【チェック】邪馬台国は甘木にあった!数学者の半沢氏が中国古代数理科学で解析 福岡県朝倉市で講演会【アウト】最終更新 2025/06/18 12:181.名無しさん@涙目です。EiI9a公益社団法人甘木朝倉法人会(福岡県朝倉市)は16日、金沢大元准教授の半沢英一氏を講師に、中国古代数理科学の視点から魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の所在地についての講演会を朝倉地域生涯学習センター(同市)で開いた。邪馬台国が甘木にあったとする説に来場者120人が耳を傾けた。 数学者で専門は解析学の半沢氏は「魏が邪馬台国に使者を派遣したとされる西暦240年代は、約430メートルだった1里が、度量衡変更で約80メートルに短縮されていた」と主張。「倭人伝に書かれている方向や距離、対馬や壱岐の大きさも現実とほぼ符合し、非常に厳密に記述されていることが分かる」と評価した。使者一行には古代中国数理科学書である「周髀算経(しゅうひさんけい)」や「九章算術」に精通した学者が同行し、正確な測量をしていた可能性にも言及した。 本土上陸地点は通説の唐津市(佐賀県)付近ではなく、博多湾沿岸と比定。「そこから記述通りに行けば、邪馬台国は甘木中心部(朝倉市)になる」と結論づけた。半沢氏は「距離は空想だとか、方向を間違ったなどとして結論を導き出す従来の手法よりも自然だと思う」と話した。https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1318123/2025/02/23 15:01:36554コメント欄へ移動すべて|最新の50件505.名無しさん@涙目です。rKhBjhttps://note.com/langdiclab/n/n548cf79c8e66熊野の地名由来と遼河文明これ面白い。ドラビダとか馬鹿の一つ覚えのように言ってんじゃないよww2025/05/29 05:34:50506.名無しさん@涙目です。RIiJmいつものキチガイ2025/05/30 19:12:45507.名無しさん@涙目です。RIiJm典型的な満州起源説を持ってきたいチョンまずは帰れ2025/05/30 19:14:20508.名無しさん@涙目です。RIiJm遼河起源説を唱える勢力は「畿内説(大和政権=奈良起源説)」と非常に親和性が高いいつもの畿内キチガイそのためのロジック2025/05/30 19:27:47509.名無しさん@涙目です。VEHrv湾状の水辺を「みなと(水戸)」と呼んだように、谷間を入口とする空間を「やまと(山戸)」と呼んだ可能性はある。甘木はまさにこの地形。2025/05/30 19:49:02510.名無しさん@涙目です。VEHrv>>21馬具と紅花が出るんだろ。通常は4世紀になるところを、炭素測定で3世紀と言い張っているだけ。誤差の可能性を無視してな。2025/05/30 19:50:23511.名無しさん@涙目です。X64O4>>507湾状の水辺を港・湊とはいうが、水戸とは言わない。水戸は水戸口。海から川に入っていくときの河口の部分とか、運河の入口などを言った。水戸口というのは一般名詞で、どこにでも地名として残ってるよ山戸口というのは条里制の名残だろう。戸口(とこう、ここう)というのは一軒の家を単位として年貢とか徴用する男子を決める基準。一里は基本50戸。平地とか水辺に村や集落があるときに、山の中にもいくつか集落があり、まとめれば50軒になるというような場合、それを戸口とする。その戸口が山にあったから山全体を一里とし、そこを山戸口といっただけのことだよ。2025/05/31 03:33:42512.名無しさん@涙目です。LbF7x邪馬台国にはキチガイと長文コピペ荒らしが湧いてくるのはなぜ?2025/05/31 06:01:57513.名無しさん@涙目です。X64O4>>507山門が甘木だとするのはまさに安本美典説だ。黴臭い説を引っ張り出してきたもんだなこの問題は、ズーズー弁で解けるんだよ卑弥呼もズーズー弁だったんだわな2025/05/31 06:05:34514.名無しさん@涙目です。mGTukいつもの畿違いのアンカ間違い?で良くわからない2025/06/02 00:58:13515.名無しさん@涙目です。SrYhi↑ またあんか違いかよ。これしか書けない阿呆、憐れwさて、大和の語彙の定義といくか大和は、もとは倭と書いたが、倭は見た目も意味も良くないので、「和」と書くようになった。その一字で「やまと」と読んだ。その後、「大」をつけて「大和」と書くようになったのである。2025/06/02 05:16:21516.名無しさん@涙目です。SrYhi次に大和の意味な。大和は、もともとは山戸、ないし山門と思われる。「戸」とは入口を覆う扉、あるいは入口そのものを言う。後者の場合、「門」と書いて「と」と読むことがある。漢字の成り立ちとしては、入口に置いた棒(横木)一本と、家の周囲の垣根を表したものだ。入口を閉ざす棒ないし板、あるいは通路や家、敷地の入口そのものを表したものと考えてよい。戸、ないし門のつく語を検討する。瀬戸瀬の戸である。島と島の間の両側から岸壁が迫っているような狭い水路のようなものを言う。両側から岸や岩が迫った門のようなところと、そこを入って通り抜ける水路のような場所の両方を言うのだろう。谷戸谷状になっているところ。両側から山肌が迫り、谷になって落ち込んでいるところ。井戸「井」だけで井戸の意味がある。戸は穴の意味。井だけだと、噴出泉のような、地面から水が湧き出しているような井戸の意味だけである。縦に穴を掘って水を組みだすようなものが井戸。横井戸というのもある。これは水が自然に湧き出しているところから水路を作って導く場合は井戸というべきである。2025/06/02 05:18:09517.名無しさん@涙目です。SrYhiつづき、長門ちなみに、山口県の古名は長門だが(周防もだが)、長門はもともとは穴戸(あなど)のことだった。穴戸ないし穴門は関門海峡のことを言う。本州と九州の間は、6000年前に地面が割れて海峡になったのである。だから双方の先端は島々になり、くっつき合っている。その間に一本の川のような、あるいは水路のようなものがある。それが関門海峡である。https://www.eorc.jaxa.jp/earthview/2008/img/tp080213_04.jpgこれはふつうの写真。https://yamaguchi-tourism.jp/photo/detail_1400172.html海側から見ると、関門海峡の入口というのは穴のように見えたのだろう。以上からすると、「やまと、山戸、山門」というのは、山が迫っている場所、あるいは山道が始まるような場所を言うと思われる。「やまと」を「山の麓」と解する説もあるが、実際のところ、それで間違いではない。ただし、山の麓といっても、すぐ脇に山が屹立しているわけではあるまい。一定の大きさの集落や田畑のある場所が山に囲まれているといった感じで、一方が平地や河川、湖や湿地に繋がるような場所も入る。一言で言えば、「山懐に抱かれた」といった感じのところを言うのだと思われる。2025/06/02 05:18:40518.名無しさん@涙目です。q9hekとりあえず、正しくアンカしろよ畿違い2025/06/02 06:02:13519.名無しさん@涙目です。SrYhiお前、惨めすぎるぞあんか違いしか言えないのかなんでもいいから反論してみれ>>516は知的障害を伴う発達障害2025/06/02 21:05:29520.名無しさん@涙目です。ZFoLI藤尾慎一郎という学者知らないと古代史オタクとしては失格。この人は、弥生時代が始まったとされる時期を10BCまで遡らせた。従来は5~4BCとされていたので、およそ500年遡らせてしまったわけだが。それ以前の3BC頃という説からだと、700年も遡ることになる。700年も遡るとどうなるかというと、現代からそれだけ遡ったら後醍醐天皇の正中の変がおきた頃になってしまう。言い方を変えると、弥生時代がそれだけ長くなったということである。ということは、稲作はおそろしいほど長い時間をかけて東に広まっていったということになる。関東が一番遅く、関西では当たり前に米を作っているのに、何百年も縄文の暮らしを続けていた。2025/06/04 07:07:51521.名無しさん@涙目です。ZFoLI藤尾慎一郎〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作 (歴史文化ライブラリー 329)Amazon のカスタマーレビューはおそろしくレベルが高い。これだけでも読むべきだ。2025/06/04 07:15:08522.名無しさん@涙目です。YaWD4孫栄健の邪馬台国の全解決が正解だ。とっくに正解が出てるのに的外れの論争を続けてる人たちは一体何なの?2025/06/04 16:57:37523.名無しさん@涙目です。A7lLC↑宝島社の本www邪馬台国には直接かかわらないが、武光誠 「渡来人とは何者か: その実像と虚像を解く」(河出書房新社)https://toyokeizai.net/articles/-/858918弥生時代までに日本にいた人々は、現代の日本人とはかなり違った人たちだった。縄文人+ 北東アジア祖先古墳時代の300年間に大量の東アジア人2025/06/05 07:08:55524.名無しさん@涙目です。A7lLC途中で送信しちまったい。古墳時代の300年間に大量の東アジア人(現代の中国人と同じ)が入ってくる。そしてその数は、当時日本にいた人の四分の一に達した。関西人は特に中国人の遺伝子を多く持っている。2025/06/05 07:12:21525.名無しさん@涙目です。KaEKuぶっちゃけどうなの邪馬台国朝倉説!其の壱 女王卑弥呼ってどんな人編https://www.youtube.com/watch?v=3xGlVjK2jucこの先生の話が一番しっくりくる2025/06/05 21:33:04526.名無しさん@涙目です。GR0Wr邪馬台国は北九州30ヶ国の総称で畿内を征服する前のやまとの国だよ2025/06/06 06:27:03527.名無しさん@涙目です。Dlc7o卑弥呼の時代は、まだ我々日本人の祖先のうち東アジア人(現代中国人と同じ遺伝子の人々)は渡ってきていなかった。縄文人と北東アジア人(おそらく山東半島・遼東半島、黄海沿岸から朝鮮半島南部に移動した倭人たち)の二種だけだった。もともと倭人たちは朝鮮半島南部で縄文人と混血していた。さらに日本に渡ってきてからも縄文人との混血は続いた。だから、当時の人々(弥生人)は、縄文の血が濃かった。宗教や風俗などにも縄文人の影響が大きかったはずである。だから、卑弥呼はおそらく耳飾りと首飾りを下げていた。歯はおはぐろをし、眉は全部抜いて額に入れ墨で眉を描いていた。呪術にしても、北方の部族のシャーマンというのは男ばかりである。女性のシャーマンは南方系のものである。朝鮮では南部の沿岸地域に女性の巫女の風習が残っているが、これは日本に渡った人たちのの同類がいたためである。巫女のうちでも、神に使える巫女は、処女であり、かつ部族のうちで最高の美女であることが求められた。神の側女(そばめ、一夜妻)であるから当然である。部族(クニ)が連合すると、クニグニ全体のうちで最高の美女が選ばれて日の神に捧げられた。美人であればあるほど神は喜ばれる。神が喜ばれれば佳いことが多く起こる。美人選びは真剣であり、しかも、神に捧げるほどの美女はそう簡単に見つかるものではなかった。一つのクニ単位で選んでも見つからないのが普通である。だから多くのクニグニの美女が選別の対象となり、そのうちの最高の美女が神に使える巫女となったのである。クニグニの連合体というのは、このようにして巫女選出のために出来上がったものであり、政治的な目的のためのものではなかった。それがある程度政治面での宣託をなすようになったのは、かなりの時代を経てからのことである。2025/06/06 09:34:22528.名無しさん@涙目です。Fz7D2畿内説が有力学者も言っている2025/06/06 18:25:23529.名無しさん@涙目です。OXT8I畿内説は偽学者地位と金のために嘘を流布してるだけ2025/06/06 22:49:10530.名無しさん@涙目です。KAiaD九州甘木・朝倉説はほんとに吉野ヶ里以上の遺跡も出てきたし、なんといっても場所がいい。福岡市 → 大宰府 →朝倉市 とほぼ一直線だし、博多湾に流れ込む大きな川沿いの町。博多湾から40キロ程度の場所。山の中の僻村というイメージがあるがそうでもない。東京になぞらえると、東京湾から40キロだと八王子あたりの位置である。魏志倭人伝に登場する「奴国」は、現在の博多(福岡市博多区)周辺という。博多から甘木なら歩いて一日の距離だし、水運なら歩かずに一日で行ける。帰りは半日かからない。めっちゃ近い。しかし、だ。それなら魏の使いは邪馬台国まで行ったんじゃないか。どうも行かずに伝聞で書いている感じがあるのは何故なのか。さらに奴国と邪馬台国の間には不弥国と投馬国というのがあったわけだが、それぞれけっこう大きなクニで、しかも魏志倭人伝によれば距離がけっこうある。奴国から東へ行くと、不彌国に至る、百里である。不彌国から南に行くと投馬国に至る、水行二十日である。百里についてはどうとも考えられるが、水行二十日はどうにもならない。たった40キロかそこらの距離で、その間に二つも国があるというのもおかしい。2025/06/08 06:00:55531.名無しさん@涙目です。KrJSrそもそも一つと考える方がおかしい2025/06/08 07:06:06532.名無しさん@涙目です。KAiaD奴国以降は、対馬に一回もどって、そこからもう一回引き返して邪馬台国に行くと辻褄があうという説があったな2025/06/08 08:50:51533.名無しさん@涙目です。7KEp7地理的にも畿内はありえないね邪馬台国の500年後に韓国から出雲、若狭を経て日本を建国したのがヤマチョ男系男子の男尊女卑がヤマチョ女王中心の国家が邪馬台国国体が違いすぎるナラ(半島語でクニを表す)のヤマチョの頃は新潟から高句麗が埼玉に入植もしている2025/06/08 09:37:02534.名無しさん@涙目です。dAT80邪馬台国って徳川埋蔵金みたいなもんでしょウワサ話ばかりで確たる証拠が何も残ってない2025/06/08 10:17:27535.名無しさん@涙目です。VDmq6甘木も北九州やまとの国の中の一国なんだよ2025/06/08 11:16:45536.名無しさん@涙目です。9zS2gだから魏の使者は伊都国までしか来てないんだってwそっから先については倭人が適当に言ったことを報告しただけなんだよw2025/06/08 11:39:08537.名無しさん@涙目です。VDmq6卑弥呼がいた女王国は奴国だよ2025/06/08 11:42:43538.名無しさん@涙目です。XnBtSつまり、委奴国だろ?狗奴国は日向だし卑弥呼は日尊、台与や卑弥弓呼は磐余彦尊二人は畿内に向かった何にも不思議じゃない音だけで蔑みまくって適当な倭人伝と複数の系統を一つにした記紀侵略するための重要資料だろうから大陸も昔からアホなんよ、イデオロギーだけで2025/06/08 22:35:45539.名無しさん@涙目です。XnBtS同じ漢字ばっか重複してあてて更に省略しているから当の本人や後世の連中が何がなんだかわからなくなっているし白村江以降、日本はビビりまくって国内再編や改革を急いだが、大陸自体は侵略なんて全然考えてなかったろこんなデタラメなんだから2025/06/08 22:48:07540.名無しさん@涙目です。QQfBu邪馬台国は北九州30ヶ国の総称卑弥呼のいた女王国は奴国卑弥呼の墓は平原台与の時代に東遷して大和朝廷になった台与の墓は箸墓2025/06/10 22:59:48541.名無しさん@涙目です。CEEAW馬鹿なこと言ってるよな神武天皇の東征なんか全くのフィクション。本気で信じてるのか? おめでてーーーなwww2025/06/11 03:04:49542.名無しさん@涙目です。CEEAW一部正体不明の米買付け業者が暗躍したようなことが報道されている。中には建築や土木系のトラックで買付に走り回っていたような業者もあるそう。こういう連中に買い負けてJAはいつもの数量を確保できなかった。。。。。。そういうストーリーを植え付けられている池沼が多いわけだが、そういう正体不明の買付け人たちは、JAに使われた連中かも知れないだろJAがいつも以上に米を確保しようとして、別動隊を用意して買いまくった、、、と、そう考えることはできないか。何も俺も断定するつもりは無いんだ。しかし、ふつうの知能があれば、誰でも一応考えることだし、考えてみてもいいんじゃまいかw2025/06/11 07:07:17543.名無しさん@涙目です。CEEAW誤爆こっちに書き込んはずだった「これまで農家に甘えてきた」コメ価格を考え直した消費者の思い 生産者の受け止めは<ニュースあなた発>2025/06/11 07:10:19544.名無しさん@涙目です。BRTmt卑弥呼は三輪山の麓を流れる初瀬川、および初瀬川の支流の纏向川流域を支配していた大三輪氏の姫宮であった。初潮を迎えた直後に姫巫女となった。卑弥呼以前の巫女(三輪山の神の妻)は10年ほどで俗世に戻ったが、卑弥呼は約50年もの間三輪山の神の妻であり続け、その間に祭祀にまつわる権限を自分に集中し、神性を帯びてしまった。それで卑弥呼が死ぬと、墳墓を築いた。奴婢が1000人いたという。これが多すぎるとは誰でもが思う。しかし、それほど少なくもない。おそらく200人を出ないくらいか。神に仕える巫女の日常は、機織りをすることだけで過ぎる。あとは禊である。「神衣(かんみそ)」を縫うための布を織るのが仕事であり、そのための機屋(はたや)はきわめて神聖な場所で、誰も近づくこともできなかった。覗くなどとんでもないことである。スサノオが馬のなま皮を剥いで投げ込んだことの凄まじさは、こうした機織りや機屋の神聖さを知らなければ理解できない。姫巫女は神のために機織りをするときは特別の機屋にこもるが、通常はふつうの機織りにいそしむ。機屋はほかにも大きなものがいくつもあり、そこに織姫たちが数十人いた。彼女たちの面倒を見る下働きの女たちをいれれば、200人かそこらはいただろう。織姫たちは豪族や神官の娘たちで、わずかの間姫巫女の手伝いに上がる。その仕事は機織りだけでなく、神聖な森を掃除し、森の中を流れる何本もの清流を浚えて清めた。彼女たちは次々に交代した。新しく卑弥呼の宮殿に上がる者たちは禊をした。卑弥呼には人徳と統率力があり、織姫たちの面倒をよく見たので、いつのまにか宮殿の主のようになり、年季が明けても姫巫女の挫を降りることがなくなったのである。織姫たちの機屋は、娘たちの機織りの学校のようなものであった。娘たちはここで機織りの技術を向上させ、それだけでなく礼儀や物事を学び、友をつくった。親たちはこれを誇りとし、ためにクニグニはまとまり、平和が続いた。卑弥呼が死ぬと国は乱れた。人々は困って新たな姫巫女を立てた。13歳の台与である。摂津の豊(トヨ)の国の姫宮であった。淀川の北の台地で、当時は島になっていた。そこは後に豊島と呼ばれた地域である。台与を立てると、ふたたび国は鎮まった。2025/06/13 05:34:40545.名無しさん@涙目です。fVzY6邪馬台国の東遷は台与と饒速日でやったもの、自称天照大神の五世の孫神武の東征とは別2025/06/13 19:15:16546.名無しさん@涙目です。IjtgH畿内説が有力学者も言っている2025/06/14 13:31:02547.名無しさん@涙目です。e8n7h卑弥呼は美女だった(はずである)。それは誰でも思うだろうが、巫女というものは美女かどうかなどという次元を越えたとんでもないものだった可能性もある。顔や頭を変形させていたかも知れない。中国北東部や朝鮮ではかなりの数が発見されているらしいが、日本では3世紀ごろの種子島の広田人と呼ばれる人々でが代表である。意図的に後頭部が扁平にされていた。男も女も、村中の人間全部である。子供が生まれたら後頭部を変形させる習慣があったらしい。熊本県和水町の前原長溝遺跡の人骨は五世紀ごろの古墳時代のもので、頭蓋骨と顔が変形している。以下のpdfファイルの21ページに写真がある。file:///C:/Users/user/Downloads/22186_1_%E4%BB%8A%E3%81%A9%E3%81%8D%E3%81%AE%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6-2.pdf 二行一緒にコピペ鼻が無い。顔の中心に板を当て、圧迫を続けて鼻をペチャンコにしてしまったらしい。だから顔の真ん中は目だけがあり、口は上の前歯までは真っすぐで、下顎が前に飛び出している。板を押し当てるのにおでこからグルっと頭を一周布で巻き、締め付けた。さらに頭のてっぺんから顎の方まで布を巻いて締め付け、頭蓋骨に溝のように陥没した跡がついていた。非常に奇怪な容貌だったと思われる。2025/06/17 07:09:31548.名無しさん@涙目です。e8n7h古墳時代には、シャーマンと見られる女性の墓には粘土で焼いた貝輪のレプリカが副葬された。何十枚も焼いて、割ってバラバラにし、棺の上に撒いたりもしたらしい。貝輪とは、大きな貝殻で作った腕輪状のものである。ベンケイ貝などは格子縞の模様で非常に美しい。大きなハマグリなど、日本で採れる貝で作ることもできるが、南洋諸島の貝で作るのが一番だった。この装身具は縄文時代からある。縄文文化の装束が古墳時代にも残っていたらしい。この腕輪を43個も腕にはめた女性の遺骨が出現している。腕に嵌めたのだろうが、大きなものもあり、さらに周囲が刃物のようになっているもある。こうしたものを腕に嵌めたら怪我をしてしまうし、そもそも身動きができないだろう。おそらく、十枚とかそれ以上の貝輪を紐でつなぎ、肩や腰から下げたのではないかと思われる。貝輪は、磨けば磨くほど光を増した。南洋の貝を使えば色彩も鮮やかであり、これを身に着けて踊ればキラキラと光って人々を幻惑しただろう。ジャラジャラと音もすごかったと思われる。巫女が宣託をなすときの装束としては、まず頭に神が降りるときの憑代となる物を置いた。鹿の骨や角、あるいは木が多かったらしい。木はおそらく「ぬるで」の小枝だろう。さらに、腰に小道鏡を下げた。シャーマンの持つ道鏡は、紐が無数に付いた凹面鏡であった。道具としては小さな銅鐸を用いた。2025/06/17 07:09:48549.名無しさん@涙目です。e8n7h貝輪(かいわ)とはこういうものである。https://ameblo.jp/4151223/entry-11398707648.htmlhttps://articles.mapple.net/bk/16102/#google_vignette2025/06/17 10:01:18550.ていせいe8n7h×さらに、腰に小道鏡を下げた。シャーマンの持つ道鏡は、紐が無数に付いた凹面鏡であった。小道鏡 ではなく 「 小銅鏡」である。漢代の小銅鏡 https://www.youtube.com/watch?v=6DRsr2l13fgベルトのようなものに取り付けて何枚も下げていたのではないか。2025/06/17 12:08:19551.名無しさん@涙目です。MCVNq畿内説が有力学者も言っている2025/06/17 15:34:02552.名無しさん@涙目です。jDi5p>>551 ← ネトウヨ2025/06/17 15:44:52553.ていせい31T3q巫女がカミカムリ(神憑り)になるのは二つの方法というか、様式があったらしい。一つは乱舞したり跳躍したり大声を出したりして憑依状態になるもの。原始的で土俗的である。江戸時代になっても民間のシャーマンはこのような様式だったようである。古事記より天手力男神は戸の脇に隠れて立ち、天宇受売命は天の香山の日蔭鬘を襷にかけ、天の真拆葛を髪飾りとして、天の香山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりして乳房を掻き出し、裳の紐を女陰まで押し垂らした。すると、高天原が鳴動するばかりに、八百万の神々が一斉にどっと笑った。アメノウズメのウズは、巫女が髪につける木の枝や葉のことを言う。神は天から大木(神木)の頂きに降りる。人間も、頭に木の枝や葉を付けることによって神が降りやすくなると考えたのだろう。もう一つは、多数の人間が関与して一つの儀式のようにして行うもの。例えば、宇佐八幡において和気清麻呂が八幡大神の神意をうかがった神託はそのようになされた。1. 巫女は斎宮に入る。そこで忌み慎み、禊なども行い、身を清める。2.巫女は神主になる。3.琴や土笛、鈴などの楽団をつける。4.巫女と問答し、神託の意味を解明するサニワ(審神)という役目の者をつける。5.言葉は韻を踏んだ漢文調のもの。2.の神主になる、の意味は判然としないが、一般には「神に仕える者たちのうち主になる者」の意味である。しかし、古代では「神の言葉を語る人」の意味もあったという。ここではおそらくその意味である。前者の土俗的な神降しのときも、巫女の言葉が明瞭であるとは限らない。むしろ恍惚ないし狂乱状態で、何を云っているのが分からないことも多かったと思われる。それ以前に、巫女になるような霊感体質の女性には言語不明瞭な者、また身体的欠陥があってきちんと言葉を発しえない者も少なるなかったと思われる。だから、審神の役を務める者はこの場合も必須であったと思われる。2025/06/18 05:08:03554.名無しさん@涙目です。BWlQE畿内説が有力学者も言っている2025/06/18 12:18:44
数学者で専門は解析学の半沢氏は「魏が邪馬台国に使者を派遣したとされる西暦240年代は、約430メートルだった1里が、度量衡変更で約80メートルに短縮されていた」と主張。「倭人伝に書かれている方向や距離、対馬や壱岐の大きさも現実とほぼ符合し、非常に厳密に記述されていることが分かる」と評価した。使者一行には古代中国数理科学書である「周髀算経(しゅうひさんけい)」や「九章算術」に精通した学者が同行し、正確な測量をしていた可能性にも言及した。
本土上陸地点は通説の唐津市(佐賀県)付近ではなく、博多湾沿岸と比定。「そこから記述通りに行けば、邪馬台国は甘木中心部(朝倉市)になる」と結論づけた。
半沢氏は「距離は空想だとか、方向を間違ったなどとして結論を導き出す従来の手法よりも自然だと思う」と話した。
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1318123/
熊野の地名由来と遼河文明
これ面白い。
ドラビダとか馬鹿の一つ覚えのように言ってんじゃないよww
まずは帰れ
いつもの畿内キチガイ
そのためのロジック
谷間を入口とする空間を「やまと(山戸)」と呼んだ可能性はある。
甘木はまさにこの地形。
馬具と紅花が出るんだろ。
通常は4世紀になるところを、
炭素測定で3世紀と言い張っているだけ。
誤差の可能性を無視してな。
湾状の水辺を港・湊とはいうが、水戸とは言わない。
水戸は水戸口。
海から川に入っていくときの河口の部分とか、運河の入口などを言った。
水戸口というのは一般名詞で、どこにでも地名として残ってるよ
山戸口というのは条里制の名残だろう。戸口(とこう、ここう)というのは一軒の家を単位として
年貢とか徴用する男子を決める基準。一里は基本50戸。
平地とか水辺に村や集落があるときに、山の中にもいくつか集落があり、まとめれば50軒に
なるというような場合、それを戸口とする。
その戸口が山にあったから山全体を一里とし、そこを山戸口といっただけのことだよ。
山門が甘木だとするのはまさに安本美典説だ。
黴臭い説を引っ張り出してきたもんだな
この問題は、ズーズー弁で解けるんだよ
卑弥呼もズーズー弁だったんだわな
さて、大和の語彙の定義といくか
大和は、もとは倭と書いたが、倭は見た目も意味も良くないので、「和」と
書くようになった。その一字で「やまと」と読んだ。
その後、「大」をつけて「大和」と書くようになったのである。
大和は、もともとは山戸、ないし山門と思われる。
「戸」とは入口を覆う扉、あるいは入口そのものを言う。
後者の場合、「門」と書いて「と」と読むことがある。
漢字の成り立ちとしては、入口に置いた棒(横木)一本と、家の周囲の垣根を
表したものだ。
入口を閉ざす棒ないし板、あるいは通路や家、敷地の入口そのものを表したものと
考えてよい。
戸、ないし門のつく語を検討する。
瀬戸
瀬の戸である。島と島の間の両側から岸壁が迫っているような狭い水路のようなものを言う。
両側から岸や岩が迫った門のようなところと、そこを入って通り抜ける水路のような場所の
両方を言うのだろう。
谷戸
谷状になっているところ。両側から山肌が迫り、谷になって落ち込んでいるところ。
井戸
「井」だけで井戸の意味がある。戸は穴の意味。
井だけだと、噴出泉のような、地面から水が湧き出しているような井戸の意味だけである。
縦に穴を掘って水を組みだすようなものが井戸。
横井戸というのもある。
これは水が自然に湧き出しているところから水路を作って導く場合は井戸というべきである。
長門
ちなみに、山口県の古名は長門だが(周防もだが)、長門はもともとは穴戸(あなど)のことだった。
穴戸ないし穴門は関門海峡のことを言う。
本州と九州の間は、6000年前に地面が割れて海峡になったのである。
だから双方の先端は島々になり、くっつき合っている。その間に一本の川のような、あるいは水路の
ようなものがある。それが関門海峡である。
https://www.eorc.jaxa.jp/earthview/2008/img/tp080213_04.jpg
これはふつうの写真。
https://yamaguchi-tourism.jp/photo/detail_1400172.html
海側から見ると、関門海峡の入口というのは穴のように見えたのだろう。
以上からすると、「やまと、山戸、山門」というのは、山が迫っている場所、あるいは山道が始まるような
場所を言うと思われる。
「やまと」を「山の麓」と解する説もあるが、実際のところ、それで間違いではない。
ただし、山の麓といっても、すぐ脇に山が屹立しているわけではあるまい。
一定の大きさの集落や田畑のある場所が山に囲まれているといった感じで、一方が平地や河川、湖や
湿地に繋がるような場所も入る。
一言で言えば、「山懐に抱かれた」といった感じのところを言うのだと思われる。
畿違い
あんか違いしか言えないのか
なんでもいいから反論してみれ
>>516は知的障害を伴う発達障害
知らないと古代史オタクとしては失格。
この人は、弥生時代が始まったとされる時期を10BCまで遡らせた。
従来は5~4BCとされていたので、およそ500年遡らせてしまったわけだが。
それ以前の3BC頃という説からだと、700年も遡ることになる。
700年も遡るとどうなるかというと、現代からそれだけ遡ったら後醍醐天皇の正中の変が
おきた頃になってしまう。
言い方を変えると、弥生時代がそれだけ長くなったということである。
ということは、稲作はおそろしいほど長い時間をかけて東に広まっていったということになる。
関東が一番遅く、関西では当たり前に米を作っているのに、何百年も縄文の暮らしを続けていた。
〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作 (歴史文化ライブラリー 329)
Amazon のカスタマーレビューはおそろしくレベルが高い。これだけでも読むべきだ。
宝島社の本www
邪馬台国には直接かかわらないが、武光誠 「渡来人とは何者か: その実像と虚像を解く」(河出書房新社)
https://toyokeizai.net/articles/-/858918
弥生時代までに日本にいた人々は、現代の日本人とはかなり違った人たちだった。
縄文人+ 北東アジア祖先
古墳時代の300年間に大量の東アジア人
古墳時代の300年間に大量の東アジア人
(現代の中国人と同じ)が入ってくる。
そしてその数は、当時日本にいた人の四分の一に達した。
関西人は特に中国人の遺伝子を多く持っている。
https://www.youtube.com/watch?v=3xGlVjK2juc
この先生の話が一番しっくりくる
縄文人と北東アジア人(おそらく山東半島・遼東半島、黄海沿岸から朝鮮半島南部に移動した倭人たち)の二種だけだった。
もともと倭人たちは朝鮮半島南部で縄文人と混血していた。
さらに日本に渡ってきてからも縄文人との混血は続いた。
だから、当時の人々(弥生人)は、縄文の血が濃かった。
宗教や風俗などにも縄文人の影響が大きかったはずである。
だから、卑弥呼はおそらく耳飾りと首飾りを下げていた。
歯はおはぐろをし、眉は全部抜いて額に入れ墨で眉を描いていた。
呪術にしても、北方の部族のシャーマンというのは男ばかりである。
女性のシャーマンは南方系のものである。
朝鮮では南部の沿岸地域に女性の巫女の風習が残っているが、これは日本に渡った人たちのの同類がいたためである。
巫女のうちでも、神に使える巫女は、処女であり、かつ部族のうちで最高の美女であることが求められた。
神の側女(そばめ、一夜妻)であるから当然である。
部族(クニ)が連合すると、クニグニ全体のうちで最高の美女が選ばれて日の神に捧げられた。
美人であればあるほど神は喜ばれる。神が喜ばれれば佳いことが多く起こる。
美人選びは真剣であり、しかも、神に捧げるほどの美女はそう簡単に見つかるものではなかった。
一つのクニ単位で選んでも見つからないのが普通である。
だから多くのクニグニの美女が選別の対象となり、そのうちの最高の美女が神に使える巫女となったのである。
クニグニの連合体というのは、このようにして巫女選出のために出来上がったものであり、政治的な目的のためのものでは
なかった。それがある程度政治面での宣託をなすようになったのは、かなりの時代を経てからのことである。
学者も言っている
地位と金のために嘘を流布してるだけ
福岡市 → 大宰府 →朝倉市 とほぼ一直線だし、博多湾に流れ込む大きな川沿いの町。
博多湾から40キロ程度の場所。
山の中の僻村というイメージがあるがそうでもない。
東京になぞらえると、東京湾から40キロだと八王子あたりの位置である。
魏志倭人伝に登場する「奴国」は、現在の博多(福岡市博多区)周辺という。
博多から甘木なら歩いて一日の距離だし、水運なら歩かずに一日で行ける。帰りは半日かからない。
めっちゃ近い。
しかし、だ。それなら魏の使いは邪馬台国まで行ったんじゃないか。
どうも行かずに伝聞で書いている感じがあるのは何故なのか。
さらに奴国と邪馬台国の間には不弥国と投馬国というのがあったわけだが、それぞれけっこう
大きなクニで、しかも魏志倭人伝によれば距離がけっこうある。
奴国から東へ行くと、不彌国に至る、百里である。
不彌国から南に行くと投馬国に至る、水行二十日である。
百里についてはどうとも考えられるが、水行二十日はどうにもならない。
たった40キロかそこらの距離で、その間に二つも国があるというのもおかしい。
辻褄があうという説があったな
邪馬台国の500年後に韓国から出雲、若狭を経て日本を建国したのがヤマチョ
男系男子の男尊女卑がヤマチョ
女王中心の国家が邪馬台国
国体が違いすぎる
ナラ(半島語でクニを表す)のヤマチョの頃は新潟から高句麗が埼玉に入植もしている
ウワサ話ばかりで確たる証拠が何も残ってない
そっから先については倭人が適当に言ったことを報告しただけなんだよw
狗奴国は日向だし
卑弥呼は日尊、台与や卑弥弓呼は磐余彦尊
二人は畿内に向かった
何にも不思議じゃない
音だけで蔑みまくって適当な倭人伝と複数の系統を一つにした記紀
侵略するための重要資料だろうから大陸も昔からアホなんよ、イデオロギーだけで
白村江以降、日本はビビりまくって国内再編や改革を急いだが、大陸自体は侵略なんて全然考えてなかったろ
こんなデタラメなんだから
卑弥呼のいた女王国は奴国
卑弥呼の墓は平原
台与の時代に東遷して大和朝廷になった
台与の墓は箸墓
神武天皇の東征なんか全くのフィクション。
本気で信じてるのか?
おめでてーーーなwww
中には建築や土木系のトラックで買付に走り回っていたような業者もあるそう。
こういう連中に買い負けてJAはいつもの数量を確保できなかった。。。。。。
そういうストーリーを植え付けられている池沼が多いわけだが、
そういう正体不明の買付け人たちは、JAに使われた連中かも知れないだろ
JAがいつも以上に米を確保しようとして、別動隊を用意して買いまくった、、、と、
そう考えることはできないか。
何も俺も断定するつもりは無いんだ。
しかし、ふつうの知能があれば、誰でも一応考えることだし、考えてみてもいいんじゃまいかw
こっちに書き込んはずだった
「これまで農家に甘えてきた」コメ価格を考え直した消費者の思い 生産者の受け止めは<ニュースあなた発>
大三輪氏の姫宮であった。
初潮を迎えた直後に姫巫女となった。
卑弥呼以前の巫女(三輪山の神の妻)は10年ほどで俗世に戻ったが、卑弥呼は約50年もの
間三輪山の神の妻であり続け、その間に祭祀にまつわる権限を自分に集中し、神性を帯びて
しまった。それで卑弥呼が死ぬと、墳墓を築いた。
奴婢が1000人いたという。これが多すぎるとは誰でもが思う。
しかし、それほど少なくもない。おそらく200人を出ないくらいか。
神に仕える巫女の日常は、機織りをすることだけで過ぎる。あとは禊である。
「神衣(かんみそ)」を縫うための布を織るのが仕事であり、そのための機屋(はたや)は
きわめて神聖な場所で、誰も近づくこともできなかった。
覗くなどとんでもないことである。
スサノオが馬のなま皮を剥いで投げ込んだことの凄まじさは、こうした機織りや機屋の神聖さを
知らなければ理解できない。
姫巫女は神のために機織りをするときは特別の機屋にこもるが、通常はふつうの機織りにいそしむ。
機屋はほかにも大きなものがいくつもあり、そこに織姫たちが数十人いた。
彼女たちの面倒を見る下働きの女たちをいれれば、200人かそこらはいただろう。
織姫たちは豪族や神官の娘たちで、わずかの間姫巫女の手伝いに上がる。
その仕事は機織りだけでなく、神聖な森を掃除し、森の中を流れる何本もの清流を浚えて清めた。
彼女たちは次々に交代した。新しく卑弥呼の宮殿に上がる者たちは禊をした。
卑弥呼には人徳と統率力があり、織姫たちの面倒をよく見たので、いつのまにか宮殿の主のように
なり、年季が明けても姫巫女の挫を降りることがなくなったのである。
織姫たちの機屋は、娘たちの機織りの学校のようなものであった。
娘たちはここで機織りの技術を向上させ、それだけでなく礼儀や物事を学び、友をつくった。
親たちはこれを誇りとし、ためにクニグニはまとまり、平和が続いた。
卑弥呼が死ぬと国は乱れた。人々は困って新たな姫巫女を立てた。
13歳の台与である。摂津の豊(トヨ)の国の姫宮であった。
淀川の北の台地で、当時は島になっていた。そこは後に豊島と呼ばれた地域である。
台与を立てると、ふたたび国は鎮まった。
学者も言っている
いう次元を越えたとんでもないものだった可能性もある。
顔や頭を変形させていたかも知れない。
中国北東部や朝鮮ではかなりの数が発見されているらしいが、日本では3世紀ごろの種子島の広田人と
呼ばれる人々でが代表である。意図的に後頭部が扁平にされていた。
男も女も、村中の人間全部である。
子供が生まれたら後頭部を変形させる習慣があったらしい。
熊本県和水町の前原長溝遺跡の人骨は五世紀ごろの古墳時代のもので、頭蓋骨と顔が変形している。
以下のpdfファイルの21ページに写真がある。
file:///C:/Users/user/Downloads/22186_1_%E4%BB%8A%E3%8
1%A9%E3%81%8D%E3%81%AE%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6-2.pdf 二行一緒にコピペ
鼻が無い。顔の中心に板を当て、圧迫を続けて鼻をペチャンコにしてしまったらしい。
だから顔の真ん中は目だけがあり、口は上の前歯までは真っすぐで、下顎が前に飛び出している。
板を押し当てるのにおでこからグルっと頭を一周布で巻き、締め付けた。
さらに頭のてっぺんから顎の方まで布を巻いて締め付け、頭蓋骨に溝のように陥没した跡がついていた。
非常に奇怪な容貌だったと思われる。
何十枚も焼いて、割ってバラバラにし、棺の上に撒いたりもしたらしい。
貝輪とは、大きな貝殻で作った腕輪状のものである。
ベンケイ貝などは格子縞の模様で非常に美しい。
大きなハマグリなど、日本で採れる貝で作ることもできるが、南洋諸島の貝で作るのが一番だった。
この装身具は縄文時代からある。縄文文化の装束が古墳時代にも残っていたらしい。
この腕輪を43個も腕にはめた女性の遺骨が出現している。
腕に嵌めたのだろうが、大きなものもあり、さらに周囲が刃物のようになっているもある。
こうしたものを腕に嵌めたら怪我をしてしまうし、そもそも身動きができないだろう。
おそらく、十枚とかそれ以上の貝輪を紐でつなぎ、肩や腰から下げたのではないかと思われる。
貝輪は、磨けば磨くほど光を増した。
南洋の貝を使えば色彩も鮮やかであり、これを身に着けて踊ればキラキラと光って人々を幻惑しただろう。
ジャラジャラと音もすごかったと思われる。
巫女が宣託をなすときの装束としては、まず頭に神が降りるときの憑代となる物を置いた。
鹿の骨や角、あるいは木が多かったらしい。木はおそらく「ぬるで」の小枝だろう。
さらに、腰に小道鏡を下げた。シャーマンの持つ道鏡は、紐が無数に付いた凹面鏡であった。
道具としては小さな銅鐸を用いた。
https://ameblo.jp/4151223/entry-11398707648.html
https://articles.mapple.net/bk/16102/#google_vignette
小道鏡 ではなく 「 小銅鏡」である。
漢代の小銅鏡 https://www.youtube.com/watch?v=6DRsr2l13fg
ベルトのようなものに取り付けて何枚も下げていたのではないか。
学者も言っている
一つは乱舞したり跳躍したり大声を出したりして憑依状態になるもの。
原始的で土俗的である。江戸時代になっても民間のシャーマンはこのような様式だったようである。
古事記より
天手力男神は戸の脇に隠れて立ち、天宇受売命は天の香山の日蔭鬘を襷にかけ、天の真拆葛を
髪飾りとして、天の香山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、
神がかりして乳房を掻き出し、裳の紐を女陰まで押し垂らした。すると、高天原が鳴動するばかりに、
八百万の神々が一斉にどっと笑った。
アメノウズメのウズは、巫女が髪につける木の枝や葉のことを言う。
神は天から大木(神木)の頂きに降りる。
人間も、頭に木の枝や葉を付けることによって神が降りやすくなると考えたのだろう。
もう一つは、多数の人間が関与して一つの儀式のようにして行うもの。
例えば、宇佐八幡において和気清麻呂が八幡大神の神意をうかがった神託はそのようになされた。
1. 巫女は斎宮に入る。そこで忌み慎み、禊なども行い、身を清める。
2.巫女は神主になる。
3.琴や土笛、鈴などの楽団をつける。
4.巫女と問答し、神託の意味を解明するサニワ(審神)という役目の者をつける。
5.言葉は韻を踏んだ漢文調のもの。
2.の神主になる、の意味は判然としないが、一般には「神に仕える者たちのうち主になる者」の意味である。
しかし、古代では「神の言葉を語る人」の意味もあったという。
ここではおそらくその意味である。
前者の土俗的な神降しのときも、巫女の言葉が明瞭であるとは限らない。
むしろ恍惚ないし狂乱状態で、何を云っているのが分からないことも多かったと思われる。
それ以前に、巫女になるような霊感体質の女性には言語不明瞭な者、また身体的欠陥があって
きちんと言葉を発しえない者も少なるなかったと思われる。
だから、審神の役を務める者はこの場合も必須であったと思われる。
学者も言っている