New Thypoch Eureka 50mm f/2 lens for Leica M-mount coming soon Photo Rumors / by PR admin / February 28, 2024 at 03:10AM
Leo has detected a Product Launch in this article
Thypoch displayed a new Eureka 50mm f/2 lens for Leica M-mount at the 2024 CP+ show (see previous Thypoch coverage | Thypoch lenses are sold at B&H Photo):
Paying tribute to classic design from the 1940s Collapsible design Dimensions: 41.2mm x 27mm Double Gauss lens design 12-blade diaphragm Excellent anti-glare capabilities
バルナックライカ 9台目
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/camera/1456151764/
バルナックライカ 10台目
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/camera/1511457142/
バルナックライカ 11台目
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/camera/1546980196/
バルナックライカ 12台目
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/camera/1614531175/
※カメラ板の現行ルールでは、スレ立て後20レス未満のスレは1時間で落ちる設定です。
スレ立て後は速やかに20レス保守が必要になります。
Photo Rumors / by PR admin / February 28, 2024 at 03:10AM
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Thypoch displayed a new Eureka 50mm f/2 lens for Leica M-mount at the 2024 CP+ show (see previous Thypoch coverage | Thypoch lenses are sold at B&H Photo):
Paying tribute to classic design from the 1940s
Collapsible design
Dimensions: 41.2mm x 27mm
Double Gauss lens design
12-blade diaphragm
Excellent anti-glare capabilities
女子ライカ部員はさかんに「あつい、あつい」というので、路地裏から大川に出て、ちょっと涼しい風にあたる。
自分はこのこの前、京都のお豆腐屋さんの釜の前に居たので暑さには慣れている。
そのまま、隅田川を上流に歩いて住吉さまで撮影。
名代の佃煮屋「天安」にてお買い物タイム。
一部(東京カメラ倶楽部部員)は本隊を離れて、佃の佃屋酒店で麦酒。
リバーポイントタワーの前を通り、西仲通りを戻って、午後5時半にタマヤに到着。
女子ライカ部長の冒頭にごあいさつ、ならびに東京カメラ倶楽部の田村会長の乾杯の音頭で、女子ライカ部特別企画佃de浴衣de大撮影会の「大反省会」が開始された。
オヤジカメラマンが女子ライカ部に触ったりするといけないので、最初から女子ライカ部員は奥のこあがりに隔離。
しかし、その後は男女席をおなじうする、大懇親会に発展。
phatphotoの女子ライカ部(これは私の連載エッセイの方)の担当の「女子ライカ部の母」こと、工藤編集部員も駆けつけ、アローカメラの買い取り名人と二代目社長と、お店のスタッフのライカさん(女子)もかけつけ、大懇親会はさらに盛り上がり、大・大懇親会となる。
こうなると、さすがの広いタマヤの店内もラッシュの山の手線なみだ。
宴たけなわでご歓談中に、お店の明かりが暗くなり、女子ライカ部員が自分のそばに終結するという「不穏な空気」が発生したので、これは何かと気になったら、私の5/31の誕生日を1月遅れで祝ってくれるイヴェントであった。
立派なケーキをいただいて、家人への良いおみやげになった。
長生きはするものだ。
実に有り難い。オスカー・バルナックとブレッソンと女子ライカ部に感謝。
松岡正剛さんが1970年に立ち上げたオフと言う写真集に写真を2枚掲載したうちの1つがこのカメラで撮影したものだ。ところが
ピントがずれていて、モチーフは昆虫標本であったのだが、それがかなりピンボケであった。どうもそのピンボケ具合が森山風だと言うので選ばれたものと思われる。
これは今まで手にしたい。2日の中で1番綺麗だが、あまりに綺麗なので写真を撮る気持ちにはなりません。英国海軍の使っていたライカ王エフで二台連続番号のカメラを持っている。それは本体の裏側に改造がしてあって、そこからピントを見ることができる。このカメラも、それと同じように、裏側でネジを外してピントが見られるのだ。
ブラックコンタックスのなかなか当時としてはすごいアイディアなのはレンジファインダの前に引っ張り出すと85ミリから135ミリのフレームがあって、これを自由に交換して使うことができた。これは当時としてはかなり斬新的なアイディアであったと思う。
新しいコンタックスオーナーがブラックコンタクトを手に入れたときに、最初に135ミリのフレームかそれとも85ミリのフレームかを選択することができたかどうかは今ではちょっとわからない。あるいはわずかな料金でフレームファインダーを追加して買ったのかもしれない。でも普通のアマチュア用の写真撮影で考えると35ミリを使うのは報道写真家であって、通常の撮影は50ミリのその先が85ミリかあるいは135ミリというのが、通常のアマチュア写真家が選ぶネクストステップなのである。
それでこれまでブラックコンタックスのこのフレームファインダーをたくさん見てきた。私の経験からすると85ミリのフレームよりも135ミリのフレームが付いていたと言う例の方がはるかに多いのである。やはり5センチのレンズを買った後に望遠レンズと言うと、135ミリ、いや間違えた13.5センチですね。これを使いたがるのであろう。
それで今のデジタルカメラのリアルビューファインダーに慣れている人には、こんなものを使えるかと思うかもしれないが、実はちゃんと使えるのです。フレームが中途半端である方が、写真の本質はうまくフレーミングできるものなのだ。
高梨、赤瀬川、秋山さんの3人がお作りになったライカ同盟に入れてくれとお願いしに行ったら、定員3名でもういっぱいと言うので、本家の許可を得て分家を作ったのがその元のいきさつである。
残念ながら本家のほうは高梨さんを残すだけになってしまったが、偽物同名の方がまだメンバーは生存しているのがせめてもの救いである。しかも会長さんは片岡義男先生だからちょっと心強い。
それで表紙のデザインも素人っぽい私がやって、全部手書きのイラストで、偽物の同名であるから、^_^ひらがなの文字を入れて、いかにもインチキっぽい感じにしたのはうまくできたと感心しているのである。
偽物ライカ同盟を作ると言ったら、周りの皆さんが自分も入りたいと言うので、本の後ろのほうに自分で記入して、セルフメイドのメンバーの会員証をつけたのである。これはなかなか好評でした。
それではが偽物らいた同盟が何をやったかと言うと、設立直後に六本木ヒルズの上のレストランで、皆さんで飲み食いしただけが唯一の行動記録なのである。まぁ任意団体と言うのはそういうものであるから、それから20年以上が経ったけど、偽物ライカ同名の名前はまだ皆さんの間に記憶されているのである。ありがたいありがたい。
朱和之, 中村加代子
日本統治時代の台湾に生まれた写真家・トウ南光をモデルにした歴史小説。彼のライカは、モダン都市・東京、そして戦争から戦後で大きく変わりゆく台湾の近代を写し出す。
日本と言うのは、特殊な環境に音楽芸術が育っているから、初期のウィーンなどではイタリアの過激派イタリア語でそのままやると言うのが普通だった。ところが日本の場合は情緒的なところがあるから、外国語の歌曲を歌うと、それがプロジェクションで日本語になったりする。まずこれはカラオケ文化のようなものですね。
^_^それでその大学の先生はドイツ語の専門家であるから、ドイツ語の本をドイツは及ばず、特にオーストリアのウィーンに探しに行ったりするのである。それで私が割と長いこと住んでいたウィーンの大使館が良いなどがあるところなんだけれども、そのアパートメントのすぐ近くにドイツ語では有名な文学者が住んでいて、それは今ではパン屋さんの3階建ての古い古いビルなのである。
^_^そういうドイツの文学の専門家であるから、光の方向の映画が好きかと言うと、180度違うのであって、このプロフェッサーは柴又の寅さんの大ファンなのである。
^_^プロフェッサーは残念だとことに60歳で昇天してしまわれたのであるが、その葬儀の時に寅さんの山田監督から花輪が来ると言うようなつまり大学教授と映画監督はお互いに顔見知りであったと言うところが周囲をびっくりさせたのであった。
一方で、私の場合、寅さんの映画は全く見ないし、柴又に行った事はあるが、レオタックスと言うライカコピーの会社が柴又の川の縁にあったので、その関係で行っただけの話である。
似せられた同盟が結成された時に、メンバーの大阪出身のご夫婦が縁石を設けてくれて、それが15年位前の話なのであるが、大阪出身のご夫婦だから、柴又の川魚料理は全く知らない子ほい。国とか恋の新居がなんであるかもわからないので、事前にロケハンというか、宴会の1週間前に食べに行ったそうである。こういうのも頭が下がるね。
柴又もレオ、タックスの昔かな 長徳
創業者のカードンと言う人は、ウクライナのオデッサの出身だと言う。ウクライナの人とソ連の人とアメリカの人が同じ人間であると言うことを、私は以前から気がついていたのだった。
それでカードンカメラは製造台数が少なくて、軍用が1500台民間様が1000台ぐらいしか作られていない。40年前の話だが、キャナルストリートの駐車場で毎週末に蚤の市があった。そこで登場したのがシビリアンモデルのカードンカメラである。
値段は250ドルであったが、当時のレートは280円だから高くて買うことができなかった。その一方で、カードンカメラの研究をしたのである。^_^私が暮らしていたニューヨークのソーホー地区は、以前は小さな工場街がたくさん並んでいるところで、私が住んでいたロフトは人形工場であったそうだ。
そのロフトの北側に開けた窓からウェストハウスとストリートを眺めながら、カードンカメラカンパニーがどこにあるのかを考えていた。
偶然集めていた資料の中に、当時のカードンカメラカンパニーのレターヘッドを発見した時は嬉しかった。何の事は無い。私がいつも眺めていたウェストハウスタウンストリートの北側、今はニューヨーク州立大学のキャンパスになっていたところに、かつてのカメラ外車が存在したのである。
色々客と揉めた件を塾長さんが面白そうに話してるのを思い出した。失意の果てにM月さんは癌が再発して亡くなったのは無念だったろうに。
この頃のコンタックスの本を見て面白いなと思うのは、やはり対抗する。ライカに対しての優越性を金属製のシャッター幕などで強調しているのはともかくとして、その背景に存在するのはカールツアイスのレンズが自由自在に使えると言うことである。
このコンタックスに対するコンプレックスと言うのは、これから時代が80年以上経過した。現代でもライカ人類が持っている。払拭することのできないカールツアイスとコンタックスに対するコンプレックスなのである。
例えば、これはアメリカ人のみんなが抱いている。ヨーロッパ文明に対するコンプレックスと非常に共通点があると思う。私がワークショップを持っていたザルツブルグカレッジで勉強に来る。MITの学生の皆さんは、夏の私のワークショップが卒業の単位に組み込まれているのは、当然ながらやはりマサチューセッツとか史観をよりも、観光名所のザルツブルグあたりに興味を示しているというのがなかなかトリッキーだと思う。
ブラックコンタックスの使い方で私が気になるのは、やはり最大の欠点はレンズの脇につけられた巻き上げ装置である。例えば撮影が順調な時は1日に7本から10本のフィルムを使うわけであるが、巻き上げ装置がこの位置についていると、指の皮が剥けそうになる。
特に冬がそうである。それで私のブラックコンタックスの使い方と言うのは、極力シャッタースピードを変えないということなのである。あるいは二台のブラックコンタックを用意していて、1つのコンタックスは500分の1秒でシャッターが切れる専用モデルと言うことにしてあって、もう1台のコンタックスは25分の1秒に最初からシャッター速度がセットしてあるから、これは暗いところで使うと言う二台で使うブラックコンタックスと言うやり方だ。
ライカカメラのフイルム巻き上げ装置はずっとカメラボディーの上のほうに付いていたが、ブラックコンタックスがクロームコンタックスになって、巻き上げ装置をフロントからトップに変えたと言う事は、すでにその欠点を最初の頃から記憶してそれに対応していたに違いない。
笑わせてもらいました
触れてはいけない人だ
どうもありがとうございます
というか今若い人が古カメラなんか興味ないだろうけど
あの界隈では40代で若者扱いだからねw
>>59
あそこの界隈には関わってはダメだよ
最近はSNSの繋がりばかりで中古カメラの事は知らないけど
ポストしてもほとんどレスが付かないじゃんww
相手にされてないのはTwitterやインスタ見ればわかるよね
今のSNSはフォロワー数やレスの数で人気度が一目瞭然
昔みたいにハッタリは効かないよwq
だから古典的なホームページ用電子掲示板に令和の時代になっても維持し続けたんだろ
50以上の爺さんばかりだというのもあるがな
それより私の興味を引くのはこのフィレンツェ生カメラと言うものの存在感そのものに対するキュリオシティーなのである。何かメディチ家の関係者が作ったのではないかと言ういい加減な噂話をそこら辺にふらふらふら吐かせても信用する人が出てきそうな感じなのだ。
それでこのカメラの市場価格なのであるが最初のブラックボディーは国際感覚だと1000ドル以上するのであるが日本国内だと30,000円台で買えるのである。経済的にレッド王国の日本だから日本円の弱さと相まってそんなことになってしまっているのはちょっと残念と言うよりも今が買い時と言うことなのである。
^_^それでその当時のイタリアのカメラ雑誌の広告を見て面白いのは単位はイタリアリラであるが、やたら0がたくさん付いている。要するに、戦後のイタリアの経済混乱期のデノミネーションが起きる前の桁数の多さがそのまま反映されているのだ。
最初のブラック仕上げのこのカメラがあまり売れなかったので、決定打を放とうとしたのかどうか知らないがこのChromeしてくれると言うことになる。それでこのクローム仕上げのモデルを最後にして、フィレンツェのライカはその生産を終えてしまったのは残念なことであった。
そう思い出した。このフィレンツェ省の標準レンズが意外ともののけが乗り移っているのではないかと思われるような不思議な移りをするのである。私の友人の映画製作者が私が撮影したフィレンツェ製のレンズに対してそういう印象を送ってくれたのも忘れられない。もっともこれはコロナが蔓延し始めた。最初の年の春だったから、人間の感性などと言うものは、そういう伝染病にもろに影響を受けるのである。
ライカの会社は製造番号が555,555代目のライカをゴールド仕上げでして、これをカメラ付きのダライ・ラマにプレゼントした。
それから何十年か経過して、ダライ・ラマが来日した時、カメラ好きだからヨドバシカメラなどを回っていると言うので、私はダライ・ラマの側近である人に質問をしたのである。あのとき以来、彼から譲られたゴールドライカはどうしました?というのである。
数ヶ月後にその答えが私に知り合いを通じて届けられた。すなわち
ゴールドライカは人にあげてしまった。
世界的な宗教家として、これはベストアンサーであると感心したのである。だってこのゴールドライカは俺のものだ。誰にも譲らないぞ。では宗教家として失格だし、日本の四谷のガラクタ屋に買い取ってもらったと言うのでは、経済的なマイナスイメージになってしまう。
ところで、私の写真集、winとライカの日々のトップに書かれている短い言葉だけど、1台のライカを持って世界の果てに旅に出る。こんなに素晴らしいことが他にあろうか?というのである。その1台のライカと言うのは、まさにこういうゴールドライカがふさわしいと思う。
ライカカメラの250枚撮影できるこの両側が膨らんだモデルはそれがエキゾチックであるということで、非常に人気のレアなモデルである。私も何十年代250来間が欲しいと思っていたのであるが、実際に手にしてしまうと、単にそれだけのものであると言うのは、希望と欲望とその結果と言う意味から考えてみると、誠に当然なことだと思われる。
田中長徳研究科である鵠沼のブレッソンが非常にきれいなエバレディケースを作ってくれた。実際問題としては専用の金属カセットがないと撮影ができないので、ずいぶん高いカセット代を払って手に入れたが、結局手に入れてしまうと安心してしまって、後は取るだけだと言うことになってしまい、1枚も写真は撮らなかった。ここら辺はコレクターの心理だね。
^_^デジタルカメラで思い出すのは、Appleのクイックテイクなどごくごく初期のデジタルカメラはメモリも交換できなくて、内蔵式だし12枚ぐらいしか取れないのである。そういう時代には250位下などはちゃんとした存在価値があったけれども、それから、デジタルカメラのメモリーがどんどん多くなってフォーマットにもよるけど、何千枚も1度に取れると言うつまらない時代になってしまった。
私はフィルムマガジンのこういう膨らみのアナログ的なボリューム感にカメラの機械美学を感じている。世代なので、デジタルカメラの容量が大きくなって、メモリが膨らんでくれば実にリアリティーがあって、ダイナミックで好きになれるけど、今のデジタルカメラのメモリと言うのは実につまらない時代になったものだと思う。
ライカ250モデルはオスカーバルナックが最後に自分で設計したカメラという意味でも重要である。
例えばLeicaだとhektor 50mm f2.5が最初のハイスピードレンズだそうです。それまでのelmarがF3.5なのでそれに比べると高速ということになりますね〜。その後すぐにF2のレンズが出るわけですが…🙄
湘南ラ◯カ広場ね(笑)
これってレアモノですか?