坐禅8.slip最終更新 2025/12/18 18:401.神も仏も名無しさん50-OEw-Ij-wvutMMzo坐禅の報告と日々の所感(雑談、交流含む)念をキール、今にオール、単をネール、頭さエール坐禅6https://talk.jp/boards/psy/1760247760坐禅7https://talk.jp/boards/psy/17618734212025/11/12 07:35:40944コメント欄へ移動すべて|最新の50件895.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-QxN-Ij-wvujjPCIちなみに、痔というのは、寺にやまいだれとある様に、坐禅をされる方にはよくある様で、私も知らず知らずのうちにそうなってた時があった。今はないけど、息を吐く時は緩め、止めてる時や吸う時は軽く閉めるとなりにくいそうだ。2025/12/16 10:51:47896.神も仏も名無しさん50-klu-nj-c0IdY4rJお、スネ夫ママみたいな自慢?🤡2025/12/16 10:55:42897.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-QxN-Ij-wvujjPCI勿論、視線を落として閉じない様にしてるけど、疲れが溜まってる時は、いつの間にか意識が飛んでガクンしちまうな。2025/12/16 10:58:00898.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-QxN-Ij-wvujjPCI前にも話だけど、摂心後に採血したら異常値が出たそうで、お医者さんが仰るには「細胞が破壊された時に出る数値が異常です」との事だった。で、長時間の坐禅を何度も繰り返してた事を説明したら、合点されてた。2025/12/16 11:07:09899.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-QxN-Ij-wvujjPCI……躁転してる統失のアレに、執拗に付き纏ってdisる統失知障という図式が、20年来繰り返されてる宗教板。2025/12/16 11:14:30900.神も仏も名無しさん50-klu-nj-c0IdY4rJハッスル🤡魔境ガンバー🤡2025/12/16 11:32:50901.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-Eqh-Ij-wvudLUu5摂心っていって、泊まりで坐禅に集中するのがあるのですが、何日もしてると流石に疲れて来ます。そんな時、甘酒が振る舞われる事もあります(酒粕ではなくて米麹のそれですが、多分w)。どうやら、甘酒は飲む点滴と云われるそうで、成分が点滴のそれと近いそうです。寒い時は身体が温まりますし、疲れてる時や風邪で体力を消耗した時には良いかも知れませんね。2025/12/16 11:56:18902.神も仏も名無しさんVs-Wdw-oJ-V4Mavldk>>898LDHとCPKとかいう数値かな2025/12/16 11:59:21903.神も仏も名無しさんVs-Wdw-oJ-V4Mavldk強い緊張状態や激しい肉体労働してるとこの数値が高くなるとか内観や坐禅で自身を四六時中追い込んでると血液検査でこの数値が高く出てキチンと医者に説明しないと「筋肉が壊れてる恐れがあるからいつ心筋梗塞で死ぬかわからん危険な状態」と言われるってことがある2025/12/16 12:03:35904.神も仏も名無しさん50-Uhg-nj-DNSgXqrOハッスル🤡パワー甘酒充電?🤡2025/12/16 12:04:17905.神も仏も名無しさん50-Uhg-nj-DNSgXqrOプライド🤡防衛の緊張状態?🤡2025/12/16 12:05:22906.神も仏も名無しさん50-Uhg-nj-DNSgXqrOいつもハッスル🤡緊張状態大変だな?🤡2025/12/16 12:06:28907.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-Eqh-Ij-wvudLUu5分かりませんwただ、普段の数値にはそういうのはなくて、たまたま摂心明けの次の日の採血からその数値が出たのだと思います。2025/12/16 12:27:46908.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-Eqh-Ij-wvudLUu5あ、確か、後、強度のウェイトトレーニングなんかの後もそうした数値が出るとか仰ってました。2025/12/16 12:29:09909.神も仏も名無しさん36-lbT-HE-kLqz0Blh強度の集中と緊張状態なのかねえ、私はそういう感じはないな、特に何も起こらない普段通りな感じで座ってたな、緊張状態や集中は苦手だし好きではないので、接心期間とかあまり好きではなかったが、たんで食べるお粥後とても美味しかったのでゆっくり食べてたら先輩雲水に早く食べないと食器吹っ飛ばされるよとか言われて急かされたけど、ゆっくり食べたな2025/12/16 14:41:43910.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-a77-Ij-wvul03sz持鉢やお茶碗飛ばしは……今思うと坐禅ブームで人多過ぎて、人減らしの為にそれをやってた様な💦私はやりませんでしたけど、そういうのをやっちゃう人がいて、"あぁ、やっちゃったよ😅"はありました。基本、一回しか教えないルールなので、例えばお粥が激熱なのも分からずに、必死になってふーふー冷ましてると、"音をたてるなー!"って怒鳴られて、途方に暮れてる様を見てニヤついてる古参とかいたなぁ。で、後でこっそり、沢庵を多めに入れて冷やすとか教えてあげたりしたけど。2025/12/16 15:45:28911.神も仏も名無しさん50-5o9-wL-ym5Wwubs🟩🟩🟩>>902https://www.engakuji.or.jp/blog/32049/仏の力玉城康四郎先生は、単なる文献学者ではなく、自らも禅定を究めてゆかれたかたであります。全人格的思惟ということをよく仰せになって全人格的思惟とは、単なる知識を弄ぶのではなく、まさしく瞑想であり、禅定そのものであります。玉城先生は、臨済の坐禅もなされたようですが、ブッダの禅定を目指されていました。ブッダの言葉とされる『ウダーナ』にある「実にダンマ(法)が熱心に禅定に入っている修行者に顕(あら)わになるとき、そのとき一切の疑惑は消滅する。あたかも太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕して安(やす)らっている」という偈に注目されました。2025/12/16 18:28:58912.神も仏も名無しさん50-5o9-wL-ym5Wwubs🟩🟩🟩玉城先生の言葉によれば、「ダンマというのはダンマとしか言いようのない、実は言葉では著すことの出来ない、形のない「いのち」そのものです。今日の言葉で言うと、宇宙を貫いている「いのち」そのものです。私も今生きておりますから、命に基づいて生きている。その私の今生きている命そのものに、宇宙を貫いているいのちが通じてくる」(『ダンマの顕現』119頁より)この「ダンマ」というのが、「いのちそのもの」という解釈などは、玉城先生独自も見識であります。ご自身も全人格的思惟という深い禅定から出てきた見識でありましょう。春秋社の『スタディーズ 華厳』にも、次のような一節があります。「私たちが坐禅をくんで三昧に入る時、それは仏の本願力に催されて入る、仏の力に裏打ちされて入るのです。それが仏教の三昧の根本です。自分が入ろうと思うのでは三昧にならない。自分というものが残るからです。それは我力です。それでは三昧には入れない。そうではなくて、この自分が仏の力に裏打ちされて、あるいはしるしづけられているから入れるのです」というのです。2025/12/16 18:29:48913.神も仏も名無しさん50-5o9-wL-ym5Wwubs🟩🟩🟩自分の力で三昧に入るのではないというご指摘なのです。いくら歯を食いしばって、丹田に力をこめて息に集中しようとしても、それでは我力なのです。いくらやっても我力の増長になりかねません。我力の抜けたところなのです。玉城先生は「こうして何の気もなしに生きてるというそのことが、実は華厳経で言えばたいへんなことなのですね。自分は気がつかないけれども、のべつまくなしに仏の神通力が働いている」と仰せになっています。私たちが何気なしに生きてるということ、意識しなくても呼吸し、食事をして大小便をしていることに、実は大いなる仏の力が働いているのです。そんな大いなる仏の力に催されて三昧に入ってゆくのです。2025/12/16 18:30:40914.神も仏も名無しさん50-5o9-wL-ym5Wwubs🟩🟩🟩https://www.moralogy.jp/admin/wp-content/files/themes/mor/img_research/19tamasiro.pdf玉城 康四郎東京大学文学部教授,東北大学教授,日本大学文理学部教授など歴任。東京大学名誉教授。2025/12/16 18:32:07915.神も仏も名無しさん50-5o9-wL-ym5Wwubs🟩🟩🟩>>902凄い人ですよね?2025/12/16 18:33:26916.神も仏も名無しさんvD-5Sj-nj-czWf1Y6u発作ネカマの合いの手?🤡2025/12/16 19:10:00917.パーリーau-NUF-sl-PNU7lu4Yスワミジ様 インドで、13アカラの一つである、ジュナアカラの、マハラジ様へ就任す‼️マハ・マンダレーシュワール就任おめでとうございます🎉就任式典の様子YouTube動画動画は途中祝辞長いので、とばして中頃からスワミジ様への散華始まりますどうぞ( ゚∀゚)つ‼️https://www.youtube.com/live/e9ZE84veXX8?si=5rp4LmXKA5H4qWRh2025/12/17 13:26:23918.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-5SX-Ij-wvuslMJG玉城先生のそのご体験は『悟りと解脱』にありますね。Kindleで出ています。2025/12/17 18:45:45919.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-5SX-Ij-wvuslMJG同書より二 ダンマの顕現と人間の本性かくしてブッダは、一週間おきに座を替えて、五週間ほど入定したまま、全人格体を通徹するダンマを心ゆくまで味嘗したのである。その揚句、次のように述べている。 「わたしによって体得されたこのダンマは、甚深であり、理解しがたく、悟りがたく、寂静で、すぐれており、分別の領域を超えており、微妙であり、賢者によって知らるべきものである」 といい、これにつづいて、 「しかるに世の人々は、アーラヤ(愛著)を楽しみ、アーラヤを喜び、アーラヤに喜悦する。実にアーラヤを楽しみ、アーラヤを喜び、アーラヤに喜悦する人々には、ダンマはとうてい理解できない。たとい私が説いても、私はただ疲れ果ててしまうだけであろう(1)」 といって沈黙する。 ダンマは非常に深くて、分別の領域を超えている。世の人々は自分自身に愛著しているため、ダンマを理解することは不可能である、という。この発言は重大である。ブッダは人間に絶望したのである。ここには二つの意味が含まれている。一つには、ダンマが顕わになった状態と、人間の本性の状態とはまったく逆であること、二つには、ダンマが顕わになって初めて人間の本性が見えてきたことである。このことは、この稿の論述の基軸となっていく。2025/12/17 18:50:36920.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-5SX-Ij-wvuslMJG然りだって思うんです。コピペこれこれこういう事だからこうなんだという納得や共通認識は、確かに大事だけどそれは知解で、そこではないって事なんだけどな。でも相変わらず、坐禅スレでは覚者妄想の統失や屁理屈屋や冷やかし野郎が大口叩いて、或いは誹謗中傷を繰り返して滅茶苦茶になってしまってる。肝心の坐禅をしてる人は僅かしかいない。2025/12/17 18:51:32921.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-5SX-Ij-wvuslMJG私はそのアーラヤを言語や思考を耕す事だって考えてます。2025/12/17 18:52:51922.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-5SX-Ij-wvuslMJGアーラヤを愛すナマス。2025/12/17 18:54:47923.神も仏も名無しさんvD-5Sj-nj-czWzxY5nハッスル🤡頑張ってるな?🤡2025/12/17 19:09:27924.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-z0J-Ij-wvuwmlOxこの説法は、きわめて合理的であり、貴重である。解脱しても、その状態が持続しない理由について、筋道を立てて示されている。ゴーディカも私も、単に後戻りしたのではなく、無意識のうちに深まったのであろうことが想像される。ところで、解脱してもなお解脱しつづけるという軌道が、なぜ袋小路に入ってしまうのか。これについて、禅定において労苦を重ねたものには直ちに知られるであろう。解脱そのものは、「ダンマが顕わになる」事態であるとしても、その状態が途切れると、自ら奮起して、解脱を回復しようとして努力する。これは明らかに「自己から如来へ」の路線である。「ダンマが顕わになる」とは、「如来から自己へ」の路線であるのに、それが逆転している。その過が、たとい自覚されていても、それは避けようにも避けることのできない必然の路線である。単に仏弟子だけではなく、ブッダ自身がそうであり、みずから承認している。これがすなわち初地にほかならない。すなわち「自己から如来へ」の路線である。(同書より)2025/12/17 19:25:45925.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-z0J-Ij-wvuwmlOx>これについて、禅定において労苦を重ねたものには直ちに知られるであろうまさに然りなんです。もっともこれは本当の禅定の体験があって見性があって、解脱と後戻りを繰り返してきた者にしか分からないのですが、坐禅の回数が喧しく云われるのは、此処なんですけどね。一休さんなんかはそのんとこの消息を良く仰ってる。本来の 面目坊の 立ち姿 ひと目みしより 恋とこそなれ我のみか 釈迦も達磨も 阿羅漢も この君ゆえに 身をやつしけり盤珪さんだってそうでしょ。不生でよろしと云ってるけど、坐禅は継続してる。これが初地には至ってるという証左です。坐禅は回数じゃないとか言ってるのは、至ってないのです。2025/12/17 19:36:34926.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-z0J-Ij-wvuwmlOx初地において袋小路に入ってしまったのは、まさしく業熟体の故である。業熟体の底知れぬ淵から立ちのぼってくる微妙な我執のために、仏道者はどうしても「自己から如来へ」の路線を辿らざるを得ない。いかに解脱しつづけても、努力すればするほど、ますます我執は業熟体から立ちのぼる。「自己から如来へ」の路線は必然的である。それにもかかわらず、ダンマ・如来は業熟体に滲透し通徹しつづけてやむことがない。まさにダンマ・如来の無限活動という仏道の原態のなかで、われわれは行じているのである。専念しつづけていけば、否でも応でも、いつとは知らずに、業熟体の縁熟して、「自己から」の路線が「如来から」の路線へ逆転しないはずはない。しかし考えてみれば、「ダンマ・如来が顕わになる」というのが解脱の原点であった。「自己から」ではなく「如来から」である。その点からいえば、初地から中地への移行は、業熟体もろともに解脱の原点に復帰したということができよう。(同書より)2025/12/17 19:39:44927.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-z0J-Ij-wvuwmlOxところで、仏道の基幹線、初地・中地・終地の三地について述べ終わったが、この三地は仏道者の足跡としての規範を示したものである。しかし、これはあくまでも規範であって、実際にはけっしてこのとおりにゆくものではない。人によって進み方はさまざまである。ジクザクに一進一退する場合もあり、初地からいきなり終地に進むこともあり、あるいは初地・中地を越えて、端的に終地に入ることもある。終地に入ったと思っても、初・中・終を繰りかえし繰りかえし、行じていくことにもなる。それほど業熟体は、底知れず深いからである。そして初・中・終を繰りかえせば繰りかえすほど、私自身の根底、輪廻の根底はますます無明であることが知られる。そしてまさしく無明なればこそ、ダンマ・如来は私自身に通徹し、奔騰して息むことがない。それなればこそ、終地から未来へと踏み出す決断と実践が生まれてくるのである。(同書より)2025/12/17 19:44:12928.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-z0J-Ij-wvuwmlOx玉城先生、凄いですよね。2025/12/17 19:44:26929.パーリーau-NUF-sl-PNU7lu4Y>>921好む記憶を繰り返し思い起こすことでしょうねそれは言語と五感と感情と全てに於いて反芻して喜んだり快楽したり2025/12/17 20:24:01930.パーリーau-NUF-sl-PNU7lu4Y終地に入ったと思っても、初・中・終を繰りかえし繰りかえし、行じていくことにもなる。それほど業熟体は、底知れず深いからである。そして初・中・終を繰りかえせば繰りかえすほど、私自身の根底、輪廻の根底はますます無明であることが知られる。ーーー大悟したらこういった繰り返しが終わります心、という自我構造体が完全に一旦は解体されて無心を見るようにならないとその無心は変化し得ないので努力が終わるのだと言えますね2025/12/17 20:33:06931.神も仏も名無しさん50-j7D-nj-czW7cIbYハッスル🤡ウンチク元気だな?🤡2025/12/17 20:43:12932.パーリーau-NUF-sl-PNUJWVQO⭕ニランジャニ・アカラ‼️❌ジュナ・アカラ2025/12/18 02:38:32933.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-8FO-Ij-wvu5edF5(同書より)では、業熟体とはどういうことか。これについては、後に詳しく述べてみたいが、ここでひとまず挙げてみよう。ブッダの説法をまとめてみると、次の如くなろう。 「限りない過去から、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりつつ、生まれかわり死にかわり、死にかわり生まれかわりしながら輪廻転生し、いま、ここに現われつつある私自身の統括体であると同時に、ありとあらゆるものと交わっているが故に、宇宙共同体の結び目である。私性の極みであるとともに公性の極みである。しかもその根底は、底なく深く、無意識であり、無智であり、無明であり、暗黒であり、あくたもくた、ヘどろもどろである」これが業熟体である。そして「この業熟体にこそ、ダンマ・如来は、顕わになり、滲透し、通徹しつづける」ということが知られてきた。そして、このダンマの無限活動こそ、全仏道を包括する原態であることが明らかになってきたのである。2025/12/18 09:18:48934.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-8FO-Ij-wvu5edF5このことが明らかになってきたのは、私にとってまさしく画期的なことであった。もし大きな三つの因縁を数えるとすれば、第一は大爆発、第二は「ダンマが顕わになる」、そして第三は「ダンマ・如来は業熟体に顕わになり、滲透し、通徹しつづけてやまない」という無限活動である。そしてこの第三の因縁によって、全仏道における重要な諸問題はすべて解決されることになった。(同書より)2025/12/18 09:20:27935.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-8FO-Ij-wvu5edF5さて、このように述べてくると、私の求道はいかにも順調に進んでいるかのように見える。しかし実際はけっしてそうではない。山あり、川あり、谷あり、崖あり、喘ぎながら踏み歩いていく苦難の道であった。これまで長いあいだ、目覚めてはあと戻りし、また目覚めてはあと戻りする、一進一退を繰りかえしてきた。ところが、目覚めとは「ダンマが顕わになる」ことと分かって以来、当然ながら禅定の度毎にダンマの顕現が求められる。それがなかなか顕わになってこないのである。つまり、これまでの繰りかえしと同じである。ただ禅定を重ねているうちに、ダンマの顕わになる回数の増えてきていることは確かである。しかし、問題はダンマの顕わにならない場合である。いくら禅定を努めても努めても、どうしても顕わにならない状況がしばしば起こってくる。それが問題なのである。むしろ実際は、逆に、努めれば努めるほど顕わにならないという状況であり、そうなると、もう金輪際顕わにならないという思いに陥る。それはまさに仏道の破滅ではないか。そのために私はどれだけ絶望に落ちたか知れない。すでに還暦を過ぎている。もはやこの生涯では仏道成就は絶望的である。この絶望の苦しみはどうしようもない。それにも拘らず禅定を止めることができない。(同書より)2025/12/18 09:23:44936.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-8FO-Ij-wvu5edF5ところが、七十八歳の十二月十四日であったと思う。日常の何気ないときに、ふと気がついてみると、求め心が、ぽとりと抜け落ちていた。私は、おやっと思った。ただそれだけである。しかしそれ以来、入定ごとに、あたかも堰を切ったように、形なきいのち(ダンマ・如来)が、全人格体に通徹し、充溢し、大瀑流となって吹き抜けていく。その凄まじい勢いは何物にも譬えようがない。この老骨瘦軀にさえこのように知覚するのであるから、いのちの活動そのものは、はるかに想像を絶するものであり、かつその実態をもはや否定することはできない。それは、われわれが自覚すると否とを問わず、限りなき過去から未来際を尽くし、全宇宙を包んで働きつづけて息まない、ダンマ・如来の無限活動である。この活動に包摂されてこそ、初めてわれわれは目覚めることができる。(同書より)2025/12/18 09:25:34937.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-8FO-Ij-wvu5edF5ところで、あの求め心が脱落して入定ごとにダンマ・如来が顕わになり、通徹しつづけて以来、禅定はけっして一様ではなかった。凄まじいほどに変化していく。それはきわめて微妙甚深であり、とうていいちいち言葉に尽くすことはできない。しかもその間に、私は、これこそ禅定におけるダンマ・如来の働きの究極態であると、いくたび思ったかしれない。しかしそうではなかった。次の瞬間には必ず進展している。どこまでも深くなり続けていくのである。ところが八十三歳の誕生日を迎える一月位前であった。いままでダンマ・如来が私自身に通徹しつづけていた、その方向が、突然、逆に向きを変えたのである。つまりダンマ・如来は通徹のあまり、私の全人格体から限りなく大空間に向かって放散されるようになったのである。そしてこの状態は、その後変わることはない。いいかえれば、ブッダの禅定を習いつづけていた私は、ついにブッダの禅定がそのとおりに私自身の禅定として実現したということができる。(同書より)2025/12/18 09:30:12938.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-8FO-Ij-wvu5edF5玉城先生のそれは、伝記にもある様に禅宗に参じてましたがそこを離れられ、ご自身が仏陀の瞑想と云われてる様に、禅宗の坐禅とは別物ではあります。2025/12/18 09:34:23939.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-8FO-Ij-wvu5edF5周囲の人からは、寝てるか瞑想してるか、って云われてるくらい瞑想をされてたそうです。2025/12/18 09:39:13940.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-8FO-Ij-wvu5edF559 栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK (50-PQ6-Ij-wvu)[sage] 2025/12/17(水) 10:51:37.16 ID:SsT3Eこれこれこういう事だからこうなんだという納得や共通認識は、確かに大事だけどそれは知解で、そこではないって事なんだけどな。でも相変わらず、坐禅スレでは覚者妄想の統失や屁理屈屋や冷やかし野郎が大口叩いて、或いは誹謗中傷を繰り返して滅茶苦茶になってしまってる。肝心の坐禅をしてる人は僅かしかいない。2025/12/18 09:43:37941.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-8FO-Ij-wvu5edF5玉城先生の伝記を以って、このスレも終わりでいいのかもな。つまり、 坐禅しろ、坐禅! 坐禅だよ、坐禅! 坐禅!坐禅!坐禅!という事だ。あとはハイエナどもが勝手にこのスレを埋めるだろw2025/12/18 09:49:04942.栖雲居士◆t8ok0QoQ8kcK50-8FO-Ij-wvu5edF5**************** 糞スレ終了www****************2025/12/18 09:50:26943.神も仏も名無しさん50-B57-nj-4vxjq2KEハッスル🤡大先生〜大儀であった〜〜〜下がってよしっ‼️🤡🤡🤡🤡🤡🤡2025/12/18 10:59:49944.パーリーau-aPX-sl-PNUD9J64玉城せんせ最初、内へ入る意識の流れ内側が浄化されて対象が無くなると意識は外へ向かう流れまあ実際は第三~第四禅定において識は外界の音に着いて広がります広がらないのはまだ、心が浄化されていないってことです2025/12/18 18:40:58
【朗報】アルバムミーグリ1次で予定通り井上和が他の5期生に惨敗!!!!!5期トップは池田!!!!現役最強は賀喜遥香となり遠藤さくらも惨敗!!!!!乃木坂46861562.62025/12/18 18:46:04
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念をキール、今にオール、単をネール、頭さエール
坐禅6
https://talk.jp/boards/psy/1760247760
坐禅7
https://talk.jp/boards/psy/1761873421
今はないけど、息を吐く時は緩め、止めてる時や吸う時は軽く閉めるとなりにくいそうだ。
で、長時間の坐禅を何度も繰り返してた事を説明したら、合点されてた。
🤡
そんな時、甘酒が振る舞われる事もあります(酒粕ではなくて米麹のそれですが、多分w)。
どうやら、甘酒は飲む点滴と云われるそうで、成分が点滴のそれと近いそうです。
寒い時は身体が温まりますし、疲れてる時や風邪で体力を消耗した時には良いかも知れませんね。
LDHとCPKとかいう数値かな
内観や坐禅で自身を四六時中追い込んでると血液検査でこの数値が高く出て
キチンと医者に説明しないと「筋肉が壊れてる恐れがあるからいつ心筋梗塞で死ぬかわからん危険な状態」と言われるってことがある
🤡
🤡
大変だな?🤡
ただ、普段の数値にはそういうのはなくて、たまたま摂心明けの次の日の採血からその数値が出たのだと思います。
今思うと坐禅ブームで人多過ぎて、人減らしの為にそれをやってた様な💦
私はやりませんでしたけど、そういうのをやっちゃう人がいて、"あぁ、やっちゃったよ😅"はありました。
基本、一回しか教えないルールなので、例えばお粥が激熱なのも分からずに、必死になってふーふー冷ましてると、"音をたてるなー!"って怒鳴られて、途方に暮れてる様を見てニヤついてる古参とかいたなぁ。
で、後でこっそり、沢庵を多めに入れて冷やすとか教えてあげたりしたけど。
>>902
https://www.engakuji.or.jp/blog/32049/
仏の力
玉城康四郎先生は、単なる文献学者ではなく、自らも禅定を究めてゆかれたかたであります。
全人格的思惟ということをよく仰せになって
全人格的思惟とは、単なる知識を弄ぶのではなく、まさしく瞑想であり、禅定そのものであります。
玉城先生は、臨済の坐禅もなされたようですが、ブッダの禅定を目指されていました。
ブッダの言葉とされる『ウダーナ』にある
「実にダンマ(法)が熱心に禅定に入っている修行者に顕(あら)わになるとき、
そのとき一切の疑惑は消滅する。
あたかも太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕して安(やす)らっている」
という偈に注目されました。
玉城先生の言葉によれば、
「ダンマというのはダンマとしか言いようのない、実は言葉では著すことの出来ない、形のない「いのち」そのものです。
今日の言葉で言うと、宇宙を貫いている「いのち」そのものです。
私も今生きておりますから、命に基づいて生きている。
その私の今生きている命そのものに、宇宙を貫いているいのちが通じてくる」(『ダンマの顕現』119頁より)
この「ダンマ」というのが、「いのちそのもの」という解釈などは、玉城先生独自も見識であります。
ご自身も全人格的思惟という深い禅定から出てきた見識でありましょう。
春秋社の『スタディーズ 華厳』にも、次のような一節があります。
「私たちが坐禅をくんで三昧に入る時、それは仏の本願力に催されて入る、仏の力に裏打ちされて入るのです。
それが仏教の三昧の根本です。
自分が入ろうと思うのでは三昧にならない。
自分というものが残るからです。
それは我力です。それでは三昧には入れない。
そうではなくて、この自分が仏の力に裏打ちされて、あるいはしるしづけられているから入れるのです」
というのです。
自分の力で三昧に入るのではないというご指摘なのです。
いくら歯を食いしばって、丹田に力をこめて息に集中しようとしても、それでは我力なのです。
いくらやっても我力の増長になりかねません。
我力の抜けたところなのです。
玉城先生は
「こうして何の気もなしに生きてるというそのことが、実は華厳経で言えばたいへんなことなのですね。
自分は気がつかないけれども、のべつまくなしに仏の神通力が働いている」
と仰せになっています。
私たちが何気なしに生きてるということ、意識しなくても呼吸し、食事をして大小便をしていることに、実は大いなる仏の力が働いているのです。
そんな大いなる仏の力に催されて三昧に入ってゆくのです。
https://www.moralogy.jp/admin/wp-content/files/themes/mor/img_research/19tamasiro.pdf
玉城 康四郎
東京大学文学部教授,東北大学教授,日本大学文理学部教授など歴任。東京大学名誉教授。
>>902
凄い人ですよね?
🤡
マハ・マンダレーシュワール就任おめでとうございます🎉
就任式典の様子YouTube動画
動画は途中祝辞長いので、とばして中頃からスワミジ様への散華始まります
どうぞ( ゚∀゚)つ‼️
https://www.youtube.com/live/e9ZE84veXX8?si=5rp4LmXKA5H4qWRh
Kindleで出ています。
二 ダンマの顕現と人間の本性
かくしてブッダは、一週間おきに座を替えて、五週間ほど入定したまま、全人格体を通徹するダンマを心ゆくまで味嘗したのである。
その揚句、次のように述べている。 「わたしによって体得されたこのダンマは、甚深であり、理解しがたく、悟りがたく、寂静で、すぐれており、分別の領域を超えており、微妙であり、賢者によって知らるべきものである」 といい、これにつづいて、 「しかるに世の人々は、アーラヤ(愛著)を楽しみ、アーラヤを喜び、アーラヤに喜悦する。実にアーラヤを楽しみ、アーラヤを喜び、アーラヤに喜悦する人々には、ダンマはとうてい理解できない。たとい私が説いても、私はただ疲れ果ててしまうだけであろう(1)」 といって沈黙する。
ダンマは非常に深くて、分別の領域を超えている。
世の人々は自分自身に愛著しているため、ダンマを理解することは不可能である、という。
この発言は重大である。
ブッダは人間に絶望したのである。
ここには二つの意味が含まれている。一つには、ダンマが顕わになった状態と、人間の本性の状態とはまったく逆であること、二つには、ダンマが顕わになって初めて人間の本性が見えてきたことである。
このことは、この稿の論述の基軸となっていく。
コピペ
これこれこういう事だからこうなんだという納得や共通認識は、確かに大事だけどそれは知解で、そこではないって事なんだけどな。
でも相変わらず、坐禅スレでは覚者妄想の統失や屁理屈屋や冷やかし野郎が大口叩いて、或いは誹謗中傷を繰り返して滅茶苦茶になってしまってる。
肝心の坐禅をしてる人は僅かしかいない。
頑張ってるな?
🤡
解脱しても、その状態が持続しない理由について、筋道を立てて示されている。
ゴーディカも私も、単に後戻りしたのではなく、無意識のうちに深まったのであろうことが想像される。
ところで、解脱してもなお解脱しつづけるという軌道が、なぜ袋小路に入ってしまうのか。
これについて、禅定において労苦を重ねたものには直ちに知られるであろう。
解脱そのものは、「ダンマが顕わになる」事態であるとしても、その状態が途切れると、自ら奮起して、解脱を回復しようとして努力する。
これは明らかに「自己から如来へ」の路線である。「ダンマが顕わになる」とは、「如来から自己へ」の路線であるのに、それが逆転している。
その過が、たとい自覚されていても、それは避けようにも避けることのできない必然の路線である。
単に仏弟子だけではなく、ブッダ自身がそうであり、みずから承認している。
これがすなわち初地にほかならない。すなわち「自己から如来へ」の路線である。
(同書より)
まさに然りなんです。
もっともこれは本当の禅定の体験があって見性があって、解脱と後戻りを繰り返してきた者にしか分からないのですが、坐禅の回数が喧しく云われるのは、此処なんですけどね。
一休さんなんかはそのんとこの消息を良く仰ってる。
本来の 面目坊の 立ち姿 ひと目みしより 恋とこそなれ
我のみか 釈迦も達磨も 阿羅漢も この君ゆえに 身をやつしけり
盤珪さんだってそうでしょ。
不生でよろしと云ってるけど、坐禅は継続してる。
これが初地には至ってるという証左です。
坐禅は回数じゃないとか言ってるのは、至ってないのです。
業熟体の底知れぬ淵から立ちのぼってくる微妙な我執のために、仏道者はどうしても「自己から如来へ」の路線を辿らざるを得ない。
いかに解脱しつづけても、努力すればするほど、ますます我執は業熟体から立ちのぼる。
「自己から如来へ」の路線は必然的である。
それにもかかわらず、ダンマ・如来は業熟体に滲透し通徹しつづけてやむことがない。
まさにダンマ・如来の無限活動という仏道の原態のなかで、われわれは行じているのである。
専念しつづけていけば、否でも応でも、いつとは知らずに、業熟体の縁熟して、「自己から」の路線が「如来から」の路線へ逆転しないはずはない。
しかし考えてみれば、「ダンマ・如来が顕わになる」というのが解脱の原点であった。
「自己から」ではなく「如来から」である。
その点からいえば、初地から中地への移行は、業熟体もろともに解脱の原点に復帰したということができよう。
(同書より)
しかし、これはあくまでも規範であって、実際にはけっしてこのとおりにゆくものではない。
人によって進み方はさまざまである。
ジクザクに一進一退する場合もあり、初地からいきなり終地に進むこともあり、あるいは初地・中地を越えて、端的に終地に入ることもある。
終地に入ったと思っても、初・中・終を繰りかえし繰りかえし、行じていくことにもなる。
それほど業熟体は、底知れず深いからである。
そして初・中・終を繰りかえせば繰りかえすほど、私自身の根底、輪廻の根底はますます無明であることが知られる。
そしてまさしく無明なればこそ、ダンマ・如来は私自身に通徹し、奔騰して息むことがない。
それなればこそ、終地から未来へと踏み出す決断と実践が生まれてくるのである。
(同書より)
好む記憶を繰り返し思い起こすことでしょうね
それは言語と五感と感情と全てに於いて
反芻して喜んだり快楽したり
それほど業熟体は、底知れず深いからである。
そして初・中・終を繰りかえせば繰りかえすほど、私自身の根底、輪廻の根底はますます無明であることが知られる。
ーーー
大悟したら
こういった繰り返しが終わります
心、という自我構造体が
完全に一旦は解体されて
無心を見るようにならないと
その無心は変化し得ないので
努力が終わるのだと言えますね
元気だな?
🤡
❌ジュナ・アカラ
では、業熟体とはどういうことか。
これについては、後に詳しく述べてみたいが、ここでひとまず挙げてみよう。
ブッダの説法をまとめてみると、次の如くなろう。
「限りない過去から、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりつつ、生まれかわり死にかわり、死にかわり生まれかわりしながら輪廻転生し、いま、ここに現われつつある私自身の統括体であると同時に、ありとあらゆるものと交わっているが故に、宇宙共同体の結び目である。
私性の極みであるとともに公性の極みである。
しかもその根底は、底なく深く、無意識であり、無智であり、無明であり、暗黒であり、あくたもくた、ヘどろもどろである」
これが業熟体である。
そして「この業熟体にこそ、ダンマ・如来は、顕わになり、滲透し、通徹しつづける」ということが知られてきた。
そして、このダンマの無限活動こそ、全仏道を包括する原態であることが明らかになってきたのである。
もし大きな三つの因縁を数えるとすれば、第一は大爆発、第二は「ダンマが顕わになる」、そして第三は「ダンマ・如来は業熟体に顕わになり、滲透し、通徹しつづけてやまない」という無限活動である。
そしてこの第三の因縁によって、全仏道における重要な諸問題はすべて解決されることになった。
(同書より)
しかし実際はけっしてそうではない。
山あり、川あり、谷あり、崖あり、喘ぎながら踏み歩いていく苦難の道であった。
これまで長いあいだ、目覚めてはあと戻りし、また目覚めてはあと戻りする、一進一退を繰りかえしてきた。
ところが、目覚めとは「ダンマが顕わになる」ことと分かって以来、当然ながら禅定の度毎にダンマの顕現が求められる。それがなかなか顕わになってこないのである。
つまり、これまでの繰りかえしと同じである。
ただ禅定を重ねているうちに、ダンマの顕わになる回数の増えてきていることは確かである。
しかし、問題はダンマの顕わにならない場合である。
いくら禅定を努めても努めても、どうしても顕わにならない状況がしばしば起こってくる。
それが問題なのである。
むしろ実際は、逆に、努めれば努めるほど顕わにならないという状況であり、そうなると、もう金輪際顕わにならないという思いに陥る。
それはまさに仏道の破滅ではないか。
そのために私はどれだけ絶望に落ちたか知れない。
すでに還暦を過ぎている。
もはやこの生涯では仏道成就は絶望的である。
この絶望の苦しみはどうしようもない。それにも拘らず禅定を止めることができない。
(同書より)
日常の何気ないときに、ふと気がついてみると、求め心が、ぽとりと抜け落ちていた。
私は、おやっと思った。
ただそれだけである。
しかしそれ以来、入定ごとに、あたかも堰を切ったように、形なきいのち(ダンマ・如来)が、全人格体に通徹し、充溢し、大瀑流となって吹き抜けていく。
その凄まじい勢いは何物にも譬えようがない。
この老骨瘦軀にさえこのように知覚するのであるから、いのちの活動そのものは、はるかに想像を絶するものであり、かつその実態をもはや否定することはできない。
それは、われわれが自覚すると否とを問わず、限りなき過去から未来際を尽くし、全宇宙を包んで働きつづけて息まない、ダンマ・如来の無限活動である。
この活動に包摂されてこそ、初めてわれわれは目覚めることができる。
(同書より)
凄まじいほどに変化していく。
それはきわめて微妙甚深であり、とうていいちいち言葉に尽くすことはできない。
しかもその間に、私は、これこそ禅定におけるダンマ・如来の働きの究極態であると、いくたび思ったかしれない。
しかしそうではなかった。
次の瞬間には必ず進展している。
どこまでも深くなり続けていくのである。
ところが八十三歳の誕生日を迎える一月位前であった。いままでダンマ・如来が私自身に通徹しつづけていた、その方向が、突然、逆に向きを変えたのである。
つまりダンマ・如来は通徹のあまり、私の全人格体から限りなく大空間に向かって放散されるようになったのである。そしてこの状態は、その後変わることはない。
いいかえれば、ブッダの禅定を習いつづけていた私は、ついにブッダの禅定がそのとおりに私自身の禅定として実現したということができる。
(同書より)
これこれこういう事だからこうなんだという納得や共通認識は、確かに大事だけどそれは知解で、そこではないって事なんだけどな。
でも相変わらず、坐禅スレでは覚者妄想の統失や屁理屈屋や冷やかし野郎が大口叩いて、或いは誹謗中傷を繰り返して滅茶苦茶になってしまってる。
肝心の坐禅をしてる人は僅かしかいない。
つまり、
坐禅しろ、坐禅!
坐禅だよ、坐禅!
坐禅!坐禅!坐禅!
という事だ。
あとはハイエナどもが勝手にこのスレを埋めるだろw
糞スレ終了www
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大儀であった〜〜〜
下がってよしっ‼️
🤡🤡🤡🤡🤡🤡
最初、内へ入る意識の流れ
内側が浄化されて対象が無くなると
意識は外へ向かう流れ
まあ
実際は第三~第四禅定において識は外界の音に着いて広がります
広がらないのは
まだ、心が浄化されていないってことです