【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 6【徘徊】最終更新 2025/06/19 06:171.名無CCDさん@画素いっぱい9ooWCRMi0尊師降臨過去スレ【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ日本大学芸術学部写真学科卒業日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなるオーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集めるなお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催されるその写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたないその端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16340871892021/10/13 10:06:29247コメント欄へ移動すべて|最新の50件198.名無CCDさん@画素いっぱい2QGXF1971年12月14日は典型的な日本の晴れた寒い日だった。この日に関内の東京カテドラルで結婚式をあげたのである。家人の場合は金沢でミッションスクールに通っていたりしたが、私の場合は心音勝負坂と言うわけだから、宗教戦争になりそうだね。東京カテドラルでの結婚式の料金は30,000円であって、これは当時の月給よりはちょっと安い位だった。一応勉強会があって、イエスキリストのありがたいお話を何度かに分けて聞いたのである。結婚式には友人知人がたくさん来てくれて嬉しかった。田村代表とか稲越幸一さんとか千客万来。カメラマンが多くて、芸能人並みであったが、写真をくれた人は1人もいなかった。それから50年経過した。私のギャラリーバウハウスの写真展の時に横木がその時撮影した写真を持参してくれたのである。実に結婚式から半世紀経過して、結婚式の写真を持ってきてくれると言うのはこれは新設とか言うレベルを通り越して完全にコンセプチュアルアートになっていると言うところがすごい。横木本人はそういう認識をしていないと言うところがさらに凄いと言うわけだ。2025/01/14 09:42:11199.名無CCDさん@画素いっぱいgsDuvプラハの文化人が自慢する事は、いろいろな建築様式の中で、キュビズム建築と言うのは実現化をするのが難しいので、極めて数が少ない。その立体派建築が、わが文化を誇るプラハには、3つも4つもあるというのが自慢である。確かに、プラハの文化人が言う通りであって、その建築物はプラハの修道院の近くの川のそばに固まって存在する。しかもそれであると言われなければ通り過ぎてしまうような割としょぼい建築なのである。しかし、建築様式としては立派なのだから、尊敬しないわけにはいかない。このキュビズム建築は、そのうちの1つであるが、4階建ての小さな小さなアパートメントで、確かに窓のデザインは立体がであるが、それ以上に特徴があると言うわけでもない。このキュビズム建築よりもうちょっとマシなものは、この建物から南に数百メートル行ったところにある。こちらの方が立体派の特徴がよく出ていると思う。それで、私のプラハをテーマにしたエッセイの中で、1968年の8月ソ連軍の戦車がプラハに侵攻してきた時に、フィクションとして、私はこのアパートメントに住んでいる22歳の工場労働者と言うことになっている。それでもう一つのアパートメントに住んでいるのが友達で、エッセイの中のプラハ人の私とその友人はお互いにカメラ好きであって、休日にはソ連製のカメラを持ってプラハの旧市街を散歩して、その後大写真家Sudekのアトリエに行くと言う展開になっている^_^フィクションであるとは言え、切詰建築と言うのはそういう普通のアパートメントの形をとっているのである。そこがそれで素晴らしいと言うことができる。2025/01/18 08:33:52200.名無CCDさん@画素いっぱいf64Ps1995年頃のアサヒカメラの特別号だったと思う。木村伊兵衛と言う人は、彼はアサヒカメラ専属契約と言うものをやっていて、他のカメラ雑誌には作品は出さないと言う決まりだった。それだけ写真文化のステータスが高かったと言う意味だ。だから、亡くなった後も、木村伊兵衛プライスもあることだしよく特別号を出したのである。そうなると、木村伊兵衛さんのアシスタントをやっていた文化勲章。受賞者の田沼さんと木村さんにライカを提供していろいろお手伝いをしていた。ライカの輸入代理店の明石技術部長さんともう1人は高校生の時にライカの輸入代理店に初めて行って、生まれてはじめてのライカのネックストラップを買った。田中長徳と言うキャラクターとしてはかなり凸凹であるところが面白いと思う。実際のわたしは木村さんに会ったのは1度だけでそれは銀座のライカをたくさん置いてある。中古カメラ屋さんで狭い店の奥に丸椅子に座っている名人を見て二言三言言葉を交換したに過ぎない。だから他のお二方とは存在の交流の深さがまるっきり違うのである。それでも私を取り立ててくれたアサヒカメラには感謝しかない。^_^ 1970年代の初め頃、これから日本が中国と国交を開設しようとしたときに、木村さんと篠山紀信さんと北井さんの3人が中国を取材に行って、これは非常に良い仕事であった。期待さんはまだキャノンの古いレンジファインダーを使っていた時代で、その直後に明石さんとつながりができて、本格的ライカユーザになったのである。いずれにしても、デジタルライカが登場する。何十年も、前の真実のライカ人類交友録であったとも言える。2025/01/20 10:56:47201.名無CCDさん@画素いっぱいtXHnMレオ、タックスと言うカメラは、寅さんの街柴又で作られていた。駅前の寅さんの銅像から5分ぐらいぶらぶら歩いて、荒川の土手のすぐ手前にレオタックスの最後のワークショップがあった。ライカカメラがスクリューマウントで、最後に行き着いたのはライカ3gであって、ついにレバー巻き上げにはならなかった。アンリカルティエブレッソンだけが特別なバルナックライカのレバー巻き上げモデルを使っていたそうである。それに対してレオダックスの最後のモデルはレバー巻き上げだし、クランク巻き戻しにもなっている。これは世界の内科タイプのカメラの中で当時最も進んでいたメカニズムだった。50年来このカメラを使っているのだが、もうこれ以上の進化はいらないと思う。2025/01/22 22:23:40202.名無CCDさん@画素いっぱい8RLyLウィーンに暮らしていた時に、本編の映画を2つ手伝ったことがあって、それが面白かった。これなどはまさにニュージャーマンシネマのイントロダクションのショットみたいな感じなのだ。似たようなショットを今までに何回か紹介したことがあるが、今回その数秒前のショットが発見されたので、今回掲載しておく。実際に映画の撮影をしたときの経験からするとまずこういう感じだ。手前を松葉杖で歩いて行く人は、別に映画の主人公と言うわけではなくて、エキストラの通行人なのである。そして多くの方で薬局の前に片手を添えて不機嫌な表情を見せているのがこの映画の主人公と言うふうに見れば、それぞれの映画のストーリーをそれぞれに勝手に想像して楽しむことができる。それでウィーンで撮影した映画の段取りであったが、エキストラさんはその当時1日5000円とランチ付きと言う待遇であって、どのエキストラさんも将来は映画俳優になりたいと言う上昇。思考がすごく強いいから、どうしても主役と絡む演技が大げさになってしまうのである。向上心があるのは見上げたものだが、なかなか通行人が主役を送ってしまっては難しくなると言うのもまた真実なのだ。2025/01/26 06:18:12203.名無CCDさん@画素いっぱいmw1Rrヨーロッパを動いていて、何の不思議もないと感じる事は、どこの大都会でもどこの村でも集落の中心には広場があって、その広場の中心をなしているのは協会なのである。こんな当たり前なことが当たり前として認識されていることが不思議なのである。ウィーンと言うのは、ローマカトリックのかなり中心に置かれている街であるからある時、ドイツのブランシュバイクあたりに行ったら、あそこら辺はカソリックではなくてプロテスタントだから教会を見るにしても神様の重さがちょっと軽くなったなという感じがした。プラハのカレル橋にしてもそうであって、30年戦争をあんな狭い橋の上で戦っていたと言うのは、今の常識ではちょっと想像できない。その意味ではウクライナ、ロシア戦争も宗教戦争の1種であると言うことに思い至るのである。ウィーンの中心部にあるステファン大聖堂であるが、これはヨーロッパの他の教会と同じようにエントランスから見て、左右に同じ大きさの猫の耳みたいな対象系のタワーを建てる予定だったのが予算不足で片側だけになってしまったそうだ。でもそのほうが、シック建築物の存在感としては、むしろアシンメトリカルになってる方が迫力があっていいと思うというのが私も考えた。それでファーイーストの日本の東京の話になるのだが、例えば非常に素朴な疑問として、銀座4丁目に、なぜ巨大な宗教施設の宗派はどこでもいいけれども、そういう境界が立っていないのかと言うシンプルな疑問なのである。ヨーロッパならどんな小さな村でも街の中心には教会がある。アメリカの場合はちょっと違っていて、教会はあるにはあるが、街の中心部と言うわけではない。街の中心部はロックフェラーセンターみたいなアメリカ帝国主義の経済の伝道が構えているのである。日本の場合は、そのアメリカの手下みたいな存在だから、街の中心部に宗教的な施設がないのかなというのが私の分析結果だ。2025/01/28 08:23:38204.名無CCDさん@画素いっぱいHdKI3しばらく前の私のウィーンを表現するときのエッセイの決まり文句として、路面電車が終点でぐるりとループの線路でまたこっちに戻ってくると、その先にはウィーンの森が広がっているというのがある。これは半世紀前までの表現としては正しかったのであるが、今は路面電車の終点に新たにメトロの駅がいくつも作られたから、状況はかなり変わってしまったのである。私が暮らしていたのは、ウィーンの中心部から北東にちょっと離れたところだから、ウィーンの南のほうはほとんど知らなかった。それで数十年ぶりに、メトロの終点に行こうと思って、かつての路面電車の終点のさらに南のほうに行ったら、こういう高層建築のアパートメントがメモくらむように広がっていて、それが私を驚かせた。要するに、かつてのウィーンでも、プラハでもドーナッツ上の市街地があって、その先は完全なカントリーであったのが、もう一つ大きなドーナツが外側に作られて、そこに高層建築物が建設されるようになったのである。だから、ウィーンでもプラハでもかつての町外れの外側に2つ目の待ち外れができたと言う。1種の二重構造がそこに構築されているというのが、最近のこの辺の都会の風景である。2025/01/30 05:05:06205.名無CCDさん@画素いっぱいsgFsqパノラマ写真集の正しい鑑賞方法と言うのを発見したのである。画面がアスペクトレシオで横に広いから、まず視神経を左右に動かす必要がある。写真集を見開きにしてしまうと、かなりアスペクトレシオが広くなるので、新しい写真集だとページの戻りがあって、冷静にパノラマ写真を鑑賞できないから、とりあえず何かウェイトになるものを探そうと思っていたら、手元にこのパノラマ写真を撮影したときに使ったソ連製のパノラマカメラが二台転がっていることに気がついた。それで写真集のページの右と左に1つずつ合計二台のパノラマカメラを置いて重しにして写真を鑑賞するとなかなか具合がよろしい。この感覚をどういうことであるかと言うのを説明するのはなかなか難しくて。例えて言えば完成したワインを飲んでいるときに、そのワインが地面から芽生えてきてぶどうになり、それが熟するまでのそれぞれのプロセスのサンプルが自分の目の前に並べられているような感覚。といったら、良いのであろうか?それで同時に写真集のページを押さえている二台のパノラマカメラは、パノラマ写真集を鑑賞するときのいささかの視神経の邪魔にはなっていないのである。そこら辺がちょっと素敵だね。それでパノラマ写真に最適な風景とか、場所はどこかを考えてみたのであるが、この見開きで示すようにパリのメトロと言うのは、あれは最初から我々写真家に素敵なパノラマ写真を撮影するために作られた椅子のトリッキーな空間であることに気がついたのである。全くうまくできているね。2025/02/01 09:35:01206.名無CCDさん@画素いっぱいKmJt3アパートメントから歩いて行けるところに、典型的なゴシックとか、バロックの教会が点在していると言うのはある意味で、文化財の中に住んでいるようなわけで大変貴重な体験である。フランシスカナ教会と言うのはそのうちの1つであって、私の散歩コースからはちょっと外れていて遠回りになるのでその存在を知るようになったのはウィーンに暮らして数年後の話であった。このねじれたバロックの柱と言うものの、存在感が、これは何と言うのか、エロチックというところを通り越して、グロテスクな領域に入り込んでいるようなのである。それでも街歩きをして、ウィーンの旧市街の私のアパートメントから1番遠い方を歩行している時などは、時々このねじれたバロックの柱が見たくなって協会の扉を押すこともあった。バロック建築としてはかなり風変わりな構造だと思う。それで思い出したのはプラハのカントリーサイドにある。これも結構歴史的に有名な教会なのであるが、その教会は教会の中央部の一本道というのがなくて、そこが柱で邪魔されていると言うのである。それも実際に見に行って教会らしくないと最初びっくりしていや、これは信仰の道が一途ではないと言うことを表現したものなのではないかなどと勝手な説明をつけたりしたものであった。2025/02/03 08:44:38207.名無CCDさん@画素いっぱいvjhOr1980年の11月に東京に戻ってきて、その翌年の3月から4月にかけて、日本橋の三越本店の向かいの鰹節屋さんの5階にある石原悦郎さんのギャラリーで個展を開催したのであった。はがきに使った作品は、ウィーンの旧市街の北部にある場所で、すすけて真っ暗になった巨大なアーケードなのである。そのエントランスに、今のウィーンでは考えられないが、八百屋さんがあって、木の箱に赤かぶを並べて売っていた。それで私はまずキエフに28ミリレンズがついた。カメラでエントランスと赤かを撮影して、それからポケットから小銭を出して1束分の赤かぶを買って帰ってそれを食べたのである。写真作品として撮影したそのオリジナルの食品をそのまま食べると言うのは、その時は何も考えていなかったけれども、これはそのままコンセプチュアルアートとしてもいけるのではないかと言うことに。赤かぶを食べてから半世紀経過してようやく気がついた次第だ。考えてみれば、私が赤かぶと言う野菜に親しみを感じるようになったのはウィーンの暮らしがきっかけなのである。赤株を切断してよく見てみると、真っ白い中心部からいきなり川のところが真っ赤になると言う。その超絶的な変化と言うものは、これは芸術と言わざるを得ない。2025/02/05 09:15:28208.名無CCDさん@画素いっぱいEbcnmファーストクラスへの憧れと神話というものがどんどん膨張していてとどまるところを知らない。数年前、JALが計画した企画で、ファーストクラスの食事を飛行しない飛行機の中でお客に食わせると言うヘンテコリンなイベントがあった。大体上空40,000フィートでものを送って、正常な味をそこに感じようとすること、自身が無理がある。ルフトハンザドイツ航空の広告の仕事をやっていた時に、1度だけファーストクラスのパンフレットを取ると言うアサインメントがあった。それで特別な教科をもらって、40代の男女のモデルさんを飛行機の中に呼び入れて設定して撮影をしたのである。撮影が終わって機材と撮影済みのフィルムをアシスタントに渡して、そのまま私はファーストクラスの撮影をした。飛行機でフランクフルトに向かったのである。かなり昔の話であって、フルフラットのシートがファーストクラスで使われる以前のことなのであるが、私はあのイワシの缶詰に寝なければいけないようなフルフラットのイワシの缶詰タイプの座席が大嫌いである。だから普通のクラシックタイプの方が安眠ができた。それでその時のファーストクラスのサービスと言うのが1本のバラの花をお客に提供すると言うもので、いかにも同一的だとは思うのであるが、一体植物権益の方はどうなっているのかということばかりが気になった。ドイツで植物、犬役が済んだバラの花を日本でお客に渡して、そのままドイツに戻れば。それは問題ないのかな。こちらはそれなりに仕事が忙しいので、受け取ったバラの花はそのまま残してフランクフルトに到着したのである。2025/02/06 10:14:11209.名無CCDさん@画素いっぱいwI4W9箕輪の交差点の駅からちょっと北に向かった。すぐ左側に立派な写真館がある。おそらく古いものだと思う。けれども、私も赤ちゃんの時は文京区音羽の宮島写真館で記念写真を撮ってもらった。当時は写真館の役割は、人生の切れ目ランドマークにちゃんとした写真を撮ると言う場所であった。子供の頃はマグネシウムで光を当てるのが本と言う音がして嫌なので、そのことだけよく覚えている。その写真館の右側が通り抜けの道になっていて、それをくぐると都電荒川線つまり王子電車の終点の停留所になるのだ。その通り抜け道の左側に建物の凹みのようなところがあって、そこが新聞スタンドであった。20歳台に写真家の須田さんとこの界隈で遊んでいた頃も、この新聞スタンドは存在した。須田さんの友人が天才。荒木の下駄屋のすぐ近くの2階にアパートがあってそこに住んでいた。熊谷さんと言う人だったな若者の変人ぶりを強調するために、彼の部屋と言うのは、室内が全部ブラックに塗ってあるのだ。それでこの通り抜け道の凹みの新聞スタンドであるが、10年ほど前友人と一緒にここの前を通過したときにおばあちゃんが店番をしていたのでちょっと話をさせてもらった。そういう時はこれは下町のルールと言うやつで、相手に呼びかける時は、おばあちゃんではなくて、お姉さんと呼びかけるのである。2025/02/08 06:28:50210.名無CCDさん@画素いっぱいgs2o3もう語録年前の話になると思うが、ニコンカメラで数多くの歴史的なカメラを作ってきた。そのセンターであった品川区大井森前町の101号館が取り壊しになった。3月31日と言うその年度の最後の日にミスター煮込んで有名な後藤さんが私を101号館に招待してくれたのである。私は取材で何度も101号館に行ってるのでそれなりの考えがあった。しかも猫の歴史的なカメラを作ったセンターなのである。それほど広くもない。フロアの廊下で、オートフォーカスのニコンF4ができたときに、オートフォーカスのテストなどをそういう場所でやったと言う。あまり表には出すことができないような貴重な話も聞いたのは良かった。採用人は100号館の思い出を叩いて、近くの高級レストランでフレンチ料理をご馳走になった。40年前にアメリカのモダンフォトグラフィーの駐在員をやっていた時は、ニューヨークロボスに随行して芝にあった。フレンチレストランクレセントに呼んでもらったニコンの人はフレンチ方面が好きなのかな?それからしばらくしてから、ミスターニコンから送られてきたのは、この101号館のかけらなのである。101号館ではなく、そのかけらになったと言うところが、なんとも素晴らしいアート的な発想である。元東ドイツもカルツアイスの本拠地を取材に行ったのはずいぶん前の話だが、建物の1部が取り壊されてレンガが渦高く積まれていたのである。それでこれは何かの記念になると思って何個か持ち帰って、東京カメラクラブの年々にお土産であげたら非常に喜ばれた。ただし、ニコンの欠けらと違って、カルツアイスもかけらはレンガのブロックであるから、かなり大きくて運搬が大変だった。2025/02/12 10:06:00211.名無CCDさん@画素いっぱいqC6RH1974年5月に初めて家人とパリに行った時に、最初に長年パリに住んでいる日本人の声楽家に連れ合いて入ったのは、この場所のカフェである。カルチェラタンの向かい側にローマ時代のお風呂がある例のあの場所である。別にカフェといっても、ウィーンとシステムが違うわけではないが、その並べ方が全部アベニューを見るようになっている。ところが違うポイントだ。ウィーンは寒いところだから、夏以外の時期に外に居を出して通行人を眺めるなどということは不可能である。そこら辺が東ヨーロッパとパリとの最大の違いだなと感心した。ウィーンにも200年近く前からある古いカフェて、そういうところで、作家がものを書いたりするのも通であるが、これはその原因の1つに、100年前のウィーンは自由業が極端に不足していたので、家で仕事をするよりも喫茶店で長居をしてそこで仕事をする方が効率的であったと言う背景の事情もある。それでパノラマカメラで撮影したこのワンショットなのであるが、どういう具合か知らないが、ロンドンのダブルデッカーのバスが左側に写っている。だからパリとロンドンが風景がごちゃまぜになっているような気がしてどうも落ち着かない。50年前からそういう気がしたのだけど、今も改めてこのショットを見るとパリとロンドンを足して2で割ったような感じだな。2025/02/14 05:39:32212.名無CCDさん@画素いっぱいsZC4W話に引きつけば、関西の方では普通に流通している。このカップのお酒なのであるが、東京ではなかなか屋ものである。私が調査したところでは、東京では自動販売機で2つそして実際に売っているのは足立区関原3丁目のお酒屋さん位のものだ。値段は110円だったかな?それでなかなかうまい酒なので今日は足立区関原3丁目に行って、近くの焼き鳥屋さんでつまみを買って、酒屋さんで鹿カップを買ってリスボン公園でいっぱいやろうと言う計画が浮上するわけである。リスボン公園と言うのは私が勝手に名付けた名前で正式の名前はこの地名の自動講演とか言うことになっているらしいが、それは別に問題ない。なぜかリスボンに出発する場合の日あたりにここに来て焼き鳥でいっぱいやると言う。変な習慣ができてしまったのである。それで名前はリスボン公演。数年前にリスボン公園に行ってみたら、工事の柵で中に入らなくなっていたので、これは何か講演自体が廃止になるのかと不愉快になっていたら、1年近く経ってまた元通りの講演として使うようになった。ただし子供画像に出てくるような奥に写っている子供の遊び道具などは撤去されてしまっている。ここ界隈からぐるりと回って、私が大好きな寂しいライオンのあたりをめぐるワークショップというのをやったこともある。別の日には飛ばすを乗り継ぎで、わざわざ寂しいライオンのところができて、その上に座ってビデオを撮影したことがあった。要するに、この界隈は、リスボンに1番近い私の心のノスタルジックオブゼと言うわけだ。寂しいライオンは数年前に撤去されて、今はなくなってしまったのが残念。残念。2025/02/16 06:39:39213.名無CCDさん@画素いっぱいm7BNe佃島はもともと石川島播磨重工の造船所であった。それが40年位前から住宅の建設が始まって30数年前に完成したのがリバーシティ21である。桜の名所と言われていて、春先は大変な人の混雑で公害並みであるが、それ以前は造船所であったわけだから、都市計画に基づいて大量の桜を移植したわけである。佃島に生活を開始して30数年になるので毎年見ている桜が太くなってくると言う認識は私にはないけれども、やはり成長は続けているのであろう。佃島でいわゆるお花見をした事は1度もないし、その後冗談でバルコニーからコップ酒を手にしたの桜を見た事は何度かあったが、どうも退屈なものである。私は性格がいろいろ歪んでいるのは、やはり20代の人格の形成の重要な時に、ヨーロッパで育ったということが、かなりその背景にありそうである。そういう変わり物であるから世の中の皆さんが桜が咲いて花見ということが大変重要なポイントになっていると言うのはなかなか事実として認識しがたい。私の価値観からすれば花見よりも移動し祭日である復活祭の方をちゃんと言った方が良いのではないか。最も日にちの決まっているものは日本はコマーシャル関係が設定しやすいけれども、大潮の1番最初の日曜日と言うのはなかなか桜の開花と同じで見定められるものではない。2025/02/19 09:34:48214.名無CCDさん@画素いっぱいxfwc0ギャラリーバウハウスが上のやり方で、見識があるのは、そこで一切飲み食いをさせないと言う点にある。だし、ウィンスタイルの銀のお皿に乗ったデミタスコーヒーは例外である。日本が貧しかった時代には、写真展のオープニングに必ず飲み食いがついていたものだった。大手の富士フイルムあたりでも、そういう写真展の後の大宴会をやっていた。私はそういう場所でものを食べると言うことをしたことがない。ただし、ワイングラスぐらいは手にしていないと変わり者であると思われているから、そこら辺へは気を遣っている。ギャラリーバウハウスの近くの聖橋は、実に素晴らしい。東京大震災の後の復興計画のうまく成功していた例であると思う。その橋の保に私が20年位前から東京バルコニーと名付けているポイントがある。要するにブリッジのたもとなのであるが、ゴージャスな大理石作りでちょっとした石でできた立方体もあって腰掛けられるようになっている。だからバウハウスで写真展をやった後は、各自飲み物を持ち寄って、ここで野外パーティーをやると言うのがいつもの例である。パーティー参加者がとってくれた。iPhoneの写真だが、素晴らしい樹木が写っているのは、これは湯島聖堂の関係の樹木だから、育ち方が違う。パーティーが盛り上がって月も空の高いところから顔を出してきた。東京バルコニーは良いロケーションだから、東京都がここをカフェにしたら良いのではないかなどと人に言ったけど、ありがたいことにまだ自由で使うことができる。東京バルコニーと言うタイトルについて説明しておくと、30年位前にFM東京でネイティブスピーカーの日本語を話す。女性がキャラクターであって、そこに参加した日本人にちょっと英語を話させるのである。ところが日本人だからこの一言の英語が出てこないのだな。それが東京バルコニーと言うタイトルを私が設定したイニシアのお話だ。2025/02/21 10:11:26215.名無CCDさん@画素いっぱいQXe2Kウィーンと言う街は、路面電車がかなり発達している。それで路面電車をうまく乗りこなせば大抵のところに結構迅速に到着できるのである。そのネットワークをカバーするためにバスも発達している。バス路線はメインの路面電車に平行に走っていることが多い。ウィーンの路面電車で路線番号が49番というのがある。これは中心部の国会議事堂の脇から出発して、右の西野カントリーにつながっていると言う重要な路線である。その49番が中心部の国会議事堂の脇を出て、しばらく西に向かった。走ったところにものすごい球角度のクランクのカーブがあるのだ。これは別にウィーンに責任があるわけではなくて、大昔の馬車が交通手段だった頃の町並みにウィンド局が、いきなり路面電車の線路をひいたから、こういう問題が起きるのである。そのクランクカーブの路面電車はフォトジェニックなので、よく撮影に行ったが、そこにバスが走っていることもある。そうなると、合わせ鏡の街ウィーンのシンボルそのもので、バスは商店のウインドウに突入しているように見えるところが面白い。これは世界中をコロナが襲う。1年ほど前にザルツブルグ近代美術館が私の写真を何十点かコレクションしているので、それで企画展をやろうと言う話が持ち上がって。私も久しぶりにザルツブルグに行こうと決心したのであるが、コロナのおかげで中止になってしまった。2025/02/23 08:05:40216.名無CCDさん@画素いっぱいX3mPjザルツブルグ近代美術館のコレクションになっている私の1点の作品である。どのようないきさつで撮ったのかを非常にはっきり覚えている。ワンショットだ。近くのカメラ屋さんでブラックコンタックスを5000円で買ったのである。当時はブラックコンタックスは人気がないのである。ジェントルマンがその中古カメラ屋さんに持ってきたら家ではそういうものは買わないと言って拒否されたのである。カメラ屋さんの営業妨害になるといけないから、そのジェントルマンが外に出てしばらく歩いたところで私は声をかけて5000円で譲ってもらった。当時のライカは人気があったけど、カルツアイスの人気と言うのはその程度であったのだ。テッサ5センチの標準レンズが付いていた。すぐフィルムを入れて街の繁華街を歩いていたら、このおそらく50年に1階位の頻度で起こると思われる銀行の看板の掛け替えをやっていたのである。それで撮影はこの1枚しかしなかった。50年に1階の銀行の看板の掛け替えと言うのは1枚だけ取れれば、充分であると言うのが私の考えである。しかし、これはシャッターチャンスと言う部類に入るのであろうか?国連の人類の文化遺産で、最近人気になっている。古い都Telchの話だけど、広場の真ん中に古い古い噴水がある。それが新しい噴水に回収されて、古い噴水の金属のパーツなどが脇に捨てられていたので、私は記念に軽いやつを持ち帰った。もちろん新しい噴水も撮影したんだけれども、噴水の作り替えと言うのは、おそらく300年ぐらいのレアなシャッターチャンスなのではないかな?2025/02/26 14:17:57217.名無CCDさん@画素いっぱい73rnaニッカウヰスキーのブラック第二次大戦中にドイツから重要な兵器である所のライカカメラが届かなくなって、日本の軍部が他店とも何も問題ないから勝手に作ってしまえとひどい戦争のやり残しを達成したのがこのカメラである。当時は日本カメラといった。私はニッカウヰスキーカメラと呼んでいる。特にブラックはなかなか酒の魚のつまみになるのである。そうなるとやはりレンズもブラック系統がつけたくなるから、戦前のカールツアイスのテッサ2.8センチのブラックをマウントアダプターで装着したりしている。こういうマウントアダプターで、レンズの交換の遊びをすると言うのは、カメラとレンズのコスプレみたいなもので、それはそれなりに結構知的な要素が働いて楽しいものである。レンズをマウントアダプターに入れて、他のカメラにつけると言うのは、もともとは他にやり方がないから、そのようにレンズとカメラをドッキングしたと言う実用性をもとにしていた。私が最近批判しているのは、ありとあらゆるマウントアダプターで、ありとあらゆるレンズをありとあらゆるデジタルカメラについてちゃんと映りました。いい描写です。などと言っている連中は吐いて捨てるほどいるけど、情けない時代になったのだと思う。豊かすぎると、心がしぼむと言うやつだね。2025/02/28 08:11:54218.名無CCDさん@画素いっぱいCzL0O覚醒剤と言うのは、戦前は簡単に薬局に売っていたと言うのは、今の我々の世代ではにわかに信じがたい。四半世紀前だが、どっかのカントリーの薬局で、覚せい剤の大昔のやつがそのまま店頭に並んでいたので、取り締まりの対象になったと言うニュースを読んだ記憶がある。ヒロポンなどが代表的な薬であったらしいが、その当時の文芸雑誌を見ると、表紙の反対側にちゃんとヒロポンの広告が出ているのはなかなか面白い。眠気覚ましとか疲労を感じさせないと言うので、戦争中はずいぶんそういう悪い目的で使われたものなのであろう。覚醒剤は絶対いけませんね。阿部工房と言う作家は私は嫌いなのだが、彼の叙述の中で実際にヒロポンを服用した人間がどのように感じているかというのを書いた。短いセンテンスがあって、それはじーじーヒロポンが効いてくると言うのである。これは文学者としてなかなか良い文章の使い方だと思って、時々思い出すのだ。コロナ騒ぎでやたら政府が無料で国民に駐車しようと思っていた。1連のワクチンにしても、時代が経過すると、これと同じことで、あの頃はひどい人体実験を得られていたということになるのだろうね。2025/03/05 14:43:36219.名無CCDさん@画素いっぱいPrpjK私のような大昔の映画人類はポーランドと言うと灰とダイヤモンドを思い出す。その後に来たのが、これは実際に取材に行ったわけだが、ポーランドの自主管理ロースを連帯である。連帯は結局当時の大統領やルゼルスキーに潰されて長い戒厳令の時間が来た。その戒厳令の時間が明けて、最初のウィーンワルシャワの飛行機で、私は週刊朝日の取材でワルシャワに行ったのである。飛行機は報道陣だらけで期待の後ろ半分は薬品などの救援物質であった。ジャーナリストとしての属性は隠していったものだから、いつもは止まらない五つ星の最高級ホテルに宿泊して外出禁止になる。夜10時以降、バルコニーで耳をすましていると、遠くにタンクのキャタピラのような音がした。中央の広場からちょっと歩いたところに中古カメラ店があったのは我ながら中古カメラを探すかと言うのが幸和当たっているなと思ったのである。そこで手に入れたのがこのポーランド製の2段レフだった。デザインがなんともいいよな。そこに遊びに来ていたワルシャワの市民と知り合いになって、彼を五つ星ホテルに伴って、一晩中ウォッカを何本か開けたので、翌日はすごい二日酔いだった。やはりポーランド人にはかなわない。彼らは逆にウィーンに来て、ワインを飲むと酔っ払ったりするのである。ワルシャワ市民の娘さんと言うのがちょうど年頃で、いろいろ私に西側の品物をおねだりしてきたので、帰国してからジーンズとか、なんだかずいぶん送ってあげたことがあるが、それも40年の昔になったのだ。それでワルシャワを出発するときに、私は多分秘密警察に備考されていたのだと思うけれども、フィルムを全部募集されそうになった。高い取材費をもらってきているのだから、係のポリスが電話に出た間に、私は56本のフィルムをいきなりポケットにねじ込んだのである。全然怖くなかった。係の人間の許可を得てポーランドにある日本大使館に電話した。これは英語でしゃべらないといけないのである。何も助けてくれませんよね?と言ったら、残念ながら何もお助けできませんと言うのが答えであった。それで共同通信の悪い者支局の友人に電話してこういうわけになってフィルムが募集されそうだから、ピックアップしに来てくれと頼んで、私は5本のフィルムだけ隠し持ってwinに戻ったのである。2025/03/06 07:41:57220.名無CCDさん@画素いっぱいwTUeKウィーンの住宅でバルコニーと言うものの存在する数は非常に少ない。大抵の住宅は窓が付いているが、バルコニーはついていない。その絶対的に数の少ないバルコニーに、たまたま人間が立つと、どのような効果を生むのかということを考えてみたい。ウィーンで路面電車で走っているときに街の角で停車した。何気なく建物を見ると、そこに立派なバルコニーがあって、男性2人が立っているのである。反射的にカメラを向けて撮影したのがこの画像である。手前にお日様のマークのついたトレーラーが止まっているので、最初はそちらの方を取ろうと思っていたのだが、結果としてバルコニーに立っている男性とおひさまマークが両方映った。それで後で考えてみるね。手前のお日様マークはそれほど重要ではなくて、奥に立っている2人のジェントルマンが非常に偉い人に見えたことだ。これはどういう理由から来ているのであろうか?1955年にオーストリアが戦争に敗れてから、10年ぶりに独立した時、その記念の調印式があって、その書類を国民に見せると言うために、ウィーンのど真ん中のお城の広場の上に、当時の首相と大統領がルコニーに出て、その調印証書を集まった国民に見せたのである。その場所は、ウィーンの防府、ブルグ宮殿であるからまずファーストクラスの建築物といっても良いのだが、そのようなお城でもバルコニーの数は非常に少ない。しかもバルコニーの幅が狭い。その歴史的な報道写真を私は見ていたので、刷り込み現象で数の少ないバルコニーに人が登場すると大統領閣下が出てきたのかと思ってしまうわけである。まぁ実際にはタバコを吸ったのでしょうね。^_2025/03/10 06:45:05221.名無CCDさん@画素いっぱいQ527V10数年前にアスキーから出し方カメラの使い方の本の新書である。そのトップにこれは編集部から勧められてセールスプロモーションのつもりでカメラを携えるものが心得るべき10二箇上と言うのを書いた。これは今でも有効なのが面白い。最初の第一回上でカメラを常に携えると言っているのであるが現代にあってはこれはデジタルカメラからiPhoneに移行してそのまま有効なカメラ人生の過ごし方であると思うその次にバッテリーの電気を切らさないようにしようと書かれている。これもまさに正しくて初期のデジタルカメラと言うのはバッテリーの消耗が早かったからバッテリーがアウトになるかメモリーがアウトになる日の1種のスポーツ的なゲームの展開であったのも今では懐かしい。カメラのバッテリーの方が以上に成長を止めて1万枚でも撮影可能な容量を持っているデジカメのメモリーであるがバッテリーの方がどう思う20年30年経過してもあまり新刊が見られないと思う。初期のデジタルカメラの場合はそこら辺で売っているミニバッテリーを一本化日本突っ込めば当座の5枚80枚のデジカメでの撮影が可能であった。そういう便利さと言うものが今は一切なくなって専用バッテリーの場合も機種によってスタイルを少しずつ変えておいて教養ができないような意地悪な構造になっている。日本のあるカメラメーカーの企画のお手伝いをしていた時に私などを取材先でそういう緊急事態がよく怒ってとにかく1枚でもデジカメの画像があればそれを日本に送ることができるからデジカメに緊急用のハンドクランクをつけておいてそれを回転すると1枚写真が撮れるのではしたがダメだった。自動車だって私が運転免許を取った頃はちゃんとエンジンにクランクが付いていてそれを回転させて手動でエンジンをかけたものである。あのやり方が1番確実なんだよね。終わりのほうのセクションでなるべく容量の少ないメモリを使うべしとあるのは今でも有効である。何千枚も撮影が可能なデジカメだと映像に対する思考が鈍ってしまうのである。ライカと同じように極々小さなメモリ容量で50枚位で1枚のカードが使えるようなのが理想だと今でもしています。2025/03/15 17:40:44222.名無CCDさん@画素いっぱいtyzz91973年にウィーンに到着して、最初の散歩と言うのは、最初に落ち着いたところがベートーベンがなくなった場所のすぐそばなので、そこから路面電車の子坂のラインに沿って東側方面に歩いてドナウ運河に到着した。そのカメラ、散歩の途中で、オーストリアで1番最初に作られた鉄道の駅であるフランツヨーゼフステーションの中に入ってみたらクラシックな看板がたくさん並んでいた。そのことを記憶しておいて、数ヶ月後になって同じところを訪問して撮影したのがこのショットである。既に私はソ連製のコンタックスコピーの寄付を持っていた。これは蚤の市でどっかの大学の先生から500シーリングで買ったものだ。レンズは今ではレアな子センチの円風1.5がついている。そのレンズの解放を絞りで撮影。ポスターとか看板広告はなかなか写真家としては難しいところがあって、それぞれのポスターの単なる複写ではないかと批判する向きもあるけれども、ウォーカーエバンスが戦前に撮影した素晴らしい作品の中には、単にポスターとか案内版とかの複写等見られても仕方がない作品もある。しかしそういう印刷物も、撮影しないと忘れられてしまうから、それはそれで写真家の重要な仕事であると思う。2025/03/16 06:51:14223.名無CCDさん@画素いっぱい0VeOFスイス製の高級一眼レフカメラアルパであるが、1947年に最初のモデルが作られた。このカメラのもともとはスイスの時計メーカーの下請けをやっていた会社がカメラを生産したと言う伝説がある。戦前にジャガールクルトの会社がコンパスと言う高級カメラを出したこともあった。それで時計メーカーが作ったカメラに共通して私が感じるのはこれは時計であると言う存在感が非常に強烈なことだ。時計ではあるのだけれども写真を撮ることもできます。と言うような微妙なものの、属性のバランスに両足をかけているようなところがあって、それがこのカメラの魅力である。実際にアルパカメラの初期モデルを操作してみると、古い懐中時計のネジを巻いているような指先の感覚がそこに蘇るのである。初期モデルの方がなかなか我々カメラ好きには気に入ったところがあって、例えば一眼レフのミラーはクイックリターンではなくて、上がりっぱなしになるなどと言うのも品格が高いと言う気がする。オリジナルはオランダのオールドデルフトの50ミリが付いているのであるが、他に交換レンズがなかなか見当たらないので、25年位前に友人に頼んでレンズマウントアダプターを作ってもらった。ペンタックスのレンズが全部この初期のアルパに使うことができる。ところが、そのレンズマウントアダプターの食いつきが、ちょっと甘いので、頭の悪い私はカメラボディをアロンアルファで固定してしまったのである。こうなると、地球の実験軸と同じことで、絶対に動かしたり外したりすることはできない。それでも風の少ない純正アルパマウントレンズよりもレンズマウントアダプターは外れないけれども、そこら中にあるタマーレンズとかエム42のレンズを使えるようにしてあった方が、実際問題としては現実的なのである。この時代のカメラはネックストラップアイレットがついてないから、エバレディケースに入れて使うというのが常識になっているが、これがまたエバレディケースが単体で数10,000円すると言うような我々の足元を見たひどい商売が行われている。私の友人で、カメラに関しては、かなりお若いのにレベルの高い人がいて、その人が私のためにホームメイドのエバレディケースを作ってくれた。皮肉なことにアルパのスイス製のオリジナルのレザーケースよりも、その作り込みのレベルが高いので素晴らしい。2025/03/26 07:57:53224.名無CCDさん@画素いっぱいmZ4Ujいいね2025/03/30 09:52:29225.名無CCDさん@画素いっぱい6EgCzフランス製のブランドと言えば、一般的にはたくさんあるであろうが、私にとってのフランスのブランドはやはりルイヴィトンである。1974年だったと思う。けれども、日本のアサヒカメラの編集長に頼まれて、パリの本店に買いに行ったのだ。その当時はルイヴィトンはまだ日本に輸入されていなかった。これはゴージャスだなと思ったのは、凱旋門のすぐそばのお店に入ったら非常にゴージャスな感じで対応してくれた。店員さんが私専門の店員さんであって、お勘定をするまでいろいろにサジェスチョンをしてくれたり、お手伝いをしてくれたりしたのである。中古カメラばかり知っている私だが、フランスの高級ブランドはこういうような接客扱いをするのかと感心した。でも、フランスのブランドでスーパーブランドと言えばエクレールである。この稲光というか電工のシンボルマークがすごくシャープでかっこいい。この稲妻マークはカメラの裏側のフィルムマージンを装填する。すぐ左側のスペースに金属板として取り付けられている。だから、ヌーベルバーグの映画監督とか、カメラアシスタントはフィルムマガジンを交換するたびごとに、この栄光の電のマークを見たことであろう。もう一つのブランドマークはカメラの左側の側面に付いているもので、これはビューファインダーのすぐ下だから、カメラマンは撮影の直前と撮影直後に、いやでも金属版のエクレールのマークを見なければならなくなる。^_^そちらのほうの金属マークには、エクレール瓶フレックスどうやって35 16スタンダードと記入されている そして、その文字列の全体が、風にはためくフラッグのゴージャスな構図で封じ込まれていると言うデザインで、瓶フレックスを欲しいと言うのは、このブランドマークを所有したいと言うことそのものなのであった。 この風に翻るフラッグのことを、私は20歳代にデラシネの何時フラックと呼んでいたのである2025/04/06 12:42:08226.名無CCDさん@画素いっぱいtX6iE東京とその周辺部の看板に興味を持ったのは、もう20年位近く前のことで、日本路地裏学会のMomoki会長と東京をウロウロしているときに、彼女はそちらのほうの専門日でもあるから、なかなか新たな発見があった。このショットは足立区の関原あたりのおそらく今はもうないと思う。けれども、関原で有名なランドマークにボロボロのお茶屋さんみたいのがあって、それはサビ王と呼ばれていたのである。そこがマンションになって、もう20年近くが経過する。撮影に行く時はいつも1人が原則であるが、この時は友人の写真家同行した。私がこのカタログの看板に納得したのである。そういうときのカメラ機材はよく覚えていて、ブラックロード2 44ミリのレンズであった。からネガフィルムで撮影は1枚しかしていない。それでいろいろ考えたのだが、このカタログのカンパニーはなかなかいい味が出ている。ただそこで危険なのは、実際にこのカンパニーに仕事を発注してしまったりしたら、極々普通の結果になってしまうであろうということで、私が評価しているのは、この会社の汚れた時代遅れの看板をオブジェとして高く評価していると言う意味である。撮影の途中ではぐれてしまった友人の写真家は私と合流して、ゆうにさっきこの先の小さな町工場で作業している所を写真を撮らせてもらったのだが、その作業というのが大船の模型というかおもちゃを作っているというのである。これなども小さな町工場が作るものとしては、非常に奥ゆかしい感じがして、それで足立区関原界隈が好きになったのは、そんな理由によるのだ。関原にはまだランドマークがあって、ブルドッグと言う名前の洋食屋さんで、これは文芸評論家の福田和也さんもよく行く店であったそうだ。その近くにマッチ箱を押しつぶしたような斜めになっている。床屋さんがあって、そこに私がびっくりしたのは押しつぶされたマッチ箱の状態で現に営業をしていると言う点であった。足立区は凄いところがたくさんあるな。2025/04/15 05:34:41227.名無CCDさん@画素いっぱい1WQOM^_^ブルーゲルが日本でブームになる以前のことだが、エグゼクティブマガジンの取材でヨーロッパにあるブリューゲルの名作をイタリアから始まって、ウィーンを経由してドイツオランダとミュージアムを取材したことがあった。その時理解できた事は、ブリューゲルに限らず名作と言うものはそれが所蔵されている。ミュージアムで見るのが正しい見方だと感じた。ブルーゲルは、日本では指屋さんが10年に1回ぐらい開催して、これはもう1種の文化的伊勢参りみたいなものだから、自称文化人、美術愛好の人々が押し寄せて、人の頭しか見えなかったと言うので、それを自慢話にするのは、大阪万博よりかは文化レベルが高い事は言うまでもない。ウィーンに暮らしていた時は、年間パスを買って暇な日には、昼前からリューベルの作品の前に座って時間をつぶしていた。大変ぜいたくな話で座り心地の良い真っ赤なベルベットのチェアが私用に置かれているのである。^_^そこで私が考えた事はこういうことである。ブリューゲルのこの名作は、実は私の所有なのだが、私の好意的な意思でここに置いて、他の人々にも見てもらっているのだと。これは妄想ではなくて、実際にそうなのだ。文化財と言うものは、その所有者はパブリックなものだから、あなたも私も好きな文化財の所有者になっているわけである。ブルーゲルの名作が日本にやってきた時、テレビニュースなどで紹介されてあたしみたいなじじいがやっぱり本物は違いますと言ってるのは吉本興業のギャグよりはるかに面白い。日本にやってきたブリューゲルを押し合いし合いで、人の頭越しに見るよりも、それが本来あるミュージアムで見た方が落ち着けることには間違いがない。それに最近のオンラインの改造力は素晴らしいから、わざわざ外国のミュージアムに出かけていってみるよりも、オンラインで見た方が楽だし、理解が深まる。世界中のミュージアムは所蔵品の複写をオンラインで見せているから、便利な時代になったものだと思う。2025/04/16 14:59:14228.名無CCDさん@画素いっぱいbGHjY袖擦り合うもキエフの縁ウクライナ戦争が始まってからこの街のことをキエフではなく、キーウと言うらしいが、私はわかりにくいから、オリジナルのままのキエフにしておく。キエフと言うカメラが非常にたくさんあって、このコンタックスコピーから16ミリのミニチュアカメラそして66サイズのハッセルブラッドタイプの一眼レフまでが存在する。言い換えれば都市の名前を代表してカメラの所属系統を一言で表しているのだから、非常にわかりやすいと言う言い方もできる。最初にキエフカメラを使い出したのはコンタックス2のデッドコピーのやつであるが、1973年のクリスマスちょっと前にウィーンの蚤の市で店を広げていた大学の先生から買ったのだ。値段は500オーストリアシリングだったから、まず 6000円か7000円と言うところだ。それ以来、コンタックス型のキエフカメラを使っていたが、ウィン滞在の最後の1980年頃になってこのカメラ、すなわちキエフファイブがウィーンの中古カメラ屋さんのウインドウに登場した。値段はやはり500シリングであった。要するに、ウィーンの人間にしてみると、周りは全て共産主義の国に囲まれているから、こういうカメラは歓迎されない^_^存在なのである。1980年の終わりにファーイーストに戻ってきて、それからすぐにアメリカのモダンフォトグラフィーの極東特派員と言うのをやっていた。それでネタに困った時、キエフファイブの話を送ったら、これが結構話題頭になった。というのもその頃はまだクレムリンから赤旗が降りてないから、このカメラはほとんど西側に知られていなかったのである。セレンメーターを乗っけた渋滞の大きなカメラだから、ライカエム5と似たような存在感であるのが面白い。でも、カメラのバランスは良いので、使っていると悪い感じではない。オリジナルのコンタックスとは全く違うカメラに見えるが、実はカメラ本体はコンタックス2型と全く同じであって、そのカメラ本体の上にセレンメーターやら何やら乗っけてこのような形になったのである。ある意味でロシアのカメラ技術は凄いと思う。2025/04/20 16:24:54229.名無CCDさん@画素いっぱいVKysyフルサイズのミラーレスカメラの高いのを手に入れるのは、買い物の楽しみとしては非常に良いことであると思うけど、実際に何に使うのかと言うところが問題です。フルサイズのミラーレスをたまに持って出るが、疲れてしまうというのが高級カメラの共通の悩みのようです。過去10年の私のカメラの使い方を思い出してみるに、広告の仕事でもAPS-Cサイズでそれで大きなポスターを作ったり、新聞広告をやったりしました。大手クライアントでどうしてもフルサイズでと言うデザイナーさんのリクエストがあるときには仕方ないので、フルサイズのデジタル一眼レフを借りていきました。でも、大抵の場合は日経の新聞広告などもそうですが、リコーGR 1で撮影していました。そういうコンパクトデジタルカメラも最近はやめにして、もっぱら片遅れのiPhone SEで写真を撮っています。日常の記録とSNSにアップするのなら、iPhoneでも映りすぎる位です。2025/04/21 16:48:50230.名無CCDさん@画素いっぱい5iWrH30年位前にある出版社から間違いだらけのカメラ選びと言う本を出して、これがベストセラーになってしまって、ひょっとしたらこの方向で食えるのではないかと思ったのが私のカメラ目かライターとしてのスタートポイントであった。その1番最初の本を皮切りにトータルで135冊位の本を出したのだけれど、カメラの本は100冊位で残りの35冊ぐらいは写真集のはずである。それで面白いのは私の読者の人は写真集を買う人は、私のカメラのほうは買わないし、その逆もあると言うことなのだ。カメラ選びと言う言葉はなかなか複雑なマジックなのであって、1つのカメラをもう一つのカメラより差別化して高く評価すると言う意味合いが濃厚である。最近のデジタルカメラ選びのFacebookクラスの皆さんのカメラ評論を読んでいて、面白いのがほとんど同じ性能のカメラをその日の気分で使い分けていると言うことにある。これはかなりインチキなカメラ選びではあるのだけど、それと同時に間違いだらけのデジタルカメラ選びであり、もっと言ってしまえば、そのように気分でカメラを手にとると言う事は、実は真実のカメラ選びであるのだと言うこともできる。写真家の須田さんとずいぶん長いことカメラ談義をしたのだが、彼は写真表現に行き詰まるとカメラを持ち替えて気分を一新してその先に進むと言うやり方をしていた。これはこれで有効だと思う。ところでここにある3台のカメラのコンタックスと右側のコピーライカであるが、ここら辺の50ミリレンズは性能が優秀だから何の問題もない。ところが私が気分的に高く評価しているのは左側にある。フィレンツェで作られた。不思議なカメラと不思議なレンズなのである。これはレンズから見れば非常に劣った描写をするのであるが、逆に言うとそれがフィレンツェ製の特徴になっていると言うわけだ。実際カメラ選びレンズ選びは難しいですね。2025/04/24 19:57:04231.名無CCDさん@画素いっぱいxGT6Yベトナムハノイにはいろいろ面白い商業施設があるが、これは私が見た中では、かなりハイレベルのものである。お店のサービスの内容は知らないけれど、この看板を見たときの私の第一印象は、いわれる帝国主義の国で、かつての共産主義とか、社会主義のかっこよさを強調したコマーシャリズムのやり方に見えたのだ。ところが、その数秒後、冷静に考えてみると、私が立っている所は、元北ベトナムであって、アメリカ帝国主義を敗北された社会主義国の中心部なのである。だからこの広告の存在感が西側の国で社会主義をキャラクタライズした広告ならわかるけれども、社会主義の国で社会資源をキャラクタライズした広告というのがなかなか新中のコンプレックスになっていて、それでめまいを私に生じさせたと言うわけだ。まず、コマーシャリズムの展開としては、なかなか成功の方向を目指しているようにも思われる。ハノイのぶらぶら町歩きで1番印象に残るショップであった。2025/04/26 06:20:15232.名無CCDさん@画素いっぱいaQeu3浅草から先の日本堤の辺りは、私が青年時代には結構怖いところだった。労働者の暴動が起こったりとか、交番が取り囲まれたりとか、いろいろな事件が起こっていたのである。涙橋の角に酒屋と言うよりも立ち飲み屋があって、酔っ払ったおじさん連中がたくさん集まっているのはいいけれど、酔いつぶれたおじさんが交差点の近くで寝ていたりとか、なかなかワイルドな場所だった。大都会にはそのような緊張状態がある。怖い街が必要なのである。だからマンハッタンのバワリーあたりはそれなりに怖かった。東京のこの界隈玉姫神社あたりまでも、結構怖い地域であったのがそういうことが一切なくなってしまって、私などは自分の青春が、失われたようながっくりきた気分になっているのである。玉姫神社のすぐ近くに、東京では、もう珍しくなった。路地裏というか、路地の突き当たりがあって、普段ならば、完全に見落として、通り過ぎるところなのであろうが、この時はお祭りのちょうちんが出ているので、路地全体がなんとなく艶めいて、独特な空気が漂っていた。お祭りの時に古い木造建築の木木に掲げられるお祭りのちょうちんと言うのはそういう意味でなかなか雅なものである。これがモダンな今のビルになってしまうと、町内会のお付き合いで仕方がないからちょうちんぶら下げていますと言うふうに見えてしまうのは情けない。2025/05/02 00:22:58233.名無CCDさん@画素いっぱいiYL8a六本木ヒルズができたのが2002年の春だったと思うけれども、ライブラリオフィスというのがあって結構自由にプライベートスペースも使えるのでそこをちょっきり10年間借りていたのである。ちょうど六本木ヒルズクラブもできた時でそこのメンバーにもなった。それで打ち合わせ等で遊びに来る人は、私のように毎日六本木ヒルズの49回の空気の薄いところに来るわけではないから、いろいろ面白がってくれる。それで1階上がヒルズクラブだからそこで飲み食いをするのである。こちらは毎日そういうところに行っても飽きるから下のローソンに買いに行くのであるが、ローソンが1ヵ月半休みであったときにはランチ難民になって大変であった。49回と言うレベルだと東京のありとあらゆる物の動きを鑑賞するには非常によろしい。1番腹が立つのはすぐ隣がアメリカ軍のヘリポートである。それで軍事作戦だか遊覧飛行か知らないが、アメリカ人の若い奴が軍用ヘリに乗って六本木ヒルズタワーギリギリに離陸していくのである。文句を言いたいけれども、日本の空はアメリカのものにこの80年ずっと鳴っているらしいから、これは仕方ない。アメリカの属国だからね。逆にプラスのファクターとしては、オフィスのブラインドがこのような感じなので、光の加減としては、ときにはドイツ表現派の写真作品のように風景がしばしばになることだ。これは楽しかったね。2025/05/10 09:36:04234.名無CCDさん@画素いっぱいQn3bO中目黒あたりには知り合いがほとんどいないからいいけれども、あの界隈が苦手。ロシアの上空を飛んでいると、目の下から地平線の彼方までロシアの一本道というのがある。それで私が思い出すのが中目黒の一本道と言うやつだ。ロシアの一本道より中目黒の一本道の方が迫力がある。10年近く前その一本道を歩いていたら、非常に面白いものに出くわしたので、それまでの中目黒の退屈さと言うものが吹き飛んでしまった。それがこの子供がやっている蚤の市の展示と言うやつだ。ほんとに小さい子供が不要になったものを一本道の脇で売っていると言う感じだが、実際には売りてはいないし、並べ方が整然としているからお母さんがセットしたものである。世界中の蚤の市を見て歩いたり、撮影をしたり、面白いものを買ったりした。半世紀の私の蚤の市人生であるが、これだけ面白い蚤の市は初めて見たので、10年以上前にもかかわらず、いまだにはっきりを記憶しているのである。長い長い目黒の一本道にここだけの実行が出ているから、これはユニークだよね。何度も言っていることだけど、これは蚤の市なのである。蚤の市の英語の言葉を聞き違えてフリーマーケットであると言っている人がいるが、それは違います。2025/05/12 10:17:33235.名無CCDさん@画素いっぱいFUPpN135冊ほど出版物やら写真集があるが、自分の本は持たないのであるけれども、資料として参照しなければならなくなって、2002年にエプソンのレンジFinderデジカメが出たときに制作した写真集を探したらなかなか見つからない。Facebookの友人がメルカリに出ているよと教えてくれたので、2冊ゲットした。感謝。後期高齢者の記憶などいい加減なものだから、写真集のことを書くときは現物に当たるのが1番。34年間のプラハのアトリエ暮らしで、毎朝全く同じブレックファーストをこのように作っていた。ベッドから起き上がって5分で全てが完了するのだ。コーヒーはチェコの飲み方は古い数百年前のトルココーヒーの飲み方の伝統が残っていて、コーヒーの粉に直接熱湯を注いで、かき回して数分間コーヒーの粉を沈殿させてから飲む。これが1番うまい。、、お皿がわりにしているフライパンは油が馴染んで絶好の状態だったのだけど、アトリエの室内を新しくする時、すなわち天窓が新しくなったときに間違って捨てられてしまった。仕方ないので同じものを新品で買ったが、使い込むまでにまた20年近くかかった。2025/05/15 14:53:26236.名無CCDさん@画素いっぱいoPNfdプラハ工科大学の敷地とギリギリのところに立っている。1930年代に作られた6階建ての建物のその上の屋根裏部屋が私の世界であった。天窓を開けると、窓の先が世界に開いていると言うフレーズを、新潮社の矢野編集長に褒められたことがあった。34年間暮らしたにもかかわらず、住んだアパートメントの屋根裏の写真の内側はあるけど、外側は1枚もないことに気がついて、十数年前にアトリエの北側の広場に出て撮影したのはこのショットである。屋根裏の8枚続いている、窓がわが世界であった。なぜ自分の住んでいた屋根裏部屋の外側から写真を撮ることがなかったかというと、理由は単純で、屋根裏からエレベーターのない建物の階段を1番下まで降りて、南に進むと、巨大な中庭に出るのだ。そのなかにはをさらに進むと、メトロの駅の方向への道がある。つまり、何十年も住んでいるにもかかわらず、アトリエの北側に立って全体像を見ると言う事は1度もなかったのである。ごくたまにアパートメントの北側のドアから出入りすることがあったが、それはアパートメントに沿った。すぐ隣の道であるから、距離をとって屋根裏部屋を見ると言う事は視覚的に不可能である。アパートメントの北側を東に行った角に結構いいビアホールがあって、ごくたまにそこに行くことがあったが、何しろヘビースモーカーの多い本格的なビアホールであるから、広い部屋のこちらから光が見透かすことができない位煙っていた。だからそこにも行くのはやめてしまった。ところで、アトリエの天窓が新しくなったときに八戸並んでいる一番右側の窓にメーカーの紙が貼ってあって、その紙のサイズがA4サイズなのである。これが軍事衛星から見えるのにはびっくりした。Google Earthからの画像であるが、これは軍事衛星をかなりシャープネスを落としたものであるから、私をピンポイント攻撃するためには8つある、窓の左から2番目を攻撃すればいいわけだ。そこにベッドに寝ている私の頭がある。2025/05/18 07:27:37237.名無CCDさん@画素いっぱいX0nTd1957年に、当時のライフのスターカメラマン、アルフレッドアイゼンシュタットが、バルナックライカに漬けられるライカビットをM3にもつけて欲しいと言い出した。もともとM3はそれまでのバルナックライカと違って、トップカバーが付いているから、フィルム巻き上げははるかに進歩しているのである。しかし、ライツの会社としてはトップフォトグラファーからのリクエストだから、断るわけにもいかなくて、M型ライカにライカビットをつけるようにした。これがライカMPである。当時のMPの値段はM3よりも35ドル高いだけだったのに300台ぐらいしか売れなかったので、ライツはこれは商売にならないと言うのですぐに中止したのである。これが間違いの元で、今やオリジナルの値段の数百倍と言うインベストメントプライスになって、本物のライカMPは世界中の金庫に保管されてしまった。そのライカビットMPは単体で買えることもあって、学生の時は13,000円で買ったのである。物価上昇とシンクロして今は単体で3000ドル位するのである。要するに、私も青春の思い出のために手にしているだけで、実際には全く役に立たないガラクタアクセサリーです。2025/05/20 17:35:15238.名無CCDさん@画素いっぱいObRtbカメラのデザイン評論を四半世紀ほど前にアクシスと言う雑誌で連載していた。その時に気がついて書き残したことがあって、それがニコンSPとロードマーシャンのファインダーのデザインコンセプトが似ていると言うことだった。登場はニコンSPの方が先だったと思うが、この頃のレンジファインダーの基本デザインはこういうシネマスコープタイプのデザインなるである。今度建て替えになる帝国劇場だが、戦前の建物の頃に帝国劇場はシネラマの上映館だった。私もこれがシネラマだと言うスペクタクルな映画を見に行ったことがある。ただ、この2つのカメラで、どちらがデザインが良いかと言うと、右のほうになるね。2025/05/23 14:03:54239.名無CCDさん@画素いっぱい8FWil50年前の東京の風景を撮影した私の写真集である。日本デザインセンターで3年間広告写真を撮っていて、忙しい時は2ヶ月も愛知県豊田市に行ったきりになるが、暇な時は自分の時間が管理できて、それで中古カメラや巡りなどをしても、上から文句を言われる事はなかった。そういう時に会社の近くにあったカウンターだけの座席の数も、わずかなお店なのだが、今写真にしてみると、なかなかスマートでクールだと思う。目の前でドリップで作ってくれる。コーヒーはなかなか半世紀以上経過しても記憶しているのが凄いと思う。自分の時間が自分で管理している。その1日のスタートのコーヒーのいっぱいはとても良い感じだ。喫茶店と言うと商談とか我々のレベルだと喫茶店で座談会をやったりする。これは日本の環境がそういうことをせざるを得ないから仕方がなくそうなったのであろうか?偽物ライカ同盟の本を作ったときに登場してくれた方々の対談の収録は当時仕事場があった。六本木ヒルズで開催したのだが、1番偉いボスの片岡義男さんはそれをかたくなに拒否して神保町にある瀬戸という名前の喫茶店を指名してきた。それでそこで対談をしたのである。つい最近になって、なぜ片岡さんが六本木ヒルズではなくて、神保町の喫茶店だったのか思い当たるところがあった。私はいいチャンスだから、片岡さんをライカウィルスに感染させようと思って、手元のライカを1台お渡ししようとしたら、片岡さんはそれに触ろうともしない。なるほど、このことかと今になって思い当たるのである。2025/05/25 08:25:45240.名無CCDさん@画素いっぱいcuf6A革命的なビロード革命は、1989年の11月の事だった。1滴の血液も流すことなく社会主義国の政権は崩壊したのである。ちょうどその4年前の夏に私はプラハに滞在していた。私がプラハと関係を持つようになる。34年間のかなり初期の時代の話である。その時代に私は真実のプラハの姿を見たと言う気がするのだ。その当時のプラハの街は、何百年に1階と言う大回収工事をやっていた。街のありとあらゆる道路は掘り返されて新しくなっていたが、その間のプロセスはすごいものであって、ちょうど巨大な爆弾がプラハの旧市街のあちこちに落ちたような乱雑な風景であった。私はそれにフォトジェニックなemotionを感じて、プラウベルマキナプロシフトで精力的に撮影したものである。その時の撮影本数は120フィルムで300本起こした。この作品は、プラハのどまん中の有名なデパートの裏側の道なのであるが、工事現場の通り抜けのような感じがするのが面白い。2人の通行人が背中を向けて通り過ぎていくところであるが、その秋に交通標識の人間のシルエットが一緒に写っているので、まるで3つの人間のフォルムが移動しているように感じられる。さらにそのことよりも、私がこの作品を評価しているのは、私のフイルムの扱いが雑であったということがプラスのポイントに出て、フィルムの上と下が光で被っているのである。こういうのを私は光の攻撃と呼んでいる。予期せぬ撮影者の意思と全く違うところで、フィルムのエマルジョンが光から攻撃されるという意味である。そしてそれがうまくいって、このような状況になると、写真は別の段階にアップされているのだと言うように感じるのだ。この状態を、私は光の惨劇と呼んでいる。2025/05/29 17:05:53241.名無CCDさん@画素いっぱい6VYHW第二次大戦中に、アメリカ軍が戦争の記録映画を撮るときに使っていたEyemoカメラである。もともとは小型軽量なアマチュアのために作られた35ミリムービー撮影カメラであった。このカメラが日本に最初に輸入されてプレゼンテーションが行われた時に、それまでのカメラは三脚の上に乗せて50キログラム位あったから、三脚からおろして手持ちで取るのは不可能である。それをデモンストレーションではカメラマンがこのカメラを手に持ってフォックストロットを踊りながら撮ったので、みんなびっくりした。踊りながら取れるのだから、戦争にもいいだろうと言うので、戦争カメラになった。ロバートキャパが持っているのはシングルレンズのタイプだが、これはスパイダーターレットと言う。上級モデルでレンズが3本付いて回転することができる。軍用カメラなので、色もオリーブドラブに塗装されている。これは南アフリカのケープタウンから買ったのだが、カメラ屋さんがこのカメラを知らないのでエルモと言う名前で販売していた。第二次大戦の頃のカメラマンの活躍する記録、写真などを見ると、3人の戦争カメラマンがそれぞれこのスパイダーターレット付きのカメラを持って、片手でタバコを出ながら笑い合っているのがある。確かに20代の人だったら軽く感じるかもしれないけれども、後期高齢者にはこの重さは童貞無理だなということが最近ようやく判明した。2025/06/01 14:08:13242.名無CCDさん@画素いっぱい0np5Xファーストニコンの8桁、製造番号の事このニコンの製造番号を見て欲しい。60910644である。興味のない人には、単なる数字の羅列であろうが、これはニコンコレクターにとっては、いわゆる8桁、製造番号と言うレアモデルなのだ。609と言うのは皇紀2600年すなわち昭和15年から数えて9年目ということで、ニコンの製造番号の頭が609で始まるのである。戦前の歴史を引きずっているわけね。それで6091が最初のニコンカメラでそれからカウントして609999まで行ったらいっぱいになってしまったので、その先に10,000番からスタートする数字列を加えたわけだ。カメラメーカーはこのことの不都合に気がついてしばらく経ってからスターティングのオーダーを609から610にしたのである。だから609でスタートする番号は1けた最後の方で多くなっていて、8桁番号の製造番号を持つ離婚レンジファインダとなった。そういうどうでもいいことがコレクターには重要なわけです。2025/06/04 11:47:56243.名無CCDさん@画素いっぱいH0QGZ滝野川は歩いているうちに、方向感覚がわからなくなって道に迷いと言う楽しみを私に与えてくれる街角であった。例えば、音無川のそばに滝野川信用金庫と言う看板を認識して、それから路地をずっとつたって15分ごろ経過してみると、またそこに滝野川信用金庫と言う看板が出てくる。要するに、道に迷って方向感覚をなくしてしまっているから、こういう面白いことになるのである。ハノイの中心からちょっと南に行った場所に丸い小さな池がある。といっても、池の直径は500メートルはあるから、それなりに大きい。ハノイで道に迷っているときに、そこをぐるぐる回っていると、どこかで見たことのある街並みが永遠と出てくる。その丸い池を参集したときに、さっきハノイウォッカを買ったお店がまた出てきたので、それで池の周りの堂々巡りに気がついた。滝野川にあるモンドリアンのアートワークにそっくりな場所と言うのを発見したときには、かなりびっくりした。自然の摂理で作られたものがアーティストと似てくると言うのは当然のことかもしれないが、逆に考えると、モンドリアンはファーイーストのこれを見て真似をしたのかもしれない。気にいったので、町歩きのワークショップの時は皆さんをここにお連れしてびっくりさせたものであった。まず私のワークショップに参加する皆さんはモンドリアンの事はよく知っているからびっくりしてくれるのである。2025/06/06 07:32:41244.名無CCDさん@画素いっぱいB9WQeビロード革命が1989年に起こって、それから25年後の2014年に四半世紀の記念のフェスティバルがあって、それを機会に私はもうプラハに行かないことに決めたのである。そのように決めたのは単純な理由であって、残りの時間の時間割を考えてそのようにした。都合34年間プラハの北のほとりにあるアトリエに暮らして、たいていはメトロの終点まで歩いた。それがこのかなり広大な広場であるが、何が嬉しいかと言うと、地面の上を踏んで歩けると言うことだ。ここはプラハの丘市内の北側のターミナルと言うことになっていて、そこからまたカントリーにつながっているバスがたくさん着発している。だからビロード革命以前にこのバスターミナルと接続する。メトロの始発の駅のプラットホームに立っていると、カントリーから来た人は、皆、申し合わせたように、靴の裏側にべったりと、我が祖国の父がついているのである。これはなかなかすばらしいことだと思った。それで私も1年の間この結構広い広場の道路の上は歩いて我が祖国ではないけれども、チェコの大地を靴の裏側に感じたのであった。東京の不幸は言うまでもない。東京のどこに行っても、地面はアスファルトや煉瓦屋タイルで固められてしまっているから、私の靴の底は大地を直接に感じることができなくなってずいぶん長くなったね。2025/06/10 07:51:58245.名無CCDさん@画素いっぱいCRoTw最近では、偵察衛星とかデジタルカメラとかいろいろな軍用のデバイスがあるから、軍用カメラが存在した時代と言うのは、まだ人間のヒューマニズムが尊重されていた昔であると言うこともできる。それで軍用カメラは基本的には一般の人が使うカメラとそんなに違うところはない。一般人が戦場でもないところで使っていて、すぐ壊れては困るわけだが、戦場の場所と日常生活と言うのは隣り合わせているから、厳密にはそれを区別することはできないのだ。それでもカメラ業者さんが納入するわけだから、何か特別なメリットをカメラにつけなければいけないので、ブラック仕上げにしたり、オリーブドラブ仕上げにしたりしたのであろう。ライカの場合だと陸軍方面はオリーブゾ。ラブで空軍方面はラウフグレイである。ところがラルフグレイのライカイムツと言うのは、その数が11ダースぐらいしか作られなかったので、今では天文学的な値段になっているらしい。アメリカ軍が採用した軍用カメラはそれほど高いということはなくて、1番高価だったのは、クラシックライカのバルナックの完全なコピーであったKarson カメラであった。しかしアメリカ陸軍の偉い人は実用主義者だから、兵隊に持たせるのにそんな高いカメラはいらないと言うので、大衆的なコダックみたいなアマチュアレベルのカメラになった。コダック35のブラック仕上げと言うのは、それでもそれなりに存在感があって手にしてみたいなという感じはするのである。ネックストラップアイレットが非常に大きいなどと言うところがいかにも軍用カメラのふりをしていると言う感じがする。2025/06/12 07:35:17246.名無CCDさん@画素いっぱいGIOkSコダックの最高級シネカメラ小学校低学年の頃に音羽にただ1つあった。映画館で見たのが、ディズニーの砂漠は生きていると言う動物映画である。大人になってからこの動物映画の全部がこのカメラで撮影されたと言うことを知った。野生動物はいろいろある。けれども、小さな動物はクローズアップで撮影しなければならないので、その時はこのカメラは簡易的な一眼レフ装置が備えられている。レンズはコダックの優秀な平白だし、画面の安定性も良いので世界中で使われた。アメリカ海軍もこのカメラを公式な16ミリ撮影機で指定していて、オールブラックのマット仕上げのかっこいいカメラも持っている。唯一の問題点は完璧なミラーレフレックスではないので、撮影に限界があることだ。それでイーストマン・コダックはその後のモデルでコダックレフレックススペシャルというのを出した。こちらのほうは回転式のミラーで常に撮影中の画像を見ることができるのであるが、カメラ本体が大きくなって重さもかなり増えたので手持ちで簡単に撮影することができなくなった。しかも電動モーターなので、どこでも撮影できると言うわけではなかった。最初にこのカメラを手に入れたのは、1973年のウィーン時代でレンズが全部揃っていて、非常に上質なトランクケースに入っていて、夢にものボール幸福感と言うやつだった。カメラのターレットの下の部分にオーナーの名前を彫刻できるようになっているのがこのカメラの特徴である。そこにはバロンなんとかと刻印されていたから、どっかの貴族さんが使っていたものらしい。戦争直後の値段が25ミリ標準レンズ付きで1000ドルしたのだから、大変高いカメラであった。2025/06/15 10:24:45247.名無CCDさん@画素いっぱいnLry6リスボンの名物の1つは、建物の壁面を全部使った。このような巨大なである。しかも面白いことにツーリストが集まるようなツーリスト。密集地には、こういうものはなくて、バスに乗って、街の周辺部に走っていると、大通りを角に曲がった。その裏手の建物の壁面が、全部巨大な壁画であったりするのが面白い。スボンは酒多い街であるが、そういう坂の上から下を結ぶ階段がそこら中にあって、その階段を上り下りする人の向かう視線の建物の壁面が同じように巨大な壁画であったりする。私は、ルーブル美術館などでもな家の中で、特に巨大なものというのは大嫌いなのである。その大きさで鑑賞者をびっくうと言うようなところがあるからそういうのは手品のネタみたいなところがあって、面白くないのだ。しかし、リスボンのような巨大な街の建物の壁面全部を使った絵画と言うのは全く別の方向であって、これは面白い。言い換えれば街全体をギャラリーにしているという意味では、美術館よりもはるかにサイズが大きいわけだ。この巨大な作品もピカソバリで良い感じである。2025/06/19 06:17:23
【北朝鮮】自ら亡命も「帰国したい」と繰り返し訴訟を…平壌の日本人村に暮らす「よど号」メンバーの現在 支援者は「北朝鮮側からの要求で連絡が途絶えることも」ニュース速報+44810.72025/06/20 08:38:58
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
なお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、
写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催される
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
東京カテドラルでの結婚式の料金は30,000円であって、これは当時の月給よりはちょっと安い位だった。一応勉強会があって、イエスキリストのありがたいお話を何度かに分けて聞いたのである。
結婚式には友人知人がたくさん来てくれて嬉しかった。田村代表とか稲越幸一さんとか千客万来。カメラマンが多くて、芸能人並みであったが、写真をくれた人は1人もいなかった。それから50年経過した。私のギャラリーバウハウスの写真展の時に横木がその時撮影した写真を持参してくれたのである。
実に結婚式から半世紀経過して、結婚式の写真を持ってきてくれると言うのはこれは新設とか言うレベルを通り越して完全にコンセプチュアルアートになっていると言うところがすごい。横木本人はそういう認識をしていないと言うところがさらに凄いと言うわけだ。
確かに、プラハの文化人が言う通りであって、その建築物はプラハの修道院の近くの川のそばに固まって存在する。しかもそれであると言われなければ通り過ぎてしまうような割としょぼい建築なのである。しかし、建築様式としては立派なのだから、尊敬しないわけにはいかない。
このキュビズム建築は、そのうちの1つであるが、4階建ての小さな小さなアパートメントで、確かに窓のデザインは立体がであるが、それ以上に特徴があると言うわけでもない。このキュビズム建築よりもうちょっとマシなものは、この建物から南に数百メートル行ったところにある。こちらの方が立体派の特徴がよく出ていると思う。
それで、私のプラハをテーマにしたエッセイの中で、1968年の8月ソ連軍の戦車がプラハに侵攻してきた時に、フィクションとして、私はこのアパートメントに住んでいる22歳の工場労働者と言うことになっている。
それでもう一つのアパートメントに住んでいるのが友達で、エッセイの中のプラハ人の私とその友人はお互いにカメラ好きであって、休日にはソ連製のカメラを持ってプラハの旧市街を散歩して、その後大写真家Sudekのアトリエに行くと言う展開になっている
^_^フィクションであるとは言え、切詰建築と言うのはそういう普通のアパートメントの形をとっているのである。そこがそれで素晴らしいと言うことができる。
だから、亡くなった後も、木村伊兵衛プライスもあることだしよく特別号を出したのである。そうなると、木村伊兵衛さんのアシスタントをやっていた文化勲章。受賞者の田沼さんと木村さんにライカを提供していろいろお手伝いをしていた。ライカの輸入代理店の明石技術部長さんともう1人は高校生の時にライカの輸入代理店に初めて行って、生まれてはじめてのライカのネックストラップを買った。田中長徳と言うキャラクターとしてはかなり凸凹であるところが面白いと思う。
実際のわたしは木村さんに会ったのは1度だけでそれは銀座のライカをたくさん置いてある。中古カメラ屋さんで狭い店の奥に丸椅子に座っている名人を見て二言三言言葉を交換したに過ぎない。だから他のお二方とは存在の交流の深さがまるっきり違うのである。それでも私を取り立ててくれたアサヒカメラには感謝しかない。
^_^ 1970年代の初め頃、これから日本が中国と国交を開設しようとしたときに、木村さんと篠山紀信さんと北井さんの3人が中国を取材に行って、これは非常に良い仕事であった。期待さんはまだキャノンの古いレンジファインダーを使っていた時代で、その直後に明石さんとつながりができて、本格的ライカユーザになったのである。
いずれにしても、デジタルライカが登場する。何十年も、前の真実のライカ人類交友録であったとも言える。
ライカカメラがスクリューマウントで、最後に行き着いたのはライカ3gであって、ついにレバー巻き上げにはならなかった。アンリカルティエブレッソンだけが特別なバルナックライカのレバー巻き上げモデルを使っていたそうである。
それに対してレオダックスの最後のモデルはレバー巻き上げだし、クランク巻き戻しにもなっている。これは世界の内科タイプのカメラの中で当時最も進んでいたメカニズムだった。50年来このカメラを使っているのだが、もうこれ以上の進化はいらないと思う。
似たようなショットを今までに何回か紹介したことがあるが、今回その数秒前のショットが発見されたので、今回掲載しておく。実際に映画の撮影をしたときの経験からするとまずこういう感じだ。
手前を松葉杖で歩いて行く人は、別に映画の主人公と言うわけではなくて、エキストラの通行人なのである。そして多くの方で薬局の前に片手を添えて不機嫌な表情を見せているのがこの映画の主人公と言うふうに見れば、それぞれの映画のストーリーをそれぞれに勝手に想像して楽しむことができる。
それでウィーンで撮影した映画の段取りであったが、エキストラさんはその当時1日5000円とランチ付きと言う待遇であって、どのエキストラさんも将来は映画俳優になりたいと言う上昇。思考がすごく強いいから、どうしても主役と絡む演技が大げさになってしまうのである。
向上心があるのは見上げたものだが、なかなか通行人が主役を送ってしまっては難しくなると言うのもまた真実なのだ。
ウィーンと言うのは、ローマカトリックのかなり中心に置かれている街であるからある時、ドイツのブランシュバイクあたりに行ったら、あそこら辺はカソリックではなくてプロテスタントだから教会を見るにしても神様の重さがちょっと軽くなったなという感じがした。
プラハのカレル橋にしてもそうであって、30年戦争をあんな狭い橋の上で戦っていたと言うのは、今の常識ではちょっと想像できない。その意味ではウクライナ、ロシア戦争も宗教戦争の1種であると言うことに思い至るのである。
ウィーンの中心部にあるステファン大聖堂であるが、これはヨーロッパの他の教会と同じようにエントランスから見て、左右に同じ大きさの猫の耳みたいな対象系のタワーを建てる予定だったのが予算不足で片側だけになってしまったそうだ。でもそのほうが、シック建築物の存在感としては、むしろアシンメトリカルになってる方が迫力があっていいと思うというのが私も考えた。
それでファーイーストの日本の東京の話になるのだが、例えば非常に素朴な疑問として、銀座4丁目に、なぜ巨大な宗教施設の宗派はどこでもいいけれども、そういう境界が立っていないのかと言うシンプルな疑問なのである。
ヨーロッパならどんな小さな村でも街の中心には教会がある。アメリカの場合はちょっと違っていて、教会はあるにはあるが、街の中心部と言うわけではない。街の中心部はロックフェラーセンターみたいなアメリカ帝国主義の経済の伝道が構えているのである。
日本の場合は、そのアメリカの手下みたいな存在だから、街の中心部に宗教的な施設がないのかなというのが私の分析結果だ。
これは半世紀前までの表現としては正しかったのであるが、今は路面電車の終点に新たにメトロの駅がいくつも作られたから、状況はかなり変わってしまったのである。私が暮らしていたのは、ウィーンの中心部から北東にちょっと離れたところだから、ウィーンの南のほうはほとんど知らなかった。それで数十年ぶりに、メトロの終点に行こうと思って、かつての路面電車の終点のさらに南のほうに行ったら、こういう高層建築のアパートメントがメモくらむように広がっていて、それが私を驚かせた。
要するに、かつてのウィーンでも、プラハでもドーナッツ上の市街地があって、その先は完全なカントリーであったのが、もう一つ大きなドーナツが外側に作られて、そこに高層建築物が建設されるようになったのである。
だから、ウィーンでもプラハでもかつての町外れの外側に2つ目の待ち外れができたと言う。1種の二重構造がそこに構築されているというのが、最近のこの辺の都会の風景である。
写真集を見開きにしてしまうと、かなりアスペクトレシオが広くなるので、新しい写真集だとページの戻りがあって、冷静にパノラマ写真を鑑賞できないから、とりあえず何かウェイトになるものを探そうと思っていたら、手元にこのパノラマ写真を撮影したときに使ったソ連製のパノラマカメラが二台転がっていることに気がついた。
それで写真集のページの右と左に1つずつ合計二台のパノラマカメラを置いて重しにして写真を鑑賞するとなかなか具合がよろしい。この感覚をどういうことであるかと言うのを説明するのはなかなか難しくて。例えて言えば完成したワインを飲んでいるときに、そのワインが地面から芽生えてきてぶどうになり、それが熟するまでのそれぞれのプロセスのサンプルが自分の目の前に並べられているような感覚。といったら、良いのであろうか?
それで同時に写真集のページを押さえている二台のパノラマカメラは、パノラマ写真集を鑑賞するときのいささかの視神経の邪魔にはなっていないのである。そこら辺がちょっと素敵だね。
それでパノラマ写真に最適な風景とか、場所はどこかを考えてみたのであるが、この見開きで示すようにパリのメトロと言うのは、あれは最初から我々写真家に素敵なパノラマ写真を撮影するために作られた椅子のトリッキーな空間であることに気がついたのである。全くうまくできているね。
フランシスカナ教会と言うのはそのうちの1つであって、私の散歩コースからはちょっと外れていて遠回りになるのでその存在を知るようになったのはウィーンに暮らして数年後の話であった。
このねじれたバロックの柱と言うものの、存在感が、これは何と言うのか、エロチックというところを通り越して、グロテスクな領域に入り込んでいるようなのである。
それでも街歩きをして、ウィーンの旧市街の私のアパートメントから1番遠い方を歩行している時などは、時々このねじれたバロックの柱が見たくなって協会の扉を押すこともあった。
バロック建築としてはかなり風変わりな構造だと思う。それで思い出したのはプラハのカントリーサイドにある。これも結構歴史的に有名な教会なのであるが、その教会は教会の中央部の一本道というのがなくて、そこが柱で邪魔されていると言うのである。それも実際に見に行って教会らしくないと最初びっくりしていや、これは信仰の道が一途ではないと言うことを表現したものなのではないかなどと勝手な説明をつけたりしたものであった。
はがきに使った作品は、ウィーンの旧市街の北部にある場所で、すすけて真っ暗になった巨大なアーケードなのである。そのエントランスに、今のウィーンでは考えられないが、八百屋さんがあって、木の箱に赤かぶを並べて売っていた。
それで私はまずキエフに28ミリレンズがついた。カメラでエントランスと赤かを撮影して、それからポケットから小銭を出して1束分の赤かぶを買って帰ってそれを食べたのである。
写真作品として撮影したそのオリジナルの食品をそのまま食べると言うのは、その時は何も考えていなかったけれども、これはそのままコンセプチュアルアートとしてもいけるのではないかと言うことに。赤かぶを食べてから半世紀経過してようやく気がついた次第だ。
考えてみれば、私が赤かぶと言う野菜に親しみを感じるようになったのはウィーンの暮らしがきっかけなのである。赤株を切断してよく見てみると、真っ白い中心部からいきなり川のところが真っ赤になると言う。その超絶的な変化と言うものは、これは芸術と言わざるを得ない。
大体上空40,000フィートでものを送って、正常な味をそこに感じようとすること、自身が無理がある。
ルフトハンザドイツ航空の広告の仕事をやっていた時に、1度だけファーストクラスのパンフレットを取ると言うアサインメントがあった。それで特別な教科をもらって、40代の男女のモデルさんを飛行機の中に呼び入れて設定して撮影をしたのである。撮影が終わって機材と撮影済みのフィルムをアシスタントに渡して、そのまま私はファーストクラスの撮影をした。飛行機でフランクフルトに向かったのである。
かなり昔の話であって、フルフラットのシートがファーストクラスで使われる以前のことなのであるが、私はあのイワシの缶詰に寝なければいけないようなフルフラットのイワシの缶詰タイプの座席が大嫌いである。だから普通のクラシックタイプの方が安眠ができた。
それでその時のファーストクラスのサービスと言うのが1本のバラの花をお客に提供すると言うもので、いかにも同一的だとは思うのであるが、一体植物権益の方はどうなっているのかということばかりが気になった。ドイツで植物、犬役が済んだバラの花を日本でお客に渡して、そのままドイツに戻れば。それは問題ないのかな。
こちらはそれなりに仕事が忙しいので、受け取ったバラの花はそのまま残してフランクフルトに到着したのである。
当時は写真館の役割は、人生の切れ目ランドマークにちゃんとした写真を撮ると言う場所であった。子供の頃はマグネシウムで光を当てるのが本と言う音がして嫌なので、そのことだけよく覚えている。
その写真館の右側が通り抜けの道になっていて、それをくぐると都電荒川線つまり王子電車の終点の停留所になるのだ。その通り抜け道の左側に建物の凹みのようなところがあって、そこが新聞スタンドであった。
20歳台に写真家の須田さんとこの界隈で遊んでいた頃も、この新聞スタンドは存在した。須田さんの友人が天才。荒木の下駄屋のすぐ近くの2階にアパートがあってそこに住んでいた。熊谷さんと言う人だったな若者の変人ぶりを強調するために、彼の部屋と言うのは、室内が全部ブラックに塗ってあるのだ。
それでこの通り抜け道の凹みの新聞スタンドであるが、10年ほど前友人と一緒にここの前を通過したときにおばあちゃんが店番をしていたのでちょっと話をさせてもらった。そういう時はこれは下町のルールと言うやつで、相手に呼びかける時は、おばあちゃんではなくて、お姉さんと呼びかけるのである。
3月31日と言うその年度の最後の日にミスター煮込んで有名な後藤さんが私を101号館に招待してくれたのである。私は取材で何度も101号館に行ってるのでそれなりの考えがあった。しかも猫の歴史的なカメラを作ったセンターなのである。
それほど広くもない。フロアの廊下で、オートフォーカスのニコンF4ができたときに、オートフォーカスのテストなどをそういう場所でやったと言う。あまり表には出すことができないような貴重な話も聞いたのは良かった。
採用人は100号館の思い出を叩いて、近くの高級レストランでフレンチ料理をご馳走になった。40年前にアメリカのモダンフォトグラフィーの駐在員をやっていた時は、ニューヨークロボスに随行して芝にあった。フレンチレストランクレセントに呼んでもらったニコンの人はフレンチ方面が好きなのかな?
それからしばらくしてから、ミスターニコンから送られてきたのは、この101号館のかけらなのである。101号館ではなく、そのかけらになったと言うところが、なんとも素晴らしいアート的な発想である。
元東ドイツもカルツアイスの本拠地を取材に行ったのはずいぶん前の話だが、建物の1部が取り壊されてレンガが渦高く積まれていたのである。それでこれは何かの記念になると思って何個か持ち帰って、東京カメラクラブの年々にお土産であげたら非常に喜ばれた。ただし、ニコンの欠けらと違って、カルツアイスもかけらはレンガのブロックであるから、かなり大きくて運搬が大変だった。
別にカフェといっても、ウィーンとシステムが違うわけではないが、その並べ方が全部アベニューを見るようになっている。ところが違うポイントだ。
ウィーンは寒いところだから、夏以外の時期に外に居を出して通行人を眺めるなどということは不可能である。そこら辺が東ヨーロッパとパリとの最大の違いだなと感心した。
ウィーンにも200年近く前からある古いカフェて、そういうところで、作家がものを書いたりするのも通であるが、これはその原因の1つに、100年前のウィーンは自由業が極端に不足していたので、家で仕事をするよりも喫茶店で長居をしてそこで仕事をする方が効率的であったと言う背景の事情もある。
それでパノラマカメラで撮影したこのワンショットなのであるが、どういう具合か知らないが、ロンドンのダブルデッカーのバスが左側に写っている。だからパリとロンドンが風景がごちゃまぜになっているような気がしてどうも落ち着かない。50年前からそういう気がしたのだけど、今も改めてこのショットを見るとパリとロンドンを足して2で割ったような感じだな。
それでなかなかうまい酒なので今日は足立区関原3丁目に行って、近くの焼き鳥屋さんでつまみを買って、酒屋さんで鹿カップを買ってリスボン公園でいっぱいやろうと言う計画が浮上するわけである。
リスボン公園と言うのは私が勝手に名付けた名前で正式の名前はこの地名の自動講演とか言うことになっているらしいが、それは別に問題ない。なぜかリスボンに出発する場合の日あたりにここに来て焼き鳥でいっぱいやると言う。変な習慣ができてしまったのである。それで名前はリスボン公演。
数年前にリスボン公園に行ってみたら、工事の柵で中に入らなくなっていたので、これは何か講演自体が廃止になるのかと不愉快になっていたら、1年近く経ってまた元通りの講演として使うようになった。ただし子供画像に出てくるような奥に写っている子供の遊び道具などは撤去されてしまっている。
ここ界隈からぐるりと回って、私が大好きな寂しいライオンのあたりをめぐるワークショップというのをやったこともある。別の日には飛ばすを乗り継ぎで、わざわざ寂しいライオンのところができて、その上に座ってビデオを撮影したことがあった。
要するに、この界隈は、リスボンに1番近い私の心のノスタルジックオブゼと言うわけだ。寂しいライオンは数年前に撤去されて、今はなくなってしまったのが残念。残念。
桜の名所と言われていて、春先は大変な人の混雑で公害並みであるが、それ以前は造船所であったわけだから、都市計画に基づいて大量の桜を移植したわけである。佃島に生活を開始して30数年になるので毎年見ている桜が太くなってくると言う認識は私にはないけれども、やはり成長は続けているのであろう。
佃島でいわゆるお花見をした事は1度もないし、その後冗談でバルコニーからコップ酒を手にしたの桜を見た事は何度かあったが、どうも退屈なものである。私は性格がいろいろ歪んでいるのは、やはり20代の人格の形成の重要な時に、ヨーロッパで育ったということが、かなりその背景にありそうである。
そういう変わり物であるから世の中の皆さんが桜が咲いて花見ということが大変重要なポイントになっていると言うのはなかなか事実として認識しがたい。
私の価値観からすれば花見よりも移動し祭日である復活祭の方をちゃんと言った方が良いのではないか。最も日にちの決まっているものは日本はコマーシャル関係が設定しやすいけれども、大潮の1番最初の日曜日と言うのはなかなか桜の開花と同じで見定められるものではない。
日本が貧しかった時代には、写真展のオープニングに必ず飲み食いがついていたものだった。大手の富士フイルムあたりでも、そういう写真展の後の大宴会をやっていた。
私はそういう場所でものを食べると言うことをしたことがない。ただし、ワイングラスぐらいは手にしていないと変わり者であると思われているから、そこら辺へは気を遣っている。
ギャラリーバウハウスの近くの聖橋は、実に素晴らしい。東京大震災の後の復興計画のうまく成功していた例であると思う。
その橋の保に私が20年位前から東京バルコニーと名付けているポイントがある。要するにブリッジのたもとなのであるが、ゴージャスな大理石作りでちょっとした石でできた立方体もあって腰掛けられるようになっている。
だからバウハウスで写真展をやった後は、各自飲み物を持ち寄って、ここで野外パーティーをやると言うのがいつもの例である。パーティー参加者がとってくれた。iPhoneの写真だが、素晴らしい樹木が写っているのは、これは湯島聖堂の関係の樹木だから、育ち方が違う。
パーティーが盛り上がって月も空の高いところから顔を出してきた。東京バルコニーは良いロケーションだから、東京都がここをカフェにしたら良いのではないかなどと人に言ったけど、ありがたいことにまだ自由で使うことができる。
東京バルコニーと言うタイトルについて説明しておくと、30年位前にFM東京でネイティブスピーカーの日本語を話す。女性がキャラクターであって、そこに参加した日本人にちょっと英語を話させるのである。ところが日本人だからこの一言の英語が出てこないのだな。それが東京バルコニーと言うタイトルを私が設定したイニシアのお話だ。
そのネットワークをカバーするためにバスも発達している。バス路線はメインの路面電車に平行に走っていることが多い。ウィーンの路面電車で路線番号が49番というのがある。これは中心部の国会議事堂の脇から出発して、右の西野カントリーにつながっていると言う重要な路線である。
その49番が中心部の国会議事堂の脇を出て、しばらく西に向かった。走ったところにものすごい球角度のクランクのカーブがあるのだ。これは別にウィーンに責任があるわけではなくて、大昔の馬車が交通手段だった頃の町並みにウィンド局が、いきなり路面電車の線路をひいたから、こういう問題が起きるのである。
そのクランクカーブの路面電車はフォトジェニックなので、よく撮影に行ったが、そこにバスが走っていることもある。そうなると、合わせ鏡の街ウィーンのシンボルそのもので、バスは商店のウインドウに突入しているように見えるところが面白い。
これは世界中をコロナが襲う。1年ほど前にザルツブルグ近代美術館が私の写真を何十点かコレクションしているので、それで企画展をやろうと言う話が持ち上がって。私も久しぶりにザルツブルグに行こうと決心したのであるが、コロナのおかげで中止になってしまった。
どのようないきさつで撮ったのかを非常にはっきり覚えている。ワンショットだ。近くのカメラ屋さんでブラックコンタックスを5000円で買ったのである。当時はブラックコンタックスは人気がないのである。ジェントルマンがその中古カメラ屋さんに持ってきたら家ではそういうものは買わないと言って拒否されたのである。
カメラ屋さんの営業妨害になるといけないから、そのジェントルマンが外に出てしばらく歩いたところで私は声をかけて5000円で譲ってもらった。当時のライカは人気があったけど、カルツアイスの人気と言うのはその程度であったのだ。
テッサ5センチの標準レンズが付いていた。すぐフィルムを入れて街の繁華街を歩いていたら、このおそらく50年に1階位の頻度で起こると思われる銀行の看板の掛け替えをやっていたのである。
それで撮影はこの1枚しかしなかった。50年に1階の銀行の看板の掛け替えと言うのは1枚だけ取れれば、充分であると言うのが私の考えである。
しかし、これはシャッターチャンスと言う部類に入るのであろうか?
国連の人類の文化遺産で、最近人気になっている。古い都Telchの話だけど、広場の真ん中に古い古い噴水がある。それが新しい噴水に回収されて、古い噴水の金属のパーツなどが脇に捨てられていたので、私は記念に軽いやつを持ち帰った。
もちろん新しい噴水も撮影したんだけれども、噴水の作り替えと言うのは、おそらく300年ぐらいのレアなシャッターチャンスなのではないかな?
第二次大戦中にドイツから重要な兵器である所のライカカメラが届かなくなって、日本の軍部が他店とも何も問題ないから勝手に作ってしまえとひどい戦争のやり残しを達成したのがこのカメラである。当時は日本カメラといった。
私はニッカウヰスキーカメラと呼んでいる。特にブラックはなかなか酒の魚のつまみになるのである。そうなるとやはりレンズもブラック系統がつけたくなるから、戦前のカールツアイスのテッサ2.8センチのブラックをマウントアダプターで装着したりしている。
こういうマウントアダプターで、レンズの交換の遊びをすると言うのは、カメラとレンズのコスプレみたいなもので、それはそれなりに結構知的な要素が働いて楽しいものである。
レンズをマウントアダプターに入れて、他のカメラにつけると言うのは、もともとは他にやり方がないから、そのようにレンズとカメラをドッキングしたと言う実用性をもとにしていた。
私が最近批判しているのは、ありとあらゆるマウントアダプターで、ありとあらゆるレンズをありとあらゆるデジタルカメラについてちゃんと映りました。いい描写です。などと言っている連中は吐いて捨てるほどいるけど、情けない時代になったのだと思う。
豊かすぎると、心がしぼむと言うやつだね。
四半世紀前だが、どっかのカントリーの薬局で、覚せい剤の大昔のやつがそのまま店頭に並んでいたので、取り締まりの対象になったと言うニュースを読んだ記憶がある。
ヒロポンなどが代表的な薬であったらしいが、その当時の文芸雑誌を見ると、表紙の反対側にちゃんとヒロポンの広告が出ているのはなかなか面白い。
眠気覚ましとか疲労を感じさせないと言うので、戦争中はずいぶんそういう悪い目的で使われたものなのであろう。覚醒剤は絶対いけませんね。
阿部工房と言う作家は私は嫌いなのだが、彼の叙述の中で実際にヒロポンを服用した人間がどのように感じているかというのを書いた。短いセンテンスがあって、それはじーじーヒロポンが効いてくると言うのである。これは文学者としてなかなか良い文章の使い方だと思って、時々思い出すのだ。
コロナ騒ぎでやたら政府が無料で国民に駐車しようと思っていた。1連のワクチンにしても、時代が経過すると、これと同じことで、あの頃はひどい人体実験を得られていたということになるのだろうね。
その戒厳令の時間が明けて、最初のウィーンワルシャワの飛行機で、私は週刊朝日の取材でワルシャワに行ったのである。飛行機は報道陣だらけで期待の後ろ半分は薬品などの救援物質であった。
ジャーナリストとしての属性は隠していったものだから、いつもは止まらない五つ星の最高級ホテルに宿泊して外出禁止になる。夜10時以降、バルコニーで耳をすましていると、遠くにタンクのキャタピラのような音がした。
中央の広場からちょっと歩いたところに中古カメラ店があったのは我ながら中古カメラを探すかと言うのが幸和当たっているなと思ったのである。そこで手に入れたのがこのポーランド製の2段レフだった。デザインがなんともいいよな。
そこに遊びに来ていたワルシャワの市民と知り合いになって、彼を五つ星ホテルに伴って、一晩中ウォッカを何本か開けたので、翌日はすごい二日酔いだった。やはりポーランド人にはかなわない。
彼らは逆にウィーンに来て、ワインを飲むと酔っ払ったりするのである。ワルシャワ市民の娘さんと言うのがちょうど年頃で、いろいろ私に西側の品物をおねだりしてきたので、帰国してからジーンズとか、なんだかずいぶん送ってあげたことがあるが、それも40年の昔になったのだ。
それでワルシャワを出発するときに、私は多分秘密警察に備考されていたのだと思うけれども、フィルムを全部募集されそうになった。高い取材費をもらってきているのだから、係のポリスが電話に出た間に、私は56本のフィルムをいきなりポケットにねじ込んだのである。全然怖くなかった。
係の人間の許可を得てポーランドにある日本大使館に電話した。これは英語でしゃべらないといけないのである。何も助けてくれませんよね?と言ったら、残念ながら何もお助けできませんと言うのが答えであった。
それで共同通信の悪い者支局の友人に電話してこういうわけになってフィルムが募集されそうだから、ピックアップしに来てくれと頼んで、私は5本のフィルムだけ隠し持ってwinに戻ったのである。
その絶対的に数の少ないバルコニーに、たまたま人間が立つと、どのような効果を生むのかということを考えてみたい。ウィーンで路面電車で走っているときに街の角で停車した。何気なく建物を見ると、そこに立派なバルコニーがあって、男性2人が立っているのである。反射的にカメラを向けて撮影したのがこの画像である。手前にお日様のマークのついたトレーラーが止まっているので、最初はそちらの方を取ろうと思っていたのだが、結果としてバルコニーに立っている男性とおひさまマークが両方映った。
それで後で考えてみるね。手前のお日様マークはそれほど重要ではなくて、奥に立っている2人のジェントルマンが非常に偉い人に見えたことだ。これはどういう理由から来ているのであろうか?
1955年にオーストリアが戦争に敗れてから、10年ぶりに独立した時、その記念の調印式があって、その書類を国民に見せると言うために、ウィーンのど真ん中のお城の広場の上に、当時の首相と大統領がルコニーに出て、その調印証書を集まった国民に見せたのである。
その場所は、ウィーンの防府、ブルグ宮殿であるからまずファーストクラスの建築物といっても良いのだが、そのようなお城でもバルコニーの数は非常に少ない。しかもバルコニーの幅が狭い。その歴史的な報道写真を私は見ていたので、刷り込み現象で数の少ないバルコニーに人が登場すると大統領閣下が出てきたのかと思ってしまうわけである。まぁ実際にはタバコを吸ったのでしょうね。^_
最初の第一回上でカメラを常に携えると言っているのであるが現代にあってはこれはデジタルカメラからiPhoneに移行してそのまま有効なカメラ人生の過ごし方であると思う
その次にバッテリーの電気を切らさないようにしようと書かれている。これもまさに正しくて初期のデジタルカメラと言うのはバッテリーの消耗が早かったからバッテリーがアウトになるかメモリーがアウトになる日の1種のスポーツ的なゲームの展開であったのも今では懐かしい。
カメラのバッテリーの方が以上に成長を止めて1万枚でも撮影可能な容量を持っているデジカメのメモリーであるがバッテリーの方がどう思う20年30年経過してもあまり新刊が見られないと思う。
初期のデジタルカメラの場合はそこら辺で売っているミニバッテリーを一本化日本突っ込めば当座の5枚80枚のデジカメでの撮影が可能であった。そういう便利さと言うものが今は一切なくなって専用バッテリーの場合も機種によってスタイルを少しずつ変えておいて教養ができないような意地悪な構造になっている。
日本のあるカメラメーカーの企画のお手伝いをしていた時に私などを取材先でそういう緊急事態がよく怒ってとにかく1枚でもデジカメの画像があればそれを日本に送ることができるからデジカメに緊急用のハンドクランクをつけておいてそれを回転すると1枚写真が撮れるのではしたがダメだった。
自動車だって私が運転免許を取った頃はちゃんとエンジンにクランクが付いていてそれを回転させて手動でエンジンをかけたものである。あのやり方が1番確実なんだよね。
終わりのほうのセクションでなるべく容量の少ないメモリを使うべしとあるのは今でも有効である。何千枚も撮影が可能なデジカメだと映像に対する思考が鈍ってしまうのである。ライカと同じように極々小さなメモリ容量で50枚位で1枚のカードが使えるようなのが理想だと今でもしています。
そのカメラ、散歩の途中で、オーストリアで1番最初に作られた鉄道の駅であるフランツヨーゼフステーションの中に入ってみたらクラシックな看板がたくさん並んでいた。そのことを記憶しておいて、数ヶ月後になって同じところを訪問して撮影したのがこのショットである。
既に私はソ連製のコンタックスコピーの寄付を持っていた。これは蚤の市でどっかの大学の先生から500シーリングで買ったものだ。レンズは今ではレアな子センチの円風1.5がついている。そのレンズの解放を絞りで撮影。
ポスターとか看板広告はなかなか写真家としては難しいところがあって、それぞれのポスターの単なる複写ではないかと批判する向きもあるけれども、ウォーカーエバンスが戦前に撮影した素晴らしい作品の中には、単にポスターとか案内版とかの複写等見られても仕方がない作品もある。しかしそういう印刷物も、撮影しないと忘れられてしまうから、それはそれで写真家の重要な仕事であると思う。
戦前にジャガールクルトの会社がコンパスと言う高級カメラを出したこともあった。それで時計メーカーが作ったカメラに共通して私が感じるのはこれは時計であると言う存在感が非常に強烈なことだ。時計ではあるのだけれども写真を撮ることもできます。と言うような微妙なものの、属性のバランスに両足をかけているようなところがあって、それがこのカメラの魅力である。
実際にアルパカメラの初期モデルを操作してみると、古い懐中時計のネジを巻いているような指先の感覚がそこに蘇るのである。初期モデルの方がなかなか我々カメラ好きには気に入ったところがあって、例えば一眼レフのミラーはクイックリターンではなくて、上がりっぱなしになるなどと言うのも品格が高いと言う気がする。
オリジナルはオランダのオールドデルフトの50ミリが付いているのであるが、他に交換レンズがなかなか見当たらないので、25年位前に友人に頼んでレンズマウントアダプターを作ってもらった。ペンタックスのレンズが全部この初期のアルパに使うことができる。
ところが、そのレンズマウントアダプターの食いつきが、ちょっと甘いので、頭の悪い私はカメラボディをアロンアルファで固定してしまったのである。こうなると、地球の実験軸と同じことで、絶対に動かしたり外したりすることはできない。
それでも風の少ない純正アルパマウントレンズよりもレンズマウントアダプターは外れないけれども、そこら中にあるタマーレンズとかエム42のレンズを使えるようにしてあった方が、実際問題としては現実的なのである。
この時代のカメラはネックストラップアイレットがついてないから、エバレディケースに入れて使うというのが常識になっているが、これがまたエバレディケースが単体で数10,000円すると言うような我々の足元を見たひどい商売が行われている。
私の友人で、カメラに関しては、かなりお若いのにレベルの高い人がいて、その人が私のためにホームメイドのエバレディケースを作ってくれた。皮肉なことにアルパのスイス製のオリジナルのレザーケースよりも、その作り込みのレベルが高いので素晴らしい。
その当時はルイヴィトンはまだ日本に輸入されていなかった。これはゴージャスだなと思ったのは、凱旋門のすぐそばのお店に入ったら非常にゴージャスな感じで対応してくれた。店員さんが私専門の店員さんであって、お勘定をするまでいろいろにサジェスチョンをしてくれたり、お手伝いをしてくれたりしたのである。中古カメラばかり知っている私だが、フランスの高級ブランドはこういうような接客扱いをするのかと感心した。
でも、フランスのブランドでスーパーブランドと言えばエクレールである。この稲光というか電工のシンボルマークがすごくシャープでかっこいい。この稲妻マークはカメラの裏側のフィルムマージンを装填する。すぐ左側のスペースに金属板として取り付けられている。だから、ヌーベルバーグの映画監督とか、カメラアシスタントはフィルムマガジンを交換するたびごとに、この栄光の電のマークを見たことであろう。
もう一つのブランドマークはカメラの左側の側面に付いているもので、これはビューファインダーのすぐ下だから、カメラマンは撮影の直前と撮影直後に、いやでも金属版のエクレールのマークを見なければならなくなる。
^_^そちらのほうの金属マークには、エクレール瓶フレックスどうやって35 16スタンダードと記入されている そして、その文字列の全体が、風にはためくフラッグのゴージャスな構図で封じ込まれていると言うデザインで、瓶フレックスを欲しいと言うのは、このブランドマークを所有したいと言うことそのものなのであった。
この風に翻るフラッグのことを、私は20歳代にデラシネの何時フラックと呼んでいたのである
このショットは足立区の関原あたりのおそらく今はもうないと思う。けれども、関原で有名なランドマークにボロボロのお茶屋さんみたいのがあって、それはサビ王と呼ばれていたのである。そこがマンションになって、もう20年近くが経過する。
撮影に行く時はいつも1人が原則であるが、この時は友人の写真家同行した。私がこのカタログの看板に納得したのである。そういうときのカメラ機材はよく覚えていて、ブラックロード2 44ミリのレンズであった。からネガフィルムで撮影は1枚しかしていない。それでいろいろ考えたのだが、このカタログのカンパニーはなかなかいい味が出ている。ただそこで危険なのは、実際にこのカンパニーに仕事を発注してしまったりしたら、極々普通の結果になってしまうであろうということで、私が評価しているのは、この会社の汚れた時代遅れの看板をオブジェとして高く評価していると言う意味である。
撮影の途中ではぐれてしまった友人の写真家は私と合流して、ゆうにさっきこの先の小さな町工場で作業している所を写真を撮らせてもらったのだが、その作業というのが大船の模型というかおもちゃを作っているというのである。これなども小さな町工場が作るものとしては、非常に奥ゆかしい感じがして、それで足立区関原界隈が好きになったのは、そんな理由によるのだ。
関原にはまだランドマークがあって、ブルドッグと言う名前の洋食屋さんで、これは文芸評論家の福田和也さんもよく行く店であったそうだ。その近くにマッチ箱を押しつぶしたような斜めになっている。床屋さんがあって、そこに私がびっくりしたのは押しつぶされたマッチ箱の状態で現に営業をしていると言う点であった。足立区は凄いところがたくさんあるな。
その時理解できた事は、ブリューゲルに限らず名作と言うものはそれが所蔵されている。ミュージアムで見るのが正しい見方だと感じた。
ブルーゲルは、日本では指屋さんが10年に1回ぐらい開催して、これはもう1種の文化的伊勢参りみたいなものだから、自称文化人、美術愛好の人々が押し寄せて、人の頭しか見えなかったと言うので、それを自慢話にするのは、大阪万博よりかは文化レベルが高い事は言うまでもない。
ウィーンに暮らしていた時は、年間パスを買って暇な日には、昼前からリューベルの作品の前に座って時間をつぶしていた。大変ぜいたくな話で座り心地の良い真っ赤なベルベットのチェアが私用に置かれているのである。^_^そこで私が考えた事はこういうことである。
ブリューゲルのこの名作は、実は私の所有なのだが、私の好意的な意思でここに置いて、他の人々にも見てもらっているのだと。これは妄想ではなくて、実際にそうなのだ。文化財と言うものは、その所有者はパブリックなものだから、あなたも私も好きな文化財の所有者になっているわけである。
ブルーゲルの名作が日本にやってきた時、テレビニュースなどで紹介されてあたしみたいなじじいがやっぱり本物は違いますと言ってるのは吉本興業のギャグよりはるかに面白い。
日本にやってきたブリューゲルを押し合いし合いで、人の頭越しに見るよりも、それが本来あるミュージアムで見た方が落ち着けることには間違いがない。それに最近のオンラインの改造力は素晴らしいから、わざわざ外国のミュージアムに出かけていってみるよりも、オンラインで見た方が楽だし、理解が深まる。世界中のミュージアムは所蔵品の複写をオンラインで見せているから、便利な時代になったものだと思う。
ウクライナ戦争が始まってからこの街のことをキエフではなく、キーウと言うらしいが、私はわかりにくいから、オリジナルのままのキエフにしておく。
キエフと言うカメラが非常にたくさんあって、このコンタックスコピーから16ミリのミニチュアカメラそして66サイズのハッセルブラッドタイプの一眼レフまでが存在する。言い換えれば都市の名前を代表してカメラの所属系統を一言で表しているのだから、非常にわかりやすいと言う言い方もできる。
最初にキエフカメラを使い出したのはコンタックス2のデッドコピーのやつであるが、1973年のクリスマスちょっと前にウィーンの蚤の市で店を広げていた大学の先生から買ったのだ。値段は500オーストリアシリングだったから、まず 6000円か7000円と言うところだ。
それ以来、コンタックス型のキエフカメラを使っていたが、ウィン滞在の最後の1980年頃になってこのカメラ、すなわちキエフファイブがウィーンの中古カメラ屋さんのウインドウに登場した。値段はやはり500シリングであった。要するに、ウィーンの人間にしてみると、周りは全て共産主義の国に囲まれているから、こういうカメラは歓迎されない^_^存在なのである。
1980年の終わりにファーイーストに戻ってきて、それからすぐにアメリカのモダンフォトグラフィーの極東特派員と言うのをやっていた。それでネタに困った時、キエフファイブの話を送ったら、これが結構話題頭になった。というのもその頃はまだクレムリンから赤旗が降りてないから、このカメラはほとんど西側に知られていなかったのである。セレンメーターを乗っけた渋滞の大きなカメラだから、ライカエム5と似たような存在感であるのが面白い。でも、カメラのバランスは良いので、使っていると悪い感じではない。
オリジナルのコンタックスとは全く違うカメラに見えるが、実はカメラ本体はコンタックス2型と全く同じであって、そのカメラ本体の上にセレンメーターやら何やら乗っけてこのような形になったのである。ある意味でロシアのカメラ技術は凄いと思う。
フルサイズのミラーレスをたまに持って出るが、疲れてしまうというのが高級カメラの共通の悩みのようです。
過去10年の私のカメラの使い方を思い出してみるに、広告の仕事でもAPS-Cサイズでそれで大きなポスターを作ったり、新聞広告をやったりしました。
大手クライアントでどうしてもフルサイズでと言うデザイナーさんのリクエストがあるときには仕方ないので、フルサイズのデジタル一眼レフを借りていきました。でも、大抵の場合は日経の新聞広告などもそうですが、リコーGR 1で撮影していました。
そういうコンパクトデジタルカメラも最近はやめにして、もっぱら片遅れのiPhone SEで写真を撮っています。日常の記録とSNSにアップするのなら、iPhoneでも映りすぎる位です。
その1番最初の本を皮切りにトータルで135冊位の本を出したのだけれど、カメラの本は100冊位で残りの35冊ぐらいは写真集のはずである。それで面白いのは私の読者の人は写真集を買う人は、私のカメラのほうは買わないし、その逆もあると言うことなのだ。
カメラ選びと言う言葉はなかなか複雑なマジックなのであって、1つのカメラをもう一つのカメラより差別化して高く評価すると言う意味合いが濃厚である。最近のデジタルカメラ選びのFacebookクラスの皆さんのカメラ評論を読んでいて、面白いのがほとんど同じ性能のカメラをその日の気分で使い分けていると言うことにある。
これはかなりインチキなカメラ選びではあるのだけど、それと同時に間違いだらけのデジタルカメラ選びであり、もっと言ってしまえば、そのように気分でカメラを手にとると言う事は、実は真実のカメラ選びであるのだと言うこともできる。
写真家の須田さんとずいぶん長いことカメラ談義をしたのだが、彼は写真表現に行き詰まるとカメラを持ち替えて気分を一新してその先に進むと言うやり方をしていた。これはこれで有効だと思う。
ところでここにある3台のカメラのコンタックスと右側のコピーライカであるが、ここら辺の50ミリレンズは性能が優秀だから何の問題もない。ところが私が気分的に高く評価しているのは左側にある。フィレンツェで作られた。不思議なカメラと不思議なレンズなのである。これはレンズから見れば非常に劣った描写をするのであるが、逆に言うとそれがフィレンツェ製の特徴になっていると言うわけだ。実際カメラ選びレンズ選びは難しいですね。
お店のサービスの内容は知らないけれど、この看板を見たときの私の第一印象は、いわれる帝国主義の国で、かつての共産主義とか、社会主義のかっこよさを強調したコマーシャリズムのやり方に見えたのだ。
ところが、その数秒後、冷静に考えてみると、私が立っている所は、元北ベトナムであって、アメリカ帝国主義を敗北された社会主義国の中心部なのである。だからこの広告の存在感が西側の国で社会主義をキャラクタライズした広告ならわかるけれども、社会主義の国で社会資源をキャラクタライズした広告というのがなかなか新中のコンプレックスになっていて、それでめまいを私に生じさせたと言うわけだ。
まず、コマーシャリズムの展開としては、なかなか成功の方向を目指しているようにも思われる。ハノイのぶらぶら町歩きで1番印象に残るショップであった。
涙橋の角に酒屋と言うよりも立ち飲み屋があって、酔っ払ったおじさん連中がたくさん集まっているのはいいけれど、酔いつぶれたおじさんが交差点の近くで寝ていたりとか、なかなかワイルドな場所だった。
大都会にはそのような緊張状態がある。怖い街が必要なのである。だからマンハッタンのバワリーあたりはそれなりに怖かった。東京のこの界隈玉姫神社あたりまでも、結構怖い地域であったのがそういうことが一切なくなってしまって、私などは自分の青春が、失われたようながっくりきた気分になっているのである。
玉姫神社のすぐ近くに、東京では、もう珍しくなった。路地裏というか、路地の突き当たりがあって、普段ならば、完全に見落として、通り過ぎるところなのであろうが、この時はお祭りのちょうちんが出ているので、路地全体がなんとなく艶めいて、独特な空気が漂っていた。
お祭りの時に古い木造建築の木木に掲げられるお祭りのちょうちんと言うのはそういう意味でなかなか雅なものである。これがモダンな今のビルになってしまうと、町内会のお付き合いで仕方がないからちょうちんぶら下げていますと言うふうに見えてしまうのは情けない。
ちょうど六本木ヒルズクラブもできた時でそこのメンバーにもなった。それで打ち合わせ等で遊びに来る人は、私のように毎日六本木ヒルズの49回の空気の薄いところに来るわけではないから、いろいろ面白がってくれる。
それで1階上がヒルズクラブだからそこで飲み食いをするのである。こちらは毎日そういうところに行っても飽きるから下のローソンに買いに行くのであるが、ローソンが1ヵ月半休みであったときにはランチ難民になって大変であった。
49回と言うレベルだと東京のありとあらゆる物の動きを鑑賞するには非常によろしい。1番腹が立つのはすぐ隣がアメリカ軍のヘリポートである。それで軍事作戦だか遊覧飛行か知らないが、アメリカ人の若い奴が軍用ヘリに乗って六本木ヒルズタワーギリギリに離陸していくのである。
文句を言いたいけれども、日本の空はアメリカのものにこの80年ずっと鳴っているらしいから、これは仕方ない。アメリカの属国だからね。
逆にプラスのファクターとしては、オフィスのブラインドがこのような感じなので、光の加減としては、ときにはドイツ表現派の写真作品のように風景がしばしばになることだ。これは楽しかったね。
それで私が思い出すのが中目黒の一本道と言うやつだ。ロシアの一本道より中目黒の一本道の方が迫力がある。10年近く前その一本道を歩いていたら、非常に面白いものに出くわしたので、それまでの中目黒の退屈さと言うものが吹き飛んでしまった。
それがこの子供がやっている蚤の市の展示と言うやつだ。ほんとに小さい子供が不要になったものを一本道の脇で売っていると言う感じだが、実際には売りてはいないし、並べ方が整然としているからお母さんがセットしたものである。
世界中の蚤の市を見て歩いたり、撮影をしたり、面白いものを買ったりした。半世紀の私の蚤の市人生であるが、これだけ面白い蚤の市は初めて見たので、10年以上前にもかかわらず、いまだにはっきりを記憶しているのである。
長い長い目黒の一本道にここだけの実行が出ているから、これはユニークだよね。何度も言っていることだけど、これは蚤の市なのである。蚤の市の英語の言葉を聞き違えてフリーマーケットであると言っている人がいるが、それは違います。
Facebookの友人がメルカリに出ているよと教えてくれたので、2冊ゲットした。感謝。
後期高齢者の記憶などいい加減なものだから、写真集のことを書くときは現物に当たるのが1番。
34年間のプラハのアトリエ暮らしで、毎朝全く同じブレックファーストをこのように作っていた。ベッドから起き上がって5分で全てが完了するのだ。
コーヒーはチェコの飲み方は古い数百年前のトルココーヒーの飲み方の伝統が残っていて、コーヒーの粉に直接熱湯を注いで、かき回して数分間コーヒーの粉を沈殿させてから飲む。これが1番うまい。、、
お皿がわりにしているフライパンは油が馴染んで絶好の状態だったのだけど、アトリエの室内を新しくする時、すなわち天窓が新しくなったときに間違って捨てられてしまった。仕方ないので同じものを新品で買ったが、使い込むまでにまた20年近くかかった。
34年間暮らしたにもかかわらず、住んだアパートメントの屋根裏の写真の内側はあるけど、外側は1枚もないことに気がついて、十数年前にアトリエの北側の広場に出て撮影したのはこのショットである。屋根裏の8枚続いている、窓がわが世界であった。
なぜ自分の住んでいた屋根裏部屋の外側から写真を撮ることがなかったかというと、理由は単純で、屋根裏からエレベーターのない建物の階段を1番下まで降りて、南に進むと、巨大な中庭に出るのだ。そのなかにはをさらに進むと、メトロの駅の方向への道がある。つまり、何十年も住んでいるにもかかわらず、アトリエの北側に立って全体像を見ると言う事は1度もなかったのである。
ごくたまにアパートメントの北側のドアから出入りすることがあったが、それはアパートメントに沿った。すぐ隣の道であるから、距離をとって屋根裏部屋を見ると言う事は視覚的に不可能である。
アパートメントの北側を東に行った角に結構いいビアホールがあって、ごくたまにそこに行くことがあったが、何しろヘビースモーカーの多い本格的なビアホールであるから、広い部屋のこちらから光が見透かすことができない位煙っていた。だからそこにも行くのはやめてしまった。
ところで、アトリエの天窓が新しくなったときに八戸並んでいる一番右側の窓にメーカーの紙が貼ってあって、その紙のサイズがA4サイズなのである。これが軍事衛星から見えるのにはびっくりした。Google Earthからの画像であるが、これは軍事衛星をかなりシャープネスを落としたものであるから、私をピンポイント攻撃するためには8つある、窓の左から2番目を攻撃すればいいわけだ。そこにベッドに寝ている私の頭がある。
もともとM3はそれまでのバルナックライカと違って、トップカバーが付いているから、フィルム巻き上げははるかに進歩しているのである。しかし、ライツの会社としてはトップフォトグラファーからのリクエストだから、断るわけにもいかなくて、M型ライカにライカビットをつけるようにした。
これがライカMPである。当時のMPの値段はM3よりも35ドル高いだけだったのに300台ぐらいしか売れなかったので、ライツはこれは商売にならないと言うのですぐに中止したのである。
これが間違いの元で、今やオリジナルの値段の数百倍と言うインベストメントプライスになって、本物のライカMPは世界中の金庫に保管されてしまった。
そのライカビットMPは単体で買えることもあって、学生の時は13,000円で買ったのである。物価上昇とシンクロして今は単体で3000ドル位するのである。
要するに、私も青春の思い出のために手にしているだけで、実際には全く役に立たないガラクタアクセサリーです。
その時に気がついて書き残したことがあって、それがニコンSPとロードマーシャンのファインダーのデザインコンセプトが似ていると言うことだった。
登場はニコンSPの方が先だったと思うが、この頃のレンジファインダーの基本デザインはこういうシネマスコープタイプのデザインなるである。
今度建て替えになる帝国劇場だが、戦前の建物の頃に帝国劇場はシネラマの上映館だった。私もこれがシネラマだと言うスペクタクルな映画を見に行ったことがある。
ただ、この2つのカメラで、どちらがデザインが良いかと言うと、右のほうになるね。
そういう時に会社の近くにあったカウンターだけの座席の数も、わずかなお店なのだが、今写真にしてみると、なかなかスマートでクールだと思う。目の前でドリップで作ってくれる。コーヒーはなかなか半世紀以上経過しても記憶しているのが凄いと思う。
自分の時間が自分で管理している。その1日のスタートのコーヒーのいっぱいはとても良い感じだ。喫茶店と言うと商談とか我々のレベルだと喫茶店で座談会をやったりする。これは日本の環境がそういうことをせざるを得ないから仕方がなくそうなったのであろうか?
偽物ライカ同盟の本を作ったときに登場してくれた方々の対談の収録は当時仕事場があった。六本木ヒルズで開催したのだが、1番偉いボスの片岡義男さんはそれをかたくなに拒否して神保町にある瀬戸という名前の喫茶店を指名してきた。それでそこで対談をしたのである。
つい最近になって、なぜ片岡さんが六本木ヒルズではなくて、神保町の喫茶店だったのか思い当たるところがあった。私はいいチャンスだから、片岡さんをライカウィルスに感染させようと思って、手元のライカを1台お渡ししようとしたら、片岡さんはそれに触ろうともしない。なるほど、このことかと今になって思い当たるのである。
ちょうどその4年前の夏に私はプラハに滞在していた。私がプラハと関係を持つようになる。34年間のかなり初期の時代の話である。その時代に私は真実のプラハの姿を見たと言う気がするのだ。
その当時のプラハの街は、何百年に1階と言う大回収工事をやっていた。街のありとあらゆる道路は掘り返されて新しくなっていたが、その間のプロセスはすごいものであって、ちょうど巨大な爆弾がプラハの旧市街のあちこちに落ちたような乱雑な風景であった。私はそれにフォトジェニックなemotionを感じて、プラウベルマキナプロシフトで精力的に撮影したものである。その時の撮影本数は120フィルムで300本起こした。
この作品は、プラハのどまん中の有名なデパートの裏側の道なのであるが、工事現場の通り抜けのような感じがするのが面白い。2人の通行人が背中を向けて通り過ぎていくところであるが、その秋に交通標識の人間のシルエットが一緒に写っているので、まるで3つの人間のフォルムが移動しているように感じられる。
さらにそのことよりも、私がこの作品を評価しているのは、私のフイルムの扱いが雑であったということがプラスのポイントに出て、フィルムの上と下が光で被っているのである。こういうのを私は光の攻撃と呼んでいる。予期せぬ撮影者の意思と全く違うところで、フィルムのエマルジョンが光から攻撃されるという意味である。そしてそれがうまくいって、このような状況になると、写真は別の段階にアップされているのだと言うように感じるのだ。
この状態を、私は光の惨劇と呼んでいる。
このカメラが日本に最初に輸入されてプレゼンテーションが行われた時に、それまでのカメラは三脚の上に乗せて50キログラム位あったから、三脚からおろして手持ちで取るのは不可能である。それをデモンストレーションではカメラマンがこのカメラを手に持ってフォックストロットを踊りながら撮ったので、みんなびっくりした。
踊りながら取れるのだから、戦争にもいいだろうと言うので、戦争カメラになった。ロバートキャパが持っているのはシングルレンズのタイプだが、これはスパイダーターレットと言う。上級モデルでレンズが3本付いて回転することができる。
軍用カメラなので、色もオリーブドラブに塗装されている。これは南アフリカのケープタウンから買ったのだが、カメラ屋さんがこのカメラを知らないのでエルモと言う名前で販売していた。
第二次大戦の頃のカメラマンの活躍する記録、写真などを見ると、3人の戦争カメラマンがそれぞれこのスパイダーターレット付きのカメラを持って、片手でタバコを出ながら笑い合っているのがある。確かに20代の人だったら軽く感じるかもしれないけれども、後期高齢者にはこの重さは童貞無理だなということが最近ようやく判明した。
このニコンの製造番号を見て欲しい。60910644である。興味のない人には、単なる数字の羅列であろうが、これはニコンコレクターにとっては、いわゆる8桁、製造番号と言うレアモデルなのだ。
609と言うのは皇紀2600年すなわち昭和15年から数えて9年目ということで、ニコンの製造番号の頭が609で始まるのである。戦前の歴史を引きずっているわけね。それで6091が最初のニコンカメラでそれからカウントして609999まで行ったらいっぱいになってしまったので、その先に10,000番からスタートする数字列を加えたわけだ。
カメラメーカーはこのことの不都合に気がついてしばらく経ってからスターティングのオーダーを609から610にしたのである。だから609でスタートする番号は1けた最後の方で多くなっていて、8桁番号の製造番号を持つ離婚レンジファインダとなった。
そういうどうでもいいことがコレクターには重要なわけです。
例えば、音無川のそばに滝野川信用金庫と言う看板を認識して、それから路地をずっとつたって15分ごろ経過してみると、またそこに滝野川信用金庫と言う看板が出てくる。
要するに、道に迷って方向感覚をなくしてしまっているから、こういう面白いことになるのである。ハノイの中心からちょっと南に行った場所に丸い小さな池がある。といっても、池の直径は500メートルはあるから、それなりに大きい。ハノイで道に迷っているときに、そこをぐるぐる回っていると、どこかで見たことのある街並みが永遠と出てくる。
その丸い池を参集したときに、さっきハノイウォッカを買ったお店がまた出てきたので、それで池の周りの堂々巡りに気がついた。
滝野川にあるモンドリアンのアートワークにそっくりな場所と言うのを発見したときには、かなりびっくりした。自然の摂理で作られたものがアーティストと似てくると言うのは当然のことかもしれないが、逆に考えると、モンドリアンはファーイーストのこれを見て真似をしたのかもしれない。
気にいったので、町歩きのワークショップの時は皆さんをここにお連れしてびっくりさせたものであった。まず私のワークショップに参加する皆さんはモンドリアンの事はよく知っているからびっくりしてくれるのである。
そのように決めたのは単純な理由であって、残りの時間の時間割を考えてそのようにした。都合34年間プラハの北のほとりにあるアトリエに暮らして、たいていはメトロの終点まで歩いた。それがこのかなり広大な広場であるが、何が嬉しいかと言うと、地面の上を踏んで歩けると言うことだ。
ここはプラハの丘市内の北側のターミナルと言うことになっていて、そこからまたカントリーにつながっているバスがたくさん着発している。だからビロード革命以前にこのバスターミナルと接続する。メトロの始発の駅のプラットホームに立っていると、カントリーから来た人は、皆、申し合わせたように、靴の裏側にべったりと、我が祖国の父がついているのである。
これはなかなかすばらしいことだと思った。それで私も1年の間この結構広い広場の道路の上は歩いて我が祖国ではないけれども、チェコの大地を靴の裏側に感じたのであった。東京の不幸は言うまでもない。東京のどこに行っても、地面はアスファルトや煉瓦屋タイルで固められてしまっているから、私の靴の底は大地を直接に感じることができなくなってずいぶん長くなったね。
それで軍用カメラは基本的には一般の人が使うカメラとそんなに違うところはない。一般人が戦場でもないところで使っていて、すぐ壊れては困るわけだが、戦場の場所と日常生活と言うのは隣り合わせているから、厳密にはそれを区別することはできないのだ。
それでもカメラ業者さんが納入するわけだから、何か特別なメリットをカメラにつけなければいけないので、ブラック仕上げにしたり、オリーブドラブ仕上げにしたりしたのであろう。
ライカの場合だと陸軍方面はオリーブゾ。ラブで空軍方面はラウフグレイである。ところがラルフグレイのライカイムツと言うのは、その数が11ダースぐらいしか作られなかったので、今では天文学的な値段になっているらしい。
アメリカ軍が採用した軍用カメラはそれほど高いということはなくて、1番高価だったのは、クラシックライカのバルナックの完全なコピーであったKarson カメラであった。しかしアメリカ陸軍の偉い人は実用主義者だから、兵隊に持たせるのにそんな高いカメラはいらないと言うので、大衆的なコダックみたいなアマチュアレベルのカメラになった。
コダック35のブラック仕上げと言うのは、それでもそれなりに存在感があって手にしてみたいなという感じはするのである。ネックストラップアイレットが非常に大きいなどと言うところがいかにも軍用カメラのふりをしていると言う感じがする。
小学校低学年の頃に音羽にただ1つあった。映画館で見たのが、ディズニーの砂漠は生きていると言う動物映画である。
大人になってからこの動物映画の全部がこのカメラで撮影されたと言うことを知った。野生動物はいろいろある。けれども、小さな動物はクローズアップで撮影しなければならないので、その時はこのカメラは簡易的な一眼レフ装置が備えられている。
レンズはコダックの優秀な平白だし、画面の安定性も良いので世界中で使われた。アメリカ海軍もこのカメラを公式な16ミリ撮影機で指定していて、オールブラックのマット仕上げのかっこいいカメラも持っている。
唯一の問題点は完璧なミラーレフレックスではないので、撮影に限界があることだ。それでイーストマン・コダックはその後のモデルでコダックレフレックススペシャルというのを出した。こちらのほうは回転式のミラーで常に撮影中の画像を見ることができるのであるが、カメラ本体が大きくなって重さもかなり増えたので手持ちで簡単に撮影することができなくなった。しかも電動モーターなので、どこでも撮影できると言うわけではなかった。
最初にこのカメラを手に入れたのは、1973年のウィーン時代でレンズが全部揃っていて、非常に上質なトランクケースに入っていて、夢にものボール幸福感と言うやつだった。カメラのターレットの下の部分にオーナーの名前を彫刻できるようになっているのがこのカメラの特徴である。そこにはバロンなんとかと刻印されていたから、どっかの貴族さんが使っていたものらしい。
戦争直後の値段が25ミリ標準レンズ付きで1000ドルしたのだから、大変高いカメラであった。
しかも面白いことにツーリストが集まるようなツーリスト。密集地には、こういうものはなくて、バスに乗って、街の周辺部に走っていると、大通りを角に曲がった。その裏手の建物の壁面が、全部巨大な壁画であったりするのが面白い。
スボンは酒多い街であるが、そういう坂の上から下を結ぶ階段がそこら中にあって、その階段を上り下りする人の向かう視線の建物の壁面が同じように巨大な壁画であったりする。
私は、ルーブル美術館などでもな家の中で、特に巨大なものというのは大嫌いなのである。その大きさで鑑賞者をびっくうと言うようなところがあるからそういうのは手品のネタみたいなところがあって、面白くないのだ。
しかし、リスボンのような巨大な街の建物の壁面全部を使った絵画と言うのは全く別の方向であって、これは面白い。言い換えれば街全体をギャラリーにしているという意味では、美術館よりもはるかにサイズが大きいわけだ。
この巨大な作品もピカソバリで良い感じである。