老いて益々】田中長徳ファンのスレ その6【老化】最終更新 2025/11/02 10:091.名無CCDさん@画素いっぱいLeV7k2vw0思い出を語りましょう 過去スレ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ 日本大学芸術学部写真学科卒業 日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める 帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に 連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い 写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない 同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっているFacebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16451023192022/02/17 21:51:59278コメント欄へ移動すべて|最新の50件229.名無CCDさん@画素いっぱいjkmNtプラハ旧市街の古い建築物には、それぞれエントランスの上に動物のシンボルが掲げられている。この蛇のオーナメントもその一つだ。プラハの日本大使館の並びにあるこの建物はモダンアートギャラリー、その左手のエントランスなかなか気のなって。それで20年近くよくここに通ったものであった。ビロード革命から3十数年経過しているが、ビロード革命前にはもちろん、こういうワインバー等はなかった。あの当時は、街中でワインをいっぱい飲もうと言うのも、まさに命がけの行為だった。プラハで50年過ごしていると、革命前と後でのその違いがくっきりとコントラストになるのである。このモダンアートギャラリーのお店のタイトルと言うのは、1950年代の終わりの日本の若手写真家のムーブメントの名称と同じですよね。右のグループで長身のヒゲの男でこっちを向いているのが私の古い古いプラハの友人で、未来の頃からのお付き合いなのだ。この1つは、ずいぶん大量のワインを飲んだ素晴らしい思い出が残っている。3年ほど前にコロナで、昇天したのである。その当時の話は文芸雑誌新潮に掲載した。タイトルはプラハのP コロナに死す2025/05/17 09:02:20230.名無CCDさん@画素いっぱいX0nTdライカ100年である。フィルムカメラが100年でデジタルライカはまだ15年しか経っていない経験不足。だからライカ100年と言うのは私の場合フィルムライカの事です。もう存在しない朝日カメラと言う雑誌の取材でパリに行った時、ライカのファーストモデルすなわちレンズ交換ができなくて距離計のついていないモデルで撮影をした。その時思ったのはライカにレンジファインダーは要らないと言う真実だった。その時のファーストモデルのライカは普通のブラックモデルであったが、最近気に入っているのがゴールド仕上げの同じモデルである。ゴールド仕上げが良いと言うのではなくて、リザードスキンがカバーしているので、ライカのグリップ性が抜群に良くなるのだ。今ではワシントン条約で禁止されているらしいが、これが作られた1930年には問題はなかった。2025/05/20 15:07:15231.名無CCDさん@画素いっぱいObRtbオリジナルのヨセフの写真集は最近では大変な値段になっているようだが、尊敬する写真家の村へをとっていた人が、神保町の古本屋でこの写真集を発見した時は、ワゴンセールで500円であったそうだ。1975年に東ベルリンでソ連製のパノラマカメラを買って、そのままヨーロッパを旅行してパノラマ写真を積み重ねた。3年前に出した私のパノラマ写真集は主にその時に撮影したものである。1980年にザルツブルグカレッジでワークショップをやっていた時に、カレッジはザルツブルグのお城の1部にあって、そこに宿泊していたので、夜はダークルームを誰も使う人がいないので、パノラマ写真を数百枚プリントした。3年前に出版したパノラマ写真集はその時にプリントしたものである。ヨーロッパをあちこちパノラマカメラで撮影して、どこが最もパノラマ的な風景かというと、やはりパリのメトロを上げるのが1番正しいと思う。空間構造の作り方が最初からパノラマカメラで撮るために作られたと言っても良いような構造なのである。2025/05/23 05:13:00232.名無CCDさん@画素いっぱいjMDOB日本で車に対してマニアックな国はこのメッサーシュミットが有名だが、意外にヨーロッパにはたくさんの3つの車輪の車がある。オーストリアの大きな車メーカーが作っていた。小さな三ホイールの車。があって、これはその名前がマイスターと言うのであるが、子供がマジで足でこいでいる小さいのを前後、逆にして、そのまま膨らませたようななかなか愛らしいスタイルであった。メッサーシュミットはかなりマニアックな存在であって、これを撮影したのは1960年代であるが、実際に乗用車として走らせていたのであろう。今では伝説的な文物と言うことになっていて、町中で走っていない。メッサーシュミットどこかで見たと言うだけで、それがあっという間にニュースバリューになってしまう。 メッサーシュミットに似た車でブランドは忘れてしまったが、私がプラハに帰るようになった当初はよく似た車がプラハの路地を曲がっていくのを目撃したこともある。この種類のミニカーは非常に個性的なものであって、その感覚は日本人が持っている軽乗用車と言うのは、スバルにしてもそうだけど、将来デラックスな車に乗ってやると言うようなポジティブな意思が感じられる。それに対して、ヨーロッパ人が感覚として持っているミニカーの存在感は、上昇思考感覚ではなく、引きこもり感覚なのである。ビームヴェンダースのリスボン物語で面白かったのは失踪した映画監督をサウンドマンが、ポルトガルのリスボンまで探しに行って、映画監督を発見したのは、町外れのゴミ捨て場に捨てられているBMWのミニカーイセッタの中と言うのもシナリオとしては非常に効いていると思う。例のフロントがドアになってそこから乗るやつだ。2025/05/24 10:27:33233.名無CCDさん@画素いっぱい9mqYiライフマガジンなどで活躍したエルンストハウスは私は大ファンであった。その背景には彼の出身がオーストリアウィーンであると言うこともある。オーストリアとかハンガリーとかあそこら辺はどうも写真家のベースメントとしては、まずいところであって、地元の写真家で国内で有名になると言う事はほとんどありえない。ハンガリーならロバートキャパもアンドレ・ケルテスも外国に行って活躍したわけだし、エルンスト・ハースも同じである。エレンストハーストは1度だけ彼の展覧会が東京のギャラリーであったときに話をする機会があった。英語ではなくてドイツ語で会話をしたのである。それで打ち解けたエルンスト・ハースは私に対して自分はカラーのフォトグラファーだと言われているけど、モノクロームも真面目な仕事をやっているんだ。君はウィーンに住んでいるそうだが、僕の第二次大戦直後のオーストリアの帰国した兵士のドキュメンタリーを見たことがあるかね?私は幸いなことに、ヨーロッパの芸術雑誌でモノクロームで撮影されたローライフレックスの仕事と思われる1連の優れたドキュメンタリーを見ていたので、その話をしたら写真家は非常に喜んでくれた。これがエルンスト・ハースの一期一会なのである。割と最近知った話で有名写真家のバックグラウンドのストーリーを紹介すると言うのがあって、その中で面白かったのはエルンスト・ハースは20代で写真家になろうとしたが、その転換点は20代半ばで10キログラムのマーガリンを中古のローライフレックスと交換したと言うのである。時代から考えると、オーストリアウィーンは経済統制の時代だったから、何かそこに闇取引っぽいやりとりを感じて、それが私は好きになった。すなわち第三の男のペニシリンの売買みたいなものである。それでこの写真家をまた尊敬する気持ちになった。私が見ていた兵士のドキュメンタリーと言うのは10キログラムの重さのマーガリンであったわけだ。2025/05/28 13:30:51234.名無CCDさん@画素いっぱいT9tPU窓から見える毎日の光景というのは、そのまま毎日差し替えられる。有名な絵描きによる作品のようなものだと言うのは、私の尊敬する写真家が何かのノートの端に書き散らした言葉であるが、これはなかなか真実をついている。世界中をいろいろ旅行して、素晴らしい眺めの風景と言うのはいろいろ接したことがあるが、逆にホテルの窓の目の前が反対側の建物の壁面であったりするのもなかなか興味がある。そういうので面白いのはパリのアパートメントなどが1番典型的な例であると思う。パリのアパートメントの面白いのは我々が宿泊している。安ホテルと同じように部屋のサイズはかなり小さくて、しかも通の幅がないから例えばホテルの狭い窓から、反対側の通りの同じ高さの窓を見ると、そこに人の生活がなんとなく見えるということがある。我々日本人の感覚からすると、それがプライバシーだ。なんだかんだと言うので、自分のプライバシーを隠そうと言う方向に行くようであるが、パリジャンの生活のスタイルと言うのはどうも違っている感じで、カフェに座って自分を探しながら通行人を見ていると、同じような感じで部屋でくつろぎながら、反対側の窓からこちらをチラリと見ている外国人に対しても、それなりの寛容を示しているようなところがある。そこら辺がパリで生活することの理みたいなことを考えている私であるが、これはもちろん私の頭の中で醸造された考えにしか過ぎない。本当はどうなんだろう?2025/05/30 08:36:18235.名無CCDさん@画素いっぱいsC1Trニッカウヰスキーを飲む時は、雲カメラを脇に備えて、お酒のつまみにするのもなかなか快適である。考えてみると、1968年からこの頭の黒い犬みたいなカメラを使っているわけだ。高田の馬場の鈴木安兵衛商店が、まだ前の世代の社長であった頃に確か10,000数千円で買った。私も初任給が35,000円だから大変高いカメラであった。レンズは5センチの船が付いていて、当時はライカマウントの交換レンズも非常に高価であったから、これにはそのレンズをつけたままずっと使っていた。それ以前の私は21ミリと35ミリのレンズをスナップショット日本語に使っていたので、50ミリは使ったことがなかった。その理由は単純であって、アンリカルティエブレッソンとか木村伊兵衛が使っている。つまらないレンズと言う認識であったのだ。ところが使ってみるとなかなか面白い。その当時の私がまだファインダーを覗いて、写真を撮る時代の人間であったので、1対1の比率のブライトフレームは使いやすいと思った。1969年8月に銀座のニコンサロンで開いた私の最初の古典の東京をテーマにした写真であるが、その時展示した全部の点数の3分の1位はこのカメラで撮影したと思う。でもレンズはニコンのニッコールだから問題ないね。何十年も使っているうちに巻き戻しの具合がこんな感じで子子間なってしまった。それでも使っていたら、今度は巻き戻しのこのパーツがそのままどっかに行ってしまった。それでも頭の黒い犬のようなデザインは、何かフランス人が設計したのではないかと言うような気が今でもしているのである。2025/06/02 08:46:31236.名無CCDさん@画素いっぱい0np5X田中長徳のカメラノートスペシャルは定期購読者さん募集中です。おかげで6年目も快進撃。2025/06/04 11:48:56237.名無CCDさん@画素いっぱい7CQgXポルトガルリスボンの風景を40年間見ているのであるけれど、最近気に入っているのがこのショットで移したような実際には存在しないのだけど、いかにも存在しているような風景である。リスボンに到着した多くのツーリストが見るものは、まず中央の広場であり、それからまっすぐに南に結んでいるアウグスタ通りであり、さらにそこにそびえる凱旋門みたいな味であり、さらに港に通じる広場である。ポルトガルの偉大な文学者、フェルナンドペソは、1910年代に世界に知られていない世界のどこにあるのかわからないようなポルトガルのリスボンをもっと紹介しようと言うことで、自費出版でポルトガルのガイドブックを作った。それが日本でも最初に翻訳されたフェルナンドペソの著作であると言うことが私には非常に興味がある。私はカメラの本をたくさん書いてきたが、写真論も書いている。それで世の中に受け入れられるのは写真論ではなくて、実はカメラのガイドブックであったというのが、フェルナンドペソアのリスボンのガイドブックと重なってくるのだ。2025/06/08 10:48:12238.名無CCDさん@画素いっぱいB9WQe1968年頃、カメラ雑誌で東松照明さんがこのカメラの広告に登場していた。それまではニコンエフを使っていたのだけど、いきなりキャノンが当時のトップ写真家を起用したのである。それでこのカメラに憧れたのだが、とにかく値段がニコンエフと同じ位で手が出なかった。それから何十年も経過してようやく使えるようになった。ペリクルミラーが付いているにもかかわらず、シャッターの音がミラー一眼レフと同じ位でかいと言うのはへんてこりんなカメラだった。何故か私はこのカメラを小岩駅前のカメラ屋さんで何台か買ったのである。1960年代に80,000円位したカメラが私が手に入れた時はレンズ付きで25,000円位だったので、何台も手元にペリックスが集合した。ハーフミラーを利用したムービーカメラと言うのはスイスのボレックスを始め結構たくさんあった。ミラーを動かすと言う一眼レフの故障が少ないので、Finderは暗くなるけど頑丈なのである。このカメラは今ではネットオークションで本体が1000円位で売っているので、絶対お勧めのカメラだと思う。2025/06/10 18:30:09239.名無CCDさん@画素いっぱいYS7aaライカインコの得意技である。鉛筆の先のインコちゃんをお友達だと思ってくちばしで挨拶を送る。これを家ではこんこんちきと呼んでいる。今後のコミュニケーション手段と言うのは、鳥さんが大昔からやっている最も基本的なコミュニケーション手段であると思うが、それを見ていて思い出すのは、最近のパソコンやらiPhoneやらiPadの我々のコミュニケーションの伝達方式である。キーボードにタッチすることを繰り返すことで、それがで文字構成ができて、それがコミュニケーション手段になっていると言うのは、タイプライター以来の人類の発明だと思うけど、鳥さんの場合それを何十10000年も前からやっていると言うのは凄いことだと思う。他の種類の動物でもこのこんこんちきの意思伝達機能はあると思うけれども、鳥さんの場合はくちばしだから、信号の伝達がシャープで、しかも早いから、人間などよりもかなり複雑なコミニケーションをお互いにやりとりしているのではないかと考えているのだ。2025/06/13 05:42:24240.名無CCDさん@画素いっぱいJzPAOAmalia Rodriguesの主演した有名な映画で、その中でリスボンのブリティッシュバーが出てくると言う神話を何度も聞かされたが、私は実際にその映画は見ていない。もともとコマーシャルムービーが嫌いなので、私が見ているというか、高く評価するのはインディペンデントムービーいわゆるアンダーグラウンドムービーである。劇映画の本編で私が唯一認めるのはエイゼンシュテイン位なものであるから、かなり世の中からはずれている。それでもAmalia RodriguesのCDのセットはリスボンに入るときに買ってきてそれから長らく聞いてもう30年ぐらいになる。リスボンによく言っている割には日本人ツーリストが必ず行く。ファドの店にも行ったことがない。観光関係の写真なんかを何十年も取っていると、ツーリストスポットに仕事に行くというのが通常の状態だから、ツーリストストップ楽しもうと考える認識は最初から欠如しているのである。ただし、私はブリティッシュバーには40年代の客である。といっても、1年から数年にいっぺんしか来ないから、常連客と言うわけでもない。この有名な婆が残念なのは日曜日が休みと言うことだ。にもかかわらず、私はそれに気がつかないで、バーの前まで行って踵を返すのである。ガラス館版のスチーマーをテーマにした素敵な看板は、30年位前まではガラスが真っ二つに割れてそのまま落ちるのではないかと心配していたが、その後完全に修復されて、会の幹事もオリジナルそのままになっているので、ひとまず安心である。仕事の関係で、世界中の高級なところから大衆酒場までいろいろ取材をして歩いたが、この船の看板に肩を並べることのできるバーのエントランスのシンボルと言うのは、私は他に知らない。2025/06/14 07:17:27241.名無CCDさん@画素いっぱい9ve16古い友人の野々宮が言うには孫バカのおじいちゃんはそこら中にいるけど、孫と言うのは猫よりかはいいらしいですよと言うのである。そこら辺の事情が私にはわからないから、いわゆる雑誌のアサインメントで子供を取るのはこれはデューティーだから仕方がないけど、自分の作品で子供が登場すると言うのはごくわずかである。それは子供がかわいいとか言うのではなくて、子供の存在が奇妙であると言う瞬間に撮影するのだ。一例を挙げると、私のモノクロ写真集500ページのウィーン1970年代の表紙の反対側の画像がウィーンで撮影した男の子2人の存在感が奇妙な変な写真なのである。私にとって子供と言うのはそういう存在なのだ。朝日新聞の下ジュネーブ支局長の柳沢さんは不思議なキャラクターであって、子供の写真を撮るのが好きなのだ。報道関係者としてはこれは重要なキャラクターなのであろうか?さらに柳沢さんは不思議なゲームを撮影される。子供とやっていて、子供が柳澤さんのカメラに先に気づくと、柳沢さんは負けであって、その逆だと柳沢特派員が勝ちと言うことになる。子供を取ろうと猫を取ろうと表現の自由は憲法で保障されているから、私がうんぬんする範囲ではないけれども、子供の写真にはわからないことが多い。それでこのワンショットは、エプソンの写真集の中に掲載されている。モラヴィアの古い街で撮影された雪の日の朝の広場を行く子供たちのスナップショットである。ちょうどエプソンに50ミリのレンズが付いていたので、ちょっと長めの70ミリと言う感じになる。それを持っていたらこういう子供たちが展開したので、これは写真集では一般受けする写真ではないか。自分は嫌いだけどと言う葛藤の中で撮影をしてこういうことになった。写真の世界で初めての文化勲章。受賞者の代写真家も、こんにちは。世界の子供たちで文化勲章を取った。芥川龍之介が世の中に受けようとしたら、女と子供と動物をとれば良いと皮肉な口調で書いている。2025/06/17 07:20:14242.名無CCDさん@画素いっぱいeeYspこのルネッサンス時代の古い街を私に教えてくれたのは、数年前、コロナで昇天してしまった私の友人のジャーナリストである。オーストリアとチェコの国境にかなり近いところにあるにもかかわらず、1989年にユネスコの人類文化遺産に指定されるまで、西側には、このクラシックな街の存在はほとんど知られていなかった。社会主義国当時のチェコは、国境にあまりに近いので、危険であると言うような目論見から、この街のインフォメーションを控えていたと言うのは、友人のジャーナリストの話であるが、多分それが事実なのであろう。古い街が残っていると言っても、街の中心部の広場とその周辺だけで、それ以外は社会主義国だった頃のごく普通なちょっと退屈なカントリーの街並みなのである。それがいきなり街のゲートをくぐって、広場の中に入ると、時代が数百年戻ると言う感覚がすごかった。それで社会主義国の頃は、時代劇の撮影にこの広場がよく使われたそうである。そう言われると、何か日光江戸村のような感じがして安っぽく感じられるけどね。広場には3世紀以上前から営業している小さなホテルがあって、そこに初めて宿泊したときには日本からのお客様は初めてですと言われた。そのすぐ左側に町の役場がある。その隣が小さな小さな旅行代理店で、そこのウインドウには、今こそパッケージツアーでNYマンハッタンに行こうと言う広告が出ている。こんな歴史的な素晴らしい街に住んでいても、やはりここの人はこの街ができる。ずっと後に作られた移民の退屈なニューヨークに行きたいのかと思うと、人間の旅をする欲望の複雑怪奇さを感じざるを得ない。珍しく雪が降った日の朝にホテルの窓を開けて撮影したワンショットである。こうしてみると、実際の感じより下広場ははるかに広いと言うこともわかる。2025/06/20 05:23:54243.名無CCDさん@画素いっぱいQPRHLもうカメラ持って街歩きするのはオッサンじゃなくて女の人でさえ不審者認定されて通報される時代首からデカいカメラぶら下げて歩く爺さんは危険以外なんでも無い2025/06/20 10:59:16244.名無CCDさん@画素いっぱいSnwy1リスボンのクラシックな路面電車は、下がイエローで上がホワイトと言う組み合わせになっていて、これがリスボンの青い空と非常にコントラストを示していると思う。電車の運行に関しては、どうも行き当たりばったりの自由運行と言う感じがするのがまた面白い。結構長い路線を運転しているところもあるけれど、電車の接近インフォメーションなど何もないから、お客はただただ電車を待つと言うことが人生の目的になってしまうと言うことだ。あるいは長く人生で路面電車を待った。鳥は今度は4台もごだいもだんご状態になってやってくるというのがリスボンの路面電車の個性と言うものである。1990年代にビームヴェンダースがリスボン物語と言う映画を作ったので、あれでドイツ人がかなり影響を受けたのか、電車の中で乗客の話すことを聞いていると、まるでドイツの路面電車になったのでは?と思うこともしきりである。Α間の上のほうの道からさらにゆるゆる坂を上って、修道院のほうに行く道の角にカフェエレクトリ子と言う文字通り電車お茶屋があって、そこが40年代の私がよく行くお店なのであるが、そこが何が凄いかと言うと、半分地下になっている。カフェの椅子から見ているとあっちからやってくる。路面電車はまっすぐ人まるでカフェに突入してくるような勢いなのである。その突入の寸前に、路面電車はほんのわずかに進路を左に振って、電車カフェの右脇の急な坂を上のほうに登っていくのであるが、このワクワクするような感覚というのがなかなか素敵である。電車のお茶屋の様子を書きから見ると、このようになっていて、突入寸前に、ほんのわずか左に電車が回るというのがこの画像でよくわかると思う。大昔はポルトガル語しか通じないお店であったのだが、30年ほど前にリスボンでエキスポがあって、それを機会に国際都市になろうと言う意識があったようで、今ではこのカフェにはちゃんと英文のメニューすら置いてある。2025/06/22 05:24:08245.名無CCDさん@画素いっぱいmhHgvリスボンというか、ポルトガルを旅行していて、1番心に残るのはいわゆるタイルの装飾である。ポルトガル語で書こうと思ったら、うまく音声変換ができないので、日本語のタイルと言うので進めようと思う。町歩きの楽しみというのはいろいろあると思うけど、リスボン歩くとしたら、まず装飾タイルを見て歩くのに限る。ありとあらゆるカフェとか商店とかそういうところでタイルの装飾を極めて上手に使っている。私が何十年も宿泊しているリスボンの1番中心部にある。リスボンで1番有名なカフェの4階から上にあるペンションであるが、ここはエレベーターは当然ないから最近登るのがかなりしんどくなってきた。それでもこのペンションに泊まるのは、建物の裏側にある用品店のエントランスが白鷺が泳いでいるのと歩いている。そういうイラストなのであるが、それが白地に色のコントラストの非常に日本的な感じのタイルの柄なのである。何かそこだけが日本美学が提出しているような感じがして、建物右の上のほうにあるペンションはめんどくさいけれども、あの白鷺の白地に青の絵が見たいと言う欲望からそのペンションに止まったりするわけだ。2025/06/25 13:11:18246.名無CCDさん@画素いっぱい7ZbXqポルトガルの大航海時代のおかげで、ポルトガルは世界で最も裕福な国の1つになった。彼らの時代は大航海と言う侵略と文化を伝えることで、世界に君臨してきたのだ。その内航海の途中に食べる船の中の食品と言うのは、やはり塩漬けのキャラを戻して、じゃがいもと調理したものとか、そういう食文化が成長してきたのだろう。私もリスボンで安いレストランで空を煮たやつを食べると、なんとなく大航海時代の味覚に少し接近しているような気がして懐かしい。もっとも、今のポルトガルはタラと言うのは基本体であるから、国内だけではもちろん足りなくて、英国あたりからかなり輸入しているそうだ。年末の買い物と言うと、リスボンの人々は巨大なタラの塩まみれの魚に殺到するのである。ところで、いつも思うのであるが、大航海時代の侵略者としての彼ら船乗りのスタッフが故郷リスボンを旅の途中にどのように思い出して懐かしんでいたのかと言うことが気になるのである。サウダーデと言う言葉は、我々にはなかなか理解できないところだが、ポルトガルは海に向かっていて海に突出していて、夜になると日が暮れて、わずかな陸地の目の前は大海原である。リスボンと言うのは夜になると、太平洋の中に1つぽつんと取り残された島みたいな存在だ。それ故、大航海時代の船乗りが思い出していた故郷リスボンの風景と言うのは夕暮れのこんな感じなのではなかったかと思う。そして重要なのは丘があって、谷があってまた伺って痛みがあると言うことだね。2025/06/27 05:40:34247.名無CCDさん@画素いっぱい0qqmk1970年代にウィーンで撮った親子の写真だけど、こういうのはよく売れるんだよ。母と息子の愛情が感じられるとか、そういうごく当たり前で、ノーマルな感情を刺激する写真と言うのは売れやすい。エドワードスタイケンが構成されたファミリーオブマンと言うのはくだらない写真展だけど、これが世界中で人気になったこともあった。そういうレベルなのである。それと猫の写真と言うのもよく売れます。十数年来写真展を定期的にやっているギャラリーバウハウスであるけれども、ギャラリーオーナーも全く売れる写真と言うのは見当がつかないと言っているが、これは真実だ。数年前のギャラリーバウハウスの個展で、ザルツブルグの路地裏かどっかで撮った窓から猫が外を見ている写真がかわいい猫たちの写真なので、これは売れないだろうと思っていたら、よく売れるのです。良い写真と売れる写真の違いと言うのを今更ここで説明する必要もないけれども、例えて言うならこういう話もある。浅草の早田カメラで親父さんが絶対売りたくないレンズをとびきり高い値段につけていたら、それが売れちゃって親父さん、がっかりしていた。2025/06/29 06:05:43248.名無CCDさん@画素いっぱいNwdonリスボンの路面電車の黄色と白のコントラストは私が考えている。代表的なリスボンの基本的色彩と言うやつだ。運転手さんは立ったまま運転するのである。大昔の東京の路面電車と同じだな。それでリスボンの路面電車の運転代のハンドルの根元を見たら、そこには1809中ロンドンとエングレービングされているのでかなりびっくりした。今なら電気の方面はかなり改良されて、効率が良くなっているわけであるが、19世紀終わりのコントローラーを使っているというのがすごい。ーそれで私は今までこの黄色い電車そのものがロンドンで作られたものだと勘違いしていたのであるが、冷静に考えてみればそんな事はなくて、電車本体はポルトガル製と言う可能性も十分にあり得る。100数十年もメンテナンスをちゃんとやっていると言う事は凄いことだと思うが、その他の理由としてこれを観光目的として長く使うと言う事は当局はあまり考えていないのではないかと思う思われる。数年前にガラクタ屋さんの企画で都電荒川線に乗って、あっちこっち移動して撮影すると言うので、荒川線を貸し切りにしたことがある。その時、荒川線の車庫に見学に行って、そこに19世紀的なクラシックな電車が止まっているので、こんな古いのをまだ使っているのかと感心したら、そうではなくて、ごく最近にそういうクラシックなウケを狙うために新しい車両なのであったそうだ。要するに、クラシックなスタイルの路面電車等は、いつの時代でも簡単にできると言うことらしいが、リスボンの自然に関しては、そういうのは何かインチキくさいから、私としては1890年代の車両が今でもゴトゴト走っていると信じたいのである。これはリスボンの下町と高台を結ぶケーブルカーだけど、電車の色が普通の路面電車と同じと言うところが、逆にプロフェッショナルっぽくてなかなかよろしい。2025/07/01 08:17:40249.名無CCDさん@画素いっぱいCQPZxいいね2025/07/02 13:57:58250.名無CCDさん@画素いっぱいuhJ6Cクラウドファンディングの皆様のサポートで、田中長徳写真集アンソロジーが出版できた。感謝。モノクロネガのほとんどを1年前に捨ててしまったので、困っていたら、偶然友人が私が捨てたネガフィルムを持っていた。写真集フロムロシアウィズライカで使ったネガフィルムである。アメリカの印刷関係の団体のモノクロ写真集のプライスを受賞している写真集だ。アコーディオンを手にしている少年は、今では40近い。立派な大人である事は確かだ。写真の時間軸と言うのは未来に向けて伸びた現在と撮影したときの時間を重ね合わせることでさらに意味が増す。2025/07/03 13:46:47251.名無CCDさん@画素いっぱい6FHzXインスタやらんのか?2025/07/11 11:45:09252.名無CCDさん@画素いっぱい91tVi21ミリのライカのFinderはこのファーストモデルに限る。このFinderをつけて、世界中を21ミリレンズで撮影したのだが、世界のどこかに今まで4個の同じこのファインダーを落としてなくしてた。鵠沼のブレッソンと言うアーティストが私の仕事を、ポールで制作して、その柱には代表作が表示されているのだが、当店ポールのトップにはこのファインダーのミニチュア化されたのがポンと置いてあって、その地面に当たるところは正確に4つに区切られていて、ニューヨークと、パリと、プラハと、リスボンの石畳が正確に再現されている。世界中の都市の石田熱海のパターンをどのようにしたのかと鵠沼のブレッソンアーティストに聞いたら、私の写真集に写っている。その4つの年の石畳のパターンから起こしたのだと言う。すごいなぁ。それ以来、ファインダーをライカにつけなければ落とさないのでノーファインダーで使うようになった。2011年のマンハッタンで34丁目のカメラ屋さんにすごく汚いこのファインダーがあって、250ドルだったので気に入って手に入れたが使わないので、友人にあげてしまった。そしたら昨夜ネットオークションでこのファインダーが登場して、バーゲンハンターで5000円で手に入れたのである。多分使わないと思うけどね。2025/08/01 10:53:49253.名無CCDさん@画素いっぱいp6xVU東京駅の新幹線の非常に混雑しているときのワンショットである。その混雑しているホームの上で、1人の青年が別の方向を見ていると言うのが何か非常にシャッターチャンスだと思って撮影したのである。新幹線をテーマにすることは、安上がりな写真家精神であるから、私はそれを嫌っているのだ。やはり1960年代後半に新幹線がまだできて、それほど時間が経っていなかったから、東京駅の新幹線ホームを撮影したことがあった。それで新幹線のホームでお母さんが小さな子供にホームの上から線路に向かっておしっこをさせていると言うショットを撮影したのである。それは平凡者が出している。国際写真アニュアルに掲載されたのだった。そしたらすぐにドイツも有名なグラフ雑誌シュテルンからその写真を貸してくれと言うリクエストがあったのだ。そして新幹線東京駅でおしっこの写真はドイツのメジャー雑誌に掲載されたのである。当時の原稿料が25,000円位であったから、私はびっくりしてしまった。私の日本デザインセンターの初任給が35,000円であるから、これはフリーランスで食えるのではないかと言う感違いがそこに起こったのだ。それで日本デザインセンターで3年間だけ会社員をやっていたが、それから後の50年はずっとフリーランスになってしまった。フリーランスという言葉を日本語に翻訳すると、食ったり食えなかったりする自称写真家と言う意味である。カメラはライカM2 レンズはニッコール2.1センチ2025/08/17 05:44:38254.名無CCDさん@画素いっぱい1eB6hフィルム巻き揚げの世界観について大昔のカメラメーカーのキャノンは、フィルムマキ揚げの方式についてのかなり哲学的な考察があった。レンジファインダーシステムのカメラにしても、初期の一眼レフにしても、ライカM3のようなトップカバーではなくて、カメラのボトムについているトリガーレバーの方が優秀であると言う認識だった。それでレンジファインダー時代には、トップレバーとトリガーレバーがフィルム巻き上げ戦争を展開した。キャノンがカメラメーカーとして失敗だったのは、レンジファインダーの最終モデルでは、ラピッドワインダーをアクセサリーとして用意しないで、最初からカメラの1部としてしまったことだ。これが取り外し可能なアクセサリーの1部なら、今のライカビットMPのように結構な付加価値がついてくるから、インベストメントの対象となって、買い漁る人も出てくるのである。2025/09/11 03:49:28255.名無CCDさん@画素いっぱい5R5txいいね2025/09/14 12:31:23256.名無CCDさん@画素いっぱいHYVx0ワロタ2025/09/15 02:55:38257.名無CCDさん@画素いっぱいmfpD6https://i.imgur.com/PO4YLcE.jpeg2025/09/15 11:58:42258.名無CCDさん@画素いっぱい0dTfZウォーカーエバンスのブラックコンタックスウォーカーエバンスはストレートフォトグラフィーの巨匠であって、自分の使うカメラにはこだわらないと言う先入観があった。ところが全くそうではなくて、我々と同じカメラ好きなカメラ人類であることがわかったのは、数年前にライカオークションに出品された手塗りのコンタックスである。1936年に自分でペイントしたもののようで、それは有名なニューヨークの地下鉄シリーズの人物のスナップショットに使われた。彼の日記を見ていると、自分でコンタックスをブラックにペイントしたと言う下りは無いけれども、撮影で9フィートと10フィートにピントを合わせるのに苦労したと言う件は、まさしくマンハッタンのメトロを撮影しているときの向かいの座席に座っている人の撮影距離なのである。ウォーカーエヴァンスのハンドメイドのブラックコンタックスは既にペイントが全部剥がれ落ちてしまっている。今の時代ならこういうちゃんとしたりペイントもあるからそういうのを大写真家に使ってもらいたかった。2025/09/18 07:41:43259.名無CCDさん@画素いっぱいZNm9r尊敬する写真家の高梨さんがいつも使っていた。腕時計がオメガのスピードマスターである。それで最初はオメガに憧れたのだが、そのうちにロレックスのブームが来たので、私はそちらのほうに乗り換えた。GMTである。2025/09/19 08:57:11260.名無CCDさん@画素いっぱいeOJWAフェルメールと一緒に暮らす日本では10年にいっぺんぐらいフェルメールが商売にやってくるのが私には不愉快である。20年位前だと思うけれど、大手の出版社の偉い人が大阪までフェルメールを見に行ったときの話がすごい。飛行機で大阪まで行って慌てて会場に駆け込んだら人の頭しか見えなかったと言う自慢話なのである。モナリザを見るのに何時間待ったとか、パンダを見るのに何時間待ったと言うような苦労の地盤話は話している方は自慢なのであろうが、効いている方はすごいストレスになる。フェルメールの仕事を訪ねて、ヨーロッパの南の方から北のほうまで美術館を取材で巡ったことがあったが、これは面白い体験だった。1番近くで見られる。フェルメールと言えば、私の場合はウィンディー長く暮らしていたから、ウィンド美術館のフェルメールの木の絵画が1番身近である。フェルメールの木の粥川中心のギャラリーからちょっと外れた。狭い部屋にあるので、ツーリストの人はまず気がつかない。それでふかふかのベンチがあるから、win暮らしの時は今日は暇でやることがないから、フェルメールでも見に行くかと言うことになって、1日中フェルメールの前にいるのは退屈だから、せいぜい2時間ぐらいなものである。言い換えれば、フェルメールは私の所有物である。年間のミュージアムのパスを持っているから、行きたい時に行ってフェルメールを自分の目で鑑賞すると言うのはなかなかヨーロッパは文化的である。日本のフェルメールは何しろ金儲けの商売で来るわけだからね。。2025/09/20 16:53:35261.名無CCDさん@画素いっぱいWg5tZ東ベルリンを撮影した隠しカメラアメリカシカゴの映画、撮影機メーカー、ベル&ハウエルは、世界で最も有名なメーカーの1つであった。日本のテレビジョン放送が初期の頃はそこで使われたSpring Day手巻きで取る小型軽量なベル&ハウエルのフェルモと言う16ミリ撮影機が報道関係で最も使われていたのである。2025/09/22 01:37:50263.名無CCDさん@画素いっぱいJbdbLプラハの大きな手ビロード革命が終わってから、プラハの街の路面電車はラッピング広告がほとんどになってしまった。ところがそれから15年ぐらい経過すると、路面電車のラッピング広告が減少してきた。2025/09/25 09:22:16264.名無CCDさん@画素いっぱいEzIsPワイン、酒場のランタンに惹かれる、私ウィーンと言う街はやはりワインの街だと思う。英文綴りで真ん中の文字を入れ替えるとウィーンもワインも同じ文字の構成になるから、そこら辺を面白がっている私である。2025/09/26 04:42:26265.名無CCDさん@画素いっぱいc1wCJ月の裏側みたいな感じのライカファインダーが付いていない。ライカと言うものが大昔から一定の需要があったものと見える。顕微鏡撮影とかそういう科学的デバイスで使うときにはレンジファインダーは入らないわけだ。2025/09/28 03:42:43266.名無CCDさん@画素いっぱい7TQht谷口雅がFacebookをやっていると言うので、アクセスして友達申請をした。それで友達になるのには何ヶ月もかかった。谷口のフォローしている人の数、は100数十人であるから、少数精鋭主義なのである。しかも誰が友人であるかと言うことを明確にしていないのは、ちょっと秘密主義で私などは批判しているのである。そんな狭い人間関係だなどと批判する人はいるはずもない。2025/10/03 10:08:45267.名無CCDさん@画素いっぱいikgr9瓶フレックスがロープロファイル戦後になって、フランスのエクレールから登場したドキュメンタリー撮影に特化した16ミリと35ミリのフォーマットが瞬時に切り替えられるマルチフォーマットのユニバーサルな撮影機がこのカメラであった。2025/10/07 06:25:10268.名無CCDさん@画素いっぱいZznN7菊正宗の看板佃島に暮らし始めた。1990年頃であるが、行きつけの飲み屋というのがあって、かなり大きなお店であったが、清澄通りに面した東側にあった。その店で私が惹かれたのはこれと同じ巨大な看板なのである。2025/10/09 06:43:32269.名無CCDさん@画素いっぱいbksd2キエフカメラで慎重にピントを合わすウィーンに暮らし始めて直後の事だから私が26で家人が28位のときの話。カメラ屋さんで半信半疑で買ってきた。ソ連製のコンタックスが実際にはかなり使えるカメラであると言うことをした直後のことである。2025/10/10 06:47:04270.名無CCDさん@画素いっぱいq9CnKブラックロードにカスタムメイドのケース鵠沼のブレッソンと言う人は、私のフォトコンテストに応募して結構いい成績を上げた人である。鵠沼に住んでいて、スナップがうまいので、鵠沼のブレッソンと命名した。2025/10/11 06:11:40271.名無CCDさん@画素いっぱいq9CnKこういう現代建築が大嫌い最近の現代建築で嫌いなのが、これは私が世界中の建築を見てきた。反動からそのように感じるのはわかっているが、柱がまっすぐしてないとか、垂直が破壊されているのが大嫌い。2025/10/11 12:56:52272.名無CCDさん@画素いっぱいVJLNFiPhoneを持っている人と持っていない人ウィーンのいつも歩いている通りの小さな劇場の脇に立っている女性の銅像である。どういう功績で銅像になったのかは知らないけど、本人にとっては迷惑なことであろう。2025/10/13 09:04:57273.名無CCDさん@画素いっぱいmyOTIオペルの広告が、存在感を増す理由ウィーンの北部にあるハイリゲンシュタットと言う村は、ベートーベンの衣装で有名であるが、私が暮らしていた50年前は赤い電車の北の終点であった。要するに、完全なカントリーなのである。2025/10/17 09:44:29274.名無CCDさん@画素いっぱいmyOTIオペルの広告が、存在感を増す理由ウィーンの北部にあるハイリゲンシュタットと言う村は、ベートーベンの衣装で有名であるが、私が暮らしていた50年前は赤い電車の北の終点であった。要するに、完全なカントリーなのである。2025/10/17 09:44:40275.名無CCDさん@画素いっぱいHEgvk銀座ミキモトのラッピングビル東京を本格的に撮影を開始したのは、1968年だから大学の3年生だった。日大闘争変わっていくか歴代の写真可愛く見え呆れているものだったので、私は日大以外のところの尊敬する写真家のところに行って写真を見てもらったりしたのである。これが私にとってはその後のチャンスにつながったのであった。2025/10/20 07:38:44276.名無CCDさん@画素いっぱいumZU4宝物のコンポートグラスウィーンに到着して友人に教えてもらった古道具屋さんというのがすごかった。ウィーンの中心部にあるアンティークのお店がそこに買い出しに来るのである。友人に教えてもらったのは、単純な理由でお年寄りがなくなるとそれまで使っていた。なかなか価値のあるものが丸ごとどっさりそのお店に出るからだと言う。Makofskiと言う名前のお店だったな。2025/10/25 12:21:03277.名無CCDさん@画素いっぱいHDnYcベトナムで最も有名な歴史遺産ディエンビエンフーベトナムと言う国は、長年にわたってフランスに占領されていたが、1950年代のディエンビエンフーの戦いで、徹底的にフランスに対してベトナムが有利になった。2025/10/31 10:44:07278.名無CCDさん@画素いっぱいhNKt61967年だったかな?東京カテドラルでの吉田茂の葬儀吉田茂は好きでも嫌いでもないが、吉田健一は大好きである。吉田茂は会った事はないが、内田100件が多い。そのお宅にお邪魔してかしこまっている写真が残っている。2025/11/02 10:09:50
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっている
Facebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている
プラハの日本大使館の並びにあるこの建物はモダンアートギャラリー、その左手のエントランスなかなか気のなって。それで20年近くよくここに通ったものであった。
ビロード革命から3十数年経過しているが、ビロード革命前にはもちろん、こういうワインバー等はなかった。あの当時は、街中でワインをいっぱい飲もうと言うのも、まさに命がけの行為だった。プラハで50年過ごしていると、革命前と後でのその違いがくっきりとコントラストになるのである。
このモダンアートギャラリーのお店のタイトルと言うのは、1950年代の終わりの日本の若手写真家のムーブメントの名称と同じですよね。右のグループで長身のヒゲの男でこっちを向いているのが私の古い古いプラハの友人で、未来の頃からのお付き合いなのだ。
この1つは、ずいぶん大量のワインを飲んだ素晴らしい思い出が残っている。3年ほど前にコロナで、昇天したのである。その当時の話は文芸雑誌新潮に掲載した。タイトルは
プラハのP コロナに死す
もう存在しない朝日カメラと言う雑誌の取材でパリに行った時、ライカのファーストモデルすなわちレンズ交換ができなくて距離計のついていないモデルで撮影をした。その時思ったのはライカにレンジファインダーは要らないと言う真実だった。
その時のファーストモデルのライカは普通のブラックモデルであったが、最近気に入っているのがゴールド仕上げの同じモデルである。ゴールド仕上げが良いと言うのではなくて、リザードスキンがカバーしているので、ライカのグリップ性が抜群に良くなるのだ。
今ではワシントン条約で禁止されているらしいが、これが作られた1930年には問題はなかった。
1975年に東ベルリンでソ連製のパノラマカメラを買って、そのままヨーロッパを旅行してパノラマ写真を積み重ねた。3年前に出した私のパノラマ写真集は主にその時に撮影したものである。
1980年にザルツブルグカレッジでワークショップをやっていた時に、カレッジはザルツブルグのお城の1部にあって、そこに宿泊していたので、夜はダークルームを誰も使う人がいないので、パノラマ写真を数百枚プリントした。3年前に出版したパノラマ写真集はその時にプリントしたものである。
ヨーロッパをあちこちパノラマカメラで撮影して、どこが最もパノラマ的な風景かというと、やはりパリのメトロを上げるのが1番正しいと思う。空間構造の作り方が最初からパノラマカメラで撮るために作られたと言っても良いような構造なのである。
メッサーシュミットはかなりマニアックな存在であって、これを撮影したのは1960年代であるが、実際に乗用車として走らせていたのであろう。今では伝説的な文物と言うことになっていて、町中で走っていない。メッサーシュミットどこかで見たと言うだけで、それがあっという間にニュースバリューになってしまう。
メッサーシュミットに似た車でブランドは忘れてしまったが、私がプラハに帰るようになった当初はよく似た車がプラハの路地を曲がっていくのを目撃したこともある。この種類のミニカーは非常に個性的なものであって、その感覚は日本人が持っている軽乗用車と言うのは、スバルにしてもそうだけど、将来デラックスな車に乗ってやると言うようなポジティブな意思が感じられる。
それに対して、ヨーロッパ人が感覚として持っているミニカーの存在感は、上昇思考感覚ではなく、引きこもり感覚なのである。ビームヴェンダースのリスボン物語で面白かったのは失踪した映画監督をサウンドマンが、ポルトガルのリスボンまで探しに行って、映画監督を発見したのは、町外れのゴミ捨て場に捨てられているBMWのミニカーイセッタの中と言うのもシナリオとしては非常に効いていると思う。例のフロントがドアになってそこから乗るやつだ。
オーストリアとかハンガリーとかあそこら辺はどうも写真家のベースメントとしては、まずいところであって、地元の写真家で国内で有名になると言う事はほとんどありえない。ハンガリーならロバートキャパもアンドレ・ケルテスも外国に行って活躍したわけだし、エルンスト・ハースも同じである。
エレンストハーストは1度だけ彼の展覧会が東京のギャラリーであったときに話をする機会があった。英語ではなくてドイツ語で会話をしたのである。それで打ち解けたエルンスト・ハースは私に対して自分はカラーのフォトグラファーだと言われているけど、モノクロームも真面目な仕事をやっているんだ。
君はウィーンに住んでいるそうだが、僕の第二次大戦直後のオーストリアの帰国した兵士のドキュメンタリーを見たことがあるかね?
私は幸いなことに、ヨーロッパの芸術雑誌でモノクロームで撮影されたローライフレックスの仕事と思われる1連の優れたドキュメンタリーを見ていたので、その話をしたら写真家は非常に喜んでくれた。これがエルンスト・ハースの一期一会なのである。
割と最近知った話で有名写真家のバックグラウンドのストーリーを紹介すると言うのがあって、その中で面白かったのはエルンスト・ハースは20代で写真家になろうとしたが、その転換点は20代半ばで10キログラムのマーガリンを中古のローライフレックスと交換したと言うのである。
時代から考えると、オーストリアウィーンは経済統制の時代だったから、何かそこに闇取引っぽいやりとりを感じて、それが私は好きになった。すなわち第三の男のペニシリンの売買みたいなものである。それでこの写真家をまた尊敬する気持ちになった。
私が見ていた兵士のドキュメンタリーと言うのは10キログラムの重さのマーガリンであったわけだ。
世界中をいろいろ旅行して、素晴らしい眺めの風景と言うのはいろいろ接したことがあるが、逆にホテルの窓の目の前が反対側の建物の壁面であったりするのもなかなか興味がある。
そういうので面白いのはパリのアパートメントなどが1番典型的な例であると思う。パリのアパートメントの面白いのは我々が宿泊している。安ホテルと同じように部屋のサイズはかなり小さくて、しかも通の幅がないから例えばホテルの狭い窓から、反対側の通りの同じ高さの窓を見ると、そこに人の生活がなんとなく見えるということがある。
我々日本人の感覚からすると、それがプライバシーだ。なんだかんだと言うので、自分のプライバシーを隠そうと言う方向に行くようであるが、パリジャンの生活のスタイルと言うのはどうも違っている感じで、カフェに座って自分を探しながら通行人を見ていると、同じような感じで部屋でくつろぎながら、反対側の窓からこちらをチラリと見ている外国人に対しても、それなりの寛容を示しているようなところがある。
そこら辺がパリで生活することの理みたいなことを考えている私であるが、これはもちろん私の頭の中で醸造された考えにしか過ぎない。本当はどうなんだろう?
高田の馬場の鈴木安兵衛商店が、まだ前の世代の社長であった頃に確か10,000数千円で買った。私も初任給が35,000円だから大変高いカメラであった。レンズは5センチの船が付いていて、当時はライカマウントの交換レンズも非常に高価であったから、これにはそのレンズをつけたままずっと使っていた。
それ以前の私は21ミリと35ミリのレンズをスナップショット日本語に使っていたので、50ミリは使ったことがなかった。その理由は単純であって、アンリカルティエブレッソンとか木村伊兵衛が使っている。つまらないレンズと言う認識であったのだ。
ところが使ってみるとなかなか面白い。その当時の私がまだファインダーを覗いて、写真を撮る時代の人間であったので、1対1の比率のブライトフレームは使いやすいと思った。1969年8月に銀座のニコンサロンで開いた私の最初の古典の東京をテーマにした写真であるが、その時展示した全部の点数の3分の1位はこのカメラで撮影したと思う。でもレンズはニコンのニッコールだから問題ないね。
何十年も使っているうちに巻き戻しの具合がこんな感じで子子間なってしまった。それでも使っていたら、今度は巻き戻しのこのパーツがそのままどっかに行ってしまった。
それでも頭の黒い犬のようなデザインは、何かフランス人が設計したのではないかと言うような気が今でもしているのである。
リスボンに到着した多くのツーリストが見るものは、まず中央の広場であり、それからまっすぐに南に結んでいるアウグスタ通りであり、さらにそこにそびえる凱旋門みたいな味であり、さらに港に通じる広場である。
ポルトガルの偉大な文学者、フェルナンドペソは、1910年代に世界に知られていない世界のどこにあるのかわからないようなポルトガルのリスボンをもっと紹介しようと言うことで、自費出版でポルトガルのガイドブックを作った。
それが日本でも最初に翻訳されたフェルナンドペソの著作であると言うことが私には非常に興味がある。私はカメラの本をたくさん書いてきたが、写真論も書いている。それで世の中に受け入れられるのは写真論ではなくて、実はカメラのガイドブックであったというのが、フェルナンドペソアのリスボンのガイドブックと重なってくるのだ。
それでこのカメラに憧れたのだが、とにかく値段がニコンエフと同じ位で手が出なかった。それから何十年も経過してようやく使えるようになった。
ペリクルミラーが付いているにもかかわらず、シャッターの音がミラー一眼レフと同じ位でかいと言うのはへんてこりんなカメラだった。
何故か私はこのカメラを小岩駅前のカメラ屋さんで何台か買ったのである。1960年代に80,000円位したカメラが私が手に入れた時はレンズ付きで25,000円位だったので、何台も手元にペリックスが集合した。
ハーフミラーを利用したムービーカメラと言うのはスイスのボレックスを始め結構たくさんあった。ミラーを動かすと言う一眼レフの故障が少ないので、Finderは暗くなるけど頑丈なのである。
このカメラは今ではネットオークションで本体が1000円位で売っているので、絶対お勧めのカメラだと思う。
今後のコミュニケーション手段と言うのは、鳥さんが大昔からやっている最も基本的なコミュニケーション手段であると思うが、それを見ていて思い出すのは、最近のパソコンやらiPhoneやらiPadの我々のコミュニケーションの伝達方式である。
キーボードにタッチすることを繰り返すことで、それがで文字構成ができて、それがコミュニケーション手段になっていると言うのは、タイプライター以来の人類の発明だと思うけど、鳥さんの場合それを何十10000年も前からやっていると言うのは凄いことだと思う。
他の種類の動物でもこのこんこんちきの意思伝達機能はあると思うけれども、鳥さんの場合はくちばしだから、信号の伝達がシャープで、しかも早いから、人間などよりもかなり複雑なコミニケーションをお互いにやりとりしているのではないかと考えているのだ。
もともとコマーシャルムービーが嫌いなので、私が見ているというか、高く評価するのはインディペンデントムービーいわゆるアンダーグラウンドムービーである。劇映画の本編で私が唯一認めるのはエイゼンシュテイン位なものであるから、かなり世の中からはずれている。
それでもAmalia RodriguesのCDのセットはリスボンに入るときに買ってきてそれから長らく聞いてもう30年ぐらいになる。リスボンによく言っている割には日本人ツーリストが必ず行く。ファドの店にも行ったことがない。観光関係の写真なんかを何十年も取っていると、ツーリストスポットに仕事に行くというのが通常の状態だから、ツーリストストップ楽しもうと考える認識は最初から欠如しているのである。
ただし、私はブリティッシュバーには40年代の客である。といっても、1年から数年にいっぺんしか来ないから、常連客と言うわけでもない。この有名な婆が残念なのは日曜日が休みと言うことだ。にもかかわらず、私はそれに気がつかないで、バーの前まで行って踵を返すのである。
ガラス館版のスチーマーをテーマにした素敵な看板は、30年位前まではガラスが真っ二つに割れてそのまま落ちるのではないかと心配していたが、その後完全に修復されて、会の幹事もオリジナルそのままになっているので、ひとまず安心である。
仕事の関係で、世界中の高級なところから大衆酒場までいろいろ取材をして歩いたが、この船の看板に肩を並べることのできるバーのエントランスのシンボルと言うのは、私は他に知らない。
そこら辺の事情が私にはわからないから、いわゆる雑誌のアサインメントで子供を取るのはこれはデューティーだから仕方がないけど、自分の作品で子供が登場すると言うのはごくわずかである。それは子供がかわいいとか言うのではなくて、子供の存在が奇妙であると言う瞬間に撮影するのだ。
一例を挙げると、私のモノクロ写真集500ページのウィーン1970年代の表紙の反対側の画像がウィーンで撮影した男の子2人の存在感が奇妙な変な写真なのである。私にとって子供と言うのはそういう存在なのだ。
朝日新聞の下ジュネーブ支局長の柳沢さんは不思議なキャラクターであって、子供の写真を撮るのが好きなのだ。報道関係者としてはこれは重要なキャラクターなのであろうか?さらに柳沢さんは不思議なゲームを撮影される。子供とやっていて、子供が柳澤さんのカメラに先に気づくと、柳沢さんは負けであって、その逆だと柳沢特派員が勝ちと言うことになる。
子供を取ろうと猫を取ろうと表現の自由は憲法で保障されているから、私がうんぬんする範囲ではないけれども、子供の写真にはわからないことが多い。それでこのワンショットは、エプソンの写真集の中に掲載されている。モラヴィアの古い街で撮影された雪の日の朝の広場を行く子供たちのスナップショットである。
ちょうどエプソンに50ミリのレンズが付いていたので、ちょっと長めの70ミリと言う感じになる。それを持っていたらこういう子供たちが展開したので、これは写真集では一般受けする写真ではないか。自分は嫌いだけどと言う葛藤の中で撮影をしてこういうことになった。
写真の世界で初めての文化勲章。受賞者の代写真家も、こんにちは。世界の子供たちで文化勲章を取った。芥川龍之介が世の中に受けようとしたら、女と子供と動物をとれば良いと皮肉な口調で書いている。
オーストリアとチェコの国境にかなり近いところにあるにもかかわらず、1989年にユネスコの人類文化遺産に指定されるまで、西側には、このクラシックな街の存在はほとんど知られていなかった。
社会主義国当時のチェコは、国境にあまりに近いので、危険であると言うような目論見から、この街のインフォメーションを控えていたと言うのは、友人のジャーナリストの話であるが、多分それが事実なのであろう。
古い街が残っていると言っても、街の中心部の広場とその周辺だけで、それ以外は社会主義国だった頃のごく普通なちょっと退屈なカントリーの街並みなのである。それがいきなり街のゲートをくぐって、広場の中に入ると、時代が数百年戻ると言う感覚がすごかった。
それで社会主義国の頃は、時代劇の撮影にこの広場がよく使われたそうである。そう言われると、何か日光江戸村のような感じがして安っぽく感じられるけどね。
広場には3世紀以上前から営業している小さなホテルがあって、そこに初めて宿泊したときには日本からのお客様は初めてですと言われた。そのすぐ左側に町の役場がある。その隣が小さな小さな旅行代理店で、そこのウインドウには、今こそパッケージツアーでNYマンハッタンに行こうと言う広告が出ている。
こんな歴史的な素晴らしい街に住んでいても、やはりここの人はこの街ができる。ずっと後に作られた移民の退屈なニューヨークに行きたいのかと思うと、人間の旅をする欲望の複雑怪奇さを感じざるを得ない。
珍しく雪が降った日の朝にホテルの窓を開けて撮影したワンショットである。こうしてみると、実際の感じより下広場ははるかに広いと言うこともわかる。
首からデカいカメラぶら下げて歩く爺さんは危険以外なんでも無い
電車の運行に関しては、どうも行き当たりばったりの自由運行と言う感じがするのがまた面白い。結構長い路線を運転しているところもあるけれど、電車の接近インフォメーションなど何もないから、お客はただただ電車を待つと言うことが人生の目的になってしまうと言うことだ。
あるいは長く人生で路面電車を待った。鳥は今度は4台もごだいもだんご状態になってやってくるというのがリスボンの路面電車の個性と言うものである。1990年代にビームヴェンダースがリスボン物語と言う映画を作ったので、あれでドイツ人がかなり影響を受けたのか、電車の中で乗客の話すことを聞いていると、まるでドイツの路面電車になったのでは?と思うこともしきりである。
Α間の上のほうの道からさらにゆるゆる坂を上って、修道院のほうに行く道の角にカフェエレクトリ子と言う文字通り電車お茶屋があって、そこが40年代の私がよく行くお店なのであるが、そこが何が凄いかと言うと、半分地下になっている。カフェの椅子から見ているとあっちからやってくる。路面電車はまっすぐ人まるでカフェに突入してくるような勢いなのである。
その突入の寸前に、路面電車はほんのわずかに進路を左に振って、電車カフェの右脇の急な坂を上のほうに登っていくのであるが、このワクワクするような感覚というのがなかなか素敵である。
電車のお茶屋の様子を書きから見ると、このようになっていて、突入寸前に、ほんのわずか左に電車が回るというのがこの画像でよくわかると思う。大昔はポルトガル語しか通じないお店であったのだが、30年ほど前にリスボンでエキスポがあって、それを機会に国際都市になろうと言う意識があったようで、今ではこのカフェにはちゃんと英文のメニューすら置いてある。
町歩きの楽しみというのはいろいろあると思うけど、リスボン歩くとしたら、まず装飾タイルを見て歩くのに限る。ありとあらゆるカフェとか商店とかそういうところでタイルの装飾を極めて上手に使っている。
私が何十年も宿泊しているリスボンの1番中心部にある。リスボンで1番有名なカフェの4階から上にあるペンションであるが、ここはエレベーターは当然ないから最近登るのがかなりしんどくなってきた。
それでもこのペンションに泊まるのは、建物の裏側にある用品店のエントランスが白鷺が泳いでいるのと歩いている。そういうイラストなのであるが、それが白地に色のコントラストの非常に日本的な感じのタイルの柄なのである。何かそこだけが日本美学が提出しているような感じがして、建物右の上のほうにあるペンションはめんどくさいけれども、あの白鷺の白地に青の絵が見たいと言う欲望からそのペンションに止まったりするわけだ。
その内航海の途中に食べる船の中の食品と言うのは、やはり塩漬けのキャラを戻して、じゃがいもと調理したものとか、そういう食文化が成長してきたのだろう。私もリスボンで安いレストランで空を煮たやつを食べると、なんとなく大航海時代の味覚に少し接近しているような気がして懐かしい。
もっとも、今のポルトガルはタラと言うのは基本体であるから、国内だけではもちろん足りなくて、英国あたりからかなり輸入しているそうだ。年末の買い物と言うと、リスボンの人々は巨大なタラの塩まみれの魚に殺到するのである。
ところで、いつも思うのであるが、大航海時代の侵略者としての彼ら船乗りのスタッフが故郷リスボンを旅の途中にどのように思い出して懐かしんでいたのかと言うことが気になるのである。
サウダーデと言う言葉は、我々にはなかなか理解できないところだが、ポルトガルは海に向かっていて海に突出していて、夜になると日が暮れて、わずかな陸地の目の前は大海原である。リスボンと言うのは夜になると、太平洋の中に1つぽつんと取り残された島みたいな存在だ。
それ故、大航海時代の船乗りが思い出していた故郷リスボンの風景と言うのは夕暮れのこんな感じなのではなかったかと思う。そして重要なのは丘があって、谷があってまた伺って痛みがあると言うことだね。
エドワードスタイケンが構成されたファミリーオブマンと言うのはくだらない写真展だけど、これが世界中で人気になったこともあった。そういうレベルなのである。
それと猫の写真と言うのもよく売れます。十数年来写真展を定期的にやっているギャラリーバウハウスであるけれども、ギャラリーオーナーも全く売れる写真と言うのは見当がつかないと言っているが、これは真実だ。
数年前のギャラリーバウハウスの個展で、ザルツブルグの路地裏かどっかで撮った窓から猫が外を見ている写真がかわいい猫たちの写真なので、これは売れないだろうと思っていたら、よく売れるのです。
良い写真と売れる写真の違いと言うのを今更ここで説明する必要もないけれども、例えて言うならこういう話もある。浅草の早田カメラで親父さんが絶対売りたくないレンズをとびきり高い値段につけていたら、それが売れちゃって親父さん、がっかりしていた。
運転手さんは立ったまま運転するのである。大昔の東京の路面電車と同じだな。それでリスボンの路面電車の運転代のハンドルの根元を見たら、そこには1809中ロンドンとエングレービングされているのでかなりびっくりした。今なら電気の方面はかなり改良されて、効率が良くなっているわけであるが、19世紀終わりのコントローラーを使っているというのがすごい。ー
それで私は今までこの黄色い電車そのものがロンドンで作られたものだと勘違いしていたのであるが、冷静に考えてみればそんな事はなくて、電車本体はポルトガル製と言う可能性も十分にあり得る。
100数十年もメンテナンスをちゃんとやっていると言う事は凄いことだと思うが、その他の理由としてこれを観光目的として長く使うと言う事は当局はあまり考えていないのではないかと思う思われる。
数年前にガラクタ屋さんの企画で都電荒川線に乗って、あっちこっち移動して撮影すると言うので、荒川線を貸し切りにしたことがある。その時、荒川線の車庫に見学に行って、そこに19世紀的なクラシックな電車が止まっているので、こんな古いのをまだ使っているのかと感心したら、そうではなくて、ごく最近にそういうクラシックなウケを狙うために新しい車両なのであったそうだ。
要するに、クラシックなスタイルの路面電車等は、いつの時代でも簡単にできると言うことらしいが、リスボンの自然に関しては、そういうのは何かインチキくさいから、私としては1890年代の車両が今でもゴトゴト走っていると信じたいのである。
これはリスボンの下町と高台を結ぶケーブルカーだけど、電車の色が普通の路面電車と同じと言うところが、逆にプロフェッショナルっぽくてなかなかよろしい。
モノクロネガのほとんどを1年前に捨ててしまったので、困っていたら、偶然友人が私が捨てたネガフィルムを持っていた。
写真集フロムロシアウィズライカで使ったネガフィルムである。アメリカの印刷関係の団体のモノクロ写真集のプライスを受賞している写真集だ。
アコーディオンを手にしている少年は、今では40近い。立派な大人である事は確かだ。写真の時間軸と言うのは未来に向けて伸びた現在と撮影したときの時間を重ね合わせることでさらに意味が増す。
このFinderをつけて、世界中を21ミリレンズで撮影したのだが、世界のどこかに今まで4個の同じこのファインダーを落としてなくしてた。
鵠沼のブレッソンと言うアーティストが私の仕事を、ポールで制作して、その柱には代表作が表示されているのだが、当店ポールのトップにはこのファインダーのミニチュア化されたのがポンと置いてあって、その地面に当たるところは正確に4つに区切られていて、ニューヨークと、パリと、プラハと、リスボンの石畳が正確に再現されている。
世界中の都市の石田熱海のパターンをどのようにしたのかと鵠沼のブレッソンアーティストに聞いたら、私の写真集に写っている。その4つの年の石畳のパターンから起こしたのだと言う。すごいなぁ。
それ以来、ファインダーをライカにつけなければ落とさないのでノーファインダーで使うようになった。2011年のマンハッタンで34丁目のカメラ屋さんにすごく汚いこのファインダーがあって、250ドルだったので気に入って手に入れたが使わないので、友人にあげてしまった。
そしたら昨夜ネットオークションでこのファインダーが登場して、バーゲンハンターで5000円で手に入れたのである。多分使わないと思うけどね。
新幹線をテーマにすることは、安上がりな写真家精神であるから、私はそれを嫌っているのだ。やはり1960年代後半に新幹線がまだできて、それほど時間が経っていなかったから、東京駅の新幹線ホームを撮影したことがあった。
それで新幹線のホームでお母さんが小さな子供にホームの上から線路に向かっておしっこをさせていると言うショットを撮影したのである。それは平凡者が出している。国際写真アニュアルに掲載されたのだった。そしたらすぐにドイツも有名なグラフ雑誌シュテルンからその写真を貸してくれと言うリクエストがあったのだ。
そして新幹線東京駅でおしっこの写真はドイツのメジャー雑誌に掲載されたのである。当時の原稿料が25,000円位であったから、私はびっくりしてしまった。私の日本デザインセンターの初任給が35,000円であるから、これはフリーランスで食えるのではないかと言う感違いがそこに起こったのだ。
それで日本デザインセンターで3年間だけ会社員をやっていたが、それから後の50年はずっとフリーランスになってしまった。フリーランスという言葉を日本語に翻訳すると、食ったり食えなかったりする自称写真家と言う意味である。
カメラはライカM2 レンズはニッコール2.1センチ
大昔のカメラメーカーのキャノンは、フィルムマキ揚げの方式についてのかなり哲学的な考察があった。
レンジファインダーシステムのカメラにしても、初期の一眼レフにしても、ライカM3のようなトップカバーではなくて、カメラのボトムについているトリガーレバーの方が優秀であると言う認識だった。
それでレンジファインダー時代には、トップレバーとトリガーレバーがフィルム巻き上げ戦争を展開した。
キャノンがカメラメーカーとして失敗だったのは、レンジファインダーの最終モデルでは、ラピッドワインダーをアクセサリーとして用意しないで、最初からカメラの1部としてしまったことだ。
これが取り外し可能なアクセサリーの1部なら、今のライカビットMPのように結構な付加価値がついてくるから、インベストメントの対象となって、買い漁る人も出てくるのである。
ウォーカーエバンスはストレートフォトグラフィーの巨匠であって、自分の使うカメラにはこだわらないと言う先入観があった。
ところが全くそうではなくて、我々と同じカメラ好きなカメラ人類であることがわかったのは、数年前にライカオークションに出品された手塗りのコンタックスである。
1936年に自分でペイントしたもののようで、それは有名なニューヨークの地下鉄シリーズの人物のスナップショットに使われた。
彼の日記を見ていると、自分でコンタックスをブラックにペイントしたと言う下りは無いけれども、撮影で9フィートと10フィートにピントを合わせるのに苦労したと言う件は、まさしくマンハッタンのメトロを撮影しているときの向かいの座席に座っている人の撮影距離なのである。
ウォーカーエヴァンスのハンドメイドのブラックコンタックスは既にペイントが全部剥がれ落ちてしまっている。今の時代ならこういうちゃんとしたりペイントもあるからそういうのを大写真家に使ってもらいたかった。
日本では10年にいっぺんぐらいフェルメールが商売にやってくるのが私には不愉快である。
20年位前だと思うけれど、大手の出版社の偉い人が大阪までフェルメールを見に行ったときの話がすごい。飛行機で大阪まで行って慌てて会場に駆け込んだら人の頭しか見えなかったと言う自慢話なのである。
モナリザを見るのに何時間待ったとか、パンダを見るのに何時間待ったと言うような苦労の地盤話は話している方は自慢なのであろうが、効いている方はすごいストレスになる。
フェルメールの仕事を訪ねて、ヨーロッパの南の方から北のほうまで美術館を取材で巡ったことがあったが、これは面白い体験だった。1番近くで見られる。フェルメールと言えば、私の場合はウィンディー長く暮らしていたから、ウィンド美術館のフェルメールの木の絵画が1番身近である。
フェルメールの木の粥川中心のギャラリーからちょっと外れた。狭い部屋にあるので、ツーリストの人はまず気がつかない。それでふかふかのベンチがあるから、win暮らしの時は今日は暇でやることがないから、フェルメールでも見に行くかと言うことになって、1日中フェルメールの前にいるのは退屈だから、せいぜい2時間ぐらいなものである。
言い換えれば、フェルメールは私の所有物である。年間のミュージアムのパスを持っているから、行きたい時に行ってフェルメールを自分の目で鑑賞すると言うのはなかなかヨーロッパは文化的である。日本のフェルメールは何しろ金儲けの商売で来るわけだからね。。
アメリカシカゴの映画、撮影機メーカー、ベル&ハウエルは、世界で最も有名なメーカーの1つであった。日本のテレビジョン放送が初期の頃はそこで使われたSpring Day手巻きで取る小型軽量なベル&ハウエルのフェルモと言う16ミリ撮影機が報道関係で最も使われていたのである。
ビロード革命が終わってから、プラハの街の路面電車はラッピング広告がほとんどになってしまった。ところがそれから15年ぐらい経過すると、路面電車のラッピング広告が減少してきた。
ウィーンと言う街はやはりワインの街だと思う。英文綴りで真ん中の文字を入れ替えるとウィーンもワインも同じ文字の構成になるから、そこら辺を面白がっている私である。
ファインダーが付いていない。ライカと言うものが大昔から一定の需要があったものと見える。顕微鏡撮影とかそういう科学的デバイスで使うときにはレンジファインダーは入らないわけだ。
戦後になって、フランスのエクレールから登場したドキュメンタリー撮影に特化した16ミリと35ミリのフォーマットが瞬時に切り替えられるマルチフォーマットのユニバーサルな撮影機がこのカメラであった。
佃島に暮らし始めた。1990年頃であるが、行きつけの飲み屋というのがあって、かなり大きなお店であったが、清澄通りに面した東側にあった。その店で私が惹かれたのはこれと同じ巨大な看板なのである。
ウィーンに暮らし始めて直後の事だから私が26で家人が28位のときの話。カメラ屋さんで半信半疑で買ってきた。ソ連製のコンタックスが実際にはかなり使えるカメラであると言うことをした直後のことである。
鵠沼のブレッソンと言う人は、私のフォトコンテストに応募して結構いい成績を上げた人である。鵠沼に住んでいて、スナップがうまいので、鵠沼のブレッソンと命名した。
最近の現代建築で嫌いなのが、これは私が世界中の建築を見てきた。反動からそのように感じるのはわかっているが、柱がまっすぐしてないとか、垂直が破壊されているのが大嫌い。
ウィーンのいつも歩いている通りの小さな劇場の脇に立っている女性の銅像である。どういう功績で銅像になったのかは知らないけど、本人にとっては迷惑なことであろう。
ウィーンの北部にあるハイリゲンシュタットと言う村は、ベートーベンの衣装で有名であるが、私が暮らしていた50年前は赤い電車の北の終点であった。要するに、完全なカントリーなのである。
ウィーンの北部にあるハイリゲンシュタットと言う村は、ベートーベンの衣装で有名であるが、私が暮らしていた50年前は赤い電車の北の終点であった。要するに、完全なカントリーなのである。
東京を本格的に撮影を開始したのは、1968年だから大学の3年生だった。日大闘争変わっていくか歴代の写真可愛く見え呆れているものだったので、私は日大以外のところの尊敬する写真家のところに行って写真を見てもらったりしたのである。これが私にとってはその後のチャンスにつながったのであった。
ウィーンに到着して友人に教えてもらった古道具屋さんというのがすごかった。ウィーンの中心部にあるアンティークのお店がそこに買い出しに来るのである。友人に教えてもらったのは、単純な理由でお年寄りがなくなるとそれまで使っていた。なかなか価値のあるものが丸ごとどっさりそのお店に出るからだと言う。
Makofskiと言う名前のお店だったな。
ベトナムと言う国は、長年にわたってフランスに占領されていたが、1950年代のディエンビエンフーの戦いで、徹底的にフランスに対してベトナムが有利になった。
吉田茂は好きでも嫌いでもないが、吉田健一は大好きである。吉田茂は会った事はないが、内田100件が多い。そのお宅にお邪魔してかしこまっている写真が残っている。