妙法【真如】は、無限に広がっており、その境界はないとされています。
【インドで活躍された世親菩薩】は、「性相別論」を「五位百法」という枠組みで整理しました。
これにより、
全ての存在を「五位」と「百法」に分類し
● 移り変わる【現象世界】(九十四種の有為法)と
◯ 【永遠不変の本質的な実在】(無為法・真如)を区別します。
現象世界は【真如】という絶対的な実在を基盤としています。
しかし、【真如】は、直接的に現象となるわけではありません(真如は形も匂いもなく
◯【現象】になれば
【真如】ではなくなります】
現象は
●私たちの
【本心=阿頼耶識】が
【作り出した影像】なのです
https://www.youtube.com/watch?v=DU4AIgBdmqY
https://www.youtube.com/watch?v=T7rZvwk-e-8
●【行為と煩悩の止滅】によって【解脱】がある。
【行為と煩悩】は【思惟より生じる。】
それらは【ことばの虚構による。】
【ことばの虚構】は
【≪空性≫によって≪滅≫せられる。】
● 【心の対象】が【止滅するとき】には【ことばの対象】は【止息する。】
というのは
【ものの本性】は
【涅槃のよう】に
【生じたもの】でも
【滅したものでもない。】
● 【他のもの】をとおして
【知られず】
【静寂】で、【ことばの虚構によって】
【論じられることなく】
【思惟を離れて】
【種々性を越える。】
これが【真実の形】である。
(『中論頌』18:5、7、9)
ーーー
ここが
無心の処ですね
言葉は心に生じる、から
観るも聴くも、5感覚全てと、感情の全ても
心に於いて、生じて滅する
つまり
この世とは、心に於いて知られる夢のような、幻のように、現れては消え去るもの
それは、この様に言える
空間=識であって、広大無辺と言えども
全て、識=空間=心の内でのことである、と
故に
龍樹の言う勝義とは
無心、心の空、のことなのであると
いわゆる「三諦偈」なのですが、ここで中村先生は、
● 因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。
これは確かに真理であるが、しかしわれわれは空という特殊な原理を考えてはならない。空というのも仮名であり、空を実体視してはならない。
故に空をさらに空じたところの境地に中道が現われる。
因縁によって生ぜられたもの事物を空ずるから非有でありその空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。
すなわち中道は二重の否定を意味する。
ほぼこの様に中国以来伝統的に解釈されてきた。
と述べ、更に
しかし、この天台以降の解釈がはたしてナーガーリュジュナの原意を得てるであろうか。
と疑義を呈している訳です。
阿含経は知らんかったけど、色の部分だけ抜き出すと。
※※色(肉体)なる要素、
色を証知した。色の生起を証知した。色の滅尽を証知した。
そして、色の滅尽にいたる道を証知した。
色とはなんであろうか。比丘たちよ、
四つの元素(地・水・火・風)と、四つの要素によって造られる物、
これを名づけて色となす。
それを養うものがあって色の生起がある。
それを養うものがなくなって色の滅尽がある。
※※
色は物質を認識すること、みたいな意味かしらん、
そうすると色即是空は、物質と思えばそれは空っぽであり、
空即是色は、空っぽもまた物質 (の素) なのであり…。
なんか素粒子物理学の場の理論みたいなもんかね、
真空から粒子が現れ、次の瞬間に粒子はまた真空に消える。
だんだん科学に近づいてきたかも…。
いまの特に量子学は
仏教をならうらしいから
ちょっと仮説が仏教よりなってる
というのもある
同じ失敗を繰り返してしまう理由――
そこには、目に見えぬ「因縁」の力が働いています。
出口王仁三郎が見抜いた、血縁・人間関係・土地に潜む因縁の正体とは?
動画では、因縁の仕組みとその断ち切り方を、
誰にでも実践できる方法で紹介します。
過去の苦しみを手放し、新たな人生を歩み出したい方は、
ぜひご覧ください。
https://youtu.be/wlpiG6EnntQ?si=EaY1w6T2zjotxTaF
ニサルガダッタ・マハラジ
❤️ ニサルガダッタ・マハラジは、インドの非二元哲学の偉大な教師のひとりで、世界中のスピリチュアル・シーカーに大きな影響を与えた存在です。彼の最も有名な著作は、弟子が語録をまとめた『I Am That(私は在る)』です。
❤️ 特徴
? 高名な僧侶やグルでもなく、一般市民として目覚めを体現。
? シンプルで直接的な言葉で、「自己とは何か」を語る。
? 修行や信仰よりも、“今ここに気づく”ことの力を強調。
❤️ 教えの核心:「私は在る」
マハラジの教えは、非常にシンプルかつラディカルです。その中心はこの言葉にあります:
「私は在る(I Am)」という感覚にとどまりなさい。
つまり、思考や感情、記憶、身体、役割などの一切を横に置き、ただ「私が存在している」というシンプルな自己意識に集中しなさいという教えです。これを続けていくことで、やがて「私」という感覚すら超え て、真我(純粋な意識)そのものに気づくと言います。
https://youtu.be/SqQXvgaiZ_U?si=d5jxsXsv7RI4gbov
2018年7月25日2021年9月10日
● 正念とは瞑想の対象を保持することだった~
アーチャン・マハー・ブーワは
≪念仏三昧で阿羅漢≫になった‼️
https://www.yurubossa.com/cyoudokyuu/
◯首楞厳経~禅定に関するお経だが2種類ある
◯首楞厳三昧経(śūraſgamasamādhi-sūtra)
◯神通力で救済をしていた中国禅の時代に登場したのが首楞厳三昧経
◯初期の中国禅では戒・定・慧を修行していた
◯大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経
◯一切の物事は無いとする宋の時代の禅が盛んだった頃に流行したお経
◯魔境のお経として有名な大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経
◯首楞厳経は最勝最高最善の禅定のことを説いたお経
https://www.yurubossa.com/syuryougonkyou/#i-2
愉快犯になった🛸
>「第四の段は、見をして到る、見到である。
> 彼らには、法則を解する、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、身で体現する者になる。」
>
> 「第五の段は、身をして現す、身証である。
> 彼らには、実践に於ける、煩悩の減少があり、
> 煩悩を落とし、彼らは、名を解脱する者になる。」
>
> 「第六の段は、名を越える、慧解脱である。
> 彼らには、智慧を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
>
> 「第七の段は、色も越える、倶解脱である。
> 彼らには、身体を用いる、煩悩の滅尽があり、
>もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
>五下分結経(マハーマールンキャー・スッタ)
>
>「尊師よ、もし、これが、出離の道ならば、
> 心が解脱した者と、智慧によって解脱した者。
>その両者の違いとは、如何なるものでしょうか。」
>
> 「アーナンダよ、能力の違いと、私は解く。
> 禅定に優れた者は、心による、解脱を果たし、
> 智慧に優れた者とは、慧による、解脱を果たす。」
回光返照って道教の言葉であって
呂祖師の太乙金華宗旨に出てくる言葉ですね
回光とは
眼から出た光(識)が、世界対象を照らしてから、眼に返って来ることの廻りを表す
そして
世界が認識されるのを
返照と言い
自己意識と環境世界は
見分、相分と別れているようでも
実は一如であるということを言う
https://www.youtube.com/watch?v=6U9EURzHXQg&list=PL38CFAECDA23802A6
まんま体外離脱時の前兆
https://note.com/morfo/n/n12b29daf0fe5
さらに心を集中していると、下丹田に「大薬」が生じます。
この時、「六根振動」といって、下丹田が燃焼し、腎が沸騰し、眼から金色の光が出て、耳の後ろでは風が起こり、頭の後ろで鷹が鳴き、身が沸き立つようで、鼻が引き付けたりするように感じます。
自分を守りなさい
by 釈尊
https://youtu.be/ITyizY5J9KU?si=69aCg2xBa5A9vKDo
https://note.com/morfo/n/n979f79877a5c
≪【見る者】が【在る者】に代わる‼️≫
だって
これはスゴイ!表現だね
●1 見る行為が、見分
見られた対象の映像、概念が、相分
●2 見ていると意識している者が、自証分
●3 見る意識は
≪在る≫というそれに
とって代わられる!
●4 在るという気付きが
自証を証する分
見る意識を証しするのは
≪在る≫という、それ‼️
(原文)
安惠解云。
變謂識體轉似二分、二分體無。
遍計所執。
除佛以外菩薩已還、諸識自體即自證分、由不證實有法執故、似二分起。
即計所執。
似依他有、二分體無。
如自證分、相貌亦有。
以無似有。即三性心皆有法執。
八識自體皆似二分。
如依手巾變似於兎、幻生二耳二耳體無、依手巾起 。
(『述記』巻一本、大正四三、二四一)
(読み下し)
安恵解して云く。
「変とは謂く識体転じて二分に似る」といふは、二分は体無きなり。
遍計所執なり。
仏を除きて以外の菩薩已還の、諸識の自体は即ち自証分なるも、実を証せず法執有るに由るが故に、二分に似て起こる。
即ち計所執なり。
依他の有に似るも、二分は体無きなり。
自証分の如く、相貌は亦た有なり。無の有に似るを以てなり。
即ち三性の心に皆な法執有り。
八識の自体は皆な二分に似る。
手巾に依りて兎を変似するに、幻に二耳を生ずるも二耳は体無く、手巾に依りて起こるが如し。
(解説)
すなわち、相分・見分は無体であり、遍計所執性である。仏以外は、諸識の自体である自証分が、法執により相分・見分のようなものを起こす。これが遍計所執性である。
これは依他起性である自証分のように有体であるかのようであるが、相分・見分は無体である。
したがって三性の諸識にはみな法執があり、その自体(自証分)が相分・見分のようなものになるのである。
それは手巾で作られた兎の耳のようなものである、という。
ここには、相分・見分が無体、自証分が有体であり、前者が遍計所執性、後者が依他起性であるという解釈が見られる。
また、三性の諸識にはみな法執があるという解釈も見られる。このことから、安慧の一分説とは、相分・見分・自証分の三分を認めた上で、相分・見分の無体と、自証分の有体とを説くものであることが知られる。
依他起性・・・・仮有~実法、仮法
遍計所執性・・畢竟無~無法
六根振動
なんか下腹が振動するんだが?
目から金色の光を放つ‼️
23歳の時に金色のリング状の光を眉間から放ってたね
丹田、足が振動し
それを喉→
一度外に出て→
再度こめかみから侵入→
登頂→
眉間まできたら
全身に行き渡らせ振動
そのとき
後頭部で3D音響で鳴り響く
(ナーダ音、マントラ等)
(密教) (ヴェーダーンタ哲学) (神智学)
・法身:原因身(カーラナ・シャリーラ) :コーザル体
・報身:微細身(スクシュマ・シャリーラ):アストラル体
・応身:粗大身(ストゥーラ・シャリーラ):物質体
・グヒヤサマージャ・タントラ:幻身
・ヨーギニー・タントラ :虹身
・カーラチャクラ・タントラ :空色身
・ゾクチェン :光身(虹身)
「意成身」というのは、魂の体(微細身、アストラル体)です。
人間は、死後から再生するまでの中有の間、この「意成身」で活動するとされます。
単なる霊体離脱とは異なります。
「幻身」は、魚が跳ねるように生まれると表現されます。
これに限らず、以下のすべての行法では、空の智恵は前提となります。
「報身」は修行者が生きている間に獲得できるので、肉体と共存しますが、一般人には見えません。
ここで言う死後の待機状態
幻身、報身、意成身のようだ
そこからさらに錬成し
法身や虹身、光身へと精進するわけか
俺の場合はやっぱタントラ方面が
あってそうだな
まさにそのとおり
顕教で説かれる空の知を修習し成仏するには永い時間が必要であるが、密教の修行をすれば、それを高速化することができる。たとえば無上瑜伽タントラの二次第を修習すれば、最低で三年三ヶ月以内、最長でも十八回転生する間に成仏可能であるとされている。これは密教で説かれる空に対する知が、顕教のそれに比べより微細で、より強力なものであることに由来している。しかしこれはあくまでも高速道路を猛スピードで走るようなもので、ほんのすこしでも間違ってしまえば、すぐさに地獄に堕ちてしまう危険性を伴っている。
無上瑜伽タントラの修習法は「生起次第」と「究竟次第」と呼ばれる二つのプロセスがある。
まず生起次第においては、通常の我々のイメージを捨て、自らが成仏する過程、曼荼羅の諸尊が自らを取り囲む過程を何度もイメージする。具体的には、死有、中有、生有の過程を仏の法身・応身・色身を成就する過程と重ねあわせ何度もイメージし、最終的には、芥子粒ほどの大きさの微細な空間に曼荼羅の諸尊と曼荼羅が観想できるようになる。それが完成すると修行者は倶生の大楽を成就し「究竟次第」と呼ばれる即身成仏プロセスへと移行する。究竟次第では、通常死後に成就する中有の身体の代わりに「幻身」と呼ばれる身体を成就し、その後「光明」と呼ばれる段階で、死の瞬間に見える死の光明と空性を現観する智とを合体させて仏の境地へと赴くのである。
死の瞬間に見える光明‼️
心臓停止、脳波停止、呼吸停止
これで肉体的に死んだ後に
その光明を見てってことですね
ブッダになって肉体に戻って
生き返る‼️
● 内なるグル ●
おれの場合は
最初の内なるグル、つまり、守護霊さんとは一体になったね
これは神人(カミヒト)さんという霊能力者のリーディングで証された
今は、おれにとって初めての指導神霊としてのグルの存在が居られます
昨年肉体を離れられた、パイロット・ババシとババジ率いるヒマラヤのアヴァター様方が、サンカルパ・ヨガの霊統に連なる瞑想修行者を、ご指導くださっていて
幸運にも、4月に寝ずに9日間瞑想してた時の8日目にご指導いただきました‼️
この様な、神霊との、体験を伴う瞑想中の交流は、今まで無かったから、とても驚いたし、衝撃的な体験だった
指導というより、助けて下さいました、寝ずに8日目で、瞑想中の意識か覚醒でなく、朦朧となった時に
どうか!覚醒をお与え下さい‼️ってババジへ祈念したら、オレンジ色の光を見た後、突如として電撃のようなエナジーが浴びせられて、身体が痺れたように振動して、一気に覚醒されたのですよ
凄まじい覚醒のエナジーでした
オレンジ色の光を見ると、それはババジ様のお印なのだと、スワミジ様が仰ってて
これ迄に3回ほど瞑想中に見ましたね、瞑想の節目節目に、お印がある感じです
まあ、あなたは、自分の真我がグルだとか言うんでしょうが、自分の真我は、自分の肉体身体へは直接関与はしません、見ているだけですから
幻身、意成身=体外離脱
であるならば
これが一番解脱には早い気がするな
別に意成身を作るにあたって
微細なコントロール(肉体は動かさず、意成身を動かす)
これは鹿ちゃんがいうように
箒の扱いなどに現れる
バグってる
体外離脱でヨガの人たちと
アストラル会議してんのな
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%AA%E7%B5%8C
● 登場人物
釈迦
アッサジ(阿湿貝)
プナッパスカ
● 場面設定
◯ ある時
釈迦たちはカーシー国のキーターギリ(キーター山)に滞在していた。
そこで釈迦は、アッサジとプナッパスカを呼び出し、午後にも食事を摂っているのか質すと、彼らはそれを認める。
釈迦は彼らに戒律を守ることの重要性を説き、もし修行が完成して解脱した者となっているのであれば「不放逸になすべきことなし」と述べるであろうと説く。
さらに
【煩悩を絶って】【無学に至る】までの
【七つの段階(七聖者)】などを説く
世間に見られる。
いかなる七か。
1 倶分解脱
2 慧解脱
3 身 証
4 見 至
5 信 解
6 法 随行
7 信 随行 である。
◯ では比丘たちよ
いかなる人が【倶分解脱】であるか。
ある人は・・・
【色界】を超えて【無色界】に触れ住している(禅定)
さらに【智慧】によって【煩悩を滅尽】している。
これを【倶分解脱】と呼ぶ。
私は彼に
≪不放逸になすべきことなし≫ という。
それはなぜか。
彼はすでに≪不放逸になされており≫
再び【放逸となる】ことは【あり得ない】ためである。
◯ さらに四預流支を上げ、どのような順で法随法行(預流の前段階)を得るのかを説く。
【開悟の達成】のためには、どのような
順次の【学び】
順次の【所作】
順次の【行道】 があるのか。
◯ 比丘たちよ
ここに【信心を備えた者】が(師に)近づく。
近づいて、敬い仕える。【=善士親近】
敬い仕えて(教えに)耳を傾ける。
耳を傾けて法を聞く。【=正法聴聞】
聞いて法を保持する。
保持された法の【意義を考察】する。
【=如理作意】
【意義を考察する者】は、【法を受け入れること】に耐えられる。
【法を受け入れた者】には意欲が生まれる。
【意欲が生まれ敢行する】。
敢行して【考量】する。考量し【精勤】する。【=法随法行】
自ら【精勤】し
身をもって【最高の諦を実証し】
また【慧】をもって【洞察】して【観る】
彼らは歓喜する。
◯ ある人は、色界を超えて無色界に触れ住している
1≪禅定≫
◯ さらに
2≪智慧≫によって
煩悩を滅尽している。
◯ これを≪倶分解脱≫と呼ぶ。
私は彼に「不放逸になすべきことなし」という。それはなぜか。彼はすでに不放逸になされており、再び放逸となることはあり得ないためである。
五下分結経(マハーマールンキャー・スッタ)
阿湿貝経(キータギリ・スッタ)
●「第四の段は、見をして到る、見到である。
彼らには、法則を解する、煩悩の減少があり、
煩悩を落とし、彼らは、身で体現する者になる。」
●「第五の段は、身をして現す、身証である。
彼らには、実践に於ける、煩悩の減少があり、煩悩を落とし、彼らは、名を解脱する者になる。」
●「第六の段は、名を越える、慧解脱である。
彼らには、智慧を用いる、煩悩の滅尽があり、もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
●「第七の段は、色も越える、倶解脱である。
彼らには、身体を用いる、煩悩の滅尽があり、もはや、不放逸が説かれる、要がないのである。」
五下分結経(マハーマールンキャー・スッタ)
「尊師よ、もし、これが、出離の道ならば、
心が解脱した者と、智慧によって解脱した者。
その両者の違いとは、如何なるものでしょうか。」
「アーナンダよ、能力の違いと、私は解く。
● 禅定に優れた者は、心による、解脱を果たし、
● 智慧に優れた者とは、慧による、解脱を果たす。」
1026 (ゴータマ・ブッタは答えた)、「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」(ブッダのことば・スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章 1、序 中村元訳 岩波文庫)
https://true-buddhism.com/teachings/nirvana/
この「無余涅槃」のことを「完全な涅槃」ということで、
「般涅槃はつねはん」ともいわれます。
「般」というのは完全ということです。
「般涅槃」に大の字をつけて
「大般涅槃だいはつねはん」ともいわれ、
『大般涅槃経』というお経もあります。
ところが、この完全な涅槃である「般涅槃」について、重大な聞き誤りがあります。
●聞き誤った完全な涅槃とは?
それは、煩悩の火を吹き消して涅槃の境地に達したならば、
【生死輪廻を離れる】ので、涅槃の境地に達した人は、
【死ねば何もなくなってしまう】というものです。
これは、上座部仏教の目指す最高のさとりの境地です。
今日スリランカや東南アジアに残っている、テーラワーダ(上座部)仏教も同じです。
この死ねば何もなくなってしまうという聞き誤りを
●【灰身滅智けしんめっち】といわれます。
【灰身滅智】とは、身を灰にし、智が滅しますので、心身共に無になる、というものです。
昔、西洋人はテーラワーダ(上座部)仏教から仏教の研究を始めたので、
仏教は虚無主義だという誤解を与えてしまったのです。
真実の涅槃とはどんな境地かというと、天親菩薩は、『摂大乗論釈』にこう教えられています。
智慧(般若)によるがゆえに生死にとどまらず
慈悲によるがゆえに涅槃に住せず。
漢文:由般若不住生死 由慈悲不住涅槃
出典:天親菩薩『摂大乗論釈』
「智慧あるが故に生死にとどまらず」とは、
智慧がありますから、生死輪廻を限りなく続けるということは、もはやありません。
しかしだからといって、自分だけ助かれば、他の人はどんなに苦しんでいてもかまわないということでは無慈悲です。
慈悲心がありますから、まだ苦しみ迷っている人が大勢いるのに、自分だけ涅槃でじっとしていることはできません。
「慈悲あるが故に涅槃に住せず」
何とか助けてやりたいと、すぐに生死の世界に戻ってきて、すべての人を助ける救済活動をせずにおれなくなってきます。
これを「【無住処涅槃】むじゅうしょねはん」と言います。
生死にも涅槃にとどまらず、すべての人が救われるまで、助けずにおれないのです。
これを「【生死即涅槃】しょうじそくねはん」ともいわれます。
真実は言葉にかからないから、言っても分かることではないと思っても、言わずにおれなくなります。
それが、真実の涅槃であり、仏のさとりなのです。
表にまとめるとこうなります。
2つの涅槃
◯有余涅槃うよねはん
◯無余涅槃むよねはん=般涅槃はつねはん=大般涅槃だいはつねはん=無住処涅槃
では、比丘たちよ、想とはなんであろうか。
比丘たちよ、六つの表象する作用である。
いわく、色の表象、声の表象、香の表象、味の表象、感触の表象、および、観念の表象である。
これらを名づけて想という。
そこでも、接触があって想の生起があり、接触がなくなって想の滅尽がある。
そして、その滅尽にいたる道とは八支の聖道である。
いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように想を証知し、・・・
その時もはや輪廻などということはありえないのである。
比丘たちよ、六つの意識するいとなみである。
いわく、
色の意識、声の意識、香の意識、味の意識、感触の意識、観念の意識である。
これらを名づけて識という。
そこでは、✽名と色があるによりて識の生起がある。
【名】がなく【色】がなくなって
【識の滅尽】がある。
そして、
その滅尽にいたる道とは八支の聖道である。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように識を証知し、このように識の生起を証知し、このように識の滅尽を証知し、そして、このように識の滅尽にいたる道を証知して、よく識を厭い離れ、よく貪りを離れ、よくその滅尽に向うならば、
それはよくその道に順うものである。
よくその道に順うものは、確乎としてこの法と律のなかに立つものである。
比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように識を証知し、このように識の生起を証知し、このように識の滅尽を証知し、そして、このように識の滅尽にいたる道を証知して、よく識を厭い離れ、よく貪りを離れ、よくその滅尽に向うならば、
彼はもはや、取著なきによりて自由となり、よく解脱せるものとなる。
そして、よく解脱すれば、その人はすでに完成したのであり、完成すれば、その時、もはや輪廻などということはありえないのである」
https://i.imgur.com/J7RSaox.jpeg
唯識とはなにか: 唯識三十頌を読む
多川俊映
比丘たちよ
【想】とはなんであろうか。
比丘たちよ
【六つの表象する作用】である
いわく
1【色の表象】
2【声の表象】
3【香の表象】
4【味の表象】
5【感触の表象】
および
6【観念の表象】である。
● これらを名づけて
≪【想】≫という。
≪【想】≫という。
≪【想】≫という。
そこでも
【接触】があって
【想の生起】があり
【接触】がなくなって
【想の滅尽】がある。
【形態 】は
【消滅】する
● けだし=1まさしく、2確かに、3思うに
【ひろがりの意識】は
【想い】にもとづいて
【起こる】からである
(スッタニパータ)
ーーーーーーーーーーー
けだし【蓋し】
読み方:けだし
[副]
1物事を確信をもって推定する意を表す。
【まさしく。たしかに。思うに。】
「?その通りであろう」
2(あとに推量の意味を表す語を伴って)
【もしかすると。あるいは。】
「百(もも)足らず八十隅坂(やそくまさか)に手向けせば過ぎにし人に?逢はむかも」〈万・四二七〉
3(あとに仮定の意味を表す語を伴って)
万が一。もしも。ひょっとして。
「わが背子し?まからば白妙の袖を振らさね見つつしのはむ」〈万・三七二五〉
4おおよそ。大略。多く、
漢文訓読文や和漢混淆文などに用いる。
「よって勧進修行の趣、?もって斯(か)くの如し」〈平家・五〉
比丘たちよ
【想】とはなんであろうか。
比丘たちよ
【六つの表象する作用】である
いわく
1【色の表象】
2【声の表象】
3【香の表象】
4【味の表象】
5【感触の表象】
および
6【観念の表象】である。
● これらを名づけて
≪【想】≫という。
≪【想】≫という。
≪【想】≫という。
そこでも
【接触】があって
【想の生起】があり
【接触】がなくなって
【想の滅尽】がある。
【形態 】は
【消滅】する
● けだし
【ひろがりの意識】は
【想い】にもとづいて
【起こる】からである
(スッタニパータ)
ーーーーーーーーーーー
この【想い】
が
>362の【想】です‼️
【広がりの意識】とは
【空間=識】のこと
ーーーーーーーーー
比丘たちよ
【想=想い】とはなんであろうか。
比丘たちよ
【六つの表象する作用】である
いわく
1【色の表象】‼️
2【声の表象】‼️
3【香の表象】‼️
4【味の表象】‼️
5【感触の表象】‼️
および
6【観念の表象】である‼️
5感覚➕6観念=空間=識
ってことです
それだから広がりと言う
A【形態 】は【消滅】する
● まさしく(けだし)
B【ひろがりの意識】は
【想い】にもとづいて
【起こる】からである
(スッタニパータ)
ーーーーーーーーーーー
すべての想いから離れたが故に
B【ひろがりの意識】となり
● ≪広がりの意識である≫が故に
このように【理解した者】の
● A【形態 】は【消滅】する
ーーーーー
これが
【八ー正定】としての【第四禅定】での
在り方なんですよ‼️
「前五識の相分」
「前五識の自証分」
「前五識の証自証分」
B●「第六意識の見分」
「第六意識の相分」
「第六意識の自証分」
「第六意識の証自証分」
C●「末那識の見分」
「末那識の相分」
「末那識の自証分」
「末那識の証自証分」
D●「阿頼耶識の見分」
「阿頼耶識の相分」
「阿頼耶識の自証分」
「阿頼耶識の証自証分」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
◯Cー【外境-否定】の【無相】唯識
◯Dー【外境-肯定】の【有相】唯識
ーーーーーーーーーーーーーーーー
● 客体(所取)① ← ここを認めるか否 かの違い
● 主体(能取)②(客観③+主観④)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
● Bは
【龍樹】『中論』の【法空】
【世親】『唯識』の【法空】
ーーーーーー
◯ A=声聞
◯ B=縁覚
◯ C=菩薩
各 三乗の【四分】の相違
●A【 声 聞 】
「前五識の見分」
「前五識の相分」
「前五識の自証分」
「前五識の証自証分」
入れ換え
1「前五識の相分」
2「前五識の見分」
3「前五識の自証分」
4「前五識の証自証分」
ーーーーーーーーーーーーーーー
1●色界禅定→【客観=相分】→【止滅】
2● 【主観=見分】→【止滅】
●色界=禅天→入禅定
ーーーーーーーーーーーーーーー
3●無色界禅定
末那識--自我=自証分→止滅→無色界入禅定
4●阿頼耶識=証自証分=無色界→止滅
↓↓
ニルバーナ=涅槃
初期仏教→四諦→無余涅槃(寂滅の仏法)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
●B【 縁 覚 】
1「第六意識の相分」
2「第六意識の見分」
3「第六意識の自証分」
4「第六意識の証自証分」
1●客観=相分→析空→解体
2●主観=見分→体空→作空
3●
4●
●A【 声 聞 】
「前五識の見分」
「前五識の相分」
「前五識の自証分」
「前五識の証自証分」
入れ換え
1「前五識の相分」
2「前五識の見分」
3「前五識の自証分」
4「前五識の証自証分」
ーーーーーーーーーーーーーーー
1●色界禅定→【客観=相分】→【止滅】
2● 【主観=見分】→【止滅】
●色界=禅天→入禅定
ーーーーーーーーーーーーーーー
3●無色界禅定
末那識--自我=自証分→止滅→無色界入禅定
4●阿頼耶識=証自証分=無色界→止滅
↓↓
ニルバーナ=涅槃
初期仏教→四諦→無余涅槃(寂滅の仏法)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
●B【 縁 覚 】
1「第六意識の相分」
2「第六意識の見分」
3「第六意識の自証分」
4「第六意識の証自証分」
1●客観=相分→析空→解体
2●主観=見分→体空→作空
3●
4●
● 三性説
藁=円成実性
縄=依他起性
蛇=遍計所執性
唯識の常識
●【依他起性】に於ける【有体】は
【非有ー似有】
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
◯大乗仏教は特に空思想を重視する訳で、瑜伽行唯識学派も例外ではなく
実体としての有体を説く訳ではない。
刹那生滅しながら相続する識の作用としての現象(対境)を
【外界実在論と妄想】→【遍計所執性】 =【無体】
【心の現れ】→【依他起性】
→【円成実性】
ーーーーーーーーーーーーーー
【円成実性】・・・・実有
【依他起性】・・・・仮有~実法、仮法
【遍計所執性】・・・畢竟無~無法
●【仮法】→存在はしなくとも想像上存在するもの(ex:兎角亀毛)
●【無法】→決して存在しないもの
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
有無→三類境(性境、帯質境、独影境)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
● 種子→阿頼耶識由来
◯有体=(円成実性、依他起性)
◯無体=(遍計所執性)
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
藁=円成実性、性境、実有
縄=依他起性、帯質境、仮有、実法、仮法
蛇=遍計所執性、独影境、畢竟無、無法
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
首楞厳三昧に入るための条件として、菩薩はまず以下を行うべしと説かれています。
・戒律を守ること
身口意を清浄にし、五戒・十善を確立する。戒が根本。
・布施・忍辱・精進・禅定・智慧の実践
いわゆる「六波羅蜜」の総合的修行。とくにこの経では「禅定と智慧」が強調される。
・慈悲心の徹底
一切衆生を自分と同じく見て、救済の心をもつこと。
『首楞厳三昧経』の具体的な修行法は「三昧に入るための観法」として説かれます。
1.仏を観ずる(観仏三昧)
・まず「釈迦牟尼仏」を観想することから始める。
・仏の身体の三十二相八十種好を観じて心を集中する。
・これにより、心が散乱から離れ「一境専念」となる。
2.空性の観察
・仏を観じつつ、やがてその仏身が「空性」であることを覚る。
・すなわち「仏の相好」も空であり、自分の心も空である。
・これによって「主観(見分)」も「客観(相分)」も共に空じられる。
3.如来蔵の洞察
・空でありながら滅しない「常住の真心」を観ずる。
・これが「首楞厳三昧」における核心の観法。
・つまり「空に落ち込まず、存在論にもとらわれない、円通の中道」。
修行者がこの三昧に入ると、以下のような功徳と実践に展開されると説かれます。
1.大願の発起
・「自ら涅槃に入らず、衆生を度するために留まる」という誓い。
・阿羅漢・辟支仏のように自分の解脱で止まることは菩薩には禁じられる。
2.法施・説法行
・三昧に入った菩薩は「衆生の根機に応じて自在に説法できる」。
・これは首楞厳三昧の特徴的功徳。まさに「菩薩の言語行」。
3.方便善巧
・迷いの深い衆生には方便(仮の教え)を説き、利根の衆生には直ちに空を説く。
・四悉檀的な説法の自在さが強調される。
経中で語られる菩薩の業行は「段階的修行」として配置されています。
1.声聞・縁覚レベルの空観
→ 相分・見分を空じる(初禅・二禅的実践)。
2.菩薩レベルの自証分の覚知
→ 「自心の清浄性」を覚りつつ、衆生済度の誓願を起こす。
3.仏の境地(証自証分)
→ 空と慈悲と方便が完全に一つとなり、自在に教化する。
→ これを「首楞厳三昧に安住する」と表現する。
・前提:戒律・布施・慈悲・六波羅蜜を修する
・実践:仏観から空観へ、さらに如来蔵の覚知へ
・展開:大願を発し、法を説き、方便善巧で衆生を度す
・到達:首楞厳三昧に安住し、自在の菩薩行を展開する
つまり、「内観(空の智慧)」と「外向(衆生救済の慈悲)」を統合する修行こそ、首楞厳三昧に入った菩薩業行の真髄だといえます。
『菩提達磨四行論』の概要
修養には文章から得る所の知識・認識から入る理入(りにゅう)と、現実に於ける実践から入る行入(ぎょうにゅう)の2つに大きく大別され、更に行入には、4つの実践段階、報冤行(ほうおんぎょう)、随縁行(ずいえんぎょう)、無所求行(むしょぐぎょう)、称法行(しょうぼうぎょう)があるとされる[6]。これらはそれ以前の仏教における観想法(四念処)に挑戦するものだという見方もある[7]。この後に書簡や語録などが収録されているが、これらは達磨だけのものではない。
報冤行
実践の第一段階で、色々の恨み辛みの起こってくる本に返ってやり直すという意味。報とは一つの作用に対する反作用・循環を意味し、冤は兎に網をかぶせる、生命の躍動を抑え、そこから生じる所の恨みを意味している。枝葉末節に走る程煩悩や問題が頻出してくるとして、そういうものに捉われず、思い切ってそういうものを振り捨て、人間としての根本問題に返ることを報冤行という。
随縁行
実践の第二段階で、卑近に自らの周囲にある縁に従(随)って行ずるという意味。なるべく空理空論にならぬよう、身近な所から手掛かりをつけて行う実践を随縁行という。
無所求行
実践の第三段階。求める所を無くす行いであり、即ち生活感情から生じていく所の様々な煩悩や貪欲を新たに振り切って、ひたすら無心になって行じていくことを無所求行という。
称法行
実践の第四段階。法のまにまに(称)行ずる、即ち道理や心理と合致して、矛盾や差別無く、自らが法の権化の如く修養し、実践出来ることを称法行という。
考え事しているときは、考えの対象と一つになっているから、考え事をしている、とはわからないんじゃないか?
考え事をしているとわかるのは、考え事をしているということを対象化できた時でしかない。。
わかるのは、すべて過去のこと。。
今はわからないんだよ。。
>>642
その考えている自分が、客体となっているような時がある
客観視された自我心
その見ている当躰が、私は在る‼️と言う時の私であり、本心
自分の観照者としての自証分、まだ意志が働いているが
その意志も捨てられると、本当の無心が顕になります、我も無い処
阿羅漢の無漏に至った処とは
意志の働きも捨離された処ですね、そこが無心、無我
自分を捨てるとは、自分を離脱することでしょ
その心から無分別禅が生じて、その無分別心から
大安心という本心が現れるんだよ
パンッ❗って殻(空)がわれるように
瞬時に大安心という心が生じる
それが、自分を捨てたということね
せやね
大安心、結局これ
ーーーーーー
よく藁と縄と蛇の例えを以って三性説が喩えられる(藁=円成実性、縄=依他起性、蛇=遍計所執性)のは、唯識を学んだ者には常識。
藁=円成実性、性境、実有
縄=依他起性、帯質境、仮有、実法、仮法
蛇=遍計所執性、独影境、畢竟無、無法
ーーーーーーー
計画を作成しました。リサーチを開始する前に変更が必要でしたら、お知らせください。
●唯識三性説の包括的調査
◯ウェブサイトをリサーチ
(1) 唯識仏教における三性説(遍計所執性、依他起性、円成実性)の基本的な定義と、その哲学的意義を包括的に調査する。
(2) 藁(円成実性)、縄(依他起性)、蛇(遍計所執性)の比喩が、唯識の古典的な文献や現代の研究においてどの程度一般的に用いられているか、その起源と普及度を検証する。
(3) 三性説のそれぞれに対応する「境」(性境、帯質境、独影境)の概念を、唯識の認識論的文脈から深く分析し、各境がどのように認識主体と対象の関係を説明しているかを明らかにする。
(4) 遍計所執性に対応する「畢竟無」と「無法」の概念、依他起性に対応する「仮有」「実法」「仮法」の概念、円成実性に対応する「実有」の概念をそれぞれ詳細に研究し、唯識における存在論の階層を理解する。
(5) 唯識の三性説が、中観派の空の思想など、他の仏教哲学の教義とどのように比較され、また区別されるかを対照的に調べる。
(6) 三性説が唯識の他の主要な教義(阿頼耶識や転依など)とどのように関連し、大乗仏教の悟りの道筋をどのように説明しているかを総合的に考察する。
(7) 唯識に関する主要な原典(『解深密経』や『成唯識論』など)や、これらの教えを解説する現代の学術文献を探し、各性についてより深い解釈や議論を探索する。
(8) 三性説に対する批判や異なる解釈が存在するかを調査し、この教義の学術的・思想的背景をより広く理解する。
●I. 序論:唯識三性説の教理的意義
◯はじめに
唯識思想は、世界はただ識(心)のみであるとする深遠な教えであり、その核心をなすのが「三性説」である 。
三性説は、単なる存在論的な分類に留まらず、迷妄から悟りへ至る衆生の意識のあり方を動的に説明する、唯識学の根幹をなす理論である。
本報告は、三性説の多面的な構造を、存在論、認識論、そして修行論という三つの主要な観点から包括的に分析することを目的とする。
【藁・縄・蛇】の譬喩が単なる比喩ではなく、【円成実性】が【依他起性】の本質に内在するという、
唯識の深い存在論的真理を象徴している点、
また依他起性が【「実法」と「仮法」】という二つの側面を持つという、唯識学派内での繊細な議論を示唆している点を、本報告の核心的論点として据える。
●本報告のスコープと構成
本稿は、唯識学の主要文献(『解深密経』、『成唯識論』など)を参照し、三性説の基礎から歴史的論争、そして現代的意義に至るまでを体系的に論じる。
具体的には、
【遍計所執性、依他起性、円成実性】の各概念を精査し、
それぞれの存在論的性質
【(実有、仮有、畢竟無)】との連関を解明する。
さらに、【三類境】との対応関係を通じて唯識の認識論を深掘りし、
中観派との歴史的論争における【三性説】の役割を考察する。
最後に、三性説が示す修行論的応用、
特に【「転依」】という実践の核心に迫る。
●遍計所執性(遍計)
遍計所執性は、主観的な妄想や分別によって対象に付加される架空の性質を指す 。
これは、言語や概念(分別)の働きを通じて、本来実体がないものに「我」や「法」(現象)という実体があるかのように執着する心のあり方である 。
暗闇で縄を「蛇」と見誤る際の「蛇」がこれに相当する 。
遍計所執性は、その本質が「無所有」であり、畢竟的に存在しない「畢竟無」とされる 。
この概念は、現実には存在しないにもかかわらず、心の中で作り出され、あたかも実在するかのように振る舞い、苦しみの原因となる認識の歪みを説明している。
●依他起性(依他)
依他起性は、無数の因縁が和合して、刹那生滅する現象世界のあり方である 。
根本識である阿頼耶識に蓄えられた種子を因とし、その他様々な条件に依存して現れ、そして滅する一切の現象を指す 。
これは、暗闇で蛇と見誤られた「縄」そのものに相当する 。
依他起性は、単独で存在する自性(不変の実体)を持たず、他者や因縁に依存して生じるため「仮有」とされる 。
円成実性は、遍計の妄執が完全に離れた、依他起性の真実のあり方を指す 。これは、諸法に共通する「空性」そのものであり、遍計の迷妄が拭い去られた時に現れる、遍満する真実の姿である 。
迷妄を離れた真如としての「実有」と称されるが、この「実有」は、独立した実体ではなく、遍計の「非存在」を離れた真実の「無自性性」を指す 。
【藁・縄・蛇の譬喩】における「藁」は、この円成実性を象徴している。
この譬喩は、単に円成実性が真実であるというだけでなく、円成実性が依他起性とは別の存在ではなく、その「実体」あるいは「本質」として内在していることを示唆している 。
この動的な関係性は、【水と波】、あるいは【麻と縄】の関係として説明されるように、
静的な二元論を回避し、迷妄を離れることによって現象の真実の姿が現れるという、唯識の思想的特徴を明確に示している。
●遍計所執性=畢竟無
【遍計所執性】は、暗闇の蛇のように、認識の対象として現れても、その本質は畢竟的に存在しない【「畢竟無」】である 。
これは、ただ存在しないというだけでなく、【認識の作用(「情」)】の中にのみ存在する【「情有」】であり、
あたかも実在するかのように現れる
【「似有」】という、
唯識独自の概念でさらに深く説明される 。
【遍計所執性】は単なる
「存在しないもの」ではなく、
「存在しないにもかかわらず、心の中に現れて実在するかのごとく振る舞い、苦しみを生むもの」
である。
このパラドックスこそが、唯識が解明しようとした迷妄の本質であり、煩悩の根絶を目指す修行の出発点となる。
【依他起性】は、無数の因縁に依存して生じるため
【「仮有」】と位置づけられる 。
唯識では、この依他起性がさらに
【「実法」と「仮法」】という
二つの側面を持つと説かれる。
◯【実法】は、それ以上分解できない究極的な要素、
例えば心そのものや【心の作用(心王・心所)】を指し、
◯【仮法】は、それらが集合して仮に形成される【概念的な存在(「人」や「家」など)】を指す。
【依他起性が「仮有」】であるにもかかわらず、
その構成要素に【「実法」】を認めるのは、
唯識が中観派の【虚無主義(悪取空)】を回避し、煩悩を克服するための実践的基盤を構築しようとしたためである 。
もし依他起性の【全てが非実在】であれば、
修行の【主体も客体も存在せず】、
悟りの道筋が成り立たなくなる。
唯識は「実法」を仮に設定することで、修行の「基盤」を確保したのである。
円成実性は、遍計の迷妄が離れた状態の依他起性そのものであり、
迷いのない真実のあり方として「実有」と称される 。
この「実有」は、独立した実体ではない。
それは、遍計の「非存在」を離れた、依他起性の【真実の「無自性性」】を指す 。
依他起性の「仮有」と円成実性の「実有」の関係は、
【世俗諦と勝義諦】の関係に類似しているが、
【唯識は二諦説を用いず】、
【三性説】によって迷いと悟りのプロセスを動的に説明しようとした 。
円成実性は、依他起性が「空」であることを悟った時に現れる真実であり、
遍計の「情」によって歪められた認識を離れた状態なのである。
●三類境の基礎
唯識は【認識の対象(境)】をその性質によって三つに分類する。
◯【三性説が「認識のあり方」】を示すのに対し、
◯【三境は「認識の対象」の様相を分類】する 。
両者の連動を解明することで、【唯識の認識論が完成】する。
●三類境と三性説の連動
【遍計所執性】によって生み出される【認識の対象】は
◯【「独影境」】である 。
独影境は、心から仮に現れ、実体的な作用を持たないため、
【幻覚や概念的な妄想】がこれにあたる。
【遍計所執性は実体を持たず(畢竟無)】、
その【認識の対象】もまた【実体を持たない独影境】となる。
その【認識は「帯質境」】となる 。
◯【帯質境】は、実在の一部を帯びながらも、
【主観的な分別】によって【歪められた認識】である。
幽霊を実在するものとして見ることや、人間関係における【固定観念】がこれにあたる。
【依他起性】は因縁によって生じた
【「仮有」】であり、
その【性質】を【「帯び」】ながらも、
遍計の【分別】が【「質」】を帯びた
【「影」】を形成するのである。
●【円成実性】を悟った時、
その【認識の対象】は
≪【「性境」】拒否となる 。
◯【性境】は、
【阿頼耶識の種子】から実際に現れた、
【歪みのない真実の認識対象】である。
◯ 遍計の妄執が滅し、依他起性をその【「空性」】という
【真実の姿(円成実性)】として捉える時、
我々の認識は【主観的な歪みから解放】され、
【対象を≪ありのまま≫に知覚】するようになる。
この【三境と三性説】の対応関係は、
唯識が単なる存在論や抽象的な哲学に留まらず、人間の知覚と認識の構造を詳細に分析し、その歪みと真実性を分類する、実践的な「認知科学」であったことを示している。
表2-1:三性説の構造と譬喩の対応関係
https://i.imgur.com/IXD5id3.jpeg
https://i.imgur.com/UZUBTrL.jpeg
●論争の核心
中観派は、唯識が依他起性を「有」(存在)とし、円成実性を「実有」とすることで、龍樹の提唱した「一切法無自性」(すべての存在は自性を持たない)という絶対的な空の思想に反していると批判した 。
中観派は世俗諦(仮法)と勝義諦(真理)の二つの真実を立て、究極的にはあらゆるものが「空」であると主張する 。また、後期中観派は、唯識が言葉や概念の空を説くのに対し、言葉を離れた事物自体も空であると主張した 。
●唯識派の応答と立場
唯識派は、中観派の主張を虚無主義(悪取空)に陥る危険性を孕むものと見なした 。
◯【三性説】は、単に存在の非存在を説くのではなく、
迷妄(遍計)を否定することで、縁起した現実(依他)の真実性(円成)を肯定的に捉えようとした。
【依他起性の「有」】を認めることで、修行の基盤、すなわち「心の働き」を確保し、迷いから悟りへの具体的な道筋を理論的に説明可能にしたのである 。
この論争は、仏教がニヒリズム(虚無主義)とエテルナリズム(常住論)という二つの極端をいかに回避するかという、根本的な課題に根差している。吉蔵の批判は、この論争をさらに深化させる。
彼は、唯識の教理そのものではなく、その解釈を批判することで、仏教思想が陥りがちな教条主義への警鐘を鳴らしたのである
https://i.imgur.com/iEh1jwc.jpeg
https://i.imgur.com/4tdy4yt.jpeg
●唯識修行の核心:転依(basis transformation)
唯識は、この世界が【「識」(心)】によって作られていると考え、
その心のあり方を変えることで【苦をなくす「転依」】を修行の核心に据える 。
【三性説】は、この【転依の実践的な指針】となる。
◯まず、【遍計所執性への執着を捨てる】ことで、心の働きを転換する第一歩を踏み出す 。
◯次に、依他起性を【「幻のごとく」「仮有」】としてありのままに観じる。
これは、現象世界を否定することなく、その【非実体性を悟るプロセス】である 。
遍計の妄執が完全に滅した時、依他起性の真実のあり方である【円成実性を証得】する。
これは≪【「転識得智」】≫(識を転じて智を得る)と呼ばれる、
八識を【四智に転換するプロセス】として理論化される 。
◯三性説は、単なる静的な哲学モデルではなく、心の深層構造(阿頼耶識)から現象世界(八識)に至るまでを統合的に説明し、迷いから悟りへと向かう具体的な実践指針を提供する「心の地図」である。
この地図があるからこそ、唯識は中観派が批判したような虚無主義に陥ることなく、現実世界における苦の根絶という仏教の根本目的を達成しようと試みたのである。
三性説は、現代心理学の概念と高い親和性を持つ 。
◯遍計所執性への気づきは「認知の歪みの特定」に、
◯依他起性への観察は「メタ認知」に相当する。
唯識の教えは、心の働きが現実をどのように構成しているかを理解することで、
現代社会のストレスや苦しみへの対処法として、深い示唆を与え続けている 。
本報告は、唯識三性説を核として、存在論、認識論、そして修行論という三つの主要な観点からその多層的な構造を解剖した。
◯遍計所執性の「畢竟無」、
◯依他起性の「仮有」、そして
◯円成実性の「実有」という
独自の存在論的階層が、迷いから悟りへの道筋を明確に示した。
また、
◯三性説と三類境の対応関係は、
唯識が人間の知覚と認識の歪みを詳細に分類し、真実の認識へと至る道を示したことを明らかにした。
転依の教理と結びつくことで、三性説は単なる学説に留まらず、
心を深く変革し、苦からの解放を目指す具体的な修行法となった。
三性説は、単なる仏教の教理ではなく、自己と世界を深く理解するための精緻な哲学であり、
心の変容を通じた究極的な自由への道を示す、普遍的な知恵なのである。
1唯識仏教の調査開始
唯識仏教の三性説に関する包括的な調査を開始しました。遍計所執性、依他起性、円成実性の定義から、藁、縄、蛇の比喩まで、ユーザーが提示した内容を整理し、論理的な調査フレームワークを構築しました。
2複数の視点から概念を深掘り
この調査では、三性説を複数の側面から掘り下げていきます。単に定義を調べるだけでなく、関連する「三境」(性境、帯質境、独影境)の概念や、実有・仮有・畢竟無といった存在論的な階層との関係を明らかにしていきます。
3広範な文脈の調査
三性説をより深く理解するため、中観派の空の思想との比較や、唯識の他の重要な教義である阿頼耶識や転依との関連性も探求します。これにより、唯識思想全体の中での三性説の位置付けを明らかにしていきます。
4今後の調査計画
これらの主要な概念を網羅的に捉えるため、複数の検索を行い、信頼できる情報源を特定します。その後、より詳細な情報を得るために、それらの文書をさらに深く調べていく予定です。
5唯識三性説の基礎概念の深化
唯識の三性説、すなわち遍計所執性、依他起性、円成実性の基本的な定義について、複数の情報源から確認しました。特に、藁、縄、蛇の比喩が、迷いから悟りへと至る認識のプロセスを説明するためのものであることが分かりました。この比喩は『摂大乗論』に起源があるという新たな知見も得られました。
6三境と存在論の関連性の発見
三性説と唯識の認識論的分類である三類境(性境、帯質境、独影境)との関係を探る中で、遍計所執性が「畢竟無」、依他起性が「仮有」、そして円成実性が「実有」に対応するという重要な関連性を見出しました。この存在論的な階層は、唯識思想をより深く理解する上で不可欠な要素です。
中観派との比較では、清弁による唯識三性説への批判が存在し、特に「空」の捉え方に関する両派の哲学的な違いが論争の核心であることが明らかになりました。また、三性説が単なる理論ではなく、「転識得智」という悟りへの実践的な道筋、具体的には現代の認知行動療法やマインドフルネスにも類似する心の働きを説くものであるという新しい視点も得られました。
8未解明な概念の探求
これまでの調査で、唯識の存在論における「情有」や「似有」といったさらに複雑な概念が浮上しました。これらの概念が三性説や三境とどのように関連するのか、また中観派や中国仏教の批判が具体的にどのようなものであったのか、これらのギャップを埋めるために、関連する学術論文や専門的な解説をさらに深く掘り下げていきます。
9唯識思想の批判的受容
吉蔵による唯識批判を調査する中で、彼が三性説そのものを否定したのではなく、当時の中国仏教における唯識解釈、特に円成実性を実在として捉える見解を批判していたという新たな知見を得ました。このことは、三性説が時代や学派によって多様な解釈をされてきたことを示唆しています。
10中観派との論争点の確認
以前の調査では、中観派が唯識三性説を批判しているという事実を確認しましたが、今回はその具体的な論点を探求します。唯識と中観の哲学的な違いをより明確に比較するため、清弁などの論師がどのような視点から唯識を批判したのかを、代替情報源を用いて深く掘り下げていきます。
11未解明な概念の探求
ユーザーが提示した『実法』『仮法』というキーワードが、三性説や三境の文脈とどのように結びつくのか、また唯識の存在論においてどのような位置づけを持つのか、その関係性をさらに詳しく調査する必要があります。この概念を解明することで、唯識の認識論と存在論をより統合的に理解できると考えています。
12最終的な情報収集の実行
唯識の『三性説』に関する包括的なレポートを作成するため、残る重要なギャップを埋めるための最終的な情報収集を行います。具体的には、中観派との論争の具体的な内容と、『実法』『仮法』の概念を、信頼性の高い学術的な情報源から探究していきます。
> 表4-1:三性説と三類境の対応関係
> 表2-1:三性説の構造と譬喩の対応関係
マジかいな?
それだと、「三性説と三類境は、同じことを別の角度から表現したものである」ということになるが?
三性説だけで十分だ
(1) 唯識説の基本的な教え、特に八識(八つの識)と、末那識が阿頼耶識に固執して自我を生み出す働きについて調査する。
(2) 仏教における「転識得智」という概念、特に末那識が平等性智に転じるプロセスについて、複数の文献や解説を比較してその意味を深く理解する。
(3) 平等性智が具体的にどのような働きを指すのか、またそれがなぜ仏の慈悲と関連付けられるのかについて、仏教の専門的な解説を探し、情報を整理する。
(4) 「仏の末那識」という表現が、末那識が清浄な状態に転じたことを指す用例があるかどうか、仏教の専門的なテキストや論文を検索し、その背景にある考え方を分析する。
(5) 一方で、「末那識は仏の意識ではない」という見解が、なぜ主張されるのかについて、末那識が悟りの過程で変質・消滅するという解釈や、識(vijnana)と智(jnana)の厳密な区別に基づいた見解を探し、その論拠を考察する。
(6) 「末那識が平等性智に転じる」という過程を説明する際に、識から智への変容が本質の変化を意味するのか、それとも機能の浄化を意味するのか、様々な宗派や学者の見解を比較検討する。
(7) これらの相反する見解が、単なる言葉の使い方の違いなのか、それとも末那識の「本質」や「状態」に対する異なる解釈に由来するのかを総合的に分析し、両者の主張の深層にある哲学的な違いを特定する。
別々の人が唱えてまた別な人が関連付けたとか?
● 唯識思想における末那識と平等性智の解釈:凡夫と仏の境界を巡る考察
●序章:唯識説における末那識と平等性智の問い
唯識思想における第七末那識(まな‐しき)と、仏の智慧である平等性智(びょうどうしょうち)の関係性を巡る議論は、
単なる言葉の定義に留まらない、心の変容という唯識の核心に触れる深遠な問題である。
本報告では、
法介氏が主張する「末那識は仏の意識」という見解と、栖雲居士が述べる「末那識は仏の意識ではない」という見解の対立を、唯識の教義に即して詳細に分析する。
この二つの見解は一見すると矛盾しているように見えるが、結論から述べれば、
これらは唯識思想の根幹をなす**転識得智(てんじきとくち)**のプロセスを、異なる視点から捉えたものであり、
いずれも正当な理解に基づいている。
本報告は、この矛盾を解消し、両者の見解を統合する「深い理解」を提示することを目的とする。
第一章:唯識思想の基礎構造と八識の役割
2.1. 唯識の思想的背景
◯唯識思想は、すべての存在は心(識)の現れであり、心の外に独立した実体は存在しないという
●【「識外に実在なし」】の立場を根底に置く 。
この思想は、龍樹に代表される【中観派】が説く
●【「一切は空である」】という主張に対し、
●【「一切が空であると『認識する心』そのものは存在しなくてはならない」】
という問いから展開されたとされる 。
◯唯識は、この【「心」の働き】を体系的に分析することで、私たちがなぜ苦しみ、迷うのかという根本的な問いに答えようとする。
唯識では、心の働きを八つの識(はっしき)に分類する 。この分類は、私たちの心が単一の意識ではなく、複数の階層からなる複雑なシステムであることを示唆している。
【1】前五識(眼・耳・鼻・舌・身)と第六意識: 外界の対象を認識し、思考や判断を行う表層的な意識の働きを指す 。
【2】第七末那識(マナ識):
第六意識の【さらに深い層】に位置し、
【無意識の領域で働く心】である 。
この識は、【自己意識や執着】を生み出す源泉であり 、
【意識が途切れる】熟睡時や失神時にも
【絶えず働き続ける】のが特徴である
【3】第八阿頼耶識(アラヤ識):
【すべての識の根源】であり、
【行為の結果】である
【「種子(カルマ)」】を蓄える潜在意識とされる 。
阿頼耶識は【輪廻転生の主体】であり、遠い過去から未来へと続く私たちの永遠の生命そのものを表す大河に喩えられる 。
依他起性か遍計所執性の妄想を消し去った、円成実性と世界の現れを考えた時
識と六識の想いによって現れる広がりを
潜在意識とは言わないので、それを潜在意識とすることには
同意出来ないかも
◯【末那識と阿頼耶識】は、
唯識の【心の階層モデル】において特に重要な関係を持つ。
【末那識】は、そのより深い層にある
【阿頼耶識】を
【「私の本体」】として絶えず
【執着的に認識する働き】を持っている 。
◯この【執着】は、私たちが【無我】であるにもかかわらず、
【固定不変の「私」】という【錯覚を生】み出す【根本原因】であり、
私たちの【苦悩】が単なる
【思考(第六意識)の問題】ではなく、
より根深い【「我執」に起因】していることを示している。
したがって、【唯識の実践】は、
【表層的な思考の観察】に留まらず、
最終的にこの【我執の根源を直視】し、
【浄化すること】を目指す。
●3.1. 末那識の根本的な働き:我執と四煩悩
◯凡夫の末那識は、迷いの根源として機能する。この識は常に、【四つの根本煩悩】を伴って働く 。
これらは
1◯我痴(がち)(自己についての迷い)、
2◯我見(がけん)(「私」という妄信)、
3◯我慢(がまん)(自己についての慢心)、
4◯我愛(があい)(自己への愛着)
であり、
これらの煩悩が、私たちの【自己中心的】な【認識と行動】を生み出す 。
この性質から、
【末那識】は
≪「汚れた意」≫を意味する
**【染汚意(ぜんまい)】**
とも訳される 。
◯末那識の働きは、
【第六意識】のように
【途切れる】ことがない 。
意識が活動を停止する【熟睡時】でさえ、末那識は【絶えず我執を造り】続け、
【迷いを継続】させる 。
【この作用】こそが、
【私たちが無我】であるにもかかわらず、【固定不変の「我」を存在】させてしまう
【根本的な原因】である。
この末那識が持つ【我執の作用】は、
【仏の清浄な境地】とは【相容れない】。
この認識こそが、栖雲居士氏名が
【「末那識は仏の意識ではない」】と主張する【揺るぎない根拠】である。
【悟り】とは、この【我執の作用】が
【完全に止滅した状態】を指すため、
●【凡夫の末那識】は
●【仏には存在しない】
のである。
●4.1. 「識」と「智」の決定的相違
◯唯識が目指す【悟りのプロセス】は、
単なる【煩悩の減少】ではなく、
心の根本的な【質的転換】である。
この【質的転換】は、
●【「識」】(vijnana)から
●【「智」】(jnana)への
◯【転換】として定義される 。
1◯ 識:
分別を伴う認識作用であり、自我の欲求や限定的な視点から物事を捉えるため、苦悩の輪廻を生み出す 。
2◯ 智:
分別を超え、真実をありのままに観る智慧であり、一切の主客の対立を超越する清浄な心の働きである
◯唯識では、八識と四智の間に明確な対応関係が設定されている 。
https://i.imgur.com/INFHJJ0.jpeg
https://i.imgur.com/Q8nAIXz.jpeg
https://i.imgur.com/LauHkhG.jpeg
https://i.imgur.com/GEKrMTw.jpeg
【第七末那識】は
【平等性智へ】と転じる 。
この【転換】は、
末那識という「迷いの機能」が
平等性智という「悟りの機能」へ
と質的に一変する事実を視覚的に証明するものである。
したがって、末那識と平等性智は、同じ心の働きを指す二つの言葉ではなく、
● 迷いの状態(識)と
● 悟りの状態(智)という
【全く異なる心の本質】を表している。
この転換の概念こそ、ユーザーの問いに対する「言葉の言い方の違いだけではない」という回答の根拠となる。
●5.1. 平等性智の定義と特性
◯【平等性智】は、
【自己と他者の区別をせず】、
【自他・万物が平等である】と
【悟る智慧】である 。
この智慧は、一切衆生に平等に慈悲を注ぐ心の源泉であり、
喜怒哀楽といった感情的なとらわれを超えた境地を示す 。
この慈悲の心は、
【自分自身の幸せと他者の幸せ】が
【切り離せないという深い理解】から
自然と育まれるものであり、
現代の心理学における
◯「思いやりの瞑想」や
◯「利他的行動と幸福度の関係」
に関する研究とも共鳴する 。
◯【末那識が平等性智へと転じる】プロセスは、
【我執の断絶】によって引き起こされる 。
この【転換】は、
【末那識が持つ「染汚意」】としての作用が【完全に停止】し、
本来備わっている【「無我」の真実】を認識する【清浄な智慧が顕現】することに他ならない。
この【心の変容】は、
●【自己中心的なエネルギー】が、
自他を区別しない
●【利他的な慈悲のエネルギー】へと
【方向転換した】ことを意味する。
◯法介氏のいう
「【仏の末那識】は、
もはや『私』という観念に固執せず...」という表現は、
この【転換後の清浄な状態】を指していると解釈できる。
厳密な教義においては、
●【我執の作用が停止した仏】には
●【「末那識」は存在しない。】
が、しかし、
【法介氏】は、
【我執という迷いの根源】であった
【末那識の「働き」】が、
【悟りの境地】で
【「平等性智」】という新たな、
より【高次の働きに転じた】ことを、
象徴的かつ比喩的に
≪「仏の末那識」≫と
表現していると考えられる。
https://anyouji27.blog.fc2.com/blog-entry-19.html
なるほど
そういうことだったか?
従容録 第十一則 雲門両病:現代人にとっての「心の病」の処方箋
●序章:心の医者、雲門禅師
ご依頼いただきました『従容録』第十一則「雲門両病」の現代語訳と解説について、専門的な見地から包括的な報告書を作成いたしました。
本レポートでは、禅の公案集である『従容録』の中でも特に奥深い本則を、現代人が抱える心の苦悩との関連性に着目しながら解き明かしていきます。
禅の教えは、単なる古代の思想や宗教的な教義に留まるものではありません。
それは、人間の心の構造とその働きを鋭く観察し、苦しみから解放されるための実践的な智慧を提供します。
本則の核心は、雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師が、修行者が陥りがちな「心の病」を診断する様子にあります。
雲門禅師はまるで卓越した「心の医者」のように、通常の手段では治療できない、心の奥底に潜む病の正体を喝破します。
この報告書が、禅の初心者である読者の方々にとっても、心のあり方を深く見つめ直す一助となることを願います。
単に教義を伝えるだけでなく、読者自身に深い思索を促すためのテキストとして、古くから禅の修行において用いられてきました。
●その中でも「雲門両病」は、
◯修行の道を歩み、一定の境地に達した者ですら見逃してしまうような、
◯極めて微細で根深い心の病を指摘している点で、特に重要な意味を持っています。
●示衆:治療不能の病と雲門の診断
本則は、雲門禅師が聴衆に投げかける謎めいた問いかけから始まります。
ーーー
示眾云。無身人患疾。無手人合藥。無口人服食。無受人安樂。且道。膏肓之疾。如何調理。
ーーーーーー
この問いかけの現代語訳は以下の通りです。
ーーーーーーーーーーーーー
● 現代語訳
「 皆に問いかける。
身体のない人が病を患ったら、
手の無い人が薬を調合し、
口の無い人が薬を服用し、
薬を受け取ることのない人が安らかになる。
さあ、言ってみよ。治療が極めて困難な、心の奥底の病を、
どうやって治すのか? 」
ーーーーーーーーーーーー
●この導入部の問いかけは、単なる言葉の遊びではありません。
最初の【無身人患疾】という表現は、
物理的な【肉体を超えた次元】での「病」の存在を明確に示唆しています。
つまり、雲門が問うているのは、単なる肉体的な病【 膏肓の疾 】の治療法ではなく、
その本質が【 非物質的な、心の病 】の治療法であるという暗示です。
さらに【 手の無い人が薬を調合する 】や【 口の無い人が服用する 】といった逆説的な表現は、
禅の教えが、常識的な論理や思考を超えたところにあることを示唆しています。
この問いかけそのものが、
既に禅の修行における【 診断と治療 】のメタファーとなっています。
雲門がこれから提示する心の病は、通常の論理的な思考や知識では治療できない、
【 修行そのものから生じる「薬病(やくへい)】であると見ることができます。
【仏道という薬】を服用することで、
【新たな病が生じてしまう】という
逆説的な状態を指摘しているのです 。
●【光と法身の四つの病】
雲門は、修行者が陥りがちな心の落とし穴を、二つの大きなカテゴリーに分けて指摘します。
◯第一のカテゴリーは「光(ひかり)不透脱(ふとうだつ)の病」、
◯第二は「法身(ほっしん)の病」です。
それぞれに二つずつ、合計四つの病が挙げられており、
これらの病は修行の段階が進むにつれて現れる、より微細で自覚しにくいものです。
●光とは、自らの心に本来備わっている智慧の光、すなわち仏性を象徴しています 。
●一方、法身とは、仏教における究極の真理そのもの、あるいは真理を体とする仏の姿を指します 。
これらの病は、修行者が自己の仏性や真理に近づこうとする過程で、かえってそこに執着してしまうことから生じます。
以下に、雲門が指摘した四つの病とその本質を整理しました。
https://i.imgur.com/KkH7vLn.jpeg
ーーーーーーーー一切處不明。面前有物是一。
(白日見鬼莫是眼花)
ーーーーーーーーーーーーー
◯この病は、「あらゆるものがはっきりと見えず、目の前に何かが実体としてあるかのように感じている状態」を指します。
禅の修行者が「一切のものは空である」という仏教の概念を頭で理解した結果、
目の前の現実の事物、例えば山や川、人々が本当に存在しているのかどうか、疑心暗鬼に陥ってしまう状態です 。
●括弧内の注釈
「白昼に鬼を見る、あるいは目の錯覚ではないか」という表現が示すように、
この病は観念論に囚われた結果、現実の認識が歪んでしまう一種の「知的幻覚」です 。
この状態は、知識が知恵として機能せず、かえって心の混乱を引き起こす因果関係を示しています。
現代の類比として、マインドフルネスや心理学の知識を学んだ人が、
自分の感情や思考を「あるべき状態」と「そうでない状態」に分類し、
前者にしがみつき、後者を排除しようとすることで、
かえって苦悩を深めてしまう「完璧主義」の罠と酷似しています。
雲門禅師は、知識は単なる道具に過ぎず、その道具に振り回されることの愚かさを指摘しているのです。
ーーーーーーー
透得一切法空。
隱隱地似有箇物相似。
亦是光不透脫。
(早是結胸那堪喉閉)
ーーーーーーーーー
●この病は、光不透脱の第一の病を乗り越え、真に「空」の境地を理解した後に生じる、より微細な病です。
「一切の法が空であることを透過して理解した。
しかし、心の奥底に、かすかに何かが残っているような感じがする」
という状態を指します。
これは、悟りそのものや、「悟った」という経験の痕跡に、無自覚に執着してしまう状態です 。
◯括弧内の注釈
「すでに胸が塞がっているのに、どうして喉まで詰まることに耐えられるか」
という表現は、
この病が、心の中にわずかながら残り続ける「わだかまり」や「凝り」であり、
それがさらなる精神的な閉塞感を引き起こすことを示唆しています 。
◯この病は、表面上は悟りの境地にあるように見えるため、
本人すらその病に気づくことが非常に困難です。
雲門は、悟りの痕跡にすら囚われてはならないという、極めて厳格な禅の立場を示しているのです。
これは、仏法という「薬」が、その「薬」自体によって新たな「病」を生み出すという、禅の最も重要なテーマである「薬病」を象徴しています 。
ーーーーー
又法身亦有兩般病(禍不單行)得到法身為法執不忘。
已見猶存。墮在法身邊是一。
(不唯邪祟更有家親)
ーーーーーーーーー
◯この病は、「法身の境地に到達しても、その『法』への執着を忘れず、
悟りへの見解がなお心に残っている」状態です。
修行者が普遍的な真理の境地に到達したと信じ、
そこに安住してしまうという落とし穴を指します。
自らの悟りに満足し、「もうこれでよい」と修行を止めてしまう状態です 。
●括弧内の注釈
「単なる邪悪なものの憑依だけでなく、身内の親戚(の病)でもある」という表現は、
この病が外部からの障害ではなく、自分自身の内側から生じる、
最も根深く厄介な病であることを示しています 。
禅の究極の目標は、
ある特定の状態(悟り)に「留まる」ことではなく、
いかなる境地にも囚われず、自由自在に生きる「解脱」です 。
法身への安住は、まるで黄金の檻に閉じ込められるようなもので、
真の自由を妨げます。
これは、社会的な成功や自己啓発の達成に固執し、
その後の成長や変化を拒む現代人の姿と重なります。
ーーーーーーー
直饒透得。放過即不可。
子細點檢將來。有甚麼氣息。亦是病。
(醫博未離門又早病發)
ーーーーーーーーーーーー
◯これは、雲門が指摘する四つの病の中で
【最も微細】で
【自覚しにくい病】です。
【法身の境地】や
【悟りの痕跡】すら手放し、
自分の
●【あるがままの自己】を
冷静に観察したとき、
この、
●【あるがままの自分】こそが
●【悟りだ】と、
その状態自体に、無意識に、かすかに
◯【執着してしまう状態】を指します 。
●括弧内の注釈
「医者が門を出ないうちに、またすぐに病気が再発した」という表現が示唆するように 、
この病は自己観察の行き過ぎから生まれるパラドックスです。
修行者は、「ありのままの自分を受け入れる」という教えを実践する中で、
その「ありのまま」という状態を理想化し、新たな自己像として確立してしまいます。
悟りを求める行為から解放されたにもかかわらず、
その自由な状態そのものに執着する、という最も巧妙な自我の罠にはまるのです。
これは、「自分らしさ」を過度に追求し、その結果、新しい固定観念に縛られる現代の自己肯定感の罠と深く関連しています。
雲門は、あらゆる執着、最終的には
【無執着】への【執着】すらも断ち切ることを要求しているのです。
●雲門禅師は「心の医者」
雲門禅師が提示した「四つの病」は、単なる禅の専門用語の羅列ではありません。
それは、現代人が日々の生活の中で経験する心の悩みに通じる普遍的な教えを含んでいます。
●光不透脱の第一の病
【目の前に物がある病】は、
過度な完璧主義や観念論、あるいは思考の堂々巡りに陥った状態と読み取ることができます。
現代社会は情報過多であり、私たちはしばしば、頭で理解した知識や理想的な概念と、目の前の現実とのギャップに苦しみます。
この病は、知識が人生を豊かにする知恵として機能せず、かえって心の混乱を招く危険性を警告しています。
◯また、法身の病【法身に固執する病】は、
達成への執着や自己満足に陥った状態と重ね合わせることができます。
キャリアや自己啓発において一定の成果を収めた人が、その成功体験に固執し、新たな学びや変化を拒んでしまう姿と酷似しています。
雲門は、そのような安住の地は真の安楽ではなく、むしろ成長を止める病であることを指摘しているのです。
●自由自在な生き方へ
◯雲門が説く「病を治す」とは、特定の悟りの状態を「得る」ことではありません。
それは、あらゆる執着、つまり
1●【悟った】という執着、
2●【悟りを手放した】という執着、
さらには
3●【自由である】という執着すらも手放 すことです。
◯仏教の根本原理は
【一切皆苦(いっさいかいく)】であり、
苦しみから逃れるのではなく、苦しみの本質を見つめることから出発します 。
◯雲門の【病】の指摘は、
この根本原理に深く根ざしています。
すなわち、苦しみを生み出すのは、特定の
【悟り】や
【理想的な自己】を追い求め、
それに【執着する心】そのものである、という洞察です。
悟りを目指すことが、新たな病の種となるという【薬病】の逆説は、この点を最も鋭く示しています 。
Part I: 導入と歴史的背景:千年の問いかけ
第1章: 序論:『雲門薬病』への問いかけ
千年以上前、中国唐末から五代にかけて活躍した禅僧、雲門文偃(うんもん・ぶんえん)は、弟子の問いに対し、まるで医師が病を診断するかのように、修行者の心の状態を鋭く見抜いた言葉を残した。この言葉は後に、禅の古典『碧巌録』に「雲門薬病」として収められ、今日まで禅の修行者たちに深く考察されてきた公案となっている 。
この公案が問いかけるのは、物理的な病気の比喩を通して、悟りの道に潜む最も微妙で、かつ最も根深い精神的な病である。なぜ、この千年前の問いかけが、現代の私たちが直面する精神的課題と驚くほど共通の様相を呈しているのか。本報告書は、単なる公案の解説に留まらず、その哲学的深層を解き明かし、現代社会が抱える不安や執着といった病との関連性を探ることを目的とする。
第2章: 雲門宗と『碧巌録』:公案の成立背景
「雲門薬病」の公案を理解するためには、それが生まれた文化的・歴史的背景を知ることが不可欠である。雲門宗は、青原行思から石頭希遷、そして徳山宣鑑、雪峰義存を経て、雲門文偃に至る厳格な禅の系譜に連なる 。
その宗風は「険峻高古、艱深玄奥」と評され、禅林では「雲門天子」とまで呼ばれるほど、その峻厳さが特筆される 。
雲門の教えを象徴するのが「雲門三句」と「雲門一字関」である 。
「雲門三句」は、修行者の機根に合わせて用いられた三つの教化法を指す。
●「截断衆流」: 有無を言わせず、修行者の雑念や妄想を断ち切らせる峻烈な指導を意味する。言葉や概念に執着することを徹底的に排し、真理は言葉では表現できないことを示す 。
●「随波逐浪」: 煩悩や妄想を断ち切った上で、修行者の個性に随い、大自在で闊達無碍な生き方を促す。現実を厳しく見据えた上で、計らいなくあるがままに生きる境地である 。
この公案が後世に広く知られるようになったのは、北宋代に雪竇重顕が1700則の公案から100則を選定し、これに圜悟克勤が垂示・評唱・著語を付した『碧巌録』に収録されたことによる 。『碧巌録』は、禅の修行に不可欠なテキストとなり、特に臨済宗で重用されることで、雲門文偃の言葉は時代を超えて生き続けたのである 。
第3章: 最初の病:「光不透脱」の探求
雲門文偃が説いた最初の病は、「光透脱せざれば、両般(りょうはん)の病有り」という言葉で始まる 。
ここでいう「光」とは、万物・一切衆生に本来備わっている「真如本心」や「智慧光明」を指す 。
この智慧の光が、心のありようによって遮られたり、歪んだりした状態が「光不透脱」である。
この病には、二つの病状が存在するとされる。
第一の病状は、「一切処、明らかならず、面前に物有る、是れ一」である 。
これは、真理である「空」の概念を頭で理解しすぎた結果、目の前の事物や現象が「在るのか無いのか分からなくなってしまう」状態を指す 。
禅の修行者は、あらゆるものが固定的な実体を持たない「空」であると知る 。
しかし、その知識に囚われることで、現実世界をありのままに捉えることができなくなり、「白目に鬼を見る」ような、認識の歪みをきたすのである 。
「一切の法空を透得するも、隠隠地(おんおんち)に箇の物有るに似て相似たり、是れ二」と説かれる 。
これは、空という真理を理解したと思い込むことで、空そのものを実体のあるものとして捉え、執着してしまう状態である 。
仏教において、苦しみの根本原因は「執着」にあると説かれ、空はその執着を解き放つための「心の処方箋」である 。
しかし、空を概念として捉える限り、それは新たな執着、すなわち「法執」を生み出す。
法執とは、すべての存在(法)に実体があるという見解にとらわれることである 。この「空」への執着は、仏法に定められた戒律や実践を無意味だと見なす「悪趣空」という虚無的な思想に陥る危険性を孕んでいる 。
これは、修行者が真理そのものを概念として所有しようとする、知的探求の罠であり、この段階では真の解放は成されていないと雲門は鋭く指摘している。
第二の病:「法身の病」とその根源
雲門が説いたもう一つの病は、法身の病である 。
法身とは、遍く存在する仏陀の真実の身体、あるいは真理そのものを指す 。
法身の病とは、この究極の真理にすら執着する状態である。
これは、単なる自己中心的な執着である「我執」を超越した修行者が陥る、より深遠で巧妙な罠であると解釈できる 。
仏教では、煩悩の根源は「我執」と「法執」という二つの執着にあると説かれる 。
我執は「私」という固定的な自己が実在するという思い込みであり、自己愛や自己中心性として現れる 。
一方、法執は、自己以外の物事や概念、あるいは真理や修行の成果に固定的な実体があると思い込む執着である 。
法身の病は、まさにこの法執の極致であり、修行者が得た智慧や悟りの境地といった「精神的な財産」に執着する状態を指す。
法執は、「様々な条件によって生じた仮の姿」(依他起性)である修行の成果を、「固定的な実体があるという思い込み」(遍計所執性)で見てしまう、認識の歪みから生じる 。
修行の道を進む中で、この「我見」(自己という実体への見解)が残り、「こんなに修行したんだ」「自分は悟りを得たのだ」という思いが、新たな煩悩の根源となるのである 。
これは、我執の形を変えた現れであり、古代の禅師は、現代心理学が「スピリチュアル・エゴ」と名付けた現象を、千年も前に「病」として見抜いていたのである 。
真の解放は、我執と法執、両方の断滅によってのみ可能となる 。
「光不透脱」の病状は、マインドフルネスの実践者が陥る罠と深く共鳴する。
マインドフルネスは、本来、心の状態をありのままに観察することで、執着を手放し、苦悩を和らげることを目的としている 。
しかし、特定の「すっきりした状態」や「無心」といった結果に執着すると、かえって新たなストレスや苦しみを生むことがある 。
これは、空という概念に囚われて現実をありのままに見られなくなる「光不透脱」の現代版であり、完璧な状態へのこだわりが、法執を生み出しているのである 。
https://i.imgur.com/ZxlJcLc.jpeg
https://i.imgur.com/qZgn0Kr.jpeg
現代社会に蔓延する完璧主義もまた、我執と法執の複合体と見なすことができる。
完璧主義はしばしば、「普通ができない自分はダメだ」という社会的な圧力や、失敗して「脱落する」ことへの恐怖から生じると指摘される 。
これは、自己に対する我執であり、完璧という固定的な概念への法執でもある。これに対する禅の処方箋は、結果への執着を手放し、今できることに集中するという無為の精神である 。
自分の心や身体のありのままを許容し、「自分というものが自分である時点ですでに完璧な自然存在」であることを認めることこそ、真の自由への第一歩である 。
Part III: 古代の洞察と現代の課題の架け橋
第5章: 現代心理学との共鳴:『雲門薬病』の現代的解釈
『雲門薬病』が指摘する病は、現代社会を生きる私たちの精神的な苦悩と驚くほど共通している。
それは、時代や文化を超えた人間の心の普遍的な傾向、すなわち「概念化」と「執着」が生み出す苦悩である。
法身の病と「スピリチュアル・エゴ」
禅の修行において悟りへの執着が「法身の病」を生むように、現代の自己啓発やスピリチュアルな探求もまた、新たな形の自我を生み出すことがある。
これを心理学では「スピリチュアル・エゴ」と呼ぶ 。これは、自己がスピリチュアルな概念と一体化し、自分が悟りを得た、あるいは他の人々より優れていると信じ込ませる状態である 。
この現象は、悟りへの法執が我執の新たな形として現れたものであり、修行しても「我見」が残ってしまうという、禅の教えの核心を突いている 。
『雲門薬病』の治療法:禅の智慧による処方箋
雲門文偃が提示した「良薬」とは何か。それは、論理的思考や知的執着を破壊し、言葉の背後にある真理へと直接導く「公案」そのものである 。
特に無の一字や「雲門一字関」は、理性では解決できない問いによって、修行者の思考を袋小路に追い込み、概念の壁を打ち破るための「薬」として機能する 。
また、この「薬」は、病を否定したり避けたりするのではなく、病そのものと向き合う智慧を育むことにある 。
仏教では、病気や苦しみは、私たちの「凡夫性」、すなわち不完全な人間性から生じるものだと捉える 。
病を「煩わさせてもらうもの」と捉え、自分の弱さや醜さに気づく絶好の機会として受け入れること 、これは苦悩を成長の機会へと転換する根本的な治療法である。
「今、この瞬間」に完全に生きることである。
悟りとは、過去を後悔せず、未来を憂えず、起きる出来事に心が惑わされない「夢中」の状態にほかならない 。
日々の食事や歩行、掃除といった日常の行為を、結果を求めずに集中して行うことこそが、執着を手放す具体的な実践となる 。
この生き方は、ティク・ナット・ハン師が説いた「幸せに至る道などない。
幸せであることが道なのだ」という言葉に通じる 。
それは、まだここにはない成果を目指して歩くのではなく、今の一歩一歩の中にすでに成果が現れているという境地である 。
第7章: 結論:無病の病、そして真の健康へ
『雲門薬病』の教えは、私たちの心が概念化し、執着する限り、どれだけ霊的に進歩したと信じても、新たな病に罹患し続けることを警告する。
最初の病「光不透脱」は、真理を論理で追うあまり現実を見失うことの危険性を、
第二の病「法身の病」は、修行の成果や悟りという概念そのものへの執着が、新たな苦悩を生むことを示している。
真の解放は、病や概念すらも超えた境地にある。
現代社会が抱える完璧主義、自己否定、精神的苦痛といった病に対し、『雲門薬病』の教えは、知的探求の罠、結果への執着の危険性、そして日常のありのままの行為の中にこそ真の自由があることを示唆している。
この古代の問いかけは、自己啓発やマインドフルネスの実践において、達成した状態への執着が新たなストレスを生むという現代の心理学的知見を、千年も前に見抜いていたのである。
雲門の教えが問いかけるのは、病を治すことではない。
それは、病の概念そのものから自由になることである。
雲門薬病は、生死の真っただ中で「大自在を得」、迷いと苦しみの中で「遊戯三昧」の日々を送る境地への転換を促す、永遠の処方箋なのである 。
↑ ↑ ↑
第四禅定 ニルバーナ・サマディーの成就
プラーナーヤーマの完成 (涅槃)
↓↓往く
如去
↓↓還ってくる
如来
【大乗仏教】唯識派 仏の三身・四智
https://note.com/hiruandondesu/n/n84726ab29dbd
●無形象唯識論と有形象唯識論
『原始仏典』・大乗仏典『般若経』において登場した「光り輝く心」を心の本質と認めながら、唯識派は輪廻的存在を見つめ、その根拠を追求し、阿頼耶識の転依によって真如(清浄法界)、即ち「光り輝く心」を自覚する道を明らかにしたことになります。
●【清浄法界】即ち
●【光り輝く心】=【如来蔵】は、
後期大乗仏教である密教に登場する
●【法界体性智】の原点と考えられます
●【法界体性智】の原点と考えられます
●【法界体性智】の原点と考えられます
さて、【光り輝く心】を人間存在の本質とする点において、唯識思想は『般若経』・『中観思想』・『如来蔵思想』の系譜に連なっていますが、世親(ヴァスバンドゥ)以後の唯識派における認識論的考察の発展は、新たな視点を生んでいくことになります。
所謂、有形象唯識論であり、阿頼耶識と七転識(形象)は存在し、
【純粋透明の光り輝く心】は無いことを主張しました(無著・世親の頃から三性論解釈・認識論的な面においては既に有形象唯識論的な思想の原点が見受けられます)。
●【光り輝く心】を認めない有形象唯識論において、識の転依を適用した場合、
●【大円鏡智】が【清浄法界】を兼ねるものと考えられます。
これに対して、【安慧】(スティラマティ)は、
●心は本来、【水晶のように透明なもの】であって、
その中に
●【捉えられるものと捉えるもの】という二元性がある限り、
それは
●【仮構されたもの】であるという見解をとりました。
即ち
●【無形象唯識論】を保持する立場です。
有形象唯識派は経量部と合流して経量瑜伽派となり、無形象唯識派は中観派と合流していくことになります。
ーーー
【大乗仏教】唯識派 仏の三身・四智
https://note.com/hiruandondesu/n/n84726ab29dbd
●無形象唯識論と有形象唯識論
『原始仏典』・大乗仏典『般若経』において登場した【光り輝く心】を【心の本質】と認めながら、唯識派は輪廻的存在を見つめ、その根拠を追求し、
【阿頼耶識の転依】によって
◯【真如】=【清浄法界】即ち
◯【光り輝く心】を自覚する道を明らかにしたことになります。
●【清浄法界】即ち
●【光り輝く心】=【如来蔵】は、
後期大乗仏教である【密教】に登場する
●【法界体性智】の原点と考えられます
●【法界体性智】の原点と考えられます
●【法界体性智】の原点と考えられます
さて、【光り輝く心】を人間存在の本質とする点において、唯識思想は『般若経』・『中観思想』・『如来蔵思想』の系譜に連なっていますが、世親(ヴァスバンドゥ)以後の唯識派における認識論的考察の発展は、新たな視点を生んでいくことになります。
所謂、有形象唯識論であり、阿頼耶識と七転識(形象)は存在し、
【純粋透明の光り輝く心】は無いことを主張しました(無著・世親の頃から三性論解釈・認識論的な面においては既に有形象唯識論的な思想の原点が見受けられます)。
●【光り輝く心】を認めない有形象唯識論において、識の転依を適用した場合、
●【大円鏡智】が【清浄法界】を兼ねるものと考えられます。
これに対して、【安慧】(スティラマティ)は、
●心は本来、【水晶のように透明なもの】であって、
その中に
●【捉えられるものと捉えるもの】という二元性がある限り、
それは
●【仮構されたもの】であるという見解をとりました。
即ち
●【無形象唯識論】を保持する立場です。
有形象唯識派は経量部と合流して経量瑜伽派となり、無形象唯識派は中観派と合流していくことになります。
法界体性智とは、
「依言真如」である曼荼羅本尊でしょ。
その曼荼羅本尊を鏡として凡夫の一身に三身如来が顕れて
一身即三身の本仏(真仏)が顕現するを「離言真如」と言うんでしょ。
>>【法界体性智】とは何か?
法界体性智とは、
「依言真如」である曼荼羅本尊でしょ。
その曼荼羅本尊を鏡として凡夫の一身に三身如来が顕れて
一身即三身の本仏(真仏)が顕現するを「離言真如」と言うんでしょ。
曼荼羅本尊は、仏が智慧としてあみ出した
〝無為法〟って事だよ。
ここでの無為法の意味。
※ 無為法=末法の衆生を覚りへと導く無為の法
誤爆してもうた
大儀である〜〜
🛸🛸🛸🛸🛸
大野榮人、武藤明範
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P8
●「第四禅」は、欲界の迷いを超えて、色界に生じる四段階の禅定である「四禅」のうち、最高位である第四禅をいう。
この「第四禅」は
【止と観】とが【均等の禅定】であり、悟りや神通などの智慧が得られる、
最も理想的な禅定であるとされた。
【釈尊の成仏】は、この「第四禅」であったといわれる。
● 智顗の『法界次第初門』巻上之下(『大正蔵』四六・六七一a六七二b)によれば、
◯ 第四禅では、
「不苦不楽」「捨」「 念」「 一心」という四種の心の状態が現われるという。
具体的には、
第四禅では、第三禅の楽は止み、苦も楽もない中庸の
1【不苦不楽】の心が現われ、
楽を離れて悔いることがない【捨】に至り、第三禅の捨てがたい楽にも、
第四禅の定にも執著しない
2【捨】にあり、
四禅全てを照らして観る
3【念】にあり、
明鏡・止水のような全てを写し出す
4【一心】にあるという。
● 智顗は、
『法界次第初門』巻上之下(『大正蔵』四六・六七二c六七三a)で、
◯ 四無色定を詳述する。
⑴ 「虚空処定」は、空無辺処定とも、空処定ともいう。
種々の相を念じることがやんで、
【無辺の虚空】と対応する禅定が現われる境地をいう。
⑵ 「識処定」は、識無辺処定とも、識処定ともいう。
虚空に相応すると散乱を起こす場合があるので、今度はその
【散乱する心】を【意識と相応させる】境地をいう。
⑶ 「無処有処定」は、少処定ともいう。意識作用を次第に減らしていき、意識がはたらかないようにする境地をいう。
⑷ 「非有想非無想処定」は、非想非非想処定ともいう。
◯ 想念があるのでもなく、ないのでもない境地をいう。凡夫や外道は、この非有想非無想処定を涅槃とするが、想念が全て断たれているから非有想というに過ぎず、
仏弟子は如実にその【微細な想念】を知ることができ、その無想の得失を知ることができる。
この⑴~⑷の四種類の禅定は、これといった形態をもたず、純粋に精神だけの静寂があるだけであるから「四空定」ともいう。
「無色界定」は、無色定ともいう。無色界の禅定で、空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想処定の四種(四無色定)をいう。
これは、欲界定や色界定よりも、心が静寂となり、欲や色などに対する想念がなくなっている禅定である。
三界のうち最上の領域で、欲望と物質的形態との束縛を脱して、精神のみが存在する世界をいう。
物質を厭い離れて、無念無想の禅定である四無色定を実践した者が生まれる天の世界をいう。
これには下位から、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処からなる四種の天があり、
kその最高処である非想非非想処天を有頂天という。無色有と同義である。一言で「無色界」をいえば、肉体の束縛を離れた自由な精神のみの世界をいう。
智顗は、
『法界次第初門』巻上之下(『大正蔵』四六・六七二c六七三a)で、
四無色定を詳述する。
●【1】「虚空処定」は、空無辺処定とも、空処定ともいう。
種々の相を念じることが止んで、
【無辺の虚空】と【対応する禅定】が現われる境地をいう。
●【2】【識処定】は、【識無辺処定】とも、【識処定】ともいう。
【虚空に相応】すると【散乱を起こす】場合があるので、今度はその
【散乱する心】を【意識と相応】させる境地をいう。
●【3】「無処有処定」は、【少処定】ともいう。
【意識作用を次第に減らし】ていき、
【意識がはたらかない】ようにする境地をいう。
●【4】【非有想非無想処定】は、【非想非非想処定】ともいう。
想念が有るのでもなく、無いのでもない境地をいう。
【凡夫や外道】は、この【非有想非無想処定】を【涅槃】とするが、
【想念が全て断たれている】から【非有想】というに過ぎず、
仏弟子は如実にその【微細な想念】を知ることができ、その【無想の得失】を知ることができる。
● この【1】~【4】の四種類の禅定は、これといった【形態をもたず】
【純粋に精神だけの静寂】があるだけであるから【四空定】ともいう。
「無色界定」は、無色定ともいう。無色界の禅定で、空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想処定の四種(四無色定)をいう。
これは、欲界定や色界定よりも、心が静寂となり、欲や色などに対する想念がなくなっている禅定である。
● 悟りの体験を表すエピソード
◯ 1. 香厳撃竹(きょうげんげきちく)
これはご存知の通り、香厳智閑(きょうげんちかん)が、掃き掃除中に小石が竹に当たって鳴った音を聞き、大悟したというエピソードです。
「一撃して忘所知、更不修治。
動容揚眉無別道、箇中消息即真如。」
(一撃して【知る所を忘れ】、更に修治せず。
容を動かし眉を揚ぐるに別の道なし、箇中(こちゅう)の消息即ち【真如】。)
● これは、石が竹に当たる「カチッ」という一撃の音が、長年の修行で築き上げてきた知識や分別をすべて打ち砕き、真理がそこに現れた、という様子を表しています。
この瞬間、彼は意識的に何かを「修める」必要がなくなり、日々の何気ない動作一つ一つが、そのまま悟りであるという境地に至りました。
◯ 2. 霊雲桃花(れいうんとうげ)
霊雲志勤(れいうんしごん)は、長年の修行の末、春の桃の花を見て悟りを開きました。
「三十年来尋剣客、幾廻葉落又抽枝。 自従一見桃花後、直至如今更不疑。」
(三十年来剣客を尋ぬ、幾廻か葉落ち又枝を抽(ぬ)く。
桃花を見てよりこのかた、今にいたるまで更に疑わず。)
● 彼は三十年間、「悟り」という剣を求める修行者でしたが、春になり、桃の花が美しく咲いているのをふと見た瞬間、その姿がそのまま真理であることを悟りました。
それまで「悟り」を外に求めていた自分がいかに愚かであったかを知り、以来、一切の疑いがなくなった、という体験です。
洞山良价(とうざんりょうかい)は、川を渡る際に水面に映った自分の姿を見て、悟りを開きました。
「切忌従他覓、迢迢与我疎。 我今独自去、処処得逢渠。」
(切に他より覓(もと)むるを忌(い)め、迢迢(ちょうちょう)として我と疎なり。
我今独り去り、処々に渠(かれ)に逢うことを得たり。)
● 「悟り」を師匠や経典など、自分以外のものに求め続けていたが、それは自分から遠く離れている。
しかし、水面に映る自分の姿を見た時、真理は自分自身の中にあることを悟りました。
そして、一たびそれに気づけば、行く先々のあらゆる場所で、その真理に出会うことができる、という境地を歌っています。
● これらのエピソードは、悟りとは特別な場所や時間ではなく、ごく日常的な出来事の中で、それまでの囚われが崩壊し、新しい視界が開ける瞬間として描かれています。
音、花、水面に映る姿など、ありふれたものが、悟りのきっかけとなっているのが面白い点ですね。
● 禅の悟り体験を、唯識の「見分」と「相分」の関係性という視点から考察してみましょう。
● 唯識説における見分と相分
唯識思想では、私たちの意識活動は「八識(はちしき)」という8つの層から成り立っていると考えます。その中でも、特に心の働きを説明する際に重要なのが、**「見分(けんぶん)」と「相分(そうぶん)」**です。
◯ 相分(そうぶん): 意識の中に現れる、「見られる対象」、つまり「見せかけの姿」や「イメージ」を指します。例えば、目の前に見える桃の花、耳に聞こえる音、心に浮かぶ思考などがこれにあたります。これらは客観的な実在ではなく、あくまでも心が生み出した「像」であると唯識は説きます。
◯ 見分(けんぶん): その「相分」を**「見る者」**、つまり認識する作用を指します。対象を認識し、そのイメージを心の中に映し出す心の働きそのものです。
唯識では、この見分と相分は、あくまでも心という一つの実体から生じた二つの働きであり、本来は分離したものではないと考えます。しかし、私たちはこの二つを無意識のうちに切り離し、対象(相分)を独立した実在として認識してしまいます。ここに、様々な苦悩や迷いが生じると説きます。
● 前回の桃の花や水面に映る自分の顔といった悟りの体験は、この見分と相分の分離した認識が崩壊し、本来の一体性が回復した状態と解釈することができます。
◯1. 霊雲桃花(れいうんとうげ)の考察
霊雲志勤が桃の花を見て悟ったという体験は、以下のプロセスとして考察できます。
● 修行中の状態(分別・執着):
彼は三十年間、「悟り」という**特別な相分(見られる対象)**を追い求めていました。桃の花も、単なる「春の景色」や「美しい花」という相分として認識していました。このとき、悟りを求める自分(見分)と、桃の花(相分)は、明確に分断されていました。
● 悟りの瞬間(見分と相分の合一):
ある瞬間、彼の分別心が途絶え、桃の花がただ「そこにある」という事実を、何の思考も介さずにそのまま受け止めました。このとき、花を「見る」という見分の働きと、花そのものの姿という相分が、一つに溶け合ったのです。桃の花という相分が、もはや心が生み出した「像」ではなく、そのまま真実の姿として現れた瞬間でした。彼は「悟り」という特別な対象を外に探す必要がなくなったことを悟り、一切の疑いが晴れました。
◯2. 洞山過水(とうざんかすい)の考察
洞山良价が水面に映る自分の顔を見て悟った体験も同様です。
● 修行中の状態(分別・執着):
彼は、「悟り」や「真理」といったものを、師や経典など、自分とは別の相分として外に探し求めていました。自分自身(見分)と悟り(相分)は、遠く隔たったものだと信じていました。
● 悟りの瞬間(見分と相分の合一):
川を渡り、水面に映った自分の顔という相分を見たとき、彼を照らし出しているその水面が、実は自分自身(見分)から生じていること、つまり自分自身が映し出されているという真実を直観しました。外に求めていた「渠(かれ、真理)」が、まさに**「我(われ)」自身の中**にあり、本来は分離していなかったことを悟ったのです。
● これらの体験は、**私たちが普段、見分と相分を分離して認識している「錯覚」**から解放される瞬間を示しています。悟りとは、特別な現象や対象を得ることではなく、この分離が崩壊し、見る者と見られる者が一つであることを体感する、
心の視点の転換であると言えるでしょう。
見分は相分のみを縁じ(対象とし)、自証分は見分と証自証分を縁じ、そして証自証分は自証分のみを縁じるとされます 。
この階層的な構造は、心の内部に多層的な観察システムが備わっていることを明確に示しています。
◯ 1.2. 自証分と証自証分の機能的役割
自証分と証自証分の働きは、単なる哲学的な概念に留まりません。それらは、人間が知識や経験を形成する上で不可欠な機能的役割を担っています。
自証分は、見分が捉えた相分、すなわち外界の表象を認識したという事実を証明し、その【経験】を【記憶として定着】させる【「量果」】として機能します 。
もしこの働きがなければ、私たちは過去の出来事を【憶念する】ことができず、個人の成長はおろか、人類の知識や文明そのものを継承することは不可能であると唯識は説きます 。
◯ さらに、証自証分は、その自証分という自己認識の働きそのものの存在を確証することで、認識のプロセスを完成させます 。
この自証分や証自証分の概念は、現代心理学の知見とも驚くほど共鳴します。
自分自身の思考や感情を客観的に観察する能力を指す「メタ認知」や、感情に同一化せずにその生起を観察する「マインドフルネス」の概念は、唯識四分説が約1500年前にすでに構造化していた自己認識の階層性と深く関連しています 。
唯識は、心の構造を客観的に分析することで、心の変容を可能にする実践的な道筋を示唆していると言えます。
◯2.1. 我執(がしゅう)の根源としての末那識(まなしき)
唯識思想は、人間の心の構造を八つの層(八識)に分けて説明します 。
五感に対応する前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と、それらを統合する意識(第六識)が心の表層的な働きを担う一方で、心の深層には、【我執】を生み出す【末那識】(第七識)と、全ての経験が潜在的な「種子」として蓄積される【阿頼耶識】(第八識)が存在します 。
この八識のうち、第七識である【末那識】の働きが、【我執の根源】として特に重要視されます。
末那識は常に第八識である阿頼耶識を【「私」】という【固定的な実体(我)】と誤認し、執着する働きを持つとされます
この
【思量為性】 と呼ばれる
【阿頼耶識】 を
【自己】 として
【反復的】 に
【思い描く働き】こそが
全ての
【煩悩の根源】 である
【我執】 を生み出すのです 。
さらに、煩悩には
【「我執」】の他に、物事や現象が実体として独立して存在するという思い込みである
【「法執」】があり、
これら【「二執」】が迷いの根本原因とされます 。
◯ 唯識四分説の概念と八識の構造を統合的に考察すると、自証分と証自証分が、悟りの妨げとなる我執の形成に深く関与していることが示唆されます。
自証分は自己の【認識を自覚】する機能であり、証自証分はその【自覚を確証】する働きです 。
これらの機能は、本質的には純粋な自己認識のツールです。しかし、煩悩に汚染された末那識がその機能を支配下に置く時、その性質は一変します。
末那識の【思量】作用は、自証分・証自証分が提供する【自己認識の確証】という機能を悪用します。
【これは私の認識だ】
【私はこう感じている】という
【強固な自己意識】 が、
この二つの働きによって反復的に確認され、固定化されていくのです。
◯ 証自証分が自証分の働きを「証明」するという階層的な構造は、まさにこの「私の認識」という感覚を固定化・強化する動的なメカニズムとして機能している可能性があります。
唯識は【一切は識のみ】と説き、外界に独立した実体はないと主張しますが 、この四分説は、心の内部に生じる
【見分(見る私)】と
【相分(見られるもの)】の
対立構造をさらに内包し、その上で
【自己を観察する主体】を
【階層的に生み出し】 ていきます。
この自己の階層的な認識構造そのものが、
【末那識の思量作用】と結びつくことで、【私】という
【架空の主体】の根拠を確立し、
【執着の連鎖】を
強固にしていると考えられます。
● この観点から見ると、自証分・証自証分は、我執を形成・強化する動的なメカニズムそのものとして機能しうるのです。
しかしながら、この
【自己認識の働き】は、
【我執を生成する温床】であると同時に、
その
【我執を解体する】ための鍵でもあります。
この二面性が、自証分・証自証分の本質を理解する上で極めて重要な点となります。
悟りの相互作用
● 3.1. 悟りの実践:転識得智(てんしきとくち)のプロセス
唯識思想における悟りの核心は、
【転識得智】と呼ばれる、
【迷いの識】が
【仏の智慧】へと
【根本的に転換】するプロセスにあります
これは、阿頼耶識に宿る
【煩悩】の
【種子】を
【取り除く修行】(瑜伽行)によって
可能となる変容です 。
八識は、煩悩の汚れが取り除かれることで、四つの清らかな智慧へと転じます。
以下に、八識と四智の転換対応を示します。
https://i.imgur.com/niRE3aY.jpeg
https://i.imgur.com/wbCTCIG.jpeg
このプロセスを達成するために、唯識は自証分・証自証分という自己認識の機能を、煩悩の解体のために活用する道を説くのです。
● 3.2. 自証分・証自証分による自己観察(メタ認知)の深化
唯識の修行は、煩悩の根源である
【我執】と【法執】を客観的に見つめる
【観行】に集約されます 。
この観行の実践的なフレームワークとして、四分説、特に自証分と証自証分の機能が不可欠な役割を果たします。
迷いの状態では、これらの働きは我執を強化する方向に作用しましたが、修行によってその機能自体が浄化され、我執という虚構を解体するための「智慧の刀」へと変容するのです。
例えば、怒りの感情が生じた時を考えてみましょう。
通常、私たちは「怒りの対象」(相分)に捉われ、「怒っている自分」(見分)に同一化してしまいます。
しかし、唯識の実践者は、この感情を「これも心の現れの一つ」として観察します 。
さらに、自分を客観的に観察している「怒りを観察している自分」(自証分)に気づき、そして「その観察者さえもまた一過性の心の働きに過ぎない」と確証する「その観察者さえも観察している自分」(証自証分)という、より高次の視点を確立します 。
すべてが心の働きとして相互依存的に生じている縁起の理法(依他起性)であるという深い洞察を得ます 。
このように、自証分・証自証分は、感情や思考、ひいては「私」という感覚そのものを、実体を持たない現象として客観視するためのツールとなります。
煩悩に汚染された状態では我執を強化する機能が、修行によって「浄化」され、我執という虚構を解体するための不可欠な智慧の道具へと変容するのです。
この変容により、心の安定や自他の区別の超克といった具体的な恩恵が得られるとされています 。
唯識の悟りの最終目標は、我執や法執、そしてそれらを生み出す分別的な認識を超えた「無分別智」に至ることにあります 。
四分説は、心の内部に「相分(見られるもの)」と「見分(見るもの)」という分別構造、さらに「自証分(自己を認識するもの)」という階層的な分別構造を持つため、この無分別智の境地とは一見矛盾するように思われます。
しかし、この矛盾こそが、唯識の悟りの精妙さを示しています。
修行者は、四分説という精密な分析ツールを用いて、心の現れを徹底的に解剖し、観察し続けます。
この分析を通じて、外界の対象物も、それを見る主観的な見分も、そしてその働きを自覚する自証分・証自証分も、すべてが心が生み出したものであり、実体を持たない「空(くう)」であることを深く理解します 。
この洞察が深まったとき、分別そのものがその役割を終えるのです。
自証分や証自証分という「自己を観察する主体」もまた、実体を持たない心の働きに過ぎないと見抜いた瞬間、主客の対立構造は溶解し、四分という概念的な枠組みもその役割を終えます。
この関係性は、悟りへの道程を照らす「橋」に例えることができます。四分説はその橋であり、その橋を渡り終えた悟りの境地では、もはやその橋に執着する必要がなくなります。
この時、分別的な認識は消滅するのではなく、ありのままの真実を映し出す智慧へと統合されるのです。
自証分・証自証分は、迷いから智慧への架け橋である
● 本レポートの考察から、自証分・証自証分は単純な認識概念ではなく、迷いの増幅と悟りの実現という二つの極端な役割を担う、極めて重要な動的機能であることが明らかとなりました。
煩悩に汚染された状態では、この自己認識の働きは、第七識である末那識と結びつき、「私」という架空の実体を確証し、我執を強化する動的なメカニズムとして機能します。
しかし、唯識の修行によって、この働きが「心の現れを客観的に観察する」という純粋な智慧のツールへと変容するのです。
この「メタ認知」的な機能によって、修行者は我執や法執といった虚構の認識を見抜き、分別を超えた無分別智への道を切り開くことができます。
最終的な悟りの境地では、自証分・証自証分を含む分別的な認識構造そのものがその役割を終え、
ありのままの真実を映し出す智慧へと統合されます。
したがって、自証分・証自証分は、悟りの最終段階で解消されるべき「自己」ではなく、
むしろその「自己」を徹底的に解体し、真の智慧に至るための不可欠な
「智慧の入り口」であったと結論づけることができます。
この概念の弁証法的理解は、唯識思想が単なる哲学ではなく、
自己の根本的な変容を目指す実践的な教えであることを雄弁に物語っています。
完
布教進撃
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◯ 認識論と実践論の構造分析
●1【緒言】:
◯唯識思想の認識論的・実践的構造
唯識思想は、大乗仏教の中でも特に革新的な哲学体系として位置づけられる。
その根本的な前提は、「心識のみが実在し、外の世界は心識によって生み出される」という徹底した唯心論である 。
この思想によれば、私たちが客観的で実在するものと信じている、自己の身体(有根身)や外部世界(器世間)を含む一切の現象は、心の最も深層に位置する阿頼耶識が映し出した「表象」や「虚構の世界」に過ぎない 。
これは、私たちの認識のすべてが、過去の経験やカルマが蓄積された阿頼耶識というメモリーによって形成された、主観的な解釈の産物であるという深遠な見解を示唆している 。
● 本報告は、
このような唯識思想の枠組みを詳細に分析するため、二つの主要な概念群を体系的に比較整理することを目的とする。
◯ 第一部では、認識のメカニズムを解明する「見分・相分」と「能取・所取」が、一般的な「主観・客観」や「主体・客体」といった哲学的概念とどのように異なり、心の内部で認識世界がどのように構築されるかを明らかにする。
◯ 第二部では、苦悩の根源を説明する「我執・法執」と、それがもたらす修行の障害である「煩悩障・所知障」の間の厳密な因果関係と、それぞれの機能的な役割を詳細に論じる。これらの分析を通じて、唯識が単なる机上の理論ではなく、人間の心の構造と苦悩の根源を深く探求する実用的な心理学であることを示す。
唯識の認識論
●2.1 一般哲学における「主観・客観」と「主体・客体」の概念整理
◯ 唯識の認識論を理解する上で、
まず一般的な哲学的枠組みを整理することが不可欠である。
西洋哲学などにおいて、認識は通常、認識する【主体(心)】と、
その外部に独立して存在する
【客体(世界や物体)】との
二元的な関係として捉えられる。
「主体」(subject)は認識の働き手を指し、
「客体」(object)は認識の対象を指す。
また、「主観」(subjective)は個人の内面的な経験や感情に依存する性質を意味し、
「客観」(objective)は普遍的で、誰にとっても同一である性質を意味する。
これらの概念は、【心】と【外部世界】が明確に分離していることを前提としている。
しかし、唯識思想は、この根本的な二元論そのものを徹底的に解体し、
【認識の全体】を【心の内部】に還元するという、全く異なるアプローチを取る。
唯識の認識論
●2.1 一般哲学における「主観・客観」と「主体・客体」の概念整理
◯ 唯識の認識論を理解する上で、
まず一般的な哲学的枠組みを整理することが不可欠である。
西洋哲学などにおいて、認識は通常、認識する【主体(心)】と、
その外部に独立して存在する
【客体(世界や物体)】との
二元的な関係として捉えられる。
「主体」(subject)は認識の働き手を指し、
「客体」(object)は認識の対象を指す。
また、「主観」(subjective)は個人の内面的な経験や感情に依存する性質を意味し、
「客観」(objective)は普遍的で、誰にとっても同一である性質を意味する。
これらの概念は、【心】と【外部世界】が明確に分離していることを前提としている。
しかし、唯識思想は、この根本的な二元論そのものを徹底的に解体し、
【認識の全体】を【心の内部】に還元するという、全く異なるアプローチを取る。
◯ 唯識が提唱する認識の核心は、識(心の働き)が【「見分」と「相分」】という二つの側面を持つという四分説(法相宗が説く四つの局面)の概念に集約される 。
【相分】(そうぶん)は、識が対象として【認識するもの】を指す
これは、私たちが【外の世界】と見なしているものが、実は【心の中】に映し出された像、すなわち【心の内部にある表象】に過ぎないということを意味する。
例えば、リンゴを見る際、心の中に形成される【赤くて丸いリンゴ】の像が【相分】である 。
驚くべきことに、唯識では、私たちの身体【有根身】や山、川といった外部環境(器世間)でさえも、
【阿頼耶識】が【映し出した】
【相分】であると考える 。
◯ 一方、【見分】(けんぶん)は、
その【相分】を【認識するはたらき】を指し、認識する【主観的な側面】を担う 。
リンゴの【相分】を見て「これはリンゴだ」と【判断する働き】が【見分】であり、
【自分が見ている】【理解している】という【認識の作用】そのものである 。
◯ この【見分と相分】の関係性は、従来の
【認識する心】と
【認識される外部対象】という
二元論的な図式を完全に転換させる。
唯識の立場では、【認識する主体】(見分)が【認識される対象】(相分)を
【外部に求める】のではなく
【一つの識】が【内部で自らの相分】を創出し、
その【創出されたもの】を【自己認識】しているに過ぎないのである。
この【認識の内在化】こそが、
唯識が【唯心】を標榜する所以である。
◯「見分」と「相分」の概念は、認識の作用という観点からさらに
◯「能取」と「所取」という用語によっても説明される 。
●「能取」(のうしゅ)は「把握する主体」、すなわち認識の働き手を指し、概念的に「見分」と同義である(見分(能取))
●これに対して、「所取」(しょしゅ)は「把握される対象」、すなわち認識の客体を指し、「相分」と同義である(相分(所取))。
◯ これらの用語の選択にはニュアンスの違いがある。
「見分・相分」が心の内部に現れる「すがた・かたち」としての心的表象の側面を強調するのに対し、
◯「能取・所取」は能動的な「把握」(grasping)という認識作用の側面をより強く示している 。
これは、唯識の認識論が単なる静的な表象の理論ではなく、心による能動的な作用を重視していることを示唆する。
また、唯識学派は、単一の識の内部構造だけでなく、
【より上位の識の見分】が、
【下位の識の相分を見る】という
階層的な自己認識システムが存在することも説いている 。
この階層性は、唯識が単純な認識論を超え、八識全体にわたる複雑な深層心理学としての側面を持つことを裏付けている。
◯ 唯識思想は、
従来の認識論における
「主観・客観」や「主体・客体」といった概念を心の内部に転化させることで、その枠組みを完全に再定義した。
認識の全体を【心識の内部に集約】し、
【見分と相分】、【能取と所取】という二つの側面によって説明することで、
【外界に独立】した【実体の存在を否定】するのである。
この点において、唯識は認識の根源を徹底的に探求する、極めて厳密な哲学体系であると言える。
以下に、唯識の認識論における主要な概念群の比較を整理する。
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【二執】と【二障】の因果関係
◯ 3.1 煩悩の根本原因:
「二執」【我執と法執】の概念
唯識は、私たちが経験するあらゆる苦悩や煩悩の根本原因を、二つの主要な執着に集約して説明する。
これらは「二執(にしゅう)」と呼ばれ、それぞれ【「我執」と「法執」】である 。
【我執】(がしゅう)は、
「私」という固定的な、
【永遠不変の自己】(アートマン)が実在するという誤った思い込み、およびその自我に対する執着を指す 。
この執着は、「私はどう思われているだろうか」といった自己中心的な思考や、自己の立場を守ろうとする行動の根源となる 。
一方、【法執】(ほうしゅう)は、
物事や現象が独立した、不変の実体として存在するという、
より【根源的な知的・認識的な執着】を指す 。
この執着は、目の前のリンゴやテーブルが、それ自体として固定した本質を持つと見なす考え方である。
◯ この二つの執着は、私たちの経験する世界が、本来は様々な条件によって一時的に生じている【依他起性】の姿であるにもかかわらず、
固定的な実体があるという【遍計所執性】という【妄想】によって見られていることを示している 。
「二障」【煩悩障と所知障】
◯ これらの【二執】は、
修行の道を妨げる二つの主要な障害、
【二障(にしょう)】を引き起こす 。
◯【煩悩障】(ぼんのうしょう)は、貪り、怒り、愚かさ(貪・瞋・癡)といった、感情的な煩悩が信心や仏道修行を妨げる障害を指す
この障害は、個人的な苦や感情的な混乱を生み出し、解脱(涅槃)を妨げる 。
◯【所知障】(しょちしょう)は、真実の智慧、すなわち一切の現象をありのままに知る仏陀の智慧(一切智)を妨げる知的・認識的な障害である
これは、二乗の修行者(声聞・縁覚)でさえ断ち切ることが困難な、より微細で根源的な迷いであるとされている 。
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12777008588.html
◯ 我執と法執、煩悩障と所知障について
唯識思想の深い洞察は、
この「二執」と「二障」の間に明確な因果関係があることを解明した点にある 。
具体的には、煩悩障は我執に起因し、所知障は法執に起因する 。
この関係性を理解するため、インドで伝わる「暗闇で切り株を人間に見間違う」という寓話がよく用いられる
この寓話には、両者の機能的役割が明確に示されている。
◯ 所知障の側面:
切り株が切り株であるという真実を知らないこと。
これは、対象の真の本質に対する根本的な「無知」(無明)という知的な障害である
◯ 煩悩障の側面:
切り株を人間と誤認した結果、恐怖を感じるという感情的な煩悩。
これは、根本的な認識の誤り(所知障)がもたらす具体的な感情的反応である 。
●この寓話から、所知障が根本的な認識の誤りであり、その誤りから感情的な混乱や苦悩という煩悩障が生じることが明確に理解できる。
所知障が原因であり、煩悩障はその結果として現れるのである。
所知障が根本的な認識の誤りであり、
その誤りから感情的な混乱や苦悩という煩悩障が生じることが明確に理解できる。
所知障が原因であり、煩悩障はその結果として現れるのである。
◯ さらに唯識では、
【二執】の間にも階層的な因果関係があることを指摘している。
すなわち、【法執は我執の根源である】という見解である 。
この論理は、すべての現象が独立した実体として存在するという思い込み【法執】がなければ、
【私】という独立した実体があるという思い込み【我執】は生じ得ないという深い洞察に基づいている 。
人間は、自己を
五蘊(物質、感受、表象、意志、識)の仮の集まりと見るべきところを、
個々の法(要素)に実体があるという誤解を抱くことから、
その集まりである「私」にも実体があると錯覚するのである。
このため、唯識の修行は、
表面的な煩悩【煩悩障】を断つだけでなく、
その根源にある世界観そのもの
【法執】を【転換する】ことを目指す、より根本的なものである。
この因果関係とそれぞれの目的を以下に整理する。
● 現代に生きる唯識の智慧
◯ 本報告は、
唯識思想における二つの主要な概念群、すなわち認識論的構造と苦悩の根源としての心理的構造を詳細に分析した。
まず、唯識が説く
【心識のみが実在する】という根本前提のもと、
【認識の全体】が【心の内部にある】
【見分・相分】や【能取・所取】という
二つの側面によって構成されることを示した。
この認識論は、一般的な
【主観・客観】や【主体・客体】といった概念が前提とする
【外部世界との分離】を否定する、画期的な思想である。
◯ 次に、煩悩の根源である
【我執】と【法執】が、
それぞれ修行の障害である
【煩悩障】と【所知障】を
直接的に引き起こす因果関係を解明した。
【法執】という、すべての存在に
【実体がある】という根源的な
【認識の誤り】が、
【自己に実体がある】という
【我執】を生み、その結果、
感情的な苦悩と知的無知という二重の障害が私たちの解脱と悟りを妨げているのである。
https://i.imgur.com/yxFC2ii.jpeg
https://i.imgur.com/ZgEFMWw.jpeg
単なる哲学的な思弁ではなく、
【瞑想の実践者たち】から生まれた
【実用的な知恵】であり、
その教えは現代においても大きな示唆を与える。
【我執や法執】の概念は、
現代心理学の自己認識論における
【自己同一性への固着】や、
【認知療法】における
【認知の歪み】と
多くの共通点を持っている 。
唯識は、一時的な失敗を「私は失敗する人間だ」と固定的に捉える(遍計所執性)心の働きに気づき、それを一時的な条件から生じたもの(依他起性)として理解するよう促す 。
この視点の転換は、苦悩から解放されるための根本的な解決策となりうる。
唯識の智慧は、心の働きを深く理解し、それによって生み出される現実をありのままに見るための道筋を示している。
それは、単に個人の苦から解放されるだけでなく、すべての現象の本質をありのままに知る普遍的な智慧の獲得、すなわち、感情的な煩悩(煩悩障)と根源的な知的無知(所知障)の両方を断ち切ることを目指す、
壮大な実践体系なのである。
完 by jemini
🛸🛸🛸🛸🛸
『従容録』は、悟りを求める心さえも放下する「黙照禅」の立場を基盤としています。
これは単なる文献上の分類に留まらず、禅の修行法における根本的な対立と補完関係を象徴しています。
つまり、公案という同じ道具を用いながらも、その目的と使い方は教えの系統によって大きく異なるということです。
悟りを「達成すべき目標」と捉えるか、あるいは「本来具わっている状態」と捉えるかという、
二つの禅宗の根本思想が、これらの文献の構造と解釈に深く影響を与えているのです。
>離二取相故 二取の相を離れぬるが故に。(28:4)
>捨二麁重故 二の麁重を捨しつるが故に、(29:3)
云うんですけどね。
これを
28:4を通達位、或いは見道と云い禅宗でいうところの見性に該当するわけです。
すなわち、二取(見分・相分)の相を離れ、初めて無分別智惠が発現するのですが、臨済禅でいう公案(理致)もそれと対応して点検するものと云えるでしょう。
また、29:3を修道位といい、二つ(我知障、所知障)の麁重を捨てる、すなわち我見・法見からの厭離を云うのですが、これは悟りのその先を視座に置いた向上の公案が対応して点検するものと云えるでしょう。
それ故に、本当に見性したのであれば、理致の公案が解けないとおかしいのです。
もっともその見性体験を言語化したり表現するのに一工夫いるのですけども。
>捨二麁重故 二の麁重を捨しつるが故に、(29:3)
>(『唯識三十頌』)
● 空性なる縁起 大乗 ●
一般に「縁起説」というと、大乗仏教で説くようになった「空」の説明原理ね。
これは相互依存関係のことです。
◯ ブッダの十二縁起 意識の発生と、その転変
しかし、ブッダの縁起説とは十二縁起です。
これは涅槃から離れ、無常世界に突入する意識の変化を12のプロセスで説明したものであり、大乗の相互依存関係とは全くの没交渉です。
下に見られるように、大乗の縁起説とブッダの十二縁起は別個の代物なのね。
けれど阿含経やパーリを読むとブッダの十二縁起は説かれていますが、相互依存関係を言う大乗の縁起説は一切でてきません。
従ってこの様に阿含経を読む方は非常に混乱を生じます。
それは、ブッダの十二縁起から、相互依存関係を説く大乗の縁起説が出てきたのだと考えがちですが、
この両者の説は全く無関係なので、
それは例えば有村架純さんとわたしを同一人物と思い込むようなものなのです。それくらい異なります。
「縁起説」という名称は同じだけど、お釈迦様と大乗のスタンスは別のものなのね。
お釈迦様は相互依存関係など説いていませんが、なのに「お釈迦様は相互依存関係という空性を悟られてブッダとなった」
と日本人はみな誤解しているの。
そうすると、この両者は全く脈絡がありませんから、阿含経の縁起に関する経典群を見れば
「どうしてここから(大乗仏教の)空思想が出てくるのだろう?難しい」となるんです。
実体が無いということを「空」と大乗は言いますが、
お釈迦様はそんな話はされません。
お釈迦様と大乗は「空」におけるスタンスが異なります
一応、お釈迦様も「空」という言葉をお使いになりますが、
大乗の
それとは全く違い「無い、虚しい、空疎」という意味で語ります。
● ホワイト・ターラー 目からウロコの仏教ブログ
みんなが犯す間違い十二縁起と「空性」 縁起説について
https://ameblo.jp/kazama1980/entry-12930501016.html
● みんなが犯す間違い十二縁起と「空性」 縁起説について
●大乗の縁起説
プリンか卵焼きか
◯ プリンは卵、お砂糖、乳、これらの適合量と、何度の熱を何分加熱する。という縁。
これらの相互依存関係によって成り立つのだと。
(こんなおかずでご飯が食べられるか!)
しかし、もし。
それらの分量や熱の加え方による違いが起こった場合、甘い卵焼きとなることも有ると。
同じ素材でこうも違いが生じる
と(飯でもビールで持ってこーい!)
●薪か木の机か
も一つ。
木の机が有ったと。
これは木を加工し、天板、4本の足によって成り立つのだと。
それらが適宜、異なる長さ、それぞれの面積に加工され、組合わさり、人が使用目的に叶うよう組み合わされたものであり、しかし、破壊し、暖を取るため燃やしてしまえば薪と呼ぶ事になります。
さて、ここで人が互いに意思疎通する場合、
何か名をつけておかないと「卵と乳とお砂糖を熱したもの」と言っても正確に意思伝達が出来ない場合があり、
とても不便なため、仮に「プリン」と呼ぼうと決めます。
しかし、よその土地や時代によっては「ターラー」と呼ぶかも知れません。
逆にわたしを「プリン」と呼ぼうが、本質が変化する事はありません。
故に名は単に「記号」であると理解されます。
従って、絶対の意味で「プリン」や「木の机」は存在せず、一時的な利便性によって、または意思疎通のために名を付けただけであり、実在するものではないと。
● これを「空性」と呼びます。
これが大乗の言う「空性」あるいは縁起性ね。
◯相互依存関係の下に成立すると。
大乗の「空」は実体が無いということを論証したに過ぎません。
つまり、解脱に役立つことはありません。
これは一種の哲学であり、お釈迦様の言う真理ではありません。
いいかな?これはさ、語れば誰でも納得はするけれど、煩悩消滅する
理論じゃないのね。
だから、大乗では「出家しなくとも、空を悟ればOK」というわけね
で、ご丁寧にこれを般若だとか智慧とか間違ったことを言っています。
充電しているのだな?
🛸🛸🛸🛸
● ホワイト・ターラー 目からウロコの仏教ブログ
如実精通 輪廻の真実がありのままに見えたブッダ
https://ameblo.jp/kazama1980/entry-12931932464.html
>>303,304
呼吸が止まったら生きてないやんけーw
ーーー
ハジよ
真面目に受け止めるのだ!
禅定中だけだから死なないのだ
憶えておくんだよ
自分の禅定が深くなったころに
さあーどうだー‼️と
慢心が頭をもたげる時節が来たなら
呼吸の停止は?、施行妄想が消えても、映像は?どうなんだ? と
思い出すのだ
眼前は純白か?どうなのか⁉️ と
問い掛けてみるが良い
自分にな
先にはまた先がある
当然、無心の先も幾つも先がある
しかし
見性など気にしてては、完全な悟りへはたどりつけませーーーん!
見性は何回も体験した先に悟りはあるからからだ
撃竹のような悟り体験も何回も起こるだろうし
さて、日常にあって、無努力において、かつ完全に覚醒されて、無思考、無妄想が、1日中何日も、何週間も、何ヵ月も、1年2年経っても続くようなら、それが当面のプレ・悟りとなるが、まだだ
1~2年で、本心が成長して、面目からそれが躍り出て!
I AM‼️ 私は在る‼️ 我 在り‼️ と
無言の宣言を発するだろう
そしたら
一丁上がりだろう、そして
輝くような日常へ戻り、生きることの喜びと幸せを堪能するが良い、君は覚ったのだ
無目的の自由
だが、いつか、再び
次の探求が始まるのだ!
束の間の休日のように・・・
□獅子吼経□(救世主宣言)の解説再開します ブッダの条件「10の能力」
https://ameblo.jp/kazama1980/entry-12933311182.html
by ホワイト・ターラー
坐禅だけやってたら
たぶん
ハジレベルの内容では
悟るのは
今生は無理だろな~😙
何故なら?
悟りシステムの初期修行段階を
すっ飛ばすのが
坐禅だからだ
その欠けている行を
補ってから坐禅はするものだ
八正道の最後にある
てーのも
分かってるの⁉️
何故最後かってことだ
釈尊は
サンガーに入った初心者の弟子には
坐禅などさせなかったんだよ
これはパーーリーー経典にあるって
ホワイト・ターラーさんがblogに書いてた
最後の最後に許す
禅定を
初期段階で
やーっても!
結果なんかでるわきゃーーー‼️
無いのだ!
こんなこと
バカボン(バギャヴァン=尊者)のパパでも
判ることだ‼️
すべての生命体は独自の内的秩序を持っています。
粗大体、微細体、アストラル体の働きはそれぞれ異なります。
ジーヴァの内的形態とは別に、ブラフマンは体の様々な部位やピンダの形で観察することができます。
究極的には、ブラフマンは宇宙を超えて広がりますが、その究極の姿においては主は一つです。
世界には木々が生い茂る森がたくさんありますが、すべての木々をまとめて森と呼ぶこともできます。同様に、ブラフマンは一つですが、異なる形で見られます。
イシュヴァラ、パラマートマ、形のないブラフマン、純粋意識、至高の魂など、
私たちは主を様々な形で知っています。
しかし、サマーディで魂の悟りを得ると、それらはすべて一つであり、同じであると感じます。
パラマートマは多くの名前で知られていますが、カーストを持たず、空のように遍在します。
まさに神です。
このように、ジーヴァ自身は神にはなり得ません。
ジーヴァは神のようになり、神のようになることはできます。人はブラフマー・ローカの無限の叡智、信仰、繁栄、そして無執着の特質を享受し、活用することで、人間界の束縛から解放されることができます。
この解放の道を歩むには、ジーヴァは誓いを立てなければなりません。
サマーディを得ることです‼️
サマーディの状態は、究極の精神修行です。
いかなる活動にも執着せず、いかなる性質にも影響されないサマーディは、チッタの直接的な作用です。
もしあなたが自分の内なる旅を、同様の放棄と無執着の状態へと変容させることができれば、それは「サマーディ」と呼ばれるでしょう。
ー マハヨギ パイロット ババジ
https://i.imgur.com/2opBBKf.jpeg
って言うと
眼を見開いて
外界を見てるでしょ
その時
意識は何処にあって何処から見ているのか?
普通は頭から見ているだろ?
それを
喉のチャクラ、ビシュダーに意識に中心を持ってきて、喉から世界外界を見るって言うか
眼と頭は通過するだけで、喉の意識に映っているかのように、見ているかのように
って感じで見る‼️
喉は空(くう)のチャクラなので、ここから見ると、外界世界が空になって見えています。
喉からの見るが、空になると
自動的に、胸のチャクラ=ハート♥️の在るの意識へ入ります
これが本心、ほんとうの自己、p
≫394,396
リアルと妄想を分けるものは何なのか、誰なのかw
もの(対象)との接触がなく、ひとつなら、どうしてそれを自他に分けて見えるのか、何が分けるのか、誰なのかw
この辺の話題が完璧に理解できて、なおかつ説明できるなら、無敵になれそうw
ーーー
それはな、おれが思うには
ハジならハジの
自分の心と身体は別だ!という思い込みせいではないのかな?
小空経だったかにあるように、
外界と内界に別れるのは
心というものが内界で、肉体身が外界で
自己の肉体も、他己の肉体も同じく外界であるが
自己の心(思考・感情・妄想)は頭の内部に於いて活動していて
他己の心は、他己の頭の内部にあるので、ここに自他の別があるとなる
これは
見る者が内部で、見られる物が外部ということでもある
なので
自己の心に、思考・感情・妄想が消えて無くなってるいる時には
自己の心が消えたようになるのであって
内側の思考・感情・妄想が無いときとは
つまり、識に思考・感情・妄想が映っていないことであり
その時には、外部世界のみが、識に映っているということが生じているのであるから
ここに於いて、識という、思考・感情・妄想を映していたが故に、内部に縛られていた識は
実は、外界をも映していたのであると
それは
自己の識が、内部から外部へ解放された瞬間なのである!これが第四禅定であり、正しい禅定→正定なのであるよ
外界のものが識に映ることは
外界へ広がり見る識と外界のものが一如であって
別ではないのだ‼️
ということが、体験として経験されるのであって
故に
自己の身心と、他己の身心の別を見ず
その思い込みが脱落するのである
五蘊を十八界という形で説明する方法もあるが、説一切有部では、五蘊を全く違う形で、非常に細かく組み替えて説明する。それが五位七十五法である。まず大きく無為法と有為法の二つに分ける。
無為法:生滅変化を超えた常住絶対なもの
有為法:原因・条件によって生滅する事物
◾無為法(時空・非五蘊)◾
虚空無為
物の存在する場としての空間を指す。虚空とは、あらゆる物体や存在の基盤となる空間のことで、変化や条件に依存せず、恒常的であるとされる。
択滅無為
智慧によって煩悩を消滅させる状態を指す。智慧を通じて煩悩(心を乱す負の感情や欲望)を選択的に消し去ることによって得られる安定した状態である。
非択滅無為
智慧によらずに煩悩が自然に消滅する状態を指す。特別な努力や修行なしに煩悩が消えることを意味し、自然発生的な心の清浄化が強調される。
https://youtu.be/x3aAwQ7FmCY?si=D70NEefeMxpVFAKd
万事を休息して
善悪を思わず
是非を管(カン)すること莫(ナカ)れ。
心(シン)意識の運転を停(ヤ)め
念想(ネンソウ)観の測量(シキリョウ)を止(や)め
作仏(サブツ)を図(ハカ)ること莫れ!