訃報最終更新 2025/10/04 12:251.代打名無し@実況は野球ch板へaQxzm現役時代を見てきたプレイヤーたちもどしどし逝くようになった2025/08/09 17:09:057コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.代打名無し@実況は野球ch板へaQxzm投手編村田兆治北別府学高橋一三池永正明成田文男金田留広小林繁星野仙一安田猛加藤初仁科時成鈴木康二郎稲葉光雄古沢憲司三沢淳福士敬章井本隆柴田保光森安敏明高橋里志永射保戦後生まれかつ、1950年代までの“旧人類”世代でも、これだけの故人が2025/08/09 17:12:423.代打名無し@実況は野球ch板へaQxzm打者編門田博光衣笠祥雄大島康徳大橋穣平野光泰片平晋作袴田英利富田勝中村勝広久保寺雄二山本功児小田義人2025/08/09 17:14:374.代打名無し@実況は野球ch板へh0khuhttps://news.yahoo.co.jp/articles/921c67babf93587416c5db801aa270a1593bd2a9水谷実雄さんが死去 山本浩二氏&衣笠祥雄氏と赤ヘル打線の中軸を担う 打撃コーチとしても前田智徳氏、福留孝介氏らを指導 広島、阪急(現オリックス)で強打者として活躍、引退後は名伯楽として数多くの打者を育て上げた水谷実雄さん(77歳)=元デイリースポーツ評論家=が10日午後2時56分、兵庫県西宮市内の病院で、心不全により死亡したことが親族により伝えられた。葬儀は近親者のみで執り行われる。 水谷氏は宮崎商のエースとして1963、64年に甲子園出場。翌年のドラフトで広島から4位指名され入団。2年目からは打者に転向した。 徐々に力をつけ70年から主力に定着すると75年の初優勝に貢献、また78年には打率・348で首位打者を獲得するなど、山本浩二氏、衣笠祥雄氏らと並んで赤ヘル打線の中核を担った。 また阪急(現オリックス)にトレードされた83年には打点王(114打点)も獲得と、バットマンとしてその名を球界にとどろかせた。 一方で病気、けがとの戦いを強いられた野球人生でもあった。入団1年目に腎臓病が発覚。84年の開幕戦では頭部死球を受け、85年、惜しまれながらの引退を余儀なくされた。 その後は阪急を皮切りに広島、近鉄、ダイエー、中日、そして阪神と西の6球団すべてで主に打撃コーチを務め江藤智、前田智徳、中村紀洋、福留孝介、井上一樹らを強打者に育て上げた。 2013年オフ、阪神のユニホームを脱いで以降は直接的な球界との接点は持たなかったが、近隣の少年野球の指導にも手を貸し、またテレビでのナイター観戦は欠かさず、画面越しに阪神など教え子に声援を送り続けていた。 死球の影響や、内臓疾患もあって、近年は目や心臓など何度も手術を受けていた。今年の夏場に入り、体調に異変をきたし6月に入院、治療を行っていたものの8月に入り悪化、10日、家族に看取られつつ帰らぬ人となった。 1729試合に出場し、1522安打、244本塁打、809打点、通算打率・285。2025/08/10 18:05:055.代打名無し@実況は野球ch板へZwG0p>>2ぇ?亡くなってたの?と思う人がちらほらと居る2025/08/13 21:20:046.代打名無し@実況は野球ch板へ8Gtpd偉大な長嶋茂雄が入ってないぞ2025/09/28 13:13:487.代打名無し@実況は野球ch板へ6QPUW>>6長嶋は戦後生まれか2025/10/04 12:25:24
村田兆治
北別府学
高橋一三
池永正明
成田文男
金田留広
小林繁
星野仙一
安田猛
加藤初
仁科時成
鈴木康二郎
稲葉光雄
古沢憲司
三沢淳
福士敬章
井本隆
柴田保光
森安敏明
高橋里志
永射保
戦後生まれかつ、1950年代までの“旧人類”世代でも、これだけの故人が
門田博光
衣笠祥雄
大島康徳
大橋穣
平野光泰
片平晋作
袴田英利
富田勝
中村勝広
久保寺雄二
山本功児
小田義人
水谷実雄さんが死去 山本浩二氏&衣笠祥雄氏と赤ヘル打線の中軸を担う 打撃コーチとしても前田智徳氏、福留孝介氏らを指導
広島、阪急(現オリックス)で強打者として活躍、引退後は名伯楽として数多くの打者を育て上げた水谷実雄さん(77歳)=元デイリースポーツ評論家=が10日午後2時56分、兵庫県西宮市内の病院で、心不全により死亡したことが親族により伝えられた。葬儀は近親者のみで執り行われる。
水谷氏は宮崎商のエースとして1963、64年に甲子園出場。翌年のドラフトで広島から4位指名され入団。2年目からは打者に転向した。
徐々に力をつけ70年から主力に定着すると75年の初優勝に貢献、また78年には打率・348で首位打者を獲得するなど、山本浩二氏、衣笠祥雄氏らと並んで赤ヘル打線の中核を担った。
また阪急(現オリックス)にトレードされた83年には打点王(114打点)も獲得と、バットマンとしてその名を球界にとどろかせた。
一方で病気、けがとの戦いを強いられた野球人生でもあった。入団1年目に腎臓病が発覚。84年の開幕戦では頭部死球を受け、85年、惜しまれながらの引退を余儀なくされた。
その後は阪急を皮切りに広島、近鉄、ダイエー、中日、そして阪神と西の6球団すべてで主に打撃コーチを務め江藤智、前田智徳、中村紀洋、福留孝介、井上一樹らを強打者に育て上げた。
2013年オフ、阪神のユニホームを脱いで以降は直接的な球界との接点は持たなかったが、近隣の少年野球の指導にも手を貸し、またテレビでのナイター観戦は欠かさず、画面越しに阪神など教え子に声援を送り続けていた。
死球の影響や、内臓疾患もあって、近年は目や心臓など何度も手術を受けていた。今年の夏場に入り、体調に異変をきたし6月に入院、治療を行っていたものの8月に入り悪化、10日、家族に看取られつつ帰らぬ人となった。
1729試合に出場し、1522安打、244本塁打、809打点、通算打率・285。
ぇ?亡くなってたの?
と思う人がちらほらと居る
長嶋は戦後生まれか