結果から先に書いてしまうと、試験という重い軛から解放された私は、初日から暴飲暴食を繰り返し、旅行開始2日目の夜から激しくお腹をこわし、結局最終日まで体調が戻らず、若干後悔の残る旅行となりました。いつもは旅にその土地に関係する本を持って行き、それを読みながらあれこれ思索するのですが、お腹に力が入らねば難しい本を読む気にもならず。結局、行きにプラハ中央駅の書店で見かけたダン・ブラウンの最新刊(タイトルは『The Secret of Secrets』。奇しくもプラハが舞台に設定されています)をチェスキー・クルムロフの書店で買い、ホテルの部屋(すなわちトイレのそば)でダラダラ読んで過ごすという、情けない休暇になりました。全く何をやっているんだか。
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
なお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、
写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催される
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
このニコンの製造番号を見て欲しい。60910644である。興味のない人には、単なる数字の羅列であろうが、これはニコンコレクターにとっては、いわゆる8桁、製造番号と言うレアモデルなのだ。
609と言うのは皇紀2600年すなわち昭和15年から数えて9年目ということで、ニコンの製造番号の頭が609で始まるのである。戦前の歴史を引きずっているわけね。それで6091が最初のニコンカメラでそれからカウントして609999まで行ったらいっぱいになってしまったので、その先に10,000番からスタートする数字列を加えたわけだ。
カメラメーカーはこのことの不都合に気がついてしばらく経ってからスターティングのオーダーを609から610にしたのである。だから609でスタートする番号は1けた最後の方で多くなっていて、8桁番号の製造番号を持つ離婚レンジファインダとなった。
そういうどうでもいいことがコレクターには重要なわけです。
例えば、音無川のそばに滝野川信用金庫と言う看板を認識して、それから路地をずっとつたって15分ごろ経過してみると、またそこに滝野川信用金庫と言う看板が出てくる。
要するに、道に迷って方向感覚をなくしてしまっているから、こういう面白いことになるのである。ハノイの中心からちょっと南に行った場所に丸い小さな池がある。といっても、池の直径は500メートルはあるから、それなりに大きい。ハノイで道に迷っているときに、そこをぐるぐる回っていると、どこかで見たことのある街並みが永遠と出てくる。
その丸い池を参集したときに、さっきハノイウォッカを買ったお店がまた出てきたので、それで池の周りの堂々巡りに気がついた。
滝野川にあるモンドリアンのアートワークにそっくりな場所と言うのを発見したときには、かなりびっくりした。自然の摂理で作られたものがアーティストと似てくると言うのは当然のことかもしれないが、逆に考えると、モンドリアンはファーイーストのこれを見て真似をしたのかもしれない。
気にいったので、町歩きのワークショップの時は皆さんをここにお連れしてびっくりさせたものであった。まず私のワークショップに参加する皆さんはモンドリアンの事はよく知っているからびっくりしてくれるのである。
そのように決めたのは単純な理由であって、残りの時間の時間割を考えてそのようにした。都合34年間プラハの北のほとりにあるアトリエに暮らして、たいていはメトロの終点まで歩いた。それがこのかなり広大な広場であるが、何が嬉しいかと言うと、地面の上を踏んで歩けると言うことだ。
ここはプラハの丘市内の北側のターミナルと言うことになっていて、そこからまたカントリーにつながっているバスがたくさん着発している。だからビロード革命以前にこのバスターミナルと接続する。メトロの始発の駅のプラットホームに立っていると、カントリーから来た人は、皆、申し合わせたように、靴の裏側にべったりと、我が祖国の父がついているのである。
これはなかなかすばらしいことだと思った。それで私も1年の間この結構広い広場の道路の上は歩いて我が祖国ではないけれども、チェコの大地を靴の裏側に感じたのであった。東京の不幸は言うまでもない。東京のどこに行っても、地面はアスファルトや煉瓦屋タイルで固められてしまっているから、私の靴の底は大地を直接に感じることができなくなってずいぶん長くなったね。
それで軍用カメラは基本的には一般の人が使うカメラとそんなに違うところはない。一般人が戦場でもないところで使っていて、すぐ壊れては困るわけだが、戦場の場所と日常生活と言うのは隣り合わせているから、厳密にはそれを区別することはできないのだ。
それでもカメラ業者さんが納入するわけだから、何か特別なメリットをカメラにつけなければいけないので、ブラック仕上げにしたり、オリーブドラブ仕上げにしたりしたのであろう。
ライカの場合だと陸軍方面はオリーブゾ。ラブで空軍方面はラウフグレイである。ところがラルフグレイのライカイムツと言うのは、その数が11ダースぐらいしか作られなかったので、今では天文学的な値段になっているらしい。
アメリカ軍が採用した軍用カメラはそれほど高いということはなくて、1番高価だったのは、クラシックライカのバルナックの完全なコピーであったKarson カメラであった。しかしアメリカ陸軍の偉い人は実用主義者だから、兵隊に持たせるのにそんな高いカメラはいらないと言うので、大衆的なコダックみたいなアマチュアレベルのカメラになった。
コダック35のブラック仕上げと言うのは、それでもそれなりに存在感があって手にしてみたいなという感じはするのである。ネックストラップアイレットが非常に大きいなどと言うところがいかにも軍用カメラのふりをしていると言う感じがする。
小学校低学年の頃に音羽にただ1つあった。映画館で見たのが、ディズニーの砂漠は生きていると言う動物映画である。
大人になってからこの動物映画の全部がこのカメラで撮影されたと言うことを知った。野生動物はいろいろある。けれども、小さな動物はクローズアップで撮影しなければならないので、その時はこのカメラは簡易的な一眼レフ装置が備えられている。
レンズはコダックの優秀な平白だし、画面の安定性も良いので世界中で使われた。アメリカ海軍もこのカメラを公式な16ミリ撮影機で指定していて、オールブラックのマット仕上げのかっこいいカメラも持っている。
唯一の問題点は完璧なミラーレフレックスではないので、撮影に限界があることだ。それでイーストマン・コダックはその後のモデルでコダックレフレックススペシャルというのを出した。こちらのほうは回転式のミラーで常に撮影中の画像を見ることができるのであるが、カメラ本体が大きくなって重さもかなり増えたので手持ちで簡単に撮影することができなくなった。しかも電動モーターなので、どこでも撮影できると言うわけではなかった。
最初にこのカメラを手に入れたのは、1973年のウィーン時代でレンズが全部揃っていて、非常に上質なトランクケースに入っていて、夢にものボール幸福感と言うやつだった。カメラのターレットの下の部分にオーナーの名前を彫刻できるようになっているのがこのカメラの特徴である。そこにはバロンなんとかと刻印されていたから、どっかの貴族さんが使っていたものらしい。
戦争直後の値段が25ミリ標準レンズ付きで1000ドルしたのだから、大変高いカメラであった。
しかも面白いことにツーリストが集まるようなツーリスト。密集地には、こういうものはなくて、バスに乗って、街の周辺部に走っていると、大通りを角に曲がった。その裏手の建物の壁面が、全部巨大な壁画であったりするのが面白い。
スボンは酒多い街であるが、そういう坂の上から下を結ぶ階段がそこら中にあって、その階段を上り下りする人の向かう視線の建物の壁面が同じように巨大な壁画であったりする。
私は、ルーブル美術館などでもな家の中で、特に巨大なものというのは大嫌いなのである。その大きさで鑑賞者をびっくうと言うようなところがあるからそういうのは手品のネタみたいなところがあって、面白くないのだ。
しかし、リスボンのような巨大な街の建物の壁面全部を使った絵画と言うのは全く別の方向であって、これは面白い。言い換えれば街全体をギャラリーにしているという意味では、美術館よりもはるかにサイズが大きいわけだ。
この巨大な作品もピカソバリで良い感じである。
ウィーンは私は暮らしていたまじであるから、私がウィーンのホテルに宿泊するようになったのは、1980年より角の上の暮らしを終わらせてからのことである。
19世紀に作られたホテルの建物がそのまま使われているので、面白いのは部屋が平らでないから、鉛筆を落としたりすると、部屋の中央のくぼんでいるところにコロコロ転がっていたりするのを見るのは楽しみであった。
リスボンの五つ星のこのホテルであるが、階段を最上階まで登って、そこから下を見るのは結構怖い。と言うのは、階段の構造自身が経年変化でかなり歪んでいるのである。リスボンは18世紀の終わりに巨大地震が起きて、それで街を全部新しくして、今の街の構造ができたのだ。
この5つ星ホテルのすぐ近くの広場に面したツーリストホテルであるが、そこの2階のダイニングルームにはリスボンが大地震に襲われたときの巨大な油絵が今でも掲げられている。ちょうど東京は両国の戦災復興記念館の2階の巨大ギャラリーに、関東会東京の街が描かれているのと関係があるのではないかと思う。力作なのである。
要するに、五つ星のこのよじれたホテルは、18世紀の大震災の後に建築されたモダン建築なのである。それでも200年近く経過しているから、かなり古くてやっているわけだ。
路面電車の歴史を調べてみるとわかるのだが、ヨーロッパのウインドウが巨大な街ではまず最初に鉄道馬車というのがあって、これは日本の電車の発展の歴史と同じなのであるが、車を馬が引いて走っていたのである。
私が持っている。1890年から1910年位のオーストリアの各地を撮影した1人の写真家によるステレオ写真がある。ガラス館版でトータルで10,000,000以上はあるのだ。そのステレオ写真の1890年を見てみると、winの国会議事堂があって、そこにはまだ1台の自動車も走っていなくて、鉄道馬車が走っているのだ。そういうのが当時の人々の歳の普通の風景だと思うと面白い。
それでリスボンの路面電車なのであるが勉強してないので、最初の頃場所が弾いていたのかどうかはいまだに不明である。しかし、ウィーンに比べてリスボンは英国と関係が深いから意外と早い時期に路面電車は電気科されたのではなかろうか?
それで電車カフェの話であるが、今回初めてちゃんと距離を置いてエントランスを確認して納得したことがあった。お店のエントランスの上のこれは日よけと言うのか何と言うのか正式な名称は知らないけれど、その日よけの位置がほんのわずか左側に下がっていると言うこと。これが私にとってのカフェのエントランスの非常に正統的なダイナミズムとして長年認識していることなのだ。カフェのエントランスの日よけは左側が下がっていないといけないと言う。私のカフェに対する美学が存在するのである。
その理由は知りません。
それで今回電車カフェの日よけをさらに細かく観察した結果分かった事はこれは伸び縮みして日よけの量を調節するような仕組みではなくて、単に飾りとしてついていると言う事が1つ。そして2つ目は左側に地元で有名なコーヒーのブランドマークがついている。日本の酒屋さんの看板と同じようなもので、何かスポンサー料という感じになっているのであろう。
それでそういう路線がアメリカ人とドイツ人と日本人に28番の路面電車が全部占拠されてしまって、地元の人が乗れないと言うヘンテコリンな事態になってきた。最後に私がリスボンを訪れた時もそうであって、28番の電車が常に満員なので、仕方ないから、中心部の広場からずっと西に歩いてフェルナンドペソアの博物館を経由して、終点の墓地まで歩いたこともある。
そのときに通りがかりのこれは子供の何かのお祭りで、子供が晴れ着を着て歩いていると言う親子連れなのであるが、その中でただ1人男の子がゲリラの服装をしてAK 47のおもちゃの期間中を持って歩いているのにはなかなかびっくりした。こういう人がというか、こういう子供が将来ゲバラのような革命家になるのだなぁと思った。
それで最近では路面電車ではなく、バスに乗ってリスボン見物をしているが、その中で1番気に入っているのは、街の南西のはずれのあたりに偶然見つけた子のカラーチャートである。どういうコンセプトで作られたのかは別に聞かなくてもわかっているわけで、このようなカラーチャートがバスの窓から偶然見えたりすると言うことそのものが既に完全に表現の域に達していると言うわけだ。
iPhoneやiPadは記録用のカメラとしては充分使えるのであるが、歩匹レーションで連続的に使うとなると、やはりデジタルカメラの方が使いやすい事は言うまでもない。それと一緒に数本のフィルム。この場合はモノクロフィルムを持参して自分の趣味の写真を撮るには、フイルムカメラが必要である。
そういう時に持参する。カメラと言うのは、どうもニコンのレンジファインダーの方向の引力に引き寄せられているのである。これはリスボンに行った時に持っていったニコンである。大体50ミリと21ミリを持って行く。しかし50ミリを使うことが意外と多いと思うのはずいぶん昔のことであるが、1983年にメキシコシティーに行ったとき、そこのアンティークショップで非常に安い。これと同じカメラを手に入れた。
5センチの標準レンズが付いていて、シャッター速度は250分の1と125分の1が使えるけれども後は壊れていたのである。そういうちょっと不便な状況と言う時に私は写真を撮る気分になるのだ。
それでメキシコシティーで手に入れた。これと同じタイプの煮込んで絞りは22で250分の1で街の風景を撮ったら全部きれいに写っていたのである。そしてそれはアサヒカメラに発表したりした。そういう旅の思い出と言うことになると、礼香より香ニコンのレンジ、ファインダーの方が記憶に鮮明に残っているのはなぜであろうか?このタイプのカメラを使っていた写真家と言えばウィリアムクラインだね。
芸能人並みのカメラマンの数が来たのであるが、皮肉なことに写真を私にくれた人は1人もいなかった。あー確かwinに行ってから日本デザインセンターの同級生が1枚結婚式の葉書を送ってくれたっけ。それだって結婚式から2年半が経過した後の話なのである。
それから結婚記念日が10年ごとに訪れて30年のときには記念に金沢に行ったのである。当時仕事をしていた新潮社のスタッフの人がカナダではない。金沢出身で市場にあるおいしいお寿司屋さんと言うのを教えてくれた。その新潮社のスタッフの女性なのだが、お父様が非常に厳格な人であって、本来は岩波書店に娘を入れたかったらしいのだが、それができなかったので、B級の出版社と言う認識があったらしい。地方のインテリの人はすごいクラス分けをするよね。
いつだったか岡山に行った時、岡山にも丸善があって、そこで貯めた間私が出した。岩波写真文庫のフェアをやっていた。それで私のそれ以外の岩波から出した書籍も並んでいたけれども、あそこは面白い会社で午後5時に受付の人がいなくなると、後ろ側の守衛さんのところを通って話を通すのであるが、私の場合だと田中先生がいらっしゃいましたとなるので、皆先生扱い。
それで金沢の市場の紹介されたお寿司屋さんに入ってびっくりして15分で出てきました。理由は単純で東京の味のわからない自分はたまりじょうゆの甘いのをお寿司につけて食べるのが耐えられないのである。それで近くのコンビニでおつまみを買って、ANAホテルの20回で改めて結婚30年の大宴会をやった次第でした。
それから20年後に、私の古い友人の横木が、私の個展の時に結婚式のときの写真を数十枚届けてくれたのです。こういうのは実にありがたいけど、横切る場合、そういうコンセプトで結婚式から50年後に記念写真を届けると言う。そうなるとバンクシーみたいで、ちょっと凄すぎるね。
ハッタリかまして「私は皆さんに大人気!」ってドヤっても、そこいらへんの中学生よりイイね少ないとか恥ずかしいもんね
小村レンズと言うのは、私が最初に手に入れたのがペンタックスマウントの135ミリF2点8だった。やはり私のようなアマチュア写真家は標準レンズの次に手に入れるのは135ミリなのである。
その後このレンズメーカーはいろいろ多種多様な交換レンズを出してきて、ゼンザブロニカ1面レンズも45ミリから長い方は500ミリ位まであったし、4 × 5インチ用の交換レンズもいろいろ出してきた。これは小村の500ミリであるが、もともと500ミリのレンズがメーカーには存在していたから、それをリンホフボートにすれば良いだけの話である。
しかし、4 × 5インチの後、角型のレンズはそうはいかないから、新しく設定したのであろう。当時のシナイダーとかある座椅子と同じように65ミリとか75ミリ90ミリの広角レンズも存在したのは凄いことだと思う。
この500ミリレンズであるが、実際に市場に流通する事は非常に少なくて、私も半世紀。あちこち見ているが、ネットオークションで私がゲットした。これが唯一の例ではないかと思われる。それで実際にこのレンズを使うのかというと、それはまた別の話なのである。
4 × 5インチのリンホフでずいぶん膨大な撮影をしてきた。でも私の場合はそれらはほとんど75ミリとか90ミリ等の向角型レンズでの作戦だ。このような500ミリレンズ等は1度も使ったことがない。にもかかわらず、これを手に入れた犯行の動機と言うのは、ドイツの写真家でラインハルトWolfと言う人がマンハッタンのドラマチックなスカイスクレーパーを4 × 5インチのフォーマットで1000ミリレンズで撮影していたからだ。そういう影響受けて、自分でもできるのではないかと勘違いしたわけなのである。
まだおニャンコなどで世間に頭角を出す前の話である。
目玉焼きの食べ方については、ずいぶんいろいろなところに書き散らして、ここでもつい最近書いたことがあるが、目玉焼きは人生の非常に重要な問題であるから、人生論よりも目玉焼き論の方が重要なのである。それでまた続きを書かせてもらう。
最もウィーンは、シオニズム発症の地でもあるし、かつてヨーロッパで最大のユダヤ人ゲットが存在したのである。
プラハのアトリエに三脚を立ててセルフポートレートを取っているのはどういう理由でこれをやったのかいまだに思い出せない。ベッドの脇の壁に見られるのが現代日本写真家展示会のポスターである。だからこれは1976年、秋以降の撮影であることがわかる。
このポスターは私のデザインなのであるが、街にこれが貼っていると、何かネガティブな感じがして、ヨーロッパの華麗な風景の街並みを押しつぶすような効果を狙ったのである。
イエローのペーパーにブラックですってあって、そのイエローは我々が東洋人であると言う証明でもあるのだが、当時テロリスト集団で国際手配されていたバーダー&マインホフのポスターに似せたのである。
長いウィーンの写真家暮らしで三脚に乗せて自分のセルフポートレートを撮影したのは前後考えてこの時だけである。私を長年サポートしてくれている。がらくた屋2代目さんが写真集を出してくれたり、Tシャツを作ってくれたりするのであるが、その何回目かのTシャツが、この写真の図柄であった。
各種メディアでライカ100周年と言う特集をやっているが、私の100周年を祝う特集はちょっと変わっている。
すなわち、ライカを落としたりタクシーの中に忘れてくると、人生の大変なダメージになると言う話なのである。
カメラ人類のための人生の大切な教訓として、ライカ1世紀の今にこそ読んでもらいたい。
トータルで3回触れる機会があった。1度目と2度目はライカのドイツの本社で、3度目は東京のホテルでだった。
売るライカは本社が持っているのは二台で銀行に預けてある。日本のコレクターが持っていると言う噂もあるから、そうなると3台現存しているわけだ。
2回目に触らせてもらった時は、30分ほどペーター。コルン社長が席を外したので、その隙にと思ってパトローネに入れたフィルムを持ってきたのだが、開け方がわからない。
人類の文化遺産を壊してはいけないと思って、その時はフィルムを入れるのはやめて、その代わりにレンズをちょっと舐めてみた。別に味はしなかった。
オスカーバルナックの有名な会社の中でライカを手にしている写真がある。60年近く見ているわけだが、高校生の頃に見た時はおじいさんのように見えたのが、今見ると自分の息子の世代に見えるのが面白い。
オスカーバルナックは絶対にこのライカのレンズを舐めていると思う。
カメラですか?
アンドレ・ケルテスは初期の頃から出たばかりの一眼レフコンタックスエスを使っていたし、友人スミスも同じカメラを使っていた。
一方で、ウォーカーエバンスは、レンジファインダーのライカとコンタックス、そしてローライフレックスだった。
ロバートフランクやウィリアムクラインや、リーフリードランダーとカメラ弾技をしたことがある。
ウォーカー・エバンスとも、カメラの話、ミランダの話をしてみたかった。
カメラや写真用品でメイドイン生生培土ジャパンのコレクターと言うのはかなり知られた存在である。
1番最初のウールライカには3回触ったことがある。そのうちの2回はドイツのライカの本社で、もう一回は日本でこれが展示されるときの話だった。
その次のモデルがこのヌールライカである。オスカーバルナックが最初のライカが出る前のテストカメラとして少数作ったものだ。
西暦2000年にライカ誕生75周年を記念してコシナレンダーが作ったのが、この実際に写真が撮れるモデルである。
当時のフォーカルプレーンシャッターは撮影が終わってフィルムを巻く時もスリットが閉じられていないからフィルムがダメージを受ける。それで当時のプロカメラマンはレンズキャップなどはしないで、カメラを体に押さえつけてレンズキャップ代わりにしてシャッターを巻き上げたのだ。
ヌールライカでシャッターで光が漏れるのを防止するために紐がついたキャップがぶらぶらしているのはアマチュアっぽいね。
しかし、アンディカルティエブレッソンも紐のついたレンズキャップを使っていたし。
いわゆる緑色のワインと言うのがこれである。最初にリスボンに行った時はこの愛は知らなかった。それでもっぱらレストランでは地元の安ワインの赤を飲んでいたが、これもなかなか良かった。だから私の日のヴェルデとのお付き合いは新しくてこの四半世紀位だと思う。
大学1年の頃のスナップショットである。この頃から私はロバートフランクの影響を受けていた。モチーフを画面の中央にすると言うのではなくて、カメラが偶然とらえた全体空間のあちこちにあるものをそのまま語らせると言うテクニックである。これはその中で比較的うまくいったエグザンプルだと思う。
それで2週間ヘルシンキに滞在した。
遠藤さんと言うのは、デザイナーで大昔にオリンパスの仕事を一緒にしたことがある。その息子さんがヘルシンキ滞在で、私のヘルシンキ到着を知って連絡をくれていろいろ教えてもらった。
大昔の友人で、ヘルシンキに行って、オーケストラの指揮者になった小宮と言う男を探して下さいとお願いしたら、20分位で見つかりましたと連絡があったのにはびっくり。
その小宮にメールをして50年ぶりに会おうと言ったら、ヘルシンキから来たり1000キロ位離れたところに住んでいるので、ちょっと難しいと言う話だった。
ヘルシンキはメトロの路線が2つと路面電車が10位あるが、私は新しい街に行くと、まずメトロの終点から終点まで、そして路面電車も同じような暴れ乗りをする。それを最初の三日間でやってしまったので、後はやることがなくなって、退屈で困った。
中心部に立派な大聖堂がある。有名な観光スポットらしいが、その2週間前に私はモスクワとサンクトペテルブルグのロシアチャーチを2ダース位取材したので、ヘルシンキの教会はどうも東京ネズミ園の教会のコピーみたいで貧弱で見るのがかわいそうだった。
フィンランドと言う国は、国民の満足度が、世界でトップらしい。でも彼らの満足度と言うのは、路面電車の数とか大聖堂のクオリティーと言うところは関係がないらしい。
結果から先に書いてしまうと、試験という重い軛から解放された私は、初日から暴飲暴食を繰り返し、旅行開始2日目の夜から激しくお腹をこわし、結局最終日まで体調が戻らず、若干後悔の残る旅行となりました。いつもは旅にその土地に関係する本を持って行き、それを読みながらあれこれ思索するのですが、お腹に力が入らねば難しい本を読む気にもならず。結局、行きにプラハ中央駅の書店で見かけたダン・ブラウンの最新刊(タイトルは『The Secret of Secrets』。奇しくもプラハが舞台に設定されています)をチェスキー・クルムロフの書店で買い、ホテルの部屋(すなわちトイレのそば)でダラダラ読んで過ごすという、情けない休暇になりました。全く何をやっているんだか。
従って、今回は旅の考察ネタはなく、写真もほとんど撮りませんでした。悔しいので、このコース、必ずもう一度歩くと早速誓ったわけですが、自分への戒めも込めて、ここに何件か写真を投稿しておこうと思います。
第1回は最初に向かったチェスキー・クルムロフから。ここは20年ぶりです。前回はプラハからでななく、リンツから入りました。そうか、あれかた20年経ってしまったのか…。チェスキー・クルムロフの駅から旧市街まではけっこう歩きます。しかも旧市街に入るとデコボコの石畳が続き、ここをスーツケースを転がして歩くのはかなり厳しい。それでも20年前は往復ともに歩きましたが、今回は迷わず駅までタクシーを呼びました。この辺り、やはり20年ぶんトシをとったなと思います。なお、チェスキー・クルムロフの駅前にタクシーは待機していないと思います。私たちは宿泊先ホテルに教えてもらったタクシー会社に電話して、駅まで迎えに来てもらいました。
21年前の2004年の事だ。春にエプソンデジタルライカを持ってローマに行った。
ローマと言えば、ウィリアムクラインもテーマとして撮影している。
ミラノの人間がローマを批判して言う決定的な言葉にあそこは
神様の代理人と、松の木と赤い泥があるばかり
確かに退屈な街であって、古いとは言うものの、アテネのような考古学的なわびさび感覚がない。
フェデリコフェリーニがよく通ったカフェなどに行って、映画監督の気分を追走してみたが、どうしても日本人のツーリスト気分になってしまうのでうまくいかない。
しかし、エプソンライカで撮影はうまくいって1冊の写真集になった。説明しておくと、写真集の半分は春のローマ方面で、もう半分はクリスマスのウィーンとプラハなのである。
このカメラの。功績と言うのはなかなか凄いもので、別に腰なレンダーで作ったところでそんな差別は私はやらない。
エプソンライカの良いところはフィルムライカと同じ感覚で撮影ができること。デジタルライカはデザインが間抜けだから、巻き上げればをなくしてしまったので、カメラのホールディングが悪くなるから、慌ててアクセサリー集に突っ込む。親指を引っ掛ける付属品を出したりして間抜けである。
ウィーンのカフェと言えば、1番行ったところは中心部の蔵便通りからちょっと中に入ったカフェハヴェルカである。1973年から行っているから、実に半世紀以上になる。
Wetzlerと言う文字列がライカのカメラのトップカバーに刻印されているので、最初はそれが何なのかよくわからなかった。ライカの先輩がそれはライカを製造した会社の所在地であると教えられたので、それから私の夢は急に膨らんだのであった。
日本人がお腹が減った時に、食欲を満たすために頭に浮かべるものと言うとおにぎりと言うことが多いと思う。win人がお腹が減ったときに頭に浮かべるものがこれなのである。つまりウィーンの人から見た日本のおにぎりのようなものだ。
ウィーンの北部にあるハイリゲンシュタットと言う村は、ベートーベンの衣装で有名であるが、私が暮らしていた50年前は赤い電車の北の終点であった。要するに、完全なカントリーなのである。
ライカのカメラボディーの呼び方について私が腹を立てていることがある。ライカエム6が出た頃の話だが、私は日本で1番最初にライカのエム6のレポートをアサヒカメラであった。
1980年の秋にウィーンからドイツのケルンを経由してパリを通過して、リスボンまで列車の長い旅であった。当時のリスボンは昼寝から覚めないような街並みだったが、それは今もそれほど変わってはいない。
1980年の秋に、ウィーンからパリ経由で、ポルトガルのリスボンに行って、そこから列車で木谷スキップした。行った場所はコインブラとポルトであった。
ウィーンの人々で、中年以上の連中は皆13番の2階建てバスが懐かしいと遠くを見るような目つきをするのである。トークと言うのは、遥か昔の20世紀のことだ。
ユニレックスと言うのはレンズシャッター式一眼レフで世界で最初にautomaticな自動の露出を達成したカメラであると言う。そーゆー露出モードは使わないから私は全然知らなかった。今でも普通にマニュアルで撮影しているのである。
34年間プラハの都の西北モルダウの岸辺に暮らしたのである。プラハ工科大学の敷地と接しているところなので、有名な物理学者。ニコラテスラの名前がそのまま広場になっていた。その広場の7番地の屋根裏部屋に暮らしていたの
ビクターハッセルブラッドの生誕100年のプレスツアーでハッセルブラッドに招待されて、自分年以上前にヨーテボリに行ったのである。