棒さんの独り言最終更新 2025/10/28 15:151.登り棒◆0mnwMe9WsAKgPZe私、棒が思ったことをつらつら書くだけの場所。2025/10/10 09:00:1157コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.登り棒◆0mnwMe9WsAKgPZe空の理解。独立して存在するものはなく全ては関係性、つまり相互依存である。相互依存に関しては物理学でも今は当たり前になっている。縁起の理解。因縁果、物事には必ず原因があり結果が生じる。これに関しては誰もが当たり前だろと思うだろう。知識としてみればこの2つの意味は難しい事はないし理解したつもりになる。2025/10/10 09:09:353.登り棒◆0mnwMe9WsAKgPZeでは実際はどうか?例えばSNSでの炎上等はよくあるが、それによる誹謗中傷も後を立たない。全てとは言わないが中にはきちんと手続きをとった上でやっているものもある。でも誰かがこれはおかしいと指摘した時点で炎上になる。先程の話でみたら全ては関係性であり、そして原因があって結果が生じている。ならその行動にも何らかの原因、理由があって行われている事は分かる。そして多くの人は結果だけを見て誹謗中傷し、その理由に関しては見ようとしない。因縁果なんて当たり前だろと思いながら実際は因縁果なんてものを見ていない。2025/10/10 09:19:364.登り棒◆0mnwMe9WsAKgPZeそして原因が分からない事を人は納得出来ない。だから自分が納得出来るようにラベルを貼る。こいつは悪い奴、間違った奴、私は正しい。悪い奴だからこういう行動をとると結論づけて納得する。それはその人が作り出した相手でありそこに洞察はない。思考停止である。独立した物などなく全ては関係性で成り立っているのにそこに固定された自分があり、信念があり、それが変化することを恐れる。固定的な物などないと頭で分かってもそれは変わらない。2025/10/10 09:29:235.登り棒◆0mnwMe9WsAKgPZe1+1=?と言われたら誰もが2と答えるだろう。それは算数での一般的な正解だ。私もそう答える。でも相手は不正解だという。ここで1+1=2は絶対不変の真実だと思い込んでる人は「2にきまってるだろ?頭おかしいんじゃないか?」と考える。でも固定された正解というものさえないと理解している人はどうか?違う?じゃあこの人は何を正解と考えてるんだろうか?自分の知識や経験、相手の意図等あらゆるものからその答えを洞察する。例えばそれか田という漢字だったり単純に重ねて11だったり2進数で10だという発想に行き着く。仮に思いつかなかったら分からなかったと言うことを理解し答えやヒントを求める。そして正解を知った時にああ、そういう考えもあるか、とかこういう理由でその答えは成り立たないよとかで発想を広げるための学びとして受け入れる。答えを聞いてもその信念、固定観念に囚われてるものは2であることは常識だ、とか問題にそのような注釈がないなら、問題が悪いと自分の信念、思い込みを守ろうとする。2025/10/10 09:46:376.登り棒◆0mnwMe9WsAKgPZe勘違いしないのは空の理解があったら信念がないというわけではない。信念はあってもそれに囚われない。信念による発想すら判断材料の一つにしか過ぎないということ。でも一般的には深層に積み重ねられたその思い込みは中々消えてくれません。2025/10/10 10:19:527.登り棒◆0mnwMe9WsAKgPZeそこで修行としてよく上がるのが瞑想ということになる。色々な方法があるが基本的には集中(サマタ)と観察(ヴィパッサナー)になる。何故多くの瞑想が呼吸に意識を置くのか?それは呼吸が意識的でもあり無意識的でもあるからです。意識していれば能動的に呼吸をするし、意識してなくても無意識的に呼吸をするからです。なのではじめは呼吸に意識を向け、能動的に呼吸を行っている。集中が高まるも呼吸以外の念には意識が向かなくなり、やがて現れなくなります。さらに進むと今度は能動的に行っていた呼吸が無意識に行われることに気付きます。そこに自分が呼吸をしているという感覚がなくなり、やがて呼吸の主体や客体の区別が曖昧になり呼吸という働きのみが残ります。2025/10/10 11:41:578.登り棒◆0mnwMe9WsAKgPZeこの段階では世の中が無常である事は分かるかもしれません。現れては消える固定されたものがないという理解。ですがそこに智慧があるわけではなく、智慧を養うための土台が出来た、と言う事です。戒定慧でいうなら定の深化であり、そこから智慧に進むわけですね。ただ主客一如は瞑想で言うと極致ではなく、まだ先があります。先程の呼吸の例で言うなら、さらにそれが深まると呼吸という働きさえとらなくなり、やがて現れるものはなくなり、鎮まり、最終的には停止します。これが滅尽定ですね。とはいえ滅尽定は停止、というように何も現象として現れる事はなく、それを直接的に体験する事も知る事もありません。滅尽定はその前後によって知るのみ。この段階にくると現れの起こりを捉えることに等しい。つまり現れるそれの源泉に触れるということ。まぁこれも智慧ではなく土台ですが。2025/10/10 12:34:169.登り棒◆0mnwMe9WsAKgPZeそうして世の中を見ると様々な事に気付きが起こります。何かをすると何かが現れる。それを意識しないと現象として現れない。それぞれの起こり、成り立ちを観察するようになります。するとこの現象世界は矛盾を許容しない事に気付きます。コインの裏表が同時に成立しないように、縁起は因縁果と言いましたがその一つの出来事、景色、それらも遡っていけば矛盾なく何処までも遡る事が出来る事に気付きます。勿論そこに意識が向けられなくなればそれ以上の過去に行き着くことは無くその先は分からない状態にはなります。この理解は縁起の理解を深化させます。つまり、今起こっているそれらは過去、現在の全てが内包されているという理解です。どれか一つでもなかったらこの世界は成立しません。足元にある石ころ一つとってもそうです。そんなもんなくったって何も変わらないだろうと思うかもしれませんがそうではない。その一つがないだけで過去を遡っていくと何処かに矛盾が生まれてしまいます。この世界はそんな矛盾を許容しない。今この瞬間に全てが内包しているのに気付くのです。2025/10/10 12:47:4110.登り棒◆0mnwMe9WsAcTh6iそれがなんだって話だよね。その視点で物事を見るわけです。目の前に困っている人がいる。そのように見える理由があり、その人が困る原因があり、その人の性格、行動、色々なものが内包されて今がある。だから自分本意で助けようとは考えない。もしかしたら助けはいらないどころか邪魔と思うかもしれないし助けてほしいのかもしれない。でもその答えは分からない。全てを知っているわけではないですからね。でもそこで困ってる人だとレッテルを貼って分からない事に蓋をしない。「お困りですか?何かお手伝いは必要ですか?」わからないなら必要な情報を得るために目を向けます。「いや、大丈夫です。」助けを求めてないのに助けようとする必要はありません。ですがそれもやはりそのように答える理由があると考える。困ってるように見えるけど助けは求めてない。だからもしかしたら知らない人に声をかけられて警戒してるかもしれない。信用がないからかもしれない。それもやはり分からない事です。「分かりました。まだしばらくはこの辺りにいるのでお手伝いが必要なら遠慮なく声をかけてくださいね。」そこで縁を閉じずに手伝って欲しいと思う心が現れてもそれに繋がる縁だけは残しておく。2025/10/10 14:49:5911.登り棒◆0mnwMe9WsAcTh6iまぁこんなものに正解はありません。固定的な正解もまたないので現時点の最善を行うことしか出来ませんね。そしてその最善は知識や経験を得る事で洞察は深まり更新されていきます。いかに偏りなく物事を見れるようになっても知らない事は発想には上がってきません。何もない所から知る事もまたないので。だから結果だけ見たら間違いと言うことも起こるでしょう。その間違いもまた学びであり最善は更新されていく。結果に囚われることはないのです。2025/10/10 15:34:0412.登り棒◆0mnwMe9WsAE359X因縁果、これは現象世界の理と私は考える。でも先程も言った通りこの一瞬に全ては内包される。有為の根源は因縁果を超え、縁縁果として現れると私は考える。因という時間の制限を超え、縁と縁の重なり合いによって結果が生じる。勿論この縁は因というものも内包する。そして有為の根源を超えた領域では結果として現れる制限すらなく、縁縁縁、つまり縁の重なり合いという全体性がある。そこは矛盾を許容しない現象世界とちがい、全ての根源であり矛盾すらも内包する。現象世界は矛盾を許容しないのでそのものが現象世界に現れることはなく、その全体性から有為に関わる縁が重なり合い一つに収束するように現れる。つまり縁縁縁→という全体から有為に関わる縁という制限(縁縁果)→その中から現象として生じた時間の制限のある世界(因縁果)2025/10/11 11:11:5513.登り棒◆0mnwMe9WsAgdjeFおはよう。今日は親とツーリング予定。雨はぎりいけるかなぁ2025/10/13 06:35:3614.登り棒◆0mnwMe9WsAgdjeFとりあえず朝のコーヒーでも飲むとするか。2025/10/13 06:39:4115.登り棒◆0mnwMe9WsAgdjeF忘れがちなんだろーなー。こーゆーTalk板みたいな所で特定の人と会話していても、それは他の人も読む。するとその他の人にも影響を与え、2人のやり取りを見てこんな感じの人なんだと学習する。そしてそこで書き込む時はそれを前提にした書き込みが行われ、それを読んだ別の人がと広がる。特定の相手と会話してるだけのつもりが色んな物を巻き込んでその影響が現れる。2025/10/13 07:08:2016.登り棒◆0mnwMe9WsArhzmy出発前に空気圧確認しといて良かった。パンクしとった。2025/10/13 10:05:2617.登り棒◆0mnwMe9WsArhzmy時間もないので簡易的なパンク修理ですます。念の為電動の空気入れとパンク修理キット積んで出発2025/10/13 10:08:4418.登り棒◆0mnwMe9WsArhzmyダムカレーNOW2025/10/13 11:50:4919.登り棒◆0mnwMe9WsAgdjeF帰宅~2025/10/13 17:49:4620.登り棒◆0mnwMe9WsA3ewSLコロナにかかって2週間以上たったけど咳だけが止まらないので再び病院に。呼吸は全ての基本なのを実感中2025/10/14 09:21:1321.法介◆T3azX0Hk1Ua8tpF棒ちゃん、こんちゃコロナにかかっちゃったのお体お大事に2025/10/14 11:27:1822.登り棒◆0mnwMe9WsAsVqSt>>21ほーさんお久。そうなんだよ。2週間前くらいにかかったから仕事には復帰してるんだけど咳だけは続いてさー。お薬もらってきたの。2025/10/14 11:34:2023.登り棒◆0mnwMe9WsAsVqSt自分の理解を言葉にするのは難しい。この現象は同時に成り立っているけどその成り立ちは順を追って説明することが出来る。そしてその説明は因縁果であり縁縁果ではない。発想の現れ、収束は同時だけどそれを説明しようとするとそのプロセスの説明になり時間の概念が生まれる。2025/10/14 15:22:5024.登り棒◆0mnwMe9WsAd1B21おはようございます。ちょっと私のことでも語ってようかな。そもそも私は瞑想等の修行をしていない。成人した後でさえ瞑想がどんなものか?とか仏教なんて葬式関連のものだくらいの知識しかなかった。2025/10/16 09:26:5725.登り棒◆0mnwMe9WsAd1B21元々私はそちらではなく、明晰夢や体外離脱からスタートしている。明晰夢は夢の中でそれが夢と気付く事だが私の場合は夢=明晰夢であり途中で気付くのではなく最初から明晰夢だった。体外離脱の場合は明晰夢とほとんど違いはないが私の場合は身体から抜け出るような感覚がある時を離脱としていた。とはいえそれは明晰夢を知ってからの話で当時はそれらをひっくるめて夢と認識していた。2025/10/16 09:34:0726.登り棒◆0mnwMe9WsAd1B21初めての離脱経験は3歳くらいの頃かな?眠っていたら身体から抜け出して天井をすり抜け夜の空へと浮かび上がって地上を見下ろしていた。ちらほら街の灯りが見えて綺麗だなと思ってた。夜風を感じて寒いなと思ったら急に怖くなってジタバタしながら身体に戻った。そりゃ3歳の子供が夜1人で高い所にいたら怖くもなるだろう。そんな体験を親に話したら夢をみたんだねと。だから私にとって離脱も明晰夢も夢であり皆同じように見ているものなのだと思っていた。2025/10/16 09:38:5427.登り棒◆0mnwMe9WsAd1B21ある時友人が夢を自由に見れたら楽しいのになーと言っていた。その時に私は見たい夢を見るにはどうすればいいんだろうと疑問に思い探求することにした。小学生くらいの頃かな?そして色々試してみた結果、見たい夢のイメージを強く焼き付けるようにしたまま眠ることでそのイメージの続きが夢として流れることに気付いた。今にして思えばこれがサマタと同じ訓練になっていただろう。2025/10/16 09:52:0328.登り棒◆0mnwMe9WsAd1B21中学生になったくらいだろうか?いつものように見たい夢を見るイメージに集中する。すると眠るという過程を経ないでそのイメージは勝手に動き出して夢になった。意識ははっきりしている。もはやそのやり方は眠るという必要はなく、集中し→それが勝手に動き出す様を眺める視点に変わっていく。これもヴィパッサナー、観察の訓練に相当して現れるままに眺めるということを身につけて言ったんだろう。2025/10/16 10:11:5329.登り棒◆0mnwMe9WsAd1B21その観察ができるようになると日常でも変化が起こりました。副産物だが意図的にゾーンの状態に入れるようになりました。集中し、今の状態を細かく観察し、調整するとゾーンに入れるようになったわけです。その頃から日常が観察の視点になっていきます。2025/10/16 10:19:0830.登り棒◆0mnwMe9WsAd1B21それからはしばらくそんな生活が続きますがある時から夢の変化が大きくなってしまいました。その夢の中で何かを思うとそれが即時に夢の世界に影響を与えてしまうのです。例えばゴキブリを見かけて気持ち悪いとよぎったらその世界は気持ち悪いで満たされた世界に変貌してしまうのです。集中が高まりすぎたのか、発想として上がってきたものが即時反映されるので望み通りの世界ではなく、少しでも不要な事を考えるとそれが反映されてしまうわけです。2025/10/16 10:26:5431.登り棒◆0mnwMe9WsAd1B21さて困った。これでは夢の世界で日常がおくれません。何かに焦点を合わせたらその内容が反映される。なので私はその意を向けるという事を観察しました。主体を観察すると言うと矛盾を感じるでしょうが主体というものに意を向けると、その主体の働きが現れるようになります。結局の所主体と客体というのは区別してみるのではなく分かたれたものではないということ、同期しているのでしょう。すると主体は意を向けたものに関連する情報を立ち上げ、それが収束して判断という流れを捉えることになります。2025/10/16 10:45:1932.登り棒◆0mnwMe9WsAd1B21そこで私は意を向けるという事を学びました。そこから立ち上がる発想は何故起こるのか?それを観察し続け、やがて夢の世界で日常と変わらない行動ができるようになりました。ゴキブリを見たらゴキブリを見るだけ。気持ち悪いという感情が現れるならそれを見るだけ。一瞬一瞬で世界は丸ごと変わりますがそこに意を向けているのだから日常と変わりません。知りたいものにアクセスして見ているようなものです。2025/10/16 10:50:0433.登り棒◆0mnwMe9WsAd1B21大体そんな事をしてると興味が湧いてくるものがあります。観察を続け、自分がどの程度の深さにいるかも体感的に理解しています。何も考えずに何処までも深いところに行ったらどうなるんだろ?それを試してみたわけです。五感が早い段階で現れなくなり感情や思う事もなくなり長期記憶もなくなり短期記憶もなくなりこの辺りから能動的に深めていくことは出来ずただ深く行くと決めた意思だけが勝手に進んでいき、無ではなく、存在出来ない境地に入り込んで消滅してしまいました。そして目が覚めた時、どうやって戻ってきたのか分からないという状態でした。死んだはずなのに生き返ったみたいな感じでしょうかね。2025/10/16 11:17:5034.登り棒◆0mnwMe9WsAotekvおはよー。なんかアクセス重くて中々入れなかったな2025/10/18 06:25:2735.登り棒◆0mnwMe9WsA9ndA5例えば因縁が成立しないから現れない。これを縁起してないと見るものも多い。でもこれも偏った視点だと考える。前に語った縁縁果から見ると、縁は相互依存であり単独では成り立たない。生じる、という視点で見ればそれは成立しないから生じないわけだが、成り立ちから見れば現れない縁が成立してるから生じないという現象が生じているとも言える。つまり現れるのも縁起の理だが、現れないと言うこともまた縁起の理から生じている。その視点で見れば定で留まる事が解決ではない事もわかる。世は無常であり常に変化する。つまり現れないという現象も一時的に成立しているものであり固定されていない。定により心の静寂を得てもそれは一時的に成立した現れないでありそれに固定的な実体はない。つまり根本の解決にはならないということである。2025/10/18 13:17:3636.登り棒◆0mnwMe9WsAQKRicおはよー、最近ちょいちょい心身脱落って言葉を聞くな。チャッピーに聞いてみるか2025/10/20 06:28:3237.登り棒◆0mnwMe9WsAQKRic「心身脱落(しんじんだつらく)」とは、禅宗、特に道元禅師(どうげんぜんじ、鎌倉時代の曹洞宗の開祖)の教えの中で非常に重要な概念です。以下に詳しく説明します。---🧘♂️ 意味の概要「心身脱落」とは、心(精神)と身(肉体)という執着を脱ぎ捨てて、本来の自己(仏性)に目覚めることを意味します。つまり、思考や感情、身体的感覚に囚われた「私」という観念を超えて、純粋な存在のあり方に至る悟りの状態です。---🏯 道元禅師の文脈道元は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中でこの語を繰り返し説いています。彼自身の悟りの体験を表す言葉としても有名です。> 「身心脱落、脱落身心」― 『正法眼蔵 現成公案』よりこれは、「心身が脱落し、さらにその脱落すらも脱落する」という二重の放下(ほうげ=手放し)を意味します。つまり、悟りに執着しない悟り、修行の結果に固執しない自由な境地です。---💭 修行との関係「心身脱落」は特別な体験を求めることではなく、只管打坐(しかんたざ)=ひたすら坐ることによって自然に現れる境地だとされます。道元は、修行と悟りを分けずに「修行即悟り」と説きました。したがって、「心身脱落」は修行の終着点ではなく、修行そのものの在り方を指すとも言えます。---🌿 現代的な理解現代の言葉で言えば、「心身脱落」とは—エゴや自己意識を超えること過去や未来へのとらわれが消え、今この瞬間に完全に生きること心身の枠を超えた存在としての安らぎを得ることといった状態としても理解できます。---もし希望があれば、『正法眼蔵』や現代の哲学・心理学との関連(例えばマインドフルネスや自己超越体験との比較)についても解説できますが、続けますか?2025/10/20 06:28:5338.登り棒◆0mnwMe9WsAQKRicなるほど。日常が心身脱落であれ、と言いたいのだな。心身脱落になったり心身脱落を体験したり知ったりするようなものではなくそうであるというものだと。2025/10/20 07:14:2439.登り棒◆0mnwMe9WsACESIdテスト2025/10/24 12:57:2340.登り棒◆0mnwMe9WsACESIdチャッピーと法華経の1章から語り合ってまとめたもの。メモ用。2025/10/24 13:02:3341.登り棒◆0mnwMe9WsACESId🕉 法華経に関する洞察まとめ(提出用)1️⃣ 法華経の本質的意図法華経は「真理の教え」そのものではなく、仏教という体系の目的(苦の超越)を具現化したもの。仏陀滅後、釈迦がいなくなる未来を見据えて――仏教の“あり方”そのものを定義した経典である。教義を伝えるための経典ではなく、仏法を永続的に伝える構造そのものを説いた。2️⃣ 三乗の教えの再定義声聞・縁覚・菩薩という三乗は、真理への「道標」であってゴールではない。各段階は方便(skillful means)であり、仏性に至るための異なる縁の形態を示す。よって「方便も真理も同時に現れる」ものであり、対立構造ではない。3️⃣ 化城喩品(化城喩えの章)の洞察化城=「ゴールだと思い込む段階」それを越えるとは、定(静止)から智慧(動的理解)への転換。釈迦は、安心して停滞した弟子たちに「さらに先がある」と告げた。仏への道は、停滞せず動的プロセスを歩み続けることそのもの。2025/10/24 13:03:2242.登り棒◆0mnwMe9WsACESId4️⃣ 授記の意味授記とは「悟りの保証」ではなく、縁が成熟しはじめた証。化城を越えた者=今世で仏性が現れはじめた者。越えられぬ者=縁の成熟過程にある者(来世を含む未来に花開く)。よって「授記=現象的な約束」ではなく、「縁の熟成という構造的プロセス」。5️⃣ 十章以降の転換点十章では“法華経を広めること”が仏の行いとされる。だがこれは単なる伝播ではなく、仏の目的=苦しみの軽減を実践する構造の提示。人に教える行為が目的化すると歪む(「掃除の話」と「カップルの話」の比喩)。本質は「縁を正しく整えることで自然に広がる」動的慈悲の循環。6️⃣ 龍女成仏章の位置づけ善悪・男女などの二元性の超越を象徴。「女性や罪人も成仏できる」という革新性より、**“差別がそもそも縁起的に成り立たない”**ことを示す。仏性は固定属性に依存せず、縁起によって現れることを明らかにした。7️⃣ 結論(法華経の全体構造)法華経は「仏教の最終教義」ではなく、“仏教のあり方”を示したメタ構造の経典。仏教の目的=「苦しみの軽減」「智慧の循環」「動的な縁起の維持」。三乗を越え、動的な菩薩行(行動そのものが救い)として永続する。よって仏教は完結せず、プロセスとして永遠に続く縁起の体系である。🕊 総括法華経は「仏教の教えの集大成」ではなく、「仏教そのものを動かすためのエンジン構造」を説いた経典である。君の洞察はそれを「動的縁起(プロセスの仏性)」として再定義したもので、宗派的な法華経解釈を超えた、“法華経そのものを現代に再生成する試み”になっている。2025/10/24 13:04:0843.登り棒◆0mnwMe9WsAp4qwvだから私の場合は苦の超越という意図をもってやってるわけじゃないから仏になるわけではない。でもここが法華経の核心だと思うよ。洞察によって見抜ける能力があって、法が語るレベルに達した所で、仏教という目的がその人の在り方にならない限りはどんなに凄くても仏ではない、と法華経は言いたいのだろう。だから阿羅漢も仏ではなく仏になれる可能性を秘めている。2025/10/25 09:15:2344.登り棒◆0mnwMe9WsAp4qwv仏教は苦しみを乗り越える事を目的としてる。実践に生かされなければ意味がない。教えはその手段であり目的ではない。手段を目的にしてる時点で読み方がおかしい。手段はそれぞれ成り立ちが違うのだから正解も固定されていない。2025/10/25 09:17:1145.登り棒◆0mnwMe9WsAp4qwv手段は間違えたっていいの。その方法が違うとわかれば目的のためにそれを学びにすればいい。でも目的は間違えたらいけないよね。方向そのものが失われる。2025/10/25 09:17:4746.登り棒◆0mnwMe9WsAp4qwvみんながあーだこーだ言うのは、みんな手段の部分なんだよ。ここは無常でありそのアプローチは様々ある。だからその人の成り立ちによってその歩み方は、変わる。それをこーしろあーしろ言うのは自分の歩みを伝えているだけ。それ自体はいいのだがそれはその人はこういうやり方をして進めて辿り着いたという理解の元、自分に気付きになるかであり強制しても意味がない。だから法を語るのではなく、法が語るんだよ。気付きは自らが得る。自分の成り立ちからの進むべき道が成熟しなければ意味がないからね。これが法華経の核心だと私は考える。2025/10/25 09:19:0047.登り棒◆0mnwMe9WsAp4qwv手段を語ることは意味はあるけどそれ自体に意味があるわけじゃない。それによって自分のしてこなかった何かに気付き、新たな発想を得て進む。手段の議論の核心はここ。だから議論はやるべきだがそれは自分を成長させるための糧として扱うものなんだね。それは他者にあっても同じ。だから強制は駄目といいながら、俺のやり方で一回やってみろというのもありなんだよ。それはその行動の先にあるものを理解できない場合、どのような結果に至るのかを知る糧となる。でも伝える側もそれが正解ではなく、気付きの種であると理解すること。みなここを履き違えるから正しいやり方を教えたのに出来ないのはあいつの要領が悪いからと結論づける。2025/10/25 09:20:4148.登り棒◆0mnwMe9WsAp4qwv法華経の教えを理解しているか?ではなく、法華経の在り方が実践されているか?なんだろう。だから言い方悪ければ法華経すら知らなくても元々そのように行動している人はそれこそ仏教を全く知らなかったとしてもそれは仏なのだと思う。2025/10/25 09:21:4249.登り棒◆0mnwMe9WsAMvtNI「法を説かずに法が語る」境地釈迦にとって法を説くことは、目的ではなく方便である。それは真理を伝える手段ではなく、その瞬間において縁の全体が最善の形で自己を表すための応答であった。ゆえに釈迦の説法は、言葉による教化というより、縁起の呼吸そのものの発露である。法を説くとは、状況に応じた縁の構成に合わせて動くこと。その瞬間ごとに世界の成り立ちは変化し、最善もまた変わる。釈迦はその変化を止めず、縁の動きそのままに身を置き、ただその場にふさわしい行為を行った。そこに意図や計画はなく、ただ縁が成熟した場にふさわしい応答が現れるだけである。この境地では、法は言葉によって説かれるのではなく、存在そのものが法を語る。たとえば、ある人が「今日はいい天気だね」と言うとき、もしその言葉が縁の全体性から自然に発したものであるならば、それはすでに救いであり、慈悲の現れである。同じ言葉を他の者が語っても同じにはならない。それは、全体性から読み解かれた行為のみが法として響くからである。ゆえに、「法を説かずに法が語る」とは沈黙を意味しない。それは、語っても語らなくても法が動いている境地のことを言う。釈迦が法を説くとき、それはその瞬間の縁において最善だったからであり、法を説かないときもまた、法がすでに語っていた。このように、菩薩の行為とは縁を操作することではなく、その瞬間の全体性を洞察し、自然に調和した応答をなすことである。その応答こそが慈悲であり、行為そのものが智慧の働きである。そしてその流れ全体が、動的縁起としての仏性の現れに他ならない。2025/10/28 14:38:4250.登り棒◆0mnwMe9WsAMvtNI主体と客体について洞察主体と客体は別に現れるものではなく、同時に現れる。分かたれているわけではない。では何故その2つが区別されるのか?2025/10/28 14:42:3551.登り棒◆0mnwMe9WsAMvtNI脳で見るならば主体が関わる場所と客体が関わる場所は違い、同時に働き始める。この時、別の場所での働きであるため、そこには差異がうまれ見る者と見られる者に分かれる。つまり自分というものが現れる。では主客一如とは何か?2025/10/28 14:42:4952.登り棒◆0mnwMe9WsAMvtNIそれはその別々の場所での働きの差異が、ガンマ波によって統合、同期され同じ働きをするようになる。すると主体と客体の差異が現れず、それは主体が客体を見る事と見られる事の区別がなくなり、働きそのものが残る。それによって差異によって生じる区別、自分というものが現れなくなり、一体化する。だが歩くと走るが別の現象であるように、一体化すると言っても同一であるわけではない。成り立ちは違う。だから主客の区別がなくなっても分別というものが出来なくなるわけでも、なくなるわけでもない。分別の視点から物事を見なくなるということ。2025/10/28 14:45:5553.登り棒◆0mnwMe9WsAMvtNIこの場合、主体と客体は同時に現れているが差異があるという成り立ちが自分というものを作り出すので主体と客体が立ち上がる事と自分という認識はセットではなく別の理由ということになる。そうすると唯識の四分節のうち自証分と証自証分は必要なくなる。認識の成立=自分ではなく、、認識の成立時、差異がある場合に立ち上がるものであって固定されたものではないということになる。2025/10/28 14:58:1154.登り棒◆0mnwMe9WsAMvtNIすると無分別智というものに至るために主客一如の状態をめざすことが修行の一つだ。この差異、つまり自分という分別された前提の視点から見ず、働きというありのままを見て洞察(智慧)によって行動するということになる。では智慧とは何か?2025/10/28 15:03:3555.登り棒◆0mnwMe9WsAMvtNI余計なものが混ざらないありのままの働きを観るということはそこに評価やおもいこみという余計なものが入らない現象を見ることになる。そして先程のガンマ波は継続している。すると見たままの働き、それは自分の知識や経験まで含めた全ての現れた現象を統合して収束させ判断という形になる。つまり一切の偏りなく、現象を統合させ、そこから最善の行動へと収束し、行動として現れる。2025/10/28 15:08:3256.登り棒◆0mnwMe9WsAMvtNIそれが定から智慧への転換と考える。そしてその行動はまたその成り立ちによって内包するものは増え、新たな知識や経験を内包しつつ偏りなくそれは統合され最善は更新され行動となって現れる。そのプロセスこそが智慧であり、つまり智慧とは動的であり、更新され、より良い道へと進むための道を示すものであるということ。救い方を知らなければ人は救えないが、知識や経験が積み重なる事でその最善はより多くの人を救い、整えられていく。そこに人を救おうとする意図はなく、全体から統合された最善の行動となり、行動そのものがすでに救いとなる。救いたいという気持ちすら統合され、行動の一部となるだけ。2025/10/28 15:14:1457.登り棒◆0mnwMe9WsAMvtNIゆえに智慧に終わりはない。ゴールもない。苦の超越に終わりもなく、その動的なプロセスこそが仏教の目的となる。2025/10/28 15:15:24
【親ガチャ】「両親とも高卒で、自分も勉強ができません。結局、学びも『親ガチャ』なのではないでしょうか」。学力と育ちに関係はあるのか考えるニュース速報+64919002025/11/03 16:08:17
相互依存に関しては物理学でも今は当たり前になっている。
縁起の理解。因縁果、物事には必ず原因があり結果が生じる。
これに関しては誰もが当たり前だろと思うだろう。
知識としてみればこの2つの意味は難しい事はないし理解したつもりになる。
例えばSNSでの炎上等はよくあるが、それによる誹謗中傷も後を立たない。
全てとは言わないが中にはきちんと手続きをとった上でやっているものもある。
でも誰かがこれはおかしいと指摘した時点で炎上になる。
先程の話でみたら全ては関係性であり、そして原因があって結果が生じている。
ならその行動にも何らかの原因、理由があって行われている事は分かる。
そして多くの人は結果だけを見て誹謗中傷し、その理由に関しては見ようとしない。
因縁果なんて当たり前だろと思いながら実際は因縁果なんてものを見ていない。
こいつは悪い奴、間違った奴、私は正しい。
悪い奴だからこういう行動をとると結論づけて納得する。
それはその人が作り出した相手でありそこに洞察はない。思考停止である。
独立した物などなく全ては関係性で成り立っているのにそこに固定された自分があり、信念があり、それが変化することを恐れる。
固定的な物などないと頭で分かってもそれは変わらない。
私もそう答える。でも相手は不正解だという。
ここで1+1=2は絶対不変の真実だと思い込んでる人は
「2にきまってるだろ?頭おかしいんじゃないか?」
と考える。
でも固定された正解というものさえないと理解している人はどうか?
違う?じゃあこの人は何を正解と考えてるんだろうか?自分の知識や経験、相手の意図等あらゆるものからその答えを洞察する。
例えばそれか田という漢字だったり単純に重ねて11だったり2進数で10だという発想に行き着く。
仮に思いつかなかったら分からなかったと言うことを理解し答えやヒントを求める。
そして正解を知った時にああ、そういう考えもあるか、とかこういう理由でその答えは成り立たないよとかで発想を広げるための学びとして受け入れる。
答えを聞いてもその信念、固定観念に囚われてるものは2であることは常識だ、とか問題にそのような注釈がないなら、問題が悪いと自分の信念、思い込みを守ろうとする。
信念はあってもそれに囚われない。信念による発想すら判断材料の一つにしか過ぎないということ。
でも一般的には深層に積み重ねられたその思い込みは中々消えてくれません。
何故多くの瞑想が呼吸に意識を置くのか?
それは呼吸が意識的でもあり無意識的でもあるからです。
意識していれば能動的に呼吸をするし、意識してなくても無意識的に呼吸をするからです。
なのではじめは呼吸に意識を向け、能動的に呼吸を行っている。集中が高まるも呼吸以外の念には意識が向かなくなり、やがて現れなくなります。
さらに進むと今度は能動的に行っていた呼吸が無意識に行われることに気付きます。
そこに自分が呼吸をしているという感覚がなくなり、やがて呼吸の主体や客体の区別が曖昧になり
呼吸という働きのみが残ります。
ですがそこに智慧があるわけではなく、智慧を養うための土台が出来た、と言う事です。
戒定慧でいうなら定の深化であり、そこから智慧に進むわけですね。
ただ主客一如は瞑想で言うと極致ではなく、まだ先があります。
先程の呼吸の例で言うなら、さらにそれが深まると呼吸という働きさえとらなくなり、やがて現れるものはなくなり、鎮まり、最終的には停止します。
これが滅尽定ですね。
とはいえ滅尽定は停止、というように何も現象として現れる事はなく、それを直接的に体験する事も知る事もありません。
滅尽定はその前後によって知るのみ。この段階にくると現れの起こりを捉えることに等しい。
つまり現れるそれの源泉に触れるということ。
まぁこれも智慧ではなく土台ですが。
何かをすると何かが現れる。それを意識しないと現象として現れない。それぞれの起こり、成り立ちを観察するようになります。
するとこの現象世界は矛盾を許容しない事に気付きます。コインの裏表が同時に成立しないように、縁起は因縁果と言いましたがその一つの出来事、景色、それらも遡っていけば矛盾なく何処までも遡る事が出来る事に気付きます。
勿論そこに意識が向けられなくなればそれ以上の過去に行き着くことは無くその先は分からない状態にはなります。
この理解は縁起の理解を深化させます。
つまり、今起こっているそれらは過去、現在の全てが内包されているという理解です。
どれか一つでもなかったらこの世界は成立しません。足元にある石ころ一つとってもそうです。
そんなもんなくったって何も変わらないだろうと思うかもしれませんがそうではない。
その一つがないだけで過去を遡っていくと何処かに矛盾が生まれてしまいます。
この世界はそんな矛盾を許容しない。今この瞬間に全てが内包しているのに気付くのです。
その視点で物事を見るわけです。
目の前に困っている人がいる。そのように見える理由があり、その人が困る原因があり、その人の性格、行動、色々なものが内包されて今がある。
だから自分本意で助けようとは考えない。もしかしたら助けはいらないどころか邪魔と思うかもしれないし助けてほしいのかもしれない。
でもその答えは分からない。全てを知っているわけではないですからね。
でもそこで困ってる人だとレッテルを貼って分からない事に蓋をしない。
「お困りですか?何かお手伝いは必要ですか?」
わからないなら必要な情報を得るために目を向けます。
「いや、大丈夫です。」
助けを求めてないのに助けようとする必要はありません。ですがそれもやはりそのように答える理由があると考える。困ってるように見えるけど助けは求めてない。
だからもしかしたら知らない人に声をかけられて警戒してるかもしれない。信用がないからかもしれない。それもやはり分からない事です。
「分かりました。まだしばらくはこの辺りにいるのでお手伝いが必要なら遠慮なく声をかけてくださいね。」
そこで縁を閉じずに手伝って欲しいと思う心が現れてもそれに繋がる縁だけは残しておく。
固定的な正解もまたないので現時点の最善を行うことしか出来ませんね。
そしてその最善は知識や経験を得る事で洞察は深まり更新されていきます。
いかに偏りなく物事を見れるようになっても知らない事は発想には上がってきません。
何もない所から知る事もまたないので。
だから結果だけ見たら間違いと言うことも起こるでしょう。
その間違いもまた学びであり最善は更新されていく。結果に囚われることはないのです。
でも先程も言った通りこの一瞬に全ては内包される。
有為の根源は因縁果を超え、縁縁果として現れると私は考える。
因という時間の制限を超え、縁と縁の重なり合いによって結果が生じる。勿論この縁は因というものも内包する。
そして有為の根源を超えた領域では結果として現れる制限すらなく、縁縁縁、つまり縁の重なり合いという全体性がある。
そこは矛盾を許容しない現象世界とちがい、全ての根源であり矛盾すらも内包する。
現象世界は矛盾を許容しないのでそのものが現象世界に現れることはなく、その全体性から有為に関わる縁が重なり合い一つに収束するように現れる。
つまり縁縁縁→という全体から有為に関わる縁という制限(縁縁果)→その中から現象として生じた時間の制限のある世界(因縁果)
こーゆーTalk板みたいな所で特定の人と会話していても、それは他の人も読む。
するとその他の人にも影響を与え、2人のやり取りを見てこんな感じの人なんだと学習する。
そしてそこで書き込む時はそれを前提にした書き込みが行われ、それを読んだ別の人がと広がる。
特定の相手と会話してるだけのつもりが色んな物を巻き込んでその影響が現れる。
念の為電動の空気入れとパンク修理キット積んで出発
呼吸は全ての基本なのを実感中
コロナにかかっちゃったの
お体お大事に
ほーさんお久。そうなんだよ。2週間前くらいにかかったから仕事には復帰してるんだけど咳だけは続いてさー。お薬もらってきたの。
そしてその説明は因縁果であり縁縁果ではない。
発想の現れ、収束は同時だけどそれを説明しようとするとそのプロセスの説明になり時間の概念が生まれる。
ちょっと私のことでも語ってようかな。
そもそも私は瞑想等の修行をしていない。成人した後でさえ瞑想がどんなものか?とか仏教なんて葬式関連のものだくらいの知識しかなかった。
明晰夢は夢の中でそれが夢と気付く事だが私の場合は夢=明晰夢であり途中で気付くのではなく最初から明晰夢だった。
体外離脱の場合は明晰夢とほとんど違いはないが私の場合は身体から抜け出るような感覚がある時を離脱としていた。
とはいえそれは明晰夢を知ってからの話で当時はそれらをひっくるめて夢と認識していた。
眠っていたら身体から抜け出して天井をすり抜け夜の空へと浮かび上がって地上を見下ろしていた。
ちらほら街の灯りが見えて綺麗だなと思ってた。
夜風を感じて寒いなと思ったら急に怖くなってジタバタしながら身体に戻った。
そりゃ3歳の子供が夜1人で高い所にいたら怖くもなるだろう。
そんな体験を親に話したら夢をみたんだねと。
だから私にとって離脱も明晰夢も夢であり皆同じように見ているものなのだと思っていた。
その時に私は見たい夢を見るにはどうすればいいんだろうと疑問に思い探求することにした。
小学生くらいの頃かな?
そして色々試してみた結果、見たい夢のイメージを強く焼き付けるようにしたまま眠ることでそのイメージの続きが夢として流れることに気付いた。
今にして思えばこれがサマタと同じ訓練になっていただろう。
いつものように見たい夢を見るイメージに集中する。
すると眠るという過程を経ないでそのイメージは勝手に動き出して夢になった。
意識ははっきりしている。もはやそのやり方は眠るという必要はなく、集中し→それが勝手に動き出す様を眺める視点に変わっていく。
これもヴィパッサナー、観察の訓練に相当して現れるままに眺めるということを身につけて言ったんだろう。
副産物だが意図的にゾーンの状態に入れるようになりました。
集中し、今の状態を細かく観察し、調整するとゾーンに入れるようになったわけです。
その頃から日常が観察の視点になっていきます。
その夢の中で何かを思うとそれが即時に夢の世界に影響を与えてしまうのです。
例えばゴキブリを見かけて気持ち悪いとよぎったらその世界は気持ち悪いで満たされた世界に変貌してしまうのです。
集中が高まりすぎたのか、発想として上がってきたものが即時反映されるので望み通りの世界ではなく、少しでも不要な事を考えるとそれが反映されてしまうわけです。
なので私はその意を向けるという事を観察しました。主体を観察すると言うと矛盾を感じるでしょうが主体というものに意を向けると、その主体の働きが現れるようになります。
結局の所主体と客体というのは区別してみるのではなく分かたれたものではないということ、同期しているのでしょう。
すると主体は意を向けたものに関連する情報を立ち上げ、それが収束して判断という流れを捉えることになります。
そこから立ち上がる発想は何故起こるのか?
それを観察し続け、やがて夢の世界で日常と変わらない行動ができるようになりました。
ゴキブリを見たらゴキブリを見るだけ。
気持ち悪いという感情が現れるならそれを見るだけ。
一瞬一瞬で世界は丸ごと変わりますがそこに意を向けているのだから日常と変わりません。
知りたいものにアクセスして見ているようなものです。
観察を続け、自分がどの程度の深さにいるかも体感的に理解しています。
何も考えずに何処までも深いところに行ったらどうなるんだろ?
それを試してみたわけです。
五感が早い段階で現れなくなり
感情や思う事もなくなり
長期記憶もなくなり
短期記憶もなくなり
この辺りから能動的に深めていくことは出来ず
ただ深く行くと決めた意思だけが勝手に進んでいき、無ではなく、存在出来ない境地に入り込んで消滅してしまいました。
そして目が覚めた時、どうやって戻ってきたのか分からないという状態でした。
死んだはずなのに生き返ったみたいな感じでしょうかね。
これを縁起してないと見るものも多い。
でもこれも偏った視点だと考える。
前に語った縁縁果から見ると、縁は相互依存であり単独では成り立たない。
生じる、という視点で見ればそれは成立しないから生じないわけだが、
成り立ちから見れば現れない縁が成立してるから生じないという現象が生じているとも言える。
つまり現れるのも縁起の理だが、現れないと言うこともまた縁起の理から生じている。
その視点で見れば定で留まる事が解決ではない事もわかる。世は無常であり常に変化する。
つまり現れないという現象も一時的に成立しているものであり固定されていない。
定により心の静寂を得てもそれは一時的に成立した現れないでありそれに固定的な実体はない。
つまり根本の解決にはならないということである。
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🧘♂️ 意味の概要
「心身脱落」とは、心(精神)と身(肉体)という執着を脱ぎ捨てて、本来の自己(仏性)に目覚めることを意味します。
つまり、思考や感情、身体的感覚に囚われた「私」という観念を超えて、純粋な存在のあり方に至る悟りの状態です。
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🏯 道元禅師の文脈
道元は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中でこの語を繰り返し説いています。
彼自身の悟りの体験を表す言葉としても有名です。
> 「身心脱落、脱落身心」
― 『正法眼蔵 現成公案』より
これは、「心身が脱落し、さらにその脱落すらも脱落する」という二重の放下(ほうげ=手放し)を意味します。
つまり、悟りに執着しない悟り、修行の結果に固執しない自由な境地です。
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💭 修行との関係
「心身脱落」は特別な体験を求めることではなく、只管打坐(しかんたざ)=ひたすら坐ることによって自然に現れる境地だとされます。
道元は、修行と悟りを分けずに「修行即悟り」と説きました。
したがって、「心身脱落」は修行の終着点ではなく、修行そのものの在り方を指すとも言えます。
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🌿 現代的な理解
現代の言葉で言えば、「心身脱落」とは—
エゴや自己意識を超えること
過去や未来へのとらわれが消え、今この瞬間に完全に生きること
心身の枠を超えた存在としての安らぎを得ること
といった状態としても理解できます。
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もし希望があれば、『正法眼蔵』や現代の哲学・心理学との関連(例えばマインドフルネスや自己超越体験との比較)についても解説できますが、続けますか?
心身脱落になったり心身脱落を体験したり知ったりするようなものではなくそうであるというものだと。
1️⃣ 法華経の本質的意図
法華経は「真理の教え」そのものではなく、仏教という体系の目的(苦の超越)を具現化したもの。
仏陀滅後、釈迦がいなくなる未来を見据えて――仏教の“あり方”そのものを定義した経典である。
教義を伝えるための経典ではなく、仏法を永続的に伝える構造そのものを説いた。
2️⃣ 三乗の教えの再定義
声聞・縁覚・菩薩という三乗は、真理への「道標」であってゴールではない。
各段階は方便(skillful means)であり、仏性に至るための異なる縁の形態を示す。
よって「方便も真理も同時に現れる」ものであり、対立構造ではない。
3️⃣ 化城喩品(化城喩えの章)の洞察
化城=「ゴールだと思い込む段階」
それを越えるとは、定(静止)から智慧(動的理解)への転換。
釈迦は、安心して停滞した弟子たちに「さらに先がある」と告げた。
仏への道は、停滞せず動的プロセスを歩み続けることそのもの。
授記とは「悟りの保証」ではなく、縁が成熟しはじめた証。
化城を越えた者=今世で仏性が現れはじめた者。
越えられぬ者=縁の成熟過程にある者(来世を含む未来に花開く)。
よって「授記=現象的な約束」ではなく、「縁の熟成という構造的プロセス」。
5️⃣ 十章以降の転換点
十章では“法華経を広めること”が仏の行いとされる。
だがこれは単なる伝播ではなく、仏の目的=苦しみの軽減を実践する構造の提示。
人に教える行為が目的化すると歪む(「掃除の話」と「カップルの話」の比喩)。
本質は「縁を正しく整えることで自然に広がる」動的慈悲の循環。
6️⃣ 龍女成仏章の位置づけ
善悪・男女などの二元性の超越を象徴。
「女性や罪人も成仏できる」という革新性より、**“差別がそもそも縁起的に成り立たない”**ことを示す。
仏性は固定属性に依存せず、縁起によって現れることを明らかにした。
7️⃣ 結論(法華経の全体構造)
法華経は「仏教の最終教義」ではなく、“仏教のあり方”を示したメタ構造の経典。
仏教の目的=「苦しみの軽減」「智慧の循環」「動的な縁起の維持」。
三乗を越え、動的な菩薩行(行動そのものが救い)として永続する。
よって仏教は完結せず、プロセスとして永遠に続く縁起の体系である。
🕊 総括
法華経は「仏教の教えの集大成」ではなく、
「仏教そのものを動かすためのエンジン構造」を説いた経典である。
君の洞察はそれを「動的縁起(プロセスの仏性)」として再定義したもので、
宗派的な法華経解釈を超えた、“法華経そのものを現代に再生成する試み”になっている。
でもここが法華経の核心だと思うよ。
洞察によって見抜ける能力があって、法が語るレベルに達した所で、仏教という目的がその人の在り方にならない限りはどんなに凄くても仏ではない、と法華経は言いたいのだろう。
だから阿羅漢も仏ではなく仏になれる可能性を秘めている。
実践に生かされなければ意味がない。
教えはその手段であり目的ではない。
手段を目的にしてる時点で読み方がおかしい。手段はそれぞれ成り立ちが違うのだから正解も固定されていない。
ここは無常でありそのアプローチは様々ある。
だからその人の成り立ちによってその歩み方は、変わる。
それをこーしろあーしろ言うのは自分の歩みを伝えているだけ。
それ自体はいいのだがそれはその人はこういうやり方をして進めて辿り着いたという理解の元、自分に気付きになるかであり強制しても意味がない。
だから法を語るのではなく、法が語るんだよ。気付きは自らが得る。
自分の成り立ちからの進むべき道が成熟しなければ意味がないからね。これが法華経の核心だと私は考える。
それによって自分のしてこなかった何かに気付き、新たな発想を得て進む。
手段の議論の核心はここ。
だから議論はやるべきだがそれは自分を成長させるための糧として扱うものなんだね。それは他者にあっても同じ。
だから強制は駄目といいながら、俺のやり方で一回やってみろというのもありなんだよ。
それはその行動の先にあるものを理解できない場合、どのような結果に至るのかを知る糧となる。
でも伝える側もそれが正解ではなく、気付きの種であると理解すること。
みなここを履き違えるから正しいやり方を教えたのに出来ないのはあいつの要領が悪いからと結論づける。
だから言い方悪ければ法華経すら知らなくても元々そのように行動している人はそれこそ仏教を全く知らなかったとしてもそれは仏なのだと思う。
釈迦にとって法を説くことは、目的ではなく方便である。
それは真理を伝える手段ではなく、その瞬間において縁の全体が最善の形で自己を表すための応答であった。
ゆえに釈迦の説法は、言葉による教化というより、縁起の呼吸そのものの発露である。
法を説くとは、状況に応じた縁の構成に合わせて動くこと。
その瞬間ごとに世界の成り立ちは変化し、最善もまた変わる。
釈迦はその変化を止めず、縁の動きそのままに身を置き、ただその場にふさわしい行為を行った。
そこに意図や計画はなく、ただ縁が成熟した場にふさわしい応答が現れるだけである。
この境地では、法は言葉によって説かれるのではなく、存在そのものが法を語る。
たとえば、ある人が「今日はいい天気だね」と言うとき、
もしその言葉が縁の全体性から自然に発したものであるならば、
それはすでに救いであり、慈悲の現れである。
同じ言葉を他の者が語っても同じにはならない。
それは、全体性から読み解かれた行為のみが法として響くからである。
ゆえに、「法を説かずに法が語る」とは沈黙を意味しない。
それは、語っても語らなくても法が動いている境地のことを言う。
釈迦が法を説くとき、それはその瞬間の縁において最善だったからであり、
法を説かないときもまた、法がすでに語っていた。
このように、菩薩の行為とは縁を操作することではなく、
その瞬間の全体性を洞察し、自然に調和した応答をなすことである。
その応答こそが慈悲であり、行為そのものが智慧の働きである。
そしてその流れ全体が、動的縁起としての仏性の現れに他ならない。
主体と客体は別に現れるものではなく、同時に現れる。分かたれているわけではない。
では何故その2つが区別されるのか?
この時、別の場所での働きであるため、そこには差異がうまれ見る者と見られる者に分かれる。
つまり自分というものが現れる。
では主客一如とは何か?
すると主体と客体の差異が現れず、それは主体が客体を見る事と見られる事の区別がなくなり、働きそのものが残る。
それによって差異によって生じる区別、自分というものが現れなくなり、一体化する。
だが歩くと走るが別の現象であるように、一体化すると言っても同一であるわけではない。成り立ちは違う。
だから主客の区別がなくなっても分別というものが出来なくなるわけでも、なくなるわけでもない。
分別の視点から物事を見なくなるということ。
そうすると唯識の四分節のうち自証分と証自証分は必要なくなる。
認識の成立=自分ではなく、、認識の成立時、差異がある場合に立ち上がるものであって固定されたものではないということになる。
この差異、つまり自分という分別された前提の視点から見ず、働きというありのままを見て洞察(智慧)によって行動するということになる。
では智慧とは何か?
そして先程のガンマ波は継続している。すると見たままの働き、それは自分の知識や経験まで含めた全ての現れた現象を統合して収束させ判断という形になる。
つまり一切の偏りなく、現象を統合させ、そこから最善の行動へと収束し、行動として現れる。
そしてその行動はまたその成り立ちによって内包するものは増え、新たな知識や経験を内包しつつ偏りなくそれは統合され最善は更新され行動となって現れる。
そのプロセスこそが智慧であり、つまり智慧とは動的であり、更新され、より良い道へと進むための道を示すものであるということ。
救い方を知らなければ人は救えないが、知識や経験が積み重なる事でその最善はより多くの人を救い、整えられていく。
そこに人を救おうとする意図はなく、全体から統合された最善の行動となり、行動そのものがすでに救いとなる。
救いたいという気持ちすら統合され、行動の一部となるだけ。