【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 6【徘徊】最終更新 2026/03/11 09:421.名無CCDさん@画素いっぱい9ooWCRMi0尊師降臨過去スレ【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ日本大学芸術学部写真学科卒業日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなるオーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集めるなお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催されるその写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたないその端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16340871892021/10/13 10:06:29340コメント欄へ移動すべて|最新の50件291.名無CCDさん@画素いっぱいF2UNyゼンザブロニカがハッセルブラッドのプロトタイプに似ているビクターハッセルブラッドの生誕100年のプレスツアーでハッセルブラッドに招待されて、自分年以上前にヨーテボリに行ったのである。2025/11/04 12:58:10292.名無CCDさん@画素いっぱいQIIBg橋からの眺めではなく、 ブリッジを眺めるニューヨークから戻ってきた。1983年から10年間ほどある雑誌に橋からの眺めと言う連載の写真と文章を出していた。2025/11/07 15:58:46293.名無CCDさん@画素いっぱいhZDX7アントノフに乗って、どっか近くに遊びに行きたいソ連製の飛行機に乗る趣味というのがもっぱら私の場合にはあって、そういう状況はずっと楽しめると思っていたのに、1989年にクレムリンから赤旗が降りて以来、そういう楽しみが不可能になってしまった。2025/11/09 08:36:18294.名無CCDさん@画素いっぱいVujEg1966年の新宿ヨドバシ浄水場跡地子供の時からずっと新宿と言うのは東口の事だと思っていた。西口は淀橋浄水場があって何も存在しなかった。2025/11/11 08:17:17295.名無CCDさん@画素いっぱいJwYRd京島の交差点と言うお店墨田区京島の存在に気がついたのは30年以上前である。当時東京の路地裏のライトと言うのはタングステンランプであった。2025/11/16 08:43:09296.名無CCDさん@画素いっぱいhTJHdクリスマスプレゼントに欲しいカメラクリスマスが近づいてきたので、カメラノートスペシャル12月1日では、クリスマスに欲しいカメラの特集記事です。それで思うのはデジタルカメラを30年使っているのに30年前に使った。デジカメは既に手元にないし、何を使っていたのかも覚えていないこと。このクリスマスプレゼントは素敵なものです。100年前のカメラ、人類も夢見たその夢が100年後も同じ価値を持っていると言うのは、なんと素敵なことではありませんか?2025/11/21 07:43:50297.名無CCDさん@画素いっぱいv4zmdウォーカーエバンスファースト&ラストウォーカーエバンスファーストアンドラストと言う写真集は結構前のものであるが、その表紙の見返しにこのように彼が20代の時と70代のときの2つの顔写真が並べてあるのである。これこそストレートフォトグラフィーの真髄と言う感じがする。2025/12/05 13:20:35298.名無CCDさん@画素いっぱいUkS1Lウォーカーエバンス1939アメリカの農業保全局の仕事ウォーカーエバンスのメインの仕事と言うと最初にハバナからスタートしてハバナの撮影を依頼した人間はハバナを政治的に弾圧すると言う目的が背後にあったらしいが写真と言うものはそーゆー政治的なプロパガンダ以外のところで後の時代に残ると言うことを証明したわけである。2025/12/07 08:27:54299.名無CCDさん@画素いっぱいQDg5T日本の風景で1番気になっているのがこれなのですヨーロッパの商店街でもそうだし、アメリカは言うに及ばず、アジアの商店街でもそうなの。だけど、お店を閉じているときに、外から誰も物理的に入って来れないような、そういう頑丈なプロテクションがなされている。2025/12/09 09:56:08300.名無CCDさん@画素いっぱいQedQ1一ツ星クラスのカメラフランス製のライカタイプのカメラです。フランス海軍が軍用カメラとして採用していました。フォカカメラがすごいのは、究極のフランスのデザインであること。シャッターダイヤルがフィルム巻き揚げも兼用しているのです。こういう事は普通。ちょっとドイツ人や日本人には考えつかない。シトロエンの高級車、DSのハンドルが1本スポークであったと言うのと似ていますね。このカメラは三ツ星が最高級で3つのクラスに分けられています。私が好きなのは1番下のクラスの一つ星です。バブルの頃に雑誌の取材で、世界の五つ星ホテルをずっと巡る仕事などがあって、そうなるとその反動として、フランスなどでもなるべく星の小さいホテルに泊まりたくなりました。理想は一ツ星ホテルなのですが、そういうのは今のフランスでは存在しないので、2つ星で我慢。物事はその最小限の単位が最大の仕事をすると言う先人の教えが生きています。カメラは最低クラスに限る。ところが、日本の人はラグジュアリーが好きだから、高級カメラをやたら欲しがる。2025/12/13 00:38:31301.名無CCDさん@画素いっぱいG2lFjクラブえダムに集まって、こんなことをやっていた今は廃刊した日本カメラの連載をトータルで4半世紀ぐらいやっていたのである。これは結構長い時間だと思う。2025/12/15 12:27:36302.名無CCDさん@画素いっぱいjCUWgドナウ川がミルクコーヒー色になる20251212相撲の近くの大きな川であると言う経験が私には豊富にある。ウィーンに暮らしていた時もそうだったし、佃島でも荒川が流れている。マンハッタンの場合は川のそばと言うよりもハドソン川とイーストリバーの間に挟まれていたから、川辺に暮らしていたと言っても良い。2025/12/17 09:41:47303.名無CCDさん@画素いっぱいieb6Eウィーンに暮らしていた頃、私は猫の記念写真を撮影して、飼い主にあげるボランティア活動をしていたウィーンなどは猫は家の中で飼うのが普通になっているから、面で猫を見る事はほとんどない。だからイタリアに行ったりユーゴスラビアに行ったりすると猫が生き生き外を遊んでいるので、これは猫の天国猫田だと思う。2025/12/20 15:01:32304.名無CCDさん@画素いっぱいz6HgUウォーカーエバンスのこの看板がよろしい1939年にウォーカーエバンスが、アメリカ農業保全局のアサインメントで、deepサウスを撮影したときの作品。2025/12/21 00:57:20305.名無CCDさん@画素いっぱいYozsnオリンパスワイドと一緒に人生を歩んできた日大写真学科1年生の4月に写真学科からつまり英子だから、関東バスの赤と白の塗り分けられた車体のやつで中野駅まで来た。中野駅の近くのカメラ屋さんでオリンパスワイドを買った。値段は18,000円だったから大変な散財である。当時が私は父親に買わせた大回無痛のブラックペイントがあったけど、それは自分の宝物だから、デモ行進を取材に行って、機動隊の放水車でライカを濡らすのは嫌だったから、もっぱらこのオリンパスを使ったのである。それで今まで写真家人生を歩んできた。2025/12/23 17:12:19306.名無CCDさん@画素いっぱいbW4ucウォーカーエバンスの撮影したサーカスの看板が好き1939年に生生日エバンスがアメリカ農業保全局のアサインメントで、deepサウスを広く旅行したときの私の最も好きな作品の1つである。2025/12/25 08:40:24307.名無CCDさん@画素いっぱいI9vCv裸の天使Josef Sudek生誕百年記念の写真展のカタログから2025/12/26 15:57:53308.名無CCDさん@画素いっぱいX3MvyStillライフの傑作20251228Josef Sudekの場合、1番重要な作品と言うのは、プラハのモルダウ川のそばのアトリエで撮影された1連のスティルライフである。2025/12/28 11:05:01309.名無CCDさん@画素いっぱい5a4QK有楽町のカメラアングル有楽町の国際フォーラムができて、30年位になったであろうか?古い東京都庁のごみごみした建物があって、そのエントランスに太田同感の銅像が立っていた時代を私はよく覚えている。2025/12/31 08:59:00310.名無CCDさん@画素いっぱいnwU77裸の天使Josef Sudek生誕100年の記念写真展のカタログの中からピックアップした作品である。2026/01/01 08:22:35311.名無CCDさん@画素いっぱいgNPd5ガラクタ屋さんのカメラ論我楽多屋さんのブログを読んでいて、壊れたカメラに価値がないと言うのは変貌するのでは?2026/01/02 12:53:14312.名無CCDさん@画素いっぱい8nWlXもう無理だよデジカメさえニッチなオタクしか持ち歩かない令和になって、フィルムカメラなんて更に少数の気まぐれな趣味40代以上のコレクターもどう売り抜けようかと思案しているんだから2026/01/03 19:06:49313.名無CCDさん@画素いっぱいZNRzjザルツブルグカレッジでMITの学生を教えた頃1970年代にヨーロッパのあちこちで写真展を開催したり、日本から持ってきたその当時の日本の写真家の展覧会を巡回したりしたので、私の活動も少しは知られるようになって、ザルツブルグカレッジからワークショップをやるようにと言うお誘いがあった。2026/01/04 07:59:46314.名無CCDさん@画素いっぱいywsDtウィーン時代のさんまの蒲焼の使い方千葉県銚子市は私の縁の街なのであるが、ほとんど行った事は無い。2009年にライカインコがペットロスで昇天した時に家人と出かけたことがある。2026/01/08 16:18:40315.名無CCDさん@画素いっぱいZAsws「明日から3連休だぁ」と思いながらあったかい所でお酒をちょこっと飲んで寝て朝6時頃起きて「今日は起きなくていいんだぁ」と二度寝してあったかい布団でゴロゴロして「あー、そろそろ起きたい!」と思ってぐーんと背伸びして起きる。体調が良い。あー幸せ。2026/01/10 17:39:12316.名無CCDさん@画素いっぱいwxrJmこのニコンカメラのカタログを撮影した半世紀前の記憶ニコンの一眼レフカメラをスタジオで撮影してそれがカタログになったと言うのは、つい最近の話だと思っていたが、冷静に考えてみるともう半世紀前の話なのである。2026/01/14 09:08:51317.名無CCDさん@画素いっぱい3RCuLフェラーリの修理、メカニック、福島さんからもらったハリネズミのモビール福島さんと言う人は、もともとカメラの修理人で非常に腕が良い人である。フェラーリのメカニックをやっていて、それでイタリア製のカメラに何があるかと調べて、いきなりローマで作られたレクタフレックスを友達にしてカメラの修理人生が始まったと言うことだ。2026/01/24 14:58:01318.名無CCDさん@画素いっぱいmvNr7SEMフランス製の60年代に作られたと思われる2眼レフである。3文字のアルファベットのカメラの固有名詞と言うのはそれが略語には違いないけれども、何か非常にストレートな表現力を持っている。2026/01/27 16:20:56319.名無CCDさん@画素いっぱいQzhVh防災放送のラウドスピーカー何を言っているのかわからない日本中にある防災のスピーカーが全く役に立っていないことが不思議で仕方ない。2026/01/31 08:09:26320.名無CCDさん@画素いっぱいph2LdiCloudが思い出させてくれたiCloudを見ていたら完全に記憶から脱落していた歩1冊の本にを思い出した。それはレアな書籍として知られている稲垣足穂のイタマキニカリスと言う本の存在である2026/02/01 01:26:23321.名無CCDさん@画素いっぱいFDA9Pほぼ理想的な印刷屋さんの看板東京は足立区の関原というか、西新井大師界隈ですごい建物があると。最初に聞いたのは、サビだらけの2階建てのお店で、そのニックネームを錆王と、いうのである。2026/02/03 09:13:19322.名無CCDさん@画素いっぱいFmnGwカメラ撮影台には良いけれども、非常に危険な階段ブラ達カメラクラブの撮影会である。私の誕生日が近い時に行ったものと思われる。文京区音羽の音羽通りの路地裏であるが、高台につながる大塚のおかんに結られる急なコンクリートの階段は、子供の時から親しいものであった。2026/02/05 08:08:00323.名無CCDさん@画素いっぱいFmnGwイタリアのガメラと、ソ連の腕時計ミラノのガリレオと言う会社でつくられた16ミリスチルカメラはスプリングモータードライブで3コマ。フイルムが巻き上げられる44杯と8杯のコンバージョンレンズも付いていて、当時の最高級カメラであった。2026/02/05 18:05:49324.名無CCDさん@画素いっぱいmSOwS1970年代のウィーンでフィルムライカを使う1976年の11月からフィルムライカを使い始めて21世紀になってつい先ごろまでフイルムライカがメインだった。最近ではフィルムが高くなったので、意地を通しても仕方ないので、エプソンのデジタルレンジファインダカメラを使っている。これもすでに四半世紀のクラシックデジカメである。2026/02/06 04:35:18325.名無CCDさん@画素いっぱいNZV7bレトロフォーカス広角レンズをライカで使う1966年の1月の日大写真学科の1年生の頃にミラーアップして使う。ニッコール2.1センチを使って写真を始めたのである。2026/02/08 09:29:19326.名無CCDさん@画素いっぱいKGQ2N写真家はレンズ交換などしないと言う当たり前の話1957年ウィリアムクラインが来日したときのニュースがカメラ雑誌に出ていて、小さいマッチ箱サイズの写真であったが、どっかの日本庭園を歩いている写真で首から下げているのがクローム仕上げのこのカメラだった。2026/02/11 08:59:00327.名無CCDさん@画素いっぱいNtetWゴールドライカレプリカ論法ゴールドライカと言うのはなかなか実際には撮影しにくいものだ。有名なゴールドライカに当時のライカの会社がダライラマさんに贈呈した。555,555と言う製造番号のゴールドライカがある。2026/02/13 08:44:01328.名無CCDさん@画素いっぱいs5KFoEyemoカメラに400フィートマガジンをつける子供の頃はテレビが登場する前はニュースと言うのは劇場で日本映画を見る前にニュース映画を見ると言うのが普通の方法であった。それで暗闇の中でスクリーンに移される映像というのは、巨大でダイナミックで、しかもあの人間を脅かすような神田音楽とアナウンサーのナレーションがワクワクさせられた。あれはまさにプロパガンダであって、それを見る人間を間違った方向に連れて行くような怖いメディアであった。2026/02/15 07:52:47329.名無CCDさん@画素いっぱいlNM3Hニコンが似合うゲバラ若い頃のゲバラが来日した時、広島の原爆記念館に行って、こんなひどいことをされたので、なんで日本人はもっと激怒しないのかと感慨したそうである。既にキューバの偉い人になっていたが、当時のマスコミはラテンアメリカからヒゲモジャの変な若い奴が来たと言う程度で、ほとんどニュースにもしなかったらしい。2026/02/16 09:41:26330.名無CCDさん@画素いっぱいwRxkxヨセフクーデルカのフレクトゴン25ミリヨセフクーデルカのジプシーシリーズを初めてスイスカメラで見たときにはびっくりした。ジプシーの生活のドキュメンタリーと言うよりも、彼のカメラワークの素晴らしさにしびれたのである。2026/02/18 11:24:01331.名無CCDさん@画素いっぱいad00v製造番号の末尾が8-4並びのニッカカメラダライラマに贈呈されたゴールド仕上げのライカスリーブの製造番号が555,555だったわけであるが、8が4桁続いている。3日カメラの製造番号もかなり珍しいと思う。2026/02/21 00:24:15332.名無CCDさん@画素いっぱい5yAoIプラハの34年間のアトリエ1989年のプラハのビロード革命の年に屋根裏部屋に住み始めた。1番上の八戸ある小さな窓が、私の国である。2026/02/23 11:20:14333.名無CCDさん@画素いっぱいMUoX4ルコルビゼの最後の住まいウィーンに暮らしていた頃は、結構広いアパートメントで、その後ニューヨークに暮らしていた時は、その何倍もあるような巨大なリビングロフトだった。2026/02/28 10:35:13334.名無CCDさん@画素いっぱいx1Lh6大学1年の時来回M2ブラックペイントを買って、ブラックペイントのズミクロン35ミリを買おうと思ったら、当時のお金で77,000円で買えなかった。それでキャノン35ミリを使い始めた。キャノン35ミリレンズはその後エフ1.5を使うようになったが、あれがダメなのは画面の周辺でビグネッティングが起きること。周辺香料が落ちるのは好きだが、蹴られは嫌い。それでキャノンレンズはf2.8に戻って何十年も使っている。そのきっかけは50年以上前だけど、タイムライフの写真教室と言う12巻本があって、その中の風景写真のセクションで、アメリカのどっかの大学の先生がこのレンズで良い風景をとっていたことが原因。2026/03/01 14:33:48335.名無CCDさん@画素いっぱい54UaJ1957年であったか、当時のメジャーなライフのカメラマン、アルフレッドアイゼンシュタットが、新型だったライカM3にバルナックライカの迅速巻き上げ装置であった。ライカビットをつけてはどうかと進言したのである。当時のライフマガジンは超メジャーであったから、ライカの会社はすぐ言うことを聞いてライタM3にライカビットをつけたのをライカ。MPとして発売。しかし、それは売れなくて、300台以下であったので、売れ残りの迅速巻き上げ装置が残ってしまった。それで急遽新型のディスバージョンのライカへM2にライカビット。MP王の巻き上げシャフトを組み込んでライカビット。MPの巻き上げ装置はアクセサリーとして販売した。大学生の頃の私は日本橋三越本店の向かい側にあったカメラ屋さんで13,500円でこれを手に入れた。しかし、実際には実用的なものではないので、すぐに20,000円で友人に売ってしまった。当時の7000円の儲けと言うのは結構大きかった。しかし、元になくなると欲しくなるのがこの巻き上げ装置でその後手に入れて、すぐに飽きて売って、それからまた欲しくなって買うと言うことをその後の50年の人生で十戒は繰り返してきたのである。それで今は1台のライカビットMPが手元にある。2026/03/02 19:36:57336.名無CCDさん@画素いっぱい96oTn1970年日本デザインセンターに入社した。そのアルミ大塚駅の近くにあったカメラ屋さんで通りがかりに1番最初のミランダのモデルを発見して、7000円と言う大金を支払って、これを手に入れた。初任給が35,000円であるからたいしたお金である。しかし今思うと不思議なのは大泉学園町に住んでいた頃。家人と一緒に近くの寿司屋さんに行って、1階の支払いが8000円位であって、別にそれが高い散財であるとは感じなかったことだ。。ブラックライカは大変な値段になるのにブラックミランダと言うのは価値がつかないと言うのが面白い。と言う背景があるから、ブラックミランダはなるべく手元に置くようにしている。ホームインプルーブメント計画で佃島のカメラは全部捨ててきたわけであるが、ミランダの病がまた怒ってボツボツ。いろいろなミランダが私の周りを埋めて、狭い部屋の歩行が困難な状況になっている。あすなろハウスのメインの窓は東を向いているのであるが、午後になると日差しが西日になって部屋に置いたブラックミランダが良い具合で証明されてくるのを見るのが楽しみである。東向きの部屋で西日が当たると言うのは、論理的な矛盾があるが、実は道の反対側の家の1番上の窓ガラスが西日を反射して、それが東向きの窓の壁際に置かれたミランダを美しく照明することになるわけだ。2026/03/04 16:45:34337.名無CCDさん@画素いっぱい5TXvj1960年代と言うのは行動成長期であったが、カメラとか交換レンズと言うのは大変なステータス的存在であった。当時のカメラボディーと同じ位の値段が交換レンズ1本に相当したのである。それでカメラメーカーは、せっかくのレンズ交換式一眼レフであるから、それを普及させようと言うので、安価なレンズ、つまり暗いレンズのラインナップを揃えた。ところが写真を撮らない。一般的なカメラ人類は高級思考であるから交換。レンズは高くて、明るいやつでないと星がらないと言うパラドックスがある。私などはレンズ交換の哲学に関しては、既に高度なレベルまで行っているから、絞りの明るさと言うのはせいぜい8があれば充分である。だからコンタックス用のテッサー2.8センチエフ8などを愛用している。1930年代のこのレンズが現役であった頃は 10から25位であったから、8と言う位レンズは使いにくかったのである。しかし今はフィルムが好感度になったし、デジタルカメラにつけると、もっと感度が上がるからなんだ。問題は無いのだ。ミノルタの一眼レフように出された。日本の合格レンズは35ミリと135ミリであるが、どちらも自動絞りではなくて、プリセット絞りでレンズもシンプルで暗いものである。ところがこれが一般アマチュアの人には人気がなくて全く売れなかったらしい。Yasu Ishimoriは当時はシカゴに住む日系アメリカ人であって、シカゴの街を撮影していた。日本のミノルタカメラが彼の才能を認めて、毎月当時のお金としてはかなり高額な750ドルを支給していたのである。写真家とカメラメーカーの癒着と言うのは、概ねろくな結果を生まないものである。私もいろいろなカメラメーカーにサポートしてもらったけれど、それで私の写真作品が飛躍的に向上したと言う成果を誇ることはできない。しかし、シカゴのこの写真家は、実に良い仕事を滞在中に残したのである。この写真家は後に来日して日本国籍を取得した。もともとは四国のコーチから先々代がアメリカに移住したと言う関係なのである。その写真家の名前をかぶせた写真美術館が四国にできたので、私は高知に出かけて行ったのだが、それは事実私が高知に行った最初の体験であった。写真家が使っていたカメラなども収蔵されていると言う話だが、私が言った。企画展の時は残念ながらそれを見ることができなかった。けれども、間違いなくこういう組み合わせのミノルタとレンズを写真家は使っていたはずである。2026/03/06 09:05:24338.名無CCDさん@画素いっぱいkj3kk1966年から67年頃に場所はよく覚えていないが、北千住あたりであると思う。路上に止めてあるメッサーシュミットをニコンエフに135ミリのこむらレンズで撮影した。なんでそのことをよく記憶しているかと言うと、当時の私の機材はシンプルでライカM2とニコンエフとそしてオリンパスワイドしか持っていなかったからだ。1960年代と言うのは、メッサーシュミットは既に片遅れの車であって、それゆえに話題になると言うところがあった。写真家の須田さんと町歩きをしているときの冗談によくメッサーシュミットが登場したのである。この3輪車は世界的にかなり流行したばかりではなく、チェコスロバキアなどではデッドコピーを作っていて、それが街中を走っていた。1970年代の街並みも懐かしい。それで古い写真が発見できたので、これをFacebookにアップするといいねの数が一挙に50以上に跳ね上がるのである。言うまでもないが、これは私の写真が良いと言うのではなくて、メランコリーオブジェであるからだ。ビムヴェンダースのリスボン物語であったと思うが、ベルリンが嫌いになった映画館監督がリスボンに逃走して、それを追いかけて、探し求めるサウンドエンジニアが監督を発見した場所というのが、リスボンのゴミ捨て場に捨てられているクラシックな3輪車1セットの中なのである。これなどもストーリーはともかくとして逃げた。監督が寄り、すがる場所としてはなかなか素敵な車両であると思った。2026/03/08 08:08:17339.名無CCDさん@画素いっぱいEjM8Q1957年だから、私が10歳の時だけど、父親が自分の最初の35ミリ一眼レフを買うと言うので、いろいろ調査をしていた。それで候補に上がったのは選んだカメラと、アサヒペンタックスであった。その以前の段階でキャノンポピュラールと言う安いレンジ、ファインダーカメラも候補にあったが、やはり時代は一眼レフと言うことになったのである。この時代のミランダカメラの広告を見ていると、ペンタプリズムという言葉はまだ一般的ではなくて、プリズムレフカメラというのがヘッドコピーになっているのが面白い。それで結局実際に買ったのはミランダではなくてペンタックスであった。理由は単純でミランダは当時57,000円。ペンタックスはそれより7500円も安い。49,500円であった。それでも当時の労働者の給料が13,800円であったと言う流行感が流れていた。東京だから49,500円のペンタックスでもその4倍位の値段で大変高価なものだった。給料300,000円の手取りの人が1,200,000円のエム型ライカのデジタルカメラを手に入れるような冒険主義なのである。2026/03/10 07:57:31340.名無CCDさん@画素いっぱいvokQwコニカブランドのカメラで1番たくさん使ったのは40年以上前にニューヨークに暮らしていた時に使ったコニカプレスである。これはアメリカのオメガプレスを日本版にデザインをし直したもので、左手でシャッターを切るから、一般人には使いにくいが、58ミリの広角レンズと180ミリの望遠レンズを備えた結構ユニークな存在のカメラであった。1年のニューヨーク滞在中には、ライカはほとんど使わないで、コニカプレスと8 × 10インチのディアドルフと言う組み合わせであった。しかし、コニカプレスで撮影した写真はほとんど発表されてなくて、唯一それを見ることができるのは2001年に毎日新聞社から出た長徳@ワークの中に見ることができるのみである。コニカカメラのデザインと言うのは、昔からどこか品がいいというか、逆の言い方をするともっさりしたところがあって、カメラ面接の時審査員があまり注意を払わないような感じであって、別の言い方をするとデザインの#ネスが不足しているのである。40年前のニューヨーク時代には35ミリ一眼レフとして使っていたのがコニカFSワンと言うモデルで、これは当時としてはかなり進んだ。オートワインダーが内蔵したモデルであって、これを持ってメキシコシティーに撮影に行ったりもした。当時のニコンF1の雑誌広告に私も登場しているが、そこの作例写真と言うのは、実はF3で撮影したものではなくて、コニカの一眼レフで撮影したものなのである。まぁどうでもいい話ですが。それで歴代のコニカの一眼レフの中で、1番デザインがシャープでかっこいいのはこれである。しかもブラックモデルは何か存在感が切れすぎていて、怖いから手に取りたくなくなるような存在感がある。これを手に入れたのは、20年位前の伊勢丹の中古カメラ市である。伊勢丹の中古カメリア市は因縁のスワップショーであって、ジャンクボックスに入っていた田中光学のタナー135ミリのライカマウントに手を伸ばしたら。もう1本の手が伸びてきて、手と手が触れ合ったのである。これが女性ならそこでロマンスが発生すると言うサンリオテレビドラマの台本であるが、手の持ち主が坂崎幸之助さんであった。2026/03/11 09:42:49
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【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】
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【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
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田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
なお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、
写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催される
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
ビクターハッセルブラッドの生誕100年のプレスツアーでハッセルブラッドに招待されて、自分年以上前にヨーテボリに行ったのである。
ニューヨークから戻ってきた。1983年から10年間ほどある雑誌に橋からの眺めと言う連載の写真と文章を出していた。
ソ連製の飛行機に乗る趣味というのがもっぱら私の場合にはあって、そういう状況はずっと楽しめると思っていたのに、1989年にクレムリンから赤旗が降りて以来、そういう楽しみが不可能になってしまった。
子供の時からずっと新宿と言うのは東口の事だと思っていた。西口は淀橋浄水場があって何も存在しなかった。
墨田区京島の存在に気がついたのは30年以上前である。当時東京の路地裏のライトと言うのはタングステンランプであった。
クリスマスが近づいてきたので、カメラノートスペシャル12月1日では、クリスマスに欲しいカメラの特集記事です。
それで思うのはデジタルカメラを30年使っているのに30年前に使った。デジカメは既に手元にないし、何を使っていたのかも覚えていないこと。
このクリスマスプレゼントは素敵なものです。100年前のカメラ、人類も夢見たその夢が100年後も同じ価値を持っていると言うのは、なんと素敵なことではありませんか?
ウォーカーエバンスファーストアンドラストと言う写真集は結構前のものであるが、その表紙の見返しにこのように彼が20代の時と70代のときの2つの顔写真が並べてあるのである。これこそストレートフォトグラフィーの真髄と言う感じがする。
ウォーカーエバンスのメインの仕事と言うと最初にハバナからスタートしてハバナの撮影を依頼した人間はハバナを政治的に弾圧すると言う目的が背後にあったらしいが写真と言うものはそーゆー政治的なプロパガンダ以外のところで後の時代に残ると言うことを証明したわけである。
ヨーロッパの商店街でもそうだし、アメリカは言うに及ばず、アジアの商店街でもそうなの。だけど、お店を閉じているときに、外から誰も物理的に入って来れないような、そういう頑丈なプロテクションがなされている。
フランス製のライカタイプのカメラです。フランス海軍が軍用カメラとして採用していました。
フォカカメラがすごいのは、究極のフランスのデザインであること。シャッターダイヤルがフィルム巻き揚げも兼用しているのです。こういう事は普通。ちょっとドイツ人や日本人には考えつかない。
シトロエンの高級車、DSのハンドルが1本スポークであったと言うのと似ていますね。
このカメラは三ツ星が最高級で3つのクラスに分けられています。私が好きなのは1番下のクラスの一つ星です。
バブルの頃に雑誌の取材で、世界の五つ星ホテルをずっと巡る仕事などがあって、そうなるとその反動として、フランスなどでもなるべく星の小さいホテルに泊まりたくなりました。
理想は一ツ星ホテルなのですが、そういうのは今のフランスでは存在しないので、2つ星で我慢。
物事はその最小限の単位が最大の仕事をすると言う先人の教えが生きています。カメラは最低クラスに限る。
ところが、日本の人はラグジュアリーが好きだから、高級カメラをやたら欲しがる。
今は廃刊した日本カメラの連載をトータルで4半世紀ぐらいやっていたのである。これは結構長い時間だと思う。
相撲の近くの大きな川であると言う経験が私には豊富にある。ウィーンに暮らしていた時もそうだったし、佃島でも荒川が流れている。マンハッタンの場合は川のそばと言うよりもハドソン川とイーストリバーの間に挟まれていたから、川辺に暮らしていたと言っても良い。
ウィーンなどは猫は家の中で飼うのが普通になっているから、面で猫を見る事はほとんどない。だからイタリアに行ったりユーゴスラビアに行ったりすると猫が生き生き外を遊んでいるので、これは猫の天国猫田だと思う。
1939年にウォーカーエバンスが、アメリカ農業保全局のアサインメントで、deepサウスを撮影したときの作品。
日大写真学科1年生の4月に写真学科からつまり英子だから、関東バスの赤と白の塗り分けられた車体のやつで中野駅まで来た。
中野駅の近くのカメラ屋さんでオリンパスワイドを買った。値段は18,000円だったから大変な散財である。
当時が私は父親に買わせた大回無痛のブラックペイントがあったけど、それは自分の宝物だから、デモ行進を取材に行って、機動隊の放水車でライカを濡らすのは嫌だったから、もっぱらこのオリンパスを使ったのである。
それで今まで写真家人生を歩んできた。
1939年に生生日エバンスがアメリカ農業保全局のアサインメントで、deepサウスを広く旅行したときの私の最も好きな作品の1つである。
Josef Sudek生誕百年記念の写真展のカタログから
Josef Sudekの場合、1番重要な作品と言うのは、プラハのモルダウ川のそばのアトリエで撮影された1連のスティルライフである。
有楽町の国際フォーラムができて、30年位になったであろうか?古い東京都庁のごみごみした建物があって、そのエントランスに太田同感の銅像が立っていた時代を私はよく覚えている。
Josef Sudek生誕100年の記念写真展のカタログの中からピックアップした作品である。
我楽多屋さんのブログを読んでいて、壊れたカメラに価値がないと言うのは変貌するのでは?
デジカメさえニッチなオタクしか持ち歩かない令和になって、フィルムカメラなんて更に少数の気まぐれな趣味
40代以上のコレクターもどう売り抜けようかと思案しているんだから
1970年代にヨーロッパのあちこちで写真展を開催したり、日本から持ってきたその当時の日本の写真家の展覧会を巡回したりしたので、私の活動も少しは知られるようになって、ザルツブルグカレッジからワークショップをやるようにと言うお誘いがあった。
千葉県銚子市は私の縁の街なのであるが、ほとんど行った事は無い。2009年にライカインコがペットロスで昇天した時に家人と出かけたことがある。
あったかい所でお酒をちょこっと飲んで
寝て
朝6時頃起きて
「今日は起きなくていいんだぁ」と二度寝して
あったかい布団でゴロゴロして
「あー、そろそろ起きたい!」と思って
ぐーんと背伸びして起きる。
体調が良い。
あー幸せ。
ニコンの一眼レフカメラをスタジオで撮影してそれがカタログになったと言うのは、つい最近の話だと思っていたが、冷静に考えてみるともう半世紀前の話なのである。
福島さんと言う人は、もともとカメラの修理人で非常に腕が良い人である。フェラーリのメカニックをやっていて、それでイタリア製のカメラに何があるかと調べて、いきなりローマで作られたレクタフレックスを友達にしてカメラの修理人生が始まったと言うことだ。
フランス製の60年代に作られたと思われる2眼レフである。3文字のアルファベットのカメラの固有名詞と言うのはそれが略語には違いないけれども、何か非常にストレートな表現力を持っている。
日本中にある防災のスピーカーが全く役に立っていないことが不思議で仕方ない。
iCloudを見ていたら完全に記憶から脱落していた歩1冊の本にを思い出した。それはレアな書籍として知られている稲垣足穂のイタマキニカリスと言う本の存在である
東京は足立区の関原というか、西新井大師界隈ですごい建物があると。最初に聞いたのは、サビだらけの2階建てのお店で、そのニックネームを錆王と、いうのである。
ブラ達カメラクラブの撮影会である。私の誕生日が近い時に行ったものと思われる。文京区音羽の音羽通りの路地裏であるが、高台につながる大塚のおかんに結られる急なコンクリートの階段は、子供の時から親しいものであった。
ミラノのガリレオと言う会社でつくられた16ミリスチルカメラはスプリングモータードライブで3コマ。フイルムが巻き上げられる44杯と8杯のコンバージョンレンズも付いていて、当時の最高級カメラであった。
1976年の11月からフィルムライカを使い始めて21世紀になってつい先ごろまでフイルムライカがメインだった。最近ではフィルムが高くなったので、意地を通しても仕方ないので、エプソンのデジタルレンジファインダカメラを使っている。これもすでに四半世紀のクラシックデジカメである。
1966年の1月の日大写真学科の1年生の頃にミラーアップして使う。ニッコール2.1センチを使って写真を始めたのである。
1957年ウィリアムクラインが来日したときのニュースがカメラ雑誌に出ていて、小さいマッチ箱サイズの写真であったが、どっかの日本庭園を歩いている写真で首から下げているのがクローム仕上げのこのカメラだった。
ゴールドライカと言うのはなかなか実際には撮影しにくいものだ。有名なゴールドライカに当時のライカの会社がダライラマさんに贈呈した。555,555と言う製造番号のゴールドライカがある。
子供の頃はテレビが登場する前はニュースと言うのは劇場で日本映画を見る前にニュース映画を見ると言うのが普通の方法であった。それで暗闇の中でスクリーンに移される映像というのは、巨大でダイナミックで、しかもあの人間を脅かすような神田音楽とアナウンサーのナレーションがワクワクさせられた。あれはまさにプロパガンダであって、それを見る人間を間違った方向に連れて行くような怖いメディアであった。
若い頃のゲバラが来日した時、広島の原爆記念館に行って、こんなひどいことをされたので、なんで日本人はもっと激怒しないのかと感慨したそうである。既にキューバの偉い人になっていたが、当時のマスコミはラテンアメリカからヒゲモジャの変な若い奴が来たと言う程度で、ほとんどニュースにもしなかったらしい。
ヨセフクーデルカのジプシーシリーズを初めてスイスカメラで見たときにはびっくりした。ジプシーの生活のドキュメンタリーと言うよりも、彼のカメラワークの素晴らしさにしびれたのである。
ダライラマに贈呈されたゴールド仕上げのライカスリーブの製造番号が555,555だったわけであるが、8が4桁続いている。3日カメラの製造番号もかなり珍しいと思う。
1989年のプラハのビロード革命の年に屋根裏部屋に住み始めた。1番上の八戸ある小さな窓が、私の国である。
ウィーンに暮らしていた頃は、結構広いアパートメントで、その後ニューヨークに暮らしていた時は、その何倍もあるような巨大なリビングロフトだった。
キャノン35ミリレンズはその後エフ1.5を使うようになったが、あれがダメなのは画面の周辺でビグネッティングが起きること。周辺香料が落ちるのは好きだが、蹴られは嫌い。
それでキャノンレンズはf2.8に戻って何十年も使っている。
そのきっかけは50年以上前だけど、タイムライフの写真教室と言う12巻本があって、その中の風景写真のセクションで、アメリカのどっかの大学の先生がこのレンズで良い風景をとっていたことが原因。
しかし、それは売れなくて、300台以下であったので、売れ残りの迅速巻き上げ装置が残ってしまった。それで急遽新型のディスバージョンのライカへM2にライカビット。MP王の巻き上げシャフトを組み込んでライカビット。MPの巻き上げ装置はアクセサリーとして販売した。
大学生の頃の私は日本橋三越本店の向かい側にあったカメラ屋さんで13,500円でこれを手に入れた。
しかし、実際には実用的なものではないので、すぐに20,000円で友人に売ってしまった。当時の7000円の儲けと言うのは結構大きかった。
しかし、元になくなると欲しくなるのがこの巻き上げ装置でその後手に入れて、すぐに飽きて売って、それからまた欲しくなって買うと言うことをその後の50年の人生で十戒は繰り返してきたのである。それで今は1台のライカビットMPが手元にある。
ブラックライカは大変な値段になるのにブラックミランダと言うのは価値がつかないと言うのが面白い。と言う背景があるから、ブラックミランダはなるべく手元に置くようにしている。
ホームインプルーブメント計画で佃島のカメラは全部捨ててきたわけであるが、ミランダの病がまた怒ってボツボツ。いろいろなミランダが私の周りを埋めて、狭い部屋の歩行が困難な状況になっている。
あすなろハウスのメインの窓は東を向いているのであるが、午後になると日差しが西日になって部屋に置いたブラックミランダが良い具合で証明されてくるのを見るのが楽しみである。
東向きの部屋で西日が当たると言うのは、論理的な矛盾があるが、実は道の反対側の家の1番上の窓ガラスが西日を反射して、それが東向きの窓の壁際に置かれたミランダを美しく照明することになるわけだ。
それでカメラメーカーは、せっかくのレンズ交換式一眼レフであるから、それを普及させようと言うので、安価なレンズ、つまり暗いレンズのラインナップを揃えた。
ところが写真を撮らない。一般的なカメラ人類は高級思考であるから交換。レンズは高くて、明るいやつでないと星がらないと言うパラドックスがある。
私などはレンズ交換の哲学に関しては、既に高度なレベルまで行っているから、絞りの明るさと言うのはせいぜい8があれば充分である。だからコンタックス用のテッサー2.8センチエフ8などを愛用している。1930年代のこのレンズが現役であった頃は 10から25位であったから、8と言う位レンズは使いにくかったのである。しかし今はフィルムが好感度になったし、デジタルカメラにつけると、もっと感度が上がるからなんだ。問題は無いのだ。
ミノルタの一眼レフように出された。日本の合格レンズは35ミリと135ミリであるが、どちらも自動絞りではなくて、プリセット絞りでレンズもシンプルで暗いものである。ところがこれが一般アマチュアの人には人気がなくて全く売れなかったらしい。
Yasu Ishimoriは当時はシカゴに住む日系アメリカ人であって、シカゴの街を撮影していた。日本のミノルタカメラが彼の才能を認めて、毎月当時のお金としてはかなり高額な750ドルを支給していたのである。写真家とカメラメーカーの癒着と言うのは、概ねろくな結果を生まないものである。私もいろいろなカメラメーカーにサポートしてもらったけれど、それで私の写真作品が飛躍的に向上したと言う成果を誇ることはできない。
しかし、シカゴのこの写真家は、実に良い仕事を滞在中に残したのである。この写真家は後に来日して日本国籍を取得した。もともとは四国のコーチから先々代がアメリカに移住したと言う関係なのである。
その写真家の名前をかぶせた写真美術館が四国にできたので、私は高知に出かけて行ったのだが、それは事実私が高知に行った最初の体験であった。
写真家が使っていたカメラなども収蔵されていると言う話だが、私が言った。企画展の時は残念ながらそれを見ることができなかった。けれども、間違いなくこういう組み合わせのミノルタとレンズを写真家は使っていたはずである。
なんでそのことをよく記憶しているかと言うと、当時の私の機材はシンプルでライカM2とニコンエフとそしてオリンパスワイドしか持っていなかったからだ。
1960年代と言うのは、メッサーシュミットは既に片遅れの車であって、それゆえに話題になると言うところがあった。写真家の須田さんと町歩きをしているときの冗談によくメッサーシュミットが登場したのである。
この3輪車は世界的にかなり流行したばかりではなく、チェコスロバキアなどではデッドコピーを作っていて、それが街中を走っていた。1970年代の街並みも懐かしい。
それで古い写真が発見できたので、これをFacebookにアップするといいねの数が一挙に50以上に跳ね上がるのである。言うまでもないが、これは私の写真が良いと言うのではなくて、メランコリーオブジェであるからだ。
ビムヴェンダースのリスボン物語であったと思うが、ベルリンが嫌いになった映画館監督がリスボンに逃走して、それを追いかけて、探し求めるサウンドエンジニアが監督を発見した場所というのが、リスボンのゴミ捨て場に捨てられているクラシックな3輪車1セットの中なのである。これなどもストーリーはともかくとして逃げた。監督が寄り、すがる場所としてはなかなか素敵な車両であると思った。
それで候補に上がったのは選んだカメラと、アサヒペンタックスであった。その以前の段階でキャノンポピュラールと言う安いレンジ、ファインダーカメラも候補にあったが、やはり時代は一眼レフと言うことになったのである。
この時代のミランダカメラの広告を見ていると、ペンタプリズムという言葉はまだ一般的ではなくて、プリズムレフカメラというのがヘッドコピーになっているのが面白い。
それで結局実際に買ったのはミランダではなくてペンタックスであった。理由は単純でミランダは当時57,000円。ペンタックスはそれより7500円も安い。49,500円であった。
それでも当時の労働者の給料が13,800円であったと言う流行感が流れていた。東京だから49,500円のペンタックスでもその4倍位の値段で大変高価なものだった。給料300,000円の手取りの人が1,200,000円のエム型ライカのデジタルカメラを手に入れるような冒険主義なのである。
1年のニューヨーク滞在中には、ライカはほとんど使わないで、コニカプレスと8 × 10インチのディアドルフと言う組み合わせであった。
しかし、コニカプレスで撮影した写真はほとんど発表されてなくて、唯一それを見ることができるのは2001年に毎日新聞社から出た長徳@ワークの中に見ることができるのみである。
コニカカメラのデザインと言うのは、昔からどこか品がいいというか、逆の言い方をするともっさりしたところがあって、カメラ面接の時審査員があまり注意を払わないような感じであって、別の言い方をするとデザインの#ネスが不足しているのである。
40年前のニューヨーク時代には35ミリ一眼レフとして使っていたのがコニカFSワンと言うモデルで、これは当時としてはかなり進んだ。オートワインダーが内蔵したモデルであって、これを持ってメキシコシティーに撮影に行ったりもした。当時のニコンF1の雑誌広告に私も登場しているが、そこの作例写真と言うのは、実はF3で撮影したものではなくて、コニカの一眼レフで撮影したものなのである。まぁどうでもいい話ですが。
それで歴代のコニカの一眼レフの中で、1番デザインがシャープでかっこいいのはこれである。しかもブラックモデルは何か存在感が切れすぎていて、怖いから手に取りたくなくなるような存在感がある。
これを手に入れたのは、20年位前の伊勢丹の中古カメラ市である。伊勢丹の中古カメリア市は因縁のスワップショーであって、ジャンクボックスに入っていた田中光学のタナー135ミリのライカマウントに手を伸ばしたら。もう1本の手が伸びてきて、手と手が触れ合ったのである。これが女性ならそこでロマンスが発生すると言うサンリオテレビドラマの台本であるが、手の持ち主が坂崎幸之助さんであった。