【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 6【徘徊】最終更新 2025/09/19 08:021.名無CCDさん@画素いっぱい9ooWCRMi0尊師降臨過去スレ【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ日本大学芸術学部写真学科卒業日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなるオーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集めるなお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催されるその写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたないその端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16340871892021/10/13 10:06:29267コメント欄へ移動すべて|最新の50件218.名無CCDさん@画素いっぱいCzL0O覚醒剤と言うのは、戦前は簡単に薬局に売っていたと言うのは、今の我々の世代ではにわかに信じがたい。四半世紀前だが、どっかのカントリーの薬局で、覚せい剤の大昔のやつがそのまま店頭に並んでいたので、取り締まりの対象になったと言うニュースを読んだ記憶がある。ヒロポンなどが代表的な薬であったらしいが、その当時の文芸雑誌を見ると、表紙の反対側にちゃんとヒロポンの広告が出ているのはなかなか面白い。眠気覚ましとか疲労を感じさせないと言うので、戦争中はずいぶんそういう悪い目的で使われたものなのであろう。覚醒剤は絶対いけませんね。阿部工房と言う作家は私は嫌いなのだが、彼の叙述の中で実際にヒロポンを服用した人間がどのように感じているかというのを書いた。短いセンテンスがあって、それはじーじーヒロポンが効いてくると言うのである。これは文学者としてなかなか良い文章の使い方だと思って、時々思い出すのだ。コロナ騒ぎでやたら政府が無料で国民に駐車しようと思っていた。1連のワクチンにしても、時代が経過すると、これと同じことで、あの頃はひどい人体実験を得られていたということになるのだろうね。2025/03/05 14:43:36219.名無CCDさん@画素いっぱいPrpjK私のような大昔の映画人類はポーランドと言うと灰とダイヤモンドを思い出す。その後に来たのが、これは実際に取材に行ったわけだが、ポーランドの自主管理ロースを連帯である。連帯は結局当時の大統領やルゼルスキーに潰されて長い戒厳令の時間が来た。その戒厳令の時間が明けて、最初のウィーンワルシャワの飛行機で、私は週刊朝日の取材でワルシャワに行ったのである。飛行機は報道陣だらけで期待の後ろ半分は薬品などの救援物質であった。ジャーナリストとしての属性は隠していったものだから、いつもは止まらない五つ星の最高級ホテルに宿泊して外出禁止になる。夜10時以降、バルコニーで耳をすましていると、遠くにタンクのキャタピラのような音がした。中央の広場からちょっと歩いたところに中古カメラ店があったのは我ながら中古カメラを探すかと言うのが幸和当たっているなと思ったのである。そこで手に入れたのがこのポーランド製の2段レフだった。デザインがなんともいいよな。そこに遊びに来ていたワルシャワの市民と知り合いになって、彼を五つ星ホテルに伴って、一晩中ウォッカを何本か開けたので、翌日はすごい二日酔いだった。やはりポーランド人にはかなわない。彼らは逆にウィーンに来て、ワインを飲むと酔っ払ったりするのである。ワルシャワ市民の娘さんと言うのがちょうど年頃で、いろいろ私に西側の品物をおねだりしてきたので、帰国してからジーンズとか、なんだかずいぶん送ってあげたことがあるが、それも40年の昔になったのだ。それでワルシャワを出発するときに、私は多分秘密警察に備考されていたのだと思うけれども、フィルムを全部募集されそうになった。高い取材費をもらってきているのだから、係のポリスが電話に出た間に、私は56本のフィルムをいきなりポケットにねじ込んだのである。全然怖くなかった。係の人間の許可を得てポーランドにある日本大使館に電話した。これは英語でしゃべらないといけないのである。何も助けてくれませんよね?と言ったら、残念ながら何もお助けできませんと言うのが答えであった。それで共同通信の悪い者支局の友人に電話してこういうわけになってフィルムが募集されそうだから、ピックアップしに来てくれと頼んで、私は5本のフィルムだけ隠し持ってwinに戻ったのである。2025/03/06 07:41:57220.名無CCDさん@画素いっぱいwTUeKウィーンの住宅でバルコニーと言うものの存在する数は非常に少ない。大抵の住宅は窓が付いているが、バルコニーはついていない。その絶対的に数の少ないバルコニーに、たまたま人間が立つと、どのような効果を生むのかということを考えてみたい。ウィーンで路面電車で走っているときに街の角で停車した。何気なく建物を見ると、そこに立派なバルコニーがあって、男性2人が立っているのである。反射的にカメラを向けて撮影したのがこの画像である。手前にお日様のマークのついたトレーラーが止まっているので、最初はそちらの方を取ろうと思っていたのだが、結果としてバルコニーに立っている男性とおひさまマークが両方映った。それで後で考えてみるね。手前のお日様マークはそれほど重要ではなくて、奥に立っている2人のジェントルマンが非常に偉い人に見えたことだ。これはどういう理由から来ているのであろうか?1955年にオーストリアが戦争に敗れてから、10年ぶりに独立した時、その記念の調印式があって、その書類を国民に見せると言うために、ウィーンのど真ん中のお城の広場の上に、当時の首相と大統領がルコニーに出て、その調印証書を集まった国民に見せたのである。その場所は、ウィーンの防府、ブルグ宮殿であるからまずファーストクラスの建築物といっても良いのだが、そのようなお城でもバルコニーの数は非常に少ない。しかもバルコニーの幅が狭い。その歴史的な報道写真を私は見ていたので、刷り込み現象で数の少ないバルコニーに人が登場すると大統領閣下が出てきたのかと思ってしまうわけである。まぁ実際にはタバコを吸ったのでしょうね。^_2025/03/10 06:45:05221.名無CCDさん@画素いっぱいQ527V10数年前にアスキーから出し方カメラの使い方の本の新書である。そのトップにこれは編集部から勧められてセールスプロモーションのつもりでカメラを携えるものが心得るべき10二箇上と言うのを書いた。これは今でも有効なのが面白い。最初の第一回上でカメラを常に携えると言っているのであるが現代にあってはこれはデジタルカメラからiPhoneに移行してそのまま有効なカメラ人生の過ごし方であると思うその次にバッテリーの電気を切らさないようにしようと書かれている。これもまさに正しくて初期のデジタルカメラと言うのはバッテリーの消耗が早かったからバッテリーがアウトになるかメモリーがアウトになる日の1種のスポーツ的なゲームの展開であったのも今では懐かしい。カメラのバッテリーの方が以上に成長を止めて1万枚でも撮影可能な容量を持っているデジカメのメモリーであるがバッテリーの方がどう思う20年30年経過してもあまり新刊が見られないと思う。初期のデジタルカメラの場合はそこら辺で売っているミニバッテリーを一本化日本突っ込めば当座の5枚80枚のデジカメでの撮影が可能であった。そういう便利さと言うものが今は一切なくなって専用バッテリーの場合も機種によってスタイルを少しずつ変えておいて教養ができないような意地悪な構造になっている。日本のあるカメラメーカーの企画のお手伝いをしていた時に私などを取材先でそういう緊急事態がよく怒ってとにかく1枚でもデジカメの画像があればそれを日本に送ることができるからデジカメに緊急用のハンドクランクをつけておいてそれを回転すると1枚写真が撮れるのではしたがダメだった。自動車だって私が運転免許を取った頃はちゃんとエンジンにクランクが付いていてそれを回転させて手動でエンジンをかけたものである。あのやり方が1番確実なんだよね。終わりのほうのセクションでなるべく容量の少ないメモリを使うべしとあるのは今でも有効である。何千枚も撮影が可能なデジカメだと映像に対する思考が鈍ってしまうのである。ライカと同じように極々小さなメモリ容量で50枚位で1枚のカードが使えるようなのが理想だと今でもしています。2025/03/15 17:40:44222.名無CCDさん@画素いっぱいtyzz91973年にウィーンに到着して、最初の散歩と言うのは、最初に落ち着いたところがベートーベンがなくなった場所のすぐそばなので、そこから路面電車の子坂のラインに沿って東側方面に歩いてドナウ運河に到着した。そのカメラ、散歩の途中で、オーストリアで1番最初に作られた鉄道の駅であるフランツヨーゼフステーションの中に入ってみたらクラシックな看板がたくさん並んでいた。そのことを記憶しておいて、数ヶ月後になって同じところを訪問して撮影したのがこのショットである。既に私はソ連製のコンタックスコピーの寄付を持っていた。これは蚤の市でどっかの大学の先生から500シーリングで買ったものだ。レンズは今ではレアな子センチの円風1.5がついている。そのレンズの解放を絞りで撮影。ポスターとか看板広告はなかなか写真家としては難しいところがあって、それぞれのポスターの単なる複写ではないかと批判する向きもあるけれども、ウォーカーエバンスが戦前に撮影した素晴らしい作品の中には、単にポスターとか案内版とかの複写等見られても仕方がない作品もある。しかしそういう印刷物も、撮影しないと忘れられてしまうから、それはそれで写真家の重要な仕事であると思う。2025/03/16 06:51:14223.名無CCDさん@画素いっぱい0VeOFスイス製の高級一眼レフカメラアルパであるが、1947年に最初のモデルが作られた。このカメラのもともとはスイスの時計メーカーの下請けをやっていた会社がカメラを生産したと言う伝説がある。戦前にジャガールクルトの会社がコンパスと言う高級カメラを出したこともあった。それで時計メーカーが作ったカメラに共通して私が感じるのはこれは時計であると言う存在感が非常に強烈なことだ。時計ではあるのだけれども写真を撮ることもできます。と言うような微妙なものの、属性のバランスに両足をかけているようなところがあって、それがこのカメラの魅力である。実際にアルパカメラの初期モデルを操作してみると、古い懐中時計のネジを巻いているような指先の感覚がそこに蘇るのである。初期モデルの方がなかなか我々カメラ好きには気に入ったところがあって、例えば一眼レフのミラーはクイックリターンではなくて、上がりっぱなしになるなどと言うのも品格が高いと言う気がする。オリジナルはオランダのオールドデルフトの50ミリが付いているのであるが、他に交換レンズがなかなか見当たらないので、25年位前に友人に頼んでレンズマウントアダプターを作ってもらった。ペンタックスのレンズが全部この初期のアルパに使うことができる。ところが、そのレンズマウントアダプターの食いつきが、ちょっと甘いので、頭の悪い私はカメラボディをアロンアルファで固定してしまったのである。こうなると、地球の実験軸と同じことで、絶対に動かしたり外したりすることはできない。それでも風の少ない純正アルパマウントレンズよりもレンズマウントアダプターは外れないけれども、そこら中にあるタマーレンズとかエム42のレンズを使えるようにしてあった方が、実際問題としては現実的なのである。この時代のカメラはネックストラップアイレットがついてないから、エバレディケースに入れて使うというのが常識になっているが、これがまたエバレディケースが単体で数10,000円すると言うような我々の足元を見たひどい商売が行われている。私の友人で、カメラに関しては、かなりお若いのにレベルの高い人がいて、その人が私のためにホームメイドのエバレディケースを作ってくれた。皮肉なことにアルパのスイス製のオリジナルのレザーケースよりも、その作り込みのレベルが高いので素晴らしい。2025/03/26 07:57:53224.名無CCDさん@画素いっぱいmZ4Ujいいね2025/03/30 09:52:29225.名無CCDさん@画素いっぱい6EgCzフランス製のブランドと言えば、一般的にはたくさんあるであろうが、私にとってのフランスのブランドはやはりルイヴィトンである。1974年だったと思う。けれども、日本のアサヒカメラの編集長に頼まれて、パリの本店に買いに行ったのだ。その当時はルイヴィトンはまだ日本に輸入されていなかった。これはゴージャスだなと思ったのは、凱旋門のすぐそばのお店に入ったら非常にゴージャスな感じで対応してくれた。店員さんが私専門の店員さんであって、お勘定をするまでいろいろにサジェスチョンをしてくれたり、お手伝いをしてくれたりしたのである。中古カメラばかり知っている私だが、フランスの高級ブランドはこういうような接客扱いをするのかと感心した。でも、フランスのブランドでスーパーブランドと言えばエクレールである。この稲光というか電工のシンボルマークがすごくシャープでかっこいい。この稲妻マークはカメラの裏側のフィルムマージンを装填する。すぐ左側のスペースに金属板として取り付けられている。だから、ヌーベルバーグの映画監督とか、カメラアシスタントはフィルムマガジンを交換するたびごとに、この栄光の電のマークを見たことであろう。もう一つのブランドマークはカメラの左側の側面に付いているもので、これはビューファインダーのすぐ下だから、カメラマンは撮影の直前と撮影直後に、いやでも金属版のエクレールのマークを見なければならなくなる。^_^そちらのほうの金属マークには、エクレール瓶フレックスどうやって35 16スタンダードと記入されている そして、その文字列の全体が、風にはためくフラッグのゴージャスな構図で封じ込まれていると言うデザインで、瓶フレックスを欲しいと言うのは、このブランドマークを所有したいと言うことそのものなのであった。 この風に翻るフラッグのことを、私は20歳代にデラシネの何時フラックと呼んでいたのである2025/04/06 12:42:08226.名無CCDさん@画素いっぱいtX6iE東京とその周辺部の看板に興味を持ったのは、もう20年位近く前のことで、日本路地裏学会のMomoki会長と東京をウロウロしているときに、彼女はそちらのほうの専門日でもあるから、なかなか新たな発見があった。このショットは足立区の関原あたりのおそらく今はもうないと思う。けれども、関原で有名なランドマークにボロボロのお茶屋さんみたいのがあって、それはサビ王と呼ばれていたのである。そこがマンションになって、もう20年近くが経過する。撮影に行く時はいつも1人が原則であるが、この時は友人の写真家同行した。私がこのカタログの看板に納得したのである。そういうときのカメラ機材はよく覚えていて、ブラックロード2 44ミリのレンズであった。からネガフィルムで撮影は1枚しかしていない。それでいろいろ考えたのだが、このカタログのカンパニーはなかなかいい味が出ている。ただそこで危険なのは、実際にこのカンパニーに仕事を発注してしまったりしたら、極々普通の結果になってしまうであろうということで、私が評価しているのは、この会社の汚れた時代遅れの看板をオブジェとして高く評価していると言う意味である。撮影の途中ではぐれてしまった友人の写真家は私と合流して、ゆうにさっきこの先の小さな町工場で作業している所を写真を撮らせてもらったのだが、その作業というのが大船の模型というかおもちゃを作っているというのである。これなども小さな町工場が作るものとしては、非常に奥ゆかしい感じがして、それで足立区関原界隈が好きになったのは、そんな理由によるのだ。関原にはまだランドマークがあって、ブルドッグと言う名前の洋食屋さんで、これは文芸評論家の福田和也さんもよく行く店であったそうだ。その近くにマッチ箱を押しつぶしたような斜めになっている。床屋さんがあって、そこに私がびっくりしたのは押しつぶされたマッチ箱の状態で現に営業をしていると言う点であった。足立区は凄いところがたくさんあるな。2025/04/15 05:34:41227.名無CCDさん@画素いっぱい1WQOM^_^ブルーゲルが日本でブームになる以前のことだが、エグゼクティブマガジンの取材でヨーロッパにあるブリューゲルの名作をイタリアから始まって、ウィーンを経由してドイツオランダとミュージアムを取材したことがあった。その時理解できた事は、ブリューゲルに限らず名作と言うものはそれが所蔵されている。ミュージアムで見るのが正しい見方だと感じた。ブルーゲルは、日本では指屋さんが10年に1回ぐらい開催して、これはもう1種の文化的伊勢参りみたいなものだから、自称文化人、美術愛好の人々が押し寄せて、人の頭しか見えなかったと言うので、それを自慢話にするのは、大阪万博よりかは文化レベルが高い事は言うまでもない。ウィーンに暮らしていた時は、年間パスを買って暇な日には、昼前からリューベルの作品の前に座って時間をつぶしていた。大変ぜいたくな話で座り心地の良い真っ赤なベルベットのチェアが私用に置かれているのである。^_^そこで私が考えた事はこういうことである。ブリューゲルのこの名作は、実は私の所有なのだが、私の好意的な意思でここに置いて、他の人々にも見てもらっているのだと。これは妄想ではなくて、実際にそうなのだ。文化財と言うものは、その所有者はパブリックなものだから、あなたも私も好きな文化財の所有者になっているわけである。ブルーゲルの名作が日本にやってきた時、テレビニュースなどで紹介されてあたしみたいなじじいがやっぱり本物は違いますと言ってるのは吉本興業のギャグよりはるかに面白い。日本にやってきたブリューゲルを押し合いし合いで、人の頭越しに見るよりも、それが本来あるミュージアムで見た方が落ち着けることには間違いがない。それに最近のオンラインの改造力は素晴らしいから、わざわざ外国のミュージアムに出かけていってみるよりも、オンラインで見た方が楽だし、理解が深まる。世界中のミュージアムは所蔵品の複写をオンラインで見せているから、便利な時代になったものだと思う。2025/04/16 14:59:14228.名無CCDさん@画素いっぱいbGHjY袖擦り合うもキエフの縁ウクライナ戦争が始まってからこの街のことをキエフではなく、キーウと言うらしいが、私はわかりにくいから、オリジナルのままのキエフにしておく。キエフと言うカメラが非常にたくさんあって、このコンタックスコピーから16ミリのミニチュアカメラそして66サイズのハッセルブラッドタイプの一眼レフまでが存在する。言い換えれば都市の名前を代表してカメラの所属系統を一言で表しているのだから、非常にわかりやすいと言う言い方もできる。最初にキエフカメラを使い出したのはコンタックス2のデッドコピーのやつであるが、1973年のクリスマスちょっと前にウィーンの蚤の市で店を広げていた大学の先生から買ったのだ。値段は500オーストリアシリングだったから、まず 6000円か7000円と言うところだ。それ以来、コンタックス型のキエフカメラを使っていたが、ウィン滞在の最後の1980年頃になってこのカメラ、すなわちキエフファイブがウィーンの中古カメラ屋さんのウインドウに登場した。値段はやはり500シリングであった。要するに、ウィーンの人間にしてみると、周りは全て共産主義の国に囲まれているから、こういうカメラは歓迎されない^_^存在なのである。1980年の終わりにファーイーストに戻ってきて、それからすぐにアメリカのモダンフォトグラフィーの極東特派員と言うのをやっていた。それでネタに困った時、キエフファイブの話を送ったら、これが結構話題頭になった。というのもその頃はまだクレムリンから赤旗が降りてないから、このカメラはほとんど西側に知られていなかったのである。セレンメーターを乗っけた渋滞の大きなカメラだから、ライカエム5と似たような存在感であるのが面白い。でも、カメラのバランスは良いので、使っていると悪い感じではない。オリジナルのコンタックスとは全く違うカメラに見えるが、実はカメラ本体はコンタックス2型と全く同じであって、そのカメラ本体の上にセレンメーターやら何やら乗っけてこのような形になったのである。ある意味でロシアのカメラ技術は凄いと思う。2025/04/20 16:24:54229.名無CCDさん@画素いっぱいVKysyフルサイズのミラーレスカメラの高いのを手に入れるのは、買い物の楽しみとしては非常に良いことであると思うけど、実際に何に使うのかと言うところが問題です。フルサイズのミラーレスをたまに持って出るが、疲れてしまうというのが高級カメラの共通の悩みのようです。過去10年の私のカメラの使い方を思い出してみるに、広告の仕事でもAPS-Cサイズでそれで大きなポスターを作ったり、新聞広告をやったりしました。大手クライアントでどうしてもフルサイズでと言うデザイナーさんのリクエストがあるときには仕方ないので、フルサイズのデジタル一眼レフを借りていきました。でも、大抵の場合は日経の新聞広告などもそうですが、リコーGR 1で撮影していました。そういうコンパクトデジタルカメラも最近はやめにして、もっぱら片遅れのiPhone SEで写真を撮っています。日常の記録とSNSにアップするのなら、iPhoneでも映りすぎる位です。2025/04/21 16:48:50230.名無CCDさん@画素いっぱい5iWrH30年位前にある出版社から間違いだらけのカメラ選びと言う本を出して、これがベストセラーになってしまって、ひょっとしたらこの方向で食えるのではないかと思ったのが私のカメラ目かライターとしてのスタートポイントであった。その1番最初の本を皮切りにトータルで135冊位の本を出したのだけれど、カメラの本は100冊位で残りの35冊ぐらいは写真集のはずである。それで面白いのは私の読者の人は写真集を買う人は、私のカメラのほうは買わないし、その逆もあると言うことなのだ。カメラ選びと言う言葉はなかなか複雑なマジックなのであって、1つのカメラをもう一つのカメラより差別化して高く評価すると言う意味合いが濃厚である。最近のデジタルカメラ選びのFacebookクラスの皆さんのカメラ評論を読んでいて、面白いのがほとんど同じ性能のカメラをその日の気分で使い分けていると言うことにある。これはかなりインチキなカメラ選びではあるのだけど、それと同時に間違いだらけのデジタルカメラ選びであり、もっと言ってしまえば、そのように気分でカメラを手にとると言う事は、実は真実のカメラ選びであるのだと言うこともできる。写真家の須田さんとずいぶん長いことカメラ談義をしたのだが、彼は写真表現に行き詰まるとカメラを持ち替えて気分を一新してその先に進むと言うやり方をしていた。これはこれで有効だと思う。ところでここにある3台のカメラのコンタックスと右側のコピーライカであるが、ここら辺の50ミリレンズは性能が優秀だから何の問題もない。ところが私が気分的に高く評価しているのは左側にある。フィレンツェで作られた。不思議なカメラと不思議なレンズなのである。これはレンズから見れば非常に劣った描写をするのであるが、逆に言うとそれがフィレンツェ製の特徴になっていると言うわけだ。実際カメラ選びレンズ選びは難しいですね。2025/04/24 19:57:04231.名無CCDさん@画素いっぱいxGT6Yベトナムハノイにはいろいろ面白い商業施設があるが、これは私が見た中では、かなりハイレベルのものである。お店のサービスの内容は知らないけれど、この看板を見たときの私の第一印象は、いわれる帝国主義の国で、かつての共産主義とか、社会主義のかっこよさを強調したコマーシャリズムのやり方に見えたのだ。ところが、その数秒後、冷静に考えてみると、私が立っている所は、元北ベトナムであって、アメリカ帝国主義を敗北された社会主義国の中心部なのである。だからこの広告の存在感が西側の国で社会主義をキャラクタライズした広告ならわかるけれども、社会主義の国で社会資源をキャラクタライズした広告というのがなかなか新中のコンプレックスになっていて、それでめまいを私に生じさせたと言うわけだ。まず、コマーシャリズムの展開としては、なかなか成功の方向を目指しているようにも思われる。ハノイのぶらぶら町歩きで1番印象に残るショップであった。2025/04/26 06:20:15232.名無CCDさん@画素いっぱいaQeu3浅草から先の日本堤の辺りは、私が青年時代には結構怖いところだった。労働者の暴動が起こったりとか、交番が取り囲まれたりとか、いろいろな事件が起こっていたのである。涙橋の角に酒屋と言うよりも立ち飲み屋があって、酔っ払ったおじさん連中がたくさん集まっているのはいいけれど、酔いつぶれたおじさんが交差点の近くで寝ていたりとか、なかなかワイルドな場所だった。大都会にはそのような緊張状態がある。怖い街が必要なのである。だからマンハッタンのバワリーあたりはそれなりに怖かった。東京のこの界隈玉姫神社あたりまでも、結構怖い地域であったのがそういうことが一切なくなってしまって、私などは自分の青春が、失われたようながっくりきた気分になっているのである。玉姫神社のすぐ近くに、東京では、もう珍しくなった。路地裏というか、路地の突き当たりがあって、普段ならば、完全に見落として、通り過ぎるところなのであろうが、この時はお祭りのちょうちんが出ているので、路地全体がなんとなく艶めいて、独特な空気が漂っていた。お祭りの時に古い木造建築の木木に掲げられるお祭りのちょうちんと言うのはそういう意味でなかなか雅なものである。これがモダンな今のビルになってしまうと、町内会のお付き合いで仕方がないからちょうちんぶら下げていますと言うふうに見えてしまうのは情けない。2025/05/02 00:22:58233.名無CCDさん@画素いっぱいiYL8a六本木ヒルズができたのが2002年の春だったと思うけれども、ライブラリオフィスというのがあって結構自由にプライベートスペースも使えるのでそこをちょっきり10年間借りていたのである。ちょうど六本木ヒルズクラブもできた時でそこのメンバーにもなった。それで打ち合わせ等で遊びに来る人は、私のように毎日六本木ヒルズの49回の空気の薄いところに来るわけではないから、いろいろ面白がってくれる。それで1階上がヒルズクラブだからそこで飲み食いをするのである。こちらは毎日そういうところに行っても飽きるから下のローソンに買いに行くのであるが、ローソンが1ヵ月半休みであったときにはランチ難民になって大変であった。49回と言うレベルだと東京のありとあらゆる物の動きを鑑賞するには非常によろしい。1番腹が立つのはすぐ隣がアメリカ軍のヘリポートである。それで軍事作戦だか遊覧飛行か知らないが、アメリカ人の若い奴が軍用ヘリに乗って六本木ヒルズタワーギリギリに離陸していくのである。文句を言いたいけれども、日本の空はアメリカのものにこの80年ずっと鳴っているらしいから、これは仕方ない。アメリカの属国だからね。逆にプラスのファクターとしては、オフィスのブラインドがこのような感じなので、光の加減としては、ときにはドイツ表現派の写真作品のように風景がしばしばになることだ。これは楽しかったね。2025/05/10 09:36:04234.名無CCDさん@画素いっぱいQn3bO中目黒あたりには知り合いがほとんどいないからいいけれども、あの界隈が苦手。ロシアの上空を飛んでいると、目の下から地平線の彼方までロシアの一本道というのがある。それで私が思い出すのが中目黒の一本道と言うやつだ。ロシアの一本道より中目黒の一本道の方が迫力がある。10年近く前その一本道を歩いていたら、非常に面白いものに出くわしたので、それまでの中目黒の退屈さと言うものが吹き飛んでしまった。それがこの子供がやっている蚤の市の展示と言うやつだ。ほんとに小さい子供が不要になったものを一本道の脇で売っていると言う感じだが、実際には売りてはいないし、並べ方が整然としているからお母さんがセットしたものである。世界中の蚤の市を見て歩いたり、撮影をしたり、面白いものを買ったりした。半世紀の私の蚤の市人生であるが、これだけ面白い蚤の市は初めて見たので、10年以上前にもかかわらず、いまだにはっきりを記憶しているのである。長い長い目黒の一本道にここだけの実行が出ているから、これはユニークだよね。何度も言っていることだけど、これは蚤の市なのである。蚤の市の英語の言葉を聞き違えてフリーマーケットであると言っている人がいるが、それは違います。2025/05/12 10:17:33235.名無CCDさん@画素いっぱいFUPpN135冊ほど出版物やら写真集があるが、自分の本は持たないのであるけれども、資料として参照しなければならなくなって、2002年にエプソンのレンジFinderデジカメが出たときに制作した写真集を探したらなかなか見つからない。Facebookの友人がメルカリに出ているよと教えてくれたので、2冊ゲットした。感謝。後期高齢者の記憶などいい加減なものだから、写真集のことを書くときは現物に当たるのが1番。34年間のプラハのアトリエ暮らしで、毎朝全く同じブレックファーストをこのように作っていた。ベッドから起き上がって5分で全てが完了するのだ。コーヒーはチェコの飲み方は古い数百年前のトルココーヒーの飲み方の伝統が残っていて、コーヒーの粉に直接熱湯を注いで、かき回して数分間コーヒーの粉を沈殿させてから飲む。これが1番うまい。、、お皿がわりにしているフライパンは油が馴染んで絶好の状態だったのだけど、アトリエの室内を新しくする時、すなわち天窓が新しくなったときに間違って捨てられてしまった。仕方ないので同じものを新品で買ったが、使い込むまでにまた20年近くかかった。2025/05/15 14:53:26236.名無CCDさん@画素いっぱいoPNfdプラハ工科大学の敷地とギリギリのところに立っている。1930年代に作られた6階建ての建物のその上の屋根裏部屋が私の世界であった。天窓を開けると、窓の先が世界に開いていると言うフレーズを、新潮社の矢野編集長に褒められたことがあった。34年間暮らしたにもかかわらず、住んだアパートメントの屋根裏の写真の内側はあるけど、外側は1枚もないことに気がついて、十数年前にアトリエの北側の広場に出て撮影したのはこのショットである。屋根裏の8枚続いている、窓がわが世界であった。なぜ自分の住んでいた屋根裏部屋の外側から写真を撮ることがなかったかというと、理由は単純で、屋根裏からエレベーターのない建物の階段を1番下まで降りて、南に進むと、巨大な中庭に出るのだ。そのなかにはをさらに進むと、メトロの駅の方向への道がある。つまり、何十年も住んでいるにもかかわらず、アトリエの北側に立って全体像を見ると言う事は1度もなかったのである。ごくたまにアパートメントの北側のドアから出入りすることがあったが、それはアパートメントに沿った。すぐ隣の道であるから、距離をとって屋根裏部屋を見ると言う事は視覚的に不可能である。アパートメントの北側を東に行った角に結構いいビアホールがあって、ごくたまにそこに行くことがあったが、何しろヘビースモーカーの多い本格的なビアホールであるから、広い部屋のこちらから光が見透かすことができない位煙っていた。だからそこにも行くのはやめてしまった。ところで、アトリエの天窓が新しくなったときに八戸並んでいる一番右側の窓にメーカーの紙が貼ってあって、その紙のサイズがA4サイズなのである。これが軍事衛星から見えるのにはびっくりした。Google Earthからの画像であるが、これは軍事衛星をかなりシャープネスを落としたものであるから、私をピンポイント攻撃するためには8つある、窓の左から2番目を攻撃すればいいわけだ。そこにベッドに寝ている私の頭がある。2025/05/18 07:27:37237.名無CCDさん@画素いっぱいX0nTd1957年に、当時のライフのスターカメラマン、アルフレッドアイゼンシュタットが、バルナックライカに漬けられるライカビットをM3にもつけて欲しいと言い出した。もともとM3はそれまでのバルナックライカと違って、トップカバーが付いているから、フィルム巻き上げははるかに進歩しているのである。しかし、ライツの会社としてはトップフォトグラファーからのリクエストだから、断るわけにもいかなくて、M型ライカにライカビットをつけるようにした。これがライカMPである。当時のMPの値段はM3よりも35ドル高いだけだったのに300台ぐらいしか売れなかったので、ライツはこれは商売にならないと言うのですぐに中止したのである。これが間違いの元で、今やオリジナルの値段の数百倍と言うインベストメントプライスになって、本物のライカMPは世界中の金庫に保管されてしまった。そのライカビットMPは単体で買えることもあって、学生の時は13,000円で買ったのである。物価上昇とシンクロして今は単体で3000ドル位するのである。要するに、私も青春の思い出のために手にしているだけで、実際には全く役に立たないガラクタアクセサリーです。2025/05/20 17:35:15238.名無CCDさん@画素いっぱいObRtbカメラのデザイン評論を四半世紀ほど前にアクシスと言う雑誌で連載していた。その時に気がついて書き残したことがあって、それがニコンSPとロードマーシャンのファインダーのデザインコンセプトが似ていると言うことだった。登場はニコンSPの方が先だったと思うが、この頃のレンジファインダーの基本デザインはこういうシネマスコープタイプのデザインなるである。今度建て替えになる帝国劇場だが、戦前の建物の頃に帝国劇場はシネラマの上映館だった。私もこれがシネラマだと言うスペクタクルな映画を見に行ったことがある。ただ、この2つのカメラで、どちらがデザインが良いかと言うと、右のほうになるね。2025/05/23 14:03:54239.名無CCDさん@画素いっぱい8FWil50年前の東京の風景を撮影した私の写真集である。日本デザインセンターで3年間広告写真を撮っていて、忙しい時は2ヶ月も愛知県豊田市に行ったきりになるが、暇な時は自分の時間が管理できて、それで中古カメラや巡りなどをしても、上から文句を言われる事はなかった。そういう時に会社の近くにあったカウンターだけの座席の数も、わずかなお店なのだが、今写真にしてみると、なかなかスマートでクールだと思う。目の前でドリップで作ってくれる。コーヒーはなかなか半世紀以上経過しても記憶しているのが凄いと思う。自分の時間が自分で管理している。その1日のスタートのコーヒーのいっぱいはとても良い感じだ。喫茶店と言うと商談とか我々のレベルだと喫茶店で座談会をやったりする。これは日本の環境がそういうことをせざるを得ないから仕方がなくそうなったのであろうか?偽物ライカ同盟の本を作ったときに登場してくれた方々の対談の収録は当時仕事場があった。六本木ヒルズで開催したのだが、1番偉いボスの片岡義男さんはそれをかたくなに拒否して神保町にある瀬戸という名前の喫茶店を指名してきた。それでそこで対談をしたのである。つい最近になって、なぜ片岡さんが六本木ヒルズではなくて、神保町の喫茶店だったのか思い当たるところがあった。私はいいチャンスだから、片岡さんをライカウィルスに感染させようと思って、手元のライカを1台お渡ししようとしたら、片岡さんはそれに触ろうともしない。なるほど、このことかと今になって思い当たるのである。2025/05/25 08:25:45240.名無CCDさん@画素いっぱいcuf6A革命的なビロード革命は、1989年の11月の事だった。1滴の血液も流すことなく社会主義国の政権は崩壊したのである。ちょうどその4年前の夏に私はプラハに滞在していた。私がプラハと関係を持つようになる。34年間のかなり初期の時代の話である。その時代に私は真実のプラハの姿を見たと言う気がするのだ。その当時のプラハの街は、何百年に1階と言う大回収工事をやっていた。街のありとあらゆる道路は掘り返されて新しくなっていたが、その間のプロセスはすごいものであって、ちょうど巨大な爆弾がプラハの旧市街のあちこちに落ちたような乱雑な風景であった。私はそれにフォトジェニックなemotionを感じて、プラウベルマキナプロシフトで精力的に撮影したものである。その時の撮影本数は120フィルムで300本起こした。この作品は、プラハのどまん中の有名なデパートの裏側の道なのであるが、工事現場の通り抜けのような感じがするのが面白い。2人の通行人が背中を向けて通り過ぎていくところであるが、その秋に交通標識の人間のシルエットが一緒に写っているので、まるで3つの人間のフォルムが移動しているように感じられる。さらにそのことよりも、私がこの作品を評価しているのは、私のフイルムの扱いが雑であったということがプラスのポイントに出て、フィルムの上と下が光で被っているのである。こういうのを私は光の攻撃と呼んでいる。予期せぬ撮影者の意思と全く違うところで、フィルムのエマルジョンが光から攻撃されるという意味である。そしてそれがうまくいって、このような状況になると、写真は別の段階にアップされているのだと言うように感じるのだ。この状態を、私は光の惨劇と呼んでいる。2025/05/29 17:05:53241.名無CCDさん@画素いっぱい6VYHW第二次大戦中に、アメリカ軍が戦争の記録映画を撮るときに使っていたEyemoカメラである。もともとは小型軽量なアマチュアのために作られた35ミリムービー撮影カメラであった。このカメラが日本に最初に輸入されてプレゼンテーションが行われた時に、それまでのカメラは三脚の上に乗せて50キログラム位あったから、三脚からおろして手持ちで取るのは不可能である。それをデモンストレーションではカメラマンがこのカメラを手に持ってフォックストロットを踊りながら撮ったので、みんなびっくりした。踊りながら取れるのだから、戦争にもいいだろうと言うので、戦争カメラになった。ロバートキャパが持っているのはシングルレンズのタイプだが、これはスパイダーターレットと言う。上級モデルでレンズが3本付いて回転することができる。軍用カメラなので、色もオリーブドラブに塗装されている。これは南アフリカのケープタウンから買ったのだが、カメラ屋さんがこのカメラを知らないのでエルモと言う名前で販売していた。第二次大戦の頃のカメラマンの活躍する記録、写真などを見ると、3人の戦争カメラマンがそれぞれこのスパイダーターレット付きのカメラを持って、片手でタバコを出ながら笑い合っているのがある。確かに20代の人だったら軽く感じるかもしれないけれども、後期高齢者にはこの重さは童貞無理だなということが最近ようやく判明した。2025/06/01 14:08:13242.名無CCDさん@画素いっぱい0np5Xファーストニコンの8桁、製造番号の事このニコンの製造番号を見て欲しい。60910644である。興味のない人には、単なる数字の羅列であろうが、これはニコンコレクターにとっては、いわゆる8桁、製造番号と言うレアモデルなのだ。609と言うのは皇紀2600年すなわち昭和15年から数えて9年目ということで、ニコンの製造番号の頭が609で始まるのである。戦前の歴史を引きずっているわけね。それで6091が最初のニコンカメラでそれからカウントして609999まで行ったらいっぱいになってしまったので、その先に10,000番からスタートする数字列を加えたわけだ。カメラメーカーはこのことの不都合に気がついてしばらく経ってからスターティングのオーダーを609から610にしたのである。だから609でスタートする番号は1けた最後の方で多くなっていて、8桁番号の製造番号を持つ離婚レンジファインダとなった。そういうどうでもいいことがコレクターには重要なわけです。2025/06/04 11:47:56243.名無CCDさん@画素いっぱいH0QGZ滝野川は歩いているうちに、方向感覚がわからなくなって道に迷いと言う楽しみを私に与えてくれる街角であった。例えば、音無川のそばに滝野川信用金庫と言う看板を認識して、それから路地をずっとつたって15分ごろ経過してみると、またそこに滝野川信用金庫と言う看板が出てくる。要するに、道に迷って方向感覚をなくしてしまっているから、こういう面白いことになるのである。ハノイの中心からちょっと南に行った場所に丸い小さな池がある。といっても、池の直径は500メートルはあるから、それなりに大きい。ハノイで道に迷っているときに、そこをぐるぐる回っていると、どこかで見たことのある街並みが永遠と出てくる。その丸い池を参集したときに、さっきハノイウォッカを買ったお店がまた出てきたので、それで池の周りの堂々巡りに気がついた。滝野川にあるモンドリアンのアートワークにそっくりな場所と言うのを発見したときには、かなりびっくりした。自然の摂理で作られたものがアーティストと似てくると言うのは当然のことかもしれないが、逆に考えると、モンドリアンはファーイーストのこれを見て真似をしたのかもしれない。気にいったので、町歩きのワークショップの時は皆さんをここにお連れしてびっくりさせたものであった。まず私のワークショップに参加する皆さんはモンドリアンの事はよく知っているからびっくりしてくれるのである。2025/06/06 07:32:41244.名無CCDさん@画素いっぱいB9WQeビロード革命が1989年に起こって、それから25年後の2014年に四半世紀の記念のフェスティバルがあって、それを機会に私はもうプラハに行かないことに決めたのである。そのように決めたのは単純な理由であって、残りの時間の時間割を考えてそのようにした。都合34年間プラハの北のほとりにあるアトリエに暮らして、たいていはメトロの終点まで歩いた。それがこのかなり広大な広場であるが、何が嬉しいかと言うと、地面の上を踏んで歩けると言うことだ。ここはプラハの丘市内の北側のターミナルと言うことになっていて、そこからまたカントリーにつながっているバスがたくさん着発している。だからビロード革命以前にこのバスターミナルと接続する。メトロの始発の駅のプラットホームに立っていると、カントリーから来た人は、皆、申し合わせたように、靴の裏側にべったりと、我が祖国の父がついているのである。これはなかなかすばらしいことだと思った。それで私も1年の間この結構広い広場の道路の上は歩いて我が祖国ではないけれども、チェコの大地を靴の裏側に感じたのであった。東京の不幸は言うまでもない。東京のどこに行っても、地面はアスファルトや煉瓦屋タイルで固められてしまっているから、私の靴の底は大地を直接に感じることができなくなってずいぶん長くなったね。2025/06/10 07:51:58245.名無CCDさん@画素いっぱいCRoTw最近では、偵察衛星とかデジタルカメラとかいろいろな軍用のデバイスがあるから、軍用カメラが存在した時代と言うのは、まだ人間のヒューマニズムが尊重されていた昔であると言うこともできる。それで軍用カメラは基本的には一般の人が使うカメラとそんなに違うところはない。一般人が戦場でもないところで使っていて、すぐ壊れては困るわけだが、戦場の場所と日常生活と言うのは隣り合わせているから、厳密にはそれを区別することはできないのだ。それでもカメラ業者さんが納入するわけだから、何か特別なメリットをカメラにつけなければいけないので、ブラック仕上げにしたり、オリーブドラブ仕上げにしたりしたのであろう。ライカの場合だと陸軍方面はオリーブゾ。ラブで空軍方面はラウフグレイである。ところがラルフグレイのライカイムツと言うのは、その数が11ダースぐらいしか作られなかったので、今では天文学的な値段になっているらしい。アメリカ軍が採用した軍用カメラはそれほど高いということはなくて、1番高価だったのは、クラシックライカのバルナックの完全なコピーであったKarson カメラであった。しかしアメリカ陸軍の偉い人は実用主義者だから、兵隊に持たせるのにそんな高いカメラはいらないと言うので、大衆的なコダックみたいなアマチュアレベルのカメラになった。コダック35のブラック仕上げと言うのは、それでもそれなりに存在感があって手にしてみたいなという感じはするのである。ネックストラップアイレットが非常に大きいなどと言うところがいかにも軍用カメラのふりをしていると言う感じがする。2025/06/12 07:35:17246.名無CCDさん@画素いっぱいGIOkSコダックの最高級シネカメラ小学校低学年の頃に音羽にただ1つあった。映画館で見たのが、ディズニーの砂漠は生きていると言う動物映画である。大人になってからこの動物映画の全部がこのカメラで撮影されたと言うことを知った。野生動物はいろいろある。けれども、小さな動物はクローズアップで撮影しなければならないので、その時はこのカメラは簡易的な一眼レフ装置が備えられている。レンズはコダックの優秀な平白だし、画面の安定性も良いので世界中で使われた。アメリカ海軍もこのカメラを公式な16ミリ撮影機で指定していて、オールブラックのマット仕上げのかっこいいカメラも持っている。唯一の問題点は完璧なミラーレフレックスではないので、撮影に限界があることだ。それでイーストマン・コダックはその後のモデルでコダックレフレックススペシャルというのを出した。こちらのほうは回転式のミラーで常に撮影中の画像を見ることができるのであるが、カメラ本体が大きくなって重さもかなり増えたので手持ちで簡単に撮影することができなくなった。しかも電動モーターなので、どこでも撮影できると言うわけではなかった。最初にこのカメラを手に入れたのは、1973年のウィーン時代でレンズが全部揃っていて、非常に上質なトランクケースに入っていて、夢にものボール幸福感と言うやつだった。カメラのターレットの下の部分にオーナーの名前を彫刻できるようになっているのがこのカメラの特徴である。そこにはバロンなんとかと刻印されていたから、どっかの貴族さんが使っていたものらしい。戦争直後の値段が25ミリ標準レンズ付きで1000ドルしたのだから、大変高いカメラであった。2025/06/15 10:24:45247.名無CCDさん@画素いっぱいnLry6リスボンの名物の1つは、建物の壁面を全部使った。このような巨大なである。しかも面白いことにツーリストが集まるようなツーリスト。密集地には、こういうものはなくて、バスに乗って、街の周辺部に走っていると、大通りを角に曲がった。その裏手の建物の壁面が、全部巨大な壁画であったりするのが面白い。スボンは酒多い街であるが、そういう坂の上から下を結ぶ階段がそこら中にあって、その階段を上り下りする人の向かう視線の建物の壁面が同じように巨大な壁画であったりする。私は、ルーブル美術館などでもな家の中で、特に巨大なものというのは大嫌いなのである。その大きさで鑑賞者をびっくうと言うようなところがあるからそういうのは手品のネタみたいなところがあって、面白くないのだ。しかし、リスボンのような巨大な街の建物の壁面全部を使った絵画と言うのは全く別の方向であって、これは面白い。言い換えれば街全体をギャラリーにしているという意味では、美術館よりもはるかにサイズが大きいわけだ。この巨大な作品もピカソバリで良い感じである。2025/06/19 06:17:23248.名無CCDさん@画素いっぱい31yo8リスボンの一番中心のところに五つ星のホテルがある。五つ星のホテルと言うのはいろいろな種類があるがたいていは改造されている。ところがこのリスボンの歴史的なホテルはほとんど改造されていないと言うところがある意味で魅力なのである。ウィーンは私は暮らしていたまじであるから、私がウィーンのホテルに宿泊するようになったのは、1980年より角の上の暮らしを終わらせてからのことである。19世紀に作られたホテルの建物がそのまま使われているので、面白いのは部屋が平らでないから、鉛筆を落としたりすると、部屋の中央のくぼんでいるところにコロコロ転がっていたりするのを見るのは楽しみであった。リスボンの五つ星のこのホテルであるが、階段を最上階まで登って、そこから下を見るのは結構怖い。と言うのは、階段の構造自身が経年変化でかなり歪んでいるのである。リスボンは18世紀の終わりに巨大地震が起きて、それで街を全部新しくして、今の街の構造ができたのだ。この5つ星ホテルのすぐ近くの広場に面したツーリストホテルであるが、そこの2階のダイニングルームにはリスボンが大地震に襲われたときの巨大な油絵が今でも掲げられている。ちょうど東京は両国の戦災復興記念館の2階の巨大ギャラリーに、関東会東京の街が描かれているのと関係があるのではないかと思う。力作なのである。要するに、五つ星のこのよじれたホテルは、18世紀の大震災の後に建築されたモダン建築なのである。それでも200年近く経過しているから、かなり古くてやっているわけだ。2025/06/21 07:29:41249.名無CCDさん@画素いっぱいp7wBk50年来行きつけのつもりになっている。リスボンのα間の上のほうにある細い細い道の路面電車が突入してくるときに、わずかに左にずれて坂上を上っていくと言う。電車ファンが腰を落ち着けて。見るにはベストなロケーションが、この電車カフェである。路面電車の歴史を調べてみるとわかるのだが、ヨーロッパのウインドウが巨大な街ではまず最初に鉄道馬車というのがあって、これは日本の電車の発展の歴史と同じなのであるが、車を馬が引いて走っていたのである。私が持っている。1890年から1910年位のオーストリアの各地を撮影した1人の写真家によるステレオ写真がある。ガラス館版でトータルで10,000,000以上はあるのだ。そのステレオ写真の1890年を見てみると、winの国会議事堂があって、そこにはまだ1台の自動車も走っていなくて、鉄道馬車が走っているのだ。そういうのが当時の人々の歳の普通の風景だと思うと面白い。それでリスボンの路面電車なのであるが勉強してないので、最初の頃場所が弾いていたのかどうかはいまだに不明である。しかし、ウィーンに比べてリスボンは英国と関係が深いから意外と早い時期に路面電車は電気科されたのではなかろうか?それで電車カフェの話であるが、今回初めてちゃんと距離を置いてエントランスを確認して納得したことがあった。お店のエントランスの上のこれは日よけと言うのか何と言うのか正式な名称は知らないけれど、その日よけの位置がほんのわずか左側に下がっていると言うこと。これが私にとってのカフェのエントランスの非常に正統的なダイナミズムとして長年認識していることなのだ。カフェのエントランスの日よけは左側が下がっていないといけないと言う。私のカフェに対する美学が存在するのである。その理由は知りません。それで今回電車カフェの日よけをさらに細かく観察した結果分かった事はこれは伸び縮みして日よけの量を調節するような仕組みではなくて、単に飾りとしてついていると言う事が1つ。そして2つ目は左側に地元で有名なコーヒーのブランドマークがついている。日本の酒屋さんの看板と同じようなもので、何かスポンサー料という感じになっているのであろう。2025/06/24 14:20:34250.名無CCDさん@画素いっぱいOSs0sリスボンの路面電車は、私のような旅行者にとっては非常に興奮するエンターテイメントである。ところが最近ではあまりにも有名になりすぎてしまって、例えば28番の路面電車と言うのは、リスボンの東側から外して中心部を貫通してフェルナンドペソアが住んでいた街の西側のアパートを経由して、市民墓地の方まで行く。かなり長い路線である。それでそういう路線がアメリカ人とドイツ人と日本人に28番の路面電車が全部占拠されてしまって、地元の人が乗れないと言うヘンテコリンな事態になってきた。最後に私がリスボンを訪れた時もそうであって、28番の電車が常に満員なので、仕方ないから、中心部の広場からずっと西に歩いてフェルナンドペソアの博物館を経由して、終点の墓地まで歩いたこともある。そのときに通りがかりのこれは子供の何かのお祭りで、子供が晴れ着を着て歩いていると言う親子連れなのであるが、その中でただ1人男の子がゲリラの服装をしてAK 47のおもちゃの期間中を持って歩いているのにはなかなかびっくりした。こういう人がというか、こういう子供が将来ゲバラのような革命家になるのだなぁと思った。それで最近では路面電車ではなく、バスに乗ってリスボン見物をしているが、その中で1番気に入っているのは、街の南西のはずれのあたりに偶然見つけた子のカラーチャートである。どういうコンセプトで作られたのかは別に聞かなくてもわかっているわけで、このようなカラーチャートがバスの窓から偶然見えたりすると言うことそのものが既に完全に表現の域に達していると言うわけだ。2025/06/26 04:48:47251.名無CCDさん@画素いっぱいhRHtF雑誌の取材などで行く時は、大昔はらいたに学習交換レンズをつけていた。最近では仕事だとデジカメを使うけれども、そうでなければ、やはりフイルムカメラでメモとして使うのがiPhoneとかiPadと言うことになる。iPhoneやiPadは記録用のカメラとしては充分使えるのであるが、歩匹レーションで連続的に使うとなると、やはりデジタルカメラの方が使いやすい事は言うまでもない。それと一緒に数本のフィルム。この場合はモノクロフィルムを持参して自分の趣味の写真を撮るには、フイルムカメラが必要である。そういう時に持参する。カメラと言うのは、どうもニコンのレンジファインダーの方向の引力に引き寄せられているのである。これはリスボンに行った時に持っていったニコンである。大体50ミリと21ミリを持って行く。しかし50ミリを使うことが意外と多いと思うのはずいぶん昔のことであるが、1983年にメキシコシティーに行ったとき、そこのアンティークショップで非常に安い。これと同じカメラを手に入れた。5センチの標準レンズが付いていて、シャッター速度は250分の1と125分の1が使えるけれども後は壊れていたのである。そういうちょっと不便な状況と言う時に私は写真を撮る気分になるのだ。それでメキシコシティーで手に入れた。これと同じタイプの煮込んで絞りは22で250分の1で街の風景を撮ったら全部きれいに写っていたのである。そしてそれはアサヒカメラに発表したりした。そういう旅の思い出と言うことになると、礼香より香ニコンのレンジ、ファインダーの方が記憶に鮮明に残っているのはなぜであろうか?このタイプのカメラを使っていた写真家と言えばウィリアムクラインだね。2025/06/28 07:07:42252.名無CCDさん@画素いっぱい3g56d1971年12月14日に東京が関口の東京カテドラルで結婚式を挙げたのであった。大勢の友人知人が祝福してくれた。実にありがたいことである。芸能人並みのカメラマンの数が来たのであるが、皮肉なことに写真を私にくれた人は1人もいなかった。あー確かwinに行ってから日本デザインセンターの同級生が1枚結婚式の葉書を送ってくれたっけ。それだって結婚式から2年半が経過した後の話なのである。それから結婚記念日が10年ごとに訪れて30年のときには記念に金沢に行ったのである。当時仕事をしていた新潮社のスタッフの人がカナダではない。金沢出身で市場にあるおいしいお寿司屋さんと言うのを教えてくれた。その新潮社のスタッフの女性なのだが、お父様が非常に厳格な人であって、本来は岩波書店に娘を入れたかったらしいのだが、それができなかったので、B級の出版社と言う認識があったらしい。地方のインテリの人はすごいクラス分けをするよね。いつだったか岡山に行った時、岡山にも丸善があって、そこで貯めた間私が出した。岩波写真文庫のフェアをやっていた。それで私のそれ以外の岩波から出した書籍も並んでいたけれども、あそこは面白い会社で午後5時に受付の人がいなくなると、後ろ側の守衛さんのところを通って話を通すのであるが、私の場合だと田中先生がいらっしゃいましたとなるので、皆先生扱い。それで金沢の市場の紹介されたお寿司屋さんに入ってびっくりして15分で出てきました。理由は単純で東京の味のわからない自分はたまりじょうゆの甘いのをお寿司につけて食べるのが耐えられないのである。それで近くのコンビニでおつまみを買って、ANAホテルの20回で改めて結婚30年の大宴会をやった次第でした。それから20年後に、私の古い友人の横木が、私の個展の時に結婚式のときの写真を数十枚届けてくれたのです。こういうのは実にありがたいけど、横切る場合、そういうコンセプトで結婚式から50年後に記念写真を届けると言う。そうなるとバンクシーみたいで、ちょっと凄すぎるね。2025/06/30 07:34:48253.名無CCDさん@画素いっぱいCQPZxいいね2025/07/02 13:58:29254.名無CCDさん@画素いっぱいNqJw5あの時代のクラカメ爺さんはフォロワー数で相対的評価が付くインスタやXをやらないねハッタリかまして「私は皆さんに大人気!」ってドヤっても、そこいらへんの中学生よりイイね少ないとか恥ずかしいもんね2025/07/13 18:54:13255.名無CCDさん@画素いっぱいl8tMGリンホフカメラの4 × 5に500ミリの小村レンズと言うアイディア小村レンズと言うのは、私が最初に手に入れたのがペンタックスマウントの135ミリF2点8だった。やはり私のようなアマチュア写真家は標準レンズの次に手に入れるのは135ミリなのである。その後このレンズメーカーはいろいろ多種多様な交換レンズを出してきて、ゼンザブロニカ1面レンズも45ミリから長い方は500ミリ位まであったし、4 × 5インチ用の交換レンズもいろいろ出してきた。これは小村の500ミリであるが、もともと500ミリのレンズがメーカーには存在していたから、それをリンホフボートにすれば良いだけの話である。しかし、4 × 5インチの後、角型のレンズはそうはいかないから、新しく設定したのであろう。当時のシナイダーとかある座椅子と同じように65ミリとか75ミリ90ミリの広角レンズも存在したのは凄いことだと思う。この500ミリレンズであるが、実際に市場に流通する事は非常に少なくて、私も半世紀。あちこち見ているが、ネットオークションで私がゲットした。これが唯一の例ではないかと思われる。それで実際にこのレンズを使うのかというと、それはまた別の話なのである。4 × 5インチのリンホフでずいぶん膨大な撮影をしてきた。でも私の場合はそれらはほとんど75ミリとか90ミリ等の向角型レンズでの作戦だ。このような500ミリレンズ等は1度も使ったことがない。にもかかわらず、これを手に入れた犯行の動機と言うのは、ドイツの写真家でラインハルトWolfと言う人がマンハッタンのドラマチックなスカイスクレーパーを4 × 5インチのフォーマットで1000ミリレンズで撮影していたからだ。そういう影響受けて、自分でもできるのではないかと勘違いしたわけなのである。2025/07/19 11:42:30256.名無CCDさん@画素いっぱいBa2fz昔ラジオドラマの仕事に就いていた時、いつもは西ゆうじのグダグダなポンコツ脚本家ばかり扱っていたが、あの日若手の秋元康氏の脚本を読んだ時の衝撃は忘れられない。まだおニャンコなどで世間に頭角を出す前の話である。2025/07/27 16:33:18257.名無CCDさん@画素いっぱい7gmt334年間、プラハのアトリエでサニーサイドアップ目玉焼きの食べ方については、ずいぶんいろいろなところに書き散らして、ここでもつい最近書いたことがあるが、目玉焼きは人生の非常に重要な問題であるから、人生論よりも目玉焼き論の方が重要なのである。それでまた続きを書かせてもらう。2025/08/02 06:17:18258.名無CCDさん@画素いっぱいp6xVU1973年から1980年の終わりまでオーストリアウィーンに暮らしたわけであるが、いろいろ忘れられないこともある。暮らし始めた頃は我々東洋人に対する結構はっきりした人種差別を感じることができた。アドルフ・ヒトラーを産んだ国であるから、当然の話である。それと極めてはっきりしたユダヤ人に対する差別もよく感じられた。そういう差別主義のウィーンから82年にニューヨークに行った時、ニューヨークはユダヤ人の天下になっているので、その違いが面白かった。最もウィーンは、シオニズム発症の地でもあるし、かつてヨーロッパで最大のユダヤ人ゲットが存在したのである。プラハのアトリエに三脚を立ててセルフポートレートを取っているのはどういう理由でこれをやったのかいまだに思い出せない。ベッドの脇の壁に見られるのが現代日本写真家展示会のポスターである。だからこれは1976年、秋以降の撮影であることがわかる。このポスターは私のデザインなのであるが、街にこれが貼っていると、何かネガティブな感じがして、ヨーロッパの華麗な風景の街並みを押しつぶすような効果を狙ったのである。イエローのペーパーにブラックですってあって、そのイエローは我々が東洋人であると言う証明でもあるのだが、当時テロリスト集団で国際手配されていたバーダー&マインホフのポスターに似せたのである。長いウィーンの写真家暮らしで三脚に乗せて自分のセルフポートレートを撮影したのは前後考えてこの時だけである。私を長年サポートしてくれている。がらくた屋2代目さんが写真集を出してくれたり、Tシャツを作ってくれたりするのであるが、その何回目かのTシャツが、この写真の図柄であった。2025/08/17 05:31:59259.名無CCDさん@画素いっぱいJ0aKpライカ100周年記念。ライカを落としたり忘れたり。各種メディアでライカ100周年と言う特集をやっているが、私の100周年を祝う特集はちょっと変わっている。すなわち、ライカを落としたりタクシーの中に忘れてくると、人生の大変なダメージになると言う話なのである。カメラ人類のための人生の大切な教訓として、ライカ1世紀の今にこそ読んでもらいたい。2025/08/25 06:09:33260.名無CCDさん@画素いっぱいsKnPohttps://i.imgur.com/FBDFilW.jpg2025/08/31 21:29:06261.名無CCDさん@画素いっぱいiXH8x保守2025/09/01 07:11:53262.名無CCDさん@画素いっぱいVlMN5世界最初の売るライカに3回触ったトータルで3回触れる機会があった。1度目と2度目はライカのドイツの本社で、3度目は東京のホテルでだった。売るライカは本社が持っているのは二台で銀行に預けてある。日本のコレクターが持っていると言う噂もあるから、そうなると3台現存しているわけだ。2回目に触らせてもらった時は、30分ほどペーター。コルン社長が席を外したので、その隙にと思ってパトローネに入れたフィルムを持ってきたのだが、開け方がわからない。人類の文化遺産を壊してはいけないと思って、その時はフィルムを入れるのはやめて、その代わりにレンズをちょっと舐めてみた。別に味はしなかった。オスカーバルナックの有名な会社の中でライカを手にしている写真がある。60年近く見ているわけだが、高校生の頃に見た時はおじいさんのように見えたのが、今見ると自分の息子の世代に見えるのが面白い。オスカーバルナックは絶対にこのライカのレンズを舐めていると思う。2025/09/10 02:28:59263.名無CCDさん@画素いっぱいIYZGthttps://i.imgur.com/AR1cBUn.jpegカメラですか?2025/09/10 18:06:11264.名無CCDさん@画素いっぱいmwgizいいね2025/09/13 09:17:29265.名無CCDさん@画素いっぱいHYVx0ワロタ2025/09/15 02:55:13266.名無CCDさん@画素いっぱいmfpD6ナイスですねっ!2025/09/15 11:53:03267.名無CCDさん@画素いっぱいZNm9rワロタ2025/09/19 08:02:23
【政治】高市氏が総裁選出馬を正式表明「日本と日本人を心底愛する者として」と強調 政策は「日本列島を、強く豊かに」年収の壁引き上げや給付付き税額控除、スパイ防止法など掲げるニュース速報+276918.52025/09/19 23:43:16
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
なお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、
写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催される
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
四半世紀前だが、どっかのカントリーの薬局で、覚せい剤の大昔のやつがそのまま店頭に並んでいたので、取り締まりの対象になったと言うニュースを読んだ記憶がある。
ヒロポンなどが代表的な薬であったらしいが、その当時の文芸雑誌を見ると、表紙の反対側にちゃんとヒロポンの広告が出ているのはなかなか面白い。
眠気覚ましとか疲労を感じさせないと言うので、戦争中はずいぶんそういう悪い目的で使われたものなのであろう。覚醒剤は絶対いけませんね。
阿部工房と言う作家は私は嫌いなのだが、彼の叙述の中で実際にヒロポンを服用した人間がどのように感じているかというのを書いた。短いセンテンスがあって、それはじーじーヒロポンが効いてくると言うのである。これは文学者としてなかなか良い文章の使い方だと思って、時々思い出すのだ。
コロナ騒ぎでやたら政府が無料で国民に駐車しようと思っていた。1連のワクチンにしても、時代が経過すると、これと同じことで、あの頃はひどい人体実験を得られていたということになるのだろうね。
その戒厳令の時間が明けて、最初のウィーンワルシャワの飛行機で、私は週刊朝日の取材でワルシャワに行ったのである。飛行機は報道陣だらけで期待の後ろ半分は薬品などの救援物質であった。
ジャーナリストとしての属性は隠していったものだから、いつもは止まらない五つ星の最高級ホテルに宿泊して外出禁止になる。夜10時以降、バルコニーで耳をすましていると、遠くにタンクのキャタピラのような音がした。
中央の広場からちょっと歩いたところに中古カメラ店があったのは我ながら中古カメラを探すかと言うのが幸和当たっているなと思ったのである。そこで手に入れたのがこのポーランド製の2段レフだった。デザインがなんともいいよな。
そこに遊びに来ていたワルシャワの市民と知り合いになって、彼を五つ星ホテルに伴って、一晩中ウォッカを何本か開けたので、翌日はすごい二日酔いだった。やはりポーランド人にはかなわない。
彼らは逆にウィーンに来て、ワインを飲むと酔っ払ったりするのである。ワルシャワ市民の娘さんと言うのがちょうど年頃で、いろいろ私に西側の品物をおねだりしてきたので、帰国してからジーンズとか、なんだかずいぶん送ってあげたことがあるが、それも40年の昔になったのだ。
それでワルシャワを出発するときに、私は多分秘密警察に備考されていたのだと思うけれども、フィルムを全部募集されそうになった。高い取材費をもらってきているのだから、係のポリスが電話に出た間に、私は56本のフィルムをいきなりポケットにねじ込んだのである。全然怖くなかった。
係の人間の許可を得てポーランドにある日本大使館に電話した。これは英語でしゃべらないといけないのである。何も助けてくれませんよね?と言ったら、残念ながら何もお助けできませんと言うのが答えであった。
それで共同通信の悪い者支局の友人に電話してこういうわけになってフィルムが募集されそうだから、ピックアップしに来てくれと頼んで、私は5本のフィルムだけ隠し持ってwinに戻ったのである。
その絶対的に数の少ないバルコニーに、たまたま人間が立つと、どのような効果を生むのかということを考えてみたい。ウィーンで路面電車で走っているときに街の角で停車した。何気なく建物を見ると、そこに立派なバルコニーがあって、男性2人が立っているのである。反射的にカメラを向けて撮影したのがこの画像である。手前にお日様のマークのついたトレーラーが止まっているので、最初はそちらの方を取ろうと思っていたのだが、結果としてバルコニーに立っている男性とおひさまマークが両方映った。
それで後で考えてみるね。手前のお日様マークはそれほど重要ではなくて、奥に立っている2人のジェントルマンが非常に偉い人に見えたことだ。これはどういう理由から来ているのであろうか?
1955年にオーストリアが戦争に敗れてから、10年ぶりに独立した時、その記念の調印式があって、その書類を国民に見せると言うために、ウィーンのど真ん中のお城の広場の上に、当時の首相と大統領がルコニーに出て、その調印証書を集まった国民に見せたのである。
その場所は、ウィーンの防府、ブルグ宮殿であるからまずファーストクラスの建築物といっても良いのだが、そのようなお城でもバルコニーの数は非常に少ない。しかもバルコニーの幅が狭い。その歴史的な報道写真を私は見ていたので、刷り込み現象で数の少ないバルコニーに人が登場すると大統領閣下が出てきたのかと思ってしまうわけである。まぁ実際にはタバコを吸ったのでしょうね。^_
最初の第一回上でカメラを常に携えると言っているのであるが現代にあってはこれはデジタルカメラからiPhoneに移行してそのまま有効なカメラ人生の過ごし方であると思う
その次にバッテリーの電気を切らさないようにしようと書かれている。これもまさに正しくて初期のデジタルカメラと言うのはバッテリーの消耗が早かったからバッテリーがアウトになるかメモリーがアウトになる日の1種のスポーツ的なゲームの展開であったのも今では懐かしい。
カメラのバッテリーの方が以上に成長を止めて1万枚でも撮影可能な容量を持っているデジカメのメモリーであるがバッテリーの方がどう思う20年30年経過してもあまり新刊が見られないと思う。
初期のデジタルカメラの場合はそこら辺で売っているミニバッテリーを一本化日本突っ込めば当座の5枚80枚のデジカメでの撮影が可能であった。そういう便利さと言うものが今は一切なくなって専用バッテリーの場合も機種によってスタイルを少しずつ変えておいて教養ができないような意地悪な構造になっている。
日本のあるカメラメーカーの企画のお手伝いをしていた時に私などを取材先でそういう緊急事態がよく怒ってとにかく1枚でもデジカメの画像があればそれを日本に送ることができるからデジカメに緊急用のハンドクランクをつけておいてそれを回転すると1枚写真が撮れるのではしたがダメだった。
自動車だって私が運転免許を取った頃はちゃんとエンジンにクランクが付いていてそれを回転させて手動でエンジンをかけたものである。あのやり方が1番確実なんだよね。
終わりのほうのセクションでなるべく容量の少ないメモリを使うべしとあるのは今でも有効である。何千枚も撮影が可能なデジカメだと映像に対する思考が鈍ってしまうのである。ライカと同じように極々小さなメモリ容量で50枚位で1枚のカードが使えるようなのが理想だと今でもしています。
そのカメラ、散歩の途中で、オーストリアで1番最初に作られた鉄道の駅であるフランツヨーゼフステーションの中に入ってみたらクラシックな看板がたくさん並んでいた。そのことを記憶しておいて、数ヶ月後になって同じところを訪問して撮影したのがこのショットである。
既に私はソ連製のコンタックスコピーの寄付を持っていた。これは蚤の市でどっかの大学の先生から500シーリングで買ったものだ。レンズは今ではレアな子センチの円風1.5がついている。そのレンズの解放を絞りで撮影。
ポスターとか看板広告はなかなか写真家としては難しいところがあって、それぞれのポスターの単なる複写ではないかと批判する向きもあるけれども、ウォーカーエバンスが戦前に撮影した素晴らしい作品の中には、単にポスターとか案内版とかの複写等見られても仕方がない作品もある。しかしそういう印刷物も、撮影しないと忘れられてしまうから、それはそれで写真家の重要な仕事であると思う。
戦前にジャガールクルトの会社がコンパスと言う高級カメラを出したこともあった。それで時計メーカーが作ったカメラに共通して私が感じるのはこれは時計であると言う存在感が非常に強烈なことだ。時計ではあるのだけれども写真を撮ることもできます。と言うような微妙なものの、属性のバランスに両足をかけているようなところがあって、それがこのカメラの魅力である。
実際にアルパカメラの初期モデルを操作してみると、古い懐中時計のネジを巻いているような指先の感覚がそこに蘇るのである。初期モデルの方がなかなか我々カメラ好きには気に入ったところがあって、例えば一眼レフのミラーはクイックリターンではなくて、上がりっぱなしになるなどと言うのも品格が高いと言う気がする。
オリジナルはオランダのオールドデルフトの50ミリが付いているのであるが、他に交換レンズがなかなか見当たらないので、25年位前に友人に頼んでレンズマウントアダプターを作ってもらった。ペンタックスのレンズが全部この初期のアルパに使うことができる。
ところが、そのレンズマウントアダプターの食いつきが、ちょっと甘いので、頭の悪い私はカメラボディをアロンアルファで固定してしまったのである。こうなると、地球の実験軸と同じことで、絶対に動かしたり外したりすることはできない。
それでも風の少ない純正アルパマウントレンズよりもレンズマウントアダプターは外れないけれども、そこら中にあるタマーレンズとかエム42のレンズを使えるようにしてあった方が、実際問題としては現実的なのである。
この時代のカメラはネックストラップアイレットがついてないから、エバレディケースに入れて使うというのが常識になっているが、これがまたエバレディケースが単体で数10,000円すると言うような我々の足元を見たひどい商売が行われている。
私の友人で、カメラに関しては、かなりお若いのにレベルの高い人がいて、その人が私のためにホームメイドのエバレディケースを作ってくれた。皮肉なことにアルパのスイス製のオリジナルのレザーケースよりも、その作り込みのレベルが高いので素晴らしい。
その当時はルイヴィトンはまだ日本に輸入されていなかった。これはゴージャスだなと思ったのは、凱旋門のすぐそばのお店に入ったら非常にゴージャスな感じで対応してくれた。店員さんが私専門の店員さんであって、お勘定をするまでいろいろにサジェスチョンをしてくれたり、お手伝いをしてくれたりしたのである。中古カメラばかり知っている私だが、フランスの高級ブランドはこういうような接客扱いをするのかと感心した。
でも、フランスのブランドでスーパーブランドと言えばエクレールである。この稲光というか電工のシンボルマークがすごくシャープでかっこいい。この稲妻マークはカメラの裏側のフィルムマージンを装填する。すぐ左側のスペースに金属板として取り付けられている。だから、ヌーベルバーグの映画監督とか、カメラアシスタントはフィルムマガジンを交換するたびごとに、この栄光の電のマークを見たことであろう。
もう一つのブランドマークはカメラの左側の側面に付いているもので、これはビューファインダーのすぐ下だから、カメラマンは撮影の直前と撮影直後に、いやでも金属版のエクレールのマークを見なければならなくなる。
^_^そちらのほうの金属マークには、エクレール瓶フレックスどうやって35 16スタンダードと記入されている そして、その文字列の全体が、風にはためくフラッグのゴージャスな構図で封じ込まれていると言うデザインで、瓶フレックスを欲しいと言うのは、このブランドマークを所有したいと言うことそのものなのであった。
この風に翻るフラッグのことを、私は20歳代にデラシネの何時フラックと呼んでいたのである
このショットは足立区の関原あたりのおそらく今はもうないと思う。けれども、関原で有名なランドマークにボロボロのお茶屋さんみたいのがあって、それはサビ王と呼ばれていたのである。そこがマンションになって、もう20年近くが経過する。
撮影に行く時はいつも1人が原則であるが、この時は友人の写真家同行した。私がこのカタログの看板に納得したのである。そういうときのカメラ機材はよく覚えていて、ブラックロード2 44ミリのレンズであった。からネガフィルムで撮影は1枚しかしていない。それでいろいろ考えたのだが、このカタログのカンパニーはなかなかいい味が出ている。ただそこで危険なのは、実際にこのカンパニーに仕事を発注してしまったりしたら、極々普通の結果になってしまうであろうということで、私が評価しているのは、この会社の汚れた時代遅れの看板をオブジェとして高く評価していると言う意味である。
撮影の途中ではぐれてしまった友人の写真家は私と合流して、ゆうにさっきこの先の小さな町工場で作業している所を写真を撮らせてもらったのだが、その作業というのが大船の模型というかおもちゃを作っているというのである。これなども小さな町工場が作るものとしては、非常に奥ゆかしい感じがして、それで足立区関原界隈が好きになったのは、そんな理由によるのだ。
関原にはまだランドマークがあって、ブルドッグと言う名前の洋食屋さんで、これは文芸評論家の福田和也さんもよく行く店であったそうだ。その近くにマッチ箱を押しつぶしたような斜めになっている。床屋さんがあって、そこに私がびっくりしたのは押しつぶされたマッチ箱の状態で現に営業をしていると言う点であった。足立区は凄いところがたくさんあるな。
その時理解できた事は、ブリューゲルに限らず名作と言うものはそれが所蔵されている。ミュージアムで見るのが正しい見方だと感じた。
ブルーゲルは、日本では指屋さんが10年に1回ぐらい開催して、これはもう1種の文化的伊勢参りみたいなものだから、自称文化人、美術愛好の人々が押し寄せて、人の頭しか見えなかったと言うので、それを自慢話にするのは、大阪万博よりかは文化レベルが高い事は言うまでもない。
ウィーンに暮らしていた時は、年間パスを買って暇な日には、昼前からリューベルの作品の前に座って時間をつぶしていた。大変ぜいたくな話で座り心地の良い真っ赤なベルベットのチェアが私用に置かれているのである。^_^そこで私が考えた事はこういうことである。
ブリューゲルのこの名作は、実は私の所有なのだが、私の好意的な意思でここに置いて、他の人々にも見てもらっているのだと。これは妄想ではなくて、実際にそうなのだ。文化財と言うものは、その所有者はパブリックなものだから、あなたも私も好きな文化財の所有者になっているわけである。
ブルーゲルの名作が日本にやってきた時、テレビニュースなどで紹介されてあたしみたいなじじいがやっぱり本物は違いますと言ってるのは吉本興業のギャグよりはるかに面白い。
日本にやってきたブリューゲルを押し合いし合いで、人の頭越しに見るよりも、それが本来あるミュージアムで見た方が落ち着けることには間違いがない。それに最近のオンラインの改造力は素晴らしいから、わざわざ外国のミュージアムに出かけていってみるよりも、オンラインで見た方が楽だし、理解が深まる。世界中のミュージアムは所蔵品の複写をオンラインで見せているから、便利な時代になったものだと思う。
ウクライナ戦争が始まってからこの街のことをキエフではなく、キーウと言うらしいが、私はわかりにくいから、オリジナルのままのキエフにしておく。
キエフと言うカメラが非常にたくさんあって、このコンタックスコピーから16ミリのミニチュアカメラそして66サイズのハッセルブラッドタイプの一眼レフまでが存在する。言い換えれば都市の名前を代表してカメラの所属系統を一言で表しているのだから、非常にわかりやすいと言う言い方もできる。
最初にキエフカメラを使い出したのはコンタックス2のデッドコピーのやつであるが、1973年のクリスマスちょっと前にウィーンの蚤の市で店を広げていた大学の先生から買ったのだ。値段は500オーストリアシリングだったから、まず 6000円か7000円と言うところだ。
それ以来、コンタックス型のキエフカメラを使っていたが、ウィン滞在の最後の1980年頃になってこのカメラ、すなわちキエフファイブがウィーンの中古カメラ屋さんのウインドウに登場した。値段はやはり500シリングであった。要するに、ウィーンの人間にしてみると、周りは全て共産主義の国に囲まれているから、こういうカメラは歓迎されない^_^存在なのである。
1980年の終わりにファーイーストに戻ってきて、それからすぐにアメリカのモダンフォトグラフィーの極東特派員と言うのをやっていた。それでネタに困った時、キエフファイブの話を送ったら、これが結構話題頭になった。というのもその頃はまだクレムリンから赤旗が降りてないから、このカメラはほとんど西側に知られていなかったのである。セレンメーターを乗っけた渋滞の大きなカメラだから、ライカエム5と似たような存在感であるのが面白い。でも、カメラのバランスは良いので、使っていると悪い感じではない。
オリジナルのコンタックスとは全く違うカメラに見えるが、実はカメラ本体はコンタックス2型と全く同じであって、そのカメラ本体の上にセレンメーターやら何やら乗っけてこのような形になったのである。ある意味でロシアのカメラ技術は凄いと思う。
フルサイズのミラーレスをたまに持って出るが、疲れてしまうというのが高級カメラの共通の悩みのようです。
過去10年の私のカメラの使い方を思い出してみるに、広告の仕事でもAPS-Cサイズでそれで大きなポスターを作ったり、新聞広告をやったりしました。
大手クライアントでどうしてもフルサイズでと言うデザイナーさんのリクエストがあるときには仕方ないので、フルサイズのデジタル一眼レフを借りていきました。でも、大抵の場合は日経の新聞広告などもそうですが、リコーGR 1で撮影していました。
そういうコンパクトデジタルカメラも最近はやめにして、もっぱら片遅れのiPhone SEで写真を撮っています。日常の記録とSNSにアップするのなら、iPhoneでも映りすぎる位です。
その1番最初の本を皮切りにトータルで135冊位の本を出したのだけれど、カメラの本は100冊位で残りの35冊ぐらいは写真集のはずである。それで面白いのは私の読者の人は写真集を買う人は、私のカメラのほうは買わないし、その逆もあると言うことなのだ。
カメラ選びと言う言葉はなかなか複雑なマジックなのであって、1つのカメラをもう一つのカメラより差別化して高く評価すると言う意味合いが濃厚である。最近のデジタルカメラ選びのFacebookクラスの皆さんのカメラ評論を読んでいて、面白いのがほとんど同じ性能のカメラをその日の気分で使い分けていると言うことにある。
これはかなりインチキなカメラ選びではあるのだけど、それと同時に間違いだらけのデジタルカメラ選びであり、もっと言ってしまえば、そのように気分でカメラを手にとると言う事は、実は真実のカメラ選びであるのだと言うこともできる。
写真家の須田さんとずいぶん長いことカメラ談義をしたのだが、彼は写真表現に行き詰まるとカメラを持ち替えて気分を一新してその先に進むと言うやり方をしていた。これはこれで有効だと思う。
ところでここにある3台のカメラのコンタックスと右側のコピーライカであるが、ここら辺の50ミリレンズは性能が優秀だから何の問題もない。ところが私が気分的に高く評価しているのは左側にある。フィレンツェで作られた。不思議なカメラと不思議なレンズなのである。これはレンズから見れば非常に劣った描写をするのであるが、逆に言うとそれがフィレンツェ製の特徴になっていると言うわけだ。実際カメラ選びレンズ選びは難しいですね。
お店のサービスの内容は知らないけれど、この看板を見たときの私の第一印象は、いわれる帝国主義の国で、かつての共産主義とか、社会主義のかっこよさを強調したコマーシャリズムのやり方に見えたのだ。
ところが、その数秒後、冷静に考えてみると、私が立っている所は、元北ベトナムであって、アメリカ帝国主義を敗北された社会主義国の中心部なのである。だからこの広告の存在感が西側の国で社会主義をキャラクタライズした広告ならわかるけれども、社会主義の国で社会資源をキャラクタライズした広告というのがなかなか新中のコンプレックスになっていて、それでめまいを私に生じさせたと言うわけだ。
まず、コマーシャリズムの展開としては、なかなか成功の方向を目指しているようにも思われる。ハノイのぶらぶら町歩きで1番印象に残るショップであった。
涙橋の角に酒屋と言うよりも立ち飲み屋があって、酔っ払ったおじさん連中がたくさん集まっているのはいいけれど、酔いつぶれたおじさんが交差点の近くで寝ていたりとか、なかなかワイルドな場所だった。
大都会にはそのような緊張状態がある。怖い街が必要なのである。だからマンハッタンのバワリーあたりはそれなりに怖かった。東京のこの界隈玉姫神社あたりまでも、結構怖い地域であったのがそういうことが一切なくなってしまって、私などは自分の青春が、失われたようながっくりきた気分になっているのである。
玉姫神社のすぐ近くに、東京では、もう珍しくなった。路地裏というか、路地の突き当たりがあって、普段ならば、完全に見落として、通り過ぎるところなのであろうが、この時はお祭りのちょうちんが出ているので、路地全体がなんとなく艶めいて、独特な空気が漂っていた。
お祭りの時に古い木造建築の木木に掲げられるお祭りのちょうちんと言うのはそういう意味でなかなか雅なものである。これがモダンな今のビルになってしまうと、町内会のお付き合いで仕方がないからちょうちんぶら下げていますと言うふうに見えてしまうのは情けない。
ちょうど六本木ヒルズクラブもできた時でそこのメンバーにもなった。それで打ち合わせ等で遊びに来る人は、私のように毎日六本木ヒルズの49回の空気の薄いところに来るわけではないから、いろいろ面白がってくれる。
それで1階上がヒルズクラブだからそこで飲み食いをするのである。こちらは毎日そういうところに行っても飽きるから下のローソンに買いに行くのであるが、ローソンが1ヵ月半休みであったときにはランチ難民になって大変であった。
49回と言うレベルだと東京のありとあらゆる物の動きを鑑賞するには非常によろしい。1番腹が立つのはすぐ隣がアメリカ軍のヘリポートである。それで軍事作戦だか遊覧飛行か知らないが、アメリカ人の若い奴が軍用ヘリに乗って六本木ヒルズタワーギリギリに離陸していくのである。
文句を言いたいけれども、日本の空はアメリカのものにこの80年ずっと鳴っているらしいから、これは仕方ない。アメリカの属国だからね。
逆にプラスのファクターとしては、オフィスのブラインドがこのような感じなので、光の加減としては、ときにはドイツ表現派の写真作品のように風景がしばしばになることだ。これは楽しかったね。
それで私が思い出すのが中目黒の一本道と言うやつだ。ロシアの一本道より中目黒の一本道の方が迫力がある。10年近く前その一本道を歩いていたら、非常に面白いものに出くわしたので、それまでの中目黒の退屈さと言うものが吹き飛んでしまった。
それがこの子供がやっている蚤の市の展示と言うやつだ。ほんとに小さい子供が不要になったものを一本道の脇で売っていると言う感じだが、実際には売りてはいないし、並べ方が整然としているからお母さんがセットしたものである。
世界中の蚤の市を見て歩いたり、撮影をしたり、面白いものを買ったりした。半世紀の私の蚤の市人生であるが、これだけ面白い蚤の市は初めて見たので、10年以上前にもかかわらず、いまだにはっきりを記憶しているのである。
長い長い目黒の一本道にここだけの実行が出ているから、これはユニークだよね。何度も言っていることだけど、これは蚤の市なのである。蚤の市の英語の言葉を聞き違えてフリーマーケットであると言っている人がいるが、それは違います。
Facebookの友人がメルカリに出ているよと教えてくれたので、2冊ゲットした。感謝。
後期高齢者の記憶などいい加減なものだから、写真集のことを書くときは現物に当たるのが1番。
34年間のプラハのアトリエ暮らしで、毎朝全く同じブレックファーストをこのように作っていた。ベッドから起き上がって5分で全てが完了するのだ。
コーヒーはチェコの飲み方は古い数百年前のトルココーヒーの飲み方の伝統が残っていて、コーヒーの粉に直接熱湯を注いで、かき回して数分間コーヒーの粉を沈殿させてから飲む。これが1番うまい。、、
お皿がわりにしているフライパンは油が馴染んで絶好の状態だったのだけど、アトリエの室内を新しくする時、すなわち天窓が新しくなったときに間違って捨てられてしまった。仕方ないので同じものを新品で買ったが、使い込むまでにまた20年近くかかった。
34年間暮らしたにもかかわらず、住んだアパートメントの屋根裏の写真の内側はあるけど、外側は1枚もないことに気がついて、十数年前にアトリエの北側の広場に出て撮影したのはこのショットである。屋根裏の8枚続いている、窓がわが世界であった。
なぜ自分の住んでいた屋根裏部屋の外側から写真を撮ることがなかったかというと、理由は単純で、屋根裏からエレベーターのない建物の階段を1番下まで降りて、南に進むと、巨大な中庭に出るのだ。そのなかにはをさらに進むと、メトロの駅の方向への道がある。つまり、何十年も住んでいるにもかかわらず、アトリエの北側に立って全体像を見ると言う事は1度もなかったのである。
ごくたまにアパートメントの北側のドアから出入りすることがあったが、それはアパートメントに沿った。すぐ隣の道であるから、距離をとって屋根裏部屋を見ると言う事は視覚的に不可能である。
アパートメントの北側を東に行った角に結構いいビアホールがあって、ごくたまにそこに行くことがあったが、何しろヘビースモーカーの多い本格的なビアホールであるから、広い部屋のこちらから光が見透かすことができない位煙っていた。だからそこにも行くのはやめてしまった。
ところで、アトリエの天窓が新しくなったときに八戸並んでいる一番右側の窓にメーカーの紙が貼ってあって、その紙のサイズがA4サイズなのである。これが軍事衛星から見えるのにはびっくりした。Google Earthからの画像であるが、これは軍事衛星をかなりシャープネスを落としたものであるから、私をピンポイント攻撃するためには8つある、窓の左から2番目を攻撃すればいいわけだ。そこにベッドに寝ている私の頭がある。
もともとM3はそれまでのバルナックライカと違って、トップカバーが付いているから、フィルム巻き上げははるかに進歩しているのである。しかし、ライツの会社としてはトップフォトグラファーからのリクエストだから、断るわけにもいかなくて、M型ライカにライカビットをつけるようにした。
これがライカMPである。当時のMPの値段はM3よりも35ドル高いだけだったのに300台ぐらいしか売れなかったので、ライツはこれは商売にならないと言うのですぐに中止したのである。
これが間違いの元で、今やオリジナルの値段の数百倍と言うインベストメントプライスになって、本物のライカMPは世界中の金庫に保管されてしまった。
そのライカビットMPは単体で買えることもあって、学生の時は13,000円で買ったのである。物価上昇とシンクロして今は単体で3000ドル位するのである。
要するに、私も青春の思い出のために手にしているだけで、実際には全く役に立たないガラクタアクセサリーです。
その時に気がついて書き残したことがあって、それがニコンSPとロードマーシャンのファインダーのデザインコンセプトが似ていると言うことだった。
登場はニコンSPの方が先だったと思うが、この頃のレンジファインダーの基本デザインはこういうシネマスコープタイプのデザインなるである。
今度建て替えになる帝国劇場だが、戦前の建物の頃に帝国劇場はシネラマの上映館だった。私もこれがシネラマだと言うスペクタクルな映画を見に行ったことがある。
ただ、この2つのカメラで、どちらがデザインが良いかと言うと、右のほうになるね。
そういう時に会社の近くにあったカウンターだけの座席の数も、わずかなお店なのだが、今写真にしてみると、なかなかスマートでクールだと思う。目の前でドリップで作ってくれる。コーヒーはなかなか半世紀以上経過しても記憶しているのが凄いと思う。
自分の時間が自分で管理している。その1日のスタートのコーヒーのいっぱいはとても良い感じだ。喫茶店と言うと商談とか我々のレベルだと喫茶店で座談会をやったりする。これは日本の環境がそういうことをせざるを得ないから仕方がなくそうなったのであろうか?
偽物ライカ同盟の本を作ったときに登場してくれた方々の対談の収録は当時仕事場があった。六本木ヒルズで開催したのだが、1番偉いボスの片岡義男さんはそれをかたくなに拒否して神保町にある瀬戸という名前の喫茶店を指名してきた。それでそこで対談をしたのである。
つい最近になって、なぜ片岡さんが六本木ヒルズではなくて、神保町の喫茶店だったのか思い当たるところがあった。私はいいチャンスだから、片岡さんをライカウィルスに感染させようと思って、手元のライカを1台お渡ししようとしたら、片岡さんはそれに触ろうともしない。なるほど、このことかと今になって思い当たるのである。
ちょうどその4年前の夏に私はプラハに滞在していた。私がプラハと関係を持つようになる。34年間のかなり初期の時代の話である。その時代に私は真実のプラハの姿を見たと言う気がするのだ。
その当時のプラハの街は、何百年に1階と言う大回収工事をやっていた。街のありとあらゆる道路は掘り返されて新しくなっていたが、その間のプロセスはすごいものであって、ちょうど巨大な爆弾がプラハの旧市街のあちこちに落ちたような乱雑な風景であった。私はそれにフォトジェニックなemotionを感じて、プラウベルマキナプロシフトで精力的に撮影したものである。その時の撮影本数は120フィルムで300本起こした。
この作品は、プラハのどまん中の有名なデパートの裏側の道なのであるが、工事現場の通り抜けのような感じがするのが面白い。2人の通行人が背中を向けて通り過ぎていくところであるが、その秋に交通標識の人間のシルエットが一緒に写っているので、まるで3つの人間のフォルムが移動しているように感じられる。
さらにそのことよりも、私がこの作品を評価しているのは、私のフイルムの扱いが雑であったということがプラスのポイントに出て、フィルムの上と下が光で被っているのである。こういうのを私は光の攻撃と呼んでいる。予期せぬ撮影者の意思と全く違うところで、フィルムのエマルジョンが光から攻撃されるという意味である。そしてそれがうまくいって、このような状況になると、写真は別の段階にアップされているのだと言うように感じるのだ。
この状態を、私は光の惨劇と呼んでいる。
このカメラが日本に最初に輸入されてプレゼンテーションが行われた時に、それまでのカメラは三脚の上に乗せて50キログラム位あったから、三脚からおろして手持ちで取るのは不可能である。それをデモンストレーションではカメラマンがこのカメラを手に持ってフォックストロットを踊りながら撮ったので、みんなびっくりした。
踊りながら取れるのだから、戦争にもいいだろうと言うので、戦争カメラになった。ロバートキャパが持っているのはシングルレンズのタイプだが、これはスパイダーターレットと言う。上級モデルでレンズが3本付いて回転することができる。
軍用カメラなので、色もオリーブドラブに塗装されている。これは南アフリカのケープタウンから買ったのだが、カメラ屋さんがこのカメラを知らないのでエルモと言う名前で販売していた。
第二次大戦の頃のカメラマンの活躍する記録、写真などを見ると、3人の戦争カメラマンがそれぞれこのスパイダーターレット付きのカメラを持って、片手でタバコを出ながら笑い合っているのがある。確かに20代の人だったら軽く感じるかもしれないけれども、後期高齢者にはこの重さは童貞無理だなということが最近ようやく判明した。
このニコンの製造番号を見て欲しい。60910644である。興味のない人には、単なる数字の羅列であろうが、これはニコンコレクターにとっては、いわゆる8桁、製造番号と言うレアモデルなのだ。
609と言うのは皇紀2600年すなわち昭和15年から数えて9年目ということで、ニコンの製造番号の頭が609で始まるのである。戦前の歴史を引きずっているわけね。それで6091が最初のニコンカメラでそれからカウントして609999まで行ったらいっぱいになってしまったので、その先に10,000番からスタートする数字列を加えたわけだ。
カメラメーカーはこのことの不都合に気がついてしばらく経ってからスターティングのオーダーを609から610にしたのである。だから609でスタートする番号は1けた最後の方で多くなっていて、8桁番号の製造番号を持つ離婚レンジファインダとなった。
そういうどうでもいいことがコレクターには重要なわけです。
例えば、音無川のそばに滝野川信用金庫と言う看板を認識して、それから路地をずっとつたって15分ごろ経過してみると、またそこに滝野川信用金庫と言う看板が出てくる。
要するに、道に迷って方向感覚をなくしてしまっているから、こういう面白いことになるのである。ハノイの中心からちょっと南に行った場所に丸い小さな池がある。といっても、池の直径は500メートルはあるから、それなりに大きい。ハノイで道に迷っているときに、そこをぐるぐる回っていると、どこかで見たことのある街並みが永遠と出てくる。
その丸い池を参集したときに、さっきハノイウォッカを買ったお店がまた出てきたので、それで池の周りの堂々巡りに気がついた。
滝野川にあるモンドリアンのアートワークにそっくりな場所と言うのを発見したときには、かなりびっくりした。自然の摂理で作られたものがアーティストと似てくると言うのは当然のことかもしれないが、逆に考えると、モンドリアンはファーイーストのこれを見て真似をしたのかもしれない。
気にいったので、町歩きのワークショップの時は皆さんをここにお連れしてびっくりさせたものであった。まず私のワークショップに参加する皆さんはモンドリアンの事はよく知っているからびっくりしてくれるのである。
そのように決めたのは単純な理由であって、残りの時間の時間割を考えてそのようにした。都合34年間プラハの北のほとりにあるアトリエに暮らして、たいていはメトロの終点まで歩いた。それがこのかなり広大な広場であるが、何が嬉しいかと言うと、地面の上を踏んで歩けると言うことだ。
ここはプラハの丘市内の北側のターミナルと言うことになっていて、そこからまたカントリーにつながっているバスがたくさん着発している。だからビロード革命以前にこのバスターミナルと接続する。メトロの始発の駅のプラットホームに立っていると、カントリーから来た人は、皆、申し合わせたように、靴の裏側にべったりと、我が祖国の父がついているのである。
これはなかなかすばらしいことだと思った。それで私も1年の間この結構広い広場の道路の上は歩いて我が祖国ではないけれども、チェコの大地を靴の裏側に感じたのであった。東京の不幸は言うまでもない。東京のどこに行っても、地面はアスファルトや煉瓦屋タイルで固められてしまっているから、私の靴の底は大地を直接に感じることができなくなってずいぶん長くなったね。
それで軍用カメラは基本的には一般の人が使うカメラとそんなに違うところはない。一般人が戦場でもないところで使っていて、すぐ壊れては困るわけだが、戦場の場所と日常生活と言うのは隣り合わせているから、厳密にはそれを区別することはできないのだ。
それでもカメラ業者さんが納入するわけだから、何か特別なメリットをカメラにつけなければいけないので、ブラック仕上げにしたり、オリーブドラブ仕上げにしたりしたのであろう。
ライカの場合だと陸軍方面はオリーブゾ。ラブで空軍方面はラウフグレイである。ところがラルフグレイのライカイムツと言うのは、その数が11ダースぐらいしか作られなかったので、今では天文学的な値段になっているらしい。
アメリカ軍が採用した軍用カメラはそれほど高いということはなくて、1番高価だったのは、クラシックライカのバルナックの完全なコピーであったKarson カメラであった。しかしアメリカ陸軍の偉い人は実用主義者だから、兵隊に持たせるのにそんな高いカメラはいらないと言うので、大衆的なコダックみたいなアマチュアレベルのカメラになった。
コダック35のブラック仕上げと言うのは、それでもそれなりに存在感があって手にしてみたいなという感じはするのである。ネックストラップアイレットが非常に大きいなどと言うところがいかにも軍用カメラのふりをしていると言う感じがする。
小学校低学年の頃に音羽にただ1つあった。映画館で見たのが、ディズニーの砂漠は生きていると言う動物映画である。
大人になってからこの動物映画の全部がこのカメラで撮影されたと言うことを知った。野生動物はいろいろある。けれども、小さな動物はクローズアップで撮影しなければならないので、その時はこのカメラは簡易的な一眼レフ装置が備えられている。
レンズはコダックの優秀な平白だし、画面の安定性も良いので世界中で使われた。アメリカ海軍もこのカメラを公式な16ミリ撮影機で指定していて、オールブラックのマット仕上げのかっこいいカメラも持っている。
唯一の問題点は完璧なミラーレフレックスではないので、撮影に限界があることだ。それでイーストマン・コダックはその後のモデルでコダックレフレックススペシャルというのを出した。こちらのほうは回転式のミラーで常に撮影中の画像を見ることができるのであるが、カメラ本体が大きくなって重さもかなり増えたので手持ちで簡単に撮影することができなくなった。しかも電動モーターなので、どこでも撮影できると言うわけではなかった。
最初にこのカメラを手に入れたのは、1973年のウィーン時代でレンズが全部揃っていて、非常に上質なトランクケースに入っていて、夢にものボール幸福感と言うやつだった。カメラのターレットの下の部分にオーナーの名前を彫刻できるようになっているのがこのカメラの特徴である。そこにはバロンなんとかと刻印されていたから、どっかの貴族さんが使っていたものらしい。
戦争直後の値段が25ミリ標準レンズ付きで1000ドルしたのだから、大変高いカメラであった。
しかも面白いことにツーリストが集まるようなツーリスト。密集地には、こういうものはなくて、バスに乗って、街の周辺部に走っていると、大通りを角に曲がった。その裏手の建物の壁面が、全部巨大な壁画であったりするのが面白い。
スボンは酒多い街であるが、そういう坂の上から下を結ぶ階段がそこら中にあって、その階段を上り下りする人の向かう視線の建物の壁面が同じように巨大な壁画であったりする。
私は、ルーブル美術館などでもな家の中で、特に巨大なものというのは大嫌いなのである。その大きさで鑑賞者をびっくうと言うようなところがあるからそういうのは手品のネタみたいなところがあって、面白くないのだ。
しかし、リスボンのような巨大な街の建物の壁面全部を使った絵画と言うのは全く別の方向であって、これは面白い。言い換えれば街全体をギャラリーにしているという意味では、美術館よりもはるかにサイズが大きいわけだ。
この巨大な作品もピカソバリで良い感じである。
ウィーンは私は暮らしていたまじであるから、私がウィーンのホテルに宿泊するようになったのは、1980年より角の上の暮らしを終わらせてからのことである。
19世紀に作られたホテルの建物がそのまま使われているので、面白いのは部屋が平らでないから、鉛筆を落としたりすると、部屋の中央のくぼんでいるところにコロコロ転がっていたりするのを見るのは楽しみであった。
リスボンの五つ星のこのホテルであるが、階段を最上階まで登って、そこから下を見るのは結構怖い。と言うのは、階段の構造自身が経年変化でかなり歪んでいるのである。リスボンは18世紀の終わりに巨大地震が起きて、それで街を全部新しくして、今の街の構造ができたのだ。
この5つ星ホテルのすぐ近くの広場に面したツーリストホテルであるが、そこの2階のダイニングルームにはリスボンが大地震に襲われたときの巨大な油絵が今でも掲げられている。ちょうど東京は両国の戦災復興記念館の2階の巨大ギャラリーに、関東会東京の街が描かれているのと関係があるのではないかと思う。力作なのである。
要するに、五つ星のこのよじれたホテルは、18世紀の大震災の後に建築されたモダン建築なのである。それでも200年近く経過しているから、かなり古くてやっているわけだ。
路面電車の歴史を調べてみるとわかるのだが、ヨーロッパのウインドウが巨大な街ではまず最初に鉄道馬車というのがあって、これは日本の電車の発展の歴史と同じなのであるが、車を馬が引いて走っていたのである。
私が持っている。1890年から1910年位のオーストリアの各地を撮影した1人の写真家によるステレオ写真がある。ガラス館版でトータルで10,000,000以上はあるのだ。そのステレオ写真の1890年を見てみると、winの国会議事堂があって、そこにはまだ1台の自動車も走っていなくて、鉄道馬車が走っているのだ。そういうのが当時の人々の歳の普通の風景だと思うと面白い。
それでリスボンの路面電車なのであるが勉強してないので、最初の頃場所が弾いていたのかどうかはいまだに不明である。しかし、ウィーンに比べてリスボンは英国と関係が深いから意外と早い時期に路面電車は電気科されたのではなかろうか?
それで電車カフェの話であるが、今回初めてちゃんと距離を置いてエントランスを確認して納得したことがあった。お店のエントランスの上のこれは日よけと言うのか何と言うのか正式な名称は知らないけれど、その日よけの位置がほんのわずか左側に下がっていると言うこと。これが私にとってのカフェのエントランスの非常に正統的なダイナミズムとして長年認識していることなのだ。カフェのエントランスの日よけは左側が下がっていないといけないと言う。私のカフェに対する美学が存在するのである。
その理由は知りません。
それで今回電車カフェの日よけをさらに細かく観察した結果分かった事はこれは伸び縮みして日よけの量を調節するような仕組みではなくて、単に飾りとしてついていると言う事が1つ。そして2つ目は左側に地元で有名なコーヒーのブランドマークがついている。日本の酒屋さんの看板と同じようなもので、何かスポンサー料という感じになっているのであろう。
それでそういう路線がアメリカ人とドイツ人と日本人に28番の路面電車が全部占拠されてしまって、地元の人が乗れないと言うヘンテコリンな事態になってきた。最後に私がリスボンを訪れた時もそうであって、28番の電車が常に満員なので、仕方ないから、中心部の広場からずっと西に歩いてフェルナンドペソアの博物館を経由して、終点の墓地まで歩いたこともある。
そのときに通りがかりのこれは子供の何かのお祭りで、子供が晴れ着を着て歩いていると言う親子連れなのであるが、その中でただ1人男の子がゲリラの服装をしてAK 47のおもちゃの期間中を持って歩いているのにはなかなかびっくりした。こういう人がというか、こういう子供が将来ゲバラのような革命家になるのだなぁと思った。
それで最近では路面電車ではなく、バスに乗ってリスボン見物をしているが、その中で1番気に入っているのは、街の南西のはずれのあたりに偶然見つけた子のカラーチャートである。どういうコンセプトで作られたのかは別に聞かなくてもわかっているわけで、このようなカラーチャートがバスの窓から偶然見えたりすると言うことそのものが既に完全に表現の域に達していると言うわけだ。
iPhoneやiPadは記録用のカメラとしては充分使えるのであるが、歩匹レーションで連続的に使うとなると、やはりデジタルカメラの方が使いやすい事は言うまでもない。それと一緒に数本のフィルム。この場合はモノクロフィルムを持参して自分の趣味の写真を撮るには、フイルムカメラが必要である。
そういう時に持参する。カメラと言うのは、どうもニコンのレンジファインダーの方向の引力に引き寄せられているのである。これはリスボンに行った時に持っていったニコンである。大体50ミリと21ミリを持って行く。しかし50ミリを使うことが意外と多いと思うのはずいぶん昔のことであるが、1983年にメキシコシティーに行ったとき、そこのアンティークショップで非常に安い。これと同じカメラを手に入れた。
5センチの標準レンズが付いていて、シャッター速度は250分の1と125分の1が使えるけれども後は壊れていたのである。そういうちょっと不便な状況と言う時に私は写真を撮る気分になるのだ。
それでメキシコシティーで手に入れた。これと同じタイプの煮込んで絞りは22で250分の1で街の風景を撮ったら全部きれいに写っていたのである。そしてそれはアサヒカメラに発表したりした。そういう旅の思い出と言うことになると、礼香より香ニコンのレンジ、ファインダーの方が記憶に鮮明に残っているのはなぜであろうか?このタイプのカメラを使っていた写真家と言えばウィリアムクラインだね。
芸能人並みのカメラマンの数が来たのであるが、皮肉なことに写真を私にくれた人は1人もいなかった。あー確かwinに行ってから日本デザインセンターの同級生が1枚結婚式の葉書を送ってくれたっけ。それだって結婚式から2年半が経過した後の話なのである。
それから結婚記念日が10年ごとに訪れて30年のときには記念に金沢に行ったのである。当時仕事をしていた新潮社のスタッフの人がカナダではない。金沢出身で市場にあるおいしいお寿司屋さんと言うのを教えてくれた。その新潮社のスタッフの女性なのだが、お父様が非常に厳格な人であって、本来は岩波書店に娘を入れたかったらしいのだが、それができなかったので、B級の出版社と言う認識があったらしい。地方のインテリの人はすごいクラス分けをするよね。
いつだったか岡山に行った時、岡山にも丸善があって、そこで貯めた間私が出した。岩波写真文庫のフェアをやっていた。それで私のそれ以外の岩波から出した書籍も並んでいたけれども、あそこは面白い会社で午後5時に受付の人がいなくなると、後ろ側の守衛さんのところを通って話を通すのであるが、私の場合だと田中先生がいらっしゃいましたとなるので、皆先生扱い。
それで金沢の市場の紹介されたお寿司屋さんに入ってびっくりして15分で出てきました。理由は単純で東京の味のわからない自分はたまりじょうゆの甘いのをお寿司につけて食べるのが耐えられないのである。それで近くのコンビニでおつまみを買って、ANAホテルの20回で改めて結婚30年の大宴会をやった次第でした。
それから20年後に、私の古い友人の横木が、私の個展の時に結婚式のときの写真を数十枚届けてくれたのです。こういうのは実にありがたいけど、横切る場合、そういうコンセプトで結婚式から50年後に記念写真を届けると言う。そうなるとバンクシーみたいで、ちょっと凄すぎるね。
ハッタリかまして「私は皆さんに大人気!」ってドヤっても、そこいらへんの中学生よりイイね少ないとか恥ずかしいもんね
小村レンズと言うのは、私が最初に手に入れたのがペンタックスマウントの135ミリF2点8だった。やはり私のようなアマチュア写真家は標準レンズの次に手に入れるのは135ミリなのである。
その後このレンズメーカーはいろいろ多種多様な交換レンズを出してきて、ゼンザブロニカ1面レンズも45ミリから長い方は500ミリ位まであったし、4 × 5インチ用の交換レンズもいろいろ出してきた。これは小村の500ミリであるが、もともと500ミリのレンズがメーカーには存在していたから、それをリンホフボートにすれば良いだけの話である。
しかし、4 × 5インチの後、角型のレンズはそうはいかないから、新しく設定したのであろう。当時のシナイダーとかある座椅子と同じように65ミリとか75ミリ90ミリの広角レンズも存在したのは凄いことだと思う。
この500ミリレンズであるが、実際に市場に流通する事は非常に少なくて、私も半世紀。あちこち見ているが、ネットオークションで私がゲットした。これが唯一の例ではないかと思われる。それで実際にこのレンズを使うのかというと、それはまた別の話なのである。
4 × 5インチのリンホフでずいぶん膨大な撮影をしてきた。でも私の場合はそれらはほとんど75ミリとか90ミリ等の向角型レンズでの作戦だ。このような500ミリレンズ等は1度も使ったことがない。にもかかわらず、これを手に入れた犯行の動機と言うのは、ドイツの写真家でラインハルトWolfと言う人がマンハッタンのドラマチックなスカイスクレーパーを4 × 5インチのフォーマットで1000ミリレンズで撮影していたからだ。そういう影響受けて、自分でもできるのではないかと勘違いしたわけなのである。
まだおニャンコなどで世間に頭角を出す前の話である。
目玉焼きの食べ方については、ずいぶんいろいろなところに書き散らして、ここでもつい最近書いたことがあるが、目玉焼きは人生の非常に重要な問題であるから、人生論よりも目玉焼き論の方が重要なのである。それでまた続きを書かせてもらう。
最もウィーンは、シオニズム発症の地でもあるし、かつてヨーロッパで最大のユダヤ人ゲットが存在したのである。
プラハのアトリエに三脚を立ててセルフポートレートを取っているのはどういう理由でこれをやったのかいまだに思い出せない。ベッドの脇の壁に見られるのが現代日本写真家展示会のポスターである。だからこれは1976年、秋以降の撮影であることがわかる。
このポスターは私のデザインなのであるが、街にこれが貼っていると、何かネガティブな感じがして、ヨーロッパの華麗な風景の街並みを押しつぶすような効果を狙ったのである。
イエローのペーパーにブラックですってあって、そのイエローは我々が東洋人であると言う証明でもあるのだが、当時テロリスト集団で国際手配されていたバーダー&マインホフのポスターに似せたのである。
長いウィーンの写真家暮らしで三脚に乗せて自分のセルフポートレートを撮影したのは前後考えてこの時だけである。私を長年サポートしてくれている。がらくた屋2代目さんが写真集を出してくれたり、Tシャツを作ってくれたりするのであるが、その何回目かのTシャツが、この写真の図柄であった。
各種メディアでライカ100周年と言う特集をやっているが、私の100周年を祝う特集はちょっと変わっている。
すなわち、ライカを落としたりタクシーの中に忘れてくると、人生の大変なダメージになると言う話なのである。
カメラ人類のための人生の大切な教訓として、ライカ1世紀の今にこそ読んでもらいたい。
トータルで3回触れる機会があった。1度目と2度目はライカのドイツの本社で、3度目は東京のホテルでだった。
売るライカは本社が持っているのは二台で銀行に預けてある。日本のコレクターが持っていると言う噂もあるから、そうなると3台現存しているわけだ。
2回目に触らせてもらった時は、30分ほどペーター。コルン社長が席を外したので、その隙にと思ってパトローネに入れたフィルムを持ってきたのだが、開け方がわからない。
人類の文化遺産を壊してはいけないと思って、その時はフィルムを入れるのはやめて、その代わりにレンズをちょっと舐めてみた。別に味はしなかった。
オスカーバルナックの有名な会社の中でライカを手にしている写真がある。60年近く見ているわけだが、高校生の頃に見た時はおじいさんのように見えたのが、今見ると自分の息子の世代に見えるのが面白い。
オスカーバルナックは絶対にこのライカのレンズを舐めていると思う。
カメラですか?