【チェック】邪馬台国は甘木にあった!数学者の半沢氏が中国古代数理科学で解析 福岡県朝倉市で講演会【アウト】アーカイブ最終更新 2025/07/09 06:301.名無しさん@涙目です。EiI9a公益社団法人甘木朝倉法人会(福岡県朝倉市)は16日、金沢大元准教授の半沢英一氏を講師に、中国古代数理科学の視点から魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の所在地についての講演会を朝倉地域生涯学習センター(同市)で開いた。邪馬台国が甘木にあったとする説に来場者120人が耳を傾けた。 数学者で専門は解析学の半沢氏は「魏が邪馬台国に使者を派遣したとされる西暦240年代は、約430メートルだった1里が、度量衡変更で約80メートルに短縮されていた」と主張。「倭人伝に書かれている方向や距離、対馬や壱岐の大きさも現実とほぼ符合し、非常に厳密に記述されていることが分かる」と評価した。使者一行には古代中国数理科学書である「周髀算経(しゅうひさんけい)」や「九章算術」に精通した学者が同行し、正確な測量をしていた可能性にも言及した。 本土上陸地点は通説の唐津市(佐賀県)付近ではなく、博多湾沿岸と比定。「そこから記述通りに行けば、邪馬台国は甘木中心部(朝倉市)になる」と結論づけた。半沢氏は「距離は空想だとか、方向を間違ったなどとして結論を導き出す従来の手法よりも自然だと思う」と話した。https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1318123/2025/02/23 15:01:36594すべて|最新の50件545.名無しさん@涙目です。fVzY6邪馬台国の東遷は台与と饒速日でやったもの、自称天照大神の五世の孫神武の東征とは別2025/06/13 19:15:16546.名無しさん@涙目です。IjtgH畿内説が有力学者も言っている2025/06/14 13:31:02547.名無しさん@涙目です。e8n7h卑弥呼は美女だった(はずである)。それは誰でも思うだろうが、巫女というものは美女かどうかなどという次元を越えたとんでもないものだった可能性もある。顔や頭を変形させていたかも知れない。中国北東部や朝鮮ではかなりの数が発見されているらしいが、日本では3世紀ごろの種子島の広田人と呼ばれる人々でが代表である。意図的に後頭部が扁平にされていた。男も女も、村中の人間全部である。子供が生まれたら後頭部を変形させる習慣があったらしい。熊本県和水町の前原長溝遺跡の人骨は五世紀ごろの古墳時代のもので、頭蓋骨と顔が変形している。以下のpdfファイルの21ページに写真がある。file:///C:/Users/user/Downloads/22186_1_%E4%BB%8A%E3%81%A9%E3%81%8D%E3%81%AE%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6-2.pdf 二行一緒にコピペ鼻が無い。顔の中心に板を当て、圧迫を続けて鼻をペチャンコにしてしまったらしい。だから顔の真ん中は目だけがあり、口は上の前歯までは真っすぐで、下顎が前に飛び出している。板を押し当てるのにおでこからグルっと頭を一周布で巻き、締め付けた。さらに頭のてっぺんから顎の方まで布を巻いて締め付け、頭蓋骨に溝のように陥没した跡がついていた。非常に奇怪な容貌だったと思われる。2025/06/17 07:09:31548.名無しさん@涙目です。e8n7h古墳時代には、シャーマンと見られる女性の墓には粘土で焼いた貝輪のレプリカが副葬された。何十枚も焼いて、割ってバラバラにし、棺の上に撒いたりもしたらしい。貝輪とは、大きな貝殻で作った腕輪状のものである。ベンケイ貝などは格子縞の模様で非常に美しい。大きなハマグリなど、日本で採れる貝で作ることもできるが、南洋諸島の貝で作るのが一番だった。この装身具は縄文時代からある。縄文文化の装束が古墳時代にも残っていたらしい。この腕輪を43個も腕にはめた女性の遺骨が出現している。腕に嵌めたのだろうが、大きなものもあり、さらに周囲が刃物のようになっているもある。こうしたものを腕に嵌めたら怪我をしてしまうし、そもそも身動きができないだろう。おそらく、十枚とかそれ以上の貝輪を紐でつなぎ、肩や腰から下げたのではないかと思われる。貝輪は、磨けば磨くほど光を増した。南洋の貝を使えば色彩も鮮やかであり、これを身に着けて踊ればキラキラと光って人々を幻惑しただろう。ジャラジャラと音もすごかったと思われる。巫女が宣託をなすときの装束としては、まず頭に神が降りるときの憑代となる物を置いた。鹿の骨や角、あるいは木が多かったらしい。木はおそらく「ぬるで」の小枝だろう。さらに、腰に小道鏡を下げた。シャーマンの持つ道鏡は、紐が無数に付いた凹面鏡であった。道具としては小さな銅鐸を用いた。2025/06/17 07:09:48549.名無しさん@涙目です。e8n7h貝輪(かいわ)とはこういうものである。https://ameblo.jp/4151223/entry-11398707648.htmlhttps://articles.mapple.net/bk/16102/#google_vignette2025/06/17 10:01:18550.ていせいe8n7h×さらに、腰に小道鏡を下げた。シャーマンの持つ道鏡は、紐が無数に付いた凹面鏡であった。小道鏡 ではなく 「 小銅鏡」である。漢代の小銅鏡 https://www.youtube.com/watch?v=6DRsr2l13fgベルトのようなものに取り付けて何枚も下げていたのではないか。2025/06/17 12:08:19551.名無しさん@涙目です。MCVNq畿内説が有力学者も言っている2025/06/17 15:34:02552.名無しさん@涙目です。jDi5p>>551 ← ネトウヨ2025/06/17 15:44:52553.ていせい31T3q巫女がカミカムリ(神憑り)になるのは二つの方法というか、様式があったらしい。一つは乱舞したり跳躍したり大声を出したりして憑依状態になるもの。原始的で土俗的である。江戸時代になっても民間のシャーマンはこのような様式だったようである。古事記より天手力男神は戸の脇に隠れて立ち、天宇受売命は天の香山の日蔭鬘を襷にかけ、天の真拆葛を髪飾りとして、天の香山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりして乳房を掻き出し、裳の紐を女陰まで押し垂らした。すると、高天原が鳴動するばかりに、八百万の神々が一斉にどっと笑った。アメノウズメのウズは、巫女が髪につける木の枝や葉のことを言う。神は天から大木(神木)の頂きに降りる。人間も、頭に木の枝や葉を付けることによって神が降りやすくなると考えたのだろう。もう一つは、多数の人間が関与して一つの儀式のようにして行うもの。例えば、宇佐八幡において和気清麻呂が八幡大神の神意をうかがった神託はそのようになされた。1. 巫女は斎宮に入る。そこで忌み慎み、禊なども行い、身を清める。2.巫女は神主になる。3.琴や土笛、鈴などの楽団をつける。4.巫女と問答し、神託の意味を解明するサニワ(審神)という役目の者をつける。5.言葉は韻を踏んだ漢文調のもの。2.の神主になる、の意味は判然としないが、一般には「神に仕える者たちのうち主になる者」の意味である。しかし、古代では「神の言葉を語る人」の意味もあったという。ここではおそらくその意味である。前者の土俗的な神降しのときも、巫女の言葉が明瞭であるとは限らない。むしろ恍惚ないし狂乱状態で、何を云っているのが分からないことも多かったと思われる。それ以前に、巫女になるような霊感体質の女性には言語不明瞭な者、また身体的欠陥があってきちんと言葉を発しえない者も少なるなかったと思われる。だから、審神の役を務める者はこの場合も必須であったと思われる。2025/06/18 05:08:03554.名無しさん@涙目です。BWlQE畿内説が有力学者も言っている2025/06/18 12:18:44555.名無しさん@涙目です。iujuHhttps://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3012https://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/25kangou-y.html弥生時代の日本列島における環濠集落の分布これが「倭」の範囲と一致しているのではないか?千葉・埼玉の環濠集落を合わせると、大阪・奈良の環濠集落より数が多い。茨城・栃木には環濠集落は無い。米や雑穀を作っていなかったわけではあるまい。環濠を作るような大規模な集落が無かったということだろう。家屋数20から30ぐらいの小さな集落がいくつもあった。2025/06/20 05:35:23556.名無しさん@涙目です。iujuH倭人は、帯方郡の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である。倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國三十余の国々は具体的な名前があがっているものが多い。曰く対馬、一支、末盧、伊都、奴、不弥、投馬、斯馬、巳百支、伊邪、都支、弥奴、好古都、不呼、姐奴、対蘇、蘇奴、呼邑、華奴蘇奴、鬼、為吾、鬼奴、邪馬、躬臣、巴利、支惟、烏奴、奴などかつて百余国に分かれており、今は三十国。ということは、騒乱ないし土地の奪い合い等があり、弱い国や小さな国が淘汰されて強い国だけが残ったというふうにも読める。何となくそう読んでいる人も多い。しかし、環濠集落の跡からして、この時代の国々が三十幾つということはあり得ない。軽く三百を超えるだろうというのがふつうの捉え方である。では、三十いくつというのは何の数字なのかといえば、魏という国と外交関係を持とうとした国の数である。卑弥呼が魏に使いを送った三世紀前半は、壱岐対馬など対馬暖流の中に浮かぶ島々、および玄界灘に臨む国々に頼らなければ伽耶との往来はならなかった。だからこれら海人族を取り込む形で国家連合が形成され、伽耶や百済、楽浪郡などへの交通を可能ならしめていたのである。2025/06/20 10:34:38557.名無しさん@涙目です。7mHWQ畿内説が有力学者も言っている2025/06/20 12:17:55558.名無しさん@涙目です。w3sfa伊都国の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊から日向国の磐余彦命への移行、下剋上ハプロすら全く違う勢力だからタブーで政治的な詐欺をずっとやっているだけしかも、四国の黄河系渡来人O2b1の中臣、藤原に担がれて上書きされているだけだから弥生時代はO1b2の物部系の時代天皇ってのはO2b1に騙されて同族のD1a2を迫害してた2025/06/21 05:28:26559.名無しさん@涙目です。w3sfa畿内説、畿内説、言ってるのは黄河系渡来人のO2b1濃厚アカデミズムがソッチ系だから2025/06/21 05:30:37560.名無しさん@涙目です。JTZFY農業法人にして、そこから給料を貰う。家族が社員で全員給料をとった後は、農業法人の収入はほぼゼロという形もある。個人会社なんてそんなの多いのよ。俺の従兄で自動車修理会社やってるのいるけど、十人近い社員かかえて経営安泰で、でも税金払ったことないって言ってたよ。2025/06/21 08:34:43561.名無しさん@涙目です。a4NhP弥生時代の北九州30ヶ国の邪馬台国が領土を広げて古墳時代には西日本全体がやまとの国となった2025/06/21 12:09:06562.名無しさん@涙目です。JTZFY弥生時代が終わり、古墳時代となる。最古の古墳は220ADのもの。だが、本格的に古墳が作られ始めるのは三世紀中葉以降である。卑弥呼の時代が弥生の終わり、台与の時代に古墳時代が始まると考えるとよい。一応の目安にはなる。古墳は、専門の技術集団が日本に渡ってきてから始まったという。野見という一族、そして土師という一族だ。野見は野見の宿祢の先祖(というか宿祢は想像上の人物だろう)。箸墓は本来は土師墓だという。土師氏が作った墓らしい。古墳は、一般的に大和のものが大きい。摂津・河内のものも大型である。畿内でも山城は中型。瀬戸内の吉備、九州北部の豊(おおいた)のものも中型。九州北部の築後は小型である。古墳は街道沿いなどの目立つところに作られた。その土地の王(権力者)の力をあらわすために作られたのである。だから、無理をしてでも大きなものを作ろうとする。基本的には、使役できる土民の数が古墳の大きさを決めるのである。古墳の数は、第1位 兵庫県(16,577基)、第2位 千葉県(13,112基)、第3位 鳥取県(13,094基)、第4位 福岡県(11,311基)、第5位 京都府(11,310基)。 全国総計 161,560基。古墳とコンビニの数はどっちが多い? というお笑いクイズがあるくらいである。作られた時代を分析すると、畿内でまず作られるようになり、そこから全国に広がっていったのが分かる。2025/06/21 13:15:54563.名無しさん@涙目です。wOlKK古墳なら韓国が先2025/06/21 13:31:22564.名無しさん@涙目です。UdQTc徳川埋蔵金と同じ定期2025/06/21 14:52:36565.名無しさん@涙目です。JTZFY韓国の前方後円墳は日本のものより新しい時代のものが多い。つまり、韓国のものは後発である。築造年代は、ほぼ5世紀後半から6世紀前半の期間に収まるとされる。日本列島の前方後円墳の築造期間は3世紀中頃~7世紀前半頃である。これにに比して新しく、かつ期間の短い築造になる。日本に200年遅れ、かつ100年早く終わっている。2025/06/21 15:17:06566.名無しさん@涙目です。a4NhP最古級の箸墓が4世紀とされていたのをウヨ研究者のヨタ年代測定で卑弥呼時代にもっていっただけ、だれも信用してない2025/06/21 15:33:47567.名無しさん@涙目です。JTZFY俺は箸墓が卑弥呼の墓だなんて思っていない。お前も影響されやすい性格みたいだな。気をつけろよw2025/06/21 17:51:27568.名無しさん@涙目です。Y7iAk畿内説が有力学者も言っている2025/06/24 09:14:51569.名無しさん@涙目です。hu7fo>>557,568 ← ネトウヨ2025/06/24 10:27:29570.名無しさん@涙目です。8LgSG畿内説が有力学者も言っているわかる?2025/06/24 11:53:22571.名無しさん@涙目です。3Tim3御用学者とネトウヨとマスゴミの言うことを信じるバカはもういない2025/06/28 02:38:24572.名無しさん@涙目です。LlXIB>>570理由も書かずにわかるわけねぇだろwすっこめネトウヨw2025/06/28 09:16:40573.名無しさん@涙目です。uUolD畿内説が有力学者も言っている意味わかる?2025/06/28 15:51:33574.名無しさん@涙目です。h8fLy纏向遺跡は邪馬台国東遷で征服された銅鐸祭祀の村2025/06/29 16:07:18575.名無しさん@涙目です。sqz6O甘木良いところだものね吉野ケ里遺跡のかなり上流支流域になるけど見るからに豊穣の土地柄大宰府にもほど近いので共通の文化圏を築いて可能性は高い。2025/06/29 19:35:44576.名無しさん@涙目です。sqz6O大和朝廷と天皇は関係ないだろうね日出国からの親書に魏との交流の過去を書いてないw2025/06/29 19:41:06577.名無しさん@涙目です。yeYom>>572都合の悪いコメントを無視して同じ発言を繰り返す馬鹿ウヨ仕草2025/06/30 06:39:15578.名無しさん@涙目です。uzY0O>>576魏に朝貢したのは邪馬台国邪馬台国とヤマト王権は連続性がないだろうけど、大王(天皇)はヤマト王権の長だよ仮に関係あったとしても、350年以上前の亡国との通交を国書に記載する意味はない2025/07/01 14:07:34579.名無しさん@涙目です。9JaSA古墳時代の巫女の姿なら埴輪になって残っている。https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=100578&content_part_id=001&content_pict_id=005https://www.pref.gunma.jp/uploaded/attachment/11314.pdfここの4ページ以下に出てくる。前髪と後頭部の髪を束ね、前後に「ひさし」にする。江戸時代の島田髷に似ているので、古代島田髷と呼ばれる。江戸時代の日本髷というのは、女性が働くときの髪型だったようである。https://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16262961.html巫女が身に着ける袈裟のようなものは意須比(いすい)といい、片方の肩から斜めに着る。その上をさらにベルトのようなネクタイのようなもので縛る。意須比の下は筒袖のワンピースのようなものを着ている。その上に「襷 たすき」をかける。このワンピースのような衣装の模様は「青海波」だといわれる。一見水玉模様に見える。大阪高槻の今城塚古墳から出土した巫女の埴輪は、巫女のパレードのようなものが再現されている。先頭を行く巫女は両腕を上げ、背を思い切り反らしている。おそらく何かを天に叫んでいるようである。その巫女につづき、神饌を捧げ持つ巫女や、酒を注いだかわらけを持つ巫女があゆみを進める。前方後円墳の方形の広がりは、儀式のための舞台空間だったようである。そこで主役を務めるのは巫女たちであり、祭祀を司る神祇官のようである。剣を捧げ持ったり、鎧を着て馬に乗り威儀を添える男たちもいたわけであるが、あくまでも添え物にすぎない。中心は巫女たちであった。2025/07/01 15:42:49580.名無しさん@涙目です。V0kk2祭典における巫女の行列は少なくとも十人、多いときはは五十人に及ぶものであったかも知れない。これだけの数になると、巫女を束ねる人間が必要になる。その地位に就く者は女性であり、巫女であることは間違いない。巫女の職域は、間違っても男子が手を出す余地は無いものだからである。この、巫女の指揮官とでもいうべき者の姿は、埴輪として残っている。例えば群馬県出土の「腰かける巫女」https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100578&content_pict_id=0左腰の後ろに鈴鏡というものを下げている。https://www.kyohaku.go.jp/jp/learn/home/dictio/kouko/97kofun/今城塚古墳の巫女像のレプリカhttps://natsumemomiji.up.seesaa.net/image/IMG_07172028329.JPG神饌や酒などを捧げ持つ巫女は15、6才だろうが、先頭を行く両腕を上げた巫女は20才を超えているかも知れない。さらに、この巫女たちを統率する巫女もいたはずである。巫女はいずれ還俗して一般の男に嫁ぐが、巫女の頭ともいうべき女性は生涯婚姻せず、死ぬまで巫女のままでいたはずである。なお、五鈴鏡を鳴らしてみました。https://www.youtube.com/watch?v=gffGUb45qmk復元された鈴鏡の音 https://www.youtube.com/watch?v=JCyQhEpPLY82025/07/02 06:46:50581.名無しさん@涙目です。V0kk2書き忘れていたが、埴輪には力士像もある。祭典には巫女と並んで力士も必須だったようである。力士も儀式に必要なキャラクターだった。地霊を鎮め、土地を清めるような祷法を行っていたと思われる。土俵は元々は「方屋」といわれ、四方に太い柱を建て、屋根を置いた建物だった。屋根がなく、柱を立てただけの方屋もあった。その中で神聖な儀式が行われたのである。土俵が丸いというのも固定観念で、四角いものもあった。今の国技館の土俵のようなものは、江戸時代に寺社の境内で相撲興業が行われたとき、土砂を詰めた俵を環状に基底部三列、高さ三段ぐらい積み上げ、その中の穴に土や砂を敷いて平らにしたものであった。相撲を見せるための仮の舞台を作る工夫であり、インスタントに作られた土俵であった。力士像 https://note.com/82ko/n/n43d5954069c5手首に鈴のついた輪をはめている。まわしにも大きな鈴をつけたのかも知れない。今の力士の取り組み前の所作は手首を動かすものが多い。水で手を洗う動作だとか、武器を隠し持っていないことを見せようとしているのだとか言われるが、手首に鈴を付けていたと考えると納得の行くものが多い。手のひらをこすりあわせるような動作は、鈴を鳴らしていたと捉えた方がしっくり来る。2025/07/02 06:56:01582.名無しさん@涙目です。VU3vs上記巫女の衣装であるが、その後の采女(ウネメ)の衣装と関係があるかというと、全く無いのだそうである。采女とは、宮中の女官の一つ。天皇・皇后の側近に仕え、日常の雑事に従った者をいう。律令制以前からあったとみられるが、律令制では諸国の郡司一族の子女のうちから容姿端麗な者を出仕させて、宮内省采女司が管理した。という。豪族の娘のうち、とびきりの美女を宮中に出仕させ、女官として用いる制度は、飛鳥朝では間違いなくあった。中臣鎌足が宮中第一の采女を得て自慢する歌を詠んでいるからである。一族中の美女を差し出すというのは、古来からの地方豪族の屈服の証しの意味を持つ行為だったのかも知れない。女系社会にあっては、女性の方が祖霊との結びつきが強いということだろう。実際、古代の男子というのは勝手にどこにでも好きなところに行けといった扱いであった。好きな女を見つけ、そこに婿入り(後世の婿入りとは違うが、その女のもとに通い、出来た子はその女性の方で育てる)する。死んだら夫と妻の墓はバラバラ(夫も妻も自分の実家の墓に葬られる)である。しかし、完全な婿だと妻と同じ墓ということもあったようである。以上は、立派な係累を持つ女の場合で、何も持たない庶民の女の場合、単に男の持ち物になることも多かっただろう。鎌足の歌:我れはもや、安見児(やすみこ)得たり、皆人(みなひと)の、得かてにすとふ、安見児得たり(私は安見児(やすみこ)を、私のものにしましたぞ。誰もが手に入れることができないという安見児(やすみこ)を。)この安見児という采女は天智天皇から下賜されたものだから天皇のお手付きだったのだろうが、誰が貰うか競争のようになっていたのだろう。鎌足は安見児を得て欣喜雀躍し、得意満面であった。2025/07/04 05:28:49583.名無しさん@涙目です。VU3vs大和朝廷が出来るまでは、女性が女官として王のもとに出仕するということはなかった。女性は母親の下にいて、婚姻も通い婚だった。弥生の頃から南方系の母系制は確固として存在したと思われる。しかし、唯一の例外があった。それが巫女になることである。巫女の仕事は本来神をその身に憑依させ、神の言葉を告げること(託宣)である。しかし、時代が下るにつれて巫女の職掌するところも広がっていく。やがては神への奉仕全般が巫女の仕事になった。もちろん託宣という本来の務めをする巫女もいるが、後世の斎宮のような神の一夜妻の役目をする巫女もおり、その他、神へのお供えを担当する者、神域の清掃をする者、高位の巫女に仕える者等も出てくる。もしかしたら、舞踏専門の巫女もいたかも知れない。(舞踊というのは人が踊るのではない。神が人に憑り移って踊って楽しむものなのである。神が人に憑依して行為をなさしめる点、託宣と同じ構造を持つ)。こうした仕事以外に、巫女たちは全員が織姫であり、糸繰りや機織りに従事していた。卑弥呼に奴婢千人がいたというが、祭礼のときなどは手伝いの女も含めて人数が膨れ上がり、千人ほどになることもあったかも知れない。2025/07/04 05:32:54584.名無しさん@涙目です。VU3vs埴輪の巫女の衣装は、後代の巫女の衣装とは関係はない。では卑弥呼の時代の巫女の衣装とはどうか。これが関係があるらしいのである。裸足であり、しかもふくらはぎの真ん中あたりから下を露出している。単被(たんぴ、ひとえごろも)で、綾織ではない。これは魏志倭人伝が倭人の風俗として伝えるところに似ている。袈裟のような上衣の下に着ているワンピースのようなものは、貫頭衣かも知れない。貫頭衣だと脇が開くが、上から襷をかけて体にピッタリと添わしていたのかも知れない。袈裟のようなものは仏教僧の袈裟の影響だろう。紀元一世紀にはすでに中国で仏教が普及しはじめているから、卑弥呼の頃は朝鮮南端にも仏僧は来ていたと思われる。その袈裟が巫女衣装に影響を与えたとしても不思議ではない。日本最初の寺は、飛鳥に作られた飛鳥寺(法興寺)であるが、この寺を作った蘇我馬子は、まずは女性の仏僧二人を住持にした。15才ぐらいの尼二人である。当時、仏教の仏というのは異国の神であり、日本人は日本の神と同じように女性の接待が必要なのだろうと思っていた。だから美女二人を置いたのである。二人置くのは斎宮も同じで、名目は一人であるがさらに一人あるいは数人を置いた。女性は月の障りがあるので、神がお渡りの日に褥に上がることができないことがあるためである。2025/07/04 05:33:25585.名無しさん@涙目です。VU3vs女性は巫女になるという以外に公の仕事に就くことはなかったが、女性のみの仕事というのはいくらもあった。木の実草の根などの食料採取や薪などの燃料集め、調理、子育てといった当たり前のものからそうでないものもあった。酒造りなどはその第一のものである。酒を醸すのは女性の仕事だった。酒は後代になると大きな樽で作るようになるので重労働になり、男の仕事になるが、古代は甕で作っていたので女性でも作れたのである。麹の代りに女性が米を噛んで混ぜると酒になった。それと養蚕と機織り。衣類の縫製。米作りでも、田植え、草取り、刈り取り、ハザ掛けはほぼ女性の仕事だった。轆轤(ろくろ)登場以前は、土器づくりも女性の仕事だったと考えられている。弥生土器までは女性が作っていたのである。こういったところが他のアジアの女性と違うところである。たとえば中国の女性は、地位の高い男の妻になると仕事は一切しなくなる。下僕下女をたくさん抱え、私事のあらゆることを他人にさせるようになるが、仕事にはいっさいかかわらない。中東に行くとさらに甚だしく、中東の女性は結婚してもハーレムの女になるだけである。ハーレムは男性のための快楽の場であって、日常生活とは無縁のものである。幕末に来航したペリーも、日本女性が働くことに着目している。そしてハーレムの女である中東の女性と比較して、日本の主婦を自律的であると評している。https://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2015/08/post_1211.html2025/07/04 05:33:44586.名無しさん@涙目です。eGHNHハーレムの女は働かない。しかし、こういうのとばかり比較するのは適当でなかった。働かされている女性は世界中にいるし、昔は今より過酷な労働をしていた女性も多かっただろう。例えば、古代ローマの女性(結婚した女性、主婦)は、家畜に近かったという。農家の女性などはひたすら働かされるだけだった。働かされ、かつ子を産むだけである。夫の所有物であり、すべてがその監視下にあった。その後、ローマが世界帝国になり、あちこちの植民地から奴隷が連れてこられ、安価に供給された。自作農はプランテーションに取って代わられ、働く農民はいなくなった。ローマ人は都市の遊民になり、「パンとサーカス」の暮らしを始める。そうなるとローマ人の妻というのは簡単に浮気をした。夫婦でパーティに出ると、いつのまにか妻がいない。しばらくすると、頬をほてらせ髪を乱した妻が席に戻ってきたりした。その家の主人と別室のベッドにいたのである。そんなことは当たり前だった。こうしたことは、女を家畜として扱ったことの報いだった。中世ヨーロッパもこの性格を受け継ぎ、戦いに出る騎士は妻に貞操帯をはめることもあった。妻の貞操管理は夫の義務であり、妻が自分の貞操を守る義務はなかった。要するに、女性に自律性がなかったのである。だから、働くにしても自らの才覚を働かせる余地はなく、奴隷労働のようなものだった。日本の妻というのは、夫に管理されるよりも、むしろ夫を管理し、面倒を見る存在だった。女性には女性の世界があり、そこで中心になるのは利発で統率力のある女性だった。子供も結局は女性のものであり、特に女の子とのつながりは終生絶えることはなかった。ペリーが言うように、日本の女性には自律性があったのである。この自律性が求愛の場面で発揮されることもある。日本の女性は、仮に大王に求愛されてもこれを断ることが出来たのである。外国なら殺されても不思議ではない。日本では封建時代の領主でも、領民の娘を自由にすることはできなかった。中世ヨーロッパでは、農奴の娘は領主や領主の息子たちの持ち物にすぎなかったのと大いに異なる。2025/07/06 18:19:41587.名無しさん@涙目です。Fjnr0倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)。第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)の妻。昔から卑弥呼に比定されることが多かった女性である。「神の妻」であるところから巫女であることは明かである。孝霊天皇などは実在しないので、皇女であるはずもない。大三輪氏の一族の女性だろう。巫女であることは名前からも分かる。「倭迹迹日百襲姫」の「迹迹日」(ととび)であるが、「飛び」に通ずる。神が憑いて踊り狂い、空中に飛び上がったかと思われる。そうでなければ鳥類の「鳶」である。鳶が円を描いて滑空するように、両腕を広げてぐるぐると回ったのかも知れない。古代の神降しは真夜中に森の中で行い、神木にまず神を降し、その神を巫女の体に憑かせた。そのため、巫女は神木の周囲をぐるぐる回ったのである。(仏教が入って仏塔に祈ることが流行した後も、この伝統は生きていた。人々は仏塔の周囲を左回りにぐるぐる回りながら仏に祈った。)。次に、「百襲」(ももそ)いう名も巫女であることを示している。「襲」は「おそい、うすい」と読み、上記巫女の袈裟のような上衣(意須比、いすい)のことである。百の意須比とは何かというと、何枚も意須比を重ね着していたのかも知れないし、いろんな材質や色の意須比を持っており、神降しの度に違ったものを着たのかも知れない。あるいは百の色を合わせたような派手な色彩と柄の意須比、あるいは百もの玉で飾られた意須比だったか。いずれにしても、尋常でない衣装であったことをうかがわせる。2025/07/07 06:48:28588.名無しさん@涙目です。Fjnr0日本書紀によれば、倭迹迹日百襲姫は「神浅茅ヶ原」(かむあさじがはら)に居たという。この場所は今の神御前神社(かみのごぜんじんじゃ)の周辺だろうということである。神御前神社は倭迹迹日百襲姫を祀る神社であり、今は大神神社の摂社となっている。山には、何故か確かにここが正面だと思われる場所がある。この神社がある場所から三輪山を見上げると、確かに山の正面に臨んでいると感じられる。自分が山の真下にいて、三輪山と正対していると実感されるのである。「浅茅ヶ原」というのは茅(ちがや、丈の低いススキに似た植物)が生えた土地ということである。「浅」く生えているということは、一面にびっしりと生えているのではなく、まばらに生えていることを意味している。人が手を入れていない放置された土地というような意味もある。古く「原」とは、今のように草原や原っぱを意味するものではなく、一定の区切られた何も無い場所を意味した。語源は「晴れ」と同じであると解され、雲も霞もなくただ空が青く輝いているのを「晴れ」と言う如く、何も無く「ポカッ」と空いている空間を言うのである。木が生えていたり、傾斜地だったりすれば、それは「野」である。たとえば「海原」は、入江の内側のような波の立たない小さな海面のことを言った。ふつうの陸上にある「原」とは、森の中の木の生えていない空間とか、家が立ち並んだ中の空地のことを言ったのである。昼なお暗いような森の中でも、何故がぽっかりと木の生えていない場所がある。そういう場所を「原」といった。古代人の感覚では、こういう場所は神の庭のようなもので、本来人が入ってはならない場所であった。日本の山は不思議なところで、何故が人の声が聞こえるのである。特にこの「原」のようなところに紛れ込むと、鳥の声に混じって頻繁に人の声が聞こえた。たしかに人の声なのだが、しかし何を言っているのかは分からない。山の中で人の声を聞く経験は誰もがしていた。特に春から初夏、山菜や木の実を採取する女性たちはその体験をすることが多かった。女性たちの中にその声を言葉として聞き分けることの出来る者がいた。たいがいは少女である。そうした少女たちが巫女に選ばれた。2025/07/07 06:49:18589.名無しさん@涙目です。Fjnr0以上、声の話は余談である。倭迹迹日百襲姫がいた場所が浅茅ヶ原だというのであれば、周囲は大木の生い茂る森だったはずである。現在このあたりは農地と集落ばかりであるが、土地は起伏に富む。斜めになった土地が折り重なっているような印象である。巫女がいたからには清い水も流れていたはずである。巫女に禊(みそぎ)は欠かせないからである。山水がいくつもの細流に分かれ、窪地の縁から水が湧き出して水に沈んだ森もあった(もののけ姫の森を想起するとよい)。石上神宮のある「布留の神杉」と謳われた森も、三笠山や春日山の麓の森(春日山原生林)もこのようなものであった。古代人はこうした場所に神が棲むと考えていた。巫女たちは森の奥の、神浅茅ヶ原のさらに奥に住んでいた。清流が窪地に池をつくり、そこに真菰が生えていた。真菰は植物の中で最も神聖なものとされていた。巫女たちはこの真菰の葉を干し、それで枕を編んだ。その枕を二つ並べ、神の妻の務めを果たす巫女が添い寝するのである。今もこの風習は残っている。令和天皇は即位の儀式で、真菰の枕で寝まれた。https://www.youtube.com/watch?v=GDvD3Q21caw「伊勢の大麻(おおぬさ)、出雲の真菰」と言って、清浄なもので穢れや魔を払うという風習は、日本人の中に根強く残っている。真菰を尊ぶのは出雲系の信仰ないし風習である。宇佐八幡に真菰の枕の伝統があるということは、宇佐八幡は出雲系ということになる。奈良時代の道鏡事件のとき、和気清麻呂が派遣されたが、最初は清麻呂の姉の広虫が派遣されるはずだった。女性の方が祖神とのつながりが強いと考えられたからだろう。しかし、広虫が病身であったため、長旅には耐えられないと弟の清麻呂が神意確認の勅使に任じられたのである。何故広虫や清麻呂が選ばれたかといえば、もともと備前国藤野郡(吉備国東部)の出身で、出雲系の氏族だったからである。その頃でも宇佐神宮のある豊の国(大分)というのは中国地方の続きのようにとらえられていた。戦国時代、毛利氏も豊前を支配しており、大分は岡山広島山口などと文化圏としても経済圏としても一体といえた。(大分県宇佐市は豊前国に属している。ただし宇佐神宮の一部は豊後の国にかかる)。2025/07/07 06:49:36590.名無しさん@涙目です。YXihf石破より殺された(笑)統一教会応援団安倍普三だろう!この安倍(岸一族)が統一教会を日本国に招き入れたそして中国共産党国員のスパイを日本に招いて日本国の土地をせ占めている今現在ただ参政党は統一教会の仲間かも知れない この点は不確実だから選ぶのは躊躇するね!2025/07/07 06:54:34591.名無しさん@涙目です。psWiK>>587>(仏教が入って仏塔に祈ることが流行した後も、この伝統は生きていた。人々は仏塔の周囲を>左回りにぐるぐる回りながら仏に祈った。)。↑出鱈目右肩を晒し左回りに廻るのは右遶でインドの伝統だ敬意を示すためにブッダに対しても行われたこれは現代でも最期の別れで火葬前に棺の周りを左回りする習慣が仏式でも行われる2025/07/07 22:02:44592.名無しさん@涙目です。kGePhプラダクシナー・パタ って知らんの?右遶(うにょう)というのは、右肩を尊い人や仏像や塔に向けて右回り(時計回り)に回ること。時計回りだから左回りではないのよ。この時点ですでにお前さん馬鹿確定じゃんwwインドでは塔を回る時は右回り。これは絶対の掟だ。ミャンマーとかラオスとか、インド仏教が直接広がった地域では皆同じ。右が清浄、左が不浄と厳しく決まっている社会だからこうなる。左回りだと、自分の不浄な左半身を塔に向けて回ることになる。よろけたりすれば左手で塔を触ってしまうことになる。これではまずいので、必ず右回りということになる。これは、糞したら左手でケツの穴を拭く習慣の国では必然のことだわな。昔は石鹸も無いわけだし、糞を拭いた手で神聖な仏塔を触るわけにはいかないんだよ。なお、しめ縄にも右巻き、左巻きとかある。ネットにいろいろあるから読んでみるといい。君に理解できるかは分からないけど。知識は勝手な理解で作り上げては駄目だ。低レベルなものでもいいから正確なものを積み上げていこうよ。そうでないと知識はガラクタ、知能も発達が止まる。君は小学校ぐらいから止まってる感じがあるがwあ、もしかしたら小学生か、それだったら御免な2025/07/08 12:03:01593.名無しさん@涙目です。VVuLc長文連投野郎は嘘書いて指摘されたからどこかで調べてから書いてるな時計回りを左回りと先に書いたのはお前だろ出鱈目野郎精確さがないのはお前だ元々の知識がないから調べてからしか書けないバカ知識としては頭に入って居ないからこうなる些末な間違いで鬼の首獲ったかのように書くな最初に間違えてるのはお前だよもう書いて来るなうざいんだよ2025/07/08 23:52:33594.名無しさん@涙目です。pZBQI591!w もうヒッチャカメッチャカだなお前が>↑出鱈目右肩を晒し左回りに廻るのは右遶でインドの伝統だって書いてるんじゃないか。右遶が何で左回りなんだよwwwwww>些末な間違いで鬼の首獲ったかのように書くなも嗤える。間違えているのはお前だけ、それも些末な間違いじゃないだろ。間抜けもいいとこだ。糞間抜けw間違いを指摘されて発狂してるのがさらにみっともない。まさに醜態>時計回りを左回りと先に書いたのはお前だろ書くわけないだろ。お前じゃねーよwww嘘まで書いてそんなに悔しいか、ミジメだなそもそも卑弥呼の時代の話で右遶が出てくるのがとんでもない。仏教伝来のはるか以前、日本は原始神道時代の話だぞ頭ダイジョブカ?ケアレスミスは誰にでもあるが、お前のはそうじゃない。根本的な知識の欠如を露呈した恥ずべき間違い邪馬台国論争は知的娯楽の一種ともいえ、誰にでも楽しめる話題だが、それにしたって一定の知識と素養は必要なんだよお前は中学生レベルですらない。ほんと、チンポに毛が生えてるのか?というレベルなんだわお前、前に出てきた皮かむり小学生博士君だろまじで宿題やれよ!の世界なんだわww、見ているこっちまで恥ずかしくなるもう書いて来るなうざいんだよ2025/07/09 06:30:02
安倍晋三「日中戦争は侵略ではなかったのでは?」歴史学者「日中で改めて調査しました。侵略戦争です」安倍晋三「侵略という定義については、これは学会にも国際的にも定まっていないのであります」ニュー速(嫌儲)71161.42025/08/10 01:49:46
数学者で専門は解析学の半沢氏は「魏が邪馬台国に使者を派遣したとされる西暦240年代は、約430メートルだった1里が、度量衡変更で約80メートルに短縮されていた」と主張。「倭人伝に書かれている方向や距離、対馬や壱岐の大きさも現実とほぼ符合し、非常に厳密に記述されていることが分かる」と評価した。使者一行には古代中国数理科学書である「周髀算経(しゅうひさんけい)」や「九章算術」に精通した学者が同行し、正確な測量をしていた可能性にも言及した。
本土上陸地点は通説の唐津市(佐賀県)付近ではなく、博多湾沿岸と比定。「そこから記述通りに行けば、邪馬台国は甘木中心部(朝倉市)になる」と結論づけた。
半沢氏は「距離は空想だとか、方向を間違ったなどとして結論を導き出す従来の手法よりも自然だと思う」と話した。
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1318123/
学者も言っている
いう次元を越えたとんでもないものだった可能性もある。
顔や頭を変形させていたかも知れない。
中国北東部や朝鮮ではかなりの数が発見されているらしいが、日本では3世紀ごろの種子島の広田人と
呼ばれる人々でが代表である。意図的に後頭部が扁平にされていた。
男も女も、村中の人間全部である。
子供が生まれたら後頭部を変形させる習慣があったらしい。
熊本県和水町の前原長溝遺跡の人骨は五世紀ごろの古墳時代のもので、頭蓋骨と顔が変形している。
以下のpdfファイルの21ページに写真がある。
file:///C:/Users/user/Downloads/22186_1_%E4%BB%8A%E3%8
1%A9%E3%81%8D%E3%81%AE%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6-2.pdf 二行一緒にコピペ
鼻が無い。顔の中心に板を当て、圧迫を続けて鼻をペチャンコにしてしまったらしい。
だから顔の真ん中は目だけがあり、口は上の前歯までは真っすぐで、下顎が前に飛び出している。
板を押し当てるのにおでこからグルっと頭を一周布で巻き、締め付けた。
さらに頭のてっぺんから顎の方まで布を巻いて締め付け、頭蓋骨に溝のように陥没した跡がついていた。
非常に奇怪な容貌だったと思われる。
何十枚も焼いて、割ってバラバラにし、棺の上に撒いたりもしたらしい。
貝輪とは、大きな貝殻で作った腕輪状のものである。
ベンケイ貝などは格子縞の模様で非常に美しい。
大きなハマグリなど、日本で採れる貝で作ることもできるが、南洋諸島の貝で作るのが一番だった。
この装身具は縄文時代からある。縄文文化の装束が古墳時代にも残っていたらしい。
この腕輪を43個も腕にはめた女性の遺骨が出現している。
腕に嵌めたのだろうが、大きなものもあり、さらに周囲が刃物のようになっているもある。
こうしたものを腕に嵌めたら怪我をしてしまうし、そもそも身動きができないだろう。
おそらく、十枚とかそれ以上の貝輪を紐でつなぎ、肩や腰から下げたのではないかと思われる。
貝輪は、磨けば磨くほど光を増した。
南洋の貝を使えば色彩も鮮やかであり、これを身に着けて踊ればキラキラと光って人々を幻惑しただろう。
ジャラジャラと音もすごかったと思われる。
巫女が宣託をなすときの装束としては、まず頭に神が降りるときの憑代となる物を置いた。
鹿の骨や角、あるいは木が多かったらしい。木はおそらく「ぬるで」の小枝だろう。
さらに、腰に小道鏡を下げた。シャーマンの持つ道鏡は、紐が無数に付いた凹面鏡であった。
道具としては小さな銅鐸を用いた。
https://ameblo.jp/4151223/entry-11398707648.html
https://articles.mapple.net/bk/16102/#google_vignette
小道鏡 ではなく 「 小銅鏡」である。
漢代の小銅鏡 https://www.youtube.com/watch?v=6DRsr2l13fg
ベルトのようなものに取り付けて何枚も下げていたのではないか。
学者も言っている
一つは乱舞したり跳躍したり大声を出したりして憑依状態になるもの。
原始的で土俗的である。江戸時代になっても民間のシャーマンはこのような様式だったようである。
古事記より
天手力男神は戸の脇に隠れて立ち、天宇受売命は天の香山の日蔭鬘を襷にかけ、天の真拆葛を
髪飾りとして、天の香山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、
神がかりして乳房を掻き出し、裳の紐を女陰まで押し垂らした。すると、高天原が鳴動するばかりに、
八百万の神々が一斉にどっと笑った。
アメノウズメのウズは、巫女が髪につける木の枝や葉のことを言う。
神は天から大木(神木)の頂きに降りる。
人間も、頭に木の枝や葉を付けることによって神が降りやすくなると考えたのだろう。
もう一つは、多数の人間が関与して一つの儀式のようにして行うもの。
例えば、宇佐八幡において和気清麻呂が八幡大神の神意をうかがった神託はそのようになされた。
1. 巫女は斎宮に入る。そこで忌み慎み、禊なども行い、身を清める。
2.巫女は神主になる。
3.琴や土笛、鈴などの楽団をつける。
4.巫女と問答し、神託の意味を解明するサニワ(審神)という役目の者をつける。
5.言葉は韻を踏んだ漢文調のもの。
2.の神主になる、の意味は判然としないが、一般には「神に仕える者たちのうち主になる者」の意味である。
しかし、古代では「神の言葉を語る人」の意味もあったという。
ここではおそらくその意味である。
前者の土俗的な神降しのときも、巫女の言葉が明瞭であるとは限らない。
むしろ恍惚ないし狂乱状態で、何を云っているのが分からないことも多かったと思われる。
それ以前に、巫女になるような霊感体質の女性には言語不明瞭な者、また身体的欠陥があって
きちんと言葉を発しえない者も少なるなかったと思われる。
だから、審神の役を務める者はこの場合も必須であったと思われる。
学者も言っている
https://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/25kangou-y.html
弥生時代の日本列島における環濠集落の分布
これが「倭」の範囲と一致しているのではないか?
千葉・埼玉の環濠集落を合わせると、大阪・奈良の環濠集落より数が多い。
茨城・栃木には環濠集落は無い。
米や雑穀を作っていなかったわけではあるまい。
環濠を作るような大規模な集落が無かったということだろう。
家屋数20から30ぐらいの小さな集落がいくつもあった。
もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり、現在では、
魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である。
倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
三十余の国々は具体的な名前があがっているものが多い。
曰く
対馬、一支、末盧、伊都、奴、不弥、投馬、斯馬、巳百支、伊邪、都支、弥奴、好古都、不呼、
姐奴、対蘇、蘇奴、呼邑、華奴蘇奴、鬼、為吾、鬼奴、邪馬、躬臣、巴利、支惟、烏奴、奴など
かつて百余国に分かれており、今は三十国。
ということは、騒乱ないし土地の奪い合い等があり、弱い国や小さな国が淘汰されて強い国だけが
残ったというふうにも読める。
何となくそう読んでいる人も多い。
しかし、環濠集落の跡からして、この時代の国々が三十幾つということはあり得ない。
軽く三百を超えるだろうというのがふつうの捉え方である。
では、三十いくつというのは何の数字なのかといえば、魏という国と外交関係を持とうとした国の
数である。
卑弥呼が魏に使いを送った三世紀前半は、壱岐対馬など対馬暖流の中に浮かぶ島々、および
玄界灘に臨む国々に頼らなければ伽耶との往来はならなかった。
だからこれら海人族を取り込む形で国家連合が形成され、伽耶や百済、楽浪郡などへの交通を
可能ならしめていたのである。
学者も言っている
ハプロすら全く違う勢力だからタブーで
政治的な詐欺をずっとやっているだけ
しかも、四国の黄河系渡来人O2b1の中臣、藤原に担がれて上書きされているだけだから
弥生時代はO1b2の物部系の時代
天皇ってのはO2b1に騙されて同族のD1a2を迫害してた
黄河系渡来人のO2b1濃厚
アカデミズムがソッチ系だから
家族が社員で全員給料をとった後は、農業法人の収入はほぼゼロという形もある。
個人会社なんてそんなの多いのよ。
俺の従兄で自動車修理会社やってるのいるけど、十人近い社員かかえて経営安泰で、
でも税金払ったことないって言ってたよ。
最古の古墳は220ADのもの。
だが、本格的に古墳が作られ始めるのは三世紀中葉以降である。
卑弥呼の時代が弥生の終わり、台与の時代に古墳時代が始まると考えるとよい。
一応の目安にはなる。
古墳は、専門の技術集団が日本に渡ってきてから始まったという。
野見という一族、そして土師という一族だ。
野見は野見の宿祢の先祖(というか宿祢は想像上の人物だろう)。
箸墓は本来は土師墓だという。土師氏が作った墓らしい。
古墳は、一般的に大和のものが大きい。摂津・河内のものも大型である。
畿内でも山城は中型。瀬戸内の吉備、九州北部の豊(おおいた)のものも中型。
九州北部の築後は小型である。
古墳は街道沿いなどの目立つところに作られた。
その土地の王(権力者)の力をあらわすために作られたのである。
だから、無理をしてでも大きなものを作ろうとする。
基本的には、使役できる土民の数が古墳の大きさを決めるのである。
古墳の数は、第1位 兵庫県(16,577基)、第2位 千葉県(13,112基)、第3位 鳥取県(13,094基)、
第4位 福岡県(11,311基)、第5位 京都府(11,310基)。 全国総計 161,560基。
古墳とコンビニの数はどっちが多い? というお笑いクイズがあるくらいである。
作られた時代を分析すると、畿内でまず作られるようになり、そこから全国に広がって
いったのが分かる。
つまり、韓国のものは後発である。
築造年代は、ほぼ5世紀後半から6世紀前半の期間に収まるとされる。
日本列島の前方後円墳の築造期間は3世紀中頃~7世紀前半頃である。
これにに比して新しく、かつ期間の短い築造になる。
日本に200年遅れ、かつ100年早く終わっている。
お前も影響されやすい性格みたいだな。気をつけろよw
学者も言っている
学者も言っている
わかる?
理由も書かずにわかるわけねぇだろw
すっこめネトウヨw
学者も言っている
意味わかる?
吉野ケ里遺跡のかなり上流支流域になるけど見るからに豊穣の土地柄
大宰府にもほど近いので共通の文化圏を築いて可能性は高い。
日出国からの親書に魏との交流の過去を書いてないw
都合の悪いコメントを無視して同じ発言を繰り返す馬鹿ウヨ仕草
魏に朝貢したのは邪馬台国
邪馬台国とヤマト王権は連続性がないだろうけど、大王(天皇)はヤマト王権の長だよ
仮に関係あったとしても、350年以上前の亡国との通交を国書に記載する意味はない
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=100578&content_part_id=001&content_pict_id=005
https://www.pref.gunma.jp/uploaded/attachment/11314.pdf
ここの4ページ以下に出てくる。
前髪と後頭部の髪を束ね、前後に「ひさし」にする。
江戸時代の島田髷に似ているので、古代島田髷と呼ばれる。
江戸時代の日本髷というのは、女性が働くときの髪型だったようである。
https://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16262961.html
巫女が身に着ける袈裟のようなものは意須比(いすい)といい、片方の肩から斜めに着る。
その上をさらにベルトのようなネクタイのようなもので縛る。
意須比の下は筒袖のワンピースのようなものを着ている。
その上に「襷 たすき」をかける。
このワンピースのような衣装の模様は「青海波」だといわれる。一見水玉模様に見える。
大阪高槻の今城塚古墳から出土した巫女の埴輪は、巫女のパレードのようなものが再現されている。
先頭を行く巫女は両腕を上げ、背を思い切り反らしている。
おそらく何かを天に叫んでいるようである。その巫女につづき、神饌を捧げ持つ巫女や、酒を注いだかわらけを
持つ巫女があゆみを進める。
前方後円墳の方形の広がりは、儀式のための舞台空間だったようである。
そこで主役を務めるのは巫女たちであり、祭祀を司る神祇官のようである。
剣を捧げ持ったり、鎧を着て馬に乗り威儀を添える男たちもいたわけであるが、あくまでも添え物にすぎない。
中心は巫女たちであった。
あったかも知れない。
これだけの数になると、巫女を束ねる人間が必要になる。
その地位に就く者は女性であり、巫女であることは間違いない。
巫女の職域は、間違っても男子が手を出す余地は無いものだからである。
この、巫女の指揮官とでもいうべき者の姿は、埴輪として残っている。
例えば群馬県出土の「腰かける巫女」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100578&content_pict_id=0
左腰の後ろに鈴鏡というものを下げている。
https://www.kyohaku.go.jp/jp/learn/home/dictio/kouko/97kofun/
今城塚古墳の巫女像のレプリカ
https://natsumemomiji.up.seesaa.net/image/IMG_07172028329.JPG
神饌や酒などを捧げ持つ巫女は15、6才だろうが、先頭を行く両腕を上げた巫女は
20才を超えているかも知れない。
さらに、この巫女たちを統率する巫女もいたはずである。
巫女はいずれ還俗して一般の男に嫁ぐが、巫女の頭ともいうべき女性は生涯婚姻せず、
死ぬまで巫女のままでいたはずである。
なお、五鈴鏡を鳴らしてみました。https://www.youtube.com/watch?v=gffGUb45qmk
復元された鈴鏡の音 https://www.youtube.com/watch?v=JCyQhEpPLY8
祭典には巫女と並んで力士も必須だったようである。
力士も儀式に必要なキャラクターだった。
地霊を鎮め、土地を清めるような祷法を行っていたと思われる。
土俵は元々は「方屋」といわれ、四方に太い柱を建て、屋根を置いた建物だった。
屋根がなく、柱を立てただけの方屋もあった。
その中で神聖な儀式が行われたのである。
土俵が丸いというのも固定観念で、四角いものもあった。
今の国技館の土俵のようなものは、江戸時代に寺社の境内で相撲興業が行われたとき、
土砂を詰めた俵を環状に基底部三列、高さ三段ぐらい積み上げ、その中の穴に土や砂を
敷いて平らにしたものであった。相撲を見せるための仮の舞台を作る工夫であり、
インスタントに作られた土俵であった。
力士像 https://note.com/82ko/n/n43d5954069c5
手首に鈴のついた輪をはめている。まわしにも大きな鈴をつけたのかも知れない。
今の力士の取り組み前の所作は手首を動かすものが多い。
水で手を洗う動作だとか、武器を隠し持っていないことを見せようとしているのだとか言われるが、
手首に鈴を付けていたと考えると納得の行くものが多い。
手のひらをこすりあわせるような動作は、鈴を鳴らしていたと捉えた方がしっくり来る。
上記巫女の衣装であるが、その後の采女(ウネメ)の衣装と関係があるかというと、全く無いのだそうである。
采女とは、宮中の女官の一つ。天皇・皇后の側近に仕え、日常の雑事に従った者をいう。
律令制以前からあったとみられるが、律令制では諸国の郡司一族の子女のうちから容姿端麗な者を出仕させて、
宮内省采女司が管理した。という。
豪族の娘のうち、とびきりの美女を宮中に出仕させ、女官として用いる制度は、飛鳥朝では間違いなくあった。
中臣鎌足が宮中第一の采女を得て自慢する歌を詠んでいるからである。
一族中の美女を差し出すというのは、古来からの地方豪族の屈服の証しの意味を持つ行為だったのかも知れない。
女系社会にあっては、女性の方が祖霊との結びつきが強いということだろう。
実際、古代の男子というのは勝手にどこにでも好きなところに行けといった扱いであった。
好きな女を見つけ、そこに婿入り(後世の婿入りとは違うが、その女のもとに通い、出来た子はその女性の方で
育てる)する。死んだら夫と妻の墓はバラバラ(夫も妻も自分の実家の墓に葬られる)である。
しかし、完全な婿だと妻と同じ墓ということもあったようである。
以上は、立派な係累を持つ女の場合で、何も持たない庶民の女の場合、単に男の持ち物になることも多かった
だろう。
鎌足の歌:
我れはもや、安見児(やすみこ)得たり、皆人(みなひと)の、得かてにすとふ、安見児得たり
(私は安見児(やすみこ)を、私のものにしましたぞ。誰もが手に入れることができないという安見児(やすみこ)を。)
この安見児という采女は天智天皇から下賜されたものだから天皇のお手付きだったのだろうが、誰が
貰うか競争のようになっていたのだろう。鎌足は安見児を得て欣喜雀躍し、得意満面であった。
女性は母親の下にいて、婚姻も通い婚だった。弥生の頃から南方系の母系制は確固として存在したと思われる。
しかし、唯一の例外があった。それが巫女になることである。
巫女の仕事は本来神をその身に憑依させ、神の言葉を告げること(託宣)である。
しかし、時代が下るにつれて巫女の職掌するところも広がっていく。
やがては神への奉仕全般が巫女の仕事になった。
もちろん託宣という本来の務めをする巫女もいるが、後世の斎宮のような神の一夜妻の役目をする巫女もおり、
その他、神へのお供えを担当する者、神域の清掃をする者、高位の巫女に仕える者等も出てくる。
もしかしたら、舞踏専門の巫女もいたかも知れない。
(舞踊というのは人が踊るのではない。神が人に憑り移って踊って楽しむものなのである。神が人に憑依して
行為をなさしめる点、託宣と同じ構造を持つ)。
こうした仕事以外に、巫女たちは全員が織姫であり、糸繰りや機織りに従事していた。
卑弥呼に奴婢千人がいたというが、祭礼のときなどは手伝いの女も含めて人数が膨れ上がり、千人ほどになることも
あったかも知れない。
では卑弥呼の時代の巫女の衣装とはどうか。これが関係があるらしいのである。
裸足であり、しかもふくらはぎの真ん中あたりから下を露出している。
単被(たんぴ、ひとえごろも)で、綾織ではない。これは魏志倭人伝が倭人の風俗として伝えるところに似ている。
袈裟のような上衣の下に着ているワンピースのようなものは、貫頭衣かも知れない。
貫頭衣だと脇が開くが、上から襷をかけて体にピッタリと添わしていたのかも知れない。
袈裟のようなものは仏教僧の袈裟の影響だろう。紀元一世紀にはすでに中国で仏教が普及しはじめているから、
卑弥呼の頃は朝鮮南端にも仏僧は来ていたと思われる。
その袈裟が巫女衣装に影響を与えたとしても不思議ではない。
日本最初の寺は、飛鳥に作られた飛鳥寺(法興寺)であるが、この寺を作った蘇我馬子は、まずは女性の仏僧二人を
住持にした。15才ぐらいの尼二人である。
当時、仏教の仏というのは異国の神であり、日本人は日本の神と同じように女性の接待が必要なのだろうと思っていた。
だから美女二人を置いたのである。二人置くのは斎宮も同じで、名目は一人であるがさらに一人あるいは数人を置いた。
女性は月の障りがあるので、神がお渡りの日に褥に上がることができないことがあるためである。
木の実草の根などの食料採取や薪などの燃料集め、調理、子育てといった当たり前のものからそうでないものもあった。
酒造りなどはその第一のものである。
酒を醸すのは女性の仕事だった。酒は後代になると大きな樽で作るようになるので重労働になり、男の仕事になるが、
古代は甕で作っていたので女性でも作れたのである。麹の代りに女性が米を噛んで混ぜると酒になった。
それと養蚕と機織り。衣類の縫製。米作りでも、田植え、草取り、刈り取り、ハザ掛けはほぼ女性の仕事だった。
轆轤(ろくろ)登場以前は、土器づくりも女性の仕事だったと考えられている。弥生土器までは女性が作っていた
のである。
こういったところが他のアジアの女性と違うところである。
たとえば中国の女性は、地位の高い男の妻になると仕事は一切しなくなる。下僕下女をたくさん抱え、私事のあらゆる
ことを他人にさせるようになるが、仕事にはいっさいかかわらない。
中東に行くとさらに甚だしく、中東の女性は結婚してもハーレムの女になるだけである。ハーレムは男性のための
快楽の場であって、日常生活とは無縁のものである。
幕末に来航したペリーも、日本女性が働くことに着目している。そしてハーレムの女である中東の女性と比較して、
日本の主婦を自律的であると評している。
https://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2015/08/post_1211.html
働かされている女性は世界中にいるし、昔は今より過酷な労働をしていた女性も多かっただろう。
例えば、古代ローマの女性(結婚した女性、主婦)は、家畜に近かったという。
農家の女性などはひたすら働かされるだけだった。働かされ、かつ子を産むだけである。
夫の所有物であり、すべてがその監視下にあった。
その後、ローマが世界帝国になり、あちこちの植民地から奴隷が連れてこられ、安価に供給された。
自作農はプランテーションに取って代わられ、働く農民はいなくなった。
ローマ人は都市の遊民になり、「パンとサーカス」の暮らしを始める。
そうなるとローマ人の妻というのは簡単に浮気をした。
夫婦でパーティに出ると、いつのまにか妻がいない。
しばらくすると、頬をほてらせ髪を乱した妻が席に戻ってきたりした。
その家の主人と別室のベッドにいたのである。
そんなことは当たり前だった。
こうしたことは、女を家畜として扱ったことの報いだった。
中世ヨーロッパもこの性格を受け継ぎ、戦いに出る騎士は妻に貞操帯をはめることもあった。
妻の貞操管理は夫の義務であり、妻が自分の貞操を守る義務はなかった。
要するに、女性に自律性がなかったのである。
だから、働くにしても自らの才覚を働かせる余地はなく、奴隷労働のようなものだった。
日本の妻というのは、夫に管理されるよりも、むしろ夫を管理し、面倒を見る存在だった。
女性には女性の世界があり、そこで中心になるのは利発で統率力のある女性だった。
子供も結局は女性のものであり、特に女の子とのつながりは終生絶えることはなかった。
ペリーが言うように、日本の女性には自律性があったのである。
この自律性が求愛の場面で発揮されることもある。
日本の女性は、仮に大王に求愛されてもこれを断ることが出来たのである。
外国なら殺されても不思議ではない。
日本では封建時代の領主でも、領民の娘を自由にすることはできなかった。
中世ヨーロッパでは、農奴の娘は領主や領主の息子たちの持ち物にすぎなかったのと
大いに異なる。
第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)の妻。
昔から卑弥呼に比定されることが多かった女性である。
「神の妻」であるところから巫女であることは明かである。
孝霊天皇などは実在しないので、皇女であるはずもない。大三輪氏の一族の女性だろう。
巫女であることは名前からも分かる。
「倭迹迹日百襲姫」の「迹迹日」(ととび)であるが、「飛び」に通ずる。
神が憑いて踊り狂い、空中に飛び上がったかと思われる。
そうでなければ鳥類の「鳶」である。鳶が円を描いて滑空するように、両腕を広げて
ぐるぐると回ったのかも知れない。
古代の神降しは真夜中に森の中で行い、神木にまず神を降し、その神を巫女の体に憑かせた。
そのため、巫女は神木の周囲をぐるぐる回ったのである。
(仏教が入って仏塔に祈ることが流行した後も、この伝統は生きていた。人々は仏塔の周囲を
左回りにぐるぐる回りながら仏に祈った。)。
次に、「百襲」(ももそ)いう名も巫女であることを示している。
「襲」は「おそい、うすい」と読み、上記巫女の袈裟のような上衣(意須比、いすい)のことである。
百の意須比とは何かというと、何枚も意須比を重ね着していたのかも知れないし、いろんな材質や
色の意須比を持っており、神降しの度に違ったものを着たのかも知れない。
あるいは百の色を合わせたような派手な色彩と柄の意須比、あるいは百もの玉で飾られた意須比
だったか。いずれにしても、尋常でない衣装であったことをうかがわせる。
この場所は今の神御前神社(かみのごぜんじんじゃ)の周辺だろうということである。
神御前神社は倭迹迹日百襲姫を祀る神社であり、今は大神神社の摂社となっている。
山には、何故か確かにここが正面だと思われる場所がある。
この神社がある場所から三輪山を見上げると、確かに山の正面に臨んでいると感じられる。
自分が山の真下にいて、三輪山と正対していると実感されるのである。
「浅茅ヶ原」というのは茅(ちがや、丈の低いススキに似た植物)が生えた土地ということである。
「浅」く生えているということは、一面にびっしりと生えているのではなく、まばらに生えている
ことを意味している。人が手を入れていない放置された土地というような意味もある。
古く「原」とは、今のように草原や原っぱを意味するものではなく、一定の区切られた何も無い場所を
意味した。語源は「晴れ」と同じであると解され、雲も霞もなくただ空が青く輝いているのを「晴れ」
と言う如く、何も無く「ポカッ」と空いている空間を言うのである。
木が生えていたり、傾斜地だったりすれば、それは「野」である。
たとえば「海原」は、入江の内側のような波の立たない小さな海面のことを言った。
ふつうの陸上にある「原」とは、森の中の木の生えていない空間とか、家が立ち並んだ中の空地のこと
を言ったのである。
昼なお暗いような森の中でも、何故がぽっかりと木の生えていない場所がある。
そういう場所を「原」といった。
古代人の感覚では、こういう場所は神の庭のようなもので、本来人が入ってはならない場所であった。
日本の山は不思議なところで、何故が人の声が聞こえるのである。
特にこの「原」のようなところに紛れ込むと、鳥の声に混じって頻繁に人の声が聞こえた。
たしかに人の声なのだが、しかし何を言っているのかは分からない。
山の中で人の声を聞く経験は誰もがしていた。特に春から初夏、山菜や木の実を採取する女性たちは
その体験をすることが多かった。女性たちの中にその声を言葉として聞き分けることの出来る者がいた。
たいがいは少女である。そうした少女たちが巫女に選ばれた。
倭迹迹日百襲姫がいた場所が浅茅ヶ原だというのであれば、周囲は大木の生い茂る森だったはずである。
現在このあたりは農地と集落ばかりであるが、土地は起伏に富む。斜めになった土地が折り重なっている
ような印象である。
巫女がいたからには清い水も流れていたはずである。巫女に禊(みそぎ)は欠かせないからである。
山水がいくつもの細流に分かれ、窪地の縁から水が湧き出して水に沈んだ森もあった(もののけ姫の森を
想起するとよい)。石上神宮のある「布留の神杉」と謳われた森も、三笠山や春日山の麓の森(春日山原生林)も
このようなものであった。
古代人はこうした場所に神が棲むと考えていた。
巫女たちは森の奥の、神浅茅ヶ原のさらに奥に住んでいた。
清流が窪地に池をつくり、そこに真菰が生えていた。真菰は植物の中で最も神聖なものとされていた。
巫女たちはこの真菰の葉を干し、それで枕を編んだ。
その枕を二つ並べ、神の妻の務めを果たす巫女が添い寝するのである。
今もこの風習は残っている。令和天皇は即位の儀式で、真菰の枕で寝まれた。
https://www.youtube.com/watch?v=GDvD3Q21caw
「伊勢の大麻(おおぬさ)、出雲の真菰」と言って、清浄なもので穢れや魔を払うという風習は、日本人の中に
根強く残っている。真菰を尊ぶのは出雲系の信仰ないし風習である。
宇佐八幡に真菰の枕の伝統があるということは、宇佐八幡は出雲系ということになる。
奈良時代の道鏡事件のとき、和気清麻呂が派遣されたが、最初は清麻呂の姉の広虫が派遣されるはずだった。
女性の方が祖神とのつながりが強いと考えられたからだろう。
しかし、広虫が病身であったため、長旅には耐えられないと弟の清麻呂が神意確認の勅使に任じられたのである。
何故広虫や清麻呂が選ばれたかといえば、もともと備前国藤野郡(吉備国東部)の出身で、出雲系の氏族だった
からである。
その頃でも宇佐神宮のある豊の国(大分)というのは中国地方の続きのようにとらえられていた。
戦国時代、毛利氏も豊前を支配しており、大分は岡山広島山口などと文化圏としても経済圏としても一体といえた。
(大分県宇佐市は豊前国に属している。ただし宇佐神宮の一部は豊後の国にかかる)。
この安倍(岸一族)が統一教会を日本国に招き入れた
そして中国共産党国員のスパイを日本に招いて日本国の土地をせ占めている今現在
ただ参政党は統一教会の仲間かも知れない この点は不確実だから選ぶのは躊躇するね!
>(仏教が入って仏塔に祈ることが流行した後も、この伝統は生きていた。人々は仏塔の周囲を
>左回りにぐるぐる回りながら仏に祈った。)。
↑出鱈目右肩を晒し左回りに廻るのは右遶でインドの伝統だ
敬意を示すためにブッダに対しても行われた
これは現代でも最期の別れで火葬前に棺の周りを左回りする習慣が
仏式でも行われる
右遶(うにょう)というのは、右肩を尊い人や仏像や塔に向けて右回り(時計回り)に
回ること。時計回りだから左回りではないのよ。
この時点ですでにお前さん馬鹿確定じゃんww
インドでは塔を回る時は右回り。これは絶対の掟だ。
ミャンマーとかラオスとか、インド仏教が直接広がった地域では皆同じ。
右が清浄、左が不浄と厳しく決まっている社会だからこうなる。
左回りだと、自分の不浄な左半身を塔に向けて回ることになる。
よろけたりすれば左手で塔を触ってしまうことになる。
これではまずいので、必ず右回りということになる。
これは、糞したら左手でケツの穴を拭く習慣の国では必然のことだわな。
昔は石鹸も無いわけだし、糞を拭いた手で神聖な仏塔を触るわけには
いかないんだよ。
なお、しめ縄にも右巻き、左巻きとかある。
ネットにいろいろあるから読んでみるといい。
君に理解できるかは分からないけど。
知識は勝手な理解で作り上げては駄目だ。低レベルなものでもいいから正確な
ものを積み上げていこうよ。
そうでないと知識はガラクタ、知能も発達が止まる。
君は小学校ぐらいから止まってる感じがあるがw
あ、もしかしたら小学生か、それだったら御免な
どこかで調べてから書いてるな
時計回りを左回りと先に書いたのはお前だろ
出鱈目野郎
精確さがないのはお前だ
元々の知識がないから調べてからしか書けない
バカ
知識としては頭に入って居ないからこうなる
些末な間違いで鬼の首獲ったかのように書くな
最初に間違えてるのはお前だよ
もう書いて来るな
うざいんだよ
お前が
>↑出鱈目右肩を晒し左回りに廻るのは右遶でインドの伝統だ
って書いてるんじゃないか。右遶が何で左回りなんだよwwwwww
>些末な間違いで鬼の首獲ったかのように書くな
も嗤える。間違えているのはお前だけ、それも些末な間違いじゃないだろ。
間抜けもいいとこだ。糞間抜けw
間違いを指摘されて発狂してるのがさらにみっともない。まさに醜態
>時計回りを左回りと先に書いたのはお前だろ
書くわけないだろ。お前じゃねーよwww
嘘まで書いてそんなに悔しいか、ミジメだな
そもそも卑弥呼の時代の話で右遶が出てくるのがとんでもない。
仏教伝来のはるか以前、日本は原始神道時代の話だぞ
頭ダイジョブカ?
ケアレスミスは誰にでもあるが、お前のはそうじゃない。
根本的な知識の欠如を露呈した恥ずべき間違い
邪馬台国論争は知的娯楽の一種ともいえ、誰にでも楽しめる話題だが、それにしたって
一定の知識と素養は必要なんだよ
お前は中学生レベルですらない。
ほんと、チンポに毛が生えてるのか?というレベルなんだわ
お前、前に出てきた皮かむり小学生博士君だろ
まじで宿題やれよ!の世界なんだわww、見ているこっちまで恥ずかしくなる
もう書いて来るな
うざいんだよ