老いて益々】田中長徳ファンのスレ その6【老化】最終更新 2026/03/10 08:011.名無CCDさん@画素いっぱいLeV7k2vw0思い出を語りましょう 過去スレ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ 日本大学芸術学部写真学科卒業 日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める 帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に 連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い 写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない 同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっているFacebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16451023192022/02/17 21:51:59326コメント欄へ移動すべて|最新の50件277.名無CCDさん@画素いっぱいHDnYcベトナムで最も有名な歴史遺産ディエンビエンフーベトナムと言う国は、長年にわたってフランスに占領されていたが、1950年代のディエンビエンフーの戦いで、徹底的にフランスに対してベトナムが有利になった。2025/10/31 10:44:07278.名無CCDさん@画素いっぱいhNKt61967年だったかな?東京カテドラルでの吉田茂の葬儀吉田茂は好きでも嫌いでもないが、吉田健一は大好きである。吉田茂は会った事はないが、内田100件が多い。そのお宅にお邪魔してかしこまっている写真が残っている。2025/11/02 10:09:50279.名無CCDさん@画素いっぱいYgcMkウィリアムクラインのユニコンS3ウィリアムクラインが写真集東京のために来日たのが1957年で朝日カメラに小さなマッチバック大の記事と小さな写真が出ていた。奥さんと一緒に日本庭園を歩いているところで、私には完全な外人さんに見えた。ウィリアムクラインが首から下げていたのがこのカメラである。それから何十年後かにプラハで会って、数日間一緒に行動していろいろな話を聞いた。彼が最も対応している。レンズは28ミリなのである。21ミリでもないし、35ミリでもないと言うところに興味がある。2025/11/05 09:34:41280.名無CCDさん@画素いっぱいQIIBgガラクタ屋さんが毎日更新している。ブログに注目ガラクタや2代目さんのブログが面白いので毎日見ている。ガラクタ屋さんがブログを始めたときに、私がサジェスチョンして、ブログは毎日続けるのがベストですよと言った。それで2代目さんは毎日ブログを新しくしている。それで私にとってこれはガラクタ屋さんの在庫情報みたいなつもりでいるから面白い。カメラが登場するとそれが売り物だと思って問い合わせて、まだ売れ残っていると走って買いに行ったりするのである。キャノンフレックスと言うカメラは、初期の一眼レフの良いところを凝縮したような好きなカメラだ。それで最近びっくりしたのは、そのキャノンフレックスにカメラフォルダーと言うものが存在していることを初めて知った。同じ時期にニコンでは、カメラホルダーと言うものを一切作っていないが、キャノンと言うメーカーは、会社の内部にカメラフォルダーフェチの人がいたものと思われる。それで今までガラクタ屋さんで、複数のレンジファインダー用のカメラホルダーを手に入れた。実際に使うわけではなくて、そのつやつやした非常に上質な仕上げとさらにそれが入っている。レザーケースが非常に高級なのである。ものとして所有していたいと言う気分にさせられる。それで昨日のことであるが、キャノンフレックスにカメラホルダーが作られていたと言うことを初めてこの画像で知ったのである。キャノンフレックスは結構持っているのであるが、レンジファインダーにはカメラホルダーがあると思っていて、一眼レフにもあると言うことを知らなかった。キャノンフレックスのアクセサリーで、やはり非常に登場頻度が低いのが交換式の垂直ループである。これはネットオークションで1度しか見たことがないが、カメラホルダーは1度も見たことがない。それで慌てて2代目さんにもし売り物でまだあるのなら欲しいと言ったら、すぐ返事が来て、それはお客さんカメラであると言う。10年以上前銀座の松屋デパートなどで、中古カメラ市のときに私の本のサイン会があった。そこで来るお客さんは私の本にサインをもらうと言うよりも、彼らの持っているカメラを私に見せて、そこで批評をもらいたいのである。それが私もわかっているから、お客さんの持ってきたカメラを真面目に批判したり持ち上げたりした。私は最近はサイン会をやらないから、2代目さんが、それと同じ役割を社会的に果たしていると言うことになる。2025/11/07 16:00:41281.名無CCDさん@画素いっぱいhZDX7アエロフロートのグラスで、ウォッカをいっぱいまだクレムリンに赤旗が翻っていた時代の話だが、成田からイリューシン62でモスクワに向かう飛行機のエコノミークラスの最初の7列は、シートピッチがちょっと広いのである。これには理由があって、共産党の党員のためのエコノミークラスであったと。2025/11/09 15:50:02282.名無CCDさん@画素いっぱいVujEg多摩川住宅で漫画家のつげさんに会うウィーンから戻ってきて、しばらくの間多摩川沿いの多摩川住宅に住んでいた。ウィーンにいた時は目の前がドナウ運河であったから、何か水野側に関係があると言うので、我ながら納得していたのである。2025/11/11 08:18:54283.名無CCDさん@画素いっぱいVDs0z何故わざわざ中古カメラ市のイベントで、こんな人のサインやトークショーに嬉々として足を運んだのだろうか。今となっては甚だ謎だ。2025/11/15 10:23:38284.名無CCDさん@画素いっぱいJwYRdブラックライトで照らすとフローライトが光るFacebook友達から教えてもらいました。私が50年以上使っているソ連製のレンズジュピター50ミリですが、これが蛍石で作られているので、ブラックライトを当てるとこのように光るのです。プラハのカメラ屋さんで500円で買ったレンズに高価なフローライトが使われていると言うのはびっくりですが、私はレンズの素材には興味を持っていません。半世紀以上前にペンタックスとかキャノンが300ミリクラスのレンズでフローライトが入っていると言う謳い文句でやったら、高いレンズを売り出したことがあります。フローライトが入っていると言うのは、単に販売する方で付加価値がつくと言うことのようです。でも、ブラックライトを当ててレンズが光ると言うのは、レンズ遊びとしては結構楽しいことです。2025/11/16 08:45:57285.名無CCDさん@画素いっぱいHDOM3そんなある日、知人の Ogashin君が、「これライカだよ」と古びたカメラを自慢げに見せてくれました。初めて見るライカ(バルナックタイプ)で機種など全く分かりませんでしたが、完動品とのこと。どんなに古いライカでも修理が可能だと聞くと、さすがドイツ物、日本物みたいな使い捨てカメラとは訳が違うと妙に感心し、忘れかけていたカメラへの情熱が蘇って来るのを感じました。まさしく金属カメラの感触で、これこそ本物のカメラだ!そう思うと居ても立っても居られなくなりました……。何でもいいから安いものをと、早速買ったのがライカIIIcでした。小遣いの範囲内で買えてしまいましたが、後から聞いた話ですと、昔、IIIcを売ってそのお金で名古屋のど真中にあった店(ちなみにカメラ店)を買った人がいたそうです。ライカとはそういう神話的なカメラなのですね。2025/11/16 23:48:31286.名無CCDさん@画素いっぱい2GEsOベストアルパを探すスイスの時計工業の部品メーカーピニオンが1947年に発売したアルパカメラはトータルで50,000台弱が製造された。1970年代の生産終了までに、すべてのモデルデコ万代弱と言うのだから非常に少ないボリュームである。3つのスタイルのジェネレーションに分かれるが、その2番目の世代のデザインがアルネアに代表される、斜め45度から覗けるプリズムのついたこのシリーズである。私は変わり者なので、こういうプロ写真家が誰も使っていないようなカメラで雑誌の連載をやったりしていたが、非常に使いやすいカメラである。最もこれは私がこのカメラに慣れているだけの話で、一般的には全く使いにくいモデルだと思う。この時代のアルパカメラの褒め言葉として、スイス国鉄の電気機関車のようなと言うのがいつもの形容詞である。実際私初めてスイスを訪問した。1973年には、こんなスタイルの電気機関車がスイスで走っていたのだ。2025/11/24 09:53:03287.名無CCDさん@画素いっぱいJZgW3ウォーカーエバンス1939アメリカの農業保全局の仕事ウォーカーエバンスのメインの仕事と言うと最初にハバナからスタートしてハバナの撮影を依頼した人間はハバナを政治的に弾圧すると言う目的が背後にあったらしいが写真と言うものはそーゆー政治的なプロパガンダ以外のところで後の時代に残ると言うことを証明したわけである。2025/12/06 13:14:22288.名無CCDさん@画素いっぱいsZmJzベストなカメラはどっちだ?リンホフカメラは1970年に使い始めて3年間使い続けたから、暗闇でも操作できる。一方のスピードグラフィックは40歳の時にミシガン州を旅行していたのだが、ミシガン州の北のほうにある。783で40ドルで買った。それでこのカメラの良さを最初に理解したのである。2025/12/08 14:54:42289.名無CCDさん@画素いっぱいKK2ADウォーカーエバンスの作品の中で、おそらく最も有名な1枚天才荒木は1976年にヨーロッパを巡回する写真展で参加してもらったから、私の最初の彼との面識は1976と言うことになる。私が29歳で彼は7歳年上のはずだから、36歳であった。2025/12/10 09:07:26290.名無CCDさん@画素いっぱいfGw6Bポラロイドがウォーカーエバンスの生活のレベルを高めた。ウォーカーエバンスは晩年にかけてポラロイドSX 72であった。それまでの彼の写真の理論とは全く異なる写真表現の方法に可能性を感じた。写真家はSX 70で膨大な撮影をした。3000枚の作品が残っている。その新しい写真表現と言うのは、写真家個人の視点を超えて写真家と、その周囲のコミュニケーションのやりとりそのものが新しい写真であると言う方向。ポラロイド写真は1点ものであって、エディションがないから、15年ほど前にギャラリーバウハウスの展示でも、1点しかないと言うので、展示した作品が奪い合いになったことあり。2025/12/13 21:33:27291.名無CCDさん@画素いっぱいFhznQwin 1973走る少女1970年代にウィーンを撮影したモノクロネガと言うのは2000本ぐらいあるから膨大な数なのであるが、その中で記憶に残る少年もしくは少女が走っていると言うショットは実にこれ1つだけなのである。2025/12/14 07:31:27292.名無CCDさん@画素いっぱいAal8Hイタリアのガリレオが作った。馬鹿な双眼鏡。イタリアのガリレオと言う会社はなかなかいい線で作っているので、長年尊敬しているのであるが、20年位前に手に入れたこの双眼鏡を見て、その価値がいっきょに落ちてしまった。2025/12/16 08:44:14293.名無CCDさん@画素いっぱいML3ye13番の2階建てバスの窓から見た光景今はもう存在しないが、1970年代にはウィーンの13番のバス路線で2階建てのバスというのが走っていて、その2階の1番前の席からの眺めがエキセントリックでスリリングなので、私も地元の小学生と、その石を競走で取ったりしたものであった。2025/12/20 01:12:40294.名無CCDさん@画素いっぱいieb6Eウォーカーエバンスマンハッタンアッパーイーストサイド1938写真家として本格的な活動を開始したウォーカーエバンスが1930年代後半に住んでいたのがマンハッタンのアッパーイーストサイドである。2025/12/20 15:00:02295.名無CCDさん@画素いっぱいvWOd4ウォーカーエバンスが撮影したロバートフランクの家のストーブ知らない時はカントリーのキッチンにあるすごい古いストーブだと思っていた。キャプションを読むとウォーカーエバンスが撮影したノバスコシアのロバートフランクの家のストーブであると言うので、さらにびっくりした。2025/12/22 11:33:10296.名無CCDさん@画素いっぱいYozsnウォーカーエバンスが撮影したロバートフランクの家のストーブ知らない時はカントリーのキッチンにあるすごい古いストーブだと思っていた。キャプションを読むとウォーカーエバンスが撮影したノバスコシアのロバートフランクの家のストーブであると言うので、さらにびっくりした。2025/12/23 17:10:59297.名無CCDさん@画素いっぱい0BlE4ウォーカーエバンス。1930年代の自動車修理工場がすごいウォーカーエバンスがアメリカ農業保全局の仕事で1930年代の終わりに幅広くdeepサウスを旅行したときのワンショット。2025/12/24 00:56:14298.名無CCDさん@画素いっぱいI9vCvアパートメントの非常に危険な作業ウィーンに暮らした8年間はアパートメントの2階に住んでいた。すぐ目の前がドナウ運河だった2025/12/26 02:07:31299.名無CCDさん@画素いっぱいgDbwR裸の天使20251226Josef Sudek生誕百年記念の写真展のカタログから2025/12/27 09:04:04300.名無CCDさん@画素いっぱいVo2jcカメラ操作の楽しみはハンドグリップにある。物心ついた10歳の頃からカメラのハンドグリップの研究をしている。60年近くハンドグリップを勉強していて、最近わかった事は画面の右に写っている。ロードカメラのハンドグリップがベストの太さであると言う事。左に見えるキャノンのハンドグリップは一般的なサイズであるが、細すぎて撮影にはストレスがかかる。2025/12/30 06:47:16301.名無CCDさん@画素いっぱいnwU77佃島の朝 あけましておめでとうございます古美術を扱うお店のオーナーが言っていたが、商売をするには日当たりの良い方向のお店ではダメであると言う。素人が考えても当然のことで商品が日に焼けてしまうから、だめな事は間違いないと思う。2026/01/01 08:21:49302.名無CCDさん@画素いっぱいqsYPb1973年のカメラと2026年のカメラ1973年頃に単なる思いつきで、ウィーンのアパートメントの床の上に使っている。カメラを全部並べて撮影したのがこれである。今見ると上のアパートの床はなかなか作りがよろしいな。2026/01/03 09:39:54303.名無CCDさん@画素いっぱいywsDt飛行船の宣伝効果は、ゼロであると断言できる理由ツェッペリン飛行船の発祥の地である南ドイツのフリードリヒスハーフェンに取材に行ったことがある。2026/01/08 13:22:02304.名無CCDさん@画素いっぱいCKyARフェルナンドペソアと私のリスボンリスボンでフェルナンドペソに最初に出会ったのは、1980年の秋だった。フェルナンドペソはなんて知らなかったけど、少しはポルトガル語を勉強しようと思って、中心部のエレベーターのすぐ隣にある用紙屋さんで、リスボンガイドブックの英語とポルトガル語が大役になっているのを買った。それがペソアのガイドブックであった。一生の間に数少ない出版をした介護最初のパブリックな出版物がデスウォン案内であったと言うのは皮肉である。自分の文学の手初めにリスボンのガイドブックを書いたとなると天才だと思うけど、実際にはごく普通の同期でヨーロッパのどこにあるのか外国には知られていないリスボンと言う小さな街を外国に紹介するためだった。フェルナンド・ペソアは、幼少の頃に、南アフリカのダーバンで暮らしていたから、英語のネイティブスピーカーでもある。ペースの長い長い小説のイントロダクションで、彼自身の自己紹介をするときに、リスボンの裏町の小さなレストランの2階で、毎晩黙って食事をとっている。目立たない男と言うのは、彼自身として登場する。私がいつも宿泊していた小さなホテルはフェルナンドが眺望をつけていた。仕事場の近くだったから、1種の思い込みで偉大な文学者はここで食事をしていたのではないかと言う思い込みでディナーを楽しんだ。その店は今までも存在する。2026/01/09 08:39:34305.名無CCDさん@画素いっぱいZAsws「明日から3連休だぁ」と思いながらあったかい所でお酒をちょこっと飲んで寝て朝6時頃起きて「今日は起きなくていいんだぁ」と二度寝してあったかい布団でゴロゴロして「あー、そろそろ起きたい!」と思ってぐーんと背伸びして起きる。体調が良い。あー幸せ。2026/01/10 17:39:39306.名無CCDさん@画素いっぱい3RCuL兵器工場が作った一眼レフとフランスのレンズ東独生の一眼レフとしては、こちらが大衆向けのモデルで値段も安い。だからかつての東ヨーロッパを旅行していて、このカメラにカールツアイスの高い広角レンズを付けている人などは、この人はかなり写真がうまいのではないかと通りがかりに尊敬したものであった。2026/01/24 09:52:59307.名無CCDさん@画素いっぱいArdyXライカの階級闘争1966年にエルスケンの写真集、スイートライフを手に入れて、彼がライカで撮影をしていると言うことを知った。当時の私は19歳。その後にロバートフランクも、リーフリードランダーもライカで仕事をしていると言うことを知った。それで同じライカを手に入れたのが1967年11月。私が20歳の時の話。これは結構フェアなカメラに対する考え方であって、同じスタートラインで同じライカを持っていれば、後は才能の違いだけが結果に現れるわけだ。2026/01/25 09:37:47308.名無CCDさん@画素いっぱいX4ra0メトロの終点の駅前の広場に展開する。メリーゴーラウンドが好き。仕事でチューリヒ空港からプラハ空港に朝飛行して、着陸の前に、飛行機はプラハの街の東の果てで大きく西旋回して、だんだんコードを下げて、旧市街の北側を通過して、プラハの西の町外れの空港に着陸するのである。2026/01/28 09:12:00309.名無CCDさん@画素いっぱいGHRIsカサブランカを確認しにカサブランカに行った天気の良い日の午後に目の前にある中央大橋に午後の日差しが輝いて白く光って眩しくなる。これをカサブランカ状態になると呼び名表しているのである。2026/01/30 15:18:15310.名無CCDさん@画素いっぱいxoL5Qブラックライカが中国あたりで文物になっている1967年の11月の終わりに、私が新宿のラッキーカメラで購入したライカM2のブラックは1週間位で、表面のペイントが全部剥がれてしまった。2026/01/31 15:07:55311.名無CCDさん@画素いっぱいQ3oUD雪の日のTelcエプソンのレンジファインダカメラの撮影で写真集に掲載した作品だから、これは2005年の12月だったかな?2026/02/02 16:31:46312.名無CCDさん@画素いっぱいFmnGwミランダカメラの価値が当時57,000円2026/02/05 08:09:06313.名無CCDさん@画素いっぱいgTmefフルサイズのデジカメは必要なし広告とかメディアの仕事だと担当ディレクターがフルサイズでお願いしますと言ってくる。そのことを逆らっては仕事にならないので、私はフルサイズデジカメをレンタルしてくる。実際にフルサイズは持っていない。フルサイズでなければと言う人は、スペックオタクである。実際問題としてAPS-Cサイズで仕事をして、3フィート6フィートにプリントしても何ら問題はなかった。ローモードも使わないくて全てJPEGである。1970年にリスボンのこの街角を撮影した時、デジタルカメラは存在しなかった。その50年後に私の友人が同じリスボンの同じカメラアングルで撮影したのがこれです。2026/02/07 10:18:26314.名無CCDさん@画素いっぱいwBLvSペンタックスの王様のブラックペイント小学校の時に1957年だと思うけど、アサヒペンタックスが登場した。値段もよく覚えていて49,500円で、当時としては大変な値段であった。2026/02/09 09:48:30315.名無CCDさん@画素いっぱいKGQ2Nウィーンで使い倒したゾルキー、言の発端は、1973年の5月に、偶然の機械からライカへM3につけたズミクロン50ミリと、このカメラについていたゾナのコピーのジュピター50ミリを同一条件で撮影して11 × 14インチに引き伸ばしてプロ写真家に見せたら、どちらがどっちか区別がつかなかったこと。それ以来、それ性カメラとレンズを信頼するようになった。ゾルキーは5型より新しいモデルはフィルム巻き上げがレバー式になっているから、ライカエ型と同じ感覚で使うことができる。しかもライカムについていない。シド調節と言う。素晴らしいおまけも付いている。2026/02/11 09:18:55316.名無CCDさん@画素いっぱいNtetWファーストミランダの魅力はどこにあるのか?一眼レフで人気があるのはミランダのファーストモデルである。最初はフェニックスという名前で登場させようと思ったら、外国に似た名前の一眼レフがあるので、ミランダと言う名前になった。2026/02/13 15:31:25317.名無CCDさん@画素いっぱいoeffR35ミリ版の原爆カメラの宣伝のためのキャッチコピーと言うのは、どれも退屈なことだ。それを実際に体験しているのが私である。2026/02/20 11:01:50318.名無CCDさん@画素いっぱいfiYpSカメラエッセイストとして最初にテーマにしたカメラ。1980年の秋に当時暮らしていたウィーンからドイツのケルンにフォトキナと言うカメラの見本市を取材に行って、その後パリを経由してポルトガルのリスボンに行ったのが初めてのリスボンとの出会いであった。2026/02/22 10:24:06319.名無CCDさん@画素いっぱいWTOJ7月の裏側のようなソ連の時計が好きソ連で作られた腕時計が好き。大昔はソ連で作られたカメラを愛用していて、今でもそうだけど、時計の初心者だったからすぎ、ス製のロレックスなどがいいと思っていた。その後スイス製だけど、WCとかそっちのほうに興味がいったのだが、今では子供の趣味であると反省している。2026/02/24 11:17:03320.名無CCDさん@画素いっぱいxXznw足掛け8年のウィーン暮らしの最後に、1980年の秋にドイツのケルンのフォトキナを取材した後に、パリ経由で夜行列車を使ってリスボンに行った。リスボンの中心部の馬地区に、当時はまだ中古カメラ屋さんがあった。そこでフランス製のフォカのボロボロのやつを手に入れて、早速それで撮影を始めたのである。その時のカメラの話は日本に戻ってきてから私が発表した1番最初のカメラ生だった。それを日本カメラの前田編集長が面白いと思って、私に連載原稿を依頼してきたのである。だから私にとってリスボンはカメラエッセイのスタートラインであり、最初のテーマカメラはフォカカメラであった。この場所は1部のカメラ人類には結構有名になったのだが、二股の分かれ道の消失点が2つあると言うところがポイントである。ヨーロッパの他の都市では、消失点は同じ高さになってしまうのがほとんどである。50年前のオリジナルの私の写真は手前にカメラは写っていない。それでこの写真は撮影されてから40年位経過して、富士フイルムの広告に使われたりした。私は広告出身者だから、富士フイルムの担当者さんに実はこれは富士のカメラでも富士フイルムでもなくて、フランス製のフォカで、フィルムはフランス製のトライエックスですと言ったら、写真がいいから問題はありませんと言う感じで広告に使われたのである。私の友人が同じ撮影ポイントに行って、トプコンカメラを手に持って撮影した。別にトプコンカメラの広告と言うわけではない。2026/03/01 00:09:09321.名無CCDさん@画素いっぱいx1Lh6北大路魯山人の食い物に関するエッセイなどを50年前によく読んだ。インターネットのない時代だから、図書館から借りて読んだのである。最近この人のことを思い出して、ウィキペディアでチェックしたら、出生の頃からいろいろ大変波乱の人生であることが判明した。それで、青空文庫に北大路山人の書いたものが結構あるので、それをペラペラめくっていたら、納豆茶漬けの話が出てきた。私は食通知ったかぶりで、大阪には良いマグロの刺身がないから、大根おろしで食うなどと言うことを書いているが、これは全部受け売りなのである。半世紀前に納豆茶漬けがうまかったと言うことを思い出して、またやってみた。後期高齢者になって、納豆茶漬けを食べずに死んでしまうのはもったいないと言うことを再認識した。2026/03/01 15:40:42322.名無CCDさん@画素いっぱいgYHjx日本ばかりではなく、世界的に有名な、買取名人さんのカメラ買取コーナーの後に2代目さんがギャラリー白さんを作って数ヶ月経過。なかなかユニークな展示である。そこで不定期ではあるが、2代目さんが自分の写真を非公開の一晩だけの写真展と言う天才でオープンしている。昔はこういう写真展示は何の意味もなかったが、今ではインターネットと言う通信手段があるから、一晩だけ後悔しない。写真展が開催されたと言う事実そのものは世界中に伝わるのである。これをなんと考えるかと言えば、要するに1種のコンセプチュアルアートなのである。写真展の開催した。しかも非公開であると言う事実は、世界中に通信されるわけだ。40年以上前ニューヨークに暮らしていた時、私の好きな写真家ルイス・ヴァルツがマンハッタンの57丁目の高層ビルの29階の小さなギャラリーで写真展を開催した。この写真展はアポイントメントオンリーなので、私は電話で予約をして出かけていったのだが、空間感覚からするとギャラリー白さんよりちょっと広いと言う位のミニギャラリーなのである。ニューヨークでたくさんの写真展を見たが、このミニギャラリーでアポイントメントオンリーの写真展をよく記憶しているのはなぜだろうか。このニューヨークのギャラリーの携帯を極端に進化させるとギャラリー白さんの一晩だけ開催されているが、一般には公開されないと言うエクストリームな状況にまで到達すると言う事は確かなのである。2026/03/03 19:08:09323.名無CCDさん@画素いっぱいpSnbe戦前の日本の小説などだと、パリに行くことが人生の究極の目的みたいなことになっていた。パリが遠いと言うことを嘆く。現代詩人もいたが、パリと言うのはそのぐらい。遠い方がキラキラ輝いているからよろしいと思う。古いゴダールの映画などを見ていると勝手にしやがれであったかどうか覚えてないけれど、当時のパリの通りの背景にこのバルコニー付きのバスが映り込んでいた。バルコニー付きのバスと言うのは世界中ウロウロした。私の記憶では他に例がなくて、パリのこのバスしか思い出すことができない。それで私などはこのバスのリアのバルコニーからパノラマ写真で、いろいろなパリの街角を撮影した記憶がある。このショットはバルコニー付きバスから降りてバスが遠ざかっていくところを取ったショットであると思われる。ところでメトロでもパリのバスでもコントロールが結構元気であって、いきなりチケットのチェックをするのである。私はバスに乗ってチケットをチェックしようと思ったら、その間にコントロールがやってきてチケットを持っていないと言うので、その場で降ろされて罰金を払ったことがある。何しろ相手がフランス語でまくし立てるのだから、こちらは手も足も出ない。何十年ものヨーロッパ生活の公共交通機関で、ただ1回だけ無賃乗車で罰金を取られたのはこの時なのでよく記憶している。2026/03/05 18:32:46324.名無CCDさん@画素いっぱい0QmWj永井荷風はアメリカからヨーロッパをウロウロした後に麻布に家を建ててそこに暮らすようになった。もともとの出身は小石川の安藤坂であって、その後市ヶ谷のほうに越していたのである。だから麻布のペンキ塗りの家は、本人の話では、偏奇館と命名していた。戦前に岩波書店から出された彼の文章と写真を収録した面影というのがあって、そこに収納されているローライフレックスで撮影した写真がなかなかストレートフォトグラフィーで素晴らしい。私は長い家風の下流小説は嫌いである。それよりも写真家としての仕事を高く評価しているのである。小さな丸いテーブルにクロスがかかっていて、いろいろな食品が置かれている。この写真を見て、以前から私が不思議に思っていたのは、全体の距離感が壊されていると言う異質な視神経の感覚であった。それが何十年も続いてある時この写真を見ていて、なぜ私が持っている写真家の距離感が壊されているかのその理由がわかったのである。その原因は写っているワインボトルにあった。ワインボトルの大きさが通常より小さいので、遠近感が否定されていると言うことに気がつかなかったのだ。永井荷風はそれほど酒を飲む。口では無いから、彼の日記を読んでいても、銀座あたりに行くとワインボトルを求めて帰ってきたと言う行がよく見られる。そのワインボトルと言うのはフルサイズではなくてデミサイズであった。これで長年の疑問が一挙に解消した。2026/03/07 02:43:29325.名無CCDさん@画素いっぱいEjM8Q片岡義男さんは日本では非常に有名な作家らしい。そのことを知らなくて、日本で本を出版したときそれが売れたので、取り次ぎ店が毎月出す雑誌のトップページで片岡さんと対談する企画が来たのである。片岡義男さんを私は知らなくて、その時に初めてお目にかかった。神田の如水会館の部屋で2時間位お話をした。それで片岡さんは私を気に入ってくれたようで、その後いろいろなお付き合いが始まって東京を一緒に歩いたのである。2026/03/10 07:57:20326.名無CCDさん@画素いっぱいEjM8Q片岡義男さんは日本では非常に有名な作家らしい。そのことを知らなくて、日本で本を出版したときそれが売れたので、取り次ぎ店が毎月出す雑誌のトップページで片岡さんと対談する企画が来たのである。片岡義男さんを私は知らなくて、その時に初めてお目にかかった。神田の如水会館の部屋で2時間位お話をした。それで片岡さんは私を気に入ってくれたようで、その後いろいろなお付き合いが始まって東京を一緒に歩いたのである。私などは3粒フォトグラファーであるから、東京の街並みを取る時もそこに通行人が入ってくると餌になると思ってシャッターを押す。一方で、片岡さんは純粋芸術であるから、通行人の典型等は必要としなくて撮影の直前に彼が構えた。フレームの中に人が入っていると腹を立てるのである。片岡さんが面白いのはその思っていることをそのまま音声に発するところにある。片岡さんのお住まいは、玉川学園でかなり東京の西の方であるが、そこから電車を乗り継いで北千住の先まで撮影に来るのだから、そのフットワークはすごいといつも感心している。2026/03/10 08:01:27
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【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
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【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
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【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】
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田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっている
Facebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている
ベトナムと言う国は、長年にわたってフランスに占領されていたが、1950年代のディエンビエンフーの戦いで、徹底的にフランスに対してベトナムが有利になった。
吉田茂は好きでも嫌いでもないが、吉田健一は大好きである。吉田茂は会った事はないが、内田100件が多い。そのお宅にお邪魔してかしこまっている写真が残っている。
ウィリアムクラインが写真集東京のために来日たのが1957年で朝日カメラに小さなマッチバック大の記事と小さな写真が出ていた。
奥さんと一緒に日本庭園を歩いているところで、私には完全な外人さんに見えた。
ウィリアムクラインが首から下げていたのがこのカメラである。それから何十年後かにプラハで会って、数日間一緒に行動していろいろな話を聞いた。彼が最も対応している。レンズは28ミリなのである。21ミリでもないし、35ミリでもないと言うところに興味がある。
ガラクタや2代目さんのブログが面白いので毎日見ている。
ガラクタ屋さんがブログを始めたときに、私がサジェスチョンして、ブログは毎日続けるのがベストですよと言った。
それで2代目さんは毎日ブログを新しくしている。それで私にとってこれはガラクタ屋さんの在庫情報みたいなつもりでいるから面白い。カメラが登場するとそれが売り物だと思って問い合わせて、まだ売れ残っていると走って買いに行ったりするのである。
キャノンフレックスと言うカメラは、初期の一眼レフの良いところを凝縮したような好きなカメラだ。それで最近びっくりしたのは、そのキャノンフレックスにカメラフォルダーと言うものが存在していることを初めて知った。
同じ時期にニコンでは、カメラホルダーと言うものを一切作っていないが、キャノンと言うメーカーは、会社の内部にカメラフォルダーフェチの人がいたものと思われる。
それで今までガラクタ屋さんで、複数のレンジファインダー用のカメラホルダーを手に入れた。実際に使うわけではなくて、そのつやつやした非常に上質な仕上げとさらにそれが入っている。レザーケースが非常に高級なのである。ものとして所有していたいと言う気分にさせられる。
それで昨日のことであるが、キャノンフレックスにカメラホルダーが作られていたと言うことを初めてこの画像で知ったのである。キャノンフレックスは結構持っているのであるが、レンジファインダーにはカメラホルダーがあると思っていて、一眼レフにもあると言うことを知らなかった。
キャノンフレックスのアクセサリーで、やはり非常に登場頻度が低いのが交換式の垂直ループである。これはネットオークションで1度しか見たことがないが、カメラホルダーは1度も見たことがない。
それで慌てて2代目さんにもし売り物でまだあるのなら欲しいと言ったら、すぐ返事が来て、それはお客さんカメラであると言う。
10年以上前銀座の松屋デパートなどで、中古カメラ市のときに私の本のサイン会があった。そこで来るお客さんは私の本にサインをもらうと言うよりも、彼らの持っているカメラを私に見せて、そこで批評をもらいたいのである。それが私もわかっているから、お客さんの持ってきたカメラを真面目に批判したり持ち上げたりした。
私は最近はサイン会をやらないから、2代目さんが、それと同じ役割を社会的に果たしていると言うことになる。
まだクレムリンに赤旗が翻っていた時代の話だが、成田からイリューシン62でモスクワに向かう飛行機のエコノミークラスの最初の7列は、シートピッチがちょっと広いのである。これには理由があって、共産党の党員のためのエコノミークラスであったと。
ウィーンから戻ってきて、しばらくの間多摩川沿いの多摩川住宅に住んでいた。ウィーンにいた時は目の前がドナウ運河であったから、何か水野側に関係があると言うので、我ながら納得していたのである。
Facebook友達から教えてもらいました。私が50年以上使っているソ連製のレンズジュピター50ミリですが、これが蛍石で作られているので、ブラックライトを当てるとこのように光るのです。
プラハのカメラ屋さんで500円で買ったレンズに高価なフローライトが使われていると言うのはびっくりですが、私はレンズの素材には興味を持っていません。
半世紀以上前にペンタックスとかキャノンが300ミリクラスのレンズでフローライトが入っていると言う謳い文句でやったら、高いレンズを売り出したことがあります。
フローライトが入っていると言うのは、単に販売する方で付加価値がつくと言うことのようです。
でも、ブラックライトを当ててレンズが光ると言うのは、レンズ遊びとしては結構楽しいことです。
スイスの時計工業の部品メーカーピニオンが1947年に発売したアルパカメラはトータルで50,000台弱が製造された。
1970年代の生産終了までに、すべてのモデルデコ万代弱と言うのだから非常に少ないボリュームである。
3つのスタイルのジェネレーションに分かれるが、その2番目の世代のデザインがアルネアに代表される、斜め45度から覗けるプリズムのついたこのシリーズである。
私は変わり者なので、こういうプロ写真家が誰も使っていないようなカメラで雑誌の連載をやったりしていたが、非常に使いやすいカメラである。最もこれは私がこのカメラに慣れているだけの話で、一般的には全く使いにくいモデルだと思う。
この時代のアルパカメラの褒め言葉として、スイス国鉄の電気機関車のようなと言うのがいつもの形容詞である。
実際私初めてスイスを訪問した。1973年には、こんなスタイルの電気機関車がスイスで走っていたのだ。
ウォーカーエバンスのメインの仕事と言うと最初にハバナからスタートしてハバナの撮影を依頼した人間はハバナを政治的に弾圧すると言う目的が背後にあったらしいが写真と言うものはそーゆー政治的なプロパガンダ以外のところで後の時代に残ると言うことを証明したわけである。
リンホフカメラは1970年に使い始めて3年間使い続けたから、暗闇でも操作できる。一方のスピードグラフィックは40歳の時にミシガン州を旅行していたのだが、ミシガン州の北のほうにある。783で40ドルで買った。それでこのカメラの良さを最初に理解したのである。
天才荒木は1976年にヨーロッパを巡回する写真展で参加してもらったから、私の最初の彼との面識は1976と言うことになる。私が29歳で彼は7歳年上のはずだから、36歳であった。
ウォーカーエバンスは晩年にかけてポラロイドSX 72であった。
それまでの彼の写真の理論とは全く異なる写真表現の方法に可能性を感じた。写真家はSX 70で膨大な撮影をした。3000枚の作品が残っている。
その新しい写真表現と言うのは、写真家個人の視点を超えて写真家と、その周囲のコミュニケーションのやりとりそのものが新しい写真であると言う方向。
ポラロイド写真は1点ものであって、エディションがないから、15年ほど前にギャラリーバウハウスの展示でも、1点しかないと言うので、展示した作品が奪い合いになったことあり。
1970年代にウィーンを撮影したモノクロネガと言うのは2000本ぐらいあるから膨大な数なのであるが、その中で記憶に残る少年もしくは少女が走っていると言うショットは実にこれ1つだけなのである。
イタリアのガリレオと言う会社はなかなかいい線で作っているので、長年尊敬しているのであるが、20年位前に手に入れたこの双眼鏡を見て、その価値がいっきょに落ちてしまった。
今はもう存在しないが、1970年代にはウィーンの13番のバス路線で2階建てのバスというのが走っていて、その2階の1番前の席からの眺めがエキセントリックでスリリングなので、私も地元の小学生と、その石を競走で取ったりしたものであった。
写真家として本格的な活動を開始したウォーカーエバンスが1930年代後半に住んでいたのがマンハッタンのアッパーイーストサイドである。
知らない時はカントリーのキッチンにあるすごい古いストーブだと思っていた。キャプションを読むとウォーカーエバンスが撮影したノバスコシアのロバートフランクの家のストーブであると言うので、さらにびっくりした。
知らない時はカントリーのキッチンにあるすごい古いストーブだと思っていた。キャプションを読むとウォーカーエバンスが撮影したノバスコシアのロバートフランクの家のストーブであると言うので、さらにびっくりした。
ウォーカーエバンスがアメリカ農業保全局の仕事で1930年代の終わりに幅広くdeepサウスを旅行したときのワンショット。
ウィーンに暮らした8年間はアパートメントの2階に住んでいた。すぐ目の前がドナウ運河だった
Josef Sudek生誕百年記念の写真展のカタログから
物心ついた10歳の頃からカメラのハンドグリップの研究をしている。
60年近くハンドグリップを勉強していて、最近わかった事は画面の右に写っている。ロードカメラのハンドグリップがベストの太さであると言う事。
左に見えるキャノンのハンドグリップは一般的なサイズであるが、細すぎて撮影にはストレスがかかる。
古美術を扱うお店のオーナーが言っていたが、商売をするには日当たりの良い方向のお店ではダメであると言う。素人が考えても当然のことで商品が日に焼けてしまうから、だめな事は間違いないと思う。
1973年頃に単なる思いつきで、ウィーンのアパートメントの床の上に使っている。カメラを全部並べて撮影したのがこれである。今見ると上のアパートの床はなかなか作りがよろしいな。
ツェッペリン飛行船の発祥の地である南ドイツのフリードリヒスハーフェンに取材に行ったことがある。
リスボンでフェルナンドペソに最初に出会ったのは、1980年の秋だった。
フェルナンドペソはなんて知らなかったけど、少しはポルトガル語を勉強しようと思って、中心部のエレベーターのすぐ隣にある用紙屋さんで、リスボンガイドブックの英語とポルトガル語が大役になっているのを買った。
それがペソアのガイドブックであった。一生の間に数少ない出版をした介護最初のパブリックな出版物がデスウォン案内であったと言うのは皮肉である。
自分の文学の手初めにリスボンのガイドブックを書いたとなると天才だと思うけど、実際にはごく普通の同期でヨーロッパのどこにあるのか外国には知られていないリスボンと言う小さな街を外国に紹介するためだった。
フェルナンド・ペソアは、幼少の頃に、南アフリカのダーバンで暮らしていたから、英語のネイティブスピーカーでもある。
ペースの長い長い小説のイントロダクションで、彼自身の自己紹介をするときに、リスボンの裏町の小さなレストランの2階で、毎晩黙って食事をとっている。目立たない男と言うのは、彼自身として登場する。
私がいつも宿泊していた小さなホテルはフェルナンドが眺望をつけていた。仕事場の近くだったから、1種の思い込みで偉大な文学者はここで食事をしていたのではないかと言う思い込みでディナーを楽しんだ。その店は今までも存在する。
あったかい所でお酒をちょこっと飲んで
寝て
朝6時頃起きて
「今日は起きなくていいんだぁ」と二度寝して
あったかい布団でゴロゴロして
「あー、そろそろ起きたい!」と思って
ぐーんと背伸びして起きる。
体調が良い。
あー幸せ。
東独生の一眼レフとしては、こちらが大衆向けのモデルで値段も安い。だからかつての東ヨーロッパを旅行していて、このカメラにカールツアイスの高い広角レンズを付けている人などは、この人はかなり写真がうまいのではないかと通りがかりに尊敬したものであった。
1966年にエルスケンの写真集、スイートライフを手に入れて、彼がライカで撮影をしていると言うことを知った。当時の私は19歳。
その後にロバートフランクも、リーフリードランダーもライカで仕事をしていると言うことを知った。
それで同じライカを手に入れたのが1967年11月。私が20歳の時の話。
これは結構フェアなカメラに対する考え方であって、同じスタートラインで同じライカを持っていれば、後は才能の違いだけが結果に現れるわけだ。
仕事でチューリヒ空港からプラハ空港に朝飛行して、着陸の前に、飛行機はプラハの街の東の果てで大きく西旋回して、だんだんコードを下げて、旧市街の北側を通過して、プラハの西の町外れの空港に着陸するのである。
天気の良い日の午後に目の前にある中央大橋に午後の日差しが輝いて白く光って眩しくなる。これをカサブランカ状態になると呼び名表しているのである。
1967年の11月の終わりに、私が新宿のラッキーカメラで購入したライカM2のブラックは1週間位で、表面のペイントが全部剥がれてしまった。
エプソンのレンジファインダカメラの撮影で写真集に掲載した作品だから、これは2005年の12月だったかな?
広告とかメディアの仕事だと担当ディレクターがフルサイズでお願いしますと言ってくる。そのことを逆らっては仕事にならないので、私はフルサイズデジカメをレンタルしてくる。実際にフルサイズは持っていない。
フルサイズでなければと言う人は、スペックオタクである。実際問題としてAPS-Cサイズで仕事をして、3フィート6フィートにプリントしても何ら問題はなかった。ローモードも使わないくて全てJPEGである。
1970年にリスボンのこの街角を撮影した時、デジタルカメラは存在しなかった。その50年後に私の友人が同じリスボンの同じカメラアングルで撮影したのがこれです。
小学校の時に1957年だと思うけど、アサヒペンタックスが登場した。値段もよく覚えていて49,500円で、当時としては大変な値段であった。
言の発端は、1973年の5月に、偶然の機械からライカへM3につけたズミクロン50ミリと、このカメラについていたゾナのコピーのジュピター50ミリを同一条件で撮影して11 × 14インチに引き伸ばしてプロ写真家に見せたら、どちらがどっちか区別がつかなかったこと。それ以来、それ性カメラとレンズを信頼するようになった。
ゾルキーは5型より新しいモデルはフィルム巻き上げがレバー式になっているから、ライカエ型と同じ感覚で使うことができる。しかもライカムについていない。シド調節と言う。素晴らしいおまけも付いている。
一眼レフで人気があるのはミランダのファーストモデルである。最初はフェニックスという名前で登場させようと思ったら、外国に似た名前の一眼レフがあるので、ミランダと言う名前になった。
カメラの宣伝のためのキャッチコピーと言うのは、どれも退屈なことだ。それを実際に体験しているのが私である。
1980年の秋に当時暮らしていたウィーンからドイツのケルンにフォトキナと言うカメラの見本市を取材に行って、その後パリを経由してポルトガルのリスボンに行ったのが初めてのリスボンとの出会いであった。
ソ連で作られた腕時計が好き。大昔はソ連で作られたカメラを愛用していて、今でもそうだけど、時計の初心者だったからすぎ、ス製のロレックスなどがいいと思っていた。その後スイス製だけど、WCとかそっちのほうに興味がいったのだが、今では子供の趣味であると反省している。
リスボンの中心部の馬地区に、当時はまだ中古カメラ屋さんがあった。そこでフランス製のフォカのボロボロのやつを手に入れて、早速それで撮影を始めたのである。
その時のカメラの話は日本に戻ってきてから私が発表した1番最初のカメラ生だった。それを日本カメラの前田編集長が面白いと思って、私に連載原稿を依頼してきたのである。
だから私にとってリスボンはカメラエッセイのスタートラインであり、最初のテーマカメラはフォカカメラであった。
この場所は1部のカメラ人類には結構有名になったのだが、二股の分かれ道の消失点が2つあると言うところがポイントである。ヨーロッパの他の都市では、消失点は同じ高さになってしまうのがほとんどである。
50年前のオリジナルの私の写真は手前にカメラは写っていない。それでこの写真は撮影されてから40年位経過して、富士フイルムの広告に使われたりした。私は広告出身者だから、富士フイルムの担当者さんに実はこれは富士のカメラでも富士フイルムでもなくて、フランス製のフォカで、フィルムはフランス製のトライエックスですと言ったら、写真がいいから問題はありませんと言う感じで広告に使われたのである。
私の友人が同じ撮影ポイントに行って、トプコンカメラを手に持って撮影した。別にトプコンカメラの広告と言うわけではない。
最近この人のことを思い出して、ウィキペディアでチェックしたら、出生の頃からいろいろ大変波乱の人生であることが判明した。
それで、青空文庫に北大路山人の書いたものが結構あるので、それをペラペラめくっていたら、納豆茶漬けの話が出てきた。
私は食通知ったかぶりで、大阪には良いマグロの刺身がないから、大根おろしで食うなどと言うことを書いているが、これは全部受け売りなのである。
半世紀前に納豆茶漬けがうまかったと言うことを思い出して、またやってみた。
後期高齢者になって、納豆茶漬けを食べずに死んでしまうのはもったいないと言うことを再認識した。
そこで不定期ではあるが、2代目さんが自分の写真を非公開の一晩だけの写真展と言う天才でオープンしている。昔はこういう写真展示は何の意味もなかったが、今ではインターネットと言う通信手段があるから、一晩だけ後悔しない。写真展が開催されたと言う事実そのものは世界中に伝わるのである。
これをなんと考えるかと言えば、要するに1種のコンセプチュアルアートなのである。写真展の開催した。しかも非公開であると言う事実は、世界中に通信されるわけだ。
40年以上前ニューヨークに暮らしていた時、私の好きな写真家ルイス・ヴァルツがマンハッタンの57丁目の高層ビルの29階の小さなギャラリーで写真展を開催した。
この写真展はアポイントメントオンリーなので、私は電話で予約をして出かけていったのだが、空間感覚からするとギャラリー白さんよりちょっと広いと言う位のミニギャラリーなのである。ニューヨークでたくさんの写真展を見たが、このミニギャラリーでアポイントメントオンリーの写真展をよく記憶しているのはなぜだろうか。
このニューヨークのギャラリーの携帯を極端に進化させるとギャラリー白さんの一晩だけ開催されているが、一般には公開されないと言うエクストリームな状況にまで到達すると言う事は確かなのである。
古いゴダールの映画などを見ていると勝手にしやがれであったかどうか覚えてないけれど、当時のパリの通りの背景にこのバルコニー付きのバスが映り込んでいた。
バルコニー付きのバスと言うのは世界中ウロウロした。私の記憶では他に例がなくて、パリのこのバスしか思い出すことができない。
それで私などはこのバスのリアのバルコニーからパノラマ写真で、いろいろなパリの街角を撮影した記憶がある。
このショットはバルコニー付きバスから降りてバスが遠ざかっていくところを取ったショットであると思われる。
ところでメトロでもパリのバスでもコントロールが結構元気であって、いきなりチケットのチェックをするのである。私はバスに乗ってチケットをチェックしようと思ったら、その間にコントロールがやってきてチケットを持っていないと言うので、その場で降ろされて罰金を払ったことがある。何しろ相手がフランス語でまくし立てるのだから、こちらは手も足も出ない。
何十年ものヨーロッパ生活の公共交通機関で、ただ1回だけ無賃乗車で罰金を取られたのはこの時なのでよく記憶している。
戦前に岩波書店から出された彼の文章と写真を収録した面影というのがあって、そこに収納されているローライフレックスで撮影した写真がなかなかストレートフォトグラフィーで素晴らしい。
私は長い家風の下流小説は嫌いである。それよりも写真家としての仕事を高く評価しているのである。
小さな丸いテーブルにクロスがかかっていて、いろいろな食品が置かれている。この写真を見て、以前から私が不思議に思っていたのは、全体の距離感が壊されていると言う異質な視神経の感覚であった。
それが何十年も続いてある時この写真を見ていて、なぜ私が持っている写真家の距離感が壊されているかのその理由がわかったのである。
その原因は写っているワインボトルにあった。ワインボトルの大きさが通常より小さいので、遠近感が否定されていると言うことに気がつかなかったのだ。
永井荷風はそれほど酒を飲む。口では無いから、彼の日記を読んでいても、銀座あたりに行くとワインボトルを求めて帰ってきたと言う行がよく見られる。そのワインボトルと言うのはフルサイズではなくてデミサイズであった。これで長年の疑問が一挙に解消した。
片岡義男さんを私は知らなくて、その時に初めてお目にかかった。神田の如水会館の部屋で2時間位お話をした。それで片岡さんは私を気に入ってくれたようで、その後いろいろなお付き合いが始まって東京を一緒に歩いたのである。
片岡義男さんを私は知らなくて、その時に初めてお目にかかった。神田の如水会館の部屋で2時間位お話をした。それで片岡さんは私を気に入ってくれたようで、その後いろいろなお付き合いが始まって東京を一緒に歩いたのである。
私などは3粒フォトグラファーであるから、東京の街並みを取る時もそこに通行人が入ってくると餌になると思ってシャッターを押す。
一方で、片岡さんは純粋芸術であるから、通行人の典型等は必要としなくて撮影の直前に彼が構えた。フレームの中に人が入っていると腹を立てるのである。片岡さんが面白いのはその思っていることをそのまま音声に発するところにある。
片岡さんのお住まいは、玉川学園でかなり東京の西の方であるが、そこから電車を乗り継いで北千住の先まで撮影に来るのだから、そのフットワークはすごいといつも感心している。