パーリーの今期周回のまとめ【2】アーカイブ最終更新 2025/07/29 15:541.パーリーwkpXaわたくしパーリーの今世における経験と智慧来世に向けての準備をツラツラと書くスレです備忘録ではありますが質問は受け付けます2025/03/26 20:06:041000すべて|最新の50件953.パーリー◆HpIafZZzjh.GDYSFF初期仏教パーリー経典とクリヤヨガ(ヨガナンダ著書)によれば無心の段階の一つの目安として禅定、瞑想、どちらも呼吸の停止(継続的)をもって成就の目安としているパーリー経典の相応部2の中の、第4禅定相応文には【吸気と呼気が失われる】とありヨガナンダの【あるヨギの自叙伝】の中に【クリヤヨガの科学】という章がありそこに【プラーナーヤーマは、呼吸の停止をもって完成とする】とあるそれにはナディー(気道)の完全な浄化が求められる2025/07/20 10:10:58954.パーリー◆HpIafZZzjh.GDYSFFこのような坐禅、禅定、瞑想、を毎日修し無心=呼吸の停止(思考・妄想の停止)を繰り返していくと瞑想時だけでなく、平時においても無心が現れてきて遂には、自己の本心を悟るわけです2025/07/20 10:16:38955.パーリー◆HpIafZZzjh.GDYSFFこの呼吸の停止はサマディーの入口段階であってその先には心臓の停止、脳波の停止、という死の状態を経て、微細身でサマディーに至るとされています2025/07/20 10:20:11956.神も仏も名無しさんbDvxZロン閣下も去って寂しい📶だな?👽2025/07/20 10:23:37957.パーリー◆HpIafZZzjh.GDYSFFなお呼吸と思考・妄想の相互関係性はヨガやテラワダや禅界隈では良くしられているところですね2025/07/20 10:24:36958.パーリー◆HpIafZZzjh.GDYSFF悟り、とは一つの段階(本心)に上がった時の自己が【心=マインド=仮我】から、本心へ入れ変わった時のことを表す言葉なの‼️この段階はこれはこれで、安定していて、決して失われない状態なのです2025/07/20 10:55:45959.パーリー◆HpIafZZzjh.GDYSFFもう1つ悟りに至ると夢を一切見なくなりますそれは眠りの中でも覚醒があるという証左になっています‼️2025/07/20 10:59:44960.神も仏も名無しさんeO6ehまたまた幽体離脱で思い出したけど、田中角栄を総理の座から引きずり下ろした男の、立花隆さんがその昔「宇宙からの帰還」という本をだしてて。アメリカの宇宙飛行士のインタビュードキュメントで、宇宙に行った人間の精神が変容するか? というわりと独自な切り口の目線で、知ってる人は知ってるかな?んでちょっとだけこの本を出版したオカルト実績があるんで、NHKとつるんだアルバイトのやっつけ仕事なんかね?「臨死体験」というテレビ企画があったんよ。2-3週連続でやってて、でもわたしはもともと幽霊話のマニアなんで、なんか聞いたようなツマらん話ばっかだなー、という。しばらく忘れてたら、町内公民館の図書室がわりと宗教本が多くて、そこにかなり分厚い「臨死体験、上・下」の2冊があって借りてみると、立花さんの取材メモの余りを、捨てずにNHK出版が本にまとめてる。でもやっぱ立花さんは幽霊オカルト業界ではシロートに過ぎないんで、本の分厚さにくらべて超薄っぺらな内容だけど、やっぱネームバリューってカネになるんかねー、とそのとき思いましたが。2025/07/21 09:12:08961.神も仏も名無しさんeO6eh>>960三途の川や閻魔大王、などなどそんな話題をいまさらやってもねー、といいつつ、スウエーデン人で臨死体験者のおばちゃんの話があって、身内や知り合いのとこに飛んで行って、話しかけても相手にしてくれなくて、そのうち海岸にやってくると、岩場の上にあご髭を生やして、白い着物の見るからに神様らしき人がいるんで、思わず、わたしたちは何故、こんなに苦しまなくてはいけないの?と聞くと、神様は黙って波打ち際を指さして、そこには波にごろごろ洗われる小石が見えて、じつはそれが人の魂なんだってさ。ほー、この世は魂を修行するための場所というありふれた話みたいで、なんかつまらんなー、と思ってたら彼女がとつぜんに、「あの世時間」 というのがあるんです。こっからが本題だけど前フリが長すぎるよな、といいつつ、この世の時間は過去から未来への一直線で、過去も未来も行けないけど、 「あの世時間」は時間は流れて世界は動いているけれど、時間の流れの過去未来どこでもアクセスできて、そこにあるのは「今このとき」 という感覚しかないんだそうな。そんでこれ幽体離脱の人は心当たりありますか? という質問で、日蓮法華宗には久遠があって、はるか昔という意味だけど、久遠の辞書引きにはもう一つ、久遠 = 永遠、という用例があるんだな、まあ禅宗だったら即今でしょうけどね。2025/07/21 09:32:53962.パーリー◆HpIafZZzjh.G2klbRイメージでも良いから自分の過去と未来が一本の線上に連なってることを映像的に思うと1つの1本の道に見えるよねその現在に一点に在るって感じ2025/07/21 14:07:04963.パーリー◆HpIafZZzjh.G9Mmlnhttps://blog.tokozenji.net/blog-entry-1942.html心が静かになると 音が聞こえなくなる? その1坐禅して、何も聞こえないというわけではありません。白山の小池老師は90歳くらいまで毎朝2時間も坐禅をしていましたが、終わると今日は鳥が鳴いていた、ウグイスがきていた、鳥がやかましかったとよく言われていた。はじめは老師は無心になっていないのかな、などと思ったものですが、ありのままに聞こえるのです。逆に心になにかひっかかることでもあると、何も聞こえなかったりします。思い悩んで道を歩いていては、まわりの景色もなにも目に入ってきません。● 円覚寺派管長 横田南嶺老師の著書「祈りの延命十句観音経」の言葉です。以前、興味深い実験結果を聞いたことを思い出しました。坐禅を科学的に検証する実験です。◯ その実験は、私のような未熟な僧侶と坐禅を極めた老師【ろうし】と呼ばれる僧侶に脳波を調べる機械をつけて坐禅をしてもらったそうです。そして、坐禅中に一定の間隔で鐘の音を鳴らします。すると◯ 未熟な僧侶は坐禅をしていると鐘の音に初めは反応しているものの【段々に鐘の音に脳が反応しなくなった】そうです。しかし◯ 老師はいつまでも脳が初めて鐘の音を聞いたときと【同じように反応し続けた】そうです。鳥の声が聞こえること、鐘の音に反応し続けることを「ありのままに見る」と言うのだと思います。東光寺で現在「子供坐禅会」を開催していますが、私は坐禅中に雨が降てくれば気がつきますが、いつの間にか雨が降っていること、雨の音が聞こえなくなっています。・・・未熟者の代表として、これからも坐禅を続けていかなければならないと感じる毎日です。2025/07/22 12:22:52964.パーリー◆HpIafZZzjh.G9Mmln◯ 老師はいつまでも脳が初めて鐘の音を聞いたときと【同じように反応し続けた】そうです。鳥の声が聞こえること、鐘の音に反応し続けることを「ありのままに見る」と言うのだと思います。ーーーこれが九次第禅定の第二~第四禅定の様子だと思われます坐禅をしていくと、毎回この状態に直ぐに(15分以内に)入禅定可能になる訳ですこれらは2,500年前に、釈尊の弟子の林住者が、行っていた九次第禅定と全く同じということです。2025/07/22 12:23:24965.パーリー◆HpIafZZzjh.GcQl7vhttps://www.facebook.com/share/r/19mRr77Uz4/原口議員が言うゆうこく連合って初めて聞いたわ原口さんが立憲に居続ける理由を言ってるね2025/07/22 16:26:38966.パーリー◆HpIafZZzjh.GRD5Xxhttps://tgiw.info/weblog/2019/08/bodhidharma.html洞松寺住職ブログ達磨さまの創作話https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/historyofzen.html1.1 禅の起源禅はパーリ語(インド初期仏教経典の用語)のdhyana に由来する。dhyanaは静かに考えるという意味である。その【俗語形jhana】が西北インドで【jhan】と発音されていたのを【漢字で禅と表記した】ものである。心の働きを集中して動揺させないことで静慮とも訳される。2025/07/23 14:41:08967.パーリー◆HpIafZZzjh.GYl8xW心と身は一体一如身体は5つの感覚をもって感じる眼を開ければ 身体で眼を閉じれば 心ですその2つは、実は一体であります識はその2つを超えてある肉体を超えるとエーテル体(気)に入る識体はそれを感じます2025/07/25 07:54:34968.パーリー◆HpIafZZzjh.GYl8xWhttps://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/historyofzen.html1世紀頃成立したと考えられているヒンズー教の聖典「ヴァガヴァッド・ギーター」に古代インドのヨーガ(瑜伽)の修行が次ぎのように述べられている。1.1「実修者は人里離れた場所にあって、ただひとり心身を抑制し、期待を抱かず、所有物を捨て、常に自己を修練すべきである。浄らかな場所で、自分のために、クシャ草、鹿皮、布を順次に敷き重ねた、高くも低くもない、しっかりした座をしつらえ、その座に坐って、意を一点に集中し、心と感覚器官の働きを抑制し、自己(個我)を清浄にするために、実修を行え。身体、頭、首を真っ直ぐに、不動に保ち、自分の鼻の先端を凝視して、他の方角に眼をやらず、心を安らかにし、恐怖心を去り、梵行(禁欲)の戒を守り、意を抑制し、わたしを思念し、わたしに専念して、実修を修めて坐らねばならない。このように、絶えず自己(心)の実修を行い、意を統御する実修者は涅槃を極致として、わたしの中にある寂静に到達する。2025/07/25 08:00:47969.パーリー◆HpIafZZzjh.GYl8xW心と身は一体一如身体は5つの感覚をもって感じる眼を開ければ 身体で眼を閉じれば 心ですその2つは、実は一体であります識はその2つを超えてある肉体を超えるとエーテル体(気)に入る識体はそれを超えて【超脱し】ある2025/07/25 08:13:24970.神も仏も名無しさんBLbj0>>963この老師さんは脳の一部だけを覚醒させつづけてるん、外見は深い瞑想状態で、脳はだいたい休止してるんだけど。でも何回やっても鐘の音に反応するんであれば、それは鐘の音に反応するセンサー部分だけを覚醒させて、しかもその状態を長い時間維持するためには、「その状態」を意識しつづけなきゃいかんから、覚醒 ⇔ 無意識、 の間のビミョーな段階の特定ポイントに、意識をフォーカスしながら居座りつづけている、ある種の意識コントロール芸人とでもいったら…。逆に鐘の音に反応しなくなった僧侶は、寝落ちだな。2025/07/26 09:33:28971.神も仏も名無しさんBLbj0>>970臨済さんはあるとき法堂で座禅をしてるんだけど、そのうちこっくりこっくりと居眠りをはじめてしまい。しばらくすると師匠の黄檗が杖をコツコツと付きながら、法堂に入ってきますが、中国の昔の老人は家の中で杖をついてもよいルールで、臨済の前まで来て、正面から見下ろすように立つと、杖を1回コツンと床につきます。すると臨済は、ぼんやりと目を開けて、師匠の顔を見上げますが、またそのまま居眠りを始めてしまいました。すると黄檗は杖をまたコツンとついて、こんどは上座のほうできちんとした座禅をしている首座のところへコツコツと歩いて行き、また首座の前に立って、杖をつくと文句を言います。下座の方で若い者 (臨済) がきちんと座禅をしているのに、首座のお前はここでいったいなにを妄想しているのだ?というと、首座は目を開けて黄檗の顔を見上げ、このボケたお爺さんは、いったい何を言ってるのだろう?そういうとまた座禅の瞑想にもどってしまいますが、それを見た黄檗は、またコツンと杖をついて、法堂の出口に向かって行き、そこにある木版をカン!と叩いて、そのまま出て行ってしまいました…。※※これが中国臨済宗系の、統一された共通の見解じゃないかね、まあ日本の禅宗はわけわかめのデタラメになってますが。2025/07/26 09:51:35972.神も仏も名無しさんBLbj0>>971わかりづらいから、ちょっと仕分けしとくかね。(A. ほとけを暗示している比喩表現…。)〇 臨済さんが居眠りをする。〇 杖で床をコツコツつく音。〇 師匠の黄檗を見ても、なんかわからない。〇 首座のいう、ボケたお爺さん。〇 黄檗の言葉の意味がなんだかわからない首座。〇 木版を叩く、カンッ! という音。(B. ほとけとは反対の妄想 = 俗物な状態。)〇 地位の高い首座が、法堂の上座できちんと座禅するすがた。※※かなり内容がてんこ盛りで、一つ一つが禅話で成立ちそうなネタで、激安スーパーみたいな、大サービスしてますけど、きちんと座禅する首座がダメで、居眠りしてるやつが、正解らしいですよ。2025/07/26 10:08:05973.神も仏も名無しさんw0DX2必死チェッカーもどき 心と宗教2017年03月28日使用した名前一覧でおー 分身っ💕モンキー餓臭国大統領、ドナルド・ぼたんぷ。神も仏も名無しさんヒッキー公案「有位の痴人毎日垂れ流しているのを、みない、みない」ヒッキー様の竜頭蛇尾wヒッキー様の自慢の無字の境地w魔境落ちしていないヒッキー様の証ジャンキー大山の恐怖の時間準備完了w鬼和尚の真実、本性はwぼったんがかつて味わった恐怖wデスヒッキー発射準備wジャンキー大山の哀れなる情報判断システムヒッキーサル山祭りの始まりだw偉大なる鬼和尚の境地w偉大なる鬼和尚の悟りの境地修正wジャンキー大山の哀れなる情報判断システムヒッキーサル山の永遠ループ思考回路w2025/07/26 21:40:57974.神も仏も名無しさんWbNHt>>972あんまり、パットしないなー師匠にそれやられたなー😀2025/07/26 21:49:53975.神も仏も名無しさんWbNHtヒントほうではなく今読んでなるほどーなと😀ま、変なのが、ガンバっているよーだがガンバってるんだなーくらい😀2025/07/26 21:52:35976.神も仏も名無しさんWbNHt>(A. ほとけを暗示している比喩表現…。)>(B. ほとけとは反対の妄想 = 俗物な状態。)不味いカップ麺食わされた気分だぞ😭2025/07/26 21:56:55977.パーリー◆HpIafZZzjh.G8zkjY見えて聴こえて感じられる(テレパシー直覚含む)範囲の、空間全体が、自分だってことだよヨガではその空間(自己)をコーザル体と称している2025/07/26 22:48:52978.パーリー◆HpIafZZzjh.G8zkjY◯ 禅定に正しく入禅定していると心身脱落している→身体が統制失う→居眠りに見える◯ 完全に入禅定していない場合は未だ心身を統制している→ピシーッっと定型で端坐している2025/07/26 22:55:23979.パーリー◆HpIafZZzjh.GdVXwnドーナッツには穴が在るが周囲を食べたら穴は消えてなくなる‼️これが釈尊の言ったことの真意ですね2025/07/27 16:38:40980.パーリー◆HpIafZZzjh.GdVXwnhttps://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku1.html心臓と心の座-臨済の「無位真人」中国やインドでは心の座は心臓の中にあると古くから考えられていた。心臓という漢字が示すように心臓は心が生じる臓器という意味を表わしている。明治6年遣欧使節団の一員としてプロシャ(ドイツ)を訪れた大久保利通は鉄血宰相ビスマルクが主催する宴席に招待された。ビスマルクが話す建国の苦労話を聞いて感激した大久保利通は友人の西郷隆盛に手紙を書き次ぎのように言っている。「何れもこの人の方寸に出でざるなしと察せられ候」ここで方寸とは心臓の中の心を指している。この手紙文から日本人は明治の初期まで心は心臓にあると考えていたことが分かる。心は心臓にあると考えていたことは次のような言葉を見れば分かる。1胸襟:胸の中、心胸襟を開く(心を開く)2胸算用:心の中で見積もる。胸奥:胸の中、心の中胸の奥にしまう(心の中にしまう)。胸にしまう。複雑な胸中を明かす無念の胸中古代インドでも心は心臓にあると考えていた。それは● 「ヨーガスートラ」の次のような言葉から分かる。「心臓とは、小さな蓮華の形をした心の住処である。」● 法句経(ダンマパダ)37詩は次のように心は心臓にあると述べている。「心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟に潜んでいる。この心を制する人は死の束縛から逃れるであろう。」2025/07/27 20:31:13981.パーリー◆HpIafZZzjh.G0Bh7ehttps://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku1.html● 無位真人と赤肉団は何か?「臨済録」の中に臨済義玄の有名な言葉として「赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。」がある。このなかに「無位真人」という言葉が出ている。【真人】とは普通仏教の悟りを得た人と解釈されている。しかし、道教ではその奥義を極めた【不老不死の仙人】を【真人】と呼んでいる。臨済が活躍した唐の時代は道教が王室の保護を受け国教となった。道教は中国社会に強い影響力を持っていた。臨済は説法を分かり易くするため真人という道教の言葉を用いた可能性がある。また【赤肉団】は肉体と解釈されている。これは【心臓】と解釈した方が良い。仏教では【赤肉団と言えば心臓】のことである。中国では昔から【心の座は心臓にある】と信じられていた。心臓の筋肉は赤い。従って赤肉団とは心臓と解釈した方がすっきりと理解できる。臨済は伝統的解釈に従って心は心臓にあると誤解していたため上の言葉になったと思われる。実際、「赤肉団上に一無位の真人有って、」という言葉には記録によって異同があるようである(岩波本「臨済録」p・222)。例えば「伝灯録」では「赤肉団」ではなく「肉団心」としているとのこと(岩波本「臨済録」p・20)。この場合の「肉団心」とは心臓にあると考えられた心を指している。心臓は赤い色をしている。従って、臨済が言う「赤肉団」とは心臓を指していると見るのは自然である。現代の科学では心の座は心臓ではなく脳であることが分かっている。赤肉団を脳だと見なせば上の臨済の言葉は分かり易い。ここでの新解釈では「脳神経系には一無位の真人がいて、常にお前達の感覚器官より出入している。まだ見届けていない者はさあ看よ!看よ!」となる。2025/07/28 13:44:38982.神も仏も名無しさんZ54L0📶スレ無事だったのか?📶の大好きなムイムイにやられてスレ消えるかと期待したんだがな?😃2025/07/28 13:48:14983.神も仏も名無しさんZ54L0ムイムイの痴人と共にスレ消えるのか?と📶2025/07/28 13:49:21984.パーリー◆HpIafZZzjh.G0Bh7e臨済は伝統的解釈に従って心は心臓にあると誤解していたため上の言葉になったと思われる。実際、「赤肉団上に一無位の真人有って、」という言葉には記録によって異同があるようである(岩波本「臨済録」p・222)。例えば「伝灯録」では◯「赤肉団」ではなく●【肉団心】としているとのこと(岩波本「臨済録」p・20)。この場合の「肉団心」とは心臓にあると考えられた心を指している。2025/07/28 13:53:14985.リダン◆gEV3xsS//kAsHaM例えば視界、光の屈折により対象を映し出す自我が実体であるとするとそれらは受動的自我がそれを受けとったとしかし顔から出入りすものでありそのものであり仏の用ということやね2025/07/28 15:48:11986.リダン◆gEV3xsS//kAsHaM臨済宗の腹を練るはこの部分の話でもある相対と絶対のチューニング2025/07/28 15:49:50987.神も仏も名無しさんgjVGBお、このスレも、まだ生きていたか?😃2025/07/28 18:05:25988.神も仏も名無しさんQ3KREムイムイから防衛するか?ゼッキョーニートリンっ‼️💢💢💢💢2025/07/28 19:20:13989.パーリー◆HpIafZZzjh.G0Bh7eアヌグラハとは?https://ameblo.jp/sankalpayoga/entry-12625659893.html2025/07/28 19:42:26990.神も仏も名無しさんQ3KREゼッキョーニートかおりん💢どうしたんだ?💢2025/07/28 19:43:24991.パーリー◆HpIafZZzjh.G0Bh7e顔じゃないって!臨済は胸に心があって、胸から出入してるって思ってたそうです2025/07/28 19:45:11992.神も仏も名無しさんXVv41📶〜説はたまらんなー😫2025/07/28 19:52:38993.リダン◆gEV3xsS//kNpHJY>>991同じことだよ2025/07/28 20:36:56994.神も仏も名無しさんXVv41ニートかおりん💢ここには来ない💢2025/07/28 20:37:41995.リダン◆gEV3xsS//kNpHJY要は一方通行の実体の受と思いこんでるのが自我そうじゃなくて送受信さらに送=受さらに送≠受2025/07/28 20:39:53996.神も仏も名無しさんOnUgT>>992寄付してから物を言え❗️寄付もできない乞食〈でおーニート知的障害〉守銭奴寄付してから物を言え❗️寄付もできない乞食〈でおーニート知的障害〉守銭奴寄付してから物を言え❗️寄付もできない乞食〈でおーニート知的障害〉守銭奴寄付してから物を言え❗️寄付もできない乞食〈でおーニート知的障害〉守銭奴2025/07/28 22:16:38997.リダン◆gEV3xsS//kNpHJY送受信そのもの仏の用働きそのもの不二2025/07/28 22:20:36998.リダン◆gEV3xsS//kNpHJY相対、客体があってそれを主体が認識するというプロセスではなく一無位の真人、働きそのもの仏の用ということ2025/07/28 22:22:13999.リダン◆gEV3xsS//kNpHJY物体、六境の認識ではなく相依であり俺の体感上では六根が機能するための後付けが六境、器世間、現実2025/07/28 22:25:041000.パーリー◆HpIafZZzjh.Gpqa1p>>995返照って言葉知ってるか⁉️2025/07/29 15:54:521001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2025/07/29 15:54:521002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2026/3/31まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2025/07/29 15:54:52
今世における経験と智慧
来世に向けての準備を
ツラツラと書くスレです
備忘録ではありますが
質問は受け付けます
無心の段階の
一つの目安として
禅定、瞑想、どちらも
呼吸の停止(継続的)をもって成就の目安としている
パーリー経典の相応部2の中の、第4禅定相応文には
【吸気と呼気が失われる】とあり
ヨガナンダの【あるヨギの自叙伝】の中に【クリヤヨガの科学】という章があり
そこに
【プラーナーヤーマは、呼吸の停止をもって完成とする】とある
それにはナディー(気道)の完全な浄化が求められる
坐禅、禅定、瞑想、を毎日修し
無心=呼吸の停止(思考・妄想の停止)を繰り返していくと
瞑想時だけでなく、平時においても無心が現れてきて
遂には、自己の本心を悟るわけです
サマディーの入口段階であって
その先には
心臓の停止、脳波の停止、という
死の状態を経て、微細身でサマディーに至るとされています
寂しい📶だな?
👽
呼吸と思考・妄想の相互関係性は
ヨガやテラワダや禅界隈では
良くしられているところですね
一つの段階(本心)に上がった時の
自己が
【心=マインド=仮我】から、本心へ入れ変わった時のことを
表す言葉なの‼️
この段階は
これはこれで、安定していて、決して失われない状態なのです
悟りに至ると
夢を一切見なくなります
それは
眠りの中でも覚醒がある
という証左になっています‼️
田中角栄を総理の座から引きずり下ろした男の、
立花隆さんがその昔「宇宙からの帰還」という本をだしてて。
アメリカの宇宙飛行士のインタビュードキュメントで、
宇宙に行った人間の精神が変容するか? という
わりと独自な切り口の目線で、知ってる人は知ってるかな?
んでちょっとだけこの本を出版したオカルト実績があるんで、
NHKとつるんだアルバイトのやっつけ仕事なんかね?
「臨死体験」というテレビ企画があったんよ。
2-3週連続でやってて、でもわたしはもともと幽霊話のマニアなんで、
なんか聞いたようなツマらん話ばっかだなー、という。
しばらく忘れてたら、町内公民館の図書室がわりと宗教本が多くて、
そこにかなり分厚い「臨死体験、上・下」の2冊があって借りてみると、
立花さんの取材メモの余りを、捨てずにNHK出版が本にまとめてる。
でもやっぱ立花さんは幽霊オカルト業界ではシロートに過ぎないんで、
本の分厚さにくらべて超薄っぺらな内容だけど、やっぱネームバリューって
カネになるんかねー、とそのとき思いましたが。
三途の川や閻魔大王、などなどそんな話題をいまさらやってもねー、
といいつつ、スウエーデン人で臨死体験者のおばちゃんの話があって、
身内や知り合いのとこに飛んで行って、話しかけても相手にしてくれなくて、
そのうち海岸にやってくると、岩場の上にあご髭を生やして、
白い着物の見るからに神様らしき人がいるんで、思わず、
わたしたちは何故、こんなに苦しまなくてはいけないの?
と聞くと、神様は黙って波打ち際を指さして、そこには
波にごろごろ洗われる小石が見えて、じつはそれが人の魂なんだってさ。
ほー、この世は魂を修行するための場所というありふれた話みたいで、
なんかつまらんなー、と思ってたら彼女がとつぜんに、
「あの世時間」 というのがあるんです。
こっからが本題だけど前フリが長すぎるよな、といいつつ、
この世の時間は過去から未来への一直線で、過去も未来も行けないけど、
「あの世時間」は時間は流れて世界は動いているけれど、
時間の流れの過去未来どこでもアクセスできて、そこにあるのは
「今このとき」 という感覚しかないんだそうな。
そんでこれ幽体離脱の人は心当たりありますか? という質問で、
日蓮法華宗には久遠があって、はるか昔という意味だけど、
久遠の辞書引きにはもう一つ、久遠 = 永遠、という用例があるんだな、
まあ禅宗だったら即今でしょうけどね。
自分の過去と未来が
一本の線上に連なってることを
映像的に思うと
1つの1本の道に見えるよね
その現在に一点に在るって感じ
心が静かになると 音が聞こえなくなる? その1
坐禅して、何も聞こえないというわけではありません。
白山の小池老師は90歳くらいまで毎朝2時間も坐禅をしていましたが、終わると今日は鳥が鳴いていた、ウグイスがきていた、鳥がやかましかったとよく言われていた。
はじめは老師は無心になっていないのかな、などと思ったものですが、ありのままに聞こえるのです。逆に心になにかひっかかることでもあると、何も聞こえなかったりします。思い悩んで道を歩いていては、まわりの景色もなにも目に入ってきません。
● 円覚寺派管長 横田南嶺老師の著書「祈りの延命十句観音経」の言葉です。
以前、興味深い実験結果を聞いたことを思い出しました。
坐禅を科学的に検証する実験です。
◯ その実験は、私のような未熟な僧侶と坐禅を極めた老師【ろうし】と呼ばれる僧侶に脳波を調べる機械をつけて坐禅をしてもらったそうです。
そして、坐禅中に一定の間隔で鐘の音を鳴らします。
すると
◯ 未熟な僧侶は坐禅をしていると鐘の音に初めは反応しているものの
【段々に鐘の音に脳が反応しなくなった】そうです。
しかし
◯ 老師はいつまでも脳が初めて鐘の音を聞いたときと
【同じように反応し続けた】そうです。
鳥の声が聞こえること、鐘の音に反応し続けることを「ありのままに見る」と言うのだと思います。
東光寺で現在「子供坐禅会」を開催していますが、
私は坐禅中に雨が降てくれば気がつきますが、いつの間にか雨が降っていること、雨の音が聞こえなくなっています。
・・・未熟者の代表として、これからも坐禅を続けていかなければならないと感じる毎日です。
【同じように反応し続けた】そうです。
鳥の声が聞こえること、鐘の音に反応し続けることを「ありのままに見る」と言うのだと思います。
ーーー
これが
九次第禅定の
第二~第四禅定の様子だと思われます
坐禅をしていくと、毎回この状態に直ぐに(15分以内に)入禅定可能になる訳です
これらは
2,500年前に、釈尊の弟子の林住者が、行っていた
九次第禅定と
全く同じということです。
原口議員が言うゆうこく連合って
初めて聞いたわ
原口さんが立憲に居続ける理由を言ってるね
洞松寺住職ブログ
達磨さまの創作話
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/historyofzen.html
1.1 禅の起源
禅はパーリ語(インド初期仏教経典の用語)のdhyana に由来する。
dhyanaは静かに考えるという意味である。
その【俗語形jhana】が
西北インドで【jhan】と発音されていたのを【漢字で禅と表記した】ものである。
心の働きを集中して動揺させないことで静慮とも訳される。
身体は5つの感覚をもって感じる
眼を開ければ 身体で
眼を閉じれば 心です
その2つは、実は一体であります
識はその2つを超えてある
肉体を超えるとエーテル体(気)に入る
識体はそれを感じます
1世紀頃成立したと考えられているヒンズー教の聖典「ヴァガヴァッド・ギーター」に
古代インドのヨーガ(瑜伽)の修行が次ぎのように述べられている。
1.1
「実修者は人里離れた場所にあって、ただひとり心身を抑制し、
期待を抱かず、所有物を捨て、常に自己を修練すべきである。
浄らかな場所で、自分のために、クシャ草、鹿皮、布を順次に敷き重ねた、
高くも低くもない、しっかりした座をしつらえ、その座に坐って、
意を一点に集中し、心と感覚器官の働きを抑制し、
自己(個我)を清浄にするために、実修を行え。
身体、頭、首を真っ直ぐに、不動に保ち、自分の鼻の先端を凝視して、
他の方角に眼をやらず、心を安らかにし、恐怖心を去り、
梵行(禁欲)の戒を守り、意を抑制し、わたしを思念し、わたしに専念して、
実修を修めて坐らねばならない。
このように、絶えず自己(心)の実修を行い、意を統御する実修者は涅槃を極致として、
わたしの中にある寂静に到達する。
身体は5つの感覚をもって感じる
眼を開ければ 身体で
眼を閉じれば 心です
その2つは、実は一体であります
識はその2つを超えてある
肉体を超えるとエーテル体(気)に入る
識体はそれを超えて【超脱し】ある
この老師さんは脳の一部だけを覚醒させつづけてるん、
外見は深い瞑想状態で、脳はだいたい休止してるんだけど。
でも何回やっても鐘の音に反応するんであれば、
それは鐘の音に反応するセンサー部分だけを覚醒させて、
しかもその状態を長い時間維持するためには、
「その状態」を意識しつづけなきゃいかんから、
覚醒 ⇔ 無意識、 の間のビミョーな段階の特定ポイントに、
意識をフォーカスしながら居座りつづけている、
ある種の意識コントロール芸人とでもいったら…。
逆に鐘の音に反応しなくなった僧侶は、寝落ちだな。
臨済さんはあるとき法堂で座禅をしてるんだけど、
そのうちこっくりこっくりと居眠りをはじめてしまい。
しばらくすると師匠の黄檗が杖をコツコツと付きながら、
法堂に入ってきますが、中国の昔の老人は家の中で
杖をついてもよいルールで、臨済の前まで来て、
正面から見下ろすように立つと、杖を1回コツンと床につきます。
すると臨済は、ぼんやりと目を開けて、師匠の顔を見上げますが、
またそのまま居眠りを始めてしまいました。
すると黄檗は杖をまたコツンとついて、こんどは上座のほうで
きちんとした座禅をしている首座のところへコツコツと歩いて行き、
また首座の前に立って、杖をつくと文句を言います。
下座の方で若い者 (臨済) がきちんと座禅をしているのに、
首座のお前はここでいったいなにを妄想しているのだ?
というと、首座は目を開けて黄檗の顔を見上げ、
このボケたお爺さんは、いったい何を言ってるのだろう?
そういうとまた座禅の瞑想にもどってしまいますが、それを見た黄檗は、
またコツンと杖をついて、法堂の出口に向かって行き、
そこにある木版をカン!と叩いて、そのまま出て行ってしまいました…。
※※
これが中国臨済宗系の、統一された共通の見解じゃないかね、
まあ日本の禅宗はわけわかめのデタラメになってますが。
わかりづらいから、ちょっと仕分けしとくかね。
(A. ほとけを暗示している比喩表現…。)
〇 臨済さんが居眠りをする。
〇 杖で床をコツコツつく音。
〇 師匠の黄檗を見ても、なんかわからない。
〇 首座のいう、ボケたお爺さん。
〇 黄檗の言葉の意味がなんだかわからない首座。
〇 木版を叩く、カンッ! という音。
(B. ほとけとは反対の妄想 = 俗物な状態。)
〇 地位の高い首座が、法堂の上座できちんと座禅するすがた。
※※
かなり内容がてんこ盛りで、一つ一つが禅話で成立ちそうなネタで、
激安スーパーみたいな、大サービスしてますけど、
きちんと座禅する首座がダメで、居眠りしてるやつが、
正解らしいですよ。
2017年03月28日
使用した名前一覧
でおー 分身っ💕
モンキー餓臭国大統領、ドナルド・ぼたんぷ。
神も仏も名無しさん
ヒッキー公案「有位の痴人毎日垂れ流しているのを、みない、みない」
ヒッキー様の竜頭蛇尾w
ヒッキー様の自慢の無字の境地w
魔境落ちしていないヒッキー様の証
ジャンキー大山の恐怖の時間準備完了w
鬼和尚の真実、本性はw
ぼったんがかつて味わった恐怖w
デスヒッキー発射準備w
ジャンキー大山の哀れなる情報判断システム
ヒッキーサル山祭りの始まりだw
偉大なる鬼和尚の境地w
偉大なる鬼和尚の悟りの境地
修正wジャンキー大山の哀れなる情報判断システム
ヒッキーサル山の永遠ループ思考回路w
あんまり、パットしないなー
師匠にそれやられたなー
😀
今読んで
なるほどーな
と
😀
ま、変なのが、
ガンバっているよーだが
ガンバってるんだなー
くらい
😀
>(B. ほとけとは反対の妄想 = 俗物な状態。)
不味いカップ麺食わされた気分だぞ
😭
ヨガではその空間(自己)をコーザル体と称している
心身脱落している→身体が統制失う→居眠りに見える
◯ 完全に入禅定していない場合は
未だ心身を統制している→ピシーッっと定型で端坐している
周囲を食べたら
穴は消えてなくなる‼️
これが釈尊の言ったことの真意ですね
心臓と心の座-臨済の「無位真人」
中国やインドでは心の座は心臓の中にあると古くから考えられていた。
心臓という漢字が示すように心臓は心が生じる臓器という意味を表わしている。
明治6年遣欧使節団の一員としてプロシャ(ドイツ)を訪れた大久保利通は
鉄血宰相ビスマルクが主催する宴席に招待された。
ビスマルクが話す建国の苦労話を聞いて感激した大久保利通は
友人の西郷隆盛に手紙を書き次ぎのように言っている。
「何れもこの人の方寸に出でざるなしと察せられ候」
ここで方寸とは心臓の中の心を指している。
この手紙文から日本人は明治の初期まで心は心臓にあると考えていたことが分かる。
心は心臓にあると考えていたことは次のような言葉を見れば分かる。
1
胸襟:胸の中、心
胸襟を開く(心を開く)
2
胸算用:心の中で見積もる。
胸奥:胸の中、心の中
胸の奥にしまう(心の中にしまう)。
胸にしまう。
複雑な胸中を明かす
無念の胸中
古代インドでも心は心臓にあると考えていた。それは
● 「ヨーガスートラ」の次のような言葉から分かる。
「心臓とは、小さな蓮華の形をした心の住処である。」
● 法句経(ダンマパダ)37詩は次のように心は心臓にあると述べている。
「心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟に潜んでいる。
この心を制する人は死の束縛から逃れるであろう。」
● 無位真人と赤肉団は何か?
「臨済録」の中に臨済義玄の有名な言葉として
「赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざる者は看よ看よ。」
がある。
このなかに「無位真人」という言葉が出ている。
【真人】とは普通仏教の悟りを得た人と解釈されている。
しかし、道教ではその奥義を極めた【不老不死の仙人】を【真人】と呼んでいる。
臨済が活躍した唐の時代は道教が王室の保護を受け国教となった。
道教は中国社会に強い影響力を持っていた。
臨済は説法を分かり易くするため真人という道教の言葉を用いた可能性がある。
また【赤肉団】は肉体と解釈されている。
これは【心臓】と解釈した方が良い。
仏教では【赤肉団と言えば心臓】のことである。
中国では昔から【心の座は心臓にある】と信じられていた。
心臓の筋肉は赤い。
従って赤肉団とは心臓と解釈した方がすっきりと理解できる。
臨済は伝統的解釈に従って心は心臓にあると誤解していたため
上の言葉になったと思われる。
実際、「赤肉団上に一無位の真人有って、」
という言葉には記録によって異同があるようである(岩波本「臨済録」p・222)。
例えば「伝灯録」では「赤肉団」ではなく
「肉団心」としているとのこと(岩波本「臨済録」p・20)。
この場合の「肉団心」とは心臓にあると考えられた心を指している。
心臓は赤い色をしている。
従って、臨済が言う「赤肉団」とは心臓を指していると見るのは自然である。
現代の科学では心の座は心臓ではなく脳であることが分かっている。
赤肉団を脳だと見なせば上の臨済の言葉は分かり易い。
ここでの新解釈では「脳神経系には一無位の真人がいて、
常にお前達の感覚器官より出入している。
まだ見届けていない者はさあ看よ!看よ!」となる。
📶の大好きなムイムイにやられてスレ消えるかと期待したんだがな?
😃
と
📶
上の言葉になったと思われる。
実際、「赤肉団上に一無位の真人有って、」
という言葉には
記録によって異同があるようである
(岩波本「臨済録」p・222)。
例えば「伝灯録」では
◯「赤肉団」ではなく
●【肉団心】としているとのこと
(岩波本「臨済録」p・20)。
この場合の「肉団心」とは心臓にあると考えられた心を指している。
対象を映し出す
自我が実体であると
するとそれらは受動的
自我がそれを受けとったと
しかし
顔から出入りすものであり
そのものであり仏の用ということやね
この部分の話でもある
相対と絶対のチューニング
😃
ゼッキョーニートリンっ‼️💢💢💢💢
https://ameblo.jp/sankalpayoga/entry-12625659893.html
どうしたんだ?💢
臨済は胸に心があって、胸から出入してるって思ってたそうです
たまらんなー😫
同じことだよ
ここには来ない💢
実体の受と思いこんでるのが自我
そうじゃなくて
送受信
さらに送=受
さらに送≠受
寄付してから物を言え❗️寄付もできない乞食〈でおーニート知的障害〉守銭奴
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寄付してから物を言え❗️寄付もできない乞食〈でおーニート知的障害〉守銭奴
寄付してから物を言え❗️寄付もできない乞食〈でおーニート知的障害〉守銭奴
仏の用
働きそのもの
不二
それを主体が認識するという
プロセスではなく
一無位の真人、働きそのもの
仏の用ということ
相依であり
俺の体感上では
六根が機能するための
後付けが六境、器世間、現実
返照って言葉知ってるか⁉️
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