アマチュア野球の元祖縦縞のユニフォームって立教大学みたいですね(社会人は知らん)。1953年に砂押監督がヤンキースのユニフォームを参考に縦縞のユニフォームを採用したそうです。東海大学の野球部は1964年の創部だから立教が先ですね。1976年夏に初めて佐々木投手の東北高校を見たんですけど、縦縞のユニフォームに加えて応援曲に立教大学の応援歌で有名なSt.Paul's will shine tonightを演奏していたので、当時は立教大の系列校かと思っていました。創立者が立教OBだったのでしょうか?
県岐阜商が8回や9回の応援でアチチ(応援団の曲指示パネルに書いてあった)とか言う曲を演奏していました。温暖化対応でクソ暑さを表現しているのかなと思いましたが、どこか聞いた記憶があるなぁと思って調べたら、99年に世界的に大ヒットしたLivin' la Vida Locaって曲を郷ひろみが日本語で歌った曲だそうですね。ラテン風の曲って、昔、拓大紅陵や智弁和歌山が演奏したバリー・マニロウのコパカバーナや常総学院の常総サンバとか高校野球の応援にあいますね。ソーラン節には負けると思うけど。
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前スレ
50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part31【ワッチョイあり】
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/c/hsb/1661054641/l50
もっと短かった。ネットで調べると坪井の勘違いでオリジナル選手宣誓が始まったんだって。
以下引用
「宣誓することが決まってチームメイトは皆、『よかったな』と言ってくれました。『控えの主将が目立つ
には宣誓するしかないな』って半分冗談で言い合っていたこともあって盛り上がりました。でも、その後の
本抽選でも『1』を引いてしまって…。こっちは『それはあかんやろ~』と叱責を受けましたね(笑)」
~『あゝ夏の甲子園』(2023年7月26日発売号)より
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本抽選での「1」は、開会式直後の開幕試合を意味する。つまり、坪井主将は偶然にも連続で「1」番クジを引
いてしまい、気持ちが動転してしまったというのだ。
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選手宣誓と合わせ、これ以上ない緊張を同時に味わうことが決まって心もざわつく抽選会終了後、坪井は大会関
係者から「どんな宣誓にするか、明日の予行演習の際に紙に書いて持ってきてください」と言われた。これこそが
勘違いの始まりだった。
「気持ちが昂りすぎていたんですかね。私が勝手に『書いて持ってきて』を『自分なりの言葉を盛り込め』と勘
違いしたんです。後からいろんな人の話を聞く限り、毎年の通過儀礼なだけだったようなんですけど」
~『あゝ夏の甲子園』(2023年7月26日発売号)より
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坪井主将は勘違いをしたまま宿舎に戻り、「自分なりの言葉を」と、福井商野球部のモットーである「炎」の文字
を入れ込んだ選手宣誓文を考案した。
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「宣誓。我々、選手一同は第66回全国高等学校野球選手権大会に臨み、若人の夢を炎と燃やし、力強く、たくまし
く、甲子園から大いなる未来へ向かって、正々堂々、戦い抜くことを誓います」
~『あゝ夏の甲子園』(2023年7月26日発売号)より
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現在の文量と比べれば、これでも十分に簡潔な内容だ。それでも、この文案を見た大会関係者の反応は「ちょっ
と長いかな。短くしてもらうかも」というものだった。だが、結果的には「問題なし」とされ、坪井主将は開会式
でこの「独自選手宣誓」を披露したのだ。
福井商は開会式直後の開幕試合で敗れ、甲子園に別れを告げた。だが、坪井主将は福井に戻ったあとも地元新聞や
雑誌、ラジオなどから取材を受けるほど、この独創的選手宣誓は大きな反響を呼ぶことに。その結果、以降の開会
式では「自分の言葉」を盛り込むことが定番となったわけだ。
大会2ホームランを打った早実の王さんや銚子商の篠塚は本当に凄かったんですね。特に王さんの時代はラッキーゾーンがなかったはずなので、王さんは本当の怪物だったんですね。
82夏の池田の9番山口が二本塁打を打って恐怖の9番とか言われたけど、あのへんからバットがおかしくなってプロに縁がないような下位バッターでもホームランを打てるようになったのかも。
一本目は甲子園の名勝負を集めた本なんかに書いてあって有名ですが、1926年の選抜で松本商の矢島選手が夏春連覇を目指した高松商の宮武投手から打ったサヨナラランニング3ランです。本来なら最初のランナーが生還した時点でサヨナラですが、打った本人も含めて3人がいきよいよく帰ってきたのでホームランに認定されたそうです。この一打が戦前の選抜での最初で最後のサヨナラホームランです。
二本目は見た人も多いと思いますが1982年の選抜で黄金時代のPLの4番としては地味で有名な松田選手が決勝で打ったランニング満塁ホームランです。これが話題になったのは、史上初めて選抜で連覇した1930年の第一神港商の高瀬選手が決勝で満塁ホームランを打っており、神港に続く2回目の連覇を達成したPLも決勝で満塁
ホームランを打ったことで不思議な縁だと話題になりました。当時は戦前の試合を実際に見た人も大勢生きていましたからね。高瀬選手のホームランもランニングホームランぽいですね。
3回目の選抜連覇を2018年に達成した大阪桐蔭は決勝でホームランは出ませんでしたね。この辺の空気の読まなさが大阪桐蔭がオールドファンから嫌われる原因かも。
夏の大会で話題になったランニングホームランってあまりないような気がする。強いて言えば2003年の夏の甲子園の開幕試合で桐生一の菊地選手が夏の甲子園の通算1000号をランニングホームランで打ったことくらいかな?
高島は今何やっているのかと思ってネットで調べると3年くらい前に病死していました。高校球児って早死する人が多いような?96年夏の早実戦でサヨナラ逆転2ランをうった海星の稲垣とか、97年夏の甲府工で好投した小沢投手とか、79-80年の前橋工の投の3本柱だった番場とか87年夏のPL戦で野村をKOした逆転打を打った中央の中島捕手等も病気で早死しましたね。南陽工の津田とか函館有斗の盛田のプロ組も病没しているな。
88年から92年かけての夏の甲子園。
88-福岡第一が準優勝
89-大濠がベスト8
90-西短がベスト4
91-柳川がベスト8
92-西短が優勝
5年間で異なる4校が連続で上位進出ってなかなかないです。二校とかだと最近の大阪とか昔の千葉とかあったけど。近いのは76-79の大阪(大鉄、PL、浪商)くらいかも。
90年に就職で茨城に引っ越した時、常総の木内監督の他に清真学園の監督さんが桜美林の優勝監督だった浜田さんでしたね。なにげに優勝監督が二人いました。清真学園は弱かったけど。優勝監督じゃないけど古河一の監督さんが小山の選抜準優勝投手だった初見だったのも懐かしかったです。
オリックス時代のパンチ佐藤ってめったに見ることはできませんでしたが、振りは鋭かったですね。イチロー並に野球に集中していたら大成したと思えるいい素質を持った選手でした
て聞き回るコーナーがあったのですが、最速候補の江夏と怪童尾崎の両投手が一番早かった投手として森安さんを挙げていました。西武の主力打者だった山崎さんも森安を一番早いと言っていましたね。ヤクルトの八重樫さんにいたってはスライダーで150km以上出ていたと言っています。森安はサイドハンドの速球投手でしたが、黒い霧事件で池永投手といっしょに1970年に野球界を永久追放になっています。自分はその4年後に野球を見始めたから、事件に巻き込まれなかったら年齢的に見られた投手だっただけに惜しいです。
平松さんはシュートを投げ始めたのはプロ3年目からだそうで社会人時代に慶応大学OBで藤田元司さんと同期の人にシュートの投げ方を教わっていたそうです。前に星野仙一さんが平松は高校時代からいいシュートを投げてたよってNumberのインタビューで答えていたけど、あんたの目は節穴か?平松さんはボールの縫い目に指をかけずに握って、左肩を開き気味にして右手を遅らさせてボールを滑らしてシュートを投げたそうですが、他の投手に教えても誰も投げられなかったそうです。野村克也さんが言っていましたが、巨人の西本のシュートなんかは内角に
落ちながら曲がって来たそうですが、平松のシュートは内角に浮き上がりながら食い込んできたそうで、より打ちにくかったそうです。平松にしか投げられないボールを一般的にシュートって言っていいのか?なとも思いました。
平松さんは10数年ぶりに見たけど、すっかりハゲ頭になっていました。後頭部が頭頂部の後ろまで広がるタイプのハゲ頭でした。90年代にプロ野球ニュースがあったときはふさふさだったはずですが、カツラだったのかなぁ?
育英 鈴木啓示 317勝
滝川中 別所毅彦 310勝
箕島 東尾修 251勝
中京商 野口二郎 237勝
名電 工藤公康 224勝
甲府商 堀内恒夫 203勝
岡山東商 平松政次 201勝
甲子園で優勝したのは野口と平松だけだけど、上位進出や名勝負等で活躍した投手も多い。ただ、鈴木は甲子園の名勝負とかで名前は残って無いですね。堀内は選手権に出たけど運悪く記念大会で西宮ゾーンに入ったため甲子園では投げてないです。
ダルビッシュは自分が見てきた中では頭から下だけで評価するとNo.1かな。現在でも9種類の球を投げられて球速も150km台とこんなに器用さと球威を兼ね備えた投手は知りません。惜しむらくはコントロールかな。制球はまとまっているけどボール1個の出し入れができる桑田やメジャーのマダックスとかと比べるとだいぶ落ちます。あれでコントロールまでよかったら軽く300勝はいっているでしょう。大谷もそうだけどダルはいい時代に生まれましたね。東北高校時代は成長痛に苦しんだそうで、故障しないようにプールで体力作りをしているシーンを野球雑誌で見ましたが、70年代以前に高校生になっていたら、ダルも大谷も練習中の疲労骨折等で大成しなかった思います。当時は入部時にレントゲン検査をして肘に骨端線(成長線)があるかなんて確認しませんもの。
ここに来て急ブレーキがかかっているけど田中マー君も今シーズン中に200勝に行きそうですね。桑田と松坂は怪我さえなければ余裕で200勝以上で来たと思うだけに惜しいです。ダルやオオタニなんかトミー・ジョン手術を受けても球威は落ちなかったのに桑田と松坂は、思い切り落ちましたね。甲子園で投げすぎて手術で修復できないほど靭帯が傷んでいたのでしょうか?
当初は愛知も80年の大府以来、公立高が出てないな~って思っていたら、2008年の記念大会に分割された愛知の片方から甲子園に出てたんですね。全然、記憶にない。調べると大府は選抜は93~95まで三年連続で出ていたり愛知の公立の雄ですね。
天理大のユニフォームが新聞に出ていたけど、ローマ字でTENRIって表記で高校とは違いますね。近大付みたいに天理高校のユニを大学のユニフォームに合わせようとしたら苦情が殺到する気がする。
ことから話が始まりました。星野さんは当時から県内で野球の実力はない方で有名で監督や部長も困っていたそうです。当時からあのラインだったって話に笑いました。松岡さん自体は二年の秋から投手を始めたそうで、それも本来のエースが利き手を故障したことが原因だそうです。高3の夏は県大会の準決勝(東中国大会の代表決定戦)で選抜優勝校の岡山東商の平松投手と投げ合って3-3で日没引き分け再試合となり、再試合で2-5で負けたそうです。
話の中でMCの徳光さんによると、長嶋茂雄さんが対戦した投手の中でヤクルト時代の松岡投手が一番速いと言っていたそうです。確かに昔の投手って球速の全盛期の長さが今の投手と比較して短く、当時、見たカープの外木場、大洋の平松、巨人の堀内なんか、本当に大投手かって思うくらい球が遅かったですが、78年の日本シリーズで阪急を完封した松岡さんはこれらの投手と比較してストレートは別格に速かったですね。
岡山東時代の平松って、地区大会で長嶋さんが一番速いって言っていた松岡に投げ勝ち、決勝では怪童尾崎や天才江夏が一番速いって言っていた関西の森安に投げ勝つって、本当にすごい投手だったんですね。平松さんに関してはやはり同番組で阪神の田淵が一軍で初めて対戦した投手が平松さんだそうですが、球が見えなく3球三振したそうです。
松岡さん自体は甲子園に縁がなかったけど、甥っ子の松岡大吾が87年夏の甲子園で活躍しましたね。初戦でプロで活躍した静岡の赤堀に投げ勝つなど、準々決勝まで行きました。準々決勝の帝京戦では本来のエース凪が監督にしつこく俺に投げさせろと訴え続けていたそうで、それに根負けした監督が凪を先発させたら5失点。救援した松岡が帝京打線を抑え込んだだけにもったいない試合でした。凪は試合後に悔いはないと言っていましたが、松岡が先発していたら勝機があっただけに、他の野手はたまったもんじゃなかったでしょう。松岡は中京の野中タイプのズングリした体系から重い球を投げるタイプの投手でした。
がドラフト1位でした。この4人のうち3人が激突して、阿井が松原と渡辺にともに3-0で投げ勝ちました。特に渡辺の前橋工との試合がすごくて、渡辺のバント安打1本に抑えました。
松原は県大会終了後、農大二高の甲子園出場に同行して(ずーと一緒にいたか宿が同じかは不明)、農大二の大阪での練習でバッティング投手を務めるなど、練習のお手伝いをしたようで美談として朝日の群馬版に出ていました。進学や転勤で関東地区の栃木と埼玉を除く5都県で暮らしてきましたが、こういった話は他で聞いたことはありませんでした。似たような話では、2年後に太田工が夏の甲子園に出た時、太田の監督が前橋高校時代の先輩とかで当時、筑波大の大学院生だった完全試合投手の松本さんも、バッティング投手として太田工の練習を手伝ったそうです。松原は育英卒業後、高崎信用金庫で軟式野球をやった後、テスト入団で巨人に行って3勝しました。
いましたが、報徳のゲストがこのシーンで「どんな性格してんでしょう。これは二度とやらないでほしい」と嘆いていたのが面白かったです。前田は左腕投手のカーブとしては名電の工藤に近いレベルの鋭く落ちる球を投げていましたが、いかんせんコントロールが悪かったですね。報徳は優勝候補だったけど、次の試合で実力校だった浜松工業に負けました。
戦前は国立の師範学校があちこちの地方で甲子園に出ていますが学制改革後は、国立の高校の甲子園はなさそうです。1980年に西東京の都立国立高校が甲子園にでたときは校名から国立の高校が出てきたと勘違いしたアホがいっぱいいたとか。甲子園が近かった国立は徳島の阿南高専かな。1961~1980の期間では夏の徳島大会でベスト4が2回、ベスト8が3回となかなかの成績です。愛媛の新居浜高専も83年の秋の四国大会に出場しており(初戦で池田にボロ負け)、今の時代なら21世紀枠で甲子園に出られたかも。
感性の問題なのか、池田、吉田、中村とか身の回りにいるひ弱な同級生と同じ名前の校名もひ弱なそいつ等を思い出して、なんか弱そうな校名だなと当初は思いました。猪木高校や馬場高校、力道山高校、最近だと井上高校なんてのがあれば弱そうとは思いませんがぁ。
チワワズのことを書きましたが、日本ハムファイターズって名前もアメリカ人にはインパクトのある名前のようです。ハムってアメリカの俗語では大根役者、演技が過剰な人とかの悪口で使われる場合もあって、80年代に野球雑誌を読んでいたら、日ハムに入団する助っ人外国人が、なんでチーム名にハムが入っているんだと驚いたと言う記事がありました。チキンとかハムとか食肉系は悪口になるのでしょうか。
茨城東は83年には速球投手加茂川を擁して決勝では2年生のスラッガーデーブ大久保を擁した水戸商をやぶり、97年は後の阪神のエースになった井川投手の水戸商を決勝で破ったことが印象深いです。新宮は1954年の夏に甲子園ベスト4、55年の夏にベスト8でともに中京商に敗れたけど、前岡投手の活躍がありました。当時の中京商監督の滝さんは選手でも監督でも甲子園で優勝しており、後に野球殿堂入りした人ですが2008年刊行の週刊甲子園で新宮の前岡投手を戦後No.1左腕と評価していました。新宮の55年の初戦の浪商が木製バット時代の戦後最強チームの候補になるような強力チームでそこを3-2で破った試合は甲子園の名勝負に数えられています。準々決勝の中京戦でバント攻撃にあって攻略されたようです。Numberの高校野球特集で戦後の甲子園で一番球が速かった投手として前岡投手をあげる古参のスカウトもいたそうです。
仁村兄弟--兄が上尾で1979夏、弟が同じ高校で1980春に出た。兄が下手で弟は上手の好投手でした。長兄は川越商、早大で投手で巨人で野手転向。3男だけプロに行っていないんですね。
杉本兄弟--東海大一の双子投手。1983年に春夏出場。兄が変化球投手で、弟は速球投手だった。
山本兄弟--兄が法政二高で1984春に出場。弟が東海大甲府で1987年に初夏出場。兄は左の速球投手で弟は右腕のまとまった好投手タイプでした。
樋渡兄弟--兄が市川で1991春夏出場。弟が同校で1994夏に出場。ともに右上手の好投手でした。
惜しかったのが1978春に完全試合をした松本投手の弟で、伊勢崎商のエースで1981夏に群馬県大会の準決勝まで行きましたが、前橋工に0-3で完封負け。兄は小柄だったけど弟は180cm台の巨漢で、これだけ似てない兄弟も珍しかったです。PLの桑田真澄の弟の泉は少年野球の実績は兄以上と聞きましたが、87年のPLは投手が豊富すぎましたね。投げているのをみたかった気もしますが。
中京が戦前からの伝統校で初めて髪型を自由化したのですね。去年の慶應もインパクトあったけど、日本一の伝統校である中京が自由化した影響はそれ以上かも。さらに大阪桐蔭が自由化すれば、もっと自由化が各校に進むかと思うけど、西谷監督は報徳出身の監督さんだからずーっと坊主のままかも。ジャンクスポーツを見ていたら報徳は2011年ころまで体罰が残っていたと報徳出身のラグビー選手が言っていましたからね。そういう気風の学校で育った監督さんだから髪型自由化は無理そう。
朝日新聞認定の優勝候補報徳学園が、朝日評価で最低ランクだった大社に完敗。馬庭投手は98年の浜田の和田投手以来の好左腕ですね。その前になると89年の松江東の大淀投手が好左腕でした。03年の江の川の木野下投手は確か大阪出身で、好左腕いうよりインステップの変則左腕だった。
報徳の今朝丸・間木は88-89の東邦キク山田みたいになってしまいましたね。山田投手は88年に選抜準優勝(夏は出られず)で翌年の選抜で優勝。でもその夏は倉敷商に初戦敗退。今朝丸・間木コンビもすっかり春男になってしまいましたね。
優勝経験校--済々黌、早実、観音寺中央
準優勝経験校--土佐、拓大紅陵、小山
今年出た--耐久、田辺
たまに出る高校--東筑、倉敷工業、米子東
めったに出ない高校--愛知、前橋、高崎
なんか他にもあった気がするけど、倉吉東や和歌山の桐蔭とかも白系統のユニだったおぼろげな記憶があるようなないような。
広陵中井監督の勝利インタビューで、「白にして負けると何言われるかわからなかったので、白で勝ててよかったです」みたいなことを言っていたのは面白かった。
帽子、ユニフォーム、アンダーシャツの3点が白系の高校ってめったに出ないところは結構、ありますね。岩国とか盛岡一、福岡(欠端投手がいたな)、東奥義塾の東北勢とか。進学校が多く採用しているユニフォームのイメージがあります。だからか縦縞のユニフォームと比較して弱っちく見えます。
朝日新聞認定の優勝候補は青森山田を除いて2回戦までで4校が負けてしまいましたね。建大以外はランクが最低か下から二番目のランクとかの前評判が低いところに負けています。これも飛ばないバットの効果かな?木製バットに時代だと71年は東西の横綱だった日大一高とPL学園がそれぞれ磐城と郡山に初戦敗退。72年は東日本が優勢と見られたようですが、春夏連覇を目指した日大桜丘、掛布がいた習志野、大型打線の相模といった優勝候補が初戦敗退。足利工業も2戦目で敗退。55年とかも東西の横綱だった浪商が初戦敗退、桐生が2戦目で敗退と早々と負けています。今後、ジャイアントキリングが起きやすくなるのかも。
横浜商の三浦(82春PL、83春池田、83夏PL)
PLの桑田(84春岩倉、84夏取手二、85春伊野商)
くらいかな?高校野球的には結構、ビッグネーム。
2回負けた投手はビッグネームをあげると、春は1回も優勝できず、選抜決勝で2年連続で負けた戦前の中京商の吉田投手や柴田の法政二高に二連敗した浪商の尾崎等がいます。他にもPLに二連敗した帝京の芝草とか初戦で春と夏の優勝校に対戦した比叡山の村西、なんか小者感が漂うけど松坂の横浜に二連敗したPL上重等がいますね。
1位 南陽工業 阿砂(あすな)、2位 南陽工業 齊郷(さいごう 漢字が珍しいだけ?)、3位 霞ヶ浦 眞仲(まなか 漢字が珍しいだけ?)で全国にそれぞれ10人程度しかいないそうです。レアかもしれないけど面白みにかける名字です。むしろ下位の方に珍名さんがいます。個人的に今年の珍名No.1は広陵の白髪です。どう見ても小学校とかで馬鹿な男子生徒にからかわれる名前です。白髪ってテレビを見てると絶対、毎日画面に映りますし、ありふれた言葉ですがなんで名字にしたんでしょうか?三国志演義の蜀の五虎大将の黄忠みたいにやたらと強い白髪頭の爺さん武将が先祖にいたのでしょうか?それとも自分や子孫が白髪頭になるまで長生きできるようにと願いを込めて明治時代につけた名字でしょうか?名前名字netでは白髪の由来を「雪をかぶった山や野が語源」とありますが、家系図で由来がわかっている自分の名字の由来をこのサイトで調べると、先祖は桓武平氏系の三浦一族のはずなのに源氏系の由来しか出てきませんので、このサイトの由来は調査不十分です。
しないでしょう。昭和の頃は巨人の王さんと長嶋さん。それ以降でも原と怪我する前の吉村。西武には秋山と清原。大洋だと松原と田代とか本塁打を30本以上を狙える日本人打者が各チーム最低2人はいた気がします。少子化と他のスポーツとの選手の奪い合いでこれからも選手の質の低下は続いていくんでしょうね。高校野球的には大谷は甲子園で1勝もしていないし藤浪から打ったホームランくらいしか記憶にないので話題にしづらいですね。ストレートも球速は出たけど球質は良くなかったですし。
あの頃はそういう投手が多かったですね。浪商の尾崎も100勝を超えたところで引退していますし。池永も下関商時代は練習時代のダブルヘッダーは二試合とも投げさせられるとかあって西鉄入団時に登板過多ですでに故障がちだったのでしょうか。尾崎なんか1984年のみゆき野球教室で草野球をしている姿を見ましたが、まだ若いのにストレートは100km前後で今年の甲子園での開幕試合の始球式の江川のヘロヘロ球といい勝負でした。
こうした県外生の受け入れは、他県でも特に山間部の公立高校で増えていきそうです。今年の三重代表の菰野なんか半数は愛知出身者でしたね。西短との試合では西短のほうが7割は地元民で、90年の西短は県外出身者の方が多く週刊新潮に叩かれていたのに、時代はかわったなぁと感慨深かったです。自分の出身県の群馬の利根商も公立校なのに県外出身者を増やしていますね。寮も個室で私立顔負けのトレーニング施設を整えたり、監督も近大付の甲子園経験監督の豊田さんを引っ張ってきたり、現在は桐生一の甲子園優勝監督の福田さんが監督をしていて、県内ではコンスタントに上位進出を果たしていますね。甲子園出場は近そうです。ただ、池田もそうだけど、県外出身者を増やして地元に愛される野球部になるのか疑問です。93年にJリーグブームにプロ野球が押されていたときに巨人の長嶋監督が、日本の野球は高校野球があるから大丈夫と言っていましたが、選手の地域性がなくなると高校野球の人気も落ちちゃうんじゃないかと心配しております。80-90年代の広島県みたいにベンチ入りメンバーの県外出身者の人数制限が必要な時期に来ていると思います。
堀内は一年のとき選手権に出ましたが、記念大会で出場校が多く西宮ゾーンに入ってしまい3勝すれば甲子園で試合ができたそうですが3戦目で優勝した明星に大敗してジエンド。調べると2年の秋の関東大会でも準優勝していますが当時の関東東京の出場枠はたったの3校で東京の2位校が甲府商より実力上位と見られて選抜に出られなかったようです。つくづく甲子園と縁がない人だったのですね。19歳で終速155kmだったら高3の春でも終速150㎞位で選抜でも大活躍できたのでは?
上原のことを大器と書きましたが、プロ入団後に桑田と投げあった中日-巨人戦を見ていたら、解説の広岡達朗さんが上原と桑田の投球フォームを比較して、桑田は体が開かないように粘って粘って右腕を振り下ろせる。桑田のほうが役者が1枚上と話していました。スピードガン的には上原のほうが球速が桑田より出ましたが、打者のバッターボックスでのスピード感は桑田のほうが上だったのでしょう。
(1)コンスタントに甲子園にでる。例:71年夏の磐城、78年春の浜松商、94年夏の佐賀商
(2)地区のレベルが高い。例:85年春の伊野商
(3)初出場だけど実績がある。例:76年夏の桜美林(春の関東大会優勝)、91年春の市川(秋の関東大会優勝)
よく分からないのが86年春の宇都宮南です。前年の秋の関東大会で拓大紅陵にコールド負けしたこともあり、関東で最後に選ばれ、エースの高村も2年生でチームの評価は低かったです。それが優勝候補筆頭の高知を破り強豪広島工(夏は優勝候補に挙げられた)も破って準優勝。でも旋風の称号は新湊に行ってしまいました。関東はともかく当時の栃木がレベルが高い県とは言えず、要は一大会に2つの旋風は要らんということで宇都宮南旋風と言われなかったのでしょうか?謎です。
清原は厳しいですね。成績的には殿堂入り確実の江夏が麻薬スキャンダルで殿堂入りしていませんから、同じ麻薬事件を起こした清原は無理でしょう。
実際に近くで見て意外と小さいなと思ったのは1998年の春の関東大会で見た横浜の松坂投手です。開会式直後で球場から出てきたばかりの松坂をすぐ近くで見ましたが、こんな小さいのかと驚いた記憶があります。選抜後の松坂は身長が178cmで自分と同じで、プロ時代と違って細かったから小さく見えたのかもしれません。甲子園の松坂は大きく見えたんですけどね。
夏も出たけど、結果はいまいちでした。相手が好投手西田と名将林監督がいた長浜とはいえ、15安打を西田に浴びせたのに5安打の長浜に敗れるってどうよ?相手に3倍の安打数を浴びせて負けたチームってあんまりないぞ。金野は明大に進学したらしいけど活躍はできなかったようですね。秋田商出身のヤクルトの石川投手を見ると金野もプロで活躍できたかもと思わないでもありません。選抜後は左肘を痛めていたらしいですが。
小柄な投手って技巧派が多いけど、速球派と思ったのは1996年の春夏とも甲子園に出た横浜の松井投手です。高校時代は身長168cmでしたが、速球は140km台で当時を代表する好投手でした。渡辺監督も96年の時点で過去のチームと比較しても96年のチームは横浜史上3本指に入るチームと高く評価していて、愛甲以来久方ぶりに夏の勝利をあげたチームでした。3回戦の福井商戦で9回表に松井の3塁への暴投が起点になって6失点して4-8で逆転負けして勝てる試合を落としたのは残念でした。
低身長の投手にも優位な点があって、スピン量の多いストレートを投げられれば、球の出どころが低い方が打者から見て球がホップして見える効果がより大きいとスポーツ科学者の國學院大學の神事先生が言っておりました。史上最速投手に挙げられることが多い、阪急の山口高志投手も169cmの低身長の効果で球が更に浮き上がって見えたそうです。他にも江本孟紀が身長が高いほうがストライクゾーンが狭く見えてコントロールしにくいと以前、解説で言っていましたが、コントロール的にも低身長の方が優位かも。
調布リトルが7連覇した時の鈴木監督が90年代に山梨学院に移ってから調布は弱体化したのでしょうか?70年代って、そもそも硬式の少年野球チームも少なかったと思います。群馬県に硬式の少年野球チームって70年代はなかった気がする。少なくとも勢多郡にはなかった。今はボーイズリーグだ、ポニーだヤングリーグだ、って感じでリーグも増えチーム数も多く選手も分散して、調布も昔のようにいい選手を集められないのかな。
星野投手は、最近、ジャンクスポーツで球の遅さをネタにされているけど、90年代なかばのNHK BS1で史上最速投手は誰だみたいな特集番組で、近鉄の名捕手だった梨田さんは、星野投手がパ・リーグで一番球が速かったと証言していたし、スピードガン表示って本当に当てにならないなと当時も思いました。山本昌も似た感じで球の出どころの見えにくい投球フォームって本当に大事なんですね。
1978春 印旛 対 PL
1980夏 都立国立 対 箕島
1981春 高崎 対 星稜
1987夏 中央 対 PL
1999夏 都立城東 対 尽誠
2004夏 都立雪谷 対 PL
初出場じゃないけど、久方ぶりに出た進学校の例では
2000夏 札幌南 対 PL
2005春 高松 対 宇部商
全部負けました。印旛なんか剛腕菊池を擁して関東大会で優勝して力もあったから、1977春の中村が初戦で強くもなかった戸畑に快勝して勢いに乗ったように、初戦で岐阜とか比叡山とかにあたっていれば、上位まで行けたかも。菊池も自信喪失せずに野球人生も変わったんじゃないかな。その後低迷期から復活して、野茂や古田ら錚々たるメンバーがいた88年のソウルオリンピック代表に選ばれたくらいだから、素質は高かったと今でも思います。中央も好投手小島を擁して投打に力のあるチームでPLの立浪や片岡らが、甲子園で春夏戦った試合で、一番苦しかったのが中央戦って今でも言っているくらいですから、初戦で弱いところとあたっていれば、上位進出もできて大会ももっと盛り上がったでしょうに。
1988年は決勝で浦和市立、1997年も同じく決勝で甲子園で優勝候補にあげられた春日部共栄に0-1で敗退と3回の決勝で全敗で運のない監督さんだったようです。82年は55歳だったようですが、テレビで見ていて妙にジジ臭かったですね。斎藤もおじいちゃんって言っていましたけど、97年の決勝も見たけど完全におじいちゃんになっていましたね。池田の蔦監督もそうでしたけど、昭和の50代の監督さんて爺さんに見えるジジ臭い人が多かったですね。
1961年に柳川事件が起きて、プロ野球出身者がアマチュア野球の監督さんになるのは超厳しくなりましたが、それ以前は今みたいにプロ出身の監督さんは多かったかも。ネットで調べたけど新しい監督さんばかり出てきて、昭和の時代のプロ出身監督なんか全然出てこない。
市立川口のユニフォームって、当時としては珍しかった縦縞だったんですけど、阪神出身の監督さんだったから縦縞だったのかと腑に落ちました。82年当時だと縦縞のユニフォームって東海大系列、東北、帝京、明徳、秋田経法大付、公立では印旛くらいしか知りません。自分が育った群馬だと、縦縞って一時期、前橋育英がヤンキース風のユニフォームだったことがあったくらいでしたね。昔の前橋育英もそうだけど野球部に力を入れているけど甲子園に縁が無い私立校って、コロコロ、ユニフォームが変わる傾向がありますね。今住んでいる千葉だと、千葉英和とか甲子園出場前の中央学院とか、見るたびにユニフォームが変わっている(いた)印象があります。
大阪桐蔭の浅村が同校の初めての名球会入り資格を得ましたが、2000本安打への到達最速打者って、王さんの早実時代の先輩だった榎本喜八なんですね。王さんと同じく荒川博さんに師事していたから、王さんの兄弟子なんですね。野村克也さんが榎本のことを打席での隙の無さ(欠点がないってことか?)は張本以上と言っていたから、大変な天才バッターだったんですね。wikiを見ると猟銃を持っての立て籠もり事件とか、王さんと違って奇行が目立った選手のようでしたね。
個人的に小松の試合で一番記憶に残っているのは77年春の滝川戦です。74年夏から高校野球を見始めて、それまで一番球が速かったと思った投手は74年夏の静岡商の高橋投手でした。静岡で3試合連続ノーヒットノーランをやっただけあって、めちゃくちゃ速かったです。2年生の小松も早かったけど、高橋よりは劣るかなって個人的には思っていましたが、翌年の滝川戦の小松は高橋以上でした。番組では足首と肩を故障し、ナイターでキャッチャーサインも見えなかった言っていましたが、下手なプロの投手より全然速かったですね。滝川の森とかいう2番打者に走者一掃の長打を打たれたりしてワンチャンスを生かされての敗戦でした。
小松は無骨な感じで大好きな投手だったんですがぁ、1987年に巨人の桑田と最多勝のタイトル争いをした時に、リリーフで出てきて勝利数を荒稼ぎしてせこい真似して桑田に勝ちました。なのに桑田が沢村賞を獲得すると、談話等で納得できないと駄々をこね始めて、沢村賞は先発完投型の投手に贈られる賞って知らないのかと、そのアホさと女々しさに呆れて、かなり嫌いになりました。桑田なんかは98年にヤクルト川崎と最多勝争いをした時に、池谷コーチからリリーフに出て勝利数を稼がないかと提案されましたが、それを漢らしく断っているんですけどね。その結果、1勝足らずに桑田は川崎に負けましたがね。
小松は12歳の時にソフトボール投げで70m投げられたと言っており、巨人の大エースだった斎藤は10歳の時にセンターからバックネットにボールを当てられたってレジェン堂で話していました。二人共、持っているものが常人とは違うのですね。
自分も長嶋さんの現役時代は見たことはなく、すごい選手だったらしいことしか知りませんが、面白いエピソードは大好きでした。御冥福を祈ります。
熊谷市の「おふろcafeハレニワスタジアム熊谷」
八王子市の「スリーボンドベースボールパーク上柚木」
平塚市の「バッティングパレス相石スタジアム平塚」
響きの間抜けさはぴーちゃん球場の圧勝ですね。
球場名は阪神甲子園や東京ドーム等のシンプルなのがいいですね。
同じ頃、78年の春のセンバツだったと思いますが、
祖父・父と一緒に関西に旅行したついでに甲子園にも寄って、
桐生高校の小暮投手(大会No.1投手と呼ばれていた)が投げた試合を観戦しました。
当時自分は中学生でした。
群馬県民ではありませんが桐生側のアルプススタンド近くで観戦しました。
自分が甲子園で高校野球を観戦したのは後にも先にもその1回だけです。
小暮投手の投球姿はカッコ良かったです。
続いてみた神奈川大会では前の打席でホームランを打った横浜の奥村選手が相模の菅野投手から背中の上側にデッドボールを食らって、激昂しバットでグランドを叩いたあと菅野投手を睨みつけた場面が面白かった。乱闘が始まると思ったのか主審が奥村選手のところに慌てて行ったのも面白かったです。97年の選手権の決勝の最終回で3点差を追う平安の先頭打者の子が智弁和歌山の清水投手からいきなりデッドボールを食らって怒り、清水投手に向かっていこうという素振りを見せたため、慌てて主審が止めた場面を思い出しました。埼玉大会は浦学元監督の森士さんが解説をしていたけど、浦学以外で監督に復帰する気はないのかな?まだまだ若いし、引く手あまただと思うけど。
栃木と茨城はNHKの放送がなかったので見られなかったけど、青藍泰斗のユニフォームはかっこいい。97年の文徳のユニフォームに似てますね。文徳は縦縞ではなかったけど。
72年の天理って2勝で選手権のベスト4に進出しているんですね。2022選抜の大阪桐蔭みたい。中西投手で思い出したけど、78年の選抜に出た郡山の池上投手も下手投げで、選抜時は近畿No.1投手って言われていた気がする。同じ県に下手投げの好投手が二人いたのも時代ですかね。今だと下手投げが全くいない地方もあるかも。
豊橋中央の高橋投手って珍投手ですね。アントニオ猪木の大ファンらしく、ここぞって時に気合を入れるために猪木の顔真似をしていたけど、マウンドで著名人のモノマネをする投手って初めて見た。2年前の選抜で東北の選手がヌートバーのペッパーミルのモノマネをして審判に注意をされていたけど、顔真似は問題ないんですね。佐伯体制だったらやばかったのかな。80年夏の大差がついた瀬田工対浜松商戦で、リリーフに出た瀬田工の木村選手が、投球動作に入って足を上げてから体をセンター方面に向ける、明らかにふざけた投球をしたら審判に怒られていましたね。猪木のモノマネってモノマネ芸人の定番なので、佐伯体制だったらふざけていると判断されたかも。豊橋中央はくじ運次第では旋風を巻き起こせたかもしれない実力校だったので初戦で消えるのは勿体ないチームでしたね。
なんか知らんが拓大紅陵の定番応援曲のチャンス紅陵がやたらと流行っています。豊橋中央や佐賀北、叡明とかここまでに7,8校が採用している感じです。チャンス紅陵は80年代半ばから拓大紅陵や浦和学院がさんざん甲子園で演奏してきたのに、千葉県内や群馬のごく一部(前橋商、桐生一、関東学園大付)くらいでしか演奏されていなかったです。なのに令和の時代になってなぜチャンス紅陵が流行り始める?世の中には不思議なことがあるものです。
開星は野々村監督の選抜で21世紀枠に負けての末代までの恥発言でも有名ですが、98年の埼玉からの偽装引っ越し選手2人がいたことによる秋の中国大会優勝が取り消しになった件もありましたね。暴力事件で試合禁止になることは多々ありましたが、大会参加資格規定違反でセンバツ出場が吹っ飛んだ珍しい事件でした。有名な高校じゃなかったから選手側に問題があったのか学校側が企てた事件かメディアが調べることはなかったですね。野々村監督はなんだかんだ言っても、昭和、平成、令和と3元号で甲子園に監督として出ているし、選手からの人望もあるようですし、力のある監督なのでしょう。3元号で勝利監督になった坂口(大垣日大)、佐々木(クラーク国際)、上村(聖隷クリストファー)はマジスゴ。
横浜対綾羽戦で期待した安川投手は初戦で凝りたのか制球も安定していてデッドボールは0。でも思わぬ伏兵が出てエースの藤田投手が横浜の3番と4番に連続デッドボール。横浜の4番の奥村選手は相模戦と違って怒りませんでしたね。この2つのデッドボールが試合を決めたから、むしろ喜んでいるかも。綾羽の投手陣は2試合で7デッドボールとマイナス方向に怖い投手陣でした。
悪の巣窟朝鮮総連京都支部高校大粉砕ありがとうやったぜ最高や
山梨代表は50年前の北関東大会で初めて見ました。機山工とか甲府商、峡南とかどこも応援曲にソーラン節を採用していた記憶があります。海無し県の代表がなぜソーラン節と思いましたが、意外と野球応援にあっていました。75年に甲子園に出た巨摩にはヤクルトでちょびっと活躍した芦沢捕手、翌年出た塩山商には冬頭遊撃手って超高校級のドラフト候補選手がいて、個の力でも山梨勢に負けていたのかも。
テレビで守備に散った選手名紹介で、下の名前を見ていると言わゆるDQNネーム(一般的にはキラキラネーム?)が増えたなぁとしみじみ思いました。とても読めない名前ばかりで、学校の先生も大変だなと同情します。東大合格者にはDQNネームは少ないと聞きますが(林先生談)、アホな私立の選手の親は学のない人が多いのかも。ちゃんと読める大輔とか真澄とか貞治とか翔平っていい名前だと思いますがね・・・。