結果から先に書いてしまうと、試験という重い軛から解放された私は、初日から暴飲暴食を繰り返し、旅行開始2日目の夜から激しくお腹をこわし、結局最終日まで体調が戻らず、若干後悔の残る旅行となりました。いつもは旅にその土地に関係する本を持って行き、それを読みながらあれこれ思索するのですが、お腹に力が入らねば難しい本を読む気にもならず。結局、行きにプラハ中央駅の書店で見かけたダン・ブラウンの最新刊(タイトルは『The Secret of Secrets』。奇しくもプラハが舞台に設定されています)をチェスキー・クルムロフの書店で買い、ホテルの部屋(すなわちトイレのそば)でダラダラ読んで過ごすという、情けない休暇になりました。全く何をやっているんだか。
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
なお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、
写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催される
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
ハッタリかまして「私は皆さんに大人気!」ってドヤっても、そこいらへんの中学生よりイイね少ないとか恥ずかしいもんね
小村レンズと言うのは、私が最初に手に入れたのがペンタックスマウントの135ミリF2点8だった。やはり私のようなアマチュア写真家は標準レンズの次に手に入れるのは135ミリなのである。
その後このレンズメーカーはいろいろ多種多様な交換レンズを出してきて、ゼンザブロニカ1面レンズも45ミリから長い方は500ミリ位まであったし、4 × 5インチ用の交換レンズもいろいろ出してきた。これは小村の500ミリであるが、もともと500ミリのレンズがメーカーには存在していたから、それをリンホフボートにすれば良いだけの話である。
しかし、4 × 5インチの後、角型のレンズはそうはいかないから、新しく設定したのであろう。当時のシナイダーとかある座椅子と同じように65ミリとか75ミリ90ミリの広角レンズも存在したのは凄いことだと思う。
この500ミリレンズであるが、実際に市場に流通する事は非常に少なくて、私も半世紀。あちこち見ているが、ネットオークションで私がゲットした。これが唯一の例ではないかと思われる。それで実際にこのレンズを使うのかというと、それはまた別の話なのである。
4 × 5インチのリンホフでずいぶん膨大な撮影をしてきた。でも私の場合はそれらはほとんど75ミリとか90ミリ等の向角型レンズでの作戦だ。このような500ミリレンズ等は1度も使ったことがない。にもかかわらず、これを手に入れた犯行の動機と言うのは、ドイツの写真家でラインハルトWolfと言う人がマンハッタンのドラマチックなスカイスクレーパーを4 × 5インチのフォーマットで1000ミリレンズで撮影していたからだ。そういう影響受けて、自分でもできるのではないかと勘違いしたわけなのである。
まだおニャンコなどで世間に頭角を出す前の話である。
目玉焼きの食べ方については、ずいぶんいろいろなところに書き散らして、ここでもつい最近書いたことがあるが、目玉焼きは人生の非常に重要な問題であるから、人生論よりも目玉焼き論の方が重要なのである。それでまた続きを書かせてもらう。
最もウィーンは、シオニズム発症の地でもあるし、かつてヨーロッパで最大のユダヤ人ゲットが存在したのである。
プラハのアトリエに三脚を立ててセルフポートレートを取っているのはどういう理由でこれをやったのかいまだに思い出せない。ベッドの脇の壁に見られるのが現代日本写真家展示会のポスターである。だからこれは1976年、秋以降の撮影であることがわかる。
このポスターは私のデザインなのであるが、街にこれが貼っていると、何かネガティブな感じがして、ヨーロッパの華麗な風景の街並みを押しつぶすような効果を狙ったのである。
イエローのペーパーにブラックですってあって、そのイエローは我々が東洋人であると言う証明でもあるのだが、当時テロリスト集団で国際手配されていたバーダー&マインホフのポスターに似せたのである。
長いウィーンの写真家暮らしで三脚に乗せて自分のセルフポートレートを撮影したのは前後考えてこの時だけである。私を長年サポートしてくれている。がらくた屋2代目さんが写真集を出してくれたり、Tシャツを作ってくれたりするのであるが、その何回目かのTシャツが、この写真の図柄であった。
各種メディアでライカ100周年と言う特集をやっているが、私の100周年を祝う特集はちょっと変わっている。
すなわち、ライカを落としたりタクシーの中に忘れてくると、人生の大変なダメージになると言う話なのである。
カメラ人類のための人生の大切な教訓として、ライカ1世紀の今にこそ読んでもらいたい。
トータルで3回触れる機会があった。1度目と2度目はライカのドイツの本社で、3度目は東京のホテルでだった。
売るライカは本社が持っているのは二台で銀行に預けてある。日本のコレクターが持っていると言う噂もあるから、そうなると3台現存しているわけだ。
2回目に触らせてもらった時は、30分ほどペーター。コルン社長が席を外したので、その隙にと思ってパトローネに入れたフィルムを持ってきたのだが、開け方がわからない。
人類の文化遺産を壊してはいけないと思って、その時はフィルムを入れるのはやめて、その代わりにレンズをちょっと舐めてみた。別に味はしなかった。
オスカーバルナックの有名な会社の中でライカを手にしている写真がある。60年近く見ているわけだが、高校生の頃に見た時はおじいさんのように見えたのが、今見ると自分の息子の世代に見えるのが面白い。
オスカーバルナックは絶対にこのライカのレンズを舐めていると思う。
カメラですか?
アンドレ・ケルテスは初期の頃から出たばかりの一眼レフコンタックスエスを使っていたし、友人スミスも同じカメラを使っていた。
一方で、ウォーカーエバンスは、レンジファインダーのライカとコンタックス、そしてローライフレックスだった。
ロバートフランクやウィリアムクラインや、リーフリードランダーとカメラ弾技をしたことがある。
ウォーカー・エバンスとも、カメラの話、ミランダの話をしてみたかった。
カメラや写真用品でメイドイン生生培土ジャパンのコレクターと言うのはかなり知られた存在である。
1番最初のウールライカには3回触ったことがある。そのうちの2回はドイツのライカの本社で、もう一回は日本でこれが展示されるときの話だった。
その次のモデルがこのヌールライカである。オスカーバルナックが最初のライカが出る前のテストカメラとして少数作ったものだ。
西暦2000年にライカ誕生75周年を記念してコシナレンダーが作ったのが、この実際に写真が撮れるモデルである。
当時のフォーカルプレーンシャッターは撮影が終わってフィルムを巻く時もスリットが閉じられていないからフィルムがダメージを受ける。それで当時のプロカメラマンはレンズキャップなどはしないで、カメラを体に押さえつけてレンズキャップ代わりにしてシャッターを巻き上げたのだ。
ヌールライカでシャッターで光が漏れるのを防止するために紐がついたキャップがぶらぶらしているのはアマチュアっぽいね。
しかし、アンディカルティエブレッソンも紐のついたレンズキャップを使っていたし。
いわゆる緑色のワインと言うのがこれである。最初にリスボンに行った時はこの愛は知らなかった。それでもっぱらレストランでは地元の安ワインの赤を飲んでいたが、これもなかなか良かった。だから私の日のヴェルデとのお付き合いは新しくてこの四半世紀位だと思う。
大学1年の頃のスナップショットである。この頃から私はロバートフランクの影響を受けていた。モチーフを画面の中央にすると言うのではなくて、カメラが偶然とらえた全体空間のあちこちにあるものをそのまま語らせると言うテクニックである。これはその中で比較的うまくいったエグザンプルだと思う。
それで2週間ヘルシンキに滞在した。
遠藤さんと言うのは、デザイナーで大昔にオリンパスの仕事を一緒にしたことがある。その息子さんがヘルシンキ滞在で、私のヘルシンキ到着を知って連絡をくれていろいろ教えてもらった。
大昔の友人で、ヘルシンキに行って、オーケストラの指揮者になった小宮と言う男を探して下さいとお願いしたら、20分位で見つかりましたと連絡があったのにはびっくり。
その小宮にメールをして50年ぶりに会おうと言ったら、ヘルシンキから来たり1000キロ位離れたところに住んでいるので、ちょっと難しいと言う話だった。
ヘルシンキはメトロの路線が2つと路面電車が10位あるが、私は新しい街に行くと、まずメトロの終点から終点まで、そして路面電車も同じような暴れ乗りをする。それを最初の三日間でやってしまったので、後はやることがなくなって、退屈で困った。
中心部に立派な大聖堂がある。有名な観光スポットらしいが、その2週間前に私はモスクワとサンクトペテルブルグのロシアチャーチを2ダース位取材したので、ヘルシンキの教会はどうも東京ネズミ園の教会のコピーみたいで貧弱で見るのがかわいそうだった。
フィンランドと言う国は、国民の満足度が、世界でトップらしい。でも彼らの満足度と言うのは、路面電車の数とか大聖堂のクオリティーと言うところは関係がないらしい。
結果から先に書いてしまうと、試験という重い軛から解放された私は、初日から暴飲暴食を繰り返し、旅行開始2日目の夜から激しくお腹をこわし、結局最終日まで体調が戻らず、若干後悔の残る旅行となりました。いつもは旅にその土地に関係する本を持って行き、それを読みながらあれこれ思索するのですが、お腹に力が入らねば難しい本を読む気にもならず。結局、行きにプラハ中央駅の書店で見かけたダン・ブラウンの最新刊(タイトルは『The Secret of Secrets』。奇しくもプラハが舞台に設定されています)をチェスキー・クルムロフの書店で買い、ホテルの部屋(すなわちトイレのそば)でダラダラ読んで過ごすという、情けない休暇になりました。全く何をやっているんだか。
従って、今回は旅の考察ネタはなく、写真もほとんど撮りませんでした。悔しいので、このコース、必ずもう一度歩くと早速誓ったわけですが、自分への戒めも込めて、ここに何件か写真を投稿しておこうと思います。
第1回は最初に向かったチェスキー・クルムロフから。ここは20年ぶりです。前回はプラハからでななく、リンツから入りました。そうか、あれかた20年経ってしまったのか…。チェスキー・クルムロフの駅から旧市街まではけっこう歩きます。しかも旧市街に入るとデコボコの石畳が続き、ここをスーツケースを転がして歩くのはかなり厳しい。それでも20年前は往復ともに歩きましたが、今回は迷わず駅までタクシーを呼びました。この辺り、やはり20年ぶんトシをとったなと思います。なお、チェスキー・クルムロフの駅前にタクシーは待機していないと思います。私たちは宿泊先ホテルに教えてもらったタクシー会社に電話して、駅まで迎えに来てもらいました。
21年前の2004年の事だ。春にエプソンデジタルライカを持ってローマに行った。
ローマと言えば、ウィリアムクラインもテーマとして撮影している。
ミラノの人間がローマを批判して言う決定的な言葉にあそこは
神様の代理人と、松の木と赤い泥があるばかり
確かに退屈な街であって、古いとは言うものの、アテネのような考古学的なわびさび感覚がない。
フェデリコフェリーニがよく通ったカフェなどに行って、映画監督の気分を追走してみたが、どうしても日本人のツーリスト気分になってしまうのでうまくいかない。
しかし、エプソンライカで撮影はうまくいって1冊の写真集になった。説明しておくと、写真集の半分は春のローマ方面で、もう半分はクリスマスのウィーンとプラハなのである。
このカメラの。功績と言うのはなかなか凄いもので、別に腰なレンダーで作ったところでそんな差別は私はやらない。
エプソンライカの良いところはフィルムライカと同じ感覚で撮影ができること。デジタルライカはデザインが間抜けだから、巻き上げればをなくしてしまったので、カメラのホールディングが悪くなるから、慌ててアクセサリー集に突っ込む。親指を引っ掛ける付属品を出したりして間抜けである。
ウィーンのカフェと言えば、1番行ったところは中心部の蔵便通りからちょっと中に入ったカフェハヴェルカである。1973年から行っているから、実に半世紀以上になる。
Wetzlerと言う文字列がライカのカメラのトップカバーに刻印されているので、最初はそれが何なのかよくわからなかった。ライカの先輩がそれはライカを製造した会社の所在地であると教えられたので、それから私の夢は急に膨らんだのであった。
日本人がお腹が減った時に、食欲を満たすために頭に浮かべるものと言うとおにぎりと言うことが多いと思う。win人がお腹が減ったときに頭に浮かべるものがこれなのである。つまりウィーンの人から見た日本のおにぎりのようなものだ。
ウィーンの北部にあるハイリゲンシュタットと言う村は、ベートーベンの衣装で有名であるが、私が暮らしていた50年前は赤い電車の北の終点であった。要するに、完全なカントリーなのである。
ライカのカメラボディーの呼び方について私が腹を立てていることがある。ライカエム6が出た頃の話だが、私は日本で1番最初にライカのエム6のレポートをアサヒカメラであった。
1980年の秋にウィーンからドイツのケルンを経由してパリを通過して、リスボンまで列車の長い旅であった。当時のリスボンは昼寝から覚めないような街並みだったが、それは今もそれほど変わってはいない。
1980年の秋に、ウィーンからパリ経由で、ポルトガルのリスボンに行って、そこから列車で木谷スキップした。行った場所はコインブラとポルトであった。
ウィーンの人々で、中年以上の連中は皆13番の2階建てバスが懐かしいと遠くを見るような目つきをするのである。トークと言うのは、遥か昔の20世紀のことだ。
ユニレックスと言うのはレンズシャッター式一眼レフで世界で最初にautomaticな自動の露出を達成したカメラであると言う。そーゆー露出モードは使わないから私は全然知らなかった。今でも普通にマニュアルで撮影しているのである。
34年間プラハの都の西北モルダウの岸辺に暮らしたのである。プラハ工科大学の敷地と接しているところなので、有名な物理学者。ニコラテスラの名前がそのまま広場になっていた。その広場の7番地の屋根裏部屋に暮らしていたの
ビクターハッセルブラッドの生誕100年のプレスツアーでハッセルブラッドに招待されて、自分年以上前にヨーテボリに行ったのである。
ニューヨークから戻ってきた。1983年から10年間ほどある雑誌に橋からの眺めと言う連載の写真と文章を出していた。
ソ連製の飛行機に乗る趣味というのがもっぱら私の場合にはあって、そういう状況はずっと楽しめると思っていたのに、1989年にクレムリンから赤旗が降りて以来、そういう楽しみが不可能になってしまった。
子供の時からずっと新宿と言うのは東口の事だと思っていた。西口は淀橋浄水場があって何も存在しなかった。
墨田区京島の存在に気がついたのは30年以上前である。当時東京の路地裏のライトと言うのはタングステンランプであった。
クリスマスが近づいてきたので、カメラノートスペシャル12月1日では、クリスマスに欲しいカメラの特集記事です。
それで思うのはデジタルカメラを30年使っているのに30年前に使った。デジカメは既に手元にないし、何を使っていたのかも覚えていないこと。
このクリスマスプレゼントは素敵なものです。100年前のカメラ、人類も夢見たその夢が100年後も同じ価値を持っていると言うのは、なんと素敵なことではありませんか?
ウォーカーエバンスファーストアンドラストと言う写真集は結構前のものであるが、その表紙の見返しにこのように彼が20代の時と70代のときの2つの顔写真が並べてあるのである。これこそストレートフォトグラフィーの真髄と言う感じがする。
ウォーカーエバンスのメインの仕事と言うと最初にハバナからスタートしてハバナの撮影を依頼した人間はハバナを政治的に弾圧すると言う目的が背後にあったらしいが写真と言うものはそーゆー政治的なプロパガンダ以外のところで後の時代に残ると言うことを証明したわけである。
ヨーロッパの商店街でもそうだし、アメリカは言うに及ばず、アジアの商店街でもそうなの。だけど、お店を閉じているときに、外から誰も物理的に入って来れないような、そういう頑丈なプロテクションがなされている。
フランス製のライカタイプのカメラです。フランス海軍が軍用カメラとして採用していました。
フォカカメラがすごいのは、究極のフランスのデザインであること。シャッターダイヤルがフィルム巻き揚げも兼用しているのです。こういう事は普通。ちょっとドイツ人や日本人には考えつかない。
シトロエンの高級車、DSのハンドルが1本スポークであったと言うのと似ていますね。
このカメラは三ツ星が最高級で3つのクラスに分けられています。私が好きなのは1番下のクラスの一つ星です。
バブルの頃に雑誌の取材で、世界の五つ星ホテルをずっと巡る仕事などがあって、そうなるとその反動として、フランスなどでもなるべく星の小さいホテルに泊まりたくなりました。
理想は一ツ星ホテルなのですが、そういうのは今のフランスでは存在しないので、2つ星で我慢。
物事はその最小限の単位が最大の仕事をすると言う先人の教えが生きています。カメラは最低クラスに限る。
ところが、日本の人はラグジュアリーが好きだから、高級カメラをやたら欲しがる。
今は廃刊した日本カメラの連載をトータルで4半世紀ぐらいやっていたのである。これは結構長い時間だと思う。
相撲の近くの大きな川であると言う経験が私には豊富にある。ウィーンに暮らしていた時もそうだったし、佃島でも荒川が流れている。マンハッタンの場合は川のそばと言うよりもハドソン川とイーストリバーの間に挟まれていたから、川辺に暮らしていたと言っても良い。